[西魏:大統十五年 東魏:武定七年 梁:太清三年]

青塘の戦い

 春、正月、丁巳朔(1日)、建康救援軍の大都督(総督、総指揮官)で司州刺史の柳仲礼が、軍を新亭から朱雀大航の南に前進させた。裴之高は南苑に、南陵太守の陳文徹548年〈5〉参照)・宣猛将軍の李孝欽548年〈5〉参照)は丹陽郡に、鄱陽世子嗣合州刺史の鄱陽王範の子。字は長胤。大兵巨漢で勇猛果断であり、兵士に死力を尽くさせることができた。548年〈5〉参照)は小航【東府門の前にある】の南に陣し、それぞれ秦淮河に沿って砦を築いた《梁56侯景伝》
 仲礼はその昨夜に、外兄で散騎常侍の字は長蒨〈倩〉。車騎将軍の韋叡の孫で、北徐州刺史の韋放の子。衡州から帰る途中、侯景の乱の法報を聞くと道々兵を集めながらその救援に赴いた。548年〈5〉参照の陣屋にて明日早朝の会戦の際の部署の取り決めを行ない、粲には青塘(青渓の堤。石頭城と秦淮河南岸?の中路にあり、秦淮渚〈長江と秦淮河の合流地点にある小島?に近い。後年鼠の集団が蔡洲岸より石頭に入り、秦淮河を渡って青塘両岸を荒らしたという)【青溪水は鐘山より流れ、秦淮河に合流する。呉の孫権は城北に堀を穿ち、そこに玄武湖の水を注ぎ入れた】を受け持つよう命じていた。粲は青塘は石頭城への中路にある要地であり、もし〔夜の内に〕陣地構築が上手く行かなければ必ず景軍が狙ってくると考え、武臣ではない自分には荷が重いと言って断った。しかし仲礼は、この地は外兄にしか託せない所であり、兵力が心配なら直閤将軍の劉叔胤の部隊に援護をさせると言って、なんとか承服させた(548年〈5〉参照
 韋粲は青塘に向かう最中、偶然発生した濃霧によって道に迷い、目的地に着いた頃には既に夜の半ばを過ぎてしまっていた。〔粲は急いで陣地を構築したが、〕結局完成する前に夜が明けてしまった。


 侯景は禅霊寺(建康の西南)の門楼に登ってこれを望見すると、直ちに精鋭を率い、梁軍に先んじて渡河して(梁56侯景伝)粲軍に攻めかかった。粲の軍副(副指揮官)の王長茂は陣地に籠もるよう勧めたが、粲は聞き入れず、軍主(軍指揮官)の鄭逸に迎え撃たせた。粲の考えでは、逸が持ち堪えている隙に劉叔胤の水軍が景軍の背後を突く予定だったが、その叔胤が怯えて進軍しなかったことで〔計画は破綻し〕、逸は〔孤立して〕敗れ去った。景は勝ちに乗じて粲の本陣に攻め入った。粲は側近の高馮南58韋粲伝)に手を引かれ、逃げるように勧められたが動かず、子弟を叱咤してあくまで戦い続けた。しかし武運拙く、粲は子の韋尼や弟の韋助・韋警・韋構、従弟の韋昂など数百人の親戚と共に討ち死にした(享年54)。景は粲の首を台城の門の下に掲げ、城内の人々に見せつけた。太子綱は粲の死を知ると涙を流し、御史中丞の蕭愷にこう言った。
「国家が頼りとするのは韋公だけであったのに、何故こうも早く戦死してしまったのだ。」《梁43韋粲伝》


 仲礼が韋粲の危機を知ったのは、食事を摂ろうとした矢先のことだった。すると仲礼は箸を投げ捨て、鎧も着けるのももどかしく(梁56侯景伝)、ただ被練(絹で綴った防具)だけを着て救援に向かった。これに付いて行けたのは麾下のたった百騎(通鑑。仲礼伝では『七十騎』、侯景伝では『数十騎』)のみだった。しかし、辿り着いた時には既に粲は敗死してしまっていた。仲礼は〔そのまま〕景軍と戦ってこれを大破し、数百人を斬った。逃げようとして秦淮河に溺れ死んだ景兵は千余人に及んだ。この時、仲礼と景は交戦したものの、互いに誰と戦っているかは知らなかった(原文『景與仲禮交戰,各不相知。』)。仲礼の矟(馬上槍)が景を突こうとした刹那、景の騎将(梁45王僧弁伝)の支伯仁支化仁の間違いではないか】が背後より仲礼に斬りつけ、その二度目の太刀が仲礼の肩を斬った。仲礼の馬が沼沢に陥り〔身動きが取れなくなると、〕景兵は次々と仲礼に群がり、矟で突き刺した。しかし、そのとき梁の騎将の郭山石が救いに駆けつけたので、仲礼は深手を負いながらも逃げることができた。このとき、会稽の人の恵荐が傷口を吸って流血を止め、仲礼を死の淵から救った(出典不明)。この戦い以降、景は二度と南岸に渡ろうとしなくなった(梁56侯景伝)。しかし、仲礼も壮気全く衰え、二度と軍議にて戦いを切り出さなくなった《南38柳仲礼伝》

