[西魏:大統十四年 東魏:武定六年 梁:太清二年]



┃東府城の陥落


 侯景は台城の門の前に本営を置き、二千の兵を分けて東府城を攻めさせた。しかし景兵は守将の南浦侯推の必死の抵抗に遭い、三日をかけても陥とすことができなかった。そこで景自らが攻城の指揮を執ることになった。
 景軍は百尺(約25メートル)も高さがある楼車(登城楼車?)を作り、それを以て東府城の城堞(城壁の上にある、身を隠すための凸凹)を鈎で全て地に落とした。矢石を雨のように城内に降らせると、宣城王(大器。太子の長子)防閤の許伯衆梁22南浦侯推伝では『東北楼主の許鬱華』とある)は夕方に密かに門を開いて景軍を引き入れ、城壁の上に登らせた。
 辛酉(11月4日)、東府城は陥落した。景は儀同の盧暉略に長刀を持たせた数千人を率いさせ、城門の両側に立たせた。城内の文武官は裸にされてそこに追い立てられ、殺された。死者は二千余人(南史では『三千余人』)にも上った。南浦侯推と中軍司馬の楊暾も同じ日に殺された。
 景はその遺体を杜姥宅(南掖門近くにある。東晋三代皇帝の成帝の后の杜皇后の母、裴穆の遺した邸宅)に集め、台城内に向けてこう言った。
「早く降らぬと、こうしてくれるぞ!」
 景は皇太子の蕭見理盧暉略に東府城の守備を任せた。

 南浦侯推は字を智進といい、安成王機梁の武帝の弟の子)の次弟である。若年の頃から聡明で、作文を好み、太子綱から非常に高い評価を受けた。普通六年(525)に王子を以て通例通り爵位を与えられた。のち寧遠将軍・淮南太守とされ、のち軽車将軍・晋陵太守、給事中、太子洗馬、秘書丞を歴任した。のち戎昭将軍・呉郡太守とされた。赴任すると必ずその地に大旱魃が発生したので、呉人は推を『旱母』と呼んだ。

○資治通鑑
 於是景營於闕前,分其兵二千人攻東府;南浦侯推拒之,三日,不克。景自往攻之,矢石雨下,宣城王防閤伯衆潛引景衆登城【宣城王大器,太子之長子也。許伯衆為其防閤,在東府,故得為景內應。姚思廉《梁書》作「許鬱華」,時為東府東北樓主】。辛酉,克之;殺南浦侯推及城中戰士三千人,載其尸聚於杜姥宅,遙語城中人曰:「若不早降,正當如此!」
○梁武帝紀
 十一月辛酉,賊攻陷東府城,害南浦侯蕭推、中軍司馬楊暾。
○梁22南浦侯推伝
 南浦侯推,字智進,機次弟也。少清敏,好屬文,深為太宗所賞。普通六年,以王子例封。歷寧遠將軍、淮南太守。遷輕車將軍、晉陵太守,給事中,太子洗馬,祕書丞。出為戎昭將軍、吳郡太守。所臨必赤地大旱,吳人號「旱母」焉。侯景之亂,守東府城,賊設樓車,盡銳攻之,推隨方抗拒,頻擊挫之。至夕,東北樓主許鬱華啟關延賊,城遂陷,推握節死之。
○梁56・南80侯景伝
 景又攻東府城,設百尺樓車,鉤城堞盡落,城遂陷。景使其儀同盧暉略率數千人,持長刀夾城門,悉驅城內文武躶(倮)身而出,賊交兵殺之,死者二(三)千餘人。南浦侯推是日遇害。景使正德子見理、儀同盧暉略守東府城。


┃心理戦
 これより前、侯景は都城に到ると、武帝は既に病死したと流言を飛ばした。城内はこれを信じた。
 壬戌(11月5日)、太子は変事が起こるのを恐れ、武帝に城壁の上を巡回するよう求めた。武帝がそこで城壁の上に登ろうとすると、太子右衛率の陸験朱异と共に奸賊の一人として名を挙げられた。548年〈2〉参照)が泣いてこう諫めて言った。
「陛下は万乗の君という大切なお役目がございます。軽々しい振る舞いはどうかおやめください。」
 帝はその言葉に感じ入り、城壁の上に登るのはやめ、大司馬門に姿を見せるに留めた。城壁の上にいる守兵は蹕声(人払いの声)を聞くや、軍鼓を打ち鳴らし、大声を上げて泣いて喜び合った。また、人民の心も落ち着いた。

