[西魏:大統十五年 東魏:武定七年 梁:太清三年]


●繹と詧の争い

 これより前、梁の使持節・都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・鎮西将軍・荊州刺史の湘東王繹字は世誠。武帝の第七子。時に42歳。548年〈5〉参照)は、建康の救援に赴こうとした際、管轄下の諸州にも兵を出すよう命じていた。雍州刺史の岳陽王詧サツ。字は理孫。前太子蕭統の第三子。嫡孫でもない蕭綱が太子となったことに不満を感じ、雍州で力を蓄えた。549年〈3〉参照)はそこで府司馬の劉方貴を先鋒として漢口に派そうとした。繹はこれを聞くと、諮議参軍の劉瑴カク。字は仲宝。湘東王繹に古くから仕え、そのブレーンとなった)を派遣し、詧みずから出陣するように言ったが、拒否された。繹はこれを聞くと激怒した。
 劉方貴は詧と不仲だったため、密かに繹と連絡をとり、詧を襲おうと企んだ。しかしその決行前に詧から呼び出しを受けると、すわ計画が漏れたかと早合点し(呼び出しは別の用事だった)、樊城(漢水の南岸に襄陽が、北岸に樊城がある)に立て籠もってこれを拒んだ。すると詧は魏益徳襄陽の人。才能があり、度胸と勇気に優れた。たびたび戦功を立てて太守まで出世し、詧が雍州に赴任してくるとその府司馬とされた)と杜岸字は公衡。梁州刺史の杜懐宝〈536年参照〉の子)にこれを攻めさせた。事態が切迫した方貴は、子の劉遷超を繹のもとに派して援軍を求めた。すると繹は多くの引出物(兵など?)を雍州刺史の張纘字は伯緒。詧兄弟と仲違いし、繹に彼らを殺すよう唆した。548年〈2〉参照)に与え、襄陽に出発させた。これは表向きは任地に赴くためのものとされていたが、実は方貴を支援するためのものだった。ところが、纘が大隄【襄陽の九十里南にある華山郡の治所である】までやってきた時には既に樊城は陥ち、方貴は兄弟や仲間と共に斬られてしまっていた。
 詧は纘が襄陽に到っても、交代の期日を引き延ばして職を去ろうとしなかった。詧は城の西にある白馬寺を住まいとして纘に提供し、礼遇したが、政・軍の大権は依然として手離さずにいた。のち、台城が陥ちたことを聞いても、とうとう交代を受け入れなかった(梁34張纘伝)。詧は自分たち兄弟の立場が悪くなった原因が纘にあると考えていたため、密かに纘の殺害を図っていた。纘は身の危険を感じ、繹に帰らせてくれるよう求めた。繹はそこで詧に纘を返してくれるよう求めたが、詧はこれを拒否した。そのとき、雍州助防(梁34張纘伝)の杜岸兄弟が纘をこう欺いて言った。
「岳陽王が使君を受け入れる気配は全くありませぬゆえ、〔使君がここに居続けるのは無意味であり、かつ危険であります。〕もしここで使君が西方の山地に逃れ、義勇兵を糾合なされば、民から評判のいい使君のこと、多くの者が馳せ参じてくるのは間違いありません。また、使君の部下も同様に次々とやってくるはず(梁34張纘伝)。そこで義の兵を挙げなされば、まず勝利・成功疑いないかと存じます。」《周48蕭詧伝》
 岸は襄陽の豪族の出で、兄弟【嵩・岑・嶷(536年参照)・岌・巘・岸・崱・嵷・幼安の九人】はみな驍勇なことで(出典不明)名を馳せていた《梁46杜崱伝》
 纘は岸の言葉に深く頷くと、岸兄弟と盟いを行ない、雍州人の席引ら(席引等?)に兵を率いて西山に来るよう求めたのち、婦人の服を着、青色の布で飾った輿(婦人用?)に乗って、側近の者十余人と共に夜陰に紛れて(梁34張纘伝)西山に逃れた。引らが杜岸と共に馬を飛ばしてこのことを詧に告げると、詧は中兵参軍の尹正と杜岸に兵を与えて捕らえに行かせた。纘は詧軍が来ると、約束通り〔引等らが兵を集めてきてくれたと考えて〕大喜びし、〔全く備えを設けなかった。〕岸らは〔かくてやすやすと〕纘のもとに到り、纘とその部下を捕らえて襄陽に送った《周48蕭詧伝》。纘は死を免れようとして僧となることを詧に求め、許されると剃髪して法緒(通鑑では『法纘』)と名乗った《南56張纘伝》
 
●繹に承制を求む
 この月、鎮西長史(通鑑では『荊州長史』。湘東王繹は鎮西将軍で荊州刺史)〔・南郡太守〕の王沖字は長深。母は武帝の妹)らが、湘東王繹に対し、太尉・都督中外諸軍事の位に就いて皇帝権を代行し、諸藩の盟主となるように求めた。しかし繹はこう返書を書いてこれを拒否した。
「私の地位は低いものではないのに、どうしてわざわざ都督を名乗る必要があるのか。また、私は皇帝の子であり、尊貴の身である。その私がなんでわざわざ上台の位(三公)の権威を借りる必要があるのか。この意見を提議した者は斬刑に処されるべきである。」
 かくて書き終えると筆を投げ、涙を流した。
 5月、丙辰(2日)出典不明〉、沖らは再び上書し、今度は司空の位に就くよう求めたが、再び却下された(梁元帝紀では『この月(4月)、《南史梁元帝紀》

