[西魏:大統十五年 東魏:武定七年 梁:太清三年]


●太子との会見
 侯景は武帝と会ったのち、次いで永福省(梁30徐摛伝。陳32殷不害伝では『中書省』とある)に赴いて太子綱に会ったが、太子もまた恐れる様子が無かった《南80侯景伝》。このとき景が連れていた兵士はみな羌・胡の雑種で、誰彼構わず喧嘩を売るなど態度が非常に不遜だったため、侍衛(侍従と衛兵)は驚き恐れて逃げ散っていた。しかし、東宮通事舍人【朝廷でいう中書通事舍人】で陳郡の人の殷不害と太子中庶子【朝廷でいう侍中】の徐摛字は士秀。時に76歳。宮体の創始者。531年〈3〉参照)の二人だけは、太子の傍を離れなかった《陳32殷不害伝》
 摛は景にこう言った。
「〔太子に会う際は〕礼は必須であるのに、 どうしてこんな不躾な真似をするのか!」
 景は意気を挫かれ、素直に跪いて拝礼した《梁30徐摛伝》。景は太子に話しかけられたが、ここでも答えることができなかった《出典不明》

●略奪
 ここにおいて景は西州城(建康の西にある城)に本営を置き、両宮(皇宮と東宮)の侍衛をみな追い出し、儀同の陳慶に太極殿を守らせ、兵を放って皇帝用の車輿・衣服・器具・宮女らを我がものとした。また、朝士・王侯を永福省に集めて監禁し、王偉景の軍師。549年〈2〉参照)に武徳殿を、于子悦景の交渉役。549年〈2〉参照)に太極殿の東堂を守らせた。また、偽詔を下して大赦を行ない、自らに大都督・督中外諸軍事(梁56侯景伝)・録尚書事の位を授けた。侍中・使持節・大丞相(去年蕭正徳を即位させた際、景は丞相になっていた。武帝紀にはこのとき大丞相の位を授けている)・河南王の位はそのままとした【考異曰く、梁武帝紀には大赦の記載が無い。また、景に官位を授けたのは庚午(15日)となっている。今は太清紀の記述に従った《南80侯景伝》

 台城が陥落したのち、百官はあちこちに逃げ散った。しかし、太子洗馬の蕭允は逃げずに宮坊(太子の住居)に残り、居住まいを正して座って景兵が来るのを待ち受けた。景兵は允の〔犯し難い威厳に〕敬意を示し、近寄って乱暴をすることは無かった。
 允は間もなく建康を出て京口(南徐州。建康の東北)に住居を構えた。この時、京口も景兵が跳梁する所となっていて、士民はあちこちに逃げ散っていたが、允は出ていこうとしなかった。ある人がわけを問うと、允はこう答えて言った。
「人の生死は天によって定められているものである。〔もし近々死ぬと決まっているのなら、〕逃げても無駄な事だ。それに、患難というのは何事も〔生きたいなどの〕利欲から生じるものである。であれば、利欲を追い求めず、虚心でいれば災いに遭わないのではないか? それに、今は、人々が腕一本や口一つで大臣の位を得ようと躍起になっている時である。そんな時に果たして一書生(蕭允)なぞに構ったりするだろうか? 私は荘周の言う『己の影や足跡を恐れて逃げた末に力尽きて死んだ者』(漁父篇。落ち着いた生き方をせず、余計なことをして身を滅ぼした者)にはならぬ。」
 かくて門を閉じて静かに暮らし、二日に一度食事をするなどして食いつないだ。その結果、最後まで災難に遭うことがなかった。

 允は字を叔佐といい、劉宋の征西将軍・開府儀同三司・尚書右僕射・陽穆公の蕭思話の曾孫、南斉の散騎常侍・太府卿・左民尚書の蕭恵蒨の孫、梁の侍中・都官尚書の蕭介の子である。
 允は若年の頃から名を知られ、容姿・動作・識見が全て高雅だった。出仕して邵陵王法曹参軍となり、次いで湘東王府主簿となり、のち太子洗馬となった。

○陳21蕭允伝
 蕭允字叔佐,蘭陵人也。曾祖思話,宋征西將軍、開府儀同三司、尚書右僕射,封陽穆公。祖惠蒨,散騎常侍、太府卿、左民尚書。父介。梁侍中、都官尚書。允少知名,風神凝遠,通達有識鑒,容止醞藉,動合規矩。起家邵陵王法曹參軍,轉湘東王主簿,遷太子洗馬。侯景攻陷臺城,百僚奔散,允獨整衣冠坐于宮坊,景軍人敬而弗之逼也。尋出居京口。時寇賊縱橫,百姓波駭,衣冠士族,四出奔散,允獨不行。人問其故,允答曰:「夫性命之道,自有常分,豈可逃而獲免乎?但患難之生,皆生於利,苟不求利,禍從何生?方今百姓爭欲奮臂而論大功,一言而取卿相,亦何事於一書生哉?莊周所謂畏影避迹,吾弗為也。」乃閉門靜處,并日而食,卒免於患。


●救援軍の解散
 己巳(3月14日)、景は偽りの詔と白虎幡(皇帝の使節だと証明する旗。523年参照)を石城公大款字は仁師。太子綱の第三子。549年〈1〉参照)に持たせて救援軍のもとに派し、天子の名の下に解散を命じた【考異曰く、典略には庚午に、梁武帝紀には辛未(16日)にこの記述がある。今は太清紀の記述に従った】。救援軍の大都督の柳仲礼賀抜勝の雍州侵攻を退けた身長八尺の勇将。救援軍の大都督に補せられたが、青塘の戦いで重傷を負ってからは覇気を失い、遊んで暮らすようになった。549年〈2〉参照)が諸将を呼んでこのことを諮ると、邵陵王綸字は世調。武帝の第六子。鍾山にて侯景に敗れ柳仲礼を都督に仰いだが、すぐに仲違いをした。549年〈2〉参照)はこう言った。
「将軍に全て一任いたす。」
 仲礼はただ綸を見つめただけで何も答えなかった。そのとき裴之高(字は如山。名将裴遽の兄の子で、西豫州刺史。549年〈2〉参照)・王僧弁字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。劉敬躬の乱の平定に活躍した。549年〈1〉参照)が言った。
「将軍は百万の大軍を擁しながら、皇宮を賊の手に陥らせました。こうなったからには、全力で決戦を行なって罪を償う他ありません! これ以上の議論は無駄であります!」
 しかし、仲礼は遂に一言も発しなかった。諸軍はそこでめいめい帰還を始めた《南38柳仲礼伝》