○資治通鑑
 景聲言上已晏駕,雖城中亦以為然。壬戌,太子請上巡城,上幸大司馬門,城上聞蹕聲,皆鼓譟流涕,衆心粗安。
○南80侯景伝
 初,景至都,便唱云「武帝已晏駕」。雖城內亦以為然。簡文慮人情有變,乃請上輿駕巡城。上將登城,陸驗諫曰:「陛下萬乘之重,豈可輕脫。」因泣下。帝深感其言,乃幸大司馬門。城上聞蹕聲皆鼓譟,軍人莫不屑涕,百姓乃安。

┃忠臣兄弟の死
 これより前、戎昭将軍・通直散騎侍郎・南津校尉の江子一10月21日参照)は戦わずして景に敗れて建康に還ると、武帝に叱責を受けた。 すると子一は拝謝してこう言った。
「臣は身命を既に国に捧げており、心配するのは死に場所を得ないということだけです。ただ、今回は戦う前に配下がみな臣を棄てて逃げ去ってしまったため、〔仕方がなかったもの〕。臣一人だけでどうして賊を討つことができましょうか! 賊がここにやってくることがあれば、臣は命を賭けてこれに当たり、前罪を償う所存です。もし宮門の前で死ななければ、その後ろで死ぬつもりです。」
 癸亥(11月6日)、子一は太子に許しを得ると、弟で尚書左丞(前尚書右丞?)の江子四・東宮直殿主帥の江子五と共に百余人を率い、承明門(台城北門。広莫門を改名)より城を出て景軍に戦いを挑んだ。子一は景軍の陣に直進したが、景兵は〔怪訝に思い、〕動こうとしなかった。子一はそこでこう叫んで言った。
「賊ども、なんで早くかかってこんのだ!」
 暫くして騎兵が左右から打ちかかってくると、 子一は迷いもなく直進し、槊を以てこれを突き殺した。しかし従者は震え上がってこれに続こうとしなかった。そのうち馬は倒れ槊は折れ、遂に肩を貫かれて死んだ(享年62)。子四と子五はこれを見てこう言い合った。
「兄と共に城を出た我らが、どの面下げて帰れようか!」
 かくて兜を脱いで景軍に打ってかかった。子四は槊に胸を貫かれて死に、子五は首筋に傷を受け、塹壕に還った所で大声一つ上げて死んだ。景は子一の勇気に感じ入り、遺体を城内に帰した。その顔はまだ生きているかのようだった。
 帝は子一に給事黄門侍郎、子四に中書侍郎、子五に散騎侍郎を追贈した。

○資治通鑑
 江子一之敗還也【謂自采石下流敗還之時】,上責之。子一拜謝曰:「臣以身許國,常恐不得其死;今所部皆棄臣去,臣以一夫安能擊賊!若賊遂能至此,臣誓當碎首以贖前罪,不死闕前,當死闕後。」乙亥,子一啓太子,與弟尚書左丞子四、東宮主帥子五帥所領百餘人開承明門出戰。子一直抵賊營,賊伏兵不動【未測其情,故不動】。子一呼曰:「賊輩何不速出!」久之,賊騎出,夾攻之。子一徑前,引槊刺賊;從者莫敢繼,賊解其肩而死。子四、子五相謂曰:「與兄俱出,何面獨旋!」皆免冑赴賊。子四中矟,洞胸而死;子五傷脰,還至塹,一慟而絕【江子一兄弟駢肩以死於闕下,而不足以衞社稷,悲夫!古人所以重折衝千里之外者也】。
○梁43江子一伝
 賊亦尋至,子一啟太宗云:「賊圍未合,猶可出盪,若營柵一固,無所用武。」請與其弟子四、子五帥所領百餘人,開承明門挑賊。許之。子一乃身先士卒,抽戈獨進,羣賊夾攻之,從者莫敢繼,子四、子五見事急,相引赴賊,並見害。詔曰:「故戎昭將軍、通直散騎侍郎、南津校尉江子一,前尚書右丞江子四,東宮直殿主帥子五,禍故有聞,良以矜惻,死事加等,抑惟舊章。可贈子一給事黃門侍郎,子四中書侍郎,子五散騎侍郎。」
○南64江子一伝
 收餘眾步赴建鄴,見於文德殿。帝怒之,具以事對,且曰:「臣以身許國,常恐不得其死,今日之事,何所復惜。不死闕前,終死闕後耳。」及城被圍,開承明門出戰。子一及弟尚書左丞子四、東宮直殿主帥子五並力戰直前,賊坐甲不起。子一引矟撞之,賊縱突騎,眾並縮。子一刺其騎,騎倒矟折,賊解其肩,時年六十二。弟曰:「與兄俱出,何面獨旋。」乃免冑赴敵,子四矟洞胸死,子五傷脰,還至塹一慟而絕。賊義子一之勇,歸之,面如生。詔贈子一給事黃門侍郎,子四中書侍郎,子五散騎侍郎。