●武帝餓死


 武帝は表面上では侯景の控制を黙って受け入れているように見えたが、内心は非常に憤懣を抱えており、景から何か要求があっても、その多くを却下していた《梁56侯景伝》
 例えば、景が宋子仙景配下随一の猛将。青溪の戦いでは勢いに乗る李・樊軍を大破し、東府城北の戦いでは南康王会理の軍を大破した。549年〈2〉参照)を司空にするよう求めてくると、武帝はこう言って拒否した。
「三公は陰陽を調和する(人々の意見を程よく調整して国を治める)のが職務だ。どうしてこのような者に任せられようか!」
 景はまた、文徳(文徳殿)主帥【梁は禁中の諸殿に主帥(部隊長)を置いた】の鄧仲を城門校尉にするよう求めたが、武帝はこう言って拒否した。
「そのような役職は置いておらぬ(東晋の時に廃止された)。」(通鑑では『景は部下の二人を便殿杜佑曰く、便殿は正殿以外の宮殿の事で、皇帝の寝所である主帥にするよう求めたが、武帝は許さなかった』とある
 景は内心武帝を非常に敬い憚っていたので、敢えて要求を押し通そうとはしなかった。太子綱が武帝のもとに赴き、〔景の求めを受け入れるよう〕泣いて諫めたが、武帝はこう言って拒否した。
「誰がお前をここに寄越したのだ!《南80侯景伝》〔よいか、〕国家にまだ心霊の加護があるなら、まだ復興の余地はある。そうでなかったとしても、〔それまでのことで、〕泣く必要など無い!」
 景は軍士を役所の中に寝泊まりさせていたが、その内のある者は驢馬に乗ったまま、ある者は弓や刀を帯びたまま宮庭の中に出入りした《出典不明》。武帝はこれを〔苦々しく思い、〕制局監(通鑑では『直閤将軍』)の周石珍景が君側の奸として挙げた一人。549年〈3〉参照)にこう尋ねて言った。
「この〔無礼な〕奴らは何者か?」
 石珍は答えて言った。
「丞相の手の者であります。」
 武帝はとぼけてこう尋ねた。
「丞相とは誰か?」
 石珍は答えて言った。
「侯丞相のことであります。」
 武帝は怒って言った。
「そやつの名は景であろう! それをどうして丞相などと言うのか!」《梁56侯景伝》
 左右の者はこれを聞くと〔侯景の怒りを恐れて〕みな震え上がった。
 これよりのち、武帝の要求は大体拒否されるようになり、提供される飲食物も日に日に少なくなっていった(梁56侯景伝)。武帝は憂憤の余り病気となった。太子は幼子の蕭大圜カン、またはエン。太子綱の十二子)と己の爪や髪を湘東王繹に託した。
 この日、浄居殿にて横になっていた武帝は、口の中に苦みを感じて蜂蜜を求めた。しかし誰もこれを持ってこようとはしないのを見ると、
「荷(ああ)!荷!」
 と二度言葉を発したのち、そのまま事切れた《出典不明》。時に86歳だった《梁武帝紀》
 景はその死を世間に公表せず、遺体を〔すぐさま己のいる〕昭陽殿に遷させ《梁56侯景伝》、永福省にいる太子を迎えに行く際も普段通りの態度で臨んだ。太子は〔そこで父の死を知らされ、悲しんだが、〕王偉景の軍師。549年〈3〉参照)・陳慶台城陥落後、大極殿を守備した。549年〈3〉参照)が常に傍に侍立して監視していたので、泣いても声を出すことはなかった。そのため、宮殿の外にいる文武百官はみな何も気づかなかった《出典不明》

┃潁川親征
 東魏の大尉・河南総管・大都督の高岳は潁川の攻囲を行なっていたが、慕容紹宗らを喪って以降、意気沮喪し、潁川城に近づこうとはしなくなった。陳元康はそこで澄にこう進言した。
「王(陳元康伝では『公』)は国政を輔佐するようになって以後、未だに大功を立てておられません。侯景は破りましたが、あれは〔叛乱を起こした内賊であり、〕外賊ではありませんでした。〔そこで私がお勧めいたしますのは、〕潁川城の攻略の指揮を取られる事です。潁川は〔難敵ですが、長期に渡って包囲を受け、〕もはや陥落寸前。〔王にとってこれほどちょうどいい相手はおりません。〕潁川城を陥とせば、大業の礎を定めることができましょう。」
 澄はそこで元康に早馬を使って潁川の様子を確かめてくるよう命じた。元康は帰還するとこう復命して言った。
「必ず陥とせます。」
 戊寅(5月24日)、澄はそこで弟の高演字は延安。高歓の第六子。生年535、時に15歳)と長楽公の段韶・大行台右丞の王士良に晋陽の留守を任せたのち、自ら步騎十万(北62王思政伝。周書では『十一万』)を率い、鄴より南下して潁川に向かった。澄は潁川に着くと『決命夫(挺身隊)』と名付けた者たちを動員して新たな土山を築いた。澄は堰(水攻めのために築いたもの)の上に座って指揮をした。趙道徳高家の家奴)は澄にこう言った。
「矢の先には鉄があり、大王を避けてはくれないのですぞ。」
 かくて澄を堰の下に下りさせた。その瞬間、澄が座っていた所に矢が降り注いだ。
 澄は堰の造営の指揮を執ったが、堰が三度にわたって決壊すると激怒し、土嚢だけでなく人夫も投げ込んで決壊場所を塞いだ。

○資治通鑑
 東魏高岳既失慕容紹宗等,志氣沮喪,不敢復逼長社城。陳元康言於大將軍澄曰:「王自輔政以來,未有殊功。雖破侯景,本非外賊。今潁川垂陷,願王自以為功。」澄從之,戊寅,自將步騎十萬攻長社,親臨作堰。堰三決,澄怒,推負土者及囊并塞之。
○北史北斉文襄紀
 五月戊寅,文襄帥師自鄴赴潁川。
○周18・北62王思政伝
〔岳既失紹宗等,志氣沮喪,不敢逼城。〕齊文襄聞之,乃率步騎十一萬(《北史》十万)來攻。自至堰下,督勵士卒。
○周36王士良伝
 王思政鎮潁川,齊文襄率眾攻之。授士良大行臺右丞,加鎮西將軍,增邑一千戶,進爵為公,令輔其弟演於幷州居守。
○北斉16段韶伝
 世宗征潁川,韶留鎮晉陽。別封真定縣男,行幷州刺史。
○北斉24陳元康伝
 王思政入潁城,諸將攻之,不能拔。元康進計於世宗曰:「公匡輔朝政,未有殊功,雖敗侯景,本非外賊。今潁城將陷,願公因而乘之,足以取威定業。」世宗令元康馳驛觀之。復命曰:「必可拔。」
○三国典略
 五七、周王思政固守穎川,高岳久圍不解。陳元康言於齊王澄曰:「公自匡輔朝政,未有殊功。雖敗侯景,本非外賊。穎城將陷,願公因而乘之,足以取威定業。」王從之。於是親至穎川,益發其眾,號曰:「決命夫。」更起土山。王坐於堰上,趙道德言於王曰:「箭頭有鐵,不避大王。」引王帶而下,箭集於王坐之所。

 ⑴高岳...字は洪略。時に38歳。高歓の従父弟。四貴の一人。温和・正直・孝行者で、立派な容貌をしていた。韓陵の戦いでは右軍を率い、高歓の危機を救った。東魏が建国されると、晋陽に居を構える歓に代わって鄴など山東の軍事・政治を任された。高澄が山東の政治を覧るようになると、冀州・青州・晋州などの刺史を務め、善政を行なった。高歓が亡くなると高澄に代わって大軍を指揮し、梁軍・侯景軍を撃破した。549年(3)参照。
 ⑵慕容紹宗...東魏の名将。もと爾朱兆の配下。高歓没後に軍の指揮を任されて梁の北伐軍や侯景を撃退したが、潁川包囲中に戦死した。549年(3)参照。
 ⑶段韶...字は孝先。高歓の妻の婁昭君の姉の子。知勇兼備の将。韓陵山の戦いでは歓を勇気づけ、邙山の戦いでは賀抜勝に追われた歓を助けた。歓の死後は澄に晋陽の留守を託された。547年(4)参照。
 ⑷王士良...字は君明。生年500、時に50歳。真面目な性格。530年に爾朱仲遠に仕えたが、紇豆陵步蕃に敗れて河右に連行された。532年、その行台の紇豆陵伊利らを説得して朝廷に帰伏させた。のち、京畿大都督府司馬→長史・領外兵参軍とされ、武定元年(543)に行台左中兵郎中とされ、更に大将軍府属・従事中郎とされた。532年(2)参照。

