[西魏:大統十五年 東魏:武定七年 梁:太清三年]


●鶏子
 武帝は常に粗食を食べて過ごしていたが、包囲が長期に及んで御厨房の食材が全て無くなると、今度は鶏卵を食べるようになった。救援軍との交通が暫し許され、邵陵王綸字は世調。武帝の第六子。白昼堂々人を殺害させた事がある。549年〈1〉参照から数百個の鶏卵が献じられてくると、武帝は涙にむせびながらそれを手ずから料理した《出典不明》
 
●湘東王繹進まず

 都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・荊州(治 江陵)刺史の湘東王繹字は世誠。武帝の第七子。時に41歳。548年〈5〉年参照)が郢州(治 江夏)の武成(通鑑では『武城』、江夏の東北)に、湘州(治 長沙)刺史の河東王誉前太子蕭統の第二子。548年〈4〉参照が巴陵(洞庭湖東北。通鑑では青草湖、洞庭湖東南にある湖)に、〔前〕信州(治 巴東白帝)刺史の桂陽王慥ソウ。字は元貞。武帝の兄・長沙宣武王懿の孫)が江津(江陵の江津戌? 通鑑では西峽口、夷陵付近)にそれぞれ進軍したが、みな四方の援兵を待つと言ってそこから動かなくなった。
 硬骨の士である中記室参軍の蕭賁武帝の弟・臨川靖恵王宏の第五子・正立の子の建安侯賁とは別人?)は繹がなかなか東下しないのを不満に思っており、繹と双六(バックギャモンに似る)をした時、繹が〔梟の駒で賁の〕駒を取り除くことができるのに、迷ってそれをしないでいる(原文『食子未下』)【戦国策曰く、博戯で梟〔の駒〕が尊ばれるのは、状況に応じて〔敵の駒を〕食べたり(一時的に取り除く)止まったりすることができるからである】のを見てこう言った。
「殿下は全く東下する意志がありませんな。」
 繹はこれを深く恨みに思った。
 そして現在、繹が停戦の勅を受け取って軍を返そうとすると、賁はこう言った。
「景は人臣の身分で兵を宮城に向けた者で、〔罪が赦されぬのは明白です。〕そのような者が命令通り兵を解けば、長江を北渡する前に容易に料理されてしまうでしょう。景が兵を解くはずはありません。翻って、今、大王は十万の大軍を率いながら、賊に一度もまみえることなく返ろうとされていますが、それは何故なのですか!」
 繹はこの言葉を根に持ち、間もなく事にかこつけて賁を殺してしまった《南80侯景伝》

 ⑴武城…《読史方輿紀要》曰く、『黄陂県の東南にある。またの名を武口城という。梁の湘東王繹が留まって進まなかったのがこの地である。』

●硬骨の士・司馬裔
 この年、西魏の丞相の宇文泰時に43歳)は、山東より西魏に付いた諸将の中で、兵を率いて入関した者に手厚い賞賜を与えた。
 これより前、北徐州刺史・領河内郡守・都督の司馬裔字は遵胤。537年に河内温城と共に西魏に付き、以降その方面の経略を任された。547年〈4〉参照は千戸を率いて入関していたため、泰はこれに爵位を授けようとした。すると裔は固辞して言った。
「鄉里や親戚を捨ててまで天子のもとに馳せ参じさせたのは、私ではなく、彼らの真心です。いま爵位をいただくと、私は義士を出汁にして栄達を求めた男になります。私はそのような真似はしたくありません。」
 泰はその言葉に感じ入り、爵位を授けるのをやめた。泰は裔を帥都督とし、その妻の元〔氏?〕を襄城郡公主とした(原文『拜其妻元為襄城郡公主』)〈ここにこの記事が配されている理由は不明《周36司馬裔伝》

