[西魏:大統十四年 東魏:武定六年 梁:太清二年]

●羊侃の死
 癸巳(12月7日)《出典不明》、副都督城内諸軍事の羊侃528年8月に北魏から梁に寝返った。文武に優れた名将。548年〈4〉参照が病死した(享年54)。
 侃は若い頃から勇猛で人並み外れた筋力を持ち、十余石(一石は約26kg)の弓を引くことができた(南史では二十石で、馬上では六石の弓を引いたという)。〔北魏の〕兗州にいた時、堯廟の塀を五尋(9m80cm。一尋は1m96cm)に渡って駆け上ることができ、横にも七歩進むことができた(原文『嘗於兗州堯廟蹋壁,直上至五尋,橫行得七跡』)。また、泗橋には高さ八尺・腰回り十囲の石像が数体置かれていたが、侃はこれを両手に持ってぶつけ、みな壊してしまった。
 侃は派手好きで、音律を得意とし、『採蓮』・『棹歌』の曲を作ったが、どちらも非常に新鮮な響きがあった。芸妓には糸目をつけず、数々の人材が集った。
 弾箏人の陸太喜は長さ七寸の鹿角爪を着けて演奏した。
 舞人の張浄琬は腰回りがわずか一尺六寸(約40cm)しかなく、人々は〔その軽さから〕『掌中()儛』(掌の上で舞うこと。非常に身軽な舞の形容。伝説によれば、前漢の成帝の皇后の趙飛燕が始めたこととされる)ができると言い合った。
 孫荊玉は腰を反らせて〔手を〕地に着けること(原文『反腰帖地』。ブリッジ?)ができ、席上にある玉のかんざしを口にくわえることができた。
 皇帝から与えられた歌人の王娥児と、太子から与えられた歌者の屈偶之は、共に歌声が非常に美しく、比肩する者が無かった。
 衡州に赴任した時(543年)、侃は小舟二艘を繋げ、その上に三つの部屋を造って、珠玉や錦織で飾り、多くの帳や屏風をしつらえて、女楽隊を居流れさせた。侃は潮汐が起こると同時にともづなを解き、川を前にして宴会を催した。川沿いの堤の上は見物人で満ち満ちた。
 大同年間(535~546)に陽斐が東魏の使節としてやってきた(542年12月に出発している)。侃は北方にあったとき斐と同学であったため、もてなしの酒宴の幹事に任じられた(北斉42陽斐伝では斐は最後まで侃と会うのを拒んでいる)。
 このとき賓客は三百余人もいたが、彼らに出された食器はどれも金玉珍宝で飾られ、三組の女楽隊が演奏し、夜になると、百余人の侍女たちが手に手に金花で装飾された燭台を持って場を照らした。侃は下戸であったが、賓客と交遊することを好み、終日酒を注いで(原文『獻酬』。飲み交わして? 我慢して飲んだ?)彼らと酔醒を共にした。
 また、寛大で器が大きかった。北魏から梁に亡命したのち、漣口にて船上の酒宴を開いた。このとき客人の張孺才が酔った拍子に火災を起こし、七十余艘がこれに巻き込まれ、無数の金帛が灰となった。侃はこの悲報を聞いても全く意に介せず、客人と飲酒を続けた。孺才は恥と恐れの余り山野に逃げ隠れたが、侃は説得して呼び戻し、以前と同じ態度で彼をもてなした《梁39羊侃伝》
 侯景が建康にやってきた時、台城の門は固く閉じられていたが、それでも城内の官民は大騒ぎし、為す所を知らなかった。ただ、太子左衛率の羊侃が東掖門にどっかと腰を据えて、一夜の内に部署の手配を済ませた〔ため、台城は〕百余日に渡って賊の侵入を防ぐことができた。このとき城内には約四万の民衆と百人余りの王公朝士がいたが、みな侃一人を頼りとして身を保つことができたのである。〔羊侃の器量は、凡人のそれと〕かくも大きな隔たりがあった《顔氏家訓》

〔守備の要であり、心の支えであった〕侃が死ぬと、城中はますます恐れを抱いた。

●攻城再開
 丁酉(11日)《出典不明》、景軍が飛楼・橦車・登城車・鉤堞車・階道車・火車を造り、台城の門の前に並べた。どれも高さは数丈(一丈は約2m50cm)あり、二十の車輪が取り付けられていた《梁56侯景伝》。景軍はこれらを用いて再度攻城を開始し、蝦鞾(ガマ。ガマガエル)車を用いて土石を運び、堀を埋めた《南80侯景伝》

●湘東王繹、更に援軍を発す

 庚子(14日)、都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・荊州(治 江陵)刺史の湘東王繹字は世誠。武帝の第七子。時に41歳。548年〈4〉年参照)が〔11月12日の呉曄らの派遣に続き、〕世子の蕭方等字は実相、時に21歳)に一万の兵を与え、公安より建康の救援に向かわせた。繹は更に竟陵(襄陽と江陵の中間にある)太守の王僧弁字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。劉敬躬の乱の平定に活躍した。542年参照)に仮節を与え、一万の兵と食糧を船に載せて漢川を東下するよう命じた【考異曰く、太清紀には『精兵二万』とある。今は梁書王僧弁伝の記述に従った《梁45王僧弁伝》