○梁武帝紀
 三年春正月丁巳朔,柳仲禮帥眾分據南岸。是日,賊濟軍於青塘,襲破韋粲營,粲拒戰死。
○梁43・南58韋粲伝
 是夜,仲禮入粲營,部分眾軍,旦日將戰,諸將各有據守,令粲頓青塘。青塘當石頭中路,粲慮柵壘未立,賊必爭之,頗以為憚,謂仲禮曰:「下官才非禦侮,直欲以身殉國。節下善量其宜,不可致有虧喪。」仲禮曰:「青塘立柵(營),迫近淮渚,欲以糧儲船乘盡就泊之,此是大事(事大),非兄不可。若疑兵少,當更差軍相助。」乃使直閤將軍劉叔胤師助粲,帥所部水陸俱進。時值昏霧,軍人迷失道,比及青塘,夜已過半,壘柵至曉未合。景登禪靈寺門閤,望粲營未立,便率銳卒來攻,軍副王長茂勸據柵待之,粲不從,令軍主鄭逸逆擊之,命劉叔胤以水軍截其後。叔胤畏懦不敢進,逸遂敗。賊乘勝入營,左右〔高馮〕牽粲避賊,粲不動,猶叱子弟力戰,兵死略盡,遂見害,時年五十四。粲子尼及三弟助、警、構、從弟昂皆戰死,親戚死者數百人。賊傳粲首闕下,以示城內,太宗聞之流涕曰:「社稷所寄,惟在韋公,如何不幸,先死行陣。」詔贈護軍將軍。世祖平侯景,追諡曰忠貞,並追贈助、警、構及尼皆中書郎,昂員外散騎常侍。
○梁56侯景伝
 司州刺史柳仲禮、衡州刺史韋粲、南陵太守陳文徹、宣猛將軍李孝欽等,皆來赴援。鄱陽世子嗣、裴之高又濟江。仲禮營朱雀航南,裴之高營南苑,韋粲營青塘,陳文徹、李孝欽屯丹陽郡、鄱陽世子嗣營小航南,並緣淮造柵。及曉,景方覺,乃登禪靈寺門樓望之,見韋粲營壘未合,先渡兵擊之。粲拒戰敗績,景斬粲首徇于城下。柳仲禮聞粲敗,不遑貫甲,與數十騎馳赴之,遇賊交戰,斬首數百,投水死者千餘人。仲禮深入,馬陷泥,亦被重創。自是賊不敢濟岸。

 ⑴柳仲礼…賀抜勝の雍州侵攻を退けた。身長八尺の勇将。548年〈5〉参照。
 ⑵裴之高…字は如山。名将裴遽の兄の子で、西豫州刺史。548年〈5〉参照。
 ⑶南苑…建興苑。秣陵の建興里に作られ、瓦官寺の東北にある。
 ⑷青塘…《読史方輿紀要》曰く、『恐らく秦淮渚に近い所にあり、青溪の南岸にあるのだろう。』

┃邵陵王綸、柳仲礼に合流
 これより前、鍾山にて侯景に敗れ、東方の京口に逃れていた邵陵王綸武帝の第六子。白昼堂々人を殺害させた事がある。548年〈4〉参照は、敗残兵を収容し陣容を整えると、東揚州刺史(治 会稽)の臨城公大連字は仁靖。太子綱の第三子)・新淦公大成字は仁和。太子綱の第七子。548年〈4〉参照らと共に再び建康に向かって進軍を開始した。
 庚申(4日)、秦淮河の南岸にて仲礼らの軍と合流し《梁武帝紀》、仲礼をそのまま大都督と認めた《出典不明》