 南兗州刺史の南康王会理・東揚州刺史の臨城公大連字は仁靖。太子綱の第三子。549年〈1〉参照)・湘東世子方等字は実相、時に22歳。文武に優れたが、嫉妬心の強い母を持っていたことで父の繹に嫌われた。549年〈1〉参照)・鄱陽世子嗣字は長胤。合州刺史の鄱陽王範の子。549年〈1〉参照)・北兗州刺史の定襄侯祗字は敬式〈敬謨?〉。武帝の弟の南平王偉の子で、容貌美しく、幼い頃から令名高かった)・前青冀二州刺史の湘潭侯退鄱陽王範の弟。549年〈1〉参照)・呉郡太守の袁君正字は世忠。袁昂の子。容貌美しく分をわきまえ、貴公子の中でも特に評判が高かった。侯景の乱が起こると数百人の兵を率いて邵陵王綸に従い、建康に赴いていた)・晋陵太守の陸経らはそれぞれ本鎮に帰った《一部出典不明》邵陵王綸は会稽(東揚州)山中にある禹穴に逃れた(梁29邵陵王綸伝)。
 仲礼とその弟の柳敬礼・羊鴉仁・王僧弁・趙伯超らは陣門を開いて景に降った。一方兵士たちは、台城が陥落した後でも数の多さを頼みに闘志を高く保持していたため、みな憤り嘆いた。仲礼らは入城すると、まず景に叩頭の礼を取った後、武帝に会ったが、武帝は彼らに言葉をかけようとはしなかった《南38柳仲礼伝》。仲礼が父の柳津字は元挙。台城の東側の守備を指揮した。549年〈1〉参照)に会うと、津は号泣して言った。
「お前はわしの子ではない(仲礼がなかなか助けようとしてこなかったため、勘当していたのである)というのに、どうして会いに来たのか!」《出典不明》

●王琳の登場
 これより前、都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・荊州刺史の湘東王繹武帝の第七子。時に42歳。548年〈5〉参照)は全威将軍(出典不明)で会稽の人の王琳に二十万石の米を救援軍のもとに運ばせていた。琳は姑孰(采石の南)に到った所で台城陥落の報に接すると、米を長江に沈め、軽舸(早船)に乗って荊州に引き返した《南38柳仲礼伝》
 王琳は字は子珩といい、兵家(兵戸)出身だったが、姉妹が共に繹に寵せられたことで二十にもならぬ身で繹の側近となった。琳は幼い頃から武を好んでいたため、将軍とされた《北斉32王琳伝》

●宛転火中
 景が台城内の死体の山に火を放ち、まだ息がある重傷病者たちも集めて焼き払った。その臭いは十余里向こうにも届いた。重病者の尚書外兵郎の鮑正は景兵に引っ立てられて焼かれ、長い間火中にてのたうち回ったのち、死んだ《梁56侯景伝》

●本任に復す
 庚午(15日)、景が偽りの詔を下して言った。
「近年、姦臣が勝手に命令を下し、国家は危殆に瀕していたが、〔幸いなことに〕英邁なる丞相が入朝して朕を輔佐してくれることになったため、その心配は無くなった。地方長官たちはみな〔安心して〕元の職務に戻るがよい。」《梁56侯景伝》
 景は羊鴉仁を手元に留め、柳仲礼を司州に、王僧弁を竟陵に還した。
 景は後渚まで仲礼を見送りに出、その手を取ってこう言った。
「天下の事はただ将軍如何にかかっている。郢州(長江中流)・巴西(長江上流)の経略は任せたぞ。」
 仲礼の弟の柳敬礼はこの餞別の前に、仲礼にこう言っていた。
「景が来たら、自分がこれを抱えこみます。兄はそれを見たら即座に〔自分もろとも〕景を刺し殺してください。さすれば、死んでも恨みはございません。」
 仲礼はその立派な言葉に感じ入り、承諾した。餞別の宴が始まり、酒が幾巡りかした時、敬礼は仲礼に目配せをし、〔決行していいか尋ね〕た。仲礼は景の護衛の厳重なのを見て、〔無駄死にになると考え、これを〕制止した。かくて計画は実行されずに終わった。
 景は敬礼を手元に残して人質にし、護軍将軍とした《南38柳仲礼・敬礼伝》

●正徳、皇帝の座から降りる
 これより前、蕭正徳は景とこのような約束を交わしていた。
 ①台城を陥とした際、武帝太子綱を殺す。
 ②また、三日以内に畿内を出ない王侯も殺す。
 台城の門が開くと、正徳は手勢を率い、刀を振るってその中に押し入ろうとしたが、事前に景が派遣していた守備隊に遮られて果たせなかった。景は年号を〔正平から〕太清に戻し、正徳を〔皇帝の座から降ろして〕侍中・大司馬とした。また、百官もみな元の官職に復帰させた。〔景に騙されたことを知った〕正徳は武帝に会うと、叩頭しつつ泣いて〔謝った〕。すると武帝は詩経の王風にある中谷有蓷の詩の言葉を引いてこう言った。
「『啜(セツ)として其れ泣く、何ぞ嗟(なげ)くも及ばんや!』(どれだけ泣いて嘆こうと、時は戻らない)」《南51臨賀王正徳伝》

┃投降相次ぐ


 梁の秦郡・陽平・盱眙の三郡が景に降った《出典不明》。景は陽平を北兗州(通鑑では『北滄州』)、秦郡を西兗州とした(侯景伝では翌年7月の事だとしている《梁56侯景伝》

〔これより前、侯景が長江を渡ると、北斉は済州刺史の斛律平を大都督とし、青州刺史の敬顕儁・左衛将軍の厙狄伏連らを率いて寿陽を陥としていた(正月)。〕
 この時、梁の東徐州(宿豫)刺史の湛海珍もと仁州刺史。侯景が梁に降ったとき、その救援に赴いたことがある。547年〈1〉参照)・北青州(治 黄郭戍)【考異曰く、典略は北青州を南冀州とする。今は太清紀の記述に従った】刺史の王奉伯・淮陽太守の王瑜出典不明)らが州郡を挙げて東魏に降った。青〔冀二〕州(治 郁洲北海)刺史の明少遐字は処黙。聘問の使者として東魏に赴いたことがある。541年参照)・山陽太守の蕭隣出典不明)は城を棄てて逃げ、残された城は東魏に占拠された【考異曰く、梁武帝紀はこれを四月のこととする。今は太清紀の記述に従った】(梁武帝紀・南50明少遐伝では明少遐は東魏に降っている)。