●蕭方等と徐妃
 蕭方等は湘東王繹の長子である。母は徐妃。
 徐妃は諱を昭佩といい、東海郡郯県の人である。祖父の孝嗣は南斉の時に太尉・枝江文忠公となった。父の緄は侍中・信武将軍となった。
 妃は天監十六年(517)の12月に湘東王に嫁ぎ、世子方等・益昌公主の蕭含貞を産んだ。ただ、妃は容姿が醜かったため寵愛されず、繹は二・三年に一度しかその寝室に行かなかった。妃は繹が片目が見えないのを皮肉り、繹が来るのを知ると必ず顔の半分だけ化粧をしてこれを待った。繹はこれを見ると激怒して寝室を出た。
 妃は酒が好きで、大体いつも泥酔しており、繹がやってくると必ずその服に嘔吐した。また〔淫乱で〕、荊州後堂の瑤光寺にいる智遠という道士と密通した。また、繹の側近で美男子の暨季江キキコウ)とも密通した。季江はそのたびに嘆息してこう言った。
「栢直の犬は老いてなお猟をすることができ、蕭溧陽の馬は老いてなお早く駆けることができ、徐娘は老いてなお好色である。」
 また、当時、賀徽という美男がいたが、妃はこれとも普賢尼寺で待ち合わせをし、白角枕の上で詩の応酬をした。
 また、妃は嫉妬心が人一倍強く、繹に寵愛されていない妾を見ると一緒に酒を飲み交わすが、少しでも妊娠の兆候が現れた者には即座に自らこれを斬った。

 繹の第二子の蕭方諸の母の王氏は、美貌によって(南54武烈世子方等伝)繹から寵愛を受けていたが、〔産んでから?〕程なくして亡くなった。繹はこれを妃がやったものだと疑った《南12元帝徐妃伝》


 方等は若くして聡明で才能があり、騎射を得意とし、創造力が非常に優れていた《梁44忠壮世子方等伝》。とりわけ肖像を書くのが上手く、〔酒宴の際に〕賓客の顔を素早く数人分写し取り、それを童孺(召使いの少年。林田愼之助氏は『ボーイ』と訳す)に見せて尋ねると、〔そのあまりの上手さに〕誰もがその名を言い当てることができた《顔氏家訓》

 また、自然を愛し、山林に隠遁する生活に憧れた。徐妃が嫉妬によって寵を失い、王氏の死の責任を問われるようになると、方等も身に不安を覚えるようになった。繹がそれを聞いてますます方等を嫌うと、方等はいよいよ恐懼し、隠遁志向の強い論文を著して災いを避けようとした。

 当時、高齢だった武帝は(南54武烈世子方等伝)諸王の長子たちを見てみようと思い、彼らを招き寄せた。繹がそこで方等を派遣すると、方等はこの鬱屈とした環境から抜け出せることを喜び、進んで船に乗った。繇水(華陽付近を流れる川)に到った所で侯景の乱が起こると、繹は方等を呼び戻したが、方等は書簡を送ってこう言った。

申生春秋晋の太子。文公の兄。父の寵妃の驪姫に迫られ自殺した)が死を恐れなかったのに、どうして私が命を惜しみましょうか。」

 繹はこれを読むと説得を諦め、一万の兵を与えて建康への援軍に向かわせることにした。

 方等は景軍と戦う際、矢石を恐れず、常に陣頭に立って兵を指揮した《梁44忠壮世子方等伝》


●攻城戦
 壬寅(16日)、侯景が火車を用いて台城東南の大櫓を焼いた《梁56侯景伝》。梁の材官の呉景は発想力が豊かで、城内の地面に即座に新しい樓を建てた。火がようやく消え始めた時、景軍は新たな櫓が既に建っているのを見て仰天し、神の仕業だと考えた。また、景軍は櫓に火が付いた時、密かに城壁の下に穴を掘っていた。呉景は〔足場を失った〕城壁が崩壊する前に異変に気づくと《出典不明》、城内に新たに半月状の城壁を築いて侵入を防いだ《南80侯景伝》。また、同時に火の付いたものを投げ、景軍の攻城兵器を焼いた。すると景軍は攻城を諦め、退却した《梁56侯景伝》