┃焦燥
 侯景は当初、建康はすぐに陥とせると楽観視しており、〔その余裕から〕士卒に軍律を徹底させ、略奪などを一切禁じていた。しかし、幾度もの攻撃を撃退され、梁の援兵に逆包囲される危険性が高まると、景は兵士に疑惑の目を向けられるようになり、焦り始めた。また、このとき景軍は石頭・常平などの諸倉から兵糧を得ていたが、それも攻城が長期に渡ったことで食い尽くしてしまっていた。そこで遂に景は禁令を撤廃し、兵に略奪を許した。景兵は民間の米や金・絹、子女妻妾を手当たり次第奪った。こののち、市中の米価は一升十八万銭にまで暴騰し、市民は飢餓の余り互いに食らい合うようになり、己の子さえも食う者が出る有り様となった。その結果、五・六割が餓死するに至った。

○資治通鑑
 景初至建康,謂朝夕可拔,號令嚴整,士卒不敢侵暴。及屢攻不克,人心離沮。景恐援兵四集,一旦潰去;又食石頭常平諸倉旣盡,軍中乏食;乃縱士卒掠奪民米及金帛子女。是後米一升至十八萬錢,人相食,餓死者什五六
○梁56・南80侯景伝
 初,景至,便望克定京師,號令甚明,不犯百姓;既攻城不下,人心離阻,又恐援軍總集,眾必潰散,〔景食石頭常平倉既盡,〕乃縱兵殺掠(便掠居人),交屍塞路,富室豪家,恣意裒剝,子女妻妾,悉入軍營。〔爾後米一升七八萬錢,人相食,有食其子者。〕
 
┃土山の攻防

 乙丑(11月8日)、景は攻城のために台城の東西に土山を築いた。景はこの工事を短期間で終わらせるため、建康の市民を貴賤の別なく動員して、これに昼夜兼行で工事を行なわせ、ちょっとでも怠慢が見えれば拳や棍棒で殴りつけ、疲れ弱った者がいれば殺して土山に埋めた。人々の泣声は天地を震わせた。人々は〔恐怖の余り、〕逃げ隠れもせず黙ってこれに従ったため、人夫は十日のうちに数万人に達した。

 一方、城中もこれに対抗して二つの土山を築いた。その際、太子綱宣城王大器太子の長子)以下の貴人も率先して畚(もっこ)や鍤()を手に土を運んだ(魏98蕭衍伝では太子は制止されている)。土山の上には『芙蓉層楼』という、錦罽(絹織物と毛織物)で飾った高さ四丈の楼閣を築いた。また、決死の士二千人を募って厚めの戦袍や鎧を着せ、これを『僧騰客』と呼んだ。彼らは二つの土山に配置され、昼夜間断なく景軍と戦った。

 あるとき大雨が降り、城内の土山が崩れた。景軍がこれに乗じて攻めかかると、城内は必死に抵抗したが、抑えきれそうに無かった。羊侃528年8月に北魏から梁に寝返った。文武に優れた名将。548年〈3〉参照)はこれを見るや、火のついたものを一斉に投げさせて火の壁を作り、景軍の侵入路を断った。その間に第二の防衛線を築くと、景軍は侵入を諦めた。


○資治通鑑
 乙丑,景於城東、西起土山,驅迫士民,不限貴賤,亂加毆捶,疲羸者因殺以塡山,號哭動地。民不敢竄匿,並出從之,旬日間,衆至數萬。城中亦築土山以應之。太子、宣城王已下,皆親負土,執畚鍤【畚,布袞翻,所以盛土。鍤,側洽翻,所以鍫土】,於山上起芙蓉層樓,高四丈,飾以錦罽【芙蓉層樓,下施棉栱,層層疊出,若芙蓉花然。錦,綵帛。罽,毳布也,織毛為之。罽,音居例翻】,募敢死士二千人,厚衣袍鎧,謂之「僧騰客」,分配二山【二山,謂東土山、西土山也】,晝夜交戰不息。會大雨,城內土崩;賊乘之,垂入,苦戰不能禁。羊侃令多擲火,為火城以斷其路,徐於內築城,賊不能進。
○梁39羊侃伝
 後大雨,城內土山崩,賊乘之垂入,苦戰不能禁,侃乃令多擲火,為火城以斷其路,徐於裏築城,賊不能進。
○梁56・南80侯景伝
〔景又於城東西各起土山以臨城,城內亦作兩山以應之,簡文以下皆親畚鍤。…以太府卿韋黯守西土山,左衞將軍柳津守東土山。山起芙蓉層樓,高四丈,飾以錦罽,捍以烏笙,山峯相近。募敢死士,厚衣袍鎧,名曰「僧騰客」,配二山,交矟以戰。鼓叫沸騰,昏旦不息。〕
 及築土山,不限貴賤,晝夜不息,亂加毆(敺)棰,疲羸者因殺之以填山,號哭之聲,響動天地。百姓不敢藏隱,並出從之,旬日之間,眾至數萬。
 