○梁武帝紀
 庚申,〔白虹貫日三重。〕卲陵王綸、東揚州刺史臨成公大連等帥兵集南岸。
 
●朱异の死
 侯景が台城を包囲すると、城内の文武官は皆、こうなったのは朱异のせいだと考えた。太子綱は籠城中に『囲城賦』を作ったが、その末章にはこうあった。
『彼のもの高冠及び厚履にして、鼎を並べて食いて乗肥(肥えた馬に乗る)し、紫霄の丹地を登り、玉殿の金扉を排()し、謀謨の啓沃を陳()べ、政刑の福威を宣ぶ。四郊ここを以て多く壘(わずら)い(建康の四方が敵に包囲されていること)、万邦ここを以て未だ綏んぜず。問う、豺狼それ何者なりや? 訪()う、虺蜴(キエキ。マムシとトカゲ、害毒の人)これ誰なりや?』
 それは异のことを指しているように思われた。また、ある時、綱は建康の南楼から侯景軍を望見すると、异の方に振り返って言った。
「今、我らは四方から賊の攻撃を受けている。このような状況になったのは一体誰のせいか?」
 异は冷や汗を流し、答えることができなかった(南62朱异伝)。异はやがて恥と憤りの余り病気となった。
 この日、朱异は亡くなった(享年67)【考異曰く、梁武帝紀には『乙丑(9日』とある。今は太清紀・典略の記述に従った】。
 武帝はその死を痛惜し、詔を下して言った。
「故・中領軍异は、優れた度量と才知を有し、朝政に参与すること多年に渡った。彼にはこれからも永く国家のために頑張ってもらいたいと考えていたのだが、不幸にも突然朕を置いて亡くなってしまった。朕はただただ悲しみ痛むばかりである。彼には侍中・尚書右僕射を追贈し、また秘器(高官用の棺)一式を与えてよろしい。葬儀の費用は朝廷が援助することにする。」(原文『「故中領軍异,器宇弘通,才力優贍,諮謀帷幄,多歷年所。方贊朝經,永申寄任。奄先物化,惻悼兼懷。可贈侍中、尚書右僕射,給祕器一具。凶事所須,隨由資辦。」』
 これまで尚書の官は追贈されたことが無かったが、武帝がこれを朝議に諮ると、側近の中で异に友好的だった者が上奏して言った。
「生前异が就いた官職は数多かれど、〔宰相の任に就くことは遂にありませんでした。〕彼は常に宰相の任に就くことを願っておりました。」
 武帝は朱异の素志を尊重し、かくて特別に尚書の官を追贈したのだった《梁38朱异伝》

 甲子(8日)、荊州先遣隊の湘東世子方等字は実相、時に22歳。文武に優れたが、嫉妬心の強い母を持っていたことで父の繹に嫌われた竟陵太守の王僧弁字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。劉敬躬の乱の平定に活躍した。548年〈5〉参照の軍が建康に到着した(去年の12月14日に出発していた。侯景伝ではこのとき兼司馬の呉曄・天門太守の樊文皎も到着している)。
 丙寅(10日)、司農卿の傅岐字は景平。朱异に次ぐ権力を持った。548年〈4〉参照を中領軍とした《梁武帝紀》

○梁武帝紀
 乙丑,中領軍朱异卒。丙寅,以司農卿傅岐為中領軍。

┃正表、東魏に降る

 戊辰(正月12日)南郡王正表臨賀王正徳の弟。もと封山侯。兄に同調して侯景に付き南兗州を攻めたが、敗れて北徐州に逃げ帰っていた。548年〈5〉参照)が東魏に人質を送り、北徐州(鍾離)と共に降った。東魏の徐州刺史の高帰彦字は仁英)は長史の劉士栄に直ちにこれを接収させた。
 帰彦は高歓の族弟である《北斉14高帰彦伝》

 のち正表は東魏の朝廷に参内し、勲功を評価されて蘭陵郡開国公・呉郡王(食邑五千戸)とされた。間もなく更に侍中・車騎将軍・特進・太子太保・開府儀同三司とされ、非常に多くの賞賜を与えられた。
 この年の冬、死去した(享年42)。侍中・都督徐揚兗豫済五州諸軍事・驃騎大将軍・司空公・徐州刺史を追贈し、蘭陵郡開国公・呉郡王はそのままとした。昭烈と諡した。

 この日、長さ三丈の流星が台城の武器庫に墜ちた《南史梁武帝紀》

○魏孝静紀
 七年春正月戊辰,蕭衍弟子北徐州刺史、封山侯蕭正表以鍾離內屬,封蘭陵郡開國公、吳郡王。
○魏59蕭正表伝
 武定七年正月,仍送子為質,據州內屬。徐州刺史高歸彥遣長史劉士榮馳赴之。事定,正表入朝,以勳封蘭陵郡開國公、吳郡王,食邑五千戶。尋除侍中、車騎將軍、特進、太子太保、開府儀同三司,賞賚豐厚。其年冬薨,年四十二。贈侍中、都督徐揚兗豫濟五州諸軍事、驃騎大將軍、司空公、徐州刺史,開國公、王並如故。諡曰昭烈。