 太子綱は〔これを見ると〕太子洗馬の元孟恭に千人の兵を与え、大司馬門(台城南門)より〔景軍を追撃させたが〕、孟恭は左右と共に景に降ってしまった《出典不明》

 戊申(22日)、尚書令の謝挙侯景の受け入れに反対した。548年〈1〉参照が亡くなった《梁武帝紀》

 己酉(23日)《出典不明》、景軍が土山を用いてじわじわと台城の櫓に迫った。この時、城内の西の土山は太府卿・都督城西面諸軍事(梁12韋黯伝)の韋黯梁の名将韋叡の子。もと南豫州刺史。侯景の寿陽入城を許した。548年〈3〉参照が、東の土山は左衛将軍の柳津字は元挙。柳仲礼〈司州刺史。侯景の討伐を命じられた。548年(2)参照〉の父。548年〈3〉参照が守備していた(陳12沈恪伝では『侯景圍臺城,恪率所領入臺,隨例加右軍將軍。賊起東西二土山以逼城,城內亦作土山以應之,恪為東土山主,晝夜拒戰。以功封東興縣侯,邑五百戶』とある。柳津は飾りで、実際の指揮は沈恪が執ったのだろうか?)。津は『雉尾炬』(火矢。羊侃が用いた。548年〈3〉参照)を景軍の土山に投擲し、その上にあった櫓や砦を全て燃やし尽くさせた。また、景軍の土山の下にまで地下道を掘り、基盤の土を全て取り去らせた。すると土山は崩壊し、その上にいた景兵は残らず圧死した《南80侯景伝》
 また、城内は飛橋を作り、二つの土山の間に架けた(城内と城外の土山? 或いは城内二つの土山)。景軍は飛橋が遠くから伸びてきたのを見て(原文『迴出』)仰天し、雪崩を打って逃走した《出典不明》
 景軍は楼車に登って四方より台城に迫ったが、城内は石を飛ばして車を破壊し、景兵の死体は城下に折り重なった。そこで景は攻城を諦め、土山を直すことなく、攻城兵器を燃やして退却した《南80侯景伝》

 材官将軍の宋嶷が景に降り、玄武湖(建康の北にある湖)の水を引いて台城に灌ぐよう進言した。景がこれを実行すると、台城周辺はみな奔流に呑み込まれ、水位は数尺に達した。

◯梁56侯景伝
 材官將軍宋嶷降賊,因為立計,引玄武湖水灌臺城,城外水起數尺,闕前御街並為洪波矣。

●援軍陸続と到る
 これより前、武帝は衡州【隋書地理志曰く、衡州は南海郡の含洭県に置かれた】刺史に任命していた韋粲字は長蒨〈倩〉。車騎将軍の韋叡〈520年参照〉の孫で、北徐州刺史の韋放〈陳慶之と共に北魏の渦陽を陥とした。532年(5)参照〉の子)を散騎常侍として中央に呼び戻し《梁43韋粲伝》、臨賀(衡州の西)内史・都督で長沙の人の欧陽頠字は靖世。梁の名将蘭欽の親友。544年参照)を監衡州事とした《陳9欧陽頠伝》


 粲が廬陵(衡州の東北)に到った時、侯景は乱を起こした。粲は部下の中から五千の精鋭を選び抜き、馬百頭と共に昼夜兼行の強行軍で建康の救援に赴いた。しかし豫章(廬陵の東北)に到った所で景軍が既に横江(長江沿岸にある)を通過したとの報に接すると、明威将軍・豫章内史の劉孝儀本名は潜。時に65歳)とこれから取るべき行動について相談をした。 すると孝儀はこう言った。
「このような事があったなら、必ず敕使が伝えているはずです。一介の使者の言葉を軽々しく信じて、無闇に動いてはなりません! 恐らく、この情報は正しくないものでしょう。」
 この時、孝儀は宴席を設けていたが、粲はこれを聞くと怒り、持っていた杯を地に叩きつけてこう言った。
「賊が長江を渡り、宮門に向かっているのなら、水陸は共に遮断され、勅使はここに辿り着くことさえできぬだろう! それに、そもそも勅使が来ないからと言って、どうして我らが安穏としていられようか! 私は今日酒を飲む気にはなれぬ!」
 かくて直ちに馬を飛ばし、第八弟の韋助と第九弟の韋警に前軍を指揮させて(南58韋粲伝)出城した。孝儀は子の劉励に郡兵三千を与えてこれに同行させた(梁41劉潜伝)。その出発の直前、たまたま江州(治 尋陽。豫章の北)刺史の当陽公大心字は仁恕。太子綱の第二子。548年〈4〉参照から迎えの使者が来たので、粲はこれに応えて直ちに大心のもとを訪れ、こう言った。
「長江上・中流域の藩鎮の中で、江州は都に最も近い所にあります。殿下はその刺史なのでありますから、必ずや救援軍の先頭に立たねばなりません。しかし江州は長江中流の要地でもありますので、これを留守にしておくことも許されません。ゆえにここは、殿下は鎮所を〔尋陽から〕湓城に遷して威圧するに留め、救援には一部将を派遣すればよいと存じます。」
 大心はこれに同意し、中兵参軍の柳昕に二千の兵を与えて粲に同行させた。粲は家族を全て江州に残し、小舟に乗って救援の道に就いた。粲が南洲(横江の南にある長江の小島)に到ると、その外弟で司州刺史の柳仲礼賀抜勝の雍州侵攻を退けた。身長八尺の勇将。548年〈2〉参照)も一万余を率いて横江に着到した。粲は直ちに司州軍に兵糧や武器を支給すると共に、私財も散じて分け与えた《梁43韋粲伝》