┃奴隷解放
 景はまた、南人の奴隷となっていた北人の投降を誘い、やってきた者たちをことごとく良民とした。朱异武帝の寵臣。548年〈3〉参照)の奴隷を得ると、これを儀同三司とし、异の家産を全て与えた。奴隷は良馬に乗り錦袍を着て、城下から异をこう罵って言った。
「お前は五十年も務めてようやく中領軍となったが、私は侯王に仕えた途端に儀同三司(北朝では濫授によって価値が暴落していたが、南朝では名誉職としての価値を保っていた)となったぞ!」
 これより三日の間に、景のもとに奔った城内の奴隸は千に及んだ。景はその全員を厚遇し、兵士とした。奴隸たちは感激し、景のために力を尽くすことを誓った。

○資治通鑑
 景募人奴降者,悉免為良;得朱异奴,以為儀同三司,异家貲產悉與之。奴乘良馬,衣錦袍,於城下仰詬异曰:「汝五十年仕宦,方得中領軍;我始事侯王,已為儀同矣!」於是三日之中,羣奴出就景者以千數,景皆厚撫以配軍,人人感恩,為之致死【凡為奴者,皆羣不逞也;一旦免之為良,固已踴躍,況又資之以金帛,安得不為賊致死乎!士大夫承平之時,虐用奴婢,豈特誤其身,誤其家,亦以誤國事,可不戒哉!】。
○南80侯景伝
 又募北人先為奴者,並令自拔,賞以不次。朱异家黥奴乃與其儕踰城投賊,景以為儀同,使至闕下以誘城內,乘馬披錦袍詬曰:「朱异五十年仕宦,方得中領軍。我始事侯王,已為儀同。」於是奴僮競出,盡皆得志。

┃援軍発す
 丙寅(11月9日)、都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・荊州(治 江陵)刺史の湘東王繹は台城が景軍に包囲されているという報に接すると、戒厳令を発すると共に、湘州刺史の河東王誉前太子蕭統の第二子。548年〈2〉参照・雍州刺史の岳陽王前太子蕭統の第三子。嫡孫でもない蕭綱が太子となったことに不満を感じ、雍州で力を蓄えていた。546年〈1〉参照)・江州刺史の当陽公大心字は仁恕。太子綱の第二子。548年〈3〉参照)・郢州刺史の南平王恪字は敬則。武帝の弟・南平元襄王偉の子)ら管轄下の(江州だけ異なるか、追加されたものか)刺史たちに檄文を発し、建康救援の兵を挙げた。

○資治通鑑
 荊州刺史湘東王繹聞景圍臺城,丙寅,戒嚴,移檄所督湘州刺史河東王譽、雍州刺史岳陽王詧、江州刺史當陽公大心、郢州刺史南平王恪等,發兵入援。大心,大器之弟;恪,偉之子也。南平王偉,上弟也。
○周48蕭詧伝
 初,梁元帝將援建業,令所督諸州,竝發兵下赴國難。
○梁55河東王誉伝
 未幾,侯景寇京邑,譽率軍入援,至青草湖。

┃2つの書簡
 朱异が景に書簡を送り、利害を述べて説得した。景は城中の士民にこう告げて返答とした。
「梁は近年、寵臣が政治を壟断し、己の欲望を満たすために人民から搾取を行なった。嘘だという者がいれば、試しに国家の庭園や王公の邸宅、僧尼の寺塔を見てみると良い。また、百官が数百の妻妾・数千の召使いを抱え、耕すことも織る事も無く、贅沢な衣服を着、食事を摂ることができていたのは、搾取のお陰と言わずして何であろう。それがしが宮門のもとに馳せ到ったのは、〔かくのごとく人民の害毒である〕寵臣を誅せんがためであり、国家を転覆せんがためでは無い。今、城中(寵臣)は四方からの救援を心待ちにしているそうだが、自分の身の安全しか考えていない王侯諸将が、どうして危険を冒してまで助けに来ようか! そもそも、二曹(曹操・曹丕)を嘆かせた(曹操は長江にて赤壁の大敗を喫した。208年12月参照。曹丕は凍った長江によって親征が頓挫し、こう嘆いた。「もともと天が長江を以て南北を分断しておるのだ。」225年10月参照)ほど天険なことで有名な長江を、それがしが天気晴朗の中一葦(一束の葦で作った小船、或いは一枚の葦の葉)で【詩経国風衛風曰く、曰:誰か謂う河広しと。一葦もてこれを杭()る】(達磨は一枚の葦の葉で長江を渡ったという)〔何の苦も無く〕渡ってしまえたのは、何故か。天意人心に沿った一挙だったからこそできたことではないか! それがしは、諸君が熟慮して良き道を選ばれることを切に願う!」