●簡文帝の即位
 辛巳(27日)《梁簡文紀》侯景武帝の死を公表し、柩を太極前殿に運んだ《梁56侯景伝》
 この日、太子綱が皇帝の位に即いた。これが二代簡文帝である(時に47歳)。帝は天下に大赦を行なった《梁簡文紀》。景は〔昭陽殿から〕太極殿の左右にある朝堂に赴き、兵を分けて警戒に当たらせた《出典不明》
 壬午(28日)、帝は詔を下し、江南にて奴隷にされていた北人を解放した《梁簡文紀》。これに該当した者は一万を数えた。景は更にその中から何人か大抜擢も行なったりして北人たちの歓心を買い《出典不明》、彼らが自分の忠実なしもべとなることを期待した《梁56侯景伝》

●抵抗相次ぐ

 癸未(29日)、景が儀同三司の来亮に〔南方の〕宛陵(宣城郡の治所)を接収させた。宣城(治 宛陵)太守の楊白華北魏の名将楊大眼の子。548年〈5〉参照)は亮を誘い出して斬った。
 甲申(30日)、景は部将の李賢明に白華の拠る宣城を攻めさせたが、陥とせなかった【考異曰く、典略には四月とあるが、今は太清紀の記述に従った】。
 景はまた、中軍都督の侯子鑑に呉郡を接収させ(梁56侯景伝にはこのとき呉郡にて略奪を行なった于子悦・張大黒らを捕らえて建康に送っている。于子悦らはそこで誅殺された。しかし、通鑑ではこれ以後も于子悦が登場する。恐らく梁書の記述が誤りなのだろう)、廂公の蘇単于を呉郡太守とした(出典不明)。
 また、儀同の宋子仙らに兵を与え、東〔南〕方の銭塘(会稽の西北)に進駐させたが、新城(銭塘の西)戍主の戴僧逷テキ、易。呉郡太守の袁君正に対し、景に抵抗するよう進言したが受け入れられなかった。549年〈4〉参照)の抵抗を受けた《梁56侯景伝》
 御史中丞の沈浚字は叔源。侯景の和議の申し出に応じて台城から派遣されたが、その偽りを見抜くと憤然と退出した。549年〈2〉参照)は建康から東方に避難して呉興(呉郡の西南)に到った。太守の張嵊字は四山。南斉五代皇帝の東昏侯を殺害した張稷〈501年12月6日参照〉の子)は浚と会ってこう言った。
「賊臣が覇を唱え、国家を危機に陥らせている今こそ、人臣が命を捧げる時であります。今、それがしは兵を集めて貴鄉(浚は呉興の出身)にて義兵を挙げようと考えております。もし天の加護無く、忠節実らずして死ぬことになったとしても、心残りはございません。」
 浚は答えて言った。
「それがしの故郷は小郡ではありますが、義に依って激しく抵抗する姿を示せば、必ずやみな奮い立って我らに続くはずです!」
 かくて嵊に義兵を挙げるよう強く勧めた。嵊はそこで兵を集め、守りを固めた《梁43張嵊伝》
 東揚州(会稽)刺史の臨城公大連549年〈3〉参照)も州城に拠って景の命令を受けなかった。〔江南にて〕景の命令が行き届くのは、ただ呉郡以西・南陵以北にしか過ぎなかった《梁56侯景伝》

●名医姚僧垣
 侯景が建康に迫った時、鎮西湘東王()府中記室参軍の姚僧垣は妻子を顧みずに〔荊州から?〕救援に赴いた。武帝はその気節を褒め称え、戎昭将軍・湘東王府記室参軍とした。台城が陥落し、百官があちこちに逃げ散ると、僧垣も間道を通って故郷の呉興に帰り、太守の張嵊に謁えた。嵊は僧垣に会うと涙を流してこう言った。
「私は朝廷から過大な恩を蒙った身ゆえ、今命を賭けてこれに報いるつもりです。貴君は呉興の大族であり、しかも朝廷の旧臣であります。今日貴君を得たからには、きっと成功する事でしょう。」

 姚僧垣生年499、時に51歳)は字を法衛といい、呉興郡武康県(呉興の南)の人で、呉の太常の姚信の八世孫である。曽祖父は劉宋の員外散騎常侍・五城侯の姚郢、父は梁の高平令の姚菩提。菩提は何年も病気に苦しめられたため、医術を学ぶようになった。梁の武帝も医術を愛好していたので、よく菩提を呼んでは医術について討論した。菩提の発言は帝を満足させるものばかりだったため、以降非常な礼遇を受けるようになった。
 僧垣は幼い頃から礼儀をわきまえており、父の死の際には礼を尽くした。二十四歳の時(522年)に家業を継いだ。梁の武帝が宮中に呼び入れて自ら面接すると、流れるように答えてみせたので、帝から非常に高い評価を受けた。大通六年(、出仕して臨川嗣王(正義)国左常侍とされた。大同五年(539)、驃騎廬陵王()府田曹参軍とされた。
 九年(543)、中央に帰って領殿中医師とされた。この時、武陵王紀の生母の葛修華がたちの悪い病気に長く苦しめられていたが、治療を受けても効き目が無かった。帝がそこで僧垣に診察しに行かせた。僧垣は帰ると事細かに病状を説明すると共に、その推移について記録した〔物を提出した〕。帝は感嘆して言った。
「卿の注意力はこの次元にまで至った。この注意力を以て治療に当たれば、どんな病気でも治すことができるだろう。朕はこれまでの著名な人物の多くが医術を好んでいた事を以て、これに注意を払い、その大要を知悉したつもりだったが、今、卿の説く所を聞くと、いっそう啓発される思いがする。」
 十一年(545)、領太医正とされ、文徳主帥・直閤将軍を加えられた。帝があるとき発熱し、大黄を服用しようとした。このとき僧垣は言った。
「大黄は快薬(速効性のある薬)でありますが、お年をめされている至尊が軽々しく使用していいものではありません。」
 帝がこれを聞き入れずに大黄を服用すると、〔果たして〕病状が悪化して危篤に陥った。
 太子綱も僧垣を非常に礼遇し、四季の節句の日と伏臘(夏の三伏の祀と、冬の田神を祭る臘祭)の日に常に賞賜を与えた。
 太清元年(547)、鎮西湘東王()府中記室参軍とされた。僧垣は若年の頃から読書を好み、章句の意味などの些末な事に囚われなかった。ある時、古今の事について討論すると、学者たちから称賛を受けた。