●援軍不和
 これより前、安北将軍・合州刺史の鄱陽王範に派遣され、張公洲【太清紀〔や侯景伝〕の記述には蔡洲とある。張公洲と蔡洲は同一のものか】にて上流から来る諸軍を待っていた督江右援軍事・西豫州刺史の裴之高と範の世子の蕭嗣11月29日参照)は、韋粲らの軍がやってきたのを知ると、二百余艘の(梁28裴之高伝)船を遣ってこれを出迎えた。
 丙辰(30日)〈梁武帝紀〉の夜、粲・仲礼および高州(広州の西南)刺史の李遷仕・前司州刺史の羊鴉仁懸瓠から無断で撤退し、武帝に激怒されてやむなく淮河のほとりに留まっていた。侯景から叛乱の誘いを受けたが断った。548年〈2〉参照・南陵(建康の西南にある南豫州の南)太守の陳文徹536年〈1〉の人物と同一?)・宣猛将軍の李孝欽ら(梁武帝紀・侯景伝。梁武帝紀には『司州刺史柳仲礼、前衡州刺史韋粲、高州刺史李遷仕、前司州刺史羊鴉仁等』とあり、侯景伝には『司州刺史柳仲礼、衡州刺史韋粲、南陵太守陳文徹、宣猛將軍李孝欽等』とあり、のちに『高州刺史李遷仕、前司州刺史羊鴉仁又率兵繼至』とある)が新林(張公洲の東南、南58韋粲伝)の王遊苑(建康の西〔南〕二十里。547年9月に完成)にて合流した。粲は仲礼を大都督に推し、これを下流軍に伝えたが、裴之高は自分より年齢や官位の低い仲礼の下風に立つのを恥じて(之高は69の高齢。仲礼は不明)こう言った。
「柳節下(将軍への敬称)はただの州将(州刺史)ではないか。わしは、そのような者に決して鞭板は執らぬぞ(上官のために、武官は馬鞭を持って先払いをし、文官は手板を持って侍立した)。」
 かくて何日経っても討論は終わらなかった。粲はそこで兵に対してこう声高に主張して言った。
「今我らは賊を討ち、国難を救うために集まった。私が柳司州を推したのは、彼が長く辺境の防衛に活躍し、侯景も恐れ憚ったことがある程の勇者だからだ。また、その配下の兵馬も精鋭で、右に出るものが無い。確かに、官位では柳司州は私より下で、年齢でも司州は私より若い(粲は53歳)。しかし、国家の存亡がかかっている時に、そのような事は関係が無かろう。〔私がこう考えているのに、裴公はつまらぬことにこだわっておられるのだ。〕今一番大切なことは、将軍たちが団結することである。そうでなければ大事は去るだろう。裴公は国家の元老であり、年齢も名望も高くあられるのに、どうして私情を挟んで大計を誤ろうとなさるのか! 私は今より、諸軍のために説得に赴こうと思う。」
 かくて一艘の小舟に乗って之高の陣屋を訪れると、厳しく責め立てて言った。
「諸将の意見は、豫州の考えと同じではありません。二宮(天子と太子)の身危うく、凶賊の勢い盛んな今、臣子(臣下)のやるべきことは、心を合わせ、力を尽くして〔二宮を救い、凶賊を討つことです。〕それなのに、どうして豫州は自ら和を乱すようなことをなさるのですか! 豫州がまだ異を唱えるなら、我らの矛先は賊とは違う所に向かうでしょう。」
 之高はこれを聞くと、垂泣してこう言った。
「わしは国家から大恩を受けた身ゆえ、士卒に先んじて賊と戦うべきなのだが、老いのためにそれができぬ。わしの望みは柳使君(刺史の敬称)と共に凶逆を平らぐことだ。衆議の意見が一致したのなら、老夫の意見など聞かずとも良い。もし疑うならわしの胸を割いて心を見ればよかろう。」
 かくて衆議は定まり、仲礼が大都督となった《梁43韋粲伝》