○資治通鑑
 秦郡、陽平、盱眙三郡皆降景,景改陽平為北滄州,改秦郡為西兗州。
○梁56侯景伝
 大寶元年…七月,景以奏郡為西兗州,陽平郡為北兗州。
 
●西昌侯淵藻の死
 侯景が儀同三司の蕭邕を南徐州刺史として西昌侯淵藻武帝の兄の子。侯景が乱を起こすと世子彧を援軍に向かわせていた。548年〈2〉参照)と代わらせ、京口を鎮守させた。淵藻はこれがもとで気分がすぐれなくなり、病気となった。ある者は江北(東魏)に亡命するよう勧めたが、淵藻は言った。
「わしはとりわけ高い地位に就いている国の重臣なのであるから(南徐州刺史となるまでは尚書左僕射や中書令、侍中、開府儀同三司などを歴任していた。台城落城後は大将軍とされた)、逆賊を討てなければ朝廷と共に死ぬだけだ。異民族のもとに逃れてまで生きようとは思わぬ。」
 かくて何日も絶食したのち亡くなった。時に67歳だった(梁簡文紀はこれを『8月癸卯』のこととする。通鑑がここにこの記事を置いている理由は不明)。
 淵藻は落ち着いた性格で、一室で一人じっとしていることが多く、牀(床寝台)には膝痕がくっきりと残るほどだった。また、過分な爵禄をいただいているという考えだったため、生活は控えめで、ひっそりとした家に住み、客人と会うことは稀だった。家庭の不幸に遭うと、常に麻布の衣服を着てむしろに座り、新鮮な肉は食べず、朝庭内でなければ音楽を聞こうともしなかったため、武帝からよく称賛を受けた。宗室や朝臣の中で敬い模範とせぬ者はおらず、特に太子綱から一番の敬愛を受けた《梁23西昌侯淵藻伝》

 景は更に部将の徐相に晋陵を攻めさせた。太守の陸経3月14日参照)は郡と共に降伏した《出典不明》

●骨肉相食む

 これより前(太清二年〈548〉4月17日)、梁は河東王誉字は重孫。前太子蕭統の第二子。549年〈1〉参照)を湘州刺史とし、張纘字は伯緒。548年〈2〉参照)と代わらせた。また、纘を使持節・都督雍梁北秦東益郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・平北将軍・寧蛮校尉(梁34張纘伝)・雍州刺史とし、岳陽王詧サツ。字は理孫。前太子蕭統の第三子。嫡孫でもない蕭綱が太子となったことに不満を感じ、雍州で力を蓄えた。548年〈4〉参照)と交代させた。当初、湘州刺史とされるのは邵陵王綸の予定だったが、紆余曲折を経て結局誉が就任した。生来自尊心の高い纘は元来年少の誉を軽んじていたため、彼が州境に入った際、非常にそっけないもてなしをした。誉はこれを深く恨みに思い、州府に到ると病と称して纘と会わず、州府の庶事の調査を行なって、それが終わるまで出立させなかった。そのうち侯景が建康に到ると、誉は荊州刺史の湘東王繹や信州刺史の桂陽王慥ソウ。字は元貞)と共に救援に赴き、誉は江口に、慥は硤(西硤口?)を下って江津(江陵の東南二十里)に、繹は郢州の武城にまで進出した。やがて景が和を求め、武帝がこれに応えて班師(援軍撤退)の詔を下すと、誉らは鎮所に帰還を始めたが、桂陽王慥は自分が荊州都督府傘下であることを理由に、江津に留まり、繹に会ってから信州に還ろうとした。このとき、纘は誉・詧兄弟を葬ろうと企み、旧交のある繹に書を送ってこう言った。
「河東王が帆を張り、長江を西上して江陵を襲撃しようとしています。また、岳陽王も雍州にて兵糧を集め、挟み撃ちにしようと企んでいます。」 
 また、江陵遊軍主の朱栄もまた使者を派して繹にこう言った。
「桂陽王が留まっているのは、誉・詧兄弟に応ぜんがためでござります。」
 繹はこれを信じると、米を水に沈め、ともづなを斬って風のように長江をさかのぼり、次いで穴を開けて船を沈めたのち、間道(通鑑では『蛮族の居住地』)を通って江陵に馳せ戻った《南56張纘伝》。このとき慥は疑われていることは露知らず、依然として江津に駐屯していた。繹は慥を呼ぶと、優しい言葉をかけて油断させたのち、役所の中に抑留した。そこで初めて身の危険に気づいた慥は、口を極めて繹を罵った。すると繹は激怒し、慥を獄に入れて殺害した《南51桂陽王慥伝》。
 纘は間もなく配下を棄て、二人の娘と共に一艘の小船に乗り、江陵に赴いた(周48蕭詧伝には『侯景が建康に到った報に接すると、誉はそのどさくさに紛れて纘を大いに侮辱し続けた。纘はいずれ殺されると考え、ある日の夜、遂に小船に乗って逃亡した。〔纘は刺史とされていた〕雍州に行こうとしたが、詧が拒否するかもしれないというのが気がかりだった。そこで纘は旧交のあった繹に誉兄弟を殺させようと考え、江陵に赴いた』とある。また、『侯景が和を求め…』以後のできごとを台城陥落の後のこととしている。通鑑もこれに倣っている)《南56張纘伝》。

●南兗州、侯景に降る
 侯景は前臨江太守の董紹先もと譙州の助防で、侯景が攻めてくると内応した。549年〈1〉参照)を江北行台とし、武帝手製の勅書を持たせて南兗州(治 広陵)刺史の南康王会理を召還させに行かせた《梁29南康王会理伝》。
 壬午(27日)、紹先が広陵(南兗州)に到った時、その率いる兵は二百にも満たず、しかもみなこれまでの長い戦いで飢え疲れ果てていた。一方、会理の軍は意気甚だ盛んであった。属官たちは会理に説いて言った(梁29南康王会理伝)。
「都を陥とした景が次に狙うのは、諸藩を除き、外堀を埋めた後に帝位を簒奪することです。しかし、ここでもし諸藩が一致してこれに抵抗いたせば、〔その野望は潰え、〕景はたちどころに滅亡するのです。州を挙げて景に委ねる理はございません! ここは紹先を殺して城を堅く守り、魏と手を結んで形勢の変化を待つのがよろしいでしょう。」(南史には「紹先の書に書かれていることが天子の本意なわけがございません。」と言って反対したとだけある
 しかし、会理は元来懦弱な性格だったため《出典不明》、典籤の范子鸞の計を用いて(南53南康王会理伝)こう答えた。
「諸君らの考えと私の考えは違う。〔そもそも〕天子はいま囚われの身で、しかも高齢のだ。その天子が自らお書きになられた勅を、どうして臣下が違背することができようか。それに、都から遠い江北にいても〔天子をお救いする〕功業は成り難い。ゆえに、ここは〔召還に素直に応じたふりをして〕単身都に赴き、敵の懐で機を窺った方が良いように思う。〔もう何も言うな。〕私の腹は決まった。」
 かくて州城を紹先に明け渡した《梁29南康王会理伝》。紹先は州城に入ると、人々は敢えてこれに抵抗しようとはしなかった《出典不明》。會理の第六弟の安楽侯乂理字は季英)は先んじて建康に還ることを求め、姉の安固県主にこう言った。
「事態はここまで到りましたが、坐して一家全滅するつもりはございません! 私は天の意志がどうであろうと、必ず国のために行動を起こすつもりです。」《梁29安楽侯乂理伝》
 紹先は黒旗の直属部隊を引き連れて入城し、広陵の文武諸官の私兵・鎧武器・金目の物を全て接収し(出典不明)、会理を身一つで建康に赴かせた《南53南康王会理伝》。
 侯景は紹先を南兗州刺史とした。