○周47姚僧垣伝
 姚僧垣字法衞,吳興武康人,吳太常信之八世孫也。曾祖郢,宋員外散騎常侍、五城侯。父菩提,梁高平令。嘗嬰疾歷年,乃留心醫藥。梁武帝性又好之,每召菩提討論方術,言多會意,由是頗禮之。
 僧垣幼通洽,居喪盡禮。年二十四,即傳家業。梁武帝召入禁中,面加討試。僧垣酬對無滯。梁武帝甚奇之。大通六年,解褐臨川嗣王國左常侍。大同五年,除驃騎廬陵王府田曹參軍。九年,還領殿中醫師。時武陵王所生葛修華,宿患積時,方術莫効。梁武帝乃令僧垣視之。還,具說其狀,并記增損時候。梁武帝歎曰:「卿用意綿密,乃至於此,以此候疾,何疾可逃。朕常以前代名人,多好此術,是以每恆留情,頗識治體。今聞卿說,益開人意。」十一年,轉領太醫正,加文德主帥、直閤將軍。梁武帝嘗因發熱,欲服大黃。僧垣曰:「大黃乃是快藥。然至尊年高,不宜輕用。」帝弗從,遂至危篤。梁簡文帝在東宮,甚禮之。四時伏臘,每有賞賜。太清元年,轉鎮西湘東王府中記室參軍。僧垣少好文史,不留意於章句。時商略今古,則為學者所稱。
 及侯景圍建業,僧垣乃棄妻子赴難。梁武帝嘉之,授戎昭將軍、湘東王府記室參軍。及宮城陷,百官逃散。僧垣假道歸,至吳興,謁郡守張嵊。嵊見僧垣流涕曰:「吾過荷朝恩,今報之以死。君是此邦大族,又朝廷舊臣。今日得君,吾事辦矣。」

 ⑴大通六年…大通は527~529年の3年で、六年は存在しない。普通六年(525)か中大通六年(534)のどちらかの誤りであろう。534年だと家業を継いでから出仕までが長過ぎるが、その時に就いた職が臨川嗣王国左常侍で、臨川王宏が亡くなったのは526年なので、534年が正しいのかもしれない。

●胡姓復帰
 己巳(15日)〉、西魏の文帝時に43歳)が詔を下して言った。
「太和年間に改姓した代人はみな旧姓に戻せ。」《北史西魏文帝紀》

●自尊心の塊
 6月、丙戌(2日)南康王会理字は長才。もと南兗州刺史。抵抗することなく侯景に降った。549年〈3〉参照)を侍中・司空とした【考異曰く、梁紀には『戊戌』とある()。今は太清紀の記述に従った】。
 丁亥(3日)宣城王大器都督城内諸軍事、台内大都督として台城の防衛に当たった。549年〈2〉参照)を皇太子とした【考異曰く、太清紀には『七日』とある。今は梁簡文紀および典略の記述に従った《梁簡文紀》

 これより前、侯景は太常卿で南陽の人の劉之遴字は思貞)を派して、臨賀王正徳出典不明)に璽綬を授けさせようとしたが、之遴は剃髪し僧服を着て江陵に逃走した。之遴は博学で能文家であり、かつて湘東王繹の長史だったこともあった。繹は元来その才能を妬んでいた。
 己丑(5日)出典不明〉、之遴は夏口に到ったところで、密かに送られてきた毒薬を渡され、自殺させられた(享年72)。繹はその真相を糊塗するため、自ら墓誌銘を書いたり、手厚く香典を贈ったりした《南50劉之遴伝》
 湘東王繹は見栄っ張りで嫉妬深く、名誉の機会を人に与えず、少しでも自分より才能がある者がいれば必ず排撃を加えた。帝の姑(伯母)の義興昭長公主武帝の妹)の子の王銓字は公衡)九兄弟はみな令名が高かったが、繹はその美名を嫉み、寵姫の王氏の兄・王珩の名を彼らの父親(王琳、字は孝璋)の名と同じ琳に改めさせて(以後、字を子珩とした? 549年〈3〉参照)〔辱めた〕(親の諱は禁忌なもの)。劉之遴と同じような目に遭った者は非常に多く、肉親でも容赦されなかった《南史梁元帝紀》

 壬辰(8日)、皇子の当陽公大心江州刺史。549年〈1〉参照)を尋陽王とし、石城公大款和議の際、大器の代わりに侯景の軍中に赴いた。549年〈3〉参照)を江夏王【通鑑では江陵王】とし、寧国公大臨城南大都督として台城の防衛に当たった。548年〈3〉参照)を南海王とし、臨城公大連東揚州刺史)を南郡王とし、西豊公大春邵陵王綸と共に台城の救援に赴いた。548年〈4〉参照)を安陸王とし、新淦公大成邵陵王綸と共に台城の救援に赴いた。549年〈1〉参照)を山陽王とし、臨湘公大封字は仁叡。簡文帝の第九子)を宜都王とし《梁簡文紀》高唐公大壮字は仁礼。簡文帝の第十三子)を新興王とした(大壮伝は550年の事とする)【考異曰く、太清紀・典略には共に立太子の日と同日(3日)に置かれている。今は梁簡文紀の記述に従うことにした《南史梁簡文紀》