○梁武帝紀
 丙辰,司州刺史柳仲禮、前衡州刺史韋粲、高州刺史李遷仕、前司州刺史羊鴉仁等並帥軍入援,推仲禮為大都督。
○梁43韋粲伝
 先是,安北將軍鄱陽王範亦自合肥遣西豫州刺史裴之高與其長子嗣,帥江西之眾赴京師,屯於張公洲,待上流諸軍至。是時,之高遣船渡仲禮,與合軍進屯王遊苑 。粲建議推仲禮為大都督,報下流眾軍。裴之高自以年位,恥居其下,乃云:「柳節下是州將,何須我復鞭板。」累日不決。粲乃抗言於眾曰:「今者同赴國難,義在除賊,所以推柳司州者,政以久捍邊疆,先為侯景所憚;且士馬精銳,無出其前。若論位次,柳在粲下;語其年齒,亦少於粲,直以社稷之計,不得復論。今日形勢,貴在將和;若人心不同,大事去矣。裴公朝之舊齒,年德已隆,豈應復挾私情,以沮大計。粲請為諸君解釋之。」乃單舸至之高營,切讓之曰:「前諸將之議,豫州意所未同,即二宮危逼,猾寇滔天,臣子當勠力同心,豈可自相矛盾,豫州必欲立異,𨦟鏑便有所歸。」之高垂泣曰:「吾荷國恩榮,自應帥先士卒,顧恨衰老,不能効命,企望柳使君共平凶逆,謂眾議已從,無俟老夫耳。若必有疑,當剖心相示。」於是諸將定議,仲禮方得進軍。

●秦淮河対峙
 宣城内史の楊白華も子の雄に郡兵を率いて仲礼らのもとに赴かせた。援軍は十余万にまで達した。

 白華は北魏の名将で荊州刺史の楊大眼の子である。
 大眼は三子がおり、長子は楊甑生、次子は楊領軍、三子は楊征南といい、みな潘氏から産まれ、才気は父の面影があった。大眼が営州に流罪にされた時、潘氏は洛陽にて非常に不貞行為を働いた。大眼が復官して中山内史となった時、妾の娘婿の趙延宝がこの事を大眼に告げると、大眼は怒って潘氏を監禁し、殺害した。
 大眼はのちに元氏を後妻に娶った。大眼が死んだ時、楊甑生らは印綬の所在を尋ねた。この時、元氏は初めて妊娠しており、自分の腹を指差して言った。
「開国(安成県開国子)の爵位は我が子が継ぐべきものである! 妾の子のお前たちが望める物ではないわ!」
 甑生は深く恨みに思った。大眼の棺が洛陽に帰る際、甑生らはこれに付いていき、荊州城の東七里の地にて宿泊した。二更(22時頃)の頃、甑生らは棺を開けた。趙延宝が怪しんで尋ねると、楊征南がこれを射殺した。元氏は恐れおののいて川に飛び込んで逃げようとした。征南がこれも射ると、甑生は言った。
「天下のどこに母を殺す者がいるか!」
 そこで射るのをやめた。甑生らは大眼の屍を奪い、人に馬上にて抱きかかえさせ、襄陽に行って梁に亡命した。荊州の人々は甑生らの武勇を恐れていたため、追う事はしなかった。
 白華(領軍か征南?)は筋力に優れ、容貌は雄々しく立派だった。胡太后に迫られて関係を持ったが、のちの災いを恐れ、父が死ぬとその遺体と部下と共に梁に亡命した。このとき名を華に改めた。太后は華を追慕してやまず、『楊白花歌辞』を作り、それを宮女に歌わせた。宮女らは腕を組み足を踏み鳴らしてこれを歌った。その歌詞は非常な悲哀に満ちていた。白華は梁にて多くの戦功を立てた。暴れ馬も乗りこなす事ができ、並外れた武芸の巧みさと身軽さを武帝に非常に賞賛された。太僕卿や太子左衛率を歴任し、益陽県侯に封ぜられた。

 裴之高は貞威将軍で十三(南史では十二)弟の裴之横字は如岳)と共に、一万の水軍を率いて張公洲に陣を構えた。景は先に捕らえていた之高の弟・姪・子・孫に鎖を付けて自軍の前に並べ、その後ろに鼎鑊(大釜)と刀・鋸(ノコギリ)を用意してこう言った。
「裴公が降らぬなら、今すぐこやつらを煮殺すぞ。」
 之高は弓の達者な者を呼び、子たちを射させた。矢は二本放たれたが、どちらも当たらなかった《出典不明》

 仲礼軍が新亭(新林の北、建康の近南)に進むと、景は中興寺(新亭岡に新亭精舍が建てられ、のち中興寺に改名された)に陣を構えた《梁43韋粲伝》。景が一万を率い、後渚にて決戦を挑んでくると、仲礼はこれに応えて出撃しようとした。しかし韋粲は言った。
「遅い時間であるし、兵も疲労している。戦わない方がいいだろう。」
 仲礼はそこで守りを固めて出撃しなかった《出典不明》。すると景は退いた。