 景はまた、東魏の孝静帝元善見、時に25歳)にこう上奏して言った。
「臣は寿春()を奪ったのち、暫く腰を落ち着けようと考えていたのですが、蕭衍(武帝)の命運既に尽き、自ら滅びようとしているのを知り、〔考えを改めて兵を挙げました。〕すると蕭衍は臣の軍が国境に入る前に同泰寺に捨身(出家)を行ない(最後に捨身をしたのは547年3月3日のこと。侯景が言っているのは偽りか、或いは真実で、記録に無い捨身があったのか)、無事我が軍は先月の29日に建康に到達することができました。天下は未だ戦乱が収まっておりませんが、景はこれを暫く止め、まもなく隊伍を整えて鄴に参内したいと思っております。臣は長らく母や弟たちはみな殺されたものと思っておりましたが、近ごろ陛下の出された詔を見て、初めてその存命を知りました。これはまさに陛下の寛大さと大将軍(高澄)の恩情のおかげであります。しかし、臣の弱劣なる頭では、これにどうお応えすればよいか思いもつかぬ有様です! 今、臣は上奏文をもたらし、母・弟・妻・子を迎えたく思っております。陛下がご慈悲を垂れたまい、特別に釈放してくださることを切に願います!」【景は辞を低くして家族を迎え入れようとしたが、高澄兄弟はその手には乗らなかった

 己巳(11月12日)湘東王繹が司馬の呉曄・天門太守の樊文皎らに兵を与え、江陵(荊州の治所)より建康の救援に向かわせた。

○資治通鑑
 朱异遺景書,為陳禍福。景報書,幷告城中士民,以為:「梁自近歲以來,權倖用事,割剝齊民,以供嗜欲。如曰不然,公等試觀:今日國家池苑,王公第宅,僧尼寺塔;及在位庶僚,姬姜百室,僕從數千,不耕不織,錦衣玉食;不奪百姓,從何得之!【景書及此,异等其何辭以對!】僕所以趨赴闕庭,指誅權佞,非傾社稷。今城中指望四方入援,吾觀王侯、諸將,志在全身,誰能竭力致死,與吾爭勝負哉!長江天險,二曹所歎,吾一葦航之【《詩·國風》曰:誰謂河廣,一葦杭之。《注》:杭,渡也。《箋》云:誰謂河水廣歟?一葦加之則可以渡之。喻狹也】,日明氣淨。自非天人允協,何能如是!幸各三思,自求元吉!」
 景又奉啓於東魏主,稱:「臣進取壽春,暫欲停憩。而蕭衍識此運終,自辭寶位;臣軍未入其國,已投同泰捨身。去月二十九日【去月,謂前此月也】,屆此建康。江海未蘇,干戈暫止,永言故鄕,人馬同戀。尋當整轡,以奉聖顏。臣之母、弟,久謂屠滅,近奉明敕,始承猶在【承,猶奉也。言奉近敕,始知母弟尚在也】。斯乃陛下寬仁,大將軍恩念,臣之弱劣,知何仰報!今輒齎啓迎臣母、弟、妻、兒,伏願聖慈,特賜裁放!」【景欲卑辭以迎其家,高澄兄弟詎能墮其數中邪!】
 己巳,湘東王繹遣司馬吳曄、天門太守樊文皎等將兵發江陵。
○梁56侯景伝
 荊州刺史湘東王繹遣世子方等、兼司馬吳曄、天門太守樊文皎下赴京師。