●連絡
 己巳(13日)太子綱が居を〔中書省から?〕永福省に遷した【永福省は宮中にあり、劉宋以降、太子の住む所とされていた《出典不明》
 高州刺史の李遷仕548年〈5〉参照)・天門太守の樊文皎去年11月12日に湘東王繹によって派遣されていた。548年〈4〉参照)が援兵一万余人を率いて建康城下に到った(武帝紀では12日の事とする)。
 侯景軍が台城に到って以来、城中は城を守ることで手一杯で、討伐に関しては全て援軍頼みという非常に苦しい状況にあった。しかしその援軍が到っても、景の築いた幾重もの柵に阻まれ、城内と連絡がとれずにいた。城内ははしばしば勇士を募って出撃させたが、そのたびに景軍に捕らえられてしまっていた。そのような時、羊車児という子どもが、紙鴉(魏書では『紙鵄』、通鑑では『紙鴟』。凧のこと)で外と連絡をとったらどうかと提案した。太子綱はそこで数千丈の長縄をこしらえ、背に書簡を乗せた紙鴉を先端に縛り付けた。また、紙鴉の口に当たる部分にこう書いた。
「鴉を得て援軍を送った者には、銀百両を褒美として与える。」《魏98島夷蕭衍伝》
 太子綱は西北からの風が来たところで、数羽の紙鴉を太極殿の前から外に放った。景軍は城内より飛んできた紙鴟を見て驚き、まじないの術か何かかと考え、馬を走らせて矢を放ち、これを射落とした。城内の追い詰められようはこんなふうであった《南80侯景伝》
 一方、救援軍もなんとか城内と連絡がつけられないものかと考えていた。そこで鄱陽世子嗣の側近の李朗が志願してくると、嗣は〔苦肉の計を用い、〕これに偽りの罪をかぶせて鞭で叩き、景軍に投降させた。朗は機を見て城内に入り、城内に援軍が四方から集まってきていることを伝えた。すると城内は城を挙げて歓呼の声を上げた。武帝は朗を直閤将軍とし、黄金を下賜した。朗は城内を出ると、鐘山の後ろに沿って、夜は歩き、昼は隠れ、何日もの時間をかけてようやく救援軍のもとに帰還した《出典不明》

┃青溪の戦い

 癸未(正月27日)《出典不明(武帝紀では12日)》鄱陽世子嗣・永安侯確字は仲正、綸の子。文武に優れた。548年〈4〉参照荘鉄出典不明。歴陽大守。侯景に攻められると母の勧めに従って降伏したが、間もなく景の為す無きを知り、当陽公大心のいる江州に逃れていた。548年〈3〉参照)・羊鴉仁懸瓠から無断で撤退し、武帝に激怒されてやむなく淮河のほとりに留まっていた。侯景から叛乱の誘いを受けたが断った。548年〈5〉参照柳敬礼出典不明。仲礼の弟)・李遷仕樊文皎らが秦淮河を渡って東府城前の砦を攻め、これを焼いた。侯景が軍を退かせると、救援軍は青溪の東に陣した《梁武帝紀》。遷仕・文皎は精鋭五千を率いて景軍を追い、次々とこれを撃破した。このとき、文皎の甥の樊猛字は智武)は朝から夜まで景軍と接戦奮闘し、非常に多くの景兵を殺傷した(南67樊猛伝)。しかし遷仕・文皎軍は菰首橋【青溪にある】(建康の東南にある)の東に到った所で宋子仙景配下の将軍。景の挙兵時に木柵を攻めた。建康に入ると東宮に陣を構えた。548年〈4〉参照率いる伏兵の奇襲に遭って敗れ《出典不明》、文皎は戦死し、遷仕はほうほうのていで陣に逃げ帰ることになった《梁武帝紀》

○資治通鑑
 癸未,鄱陽世子嗣、永安侯確、莊鐵、羊鴉仁、柳敬禮、李遷仕、樊文皎將兵渡淮,攻東府前栅,焚之;侯景退。衆軍營於青溪之東,遷仕、文皎帥銳卒五千獨進深入,所向摧靡。至菰首橋東【橋在青溪上。菰首,今人謂之茭白】,將宋子仙伏兵擊之,文皎戰死,遷仕遁還。敬禮,仲禮之弟也。
○梁武帝紀
 戊辰,〔有流星長三十丈,墮武庫。〕高州刺史李遷仕、天門太守樊文皎進軍青溪東,為賊所破,交皎死之。壬午,熒惑守心。乙酉,太白晝見。