 救援軍は秦淮河に沿って柵を設けた。すると景もその北岸に柵を築いて対抗した。
 この日の夜、仲礼は粲の陣屋を訪れ、明日早朝の決戦に備えて部署の取り決めを行なった。粲は青塘(青渓の堤)【青溪水は鐘山より流れ、秦淮河に合流する。呉の孫権は城北に堀を穿ち、そこに玄武湖の水を注ぎ入れた】の守備を命じられた。粲は青塘が石頭城への中路にある要地であることから、陣地が夜明けまでに完成しなかった場合景軍が狙ってくるのは必至だとして、頗る難色を示し、仲礼にこう言った。
「下官に軍才は無く、ただ命を国に捧げる気概があるだけの者です。節下は妥当な人物を選別し、大きな損害を出さぬようにすべきであります。」(原文『「下官才非禦侮,直欲以身殉國。節下善量其宜,不可致有虧喪。」』
 仲礼は応えて言った。
「私は兵糧船を全て、〔秦〕淮渚(長江と秦淮河の合流地点にある小島?)に近い青塘に停泊させようと思っています(原文『青塘立柵,迫近淮渚,欲以糧儲船乘盡就泊之』)。この要地を守れるのは兄者以外おりません。兵が少ないのを心配なさいますなら、一部隊を割いて援護をさせましょう。」
 かくて直閤将軍の劉叔胤の部隊に粲の援護をさせた。粲は配下の兵を率いて水陸から青塘に向かった《梁43韋粲伝》

○魏73楊大眼伝
 楊大眼…有三子,長甑生,次領軍,次征南,皆潘氏所生,氣幹咸有父風。初,大眼徙營州,潘在洛陽,頗有失行。及為中山,大眼側生女夫趙延寶言之於大眼,大眼怒,幽潘而殺之。後娶繼室元氏。大眼之死也,甑生等問印綬所在。時元始懷孕,自指其腹謂甑生等曰:「開國當我兒襲之,汝等婢子,勿有所望!」甑生深以為恨。及大眼喪將還京,出城東七里,營車而宿。夜二更,甑生等開大眼棺,延寶怪而問之,征南射殺之。元怖,走入水,征南又彎弓射之。甑生曰:「天下豈有害母之人。」乃止。遂取大眼屍,令人馬上抱之,左右扶挾以叛。荊人畏甑生等驍勇,不敢苦追。奔於襄陽,遂歸蕭衍。
○梁39・南63楊華伝
 楊華〔本名白花〕,武都仇池人也。父大眼,為魏名將。華少有勇力,容貌雄偉,〔能作驚軍騎,亦一時妙捷,〔武〕帝深賞之。〕魏胡太后逼通〔幸〕之,華懼及禍,〔及大眼死,〕乃率其部曲〔,載父屍,改名華,〕來降。胡太后追思之不能已,為作楊白華(花)歌辭,使宮人晝夜連臂蹋足(蹄)歌之,辭甚悽惋()焉。華後累征伐,有戰功,歷官太僕卿,太子左衞率,封益陽縣侯。

●湘東王繹出陣
 都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・荊州刺史の湘東王繹が子の綏寧侯方諸に留守を託し、三万の精鋭を率いて江陵を発った(12月14日に長子の蕭方等と王僧弁を建康に向かわせている)。諮議参軍の劉之遅劉之享の弟?)らは三たび上書して江陵に留まるように言ったが、繹は書簡を送ってこれを拒否した《出典不明》

●寿陽攻撃
 鄱陽王範の部将で晋熙太守の梅伯龍王顕貴侯景の外弟で中軍大都督。寿陽の留守を託されていた。548年〈2〉参照)の守る寿陽を攻め、その羅城(外城)を陥とした。伯龍は勢いに乗って中城にも攻め寄せたが、敗退した。範は増援を送り、攻城を続行させた(その羅城〜...出典不明)。
 この時、汝陰(合肥)の人の任忠が郷里の人々数百人を率いて伯龍の寿陽攻めに付き従い、戦うたびに敵を破った。のち、現地人(梁の合州か東魏の揚州の人)の胡通が徒党を集めて盗賊行為を働くと、範は忠と主帥の梅思立にこれを討伐させ、平定した。

 任忠は字を奉誠、幼名を蛮奴という。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられた。〔しかし境遇にめげることなく努力した結果、〕優れた頭脳と膂力を(特に騎射を得意とした)併せ持った、郷里の少年たちに慕われる存在となった。鄱陽王範は合州刺史となった時にその評判を聞いて忠を登用し、己の身辺に置いた《陳31任忠伝》

●東魏の悪銭対策
 当時、東魏では質の悪い銭が大量に出回っていた。大将軍の高澄はこの悪風を是正するため、朝廷にこう意見した。
「私鋳は禁ずることができませぬゆえ、ここは市の門に秤を置き、五銖より軽い銭は市に入れぬようにしてはどうでしょうか。」
 朝議は今年の穀物の出来が悪〔く、税収が期待できない〕ため、のちに実施するように言った。澄はそこで意見を取り下げた《出典不明》