●北兗州、東魏に降る
 これより前、前青冀二州刺史の湘潭侯退と北兗州(治 淮陰)刺史の定襄侯祇は前潼州刺史の郭鳳547年〈3〉参照)と共に建康へ救援に赴き、〔台城が陥落すると揃って北兗州に帰還していたが、〕ここに至って鳳が景に応じようとすると、二人はこれを抑えることができず、東魏に亡命した。侯景はそこで蕭弄璋武州刺史として邵陵王綸と共に建康の救援に赴いた。548年〈4〉参照)を北兗州刺史として派遣したが、州民の抵抗に遭うと、廂公(侯景は信頼の厚い者を左右廂公、勇猛な者を庫真部督と呼んだ)の丘子英に直閤将軍の羊海と組んで弄璋の助力をするよう命じた。しかし子英は羊海に叛かれて斬られ、海は配下の兵と共に東魏に降った。東魏はこれに乗って淮陰を占拠した《梁56侯景伝》。

 斛律平は寿陽・宿預など三十余城を攻略したのち、済州に帰還し、驃騎大将軍・開府・公とされた。

○北斉17斛律平伝
 侯景度江,詔平為大都督,率青州刺史敬顯儁、左衛將軍厙狄伏連等略定壽陽、宿預三十餘城。事罷還州,加開府,進位驃騎大將軍,進爵為公。顯祖受禪…。

●呉郡略奪
 癸未(28日)〈出典不明〉、侯景が儀同の于子悦・張大黒南26袁君正伝では『張太墨』)ら《梁56侯景伝》に、疲れ弱った兵数百を率いて(出典不明)東方の呉郡を攻略するよう命じた。精兵五千を率いる梁の新城(会稽の西)戍主の戴僧逷テキ、梁31袁君正伝では『戴僧易』)は太守の袁君正にこう説いて言った。
「賊はいま兵糧乏しく、台城内から得た兵糧をもってしても十日も持たぬ有様でございますゆえ、我らが門を閉じて抵抗すれば、賊兵はたちどころに餓死するでありましょう。」(出典不明
 しかし〔呉の〕土豪の陸映公陸襄〈535年(2)参照〉の兄の子)らは、敗れたさい財産を全て略奪されるのを恐れ、こう言った。
「賊軍の勢いは非常に盛んで、当たるべからざるものがあります。今もし門を閉じて抵抗いたしましても、民衆が付いてくるかどうか分かりませぬ。」
 君正は元来臆病な性格だったため、遂に映公らの意見を容れ、米・牛・酒を車に載せて郊外に出迎えた。すると子悦は君正を捕らえ(出典不明)、城内に押し入って金目の物や子女を略奪した。君正は後悔の余り病気になり、亡くなった《梁31袁君正伝》。東部の人々は〔景軍の蛮行を聞くと、〕各自砦を築いて抵抗の兵を挙げた。
 景は更に任約もと西魏の将軍。鍾山の戦いの際、逃げようとする侯景を励まして勝利に至らせた。549年〈2〉参照)を南道行台とし、姑孰を鎮守させた《梁56侯景伝》。

●方等危うし
 夏、4月、湘東世子方等が江陵に帰還した。方等は父の湘東王繹に台城が陥落したことを伝え《出典不明》、兵馬を集めるよう勧めた。繹がこれを許すと、方等は集めた部隊をよく統率してみせた。繹はそこでようやく方等の有能さに気付いた。方等はまた不慮の事態に備えて防備を強化するよう勧め、江陵から半径七里の地点に、七十余里に渡る柵と三重の堀を築いた。繹はその出来栄えを見て非常に喜び、方等の母の徐妃諱は昭佩。容姿が醜いだけでなく、嫉妬深く淫乱でもあったため湘東王繹に嫌われた。548年〈5〉参照)にこう言った。
「方等のような子がもう一人おれば、何の心配も無いのだが。」
 しかし徐妃はこれに何も答えず、〔喜ぶどころか却って〕泣いて奥に退がっていった。繹はその態度に気を害し、大門の前に徐妃の淫行ぶりを書き連ねた立て札を立てた。方等はこれを知ると、父に会う際ますます恐れの色を見せるようになった。

○資治通鑑
 夏四月,湘東世子方等至江陵,湘東王繹始知臺城不守,命於江陵四旁七里樹木為栅,掘塹三重而守之。
○梁44忠壮世子方等伝
 宮城陷,方等歸荊州,收集士馬,甚得眾和,世祖始歎其能。方等又勸修築城柵,以備不虞。既成,樓雉相望,周迴七十餘里。世祖觀之甚悅,入謂徐妃曰:「若更有一子如此,吾復何憂。」徐妃不答,垂泣而退。世祖忿之,因疏其穢行,牓于大閤。方等入見,益以自危。

┃援路遮断

 思政は〔関中と最短経路にある孔城が不作で苦しんでいるのを知ると、これを維持するため〕数百車に積んだ米を向かわせたが、北斉の大都督の破六韓常と洛州刺史の可朱渾宝願? 道元? 洛州刺史は破六韓常?)はこれを何度も迎え撃っては奪取していた。
 のち、常らは高澄に上申して言った。
「私は河陽を鎮守して以来、何度も関口(? )・太谷二道に出撃した事があるため、北荊以北・洛州以南の要害は知悉しております。太谷の南口は荊路(関口?伊闕口?)より去ること百五十里で、赤工坂(?)を経た所にあり、この荒道を賊は東西を行き来する大道として使用しており、その兵糧はただこの道を通って運ばれております。今もしかの地に城戍を築き、兵馬を置いて賊の咽喉(最短援路)を断てば、潁城(潁州城)の陥落は時間の問題となるでしょう。また、孔城以西は不作でありますので、東道が断絶〔して食糧が入ってこなくな〕れば、これらも維持できなくなるでしょう(関中から孔城一帯の間は山がちで、西方からの輸送は困難だった)。〔これぞ一石二鳥の策であります。〕」
 澄はこれを聞き入れ、大司馬の斛律金⑶・彭楽・可朱渾道元らを派遣して該地に楊志・百家・呼延の三鎮を築かせ、左廂大都督の張保洛に楊志塢を鎮守させ、陽州(宜陽、洛陽の西南)と相い呼応して西魏の最短の救援路を遮断するようにさせた。
 のち、金に高岳らと合流して潁川を攻めるよう命じた。