●攻撃を続行せよ
 侯景たちは既に多くの有利な情報を得ていた。一つは、梁の援軍の統制が乱れていて、朝廷を救う力の無いこと。二つは、台城内の死者や病者が増加していて、内応者が出てくる可能性が極めて高くなったこと。三つは、湘東王繹らの兵が引き返したことである。一方、景たちは既に東府城の米を石頭城に運び終わっていた(南80侯景伝)。
 そこで左丞の王偉景の軍師。偽りの和議を求めるよう進言した。549年〈1〉参照が景にこう説いて言った。
「王は人臣の身を以て勝手に兵を挙げ、皇宮を包囲し、妃主を陵辱し、宗廟を蹂躪しました。王の犯した罪は、その髪を全て抜いても数え上げられぬほどです【史記范雎列伝の須賈の言を用いたのである】。その王を受け入れる場所がどこにありましょう! 盟約に背いて勝利を得た例は古より多くあります。しばし静観し、形勢が変わるのを待たれては如何でしょうか。」《梁56侯景伝》
 正平帝臨賀王正徳。武帝の弟の子。侯景と内応の密約を結び、建康に引き入れた見返りに皇帝とされた。548年〈4〉参照もまた景にこう言った。
「大業成就まであと一歩なのに、どうしてこれを棄てて去ろうとするのか!」《出典不明》
 