●柳慶死諌
 ある時(大統十五年〈549〉以前のこと)、西魏の太師の宇文泰時に42歳)が安定国臣の王茂に怒り【泰は安定公に封じられていたため、国臣がいるのである】、これを死刑にしようとした。しかし、その怒りのもとになったものは茂の責任では無かった。朝臣は皆この事を知っていたが、〔泰を恐れて〕誰も敢えて諫めようとはしなかった。その中で、ただ尚書左丞(右丞?)の柳慶字は更興。高歓との対決が迫った際、荊州ではなく関中に逃げるよう孝武帝に進言した。546年〈2〉参照)だけが意見を提出して言った。
「王茂は無罪であるのに、どうして殺すのですか?」
 泰はいよいよ激昂し、声音・顔色を厳しくして慶にこう言った。
「王茂は死刑に値する奴だ! 庇い立てするなら、卿も同罪にするぞ!」
 かくて慶は縛り上げられて泰の面前に引っ立てられたが、〔恐れることなく〕語気そのままにこう抗弁して言った。
「私は、〔真実を知らされぬ〕君主を不明と言い、〔真実を知りながら君主に〕諫言せぬ臣下を不忠と言うと聞いています。私は身を粉にして国に忠を尽くしておりますゆえ、死など全く恐れませぬが、公が不明の君となることだけは恐れてやみませぬ。どうかご深慮願います。」
 泰はそこでようやく己の過ちに気づき、茂の罪を赦したが、時既に遅く茂は処刑されていた。泰は〔それを聞くとただただ〕押し黙った。明くる日、泰は慶にこう言った。
「卿の言葉を〔早く〕用いなかったばかりに、王茂を無実の罪で殺してしまった。わしは茂の家に銭絹を賜い、過ちだったことを明らかにしようと思う。」
 慶は間もなく子爵に進められ、三百戸を加増された《周22柳慶伝》

 この年、西魏の文帝の第四子の元廓が斉王に封じられた《北史西魏恭帝紀》

●記述は公開すべし
 西魏の丞相府記室の柳虯字は仲蟠。柳慶の兄)が上奏して言った。
『古の君主が史官を置いたのは、恐らく、ただ事柄を記録させるためだけではなく、〔記録をすることで〕悪行を抑止するためでありました。即ち、行動を左史に、発言を右史に記録させ、善行善言を褒め、悪行悪言を貶させることで、立派な気風を打ち立てようとしたのです。故に、斉の史家の一族は前任の者が崔杼に殺されても屈することなく『崔杼、君を弑す』と記し続け、董狐は弑君の犯人を取り締まらなかった趙盾を首魁と見なして『趙盾、君を弑す』と記し、盾に書き直すように言われても拒否して罪を明らかにしたのです。この二事から見る限り、昔は、史官が記述したものはすぐに公開されるのが普通だったのです。しかるに、漢魏以降、記述内容は秘匿され、後世になってようやく明らかにされるのが普通となりました。これでは当時の人々には何の利益もなく、史官は善を勧めることも、悪を匡すこともできなかったのです。また、記述の仕方が秘密にされたことで、いかに正しい記述をしていたとしても、人は知りようが無く、結果、多くの邪説が生まれることになりました。そのため、班固は賄賂を受けたと非難を受け、陳寿は『米の無心を断られたため、丁儀・丁廙の伝を作らなかった』と勘ぐられることになったのです。また、漢・魏の史書を著した者は一氏に非ず、次いで晋史を著した者は数家に上り、以後の王朝の記述もますます諸説紛々として、どれが正しい記述で、何が善で何が悪なのか分からないようになりました。
 謹んで考えてみますに、陛下は天道に則り、故事に倣われ、心を尽くして政務に当たり、諫言をよく聞き入れておられます。そこで、敢えて意見を申し上げます。臣は、史官の記述は、皆まず朝堂に公開して、精査をしてから史館に保管することにするべきだと考えます。このようにして、〔意見を統一して〕善悪を明らかにし、当時の人々にすぐ分からせるようにすれば、善人はますます善行に努め励むようになり、悪人は悪行を為すのを恐れ憚るようになるでしょう。』
 朝廷はこれを聞き入れた。
 この年、虯を秘書丞とし、史事に関与させた。これまで、秘書は書類を司ってはいたが、史事には関与していなかった。秘書が史事に関わるようになったのは、虯が初めてであった《周38柳虯伝》

●北稽胡の乱
 この年、西魏の北山に住む稽胡族が叛乱を起こした。大将軍(あるいは柱国大将軍)の李弼がこれを討伐した。北山は地勢が険しく、人が滅多に通らない所だったが、西魏の帥都督の韓果は迅速な行軍を行ない、稽胡族を潰走させた。 稽胡族は果を著翅人(有翼人)と呼んだ。宇文泰はこれを聞くと笑って言った。
「『著翅』のあだ名は、『飛将』(前漢の李広・後漢の呂布のあだ名)に劣るまい。」
 弼はこの功績により太保・柱国大将軍に昇進した。
 弼の弟で儀同三司の李㯹はこの戦いで多大な戦功を挙げ、幽州刺史(空名)とされ、三百戸を加増された。

○周15李弼伝
 十四年,北稽胡反,弼討平之。
○周15李㯹伝
 又從弼討稽胡,㯹功居多,除幽州刺史,增邑三百戶。
○周27韓果伝
 又從大軍破稽胡於北山。胡地險阻,人迹罕至,果進兵窮討,散其種落。 稽胡憚果勁健,號為著翅人。太祖聞之,笑曰:「著翅之名,寧減飛將。」