┃潁川降る
 西魏の河南諸軍事・大将軍の王思政防衛の専門家。549年〈3〉参照)が籠る長社(潁川)城中には塩の蓄えが無かったため、城内の人々は体中が痙攣を起こしたり浮腫んだりして、六・七割(通鑑では八・九割)が死んだ。
 ある時、夜に長社(潁川)で戦車の音が西北より城に向かうのを聞いた。二日後、つむじ風が乾(西北)の地より巻き上がり、大波を起こした。このとき季節は盛夏だったため水の勢いは強く、とうとう城壁の北面を崩壊させた。水は城中に満ち溢れ、足の置き場が無くなった。
 東魏の大将軍の高澄は城中に触れを出してこう言った。
「大将軍を生け捕りにした者は侯に封じ、多くの賞賜を与える。大将軍の身に傷があればその側近たちをみな斬刑に処す。」
 一方、思政は敗北を悟ると左右の者を率いて土山(東魏が攻城のために築いたのを奪取したもの。548年〈2〉参照)に登り、彼らにこう言った。
「私は国より重任を受けた身であり、賊を平定することこそ本懐であったが、至誠天に通ぜず、逆に王命を辱めることになった。今、刀折れ矢尽き、万策尽きたからには、もはやあとは、一死を以て朝恩に報いるのみである。」
 かくて天を仰いで号泣すると、左右の者も同じように号泣した。思政は次いで〔天子のおわす〕西を向いて二度叩拝し、それから自ら首を刎ねんとした。左右はこれを押し止め、都督の駱訓がこう言った。
「公は常に私たちにこう言っていたではありませんか。『お前たちが我が首を持って降れば、富貴を得るだけでなく、城内の人々の命も救うことができるぞ。』と。しかしいま高澄は、公に傷を負わせたりすれば、側近たちをみな斬刑に処すと言っております。公は士卒の死を憐れんでくださるのではなかったのでしょうか!」
 思政はそこで自決するのを諦めた。澄が通直散騎常侍〔・大行台都官郎中〕の趙彦深本名隠。陳元康と共に機密のことを司り、『陳・趙』と並び称された。547年〈1〉参照を説得に赴かせると、彦深は土山に登り、思政に白羽扇を握らせて澄の誠意を伝えた。
 丙申(6月12日)、そこで思政は彦深に手を引かれながら山を下りた。思政は澄に会うと、語気激しく悲しみを露わにして、一つも屈服した様子を見せなかった。澄はその忠義の態度に感じ入り、席から立って非常に手厚くもてなした(通鑑には『澄は思政に叩拝をさせず、上座に招き寄せて礼遇した』とある)。
 これより前、澄は彦深にこう言ったことがあった。
「わしは昨夜、猟に出かけた夢を見た。わしはそこで出会った猪の群れをことごとく射倒したのだが、一頭の大猪だけは逃してしまった。しかし、そのとき卿が『代わりに獲ってきましょう』と言って、すぐにその通り大猪を獲って帰ってきた。」
 そして現在、彦深が思政を連れて帰ってくると、澄は笑ってこう言った。
「夢が正夢になった!」
 かくて即座に思政の佩刀を解き、彦深に与えて言った。
「ずっとこのような良い目に逢わせてやるぞ。」
 思政が潁川に入城した時、配下の将兵は八千人いたが、城が陥ちた時にはわずか三千人にまで落ち込んでいた(魏孝静紀には『高澄が潁川を陥とした際兵一万余を得た』とある)。その窮状のうえ援軍も来なかったが、将兵は最後まで〔思政に忠誠を貫き、〕叛乱を起こさなかった。
 潁州刺史の皇甫僧顕らも降伏した。
 思政の部将たちは諸州の地下牢に監禁され、数年の内に死に絶えた(通鑑には『思政の将兵を遠方に分置した』とある)。
 澄は潁州の住民数万を手に入れ、潁州を改めて鄭州とし、治所を〔潁州の南にある〕潁陰に遷した。鄭州は許昌・潁川・陽翟郡を管轄した。
 澄が思政の才識を重んずると、中外府中兵参軍の盧潛が徐ろにこれを諌めて言った。
「思政は死んで節義を全うすることができなかった者。重んずるに値しません!」
 澄は左右にこう言った。
「わしは盧潛〔のような剛直・忠義の士〕がおるのに、更に王思政も得てしまったのだな。」

 盧潛は、盧度世北魏の太武帝に仕えた。467年4月参照)の曾孫である。容貌は立派で、話術に長け、幼い頃から成人のような志操を抱いていた。〔北魏時代に〕儀同の賀抜勝西魏の名将)に招聘されて開府行参軍とされ、侍御史とされた。のち、高澄に用いられて大将軍西閤祭酒とされ、更に中外府中兵参軍とされた。事務を良く処理したので重用を受け、大事を成す事ができると評された。

 高澄は次いで洛州(洛陽)に赴いた。

○資治通鑑
 長社城中無鹽,人病攣腫,死者什八九。大風從西北起,吹水入城,城壞。東魏大將軍澄令城中曰:「有能生致王大將軍者封侯;若大將軍身有損傷,親近左右皆斬。」王思政帥衆據土山【東魏築土山以攻潁川,思政奪而據之】,告之曰:「吾力屈計窮,唯當以死謝國。」因仰天大哭,西向再拜,欲自刎,都督駱訓曰:「公常語訓等:『汝齎我頭出降,非但得富貴,亦完一城人。』今高相旣有此令,公獨不哀士卒之死乎!」衆共執之,不得引決。澄遣通直散騎趙彥深就土山遺以白羽扇,執手申意,牽之以下。澄不令拜,延而禮之。思政初入潁川,將士八千人,及城陷,纔三千人,卒無叛者。澄悉散配其將卒於遠方,改潁州為鄭州【按魏收《志》:潁州本治長社,旣改鄭州,徙治潁陰城,領許昌、潁川、陽翟郡】,禮遇思政甚重。西閤祭酒【後齊之制,三師、二大、三公,各置東西閤祭酒。二大,大司馬、大將軍也】盧潛曰:「思政不能死節,何足可重!」澄謂左右曰:「我有盧潛,乃是更得一王思政。」潛,度世之曾孫也。
○魏孝静紀
 六月丙申,克潁州,擒寶炬大將軍、尚書左僕射、東道大行臺、太原郡開國公王思政,潁州刺史皇甫僧顯等,及戰士一萬餘人,男女數萬口。齊文襄王遂如洛州。
○北史西魏文帝紀
 六月,東魏勃海王高澄攻陷潁川。
○周文帝紀
 夏六月,潁川陷。
○北史北斉文襄紀
 六月丙申克潁川,禽西魏大將軍王思政,以忠於所事,釋而待之。
○魏地形志
 鄭州 天平初置潁州,治長社城。武定七年改治潁陰城。
◯周18・北62王思政伝
 水壯,城北面遂崩。水便滿溢,無措足之地。思政知事不濟,率左右據土山,謂之曰:「吾受國重任,本望平難立功。精誠無感,遂辱王命。今力屈道窮,計無所出。唯當効死,以謝朝恩。」因仰天大哭。左右皆號慟。思政西向再拜,便欲自刎。先是,齊文襄告城中人曰:「有能生致王大將軍者,封侯,重賞。若大將軍身有損傷,親近左右,皆從大戮。」都督駱訓謂思政曰:「公常語訓等,但將我頭降,非但得富貴,亦是活一城人。今高相既有此言,公豈不哀城中士卒也!」固共止之,不得引決。齊文襄遣其〔通直散騎〕常侍趙彥深就土山執手申意(遺以白羽扇而說之,牽手以下)。引見文襄,辭氣慷慨,〔涕淚交流,〕無撓屈之容。文襄以其忠於所事,〔起而禮之,〕禮(接)遇甚厚。〔其督將分禁諸州地牢,數年盡死。〕思政初入潁川,士卒八千人,〔被圍既久,城中無鹽,腫死者十六七,及城陷之日,存者纔三千人。雖〕城既無外援,亦(遂)無叛者。
○北斉38趙彦深伝
 從征潁川,時引水灌城,城雉將沒,西魏將王思政猶欲死戰。文襄令彥深單身入城告喻,即日降之,便手牽思政出城。先是,文襄謂彥深曰:「吾昨夜夢獵,遇一羣豕,吾射盡獲之,獨一大豕不可得。卿言當為吾取,須臾獲豕而進。」至是,文襄笑曰:「夢驗矣。」即解思政佩刀與彥深曰:「使卿常獲此利。」
○北斉42王思政伝
 盧潛,范陽涿人也。祖尚之,魏濟州刺史。父文符,通直侍郎。潛容貌瓌偉,善言談,少有成人志尚。儀同賀拔勝辟開府行參軍,補侍御史。世宗引為大將軍西閤祭酒,轉中外府中兵參軍,機事強濟,為世宗所知,言其終可大用。王思政見獲於潁川,世宗重其才識。潛曾從容白世宗云:「思政不能死節,何足可重!」世宗謂左右曰:「我有盧潛,便是更得一王思政。」
○三国典略
 七二、太原郡王高洋督兵攻王思政,陷於潁川,遂入東魏。先是長社夜有聲如車騎,從西北向城。居二日,黑風起於乾地,吹水入城,城壞,風羊角而上。
○通典兵14
 時盛夏水壯,城北面遂壞。頃之,水便溢滿,無措足之地,遂被擒。文襄義而禮之。
○読史方輿紀要
 東魏攻圍,逾年始陷。以城多崩頹,因移郡治潁陰縣。