●武帝批判
 侯景はそこで上奏文を提出し、武帝の過失を十個数え上げて言った。
『陛下は高氏(東魏)と一紀以上(一紀は12年。国交を結んだのは536年)に渡る友好関係を結びながら、臣が汝・潁の地と共に帰順してくると目が眩み、聘問の使者(徐陵ら)がまだ河北から帰らぬ内に一方的に国交を断ち、高澄を罵倒する檄文を発して彭・宋の地に侵攻なされました。そもそも万乗の国の主とあろう者が、目先の利益に義を忘れてよいものでしょうか。これが陛下の一番目の過失であります。
 臣が帰順すると、陛下は臣に上将の位・征伐の専断権・女楽団・車服弓矢を与えられました。臣はこれに感激し、必ずや冀・趙の地にはびこる劉夷(匈奴、異民族。東魏)を討滅し、陛下に泰山にて封禅の儀を行なわせてさしあげたいと考えたものです。しかるに陛下は臣に征伐を一任できず、臣には河北だけを任せ、自らは徐州の地を攻め取ろうとされました。しかも、陛下はその総督に無能惰弱の貞陽侯淵明)を、将軍に驕傲貪婪な胡貴孫寒山の戦いの際、孤軍奮闘して捕らえられた。547年〈3〉参照)・趙伯超騎射に優れ、陳慶之・韋放らとともに北魏の渦陽を陥とした。寒山の決戦では東魏軍に怖気づき、戦わずに逃走した。鍾山の決戦においても侯景軍に怖気づいてすぐ逃走し、梁軍大敗のきっかけを作った。549年〈1〉参照を起用したのです。その結果、貞陽侯らは敵の旗鼓を見聞きしただけで逃げ散り、慕容紹宗東魏の将軍。548年〈2〉参照)を勢いに乗せてしまいました。これによって渦陽にいた臣の軍は壊滅し、妻子は屠戮せられることとなりました。これが陛下の二番目の過失であります。
 このとき紹宗の勢いは非常に強大で、今にも長江を渡河しようとしていました。しかるに、寿陽を守っていた韋黯梁の名将韋叡の子。もと南豫州刺史。侯景の寿陽入城を許した。548年〈5〉参照の兵は一旅(五百人)もありませんでした。もし臣が淮南(寿陽)に退いて守りを固めなければ、どのような事態になったか分かりません。結局、間もなく〔紹宗は〕逃走して国境は落ち着きを取り戻し、陛下は臣を寿陽の州(南豫州)の刺史と為し、国家防衛の任を託されました。臣はそこで残兵を集め、軍を整え、いつの日か高氏と再び一戦を交えて勝ち、韓()山の遺体を収容し、渦陽の恥を雪がんと意気込んでおりました。しかるに、陛下は間もなく戦意を喪失され、防衛する気概さえ喪い、軽々しく貞陽侯の妄言を信じ、再び友好を求めようとされました。臣はこのとき何度も上奏して反対したのですが、陛下は遂に聞き入れませんでした。このような変節は童子ですら恥じるものであり、人々の上に立つ君主なら尚更やって良いことではありません。これが陛下の三番目の過失であります。
 そもそも敵に怯えてすぐに逃げたり、進もうとしない将軍に対しては、古来より執るべき法が決まっております。むかし、子玉楚の令尹の成得臣の字)は小さな敗北を喫しただけで逃走した結果、自殺に追い込まれ、王恢前漢の将軍)は匈奴の大兵力に怯えて進まなかったため、これまた自殺に追い込まれました。そして今、貞陽侯は数万の精兵と山のような武器を擁しながら、紹宗の薄弱なる軍が来襲するとたちまち敗北し、虜囚の身となりました。かような醜態を晒した者は、いくら皇帝の甥といえど、籍から除外され、殺されて血を祭鼓に塗られるのが当然です。しかるに陛下は一度たりとも彼を責めず、むしろそのいつ殺されるか分からぬ境遇を憐れみ、あろうことか臣の身柄と交換しようとなされました。人君たる者がかように法を扱ってよいものでしょうか? これが陛下の四番目の過失であります。
 懸瓠(豫州汝南)は大藩であり、古では汝・潁と呼ばれた地であります。臣がこの州と共に帰順した時、羊鴉仁字は孝穆。司州刺史。548年〈5〉参照は頑なに州内に入ろうとせず、ようやく入ったかと思えば、何の理由も無しに放棄して逃げ出しました。しかるに陛下は一度たりとも彼を責めず(責められている)、依然として彼を北司州刺史の官に居らせました(柳仲礼と交代した)。これが陛下の五番目の過失であります。
 臣が渦陽にて退却の憂き目に遭ったのは、前に申し述べました通り陛下の責任でありましたのに、陛下と朝臣は皆あべこべに臣の責任といたしました。しかし、臣は命からがら寿春()に逃げ込んだ後でも〔帰順を〕悔やむことなく、変わらずに朝廷を敬い続けました。しかるに鴉仁めは州を放棄した罪が明らかになると恐れを抱き、〔非難の矛先を臣に変えるために〕臣が叛こうとしていると誣告いたしました。臣にはそのような形跡も証拠も全く無かったのに、陛下は一度も詳しく調べることもせず、これを信じられました。これが陛下の六番目の過失であります。
 趙伯超は無能中の無能で、刺史(譙州刺史)という重職に就いても住民から搾取することばかりに血道を上げ、しかもそれで集めた財貨を権力者への賄賂に用いました。朱异らはこれを受けると、陛下に胡・趙はいにしえの猛将の関羽・張飛に匹敵すると吹聴し、ご判断を狂わせました。のち、伯超は韓山に赴くさい妓女を同伴し、敵の軍鼓が聞こえてくると貞陽侯が来るのを待たず、愛妾と共に一目散に逃亡して軍の大敗北を招きました。その罪は実に九族誅滅に当たるものでありましたが、伯超はここでも賄賂を使って朝廷の要人に働きかけ、何のお咎めもなく刺史の任に復しました。賞罰に公明正大さが無ければ、国家を治めることはできません。これが陛下の七番目の過失であります。