 ⑴北山...《読史方輿紀要》曰く、『咸陽県の北四十里に嵯峨山がある。《括地志》曰く、嵯峨山は雲陽県の北十五里にあり、別名北山という。
 ⑵李弼...字は景和。爾朱天光の関中平定に活躍し、敵から「李将軍の前に出るな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、宇文泰が悦を攻めるとこれに寝返った。以降、泰のもとで小関・沙苑の戦いなどに非常に活躍した。548年(2)参照。
 ⑶韓果...字は阿六抜。若くして勇猛で、騎射に長け、並外れた体力を有した。また、抜群の記憶力と智謀を有し、通った所の地勢をつぶさに記憶し、敵の動きを推察し把握することができたため、宇文泰に虞候都督とされ、斥候の騎兵を任された。小関の戦いの勝利に大きく貢献した。537年(1)参照。
 ⑷李㯹...字は霊傑(または雲傑)。五尺(約150cm)に満たぬ小男だったが、非常に勇敢で、沙苑の戦いで大いに活躍し、泰に「戦場にはあのような勇敢さがあるだけでよく、八尺の長身など必要ない」と言わしめた。537年(3)参照。

●仁恵清素
 この年、西魏が開府儀同三司・撫夷県公の賀蘭祥を都督三荊南襄南雍平信江隨二郢淅十二州諸軍事・荊州刺史とし、爵位を博陵郡公に進めた。
 これより前、祥は行荊州事を務めたことがあった。それは朞月(一年、或いは一ヶ月)未満という短い期間だったが、頗る良い評判を挙げた。その祥が再び赴任してくることを知ると、人民たちは喜んで受け入れた。祥の着任以後、帰順してくる漢水以南の流民(梁からの難民)は毎日千単位の数に上った。周辺の蛮夷たちもみな喜んで祥に付き従った。
 盛夏のある時、日照りがあった。祥は自ら領内を巡視し、己の政治に何か間違いが無いか確認した。すると、古い墓が盗掘に遭い、骸骨が野ざらしになっているのを発見した。祥はそこで郡県の長官にこう言った。
「これが仁者のする政治だろうか。」
 かくてそれぞれの管轄の地域にて野ざらしになっている遺体があれば、改めて埋葬し直させた。すると、即日大雨が降った。この年、荊州は大豊作になった。州内には多くの古墓があり、よく盗掘事件が発生したものだったが、このことがあってからというもの、それがぴたりと止んだ。
 祥は宇文泰の姉の子であったが、〔驕ることなく、〕質素な生活を送った。荊州は南は襄陽と接し、西は岷蜀(今の四川)に通じ、珍しい物産を産した。また、当時、西魏と梁は国交を通じていていたので、使者が往来した。そのため、刺史には民間から使者から贈り物が届けられたが、祥はそれを一切受け取らなかった。梁の雍州刺史の岳陽王詧はこれを聞くと大いに祥を気に入り、竹製の屏風・葛布で編んだ衣服・書籍を贈った。祥はその好意を無碍にすることはできず、受け取りはしたが、飽くまで自分の信条を貫き、これらを全て係の部門の者に与えてしまった。泰はのちにこれを聞くと、これらをみな祥に与えた。

○周20賀蘭祥伝
 十四年,除都督三荊南襄南雍平信江隨二郢淅十二州諸軍事、荊州刺史,進爵博陵郡公。先是,祥嘗行荊州事,雖未朞月,頗有惠政,至是重往,百姓安之。由是漢南流民,襁負而至者日有千數。遠近蠻夷,莫不款附。祥隨機撫納,咸得其歡心。時盛夏亢陽,祥乃親巡境內,觀政得失。見有發掘古冢,暴露骸骨者,乃謂守令曰:「此豈仁者之為政耶。」於是命所在收葬之,即日澍雨。是歲,大有年。州境先多古墓,其俗好行發掘,至是遂息。祥雖太祖密戚,性甚清素。州境南接襄陽,西通岷蜀,物產所出,多諸珍異。時既與梁通好,行李往來,公私贈遺,一無所受。梁雍州刺史、岳陽王蕭詧,欽其節儉,乃以竹屏風、絺綌之屬及以經史贈之。祥難違其意,取而付諸所司。太祖後聞之,並以賜祥。

 ⑴賀蘭祥...字は盛楽。宇文泰の姉の子。時に34歳。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。特に宇文泰に可愛がられた。泰が入関すると宇文護と共に晋陽に残り、のち、共に関中に赴いた。沙苑の戦いでは長安の留守を任された。
 ⑵西魏の歴代荊州刺史...534~535年:独孤信→(東魏領)→537~539年:不明→540~546年:長孫倹→546~547年:王思政→547~548年:泉仲遵(行州事)


 549年(1)に続く