 ⑴趙彦深…本名隠。彦深は字。生年507、時に43歳。能吏。3歳の時に父を亡くし、貧しい中母親に女手一つで育てられ、非常な母親思いとなった。頭が良く読み書きや計算を得意とした。静かに暮らすことを好み、人と無闇に付き合わず、意見はどれも納得するものばかりだった。朝方に自ら門の外を掃除したが、人にその姿を見せることは無かった。尚書令の司馬子如に認められて出世し、高歓の時、陳元康と共に機密に携わり、『陳・趙』と並び称された。高歓死後も高澄に重用を受け、依然として機密に携わった。
 ⑵潁陰…《読史方輿紀要》曰く、『許州の北五十里に長葛県(長社。潁州)があり、許州の西九十里に禹州(陽翟)があり、禹州の東南四十里の潁水の南に潁陰城がある。』
 ⑶読史方輿紀要には『城壁が多くの箇所で崩壊していたため移転した』とする。

┃憂公忘私の人
 思政は国家のために働くことだけを心掛け、蓄財行為を行なわなかった。ある時、田地を拝領した。思政が出征したのち、家人はそこに桑の実がなる木などを植えた。思政は家に帰ってこれを見ると、怒ってこう言った。
「昔、霍去病前漢の驃騎将軍)は匈奴がまだ滅んでいないと言って邸宅の拝領を辞退した。まして、今は匈奴以上の大賊が健在なのだぞ。そのような時に営利行為を行なう者が、どうして憂国忘私の志士と言えよう!」
 かくて左右の者に命じてこれを抜き捨てさせた。万事このようであったため、東魏に捕らわれた時、家には一つも蓄えが無かった。

 のち、思政は北斉の時に都官尚書・儀同三司とされた。亡くなると本官と兗州刺史を追贈された。

 令狐徳棻曰く...王思政は戦乱の時に当たって国家のために奔走し、功名を立てた後も高潔な志を抱き続けた。覇府(宇文泰)に仕えて潁川の守備を命じられると、該地の天険を利用し、種々の防御策を凝らして、一城の兵を率いて傾国の師(一国を滅ぼせるほどの大軍)に当たり、疲乏の兵を率いて勁勇の兵と戦ったが、それでも良くこれら大敵を撃破し、何度も傑出した功績を立てた。その忠節は史上に冠絶し、その節義は中国の外にまで振るった。不幸、運に見放され、城は陥ちて囚われの身となりはしたが、その気高い志と立派な人柄は、後世の良き模範となるに充分であった。

○周18・北62王思政伝
 思政常以勤王為務,不營資產。嘗被賜園地,思政出征後,家人種桑果〔雜樹〕。及還,見而怒曰:「匈奴未滅,去病辭家,況大賊未平,何(欲)事產業〔,豈所謂憂公忘私邪〕!」命左右拔而棄之。故身陷之後,家無畜(蓄)積。及齊〔文宣〕受〔東魏〕禪,以〔思政〕為都官尚書〔、儀同三司。卒,贈以本官,加兗州刺史〕。
 ...王思政驅馳有事之秋,慷慨功名之際。及乎策名霸府,作鎮潁川,設縈帶之險,修守禦之術,以一城之眾,抗傾國之師,率疲乏之兵,當勁勇之卒,猶能亟摧大敵,屢建奇功。忠節冠於本朝,義聲動於隣聽。雖運窮事蹙,城陷身囚,壯志高風,亦足奮於百世矣。

┃崔猷の言容れられず
 これより前、思政は侯景の救援に赴いた当初、襄城(潁川の西南)に行台(思政は行台を務めていた)の治所を置いていたが、のちになって潁川に遷そうと考えた。そこで魏仲を朝廷に派して伺いを立てようとしたが、その前に書簡を大都督・淅州(淅陽。武関と荊州の中間)刺史の崔猷字は宣猷。北魏の吏部尚書の崔孝芬の子。高歓に父を殺され、関中に逃れた。孝武帝との謁見の際非常な悲しみようを見せたので、その忠孝心を帝に褒められた。534年〈4〉参照)に送ってその可否を論じた。思政は河南に赴く際に宇文泰からこう言われていた。
「崔宣猷は智略抜群で、臨機応変の才覚を有している。何か迷うことがあったら、彼と相談して可否を決めるとよい。」
 思政はこれに則って猷に相談したのだった。すると猷は返書を書いて言った。
「そもそも戦いというのは、『先に虚勢を張り(敵を圧倒するため)、その後に実力を行使する』(先声後実。史記淮陰侯伝の広武君の言葉。戦う前に充分な根回しをしておくことの重要性を説く)ことで、百戦百勝を得、弱を強とすることができるのです。襄城は京洛を押さえる位置にあり、一朝事があってもすぐに相互に支援し合うことができる、当今の要地であります。〔一方、〕潁川は敵の領土と接し、山川の護りも無い土地のため、敵の大軍が侵入してきた場合、すぐに城下まで到達されてしまいます。ゆえに、ここは襄城に行台の治所を置き、潁川には州を置いて郭賢字は道因。魯陽の鎮守を任されていた。547年〈2〉参照)に鎮守させるのが良いと考えます(郭賢は王思政に非常に信任されていた)。さすれば、襄城・潁川の守りは強固となり、人心は落ち着き、何かあっても危険に陥ることはないでしょう。」
 魏仲は泰に会うと、思政の意見と猷の意見を詳しく説明した。泰はこれを聞くと仲を即座に帰還させ、猷の意見に従うよう思政に伝えさせた。しかし、思政は重ねて上表を行ない、朝廷にこう約束して言った。
「賊が水攻めしてくるなら一年、陸から攻めてくるなら三年は持ちこたえてみせます。その間は救援はしていただかなくて結構です。この期限を過ぎた時は、朝廷の決定に従います。」
 泰は、思政の防衛術の巧みさを信頼していたことや、再三再四請願されたこともあり、とうとう潁川に治所を遷すことを許可した。潁川が陥落したのち、泰はこのことを非常に後悔した。