 臣は寿陽に入ると、いつも通り部下を厳しく取り締まって略奪を許さず、市場に関する税も全て撤廃したため、住民たちからすこぶる支持を得ました。しかるに、助戍(与力?)を命じられていた裴之悌裴之高の第六弟)らは臣の取り締まりを恐れ憚り、勝手に逃亡しただけでなく、あろうことか臣が叛乱を計画していると誣告いたしました。しかるに陛下は之悌らの職務放棄を咎めることなく、かえって次第に讒言を信じていかれました。このように扱われて安穏としていられる臣下がどこにおりましょうか。これが陛下の八番目の過失であります。
 臣の才能は古人より劣りますが、若輩の頃より非常に多くの経験を積んできたため、政・軍ともに老年に至るまで殆ど遺漏がありませんでした。ところが、聖朝に帰順して以降は、まごころを込めた建言のことごとくが取り上げられませんでした。これも全ては、軍権を握る朱异中書舍人・中領軍で、武帝の寵臣。549年〈1〉参照)や、兵器製造を統べる周石珍制局監。549年〈1〉参照)、軍糧を司る陸験太子右衛率。548年〈3〉参照)・徐驎少府卿。548年〈3〉参照)ら、堂々と賄賂を求める輩たちの認可を経なければ実施されぬからであります。境外の事は将軍の任命や作戦の発動に至るまで、全て舍人たちのいる役所(中書省)で決められるからであります。臣は彼らに一度たりとも賄賂を贈らなかったため、常に建言が取り上げられずに終わったのです。〔このような状況を形成したのは陛下です。〕これが陛下の九番目の過失であります。
 管轄区域が接している鄱陽王)に対し、臣は彼が皇族であることを以て常に尊敬の態度で接してきました。しかるに嗣王()は無能・臆病で、妄りに防御を為し、臣が叛こうとしていると言い広めたり、上奏を行なって臣の些細な悪所をあげつらったりしました。帰順者を招くには礼を以てせねばならぬのに、〔この仕打ちはなんでありましょうか。〕いくら忠烈を抱いていたとしても、これに耐えることはできぬでしょう。〔このような状況を看過したのは陛下です。〕これが陛下の十番目の過失であります。』
 またこう言った。
『臣は偽朝に育って〔礼を知らぬ〕ため、単刀直入に申し上げます。陛下は耳に心地いいものばかりを信じて真実を聞くのを嫌い、怪異を以て吉祥とし、天災があっても反省することがありませんでした。
 六経に公式な註解を付け、他説を排したのは王莽新初代皇帝)、鉄を貨幣とし(523年参照)、物の価値をころころと変えたのは公孫述新末の群雄の一人)、官爵を濫授し、朝廷内の綱紀を失わせたのは、更始帝・趙王倫が行なったことと同じでした【漢の更始帝は官爵を濫授し、〔料理人のような者にも官位を与えたので、〕長安の人々にこう陰口された。「羊の胃を炙れば騎都尉、羊の頭を炙れば関内侯。」西晋の趙王倫は帝位を簒奪すると一族に高い官爵を濫授した。すると人々はこのままではいずれ冠を飾る貂の尾が不足し、犬の尾を代わりにするようになるだろうと言いあった】。
 また、子の豫章王)には仇敵のように見られ(525年〈4〉参照)、邵陵王)には存命にも関わらず喪服を着られましたが(525年〈5〉参照)、これは石虎後趙三代皇帝)の家の野蛮さと同じでありました。
 また、仏寺を大いに造営して浪費を極め、人民たちを飢餓に陥れられましたが、これは笮融後漢の人で、大々的に寺院を造営した。浴仏の儀式の際にはおびただしい酒食を準備し、その費用は巨億に上った)・姚興後秦二代皇帝。鳩摩羅什を国師として神のように崇め、大いに仏寺を造営した)の再現でありました。』
 またこう言った。
『建康の宮殿は豪奢で、陛下は〔高官を無視して〕主書にだけ諮って万機を決裁し、政治は賄賂次第で決まり、宦官・僧侶らはみな富裕となる歪んだ状況を呈しております。また、皇太子は珠玉を漁って酒色に耽溺し、言葉は軽薄で、詠む詩賦も桑中の詩【詩経鄘風。男女の逢引を歌ったもの】の域を出ませんでした。
 また、邵陵王は到る所で人民に乱暴を行ない(525年〈5〉・532年〈1〉参照)、湘東王)の部下はみな貪汚の者ばかりで、南康王会理)・定襄侯)の部下は猿が冠をかぶっているような連中ばかり。彼の王たちは血縁関係で言えば陛下の姪孫であり、官位から言えば藩屏にあたりますのに、臣が百日台城を包囲しても、誰も勤王の軍を挙げませんでした(湘東王以外は建康に兵を進めているので、必死に戦わなかったことを指すか)! このような事は、人類始まって以来、一度も無かった事でした。
 また、むかし、鬻拳イクケン。楚の大夫)が武器を手に強諌すると、文王はすぐ行ないを改めました【左伝荘公十九年。鬻拳は主君を武器で脅したことを悔い、自ら進んで足切りの刑を受けた】が、こたびの臣の一挙は、何の罪に当たるのでしょうか! 
 どうか陛下はこたびの小さな懲らしめを大きな教訓として(易経繋辞下曰く、『小さく懲らして大いに戒むるは、これ小人の福いなり』)、佞臣を退けて忠臣を納れ、臣に再び挙兵をさせるような心配をかけませぬよう。さすれば陛下は再び包囲される恥辱を受けず、人民も大いなる幸せを得られるのであります!』
 武帝はこれを読むと恥じ入り、かつ激怒した。