○北斉17斛律金伝
 世宗遣高岳、慕容紹宗、劉豐等率眾圍之。復詔金督彭樂、可朱渾道元等出屯河陽,斷其奔救之路。又詔金率眾會攻潁川。
○北斉19張保洛伝
 後出晉州,加征西將軍。王思政之援潁州,攻圍未克。世宗仍令保洛鎮楊志塢,使與陽州為掎角之勢。
○北斉27破六韓常伝
 累遷車騎大將軍、開府,封平陽公。除洛州刺史。常啟世宗曰:「常自鎮河陽以來,頻出關口,太谷二道,北荊已北,洛州已南,所有要害,頗所知悉。而太谷南口去荊路踰一百,經赤工坂,是賊往還東西大道,中間曠絕一百五十里,賊之糧饟,唯經此路。愚謂於彼選形勝之處,營築城戍,安置士馬,截其遠還,自然不能更有行送。」世宗納其計,遣大司馬斛律金等築楊志、百家、呼延三鎮。
○三国典略
 八二、周王思政固守潁川。思政運米數百車,欲向孔城,齊大都督破六韓常與洛州刺史可朱渾寶願前後要襲,獲之。乃啟於齊王澄曰:「常自鎮河陽已來,頻出關口、大谷二道,所有要害,莫不知悉。請於形勝之處營築城戍,安置士馬,截其往來。彼之咽喉既斷,潁城吞滅可期。且孔城以西,年穀不稔,東道斷絕,亦不能存。」王納其計。


 ⑴王思政…字は思政。太原王氏の出で、後漢の司徒の王允の後裔とされる。姿形が逞しく立派で、知略に優れていた。孝武帝と即位前から親しく、即位後は側近とされ、祁県侯・武衛将軍→中軍大将軍とされ、禁軍の統率を任された。高歓が帝と対立し洛陽に迫ると、関中の宇文泰を頼るよう帝に勧めて聞き入れられた。入関すると太原郡公・光禄卿・并州刺史とされ、更に散騎常侍・大都督を加えられた。帝が崩御すると樗蒲の遊戯の際に泰に至誠を示して気に入られた。537年、独孤如願らと共に洛陽を陥とし、538年の河橋の決戦の際には奮戦し、瀕死の重傷を負った。のち汾晋并三州諸軍事・并州刺史・東道行台とされると玉壁に注目し、ここに要塞を築いた。542年、高歓の侵攻を撃退した。この功により開府とされた。543年、邙山にて西魏軍が大敗を喫すると恒農を守備して東魏軍の追撃を防いだ。546年、行台尚書左僕射・荊州刺史とされた。547年、東魏の河南大行台の侯景が潁川にて叛乱を起こすと独断で救援に赴き、成功した。間もなく河南諸軍事とされて潁川を鎮守し、548年、大将軍とされた。9月、東魏の攻囲を受けた。
 ⑵破六韓常…字は保年。匈奴単于の末裔。代々領民酋長を務めた家の出。父の孔雀は破六韓抜陵の大都督・司徒・平南王→北魏(爾朱栄)の平北将軍・第一領民酋長・永安県公。冷静・聡明で度胸・知略があり、騎射に優れ、平西将軍とされた。爾朱栄が死ぬと河西の地に帰り、西魏に仕えて右衛将軍とされたが、536年に万俟受洛干と共に帰順して撫軍将軍とされ、のち開府・平陽公とされた。のち洛州刺史とされて河陽を鎮守した。
 ⑶太谷…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽の西南二十里)の東南五十里にある。大谷口ともいう。』
 ⑷斛律金…字は阿六敦。生年488、時に62歳。朔州勅勒部の人。父は第一領民酋長の斛律大那瓌。質実剛健、誠実で実直な人柄で、騎射が上手く、匈奴の兵法を戦いに用い、敵が巻き上げた土煙でその多寡を知ることができ、風が運ぶ臭いでその位置を測ることができた。漢字が苦手で、本名は敦といったが、敦の字を書くのが難しかったので簡単に書ける金に改名した。それでもまだ苦戦したが、司馬子如に金の字を家に見立てるよう教えられるとようやく書けるようになった。初め懐朔鎮将の楊鈞の軍主となり、柔然主の阿那瑰を故地に送った時、射術の巧みさを感嘆された。のち阿那瑰が高陸に侵攻するとこれを撃破した。破六韓抜陵が叛乱を起こすと部衆を率いてこれに付き、王とされた。のち部衆一万戸と共に抜陵に背いて北魏に付き、第二領民酋長とされた。間もなく杜洛周に敗れて爾朱栄のもとに逃れると別将とされた。のち都督とされた。孝荘帝が即位すると阜城県男とされた。のち葛栄・元顥戦に功を立てて鎮南大将軍とされた。高歓が爾朱氏に叛く際賛同し、歓が鄴を攻める際は恒雲燕朔顕蔚六州大都督とされて信都の留守を任された。のち韓陵の決戦では歓を救う大功を立てた。のち爾朱兆討平に加わった。532年、汾州刺史・当州大都督・侯とされた。のち紇豆陵伊利討伐に加わった。534年の鄴遷都の際には三万を率いて風陵渡を鎮守し、西魏の攻撃に備えた。沙苑の敗北の際には歓の馬を鞭で叩いて歓を無理矢理撤退させた。敗北後は東雍州の奪還に活躍した。河橋の決戦の際には河東に進軍し、晋州に到った所で西魏軍が撤退したのを知ると喬山の賊を討平し、南絳・邵郡などを陥とした。邙山の決戦の際には数万を率いて河陽城を守備した。間もなく大司馬・石城郡公・第一領民酋長とされた。545年、南道軍司とされて歓と共に山胡を討った。帰還すると冀州刺史とされた。546年、歓と共に玉壁を攻め、歓が病床に臥すと勅勒歌を歌って慰めた。歓の臨終の際、「勅勒の長老で剛直な人柄ゆえ、最後までお前(高澄)に背かぬ」「お前(澄)は漢人を多く用いているが、彼らが金を讒言してきても信じるでないぞ」と評された。高澄が跡を継ぎ侯景が叛乱を起こすと河陽を守備した。帰還すると肆州刺史とされた。
 ⑸楊志塢…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽)の東南百四十里→登封県の西北にある。』
 ⑹斛律金伝では西魏が侯景を救援した547年6月頃の事だとしている。三国典略の記述と食い違う。