◯周35崔猷伝
 十四年,侯景據河南歸款,遣行臺王思政赴之。太祖與思政書曰:「崔宣猷智略明贍,有應變之才,若有所疑,宜與量其可不。」思政初頓兵襄城,後欲於潁川為行臺治所,遣使人魏仲奉啟陳之。并致書於猷論將移之意。猷復書曰:「夫兵者,務在先聲後實,故能百戰百勝,以弱為彊也。但襄城控帶京洛,寔當今之要地,如有動靜,易相應接。潁川既隣寇境,又無山川之固,賊若充斥,徑至城下。輒以愚情,權其利害,莫若頓兵襄城,為行臺治所,潁川置州,遣郭賢鎮守。則表裏膠固,人心易安,縱有不虞,豈能為患。」仲見太祖,具以啟聞。太祖即遣仲還,令依猷之策。思政重啟,求與朝廷立約:賊若水攻,乞一周為斷;陸攻,請三歲為期。限內有事,不煩赴援。過此以往,惟朝廷所裁。太祖以思政既親其事,兼復固請,遂許之。及潁川沒後,太祖深追悔焉。

●魯陽以東、みな東魏に付く
 これより前、侯景が梁に付くと、西魏は東魏が河南を奪回しに来るのを危惧し、広州(南陽?)刺史の権景宣字は暉遠。538年〈2〉参照)を大都督・豫州刺史として楽口(潁川〜豫州の中間?)を鎮守させた。すると果たして東魏も張伯徳張亮。爾朱兆に最後まで付き従い、邙山の決戦では西魏が河橋を焼き払おうとするのを阻止した。543年〈1〉参照)を刺史として派遣した(北斉25張亮伝には『侯景が叛くと、平南将軍・梁州刺史に任ぜられ、間もなく都督揚・潁等十一州諸軍事・兼行台殿中尚書となり、のち都督二豫・揚・潁等八州軍事・征西大将軍・豫州刺史・尚書右僕射・西南道行台とされた』とある)。伯徳は部将の劉貴平にその戍卒と山中の蛮族を率いさせ、たびたび景宣に攻撃を仕掛けた。景宣の兵は千人に満たなかったが、臨機応変に良く戦い、前後で三千余の捕虜と首級を得た。貴平はそこで退却した。西魏は景宣を使持節・車騎大将軍・儀同三司とした。
 潁川が陥落すると、楽口などの諸城は中央との交通が遮断され、孤立した。宇文泰はそこで彼らに帰還を命じた【宇文泰は面子や威信にこだわることなく、利害を良く見極めて行動できる人物だった(ヒトラーがスターリングラードを死守させたような愚は犯さなかったのである】。襄州(治 赭陽。あるいは襄城に移っていた?)刺史の杞秀范秀?)はその際醜態を見せたので処罰された(原文『狼狽得罪』)。ただ、景宣のみは命令を徹底して粛々と撤退し、配下の部隊をみな無事に帰還させることに成功したので、手厚い恩賞を加えられた。泰は景宣に荊州の守備を命じ、鵶(三鵶路。南陽〜魯陽の間にある山道)南の地を託した。

 東魏は潁川を包囲した時、蛮酋の魯和に諸蛮を扇動させ、三鵶路を遮断させた。和が従弟の魯与和を漢広(魯陽の東。昆陽・高陽を領す)郡守とし、手勢を率いて〔広〕州内に侵攻させると、魯陽(広州)を鎮守していた西魏の儀同三司の郭賢は密かに精鋭を選り抜き、軽装で素早く進軍してこれを奇襲し、大破した。賢は〔勢いに乗って〕魯和も虜とした。
 この時、蛮帥の田杜清が要害に拠って叛乱を起こした。西魏は楊忠にこれを討伐させ、平定した。西魏はこの戦いにて最も大きな功を立てた大都督の厙狄昌を儀同三司とし、三百戸を加増した。
 間もなく潁川が陥ちると、郭賢権景宣らと共に西方に退いた(郭賢は魯陽の鎮守を任されていたが、魯和を捕らえた際に漢広辺りに遷っていたのかもしれない)。これより、魯陽以東の地はみな東魏のものとなった。東魏の将軍の彭楽東魏の猛将。邙山の決戦では西魏軍を大破し、宇文泰を追い詰めた。549年〈3〉参照)はこの機に乗じて〔魯陽を?〕攻めたが、将兵をよく懐け、その力を引き出す賢に勝つことができず、退却した。東魏は更に土民の韋黙児を義州刺史とし、父城()を鎮守させて賢を圧迫したが、賢はこれを攻めて黙児を虜とした。賢は広州(魯陽)刺史に転任した。

○周19楊忠伝
 及東魏圍潁川,蠻帥田柱清據險為亂,忠率兵討平之。
○周27厙狄昌伝
 又從隨公楊忠破蠻賊田社清,昌功為最,增邑三百戶,拜儀同三司。
○周28権景宣伝
 侯景舉河南來附,景宣從僕射王思政經略應接。既而侯景南叛,恐東魏復有其地,以景宣為大都督、豫州刺史,鎮樂口。東魏亦遣張伯德為刺史。伯德令其將劉貴平率其戍卒及山蠻,屢來攻逼。景宣兵不滿千人,隨機奮擊,前後擒斬三千餘級,貴平乃退走。進授使持節、車騎大將軍、儀同三司。潁川陷後,太祖以樂口等諸城道路阻絕,悉令拔還。襄州刺史杞秀以狼狽得罪。景宣號令嚴明,戎旅整肅,所部全濟,獨被優賞。仍留鎮荊州,委以鵶南之事。
○周28郭賢伝
 及侯景來附,思政遣賢先出三鵶,鎮於魯陽。加大都督,封安武縣子,邑四百戶。尋進車騎大將軍、儀同三司,加散騎常侍。及潁川被圍,東魏遣蠻酋魯和扇動羣蠻,規斷鵶路。和乃遣其從弟與和為漢廣郡守,率其部曲,侵擾州境。賢密簡士馬,輕往掩襲,大破之,遂擒魯和。既而潁川陷,權景宣等並拔軍西還,自魯陽以東,皆附東魏。〔東魏〕將彭樂因之,遂來攻逼。賢撫循將士,咸為盡其力用,樂不能克,乃引軍退。而東魏又以土民韋默兒為義州刺史,鎮父城以逼賢。賢又率軍攻默兒,擒之。轉廣州刺史。
○周49蛮伝
 尋而蠻帥田杜清及沔、漢諸蠻擾動,大將軍楊忠擊破之。
◯胡注
 史言宇文泰不求廣地之名而審計利害之實。