●戦闘再開

 3月、丙辰朔(1日)、武帝は太極殿の前に祭壇を築き、兼太宰・尚書僕射の王克盟約に参加した一人。549年〈1〉参照)らに天地の神霊に向かって景の違盟を訴えさせた。また、〔城兵に〕狼煙や、軍鼓の音・鬨の声を上げさせた。

●爛汁満溝
 包囲が始まった当初(去年の十月)、台城内には十余万の民衆と二万余【考異曰く、南80侯景伝には『三万』とあるが、今は典略の記述に従った】の兵士がいた。しかし包囲が長期に渡ると、景軍が貯水池に毒を投げ込んだこともあって、城内は体がむくんで呼吸困難に陥る疫病が流行り(むくみは水腫。水腫は栄養失調により起こる。呼吸困難は水腫の症状。毒を投げ込んだのは流言の類い?)、八・九割が死に、守兵は四千人以下にまで激減した。その守兵も、一様に痩せ衰えてしまっていた。
 死体は埋葬されることも無く城中の到る所に打ち捨てられ、その死体から出る臭気は台城の数里先まで及び、腐汁は溝渠に満ち溢れた《南80侯景伝》

●軟弱極まる
 梁の時代、貴族の子弟たちは無学な者が多く、「車に乗って落ちなければ著作郎(貴族子弟の初任の官)、ご機嫌いかがと書ければ秘書郎(貴族子弟の初任の官)」になれるという諺もできたくらいだった。彼らは衣服に香を焚きしめ、髭を剃って白粉を塗り、紅を付け、高下駄を履いていた。外出の時には長柄の車に乗り、碁石模様の四角い座布団に座り、斑糸(ムラ糸。趣がある)で作った隠囊(クッション)によりかかり、珍奇なものを周りに並べて、ゆったりと出入りした。その様はまるで仙人のようであった《顔氏家訓8勉学》
 士大夫たちはみなゆったりとした衣服と広い帯を締め、大きな冠をかぶり、高下駄を履いていた。家にいる時は使用人に介添えをさせ、外出時には車か輿を用い、建康の街の中で馬に乗る者はいなかった。周弘正宣城王大器から賜った果下馬(三尺の高さしか無く、果樹の下でも乗ることができた。542年参照)に乗っていたが、朝臣たちは彼を無作法者とみなした。もし尚書郎のような者が馬に乗っていたら、きっと弾劾を受けていたことであろう。このような連中はみな心身ともに軟弱で、歩けばすぐ疲れ、寒暑の厳しさに耐えられない者ばかりだった。侯景の乱が起こり、慌ただしい状況下に置かれると、彼らはばたばたと死んでいった。
 上品な性格で、乗馬の経験が無かった建康令の王復は、馬がいななき跳ね回るのを見ると仰天し、人にこう言った。
「あれこそ虎だ。なんで馬と名付けたのか。」
 当時の貴族たちの気風はここまで堕ちていたのである《顔氏家訓11渉務》
 武帝の治世の末の頃になると、建康の士民の衣服や食事、調度品の類はどれもこれも華美に流れた。食糧の備蓄は半年分しか無く、食糧は完全に四方からの供給に依存していた。景が建康を包囲して輸送路が断絶すると、住民は数ヶ月の間に相い食むまでに至り、餓死を免れ得た者は百人の内一人か二人しかいない惨状に陥った【金陵記曰く、梁が建康を都とした時、その人口は二十八万を数えた。〔その城域の範囲は〕西は石頭城、東は倪塘、南は石子岡、北は蔣山にまで及び、南北の長さはそれぞれ四十里あった。侯景の乱から陳の代に至るまで、中外の人物は劉宋・南斉の時の半分にまで減少した】。それは貴族や金持ちでさえ例外でなく、辺りに生えているひこばえの稲まで食べたものの、結局飢え死にした者は数知れなかった。