●救援軍内部の確執
 柳仲礼は傲岸不遜にして粗暴な性格で、救援軍の将帥たちをよく侮辱した。邵陵王綸は毎日鞭を持って仲礼の軍門の前を訪れたが【部将が大将と会う際、〔先払いをするための〕鞭を持つことが礼とされていた(去年12月30日参照】、いくら経っても入るのを許されなかった。前々から仲礼を快く思っていなかった綸は、以降完全に仲礼と仲違いをするようになった。
 仲礼は毎日盛大に酒宴を催して優倡(役者、あるいは遊女)を呼び(原文『日作優倡』)、民衆に乱暴をふるい、妃主を辱めた。侯景は以前、朱雀楼に登って仲礼と話をし、金環を送った。以降、仲礼は陣を閉じて戦おうとしなくなり【誹謗に近いもので、信じるに足りない】、諸将が連日出撃するよう訴えても、みな拒否された。南安侯駿字は徳款。武帝の兄の長沙宣武王懿の孫。文武に優れた。鍾山の戦いでは暴走して官軍敗北のきっかけを作った。548年〈4〉参照は〔そこで〕綸にこう言った【考異曰く、典略〔や南38柳仲礼伝〕には仲礼に言ったとある。今は太清紀の記述に従った】。
「台城の形勢の急なることは見ての通りでありますのに、都督は賊を討伐なさろうとされません。もし城が陥ちるようなことがあれば、殿下は天下の義士たちにどう顔向けなさるつもりなのですか。今軍を分け、賊の不意を突いて三道より攻めたてれば、必ずや勝利を得られます。〔どうか攻撃の許可を!〕」(後半出典不明
 綸はこれに何も応えなかった。
 仲礼の父で左衛将軍の柳津字は元挙。台城の東側の守備を指揮した。548年〈4〉参照は、台城の城壁の上に登ると仲礼に向けてこう言った。
「お前の主君と父が難に遭っているというのに、必死に救おうとせぬとは! お前が百代の後まで何と言われても、わしは知らぬぞ!」
 仲礼はこれを聞いても意に介さず(まず聞こえるのだろうか)、平然として談笑を続けた。その夜、仲礼は臨城公大連太子綱の第三子)とも仲違いをした。《南38柳仲礼伝》
 武帝が津に包囲を解く方法を尋ねると、津はこう言った。
「陛下に邵陵王あらば、臣にも仲礼がおります。不忠不孝の率いる軍が、どうして賊を討てましょうか!」【考異曰く、典略には『柳仲礼の族兄の柳暉が仲礼にこう言った。「天下の情勢かくのごとくであるのに、どうして自ら富貴を取ろうとしないのか?」仲礼は尋ねて言った。「兄者ならどうやるんだ?」暉は答えて言った。「守りを固め、賊が台城を陥とし、天子を捕らえるまで、戦わないでいるのだ。その後に徐ろに兵を放ってこれを討ち、〔天子を自分のものにし、〕諸侯に命令を下せば、まず聞かぬ者はいないだろう。」仲礼はこれを採用した』とある。思うに、景が台城を陥とせば援兵の心は〔傍観していた〕仲礼から離ればらばらになってしまうだろう。それでどうやって景を破れるというのか! 仲礼が守りを固めて戦わないでいたのは、重傷を負って意気阻喪していたからに過ぎず、暉の計を用いたわけではない。今は太清紀および南史の記述に従った《南38柳津伝》

 一方、臨城公大連永安侯確綸の子)と水火の仲であり、諸将は互いに憎み合うばかりで、景と戦う気持ちはさらさら持たなかった。援軍が初めて建康に到った時、建康の士民は老人を助け、幼児を連れてこれを迎えたものだったが、援軍は〔その士民たちの期待を裏切り、〕秦淮河を渡るなり兵を放って略奪に狂奔した。これ以降、士民は梁に失望し、景の将兵で梁に内応しようとしていた者も、これを聞くと思いとどまってしまった《梁56侯景伝》

●寿陽、東魏に降る
 これより前、侯景が長江を渡ると、北斉は済州刺史の斛律平を大都督とし、青州刺史の敬顕儁・左衛将軍の厙狄伏連らを率いて寿陽を攻撃させた。

 この時、鄱陽王範武帝の異母弟、鄱陽忠烈王恢の子。合州刺史。548年〈5〉参照に攻められていた王顕貴侯景の外弟で中軍大都督。寿陽の留守を託された。548年〈5〉参照)が、寿陽と共に東魏に降った《出典不明》

○北斉17斛律平伝
 除濟州刺史。侯景度江,詔平為大都督,率青州刺史敬顯儁、左衛將軍厙狄伏連等略定壽陽、宿預三十餘城。
○北斉26敬顕儁伝
 轉都官尚書,與諸將征討,累有功。又從高祖平寇難,破周文帝。敗侯景,平壽春。

 ⑴敬顕儁…字は孝英(碑文では本名□、字は顕儁となっている)。平陽の人。博識で王佐の才があった。また、義侠心があり、豪傑と交際した。羽林監とされ、高歓が晋州刺史とされた際、才能を認められて別駕とされた。歓が決起すると行台倉部郎中とされた。鄴攻略の際には土山築造の監督を任された。爾朱氏の討伐に活躍し、車騎将軍・度支尚書→都官尚書とされた。東魏が建国されると汾州刺史→晋州刺史とされ、不安定な土地を良く治めた。のち幽・冀で叛乱が起こるとそこれを平定した。のち儀同三司→驃騎大将軍・潁州刺史・大都督潁州諸軍事とされた。538年頃に河南行台尚書とされ、侯景が叛乱を起こすとその討伐に活躍した。
 ⑵《魏書》地形志曰く、『武定年間(543~550)に奪還した。』