┃潁川、糧力共に尽く

 東魏の大尉・河南総管・大都督の高岳・南道行台の慕容紹宗・儀同の劉豊ら(梁の北伐軍や侯景を撃ち破った。548年〈2〉参照)は去年の9月より西魏の潁川を攻めていたが、一年経った今になっても未だ陥とせずにいた。東魏の大将軍の高澄も間断無く増援を送ってはいたものの、効果は無かった。
 高岳はそこで劉豊許季良の建策を容れ、洧水[1]を堰き止めて水攻めを行なった。この時正体不明の獣がよく堰を突き崩したが、それでも城壁は長く水を灌がれ続けた影響で多くの箇所が損壊した。岳は〔そこを狙い、〕兵を分けて代わるがわる攻撃させた[2]。昼夜間断無い猛攻は十日にわたって続けられた。これに対し、西魏の河南諸軍事・大将軍の王思政は自ら矢面に立ち、士卒と労苦を共にして〔抵抗を続けた〕。このときちょうど平地に三尺も積もる大雪が降り、〔岳軍内は〕数え切れないほどの戦死・凍死・餓死者で溢れた。岳はそこで〔水勢を更に強めるため、〕堰を〔大規模に〕改修し直した。その際、岳は水神の心を鎮めるために、獣を入れた鉄籠を水中に落として生贄とした。その結果、堰は無事完成し、洧水の水は奔流となって潁川城を襲った。すると城中は水で溢れ、人々は釜を高い所に釣り上げて煮炊きをする羽目となり、やがて兵糧も気力も底をついてしまった。
 これより前、潁川には『大魚が道の上を泳ぐ』という根も葉もない噂が流れ、民衆は心を痛めていた。現在、水攻めが行なわれると、果たして噂の通り道の上に魚や亀が泳ぐようになったのであった。

 この年の春、西魏の太師の宇文泰は大将軍の趙貴宇文泰が賀抜岳の遺衆を接収するのに非常な貢献をした。河橋・邙山では共に失態を演じ、一時免官に遭った。548年〈2〉参照)を援軍として派遣した。貴は東南諸州の兵を指揮して救援に向かったが、潁川以北が全て湖のようになっていたため、穰城(荊州。襄城?)に着いた所で立ち往生することとなった。

○資治通鑑
 東魏高岳等攻魏潁川,不克。大將軍澄益兵助之,道路相繼,踰年猶不下【去年四月,高岳等攻潁川。】。山鹿忠武公劉豐生建策,堰洧水以灌之,城多崩頹,岳悉衆分休迭進【言分兵為十數部,甲休則乙進,乙休則丙進,丙休則丁進,至於癸休,則甲復進矣;攻者得番休而應者不勝其勞也】。王思政身當矢石,與士卒同勞苦,城中泉涌,懸釜而炊。
○周文帝紀
 十五年春,太祖遣大將軍趙貴帥軍至穰,兼督東南諸州兵以援思政。高岳起堰,引洧水以灌城,自潁川以北皆為陂澤,救兵不得至。
○周16趙貴伝
 拜御史中尉,加大將軍。東魏將高岳、慕容紹宗等圍王思政於潁川,貴率軍援之,東南諸州兵亦受貴節度。東魏人遏洧水灌城,軍不得至。
○周18・北62王思政伝
 齊文襄更益嶽兵,堰洧水以灌城。〔時雖有怪獸,每衝壞其堰。然城被灌已久,多亦崩頹。岳悉眾苦攻。思政身當矢石,與士卒同勞苦。岳乃更修堰,作鐵龍雜獸,用厭水神。堰成,水大至。〕城中水泉涌溢,不可防止。懸釜而炊,糧力俱竭。
○北斉17斛律金伝
 世宗遣高岳、慕容紹宗、劉豐等率眾圍之。復詔金督彭樂、可朱渾道元等出屯河陽,斷其奔救之路。又詔金率眾會攻潁川。
○北斉19張保洛伝
 後出晉州,加征西將軍。王思政之援潁州,攻圍未克。世宗仍令保洛鎮楊志塢,使與陽州為掎角之勢。
○北斉27・北53劉豊伝
 王思政據長社,世宗命豐與清河王岳攻之。豐建水攻之策,遂遏洧水以灌之。〔先是訛言大魚道上行,百姓苦之。豐建水攻策,遏洧水灌城,〕水長,魚鱉皆游焉。
○北斉27破六韓常伝
 累遷車騎大將軍、開府,封平陽公。除洛州刺史。常啟世宗曰:「常自鎮河陽以來,頻出關口,太谷二道,北荊已北,洛州已南,所有要害,頗所知悉。而太谷南口去荊路踰一百,經赤工坂,是賊往還東西大道,中間
○北斉43許惇伝
 引洧水灌城,惇之策也。
○通典14兵
 岳悉眾苦攻,分任迭進,一旬之中,晝夜不息。思政身當矢石,與士卒同勞苦。又屬大雪,平地三尺,眾斃於鋒刃及凍餓死者不可勝數。
○三国典略
 六一、東魏慕容紹宗、高岳等堰洧水以灌穎川。時有怪獸,每衝壞其堰。岳等悉眾苦攻,分休迭逆。王思政身當矢石,與士卒同其勞苦,屬以大雪,岳眾多死,岳等乃作鐵龍雜獸,用厭水神。
 八二、周王思政固守潁川。思政運米數百車,欲向孔城,齊大都督破六韓常與洛州刺史可朱渾寶願前後要襲,獲之。乃啟於齊王澄曰:「常自鎮河陽已來,頻出關口、大谷二道,所有要害,莫不知悉。請於形勝之處營築城戍,安置士馬,截其往來。彼之咽喉既斷,潁城吞滅可期。且孔城以西,年穀不稔,東道斷絕,亦不能存。」王納其計。