○資治通鑑
 高祖之末,建康士民服食、器用,爭尚豪華,糧無半年之儲,常資四方委輸。自景作亂,道路斷絕,數月之間,人至相食,猶不免餓死,存者百無一二【《金陵記》曰:梁都之時,戶二十八萬。西石頭城,東至倪塘,南至石子岡,北過蔣山,南北各四十里。侯景之亂至於陳時,中外人物不迨宋、齊之半】。貴戚、豪放皆自出採稆,塡委溝壑,不可勝紀。
○顔氏家訓
(8勉学)梁朝全盛之時,貴遊子弟多無學術,至於諺云,「上不落則著作,體中何抑則祕書。」無不燻衣剃面,傳粉施朱,駕長簷車,蹟高齒履,坐碁子方褥,憑斑絲隱囊,列器玩於左右,從容出入,望若神仙。
(11渉務)梁世士大夫皆尚襃衣、博帶、大冠、髙履,出則車輿,入則扶侍,郊郭之內,無乘馬者。周弘正為宣城王所愛給一果下馬,常服御之。舉朝以為放達,至乃尚書郎乘馬,則糺劾之。及侯景之亂,膚脆骨柔不堪行步,體羸氣弱不耐寒暑,坐死倉猝者往往而然。建康令王復性既儒雅,未嘗乘騎, 見馬嘶歉陸梁,莫不震懾,乃謂人曰,「正是虎,何故名為馬乎!」其風俗至此。

 ⑴周弘正…字は思行。博識の大学者で、国子博士などを務めた。太子綱を太子に立てるのを非難し、梁に戦乱が起こることを予言した。547年(1)参照。
 ⑵宣城王大器…字は仁宗。太子綱の長子。549年(1)参照。

●東府城北の戦い
 戊午(3日)梁武帝紀〉、南康王会理字は長才。武帝の孫。侯景の乱が起こると蕭正表の軍を撃破し、2月14日に建康に到着していた。549年〈1〉参照羊鴉仁趙伯超らと共に(梁56侯景伝では『羊鴉仁・柳敬礼・鄱陽世子嗣』とあり、南80侯景伝には『羊鴉仁・柳仲礼・鄱陽世子嗣』とある)夜中に渡河して(出典不明)東府城の北(梁武帝紀)に《梁39羊鴉仁伝》陣を築くことを決めた。しかし、鴉仁らは結局夜が明けるまでに目標地点に到達できず、陣を築く前に(梁56侯景伝)景に行動を察知されてしまった。景が宋子仙景配下の将軍。建康に入ると東宮に陣を構え、青溪の戦いでは勢いに乗る樊軍を大破した。549年〈1〉参照)を派して攻撃させると、趙伯超は戦いもせずに逃げ出し【寒山の時も、玄武湖畔の時も、趙伯超は戦わずに逃げ出していた】、会理らの軍は大敗した。戦死した者・溺死した者は五千人に及んだ《出典不明》。景はその首を台城城門の前に積み上げ、城中に威勢を示した《梁56侯景伝》
 時に四方の征鎮より入援した者は三十余万にも上ったが、略奪にかまけて戦おうとしなかった《南史梁武帝紀》

●侯景、再び和を求む
 盟約が破れてより数日後《南36沈浚伝》、景はまた于子悦城内に和を求める使者となった。549年〈1〉参照)を台城に派して和を求めた《梁56侯景伝》太子綱がこれに応えて御史中丞の沈浚字は叔源)を派すと、景は浚にこう言った。
「時既に炎暑の時期に向かい、行軍するには適さぬゆえ、十万の兵をもう暫くここに留める許可をいただきたい。」
 浚はこれを聞くと言った。
「大将軍の真意は〔少しでも長く我らを騙くらかして〕台城を得ることにあるのでしょうが、惜しいことに城内は苦境にあるとはいえど、まだ百日分の兵糧があります(はったり?)。一方、噂によれば、将軍の兵糧は久しく欠乏状態にあるとか(侯景は既に東府城の兵糧を手に入れているため、事実誤認か)。また、朝廷は和議が偽りだった時に備え、援軍に『もし台城が陥ちても二宮のことは気にかけず、死力を尽くして将軍と戦え。もし決戦することができなければ、守りを固めて持久戦に持ち込め』と密勅を下しております。こうなっては、いくら大将軍が十万の大軍を率いていたとしても、どうしようもないでありましょう? そのような状況にあるのに、どうして却って朝廷を脅したりなさるのですか!」
 景は佩刀を膝の上に持ち出し、目を怒らせて叱咤した。しかし浚は一歩も退かず、こう景を責めて言った。
「河南王は人臣の分際で兵を皇宮に向ける大逆を犯し、陛下がその罪を赦して盟約をお結びになられても、口血(誓いの時にすすった生贄の血)乾かぬ内にその内容に違背された。そのような者を、天地が許すと思うてか! それに、それがしはとうに六十年を生き(通鑑では『五十』)、しかも天子の使いとしてここに来ているのだ。そのような者が、どうして逆臣の刀など恐れようか!」
 かくて一度も振り返ることなく〔憤然として〕退出した。景は感嘆して言った。
「これぞ、真の司直(裁判官。御史中丞)である。」
 しかし、内心では含むところがあった《梁43・南36沈浚伝》