●兵糧の欠乏と偽りの盟約

 2月、己丑(3日)《出典不明》、臨賀王記室参軍で呉郡の人の顧野王字は希馮)が故郷にて数百人を集め、建康に馳せ参じた《陳30顧野王伝》

 これより前、公卿たちは台城に逃げ込む際、ただ食糧のことだけを心配し、住民は男女貴賤を問わずみな米を背負って城内に入るよう命じていた。かくて諸府の蔵にあった五十万億もの銭帛と共に四十万斛の米が徳陽堂に集められたが、薪・秣・魚・塩に不足を来した。そこで城内は尚書省・武庫・左右蔵(魏98島夷蕭衍伝)を破却して薪とし、薦(むしろ)をほぐして秣とした。薦が無くなると、今度は米を用いて馬を養った。軍士は干し肉が無くなると、鎧の革を煮たり、鼠を煙で燻し出したり、雀を捕らえたりして代わりとした。御甘露厨(台所の仏教用語)には乾海苔があったが、どれも酸っぱくなったりしょっぱくなったりしていた。それもやむを得ず兵士たちに配給した。兵士たちは皇宮や役所の間にて馬を屠り、人肉を混じえて粥にして食ったが、そのような者は例外無く病気になった。
 一方、侯景軍の方も一年分の兵糧があった東府城への道が遮断されたことで飢餓が始まっていた。その上で更に荊州兵がやってくる報が届くと(湘東王繹の軍)、景は非常に思い悩むようになった。そこで彭城の人の劉邈が景に説いて言った。
「大将軍が長く攻囲しても台城は陥とせず、援軍も雲のように集まって容易に破れぬ有様。しかも兵糧も一月も持たず、輸送路も途絶え、略奪をしても何も得るものが無いとか。まさに今、大将軍は掌の上の赤子同然で、危険極まりない状態にあります。もはや和を求め、軍を全うして還る以外道は無いでしょう。」
 景がそこで王偉景の軍師。548年〈3〉参照)に諮ると《南80侯景伝》、偉はこう言った。
「現在、我が軍の兵糧は底をついてしまっているのに対し、台城はまだまだ陥ちる様子を見せず、援軍も日に日に増えている有様です。もしここで偽って和を求め、緊張を緩ませることができれば、東〔府〕城の米を石頭に運び入れることができます。然る後に、兵馬に充分な休息を与え、武器を修繕し、敵の油断している所を突けば、たった一戦で決定的な勝利を得ることができましょう。」《出典不明》
 景はこれを聞き入れた。かくて部将の任約もと西魏の将軍。鍾山の戦いの際、逃げようとする侯景を励まして勝利に至らせた。548年〈4〉参照)・于子悦出典不明。東魏に敗北したことを武帝に伝える使者となった。548年〈1〉参照)を台城の北に派遣し、上表して和を求め、また、河南にて挽回の機会を与えてくれることも求めた。武帝はこれを聞くと言った。
「わしはとうに死を覚悟しておるというのに、今さら何をほざく。そもそも賊は凶悪で詭計を弄する奴らであり、信ずることなどできぬ!」
 太子綱は城中の逼迫した状況を鑑み、武帝にこう言った。
「台城が包囲されること既に久しく、頼みの援軍も互いに譲り合って戦わぬ有様でありますれば、ここは和の求めを許し、後図を策した方が良いと存じます。」
 すると帝は怒って言った。
「和するくらいなら死を選ぶ!」
 太子は諦めずに頼みこんで言った。
「城下で盟いを結ばされることは非常な恥辱でありますが、〔陛下が賊の手にかかるほどの恥辱ではございません。〕『白刃前に交われば、流矢顧みず』(大難を前にすると、小難を顧みなくなる。宋84袁顗伝)と言うではありませんか。〔ここは小恥をこらえられますよう。〕」(原文『「城下之盟,乃是深恥;白刃交前,流矢不顧。」』
 帝は長らく逡巡したすえ、こう言った。
「お前の好きなようにせよ。ただ、千載の物笑いの種にならぬように。」
 かくて和議を結ぶことを許可した【太子綱は〔以前〕范桃棒の来降を疑い、〔今〕侯景の請和を信じた。どうしてここまで愚かなのだろうか!】(梁56侯景伝には『侯景はこの年の始めから和を求めていたが、拒絶されていた。しかし援軍が戦おうとしないことや、一ヶ月余りの間に城内に疫病が流行り、多くの死者が出ていた事から、遂に和を許した』とある《南80侯景伝》
 景は部下を安置するために江右(西)四州【南豫(寿陽)、西豫(晋熙)、合州(合肥)、光州(光城。司州〈義陽〉の東)〈典拠は不明】の地の割譲を求めた。また、宣城王大器字は仁宗。太子綱の長子。侯景が乱を起こすと都督城内諸軍事、或いは台内大都督とされ防衛にあたっていた。時に27歳。548年〈4〉参照)に見送りを求め、大器が軍中に来れば囲みを解いて長江を北渡すると言った。また、代わりに儀同の于子悦・左丞の王偉を台城に入れて人質にするとも言った。すると中領軍の傅岐1月10日参照)が何度もこれに反対して言った。
「宣城王は嫡嗣であらせられ、大事なお体にございます。国家の命脈がかかっているというのに、どうして人質になどできましょうか! もし軽々しく賛同する者あらば、剣で斬ることをお許しください。」(南80侯景伝
 帝はそこで大器の弟の石城公大款字は仁師。太子綱の第三子)を侍中とし、景の軍中に赴かせた《梁42傅岐伝》。また、諸軍に対して詔を下し、戦うことを禁じて言った。
「戦わずして勝敗を決することが最上である。『戈』を『止』める(戦いを無くす)ことを『武』と言うではないか。今、景を大丞相・都督江西四州諸軍事とする。豫州牧・河南王に関してはそのままとする。」
 己亥(13日)《出典不明》、西華門(城西門)外に祭壇を設けた。梁側は尚書僕射の王克548年〈1〉参照)・兼侍中の上甲侯韶字は徳茂。武帝の兄の長沙武宣王懿の孫で、南安侯駿の兄。『太清紀』の編纂者)・兼散騎常侍で吏部郎(梁35蕭瑳伝)の蕭瑳南康侯子恪の子)が、景側は儀同三司の于子悦・任約出典不明)・左丞の王偉が出席して祭壇に登り、偽りのないことを天に誓った。また、左(右?)衛将軍・太子詹事(梁43柳津伝)の柳津が西華門より、侯景が柵門(砦の門)より出て遙かに相対し、再び生け贄を殺してその血をすすり、偽りのないことを天に誓った《梁56侯景伝》
 景との盟約が終わると、台城内の文武百官は欣喜雀躍して喜び、包囲が解かれるのを今か今かと待ち望んだ。しかし、傅岐のみは喜ぶそぶりを見せず、人々にこう言った。
「反逆を起こした賊が、どうして和を求めてきたりしようか。賊の心は獣のような心であり、信ずるに値せぬ。こたびの和は結局、嘘偽りに終わるだろう。」(原文『「賊舉兵為逆,未遂求和,夷情獸心,必不可信,此和終為賊所詐也。」』通鑑『「豈有賊舉兵圍宮闕而更與之和乎!此特欲卻援軍耳。戎狄獸心,必不可信。」』
 人々はこれを怪訝に思い、馬鹿にした【梁の智者はただ傅岐一人のみであった《梁42傅岐伝》
 盟いが終わっても、景は包囲を解かず、武器や鎧を修繕することに専念し、こう言い訳をした。
「船が無いので、直ちに出発することができません。」
 また、こうも言った。
「南軍【秦淮河南岸にいる救援軍のこと】の追撃が恐ろしく、出発することができません。」
 石城公を台城に還し、改めて宣城王の見送りを求めた。要求は次第に大きくなり、去ろうとする意志は微塵も感じられなかった。太子は和が偽りであったことを知ったが、関係はそのまま維持した《出典不明》