 ⑴高岳…字は洪略。生年512、時に38歳。高歓の父の弟の高翻の子。母は山氏。四貴の一人。温和・正直・孝行者で、立派な容貌をしていた。歓に仕えて武衛将軍とされ、韓陵の戦いでは右軍を率い、高歓の危機を救った。のち領左右衛・清河郡公とされ、母の山氏も郡君・女侍中とされた。爾朱兆討伐の際には洛陽の留守を任された。のち儀同三司とされた。535年、六州軍事都督とされ、間もなく開府を加えられた。賢人を幕僚に採用し、称賛を受けた。のち六州大都督→京畿大都督とされ、晋陽に居を構える歓に代わって鄴など山東の軍事・政治を任された。539(8?)年、母が亡くなると痩せ細った。のち兼領軍将軍とされた。540年、高澄が山東の政治を覧るようになると、冀州刺史とされた。541年、青州刺史とされた。543年、晋州刺史・西南道大都督とされた。このとき病気に罹っていて、治ってから赴任した。547年、高歓が亡くなると高澄に代わって大軍を指揮し、梁軍・侯景軍を撃破した。548年、功により大尉とされた。のち河南総管・大都督とされて潁川の王思政を討伐した。
 [1]洧水…水経注曰く、洧水は〔滎陽郡〕密県の西南にある馬領山より東南に流れ、長社県(潁川)の北を過ぎる。
 [2]兵を十数部隊に分け、甲が休めば乙が進み、乙が休めば丙が進み、丙が休めば丁が進み、癸(十番目、もしくは最後の部隊)が休めば甲が再び進む戦法。こうすれば、攻める者は交代交代で休むことができるが、守る者は間断なく攻撃を受け、疲れ切ってしまうのである。
 ⑵楊志塢…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽)の東南百四十里→登封県の西北にある。』

●能吏・許季良
 許季良は高陽新城(定州の東北百五十里→保定府の東北百五十里。瀛州に属する)の人で、本名を惇といい、季良は字である。〔北〕魏の高陽・章武二郡太守(魏書では州主簿)の許護の第五子である。許家の人々はみな学業と品行に優れ、仲が良く、三世代が一緒に暮らした。
 季良は高い見識を持ち、頭の回転が速く、優れた行政手腕を持っていた。また、帯まで届く長く美しいひげを蓄えていたため、『長鬣(あごひげ)公』と呼ばれた。
 司徒主簿とされると思い切りのいい判断で名を上げ、『入鉄主簿』(鉄のような芯を持った主簿?)と呼ばれた。のち、次第に昇進して陽平(鄴の東北)太守とされた。陽平郡は畿内にあったため、何かにつけて国家や勲貴から取り立てを受けたが、季良が道義を旨とし、真摯に対応したため、国家・勲貴も郡民も不満を抱かなかった。季良がここで天下第一の治績を挙げると、朝廷はこれを褒め称え、門前に図形を描き、天下に頒布した。のち魏尹(都知事)→斉州刺史(侯景が東魏に叛いた時)→梁州刺史とされ、どこでも優秀な政績を挙げた。のち、大司農(国の倉庫の管理官)とされた。王思政討伐の際、季良は常に補給を担当し、兵糧を途絶えさせなかった。

○北斉43・魏46許惇伝
 許惇,字季良,高陽新城人也。父護,魏高陽、章武二郡太守。〔子恂,字伯禮,頗有業尚,閨門雍睦,三世同居,吏部尚書李神儁常稱其家風。〕惇清識敏速,達於從政,任(位)司徒主簿,以能判斷(明斷),見知時人,號為入鐵主簿。稍遷陽平太守。當時遷都鄴,陽平即是畿郡,軍國責辦,賦斂無准(準),又勳貴屬請,朝夕徵求。惇並御之以道,上下無怨。治為天下第一,特加賞異,圖形於闕,詔頒天下。遷魏尹,出拜齊州刺史,轉梁州刺史,治(政)並有〔治〕聲。遷大司農。會侯景背叛,王思政入據潁城,王師出討,惇常督漕,軍無乏絕。引洧水灌城,惇之策也。…惇美鬚髯,下垂至帶,省中號為長鬣公。

┃怡峯の死
 この年趙貴と共に思政の救援に赴いていた東西北三夏州諸軍事・夏州刺史の怡峯字は景阜。537年に五百騎で東魏の大軍を撃破して名を揚げ、546年には宇文仲和の乱を平定した。546年〈1〉参照)が南陽にて病没した(享年50)。

 峯は沈着果断で知勇を兼ね備え、士卒の心をよく摑んで、当時の人々から驍将と謳われた。泰は峯の訃報を聞くと長い間嘆き悲しみ、その死を悼んだ。華州刺史を追贈し、襄威公と諡した。

○周17怡峯伝
 十五年,東魏圍潁川,峯與趙貴赴援。至南陽,遇疾卒,時年五十。峯沉毅有膽略,得士卒心,當時號為驍將。太祖嗟悼者久之。贈華州刺史,諡曰襄威。


┃水厄
 ここにおいて慕容紹宗・劉豊、部将の慕容永珍らの心には余裕が生まれ、共に楼船に乗って城内の様子を見物し、弓の上手い者に矢を射かけさせた。しかし一方で、紹宗はここ暫く頻りに悪夢を見ていたことで常に鬱々としていた。ある時、紹宗は密かに左右の者にこう漏らした。
「わしは二十を越えてから常に白髪があったが、昨日突然全て抜け落ちてしまった。これを理詰めで考えれば、白髪(蒜、サン)は算(サン)に通じるゆえ、我が命数()が尽きるのを暗示しているように思うのだが。」
 間もなく紹宗は劉豊と共に堰の視察に赴いた。その時、東北の方向から竜巻が迫ってくるのが見えたため、二人は慌てて船に避難した。間もなく暴風がやってくると、周りは巻き上げられた砂で真っ暗になり、ともづなはたちまち断ち切られ、船は一直線に潁川城へ流された。城壁の上の兵士はこれを見るや、長鉤を用いて船を引き寄せ、弓弩を乱射した。進退窮まった紹宗は水に飛び込んで死に(享年49)、豊は〔攻城用に城の近くに築いていた〕土山を目指して泳いだが、波が激しくて早い内に辿り着けず、矢に当たって死んだ(北斉27劉豊伝では長鉤に捕らえられ、紹宗と共に殺されたとある)。
 紹宗は使持節・二青二兗斉済光七州軍事・尚書令・太尉・青州刺史を追贈され、景恵公と諡された。豊は大司馬・司徒公・尚書令を追贈され、忠武公と諡された。
 西魏軍は更に慕容永珍を生け捕りにし、船中にあった武器も鹵獲した。思政は永珍と会うとこう言った。
「我が破滅は時間の問題であり、卿を殺しても何も変わらぬ。しかし、人臣の節(この場合、虜囚の辱めを受けないこと?)というものは死を賭してでも守らなければならないものなのだ。」
 かくて涙を流しながらこれを斬り、回収していた紹宗らの遺体と共に丁重に埋葬した。

 これより前、紹宗は自分には水難の気があると感じており、その厄を払うために戦艦の中で入浴をしたり、自ら水に飛び込んだりしていた。すると開府主簿・兼行台郎中の房豹字は仲幹)が紹宗にこう意見して言った。
「そもそも寿命というのは天が定めていることであり、人がどうこうできるものではありません。本当に水難の気があるなら、厄払いなどしても無駄で、無い場合でもまた無駄です。〔そんなことをするくらいなら、〕明公は今三軍の指揮権を握っておられるのですから、その職務の遂行に集中した方がまだためになるというものです。また、船に乗りながら水厄云々と仰るくらいなら、なぜ陸上で指揮をとらぬのですか。私はその方がよっぽど万全のように思います。」
 紹宗はこれを聞くと笑ってこう言った。
「俗なお主に、わしの崇高な志は分かるまい。」
 間もなく紹宗が溺死すると、豹は微かな兆候で事の成り行きを予知できる者だという評価を受けた。