●台城陥落
 景はここにおいて石闕前水(玄武湖)を決壊させて水を灌ぎ、全方向より一斉に台城に攻撃をかけた。攻撃は昼夜分かたず行なわれた。
 太陽門【台城六門の一つ】を守備していた邵陵世子堅字は長白)は一日中樗蒲チョボ。双六の一種で、サイコロの代わりに片面が黒、片面が白の平たい板五枚を投げ、出た組み合わせによって進む。537年〈3〉参照と酒に明け暮れるような男で、部下に対して思いやりが無く、軍功を立てた者がいても取り上げず、疫病に倒れた者がいても情けをかけなかったため、全員から怒りを買っていた。書佐(文書を司る)の董勲華白曇朗通鑑は『熊曇朗』とする)は、堅が私室に酒食を蓄えているにも関わらず、一度もそれをくれたことが無いのを(南53邵陵世子堅伝)恨みに感じていた《梁29邵陵世子堅伝》
 丁卯(12日)、夜明け前、勲華と曇朗は西北の城楼より縄を下ろし(梁29邵陵世子堅伝)、景兵を城壁の上に登らせた。五鼓の時(午前3時〜5時)に景軍は四方から城壁に一斉に梯子を架けて登城した。永安侯確字は仲正、綸の子。文武に優れ、侯景に警戒されて台城に入城させられた。549年〈1〉参照は兄の堅と共に力戦したが退けることができず、やむなく引き下がって文徳殿(皇宮前殿)に行き《南80侯景伝》、門を押して中に入り、こう言上して言った。
「城は既に陥ちました!」
 眠りに就こうとしていた武帝は寝床の上で微動だにせず(通鑑)、こう言った。
「もう一戦できぬのか?」
 確は答えて言った。
「人心の上から言って(南53永安侯確伝)、もう無理であります。臣は先ごろ自ら防戦に当たりましたが、敵の勢いは激しく、食い止めることは不可能でした。ここに参るのも、自ら縄を伝って城壁の下に降りるといったように、命がけだったのです。」
 武帝は嘆息して言った。
「自分で勝ち取った天下を失おうと、心残りはない! 子孫も幸い無事である(原文『幸不累子孫』。〔ただ〕子孫を累わさざるをこいねがう〔のみ〕? 南53永安侯確伝)。」
 それから確に在外の諸軍を慰撫することを命じ、こう言った。
「お前は早く去って父にこう言え。『二宮(武帝と太子綱)のことは気にかけるな』とな。」(南53永安侯確伝《梁29永安侯確伝》