┃范桃棒と陳昕
 これより前、文徳主帥・前白馬遊軍主の陳昕陳慶之の子。548年〈3〉参照)は王質に代わって采石の守備に就こうとしていたが、その途中、景は予想外の速さで長江を押し渡り、采石の城外に軍を派していた。昕は入城を諦め京口(南徐州、建康の東)に退却しようとしたが、景に捕らえられてしまった。
 景は昕をもてなしの宴に招待し、残兵を集めて攻城の手助けをするよう求めた。しかし拒絶されると、儀同三司の范桃棒同泰寺に陣を構えた。548年〈3〉参照)に監禁させた。昕は桃棒に王偉景の軍師。548年〈2〉参照宋子仙景配下の将軍。景の挙兵時に木柵を攻めた。建康に入ると東宮に陣を構えた。548年〈3〉参照を殺して降るよう説いた。桃棒はこれに従い、誓いを行なったのち、矢文を城内に射込み、その夜に昕に縄を伝って城内に入らせた《梁32陳昕伝》。昕は太子に桃棒の言葉を伝えて言った。
「二千の兵と共に、侯景の首を持って投降致します。」
 太子がこのことを武帝に伝えると、帝は大いに喜び、銀券(鉄券)にこのように文字を彫って桃棒に与えた。
『事が成った暁には、汝を河南王に封じ、景の軍隊と金・絹・女楽隊(548年〈3〉参照)を与えよう。』
 太子は偽りの内応ではないかと危惧し、何日も受け入れを躊躇った。武帝は怒って言った。
「投降を受け入れるのは当たり前の事だ。何を躊躇うことがあるか!」
 太子がそこで公卿を招集して会議を開くと、朱异・傅岐字は景平。朱异に次ぐ権力を持った。548年〈2〉参照がこう言った。
「桃棒の投降に嘘偽りはありません。桃棒が降れば、景賊は必ずや驚きうろたえるでしょう。そこを突けば、大勝利間違いありません。」(出典不明
 太子は言った。
「城を堅く守ってさえいれば、そのうち援兵が賊を討ってくれる! これが万全の策だ。本当かどうかも分からぬ桃棒の投降を信じ、門を開いて受け入れるのは下策である。もし万一桃棒が裏切ったりすれば、悔やんでも後の祭りだ。国家の存亡に関わる事は、慎重の上にも慎重を期さねばならぬ。」
 异は言った。
「殿下が国家の危急を救いたいと考えているのであれば、桃棒の投降をお受け入れなさるべきです。ぐずぐずとして決心できないのであれば、どんな結果になろうと私は責任を持ちませんぞ。」(出典不明、原文『「殿下若以社稷之急,宜納桃棒。如其猶豫,非异所知。」』
 太子はとうとう決心することができなかった。桃棒はまた昕を介して上奏して言った。
「〔お疑いなさいますなら、〕ただ五百人のみを率い、城門の前で鎧を脱ぎますので、〔それでどうか信じてくださいませ。〕事が成った暁には、必ずや侯景を虜に致します。」
 太子はその言辞の懇切なるを見て、ますます疑いを抱いた。朱异は悲嘆の余り、胸を叩いてこう言った。
「今年中に国は滅んでしまうだろう!」
 間もなく桃棒は部下の盧伯和に密告され、伯和以外の部下と共に煮殺された《南80侯景伝》。そうとも知らない陳昕は、取り決めしてあった日に桃棒の陣所に赴き、待ち伏せにあって捕らえられてしまった。景は昕に城内にこのような矢文を射込むよう迫った。
「取り敢えず、まず桃棒が軽装の兵数十人を率いて降ります。」
 景は戦袍の裏に鎧を着込んだ兵を率い、これに続いて城内に侵入しようと考えていた。しかし昕は死を覚悟した上でこれを拒否した。景はそこで昕を殺した(享年33《梁32陳昕伝》

●蕭見理の死
 これより前、景は皇太子の蕭見理と儀同三司の盧暉略に東府城を守らせていた(548年〈3〉参照)。見理は人となり凶悪で、叛乱の前は短衣に長剣という出で立ちで街を出入りし、皇室の鼻つまみ者となっていた。そしていま皇太子となるとますます得意となり、毎夜、群盜を率いて街中を略奪するようになった。しかし、あるとき大航にて流れ矢に当たり、死んでしまった(いつのことかは不明)。

○南51蕭見理伝
 見理字孟節,性甚凶粗,長劍短衣,出入廛里,不為宗室所齒。及肆逆,甚得志焉。招聚羣盜,每夜輒掠劫,於大航為流矢所中死。正德弟正則。

┃邵陵王綸、建康に迫る

 これより前、邵陵王綸武帝の第六子。白昼堂々人を殺害させた事がある。548年〈1〉参照は侯景が寿陽にて挙兵した報が届くと、征討大都督に任じられ、大軍を率いて討伐に向かっていた(8月16日参照)が、その途中、鍾離(北徐州、寿陽の東北)に到った所で侯景が既に采石に渡ったことを知ると、昼夜兼行の強行軍で来た道を引き返した。しかし長江を渡る際、高波が起こって船が転覆し、一・二割の人馬が溺れ死んだ。
 綸は京口に上陸すると、寧遠将軍の西豊公大春字は仁経。太子綱の第六子。石頭城を守っていたが、景が内城を突破したのを知ると京口に逃走していた。548年〈2〉参照)・新淦公大成字は仁和。太子綱の第七子)・永安侯確字は仲正、綸の子。文武に優れた)・南安侯駿字は徳款、武帝の兄の長沙宣武王懿の孫。文武に優れた)・前譙州刺史の趙伯超騎射に優れ、陳慶之・韋放らとともに北魏の渦陽を陥とした。寒山の決戦では東魏軍に怖気づき、戦わずに逃走した。547年〈3〉参照)・武州(治 帰政〈下邳〉)刺史の蕭弄璋547年〈2〉参照)・歩兵校尉の尹思合らと共に三万の兵を率い、一路建康目指して西進した。