 ⑴厙狄昌...字は恃德。馬と弓の扱いに長け、人並み外れた筋力を有した。また、立ち居振る舞いに趣があり、何事にも物怖じしない心を持っていた。爾朱天光→賀抜岳→宇文泰に仕えた。戦いの際常に先んじて敵陣を落とし、泰から称賛を受けた。541年、劉平伏の乱を平定した。

┃三蔽
 太尉の高岳らが思政を攻めた時、衛尉卿(廷尉卿?)の杜弼は行潁州事・摂行台左丞とされた。この時、大軍が潁州に駐屯し、州民は多くの徴発や輸送に苦しめられることになったが、弼が負担を公平にし、官民一致で当たったので、州民から大いに支持を得た。
 高澄杜弼に言った。
「卿よ、王思政を捕らえることができた理由を説明してみよ。」
 弼は言った。
「思政は逆順の理を察せず、大小の形を識らず、強弱の勢を測りませんでした。この三蔽(三つの欠点)があったがために、捕らえられるに至ったのです。」
 澄は言った。
「いにしえより『逆取順守』(道理にそむいた方法で国を奪ったのち、道理にかなった方法で保持する)という言葉があり、大呉は小越に苦しめられ(春秋の呉越)、弱燕は強斉を破った(戦国の楽毅)。卿の三義は証明にならぬ。」
 弼は言った。
「王がもし順にして不大か、大にして不強か(呉は不強だった)、強にして不順だった(斉は不順だった)のであれば、仰る通りでありましょうが、今既に王は順にして大にして強であり、全てを完備しておられますので、立派な証明になると思います。」
 澄は言った。
「たいてい自説を補強する際は具体的な用例を出すものだが、どうして卿は抽象的な理論で固めようとするのか?」
 弼は言った。
「大王は威徳を兼備し、適っている道理が広範に亘るがゆえに自然と言葉も広範になってしまうのです。道理に外れた言葉を言う事はできません。」
 澄は言った。
「卿の言う通りであれば、どうして潁川は一年経っても降らず、孤が来ると即座に陥落したのか?」
 弼は言った。
「天がはっきりと大王の手柄としたかったからでありましょう。」

○北斉24杜弼伝
 關中遣儀同王思政據潁州,太尉高岳等攻之。弼行潁州事,攝行臺左丞。時大軍在境,調輸多費,弼均其苦樂,公私兼舉,大為州民所稱。潁州之平也,世宗曰:「卿試論王思政所以被擒。」弼曰:「思政不察逆順之理,不識大小之形,不度強弱之勢,有此三蔽,宜其俘獲。」世宗曰:「古有逆取順守,大吳困於小越,弱燕能破強齊。卿之三義,何以自立?」弼曰:「王若順而不大,大而不強,強而不順,於義或偏,得如聖旨。今既兼備眾勝,鄙言可以還立。」世宗曰:「凡欲持論,宜有定指,那得廣包眾理,欲以多端自固?」弼曰:「大王威德,事兼眾美,義博故言博,非義外施言。」世宗曰:「若爾,何故周年不下,孤來即拔?」弼曰:「此蓋天意欲顯大王之功。」

 ⑴杜弼…字は輔玄。幼名は輔国。491~559。中山の人だが名門京兆杜氏の出を自称した。貧しかったが勉学に励み、任城王澄に王佐の才があると評された。振る舞いが上品で思いやりが深く、事務仕事に通暁し、どの仕事に就いても清廉潔白であったので、官民から慕われた。玄学(老荘・周易)を愛好し、高齢になるとますますその傾向が強くなった。実直な性格で、多くの諫言を行なった。高歓に仕えて行台郎とされた。537年の小関の決戦の際には監軍として竇泰の軍に随行したが、泰を良く矯正できず、泰が敗死すると陝州に逃げ帰る醜態を見せ、歓に激怒された。歓に貪汚の風を引き締めるよう進言したが聞き入れられなかった。また、西魏よりも先に勲貴を除くよう勧めると、武器の列の間を歩かされた。545年、柔然に使いし、婚姻を求めた。547年の梁との寒山の決戦の際には軍司・摂行台左丞とされた。出立の際、高澄に厩舎で二番目の胡馬を与えられた。 この時、澄に 賞罰の二柄を押さえておくよう言い残し、澄に「多くを語らざるも、非常に良く要点を掴んでいる」と評された。559年、文宣帝に誅殺された。

┃遺族厚遇

 宇文泰は思政が降伏に至ったのは水のためにどうしようもなくなったためであって、指揮が拙かったからではないとし、遺族を罪に問わなかった。

 子の王秉は沈着・毅然としていて度量があり、泰の親信とされていたが、ここに至って三千五百戸を加増され、太原公の爵位を継ぐことを許され、更に驃騎大将軍・侍中・開府儀同三司とされた。
 また、秉の弟で中都県侯の王揆も加増されて計千五百戸とされ、公とされた。
 揆の弟の王邗も西安県侯とされた。
 邗の弟の王恭も忠誠県伯とされた。
 恭の弟の王幼も顕親県伯とされた。
 秉の姉も斉郡君とされた。
 秉の兄の王元遜は思政と共に潁川にて捕らえられていたが、その子の王景が晋陽県侯とされた。
 秉は固辞したが聞き入れられなかった。


●太清紀
 この月、太子舍人の上甲侯韶字は徳茂。武帝の兄の長沙宣武王懿の孫で、南安侯駿の兄。549年〈2〉参照)が密詔を持って江陵に到り、繹を侍中・仮黄鉞・大都督中外諸軍事・司徒とし、人事権を代行することを許した。繹の他の官位についてはそのままとした【考異曰く、梁元帝紀には五月にあるが、今は太清紀の記述に従った《梁元帝紀》。また、繹以外の各地方長官にも官位や将軍号を加え、救援軍を呼び集めた《出典不明》
 
 上甲侯韶が江陵にやってくると、人士の多くがそのもとを訪れ、建康城内でどのような事があったか尋ねた。韶は一人ひとりに説明することはできないと思い、城内で起きたことを一巻の書物にまとめ、誰かが尋ねに来るとこれを見せた。繹は韶が本を書いたことを聞くとそれを取り寄せて読み、こう言った。
「むかし、王韶之は隆安紀十巻を著して晋末の動乱を記録した。今、蕭韶も太清紀十巻を著すべきである。」
 韶はそこで改めて太清紀を著した(完成は551年頃?《南51蕭韶伝》


 549年(5)に続く