○南史梁武帝紀
 二月,侯景遣使求和,皇太子固請,帝乃許之。盟于西華門下。景既運東城米歸于石頭,亦不解圍,啟求遣諸軍退。

●北軍到る

 庚子(14日)考異曰く、梁武帝紀には『丁未(21日)』とある。今は太清紀と典略の記述に従った】、前()南兗州刺史の南康王会理武帝の孫。幼くして父を亡くしたため、武帝に憐れまれ、特に大切にされた。侯景の乱が起こると蕭正表の軍を撃破し、建康に向かっていた。548年〈5〉参照)・前青冀二州刺史の湘潭侯退武帝の弟の鄱陽王恢の子で、鄱陽王範の弟。536年10月参照)・西昌侯世子彧南徐州刺史の蕭淵藻)の軍三万が馬卬洲にまで到った【考異曰く、典略には『琅邪に到った』とある。今は太清紀と梁武帝紀の記述に従った。胡三省:馬卬洲は今の王家沙・老鸛觜一帯を指すと思われる。東晋は江乗の蒲洲上に琅邪郡を置いた。これ即ち王家沙である】。景は彼らが白下より西上して江路を断つのを心配し、上表して言った。
「北軍【馬卬洲が台城の北にある事から】に対し、〔秦淮河の〕南岸に集まるよう勅を下してください。でなくば、北渡の障害となります。」(一部出典不明
 太子綱はこれを聞き入れ、直ちに会理らの軍を白下城より江潭苑(建康の西南二十里。王遊苑)に遷させた【考異曰く、梁武帝紀には『蘭亭苑』とある。今は太清紀と典略の記述に従った(侯景伝も江潭苑とある《梁武帝紀・梁56侯景伝》

○梁武帝紀
 二月丁未,〔皇太子又命〕南兗州刺史南康王會理、前青冀二州刺史湘潭侯蕭退帥江州(北)之眾,頓于蘭亭苑【[二五]「蘭亭苑」太清紀、典略並作「江潭苑」】。