 景は綸軍を防ぐため、江乗(建康の東北)に軍を派していた。趙伯超はこれを見て綸に進言して言った。
「黄城大路より建康に向かっても、賊の妨害に遭うだけです。ゆえに、ここは迂回して鍾山(建康の近東北にある山)に向かい、広莫門(台城北門)を奇襲するべきです。さすれば賊は大騒ぎになり、必ずや城の包囲を解くでしょう。」
 綸はこれを採用した。しかし夜間行軍のさい道に迷い、二十余里も遠回りをしてしまった。

◯資治通鑑
 景遣軍至江乘拒綸軍。…夜行失道,迂二十餘里,庚辰旦,營于蔣山。

◯梁29・南53邵陵攜王綸伝
 綸次鍾離,景已度采石。綸乃晝夜兼道,遊(旋)軍入赴。濟江中流風起,人馬溺者十一二。遂率寧遠將軍西豐公大春、新淦公大成等,步騎三萬,發自京口。將軍〔趙〕伯超曰:「若從黃城大道,必與賊遇,不如逕路直指鍾山,出其不意。」綸從之。
◯梁56・南80侯景伝
 至是,邵陵王綸率西豐公大春、新淦公大成、永安侯確、超武將軍南安鄉侯駿、前譙州刺史趙伯超、武州刺史蕭弄璋、步兵校尉尹思合等,馬步三萬,發自京口,直據鍾山。


┃侯景の逡巡





 庚辰(11月23日)の早朝、綸軍は〔突如〕鍾山に姿を現した。時に山頂には雪が積もり、寒さが厳しかったため、綸は愛敬寺から下りて山麓に陣を構えた。
 景はこれを見るや驚き、一万余の兵を三手に分けて綸を攻めさせた。永安侯確はこれに頻りに戦いを挑んで必ず勝ったため、景兵は確を恐れ憚った。景軍は大敗し、千余人を失った(27日の事?)。
 景軍は還って来ると、綸軍の多勢で勢い盛んなのを口々に言い立てた。景はこれを聞くといよいよ身の危険を覚え、都で強奪していた婦女や珍貨を石頭城に集め、船を用意して長江の北に逃げようとした。すると将軍の任約もと西魏の将軍。547年〈2〉参照)がこう言った。
「本拠は万里の彼方でありますのに、今更どこに逃げようとしているのですか? 戦って敗れましたら、みな討ち死にすればいいではありませんか。それがしは片田舎に逃げてまで生きのびたいとは思いません。」
 景はそこで思い直し、将軍の宋子仙に台城の包囲を任せ、自ら精鋭を率い、覆舟山(建康の北、鍾山の西)の北に陣を布いて綸軍と対峙した。

 永安侯確は字を仲正といい、邵陵王綸の第二子である。勇猛果敢なだけでなく文才もあり、隸書を最も得意とし、公家が立てた石碑の字はみな確の手に拠った。秘書丞に任じられた際、武帝は確にこう言った。
「文才があるゆえ、特別にこの職に就けたのだぞ。」
 大同二年(536)に正階侯に封ぜられ、のち永安に封地を遷された。確は屋敷の中で常に騎射の訓練に励み、兵法の勉強に勤しんだ。人々は確を狂人だと噂し、左右も諌めた事があったが、確はこう言って聞かなかった。
「わしが賊徒を撃破したという報が届いたら、お前たちもきっと納得するだろう。」
 確は戦場にて敵を眼前に控えても意気軒昂とし、一日中鎧をつけて馬上にあり、あちこち駆け回っても疲労の色を見せなかった。諸将はその壮健・勇猛さに感服した。