○魏孝静紀
 夏四月,大行臺慕容紹宗、大都督劉豐遇暴風,溺水死。
○周18・北62王思政伝
 慕容紹宗、劉豐生及其將慕容永珍〔意以為閑,〕共乘樓船以望城內,令善射者(人)俯射城中。俄而大風暴起,船乃飄至城下。城上人以長鈎牽船,弓弩亂發。紹宗窮急,投(透)水而死。豐生浮向土山,復中矢而斃。生擒永珍〔,并獲船中器械〕。思政謂之(永珍)曰:「僕之破亡,在於晷漏。誠知殺卿無益,然人臣之節,守之以死。」乃流涕斬之。并收紹宗等尸,以禮埋瘞。
○北斉20慕容紹宗伝
 時紹宗頻(數)有凶夢,意每惡之。乃私謂左右曰:「吾自〔數〕年二十已還,恒有蒜髮,昨來蒜髮忽然自盡。以理推之,蒜者算也,吾算將盡乎?」未幾,與豐臨堰,見北有塵氣,乃入艦同坐。暴風從東北來,遠近晦冥,舟纜斷,飄艦徑向敵城。紹宗自度不免,遂投水而死,時年四十九。三軍將士莫不悲惋,朝廷嗟傷。贈使持節二青、二兗、齊、濟、光七州軍事,尚書令,太尉,青州刺史,諡曰景惠。
○北斉27・北53劉豊伝
 九月至四月,城將陷。豐與行臺慕容紹宗見北有白氣,同入船。忽有暴風從東北來,正晝昏暗,飛沙走礫,船纜忽絕,漂至城下。豐游水(豐拍浮)向土山,為浪所激,不時至,西人鈎(鉤)之。並為敵人所害。豐壯勇善戰,為諸將所推。死之日,朝野駭惋。贈大司馬、司徒公、尚書令,諡曰〔武〕忠。
○北斉46房豹伝
 房豹,字仲幹,清河人。祖法壽,魏書有傳。父翼宗。豹體貌魁岸,美音儀。釋褐開府參軍,兼行臺郎中,隨慕容紹宗。紹宗自云有水厄,遂於戰艦中浴,並自投於水,冀以厭當之。豹曰:「夫命也在天,豈人理所能延促。公若實有災眚,恐非禳所能解,若其實無,何禳之有。」紹宗笑曰:「不能免俗,為復爾耳。」未幾而紹宗遇溺,時論以為知微。


●その時に非ず
 甲辰(4月19日)、東魏が大将軍・勃海王の高澄を相国・斉王とし、緑綟綬を用いて官印(官吏の身分証明のためのしるし)を下げることや、謁見の際に姓名を呼ばれず、官職名だけを呼ばれること(賛拝不名)、謁見の際に小走りをしないこと、(入朝不趨)、剣や靴を身に着けたまま昇殿することを許した(剣履上殿)。また、食邑に冀州の勃海・長楽・安徳・武邑と瀛州の河間五郡を加増し、合計十五万戸とした。使持節・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台の官についてはそのままとした。
 丁未(22日)、澄は鄴の朝廷に参内し、固辞したが許されなかった。澄がそこで将軍や幕僚たちを呼んで密かにこれを諮ったところ、みなこう言った。
「この機に乗じ、一気に皇帝となられませ。」
 しかし、ただ散騎常侍・大行台左丞の陳元康のみは反対の立場を取り、魏収にこう言った。
「他の者たちの言葉は王を誤らせるものだ。私はとっくの昔に王に皇帝になるよう勧めているし、〔王が皇帝になり、〕百官が置かれれば黄門侍郎の位を得られるとは思う。しかし、まだその時では無いのだ。」
〔澄は元康の反対を不満に思った。〕度支尚書・監国史・兼右僕射の崔暹はこの機会に二人の仲を引き裂こうとし、また陸元規を大行台郎とするよう勧めて、元康の権力を弱めようとした。このころ、澄は金にがめつい元康を次第に嫌うようになっており、元康も害を恐れて距離を置くようになっていた。澄は元康を閑職の中書令に追いやろうと考えていたが、まだ実行せずにいた。

○魏孝静紀
 甲辰,詔以齊文襄王為相國、齊王,綠綟綬,讚拜不名,入朝不趨,劍履上殿,食冀州之勃海、長樂、安德、武邑,瀛州之河間五郡,邑十五萬戶,餘如故。王固讓。
○北史北斉文襄紀
 七年四月甲辰,魏帝進文襄位相國,...邑十五萬戶,使持節、都督中外諸軍事、錄尚書、大行臺並如故。丁未,文襄入朝,固讓,魏帝不許。
○北斉24陳元康伝
 初魏朝授世宗相國、齊王,世宗頻讓不受。乃召諸將及元康等密議之,諸將皆勸世宗恭應朝命。元康以為未可。又謂魏收曰:「觀諸人語專欲誤王。我向已啟王,受朝命,置官僚,元康叨忝或得黃門郎,但時事未可耳。」崔暹因間之,薦陸元規為大行臺郎,欲以分元康權也。元康既貪貨賄,世宗內漸嫌之,元康頗亦自懼。又欲用為中書令,以閑地處之,事未施行。
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 ⑴高澄...字は子恵。時に29歳。高歓の長子で、女好きの美男子。治世の才に優れ、16歳の時から鄴の政治を良く取り仕切った。ただ、厳格に法を執行したことで勲貴の心証を害し、侯景の離反を招いた。549年(3)参照。
 ⑵緑綟綬...後漢書輿服志下曰く、『相国は緑綬を付ける。』注曰く、『綟は草の名であり、これを用いて染めると緑に似た色になる。』大漢和辞典では綟綬を『かりやす草で染め〔てでき〕た萌黄色の〔綾〕絹で作った丞相の服飾(ひも)』とする。
 ⑶陳元康...字は長猷。孫搴に代わり、高歓父子から非常な信任を受けた。547年(3)参照。
 ⑷魏収...字は伯起。時に43歳。大学者で文才にも優れたが、性格に難があった。のち、魏書を編纂した。548年(2)参照。
 ⑸崔暹...字は季倫。高澄の腹心で、司馬子如ら勲貴を弾劾した。547年(1)参照。
 

 549年(4)に続く