●論功行賞
 辛丑(15日)通鑑、南史梁武帝紀では『甲子(?日)』〉、梁が開府儀同三司・丹陽尹の邵陵王綸を司空とし、安北将軍・合州刺史の鄱陽王範を征北大将軍(鄱陽王範伝・通鑑では『征北将軍』)・開府儀同三司とし、司州刺史の柳仲礼を侍中・尚書右僕射とした《南史梁武帝紀》
 景が于子悦・任約・傅士哲もと東魏の豫州刺史? 547年〈1〉参照)を儀同三司とし、夏侯譒梁の故・安北将軍の夏侯夔の子。侯譒と名乗り、侯景の族子のように振る舞った。548年〈2〉参照)を豫州刺史とし、董紹先もと譙州の助防で、侯景が攻めてくると内応した。548年〈2〉参照)を東徐州刺史とし、徐思玉侯景の豫州入城に貢献した。548年〈3〉参照)を北徐州刺史とし、王偉を散騎常侍とした。梁も偉を侍中とした。

○梁武帝紀
 庚戌【[二六]按太清三年二月丁亥朔,是月無甲子,梁書作「庚戌」,二月二十四日也,是】,〔以開府儀同三司、丹陽尹邵陵王綸為司空,〕安北將軍、合州刺史鄱陽王範以本號(為征北大將軍)開府儀同三司。〔以司州刺史柳仲禮為侍中、尚書僕射。〕

●梁、侯景の要求を次々と呑む
 乙卯(29日)誤り?《出典不明》、景が再び上表して言った。
「今、〔長江〕西岸【歷陽】より入った情報によると、高澄東魏)は既に寿陽(2月前参照)・鍾離(1月12日参照)を得たとか。これでは臣の拠るべき場所が無いので、代わりに広陵(南兗州)と譙州(頓丘)を借りることをお許しください。寿陽・鍾離を手に入れましたら、直ちに朝廷にお返しいたします。」《南80侯景伝》
 また、こうも言った。
「援軍が既に南岸にいるため、京口(南徐州。建康の東)より渡江することをお許しください。」
 太子綱はどちらも許可した。

 癸卯(17日)、梁が大赦を行なった《出典不明》

 景は永安侯確と直閤将軍の趙威方前譙州刺史の趙伯超の子。寒山の戦いの際、父が逃げようとする中、あくまで戦い続けようとした。547年〈3〉参照)の勇略を恐れていた《魏98蕭衍伝》
 庚戌(24日)、景はまた上表して言った。
「永安侯確と直閤将軍の趙威方が、柵の向こう側から何度も『天子が盟約を結ぼうと、我らは必ずお前を滅ぼすぞ』と罵ってきて恐ろしいので、動く事ができません。この二人を城に召してくだされば、臣はすぐにでも包囲を解いて城を去りましょう。」《梁56侯景伝》
 辛亥(25日)、武帝は吏部尚書の張綰548年〈3〉参照)を派し、確を南中郎将・広州刺史、威方を盱眙太守(出典不明)とすると言って城に召した。確はこたびの盟約は必ず反故にされ、台城は陥落すると考えていたため、何度も上奏して入城を固辞したが、帝は許さなかった。確はそこで先に威方を入城させて(南53永安侯確伝)〔油断させたのち〕、南方に逃亡しようとした。〔父の〕邵陵王綸はこれを聞くと、確にこう言った。
「台城の包囲既に久しく、聖上の身は危殆に瀕し、臣下の心も湯火に陥ったかの如く切迫している。故に今、こうして〔仮に〕盟いをして景を遠くに遣り、後図を策そうとしているのだ。勅命は既に下ったのだ! お前は何故それに背こうとするのだ!」(出典不明
 確がなおも入城を拒むと、綸は泣いてこう言った。
「お前は謀反するつもりか!」
 この時、周石珍制局監で、侯景に君側の奸の一人として名を挙げられた。548年〈2〉参照)と東宮主書の左法生出典不明)が朝廷の使者として綸の陣屋を訪れていた。確は彼らにこう言った。
「侯景は口では去る去ると言っていますが、包囲を解かない時点で本心は明らかではありませんか。今それがしを入城させても、何の利益もありませんぞ!」
 石珍は答えて言った。
「敕は下ったのです。拒否することは許されませんぞ!」(魏98蕭衍伝には、武帝は使者を派遣して拒否されると、手ずから『確が入城を拒否すれば、軍法を用いてこれを送れ。』といった勅書を書き、救援軍に与えたとある
 確がなおも肯んじないでいると、綸は激怒して前譙州刺史の趙伯超騎射に優れ、陳慶之・韋放らとともに北魏の渦陽を陥とした。寒山の決戦では東魏軍に怖気づき、戦わずに逃走した。鍾山の決戦においても侯景軍に怖気づいてすぐ逃走し、梁軍大敗のきっかけを作った。548年〈4〉参照)にこう言った。
「譙州、わしの代わりにこやつを斬ってくれ! わしはその首を持って城に入る!」
 伯超は刀を舞わし、確を横目にこう言った。
「それがしは君侯()を知っていますが、刀は知っていませんぞ!」
 確は涙を流し、遂に台城に入った【武帝父子は景の要求に唯々諾々と従うことで台城攻撃を回避しようとしたが、却って攻撃を速やかにしてしまったのである】(無抵抗にしていれば引き下がるというのは幻想である《梁29永安侯確伝》


 549年(2)に続く