●両雄の会見
 間もなく、王偉と儀同の陳慶が先行して文徳殿に到り、面会を願った。武帝は御簾と扉を開くよう命じ、偉らを中に引き入れた。偉は景の書簡を呈上して言った。
「臣は高氏と仲違いをしたため、聖朝に帰順したのでありますが、上奏文がどれも〔奸臣によって〕握りつぶされてしまったので、直接参上した次第でございます。しかし、誅殺を恐れた奸臣の激しい抵抗に遭ったため、幾日も〔陛下を〕戦禍にさらすことになってしまいました。その罪はまさに万死に値いたします。どうか厳重なる処罰を願います。」
 武帝は尋ねて言った。
「景はどこにいるのだ? 呼んでくるがよい。」
 景は五百人の兵士を連れ、剣を帯びたまま太極殿の東堂にて武帝と会見した。景が殿下にて叩頭して陳謝すると、武帝は典儀に命じて景を三公の席に着かせた。武帝は泰然自若とした様子で景にこう尋ねて言った。
「卿は軍中にいること久しいゆえ、随分と疲れたことであろうな!」
 景は武帝の顔を仰ぎ見ることができず、冷や汗を顔に流すだけだった。武帝は重ねて尋ねて言った。
「卿はどこの州の生まれで、どのようにしてここまで来たのか? 妻子はまだ北方にいるのか?」
 景はどれも答えず、任約もと西魏の将軍。鍾山の戦いの際、逃げようとする侯景を励まして勝利に至らせた。549年〈1〉参照が代わりに答えて言った。
「臣景は高氏によって妻子を皆殺しにされ、単身陛下のもとに到りました。」
 武帝は更に尋ねて言った。
「初めて長江を渡った時は、どれほど連れていたのか?」
 景は答えて言った。
「千人であります。」
「台城を囲んだ時には、どれほどになっていたのか?」
 景は言った。
「十万人であります。」
 武帝は言った。
「今はどれほどであるか?」
 景は言った。
「国内の人民で、臣に従わぬ者はおりません。」
 武帝はこれを聞くと、うなだれて何も言わなかった。
 景は退出すると、廂公(侯景は信頼の厚い者を左右廂公、勇猛な者を庫真部督と呼んだ)の王僧貴にこう言った。
「わしは常に馬に乗って戦場を駆け巡り、矢刃もものともしなかったが、いま蕭公に会うと、自然と恐れを感じた。天子の威厳というのは、なんと犯し難いものではないか。わしはもう二度と蕭公には会わぬ。」

○資治通鑑
 俄而景遣王偉入文德殿奉謁,上命褰簾開戶引偉入,偉拜呈景啓,稱:「為奸佞所蔽,領衆入朝,驚動聖躬,今詣闕待罪。」上問:「景何在?可召來。」景入見於太極東堂,以甲士五百人自衞。景稽顙殿下,典儀引就三公榻。【典儀,典朝儀者也。至唐猶有典儀之職,掌殿上贊唱之節及設殿庭服位之次。】上神色不變,問曰:「卿在軍中日久,無乃為勞!」景不敢仰視,汗流被面。又曰:「卿何州人,而敢至此,妻子猶在北邪?」景皆不能對。任約從旁代對曰:「臣景妻子皆為高氏所屠,唯以一身歸陛下。」【自此以上,上問景,景猶慴伏。】上又問:「初渡江有幾人?」景曰:「千人。」「圍臺城幾人?」曰:「十萬。」「今有幾人?」曰:「率土之內,莫非己有。」【自此以上,景之辭氣悖矣。】上俛首不言。【上辭窮勢屈,故俛首不言,嗚呼!
○梁56・南80侯景伝
 初,臺城既陷,景先遣王偉、〔儀同〕陳慶入謁高祖(入殿陳謝曰:「臣既與高氏有隙,所以歸投,每啟不蒙為奏,所以入朝。而姦佞懼誅,深見推拒,連兵多日,罪合萬誅。」),高祖曰:「景今安(何)在?卿可召來。」時高祖坐文德殿,景乃入朝,以甲士五百人自衞,帶劍升殿。拜訖,〔帝神色不變,使引向三公榻坐,〕高祖問曰:「卿在戎日久,無乃為勞?」景默然。又問:「卿何州人,而敢至()此乎?」景又不能對,〔〕從者〔任約〕代對。〔又問:「初度江有幾人?」景曰:「千人。」「圍臺城有幾人?」曰:「十萬。」「今有幾人?」曰:「率土之內,莫非己有。」帝俛首不言。景〕及出,謂廂公王僧貴曰:「吾常據鞍對敵,矢刃交下,而意氣安緩,了無怖心。今日見蕭公,使人自慴,豈非天威難犯。吾不可〔以〕再見之。」


 549年(3)に続く