◯資治通鑑
 庚辰旦,營于蔣山。景見之大駭,悉送所掠婦女、珍貨於石頭,具舟欲走。

◯梁武帝紀
 庚辰,卲陵王綸帥武州刺史蕭弄璋、前譙州刺史趙伯超等入援京師,頓鍾山愛敬寺。
◯梁29・南53邵陵攜王綸伝
 眾軍奄至,賊徒大駭,分為三道攻綸,綸與戰,大破之,斬首千餘級。
○梁29・南53永安侯確伝
〔邵陵攜王綸…長子堅…〕弟確,字仲正。少驍勇,有文才。〔尤工楷隸,公家碑碣皆使書之。除祕書丞,武帝謂曰:「為汝能文,所以特有此授。」〕大同二年,封為正階侯,邑五百戶,後徙封永安。常在第中習騎射,學兵法,時人皆以為狂。左右或以進諫,確曰:「聽吾為國家破賊,使汝知之。」除祕書丞,太子中舍人。鍾山之役,確苦戰,所向披靡,羣虜憚之。確每臨陣對敵,意氣詳贍,帶甲據鞍,自朝及夕,馳驟往反,不以為勞,諸將服其壯勇。
◯梁56・南80侯景伝
 景黨大駭,具船舟咸欲逃散,分遣萬餘人距綸,綸擊大破之〔愛敬寺下〕,斬首千餘級。〔景初聞綸至,懼形於色,及敗軍還,尤言其盛,愈恐,命具舟石頭將北濟。任約曰:「去鄉萬里,走欲何之?戰若不捷,君臣同死。草間乞活,約所不為。」景乃留宋子仙守壁,〕旦日,景復陳兵覆舟山北,綸亦列陣以待之(自將銳卒拒綸,陣於覆舟山北,與綸相持)。
建康実録
 太淸二年,十一月,邵陵王綸入援京師。乙酉,戰於玄武湖東,而保愛敬寺,為賊所破。
◯読史方輿紀要
 愛敬寺在蔣山西。梁武帝所造。太清二年,邵陵王綸赴援臺城,營於蔣山,因山巔寒雪,乃引軍下愛敬寺,既而戰於玄武湖側,軍敗,走入天寶寺。景追之,縱火燒寺,綸奔朱方。天寶寺蓋在玄武湖北。


鍾山の決戦(玄武湖畔の決戦)




 乙酉(11月28日)の早朝、綸軍は玄武湖(建康の北にある湖。東に鍾山が、南に覆舟山がある)畔にまで進出した[1]。景はこれと敢えて戦おうとはしなかった。
 やがて日暮れ時になると、景は明日決戦しようと言った。綸はこれを承諾したが、南安侯駿は景軍がやや退いたのを逃げたものと見なし、数十騎と共にこれを追った。景はこれを見るや軍を返して迎え撃ち、駿を敗走させた。景は勢いに乗って綸軍本隊にも攻撃を仕掛けた。玄武湖の北に陣取っていた趙伯超はこれを望見するといち早く退却を開始した。本隊はこれによって乱れたち、遂に大敗を喫した。
 綸は残兵約千人を収容して天保寺(建康東北。天宝寺?)に逃げ込んだが、追っ手に火を放たれると、朱方(京口)にまで逃亡した(邵陵王綸伝では鍾山にて残兵千人を集めたが、そこで景軍に包囲されて再び敗れ、京口に逃れたとある)、士卒は雪道を進んだため、多くが凍傷にかかって足を切断することになった。景は数百人を斬り、千余人を捕らえ、輜重をそっくり手に入れた。また、西豊公大春あまりにも太っていたため逃げられなかったという)・安前(安前将軍。綸のこと)司馬の荘丘恵侯景伝では『荘丘恵達』)・主帥(軍主)の霍俊らを捕らえた[2]
 永安侯確は〔捕らえられたが、〕景兵は〔この筋肉隆々な男を〕確だとは思わず、石弓牽き(原文『負砲』)をさせた。確は機を見て脱走し、朱方にたどり着くことができた。

 南安侯駿武帝の兄の長沙宣武王懿の子の臨汝侯淵猷の子で、上甲侯韶《太清紀》を執筆)の弟であり、字を徳款という。達筆で、文才があり、のち更に武芸を習い、その人並み外れた膂力は永安侯確と同等のものがあった。梁に仕えて尚書殿中郎・超武将軍・南安侯とされた。

◯資治通鑑
 景陳兵於覆舟山北,乙酉,綸進軍玄武湖側【《考異》曰:《太清紀》云:「二十九日」,《典略》云:「壬午」,今從《梁帝紀》】,與景對陳,不戰。至暮,景更約明日會戰,綸許之。安南侯駿見景軍退,以為走,卽與壯士逐之;景旋軍擊之,駿敗走,趣綸軍。趙伯超望見,亦引兵走,景乘勝追擊之,諸軍皆潰。綸收餘兵近千人,入天保寺;景追之,縱火燒寺。綸奔朱方,士卒踐冰雪,往往墮足。
◯梁武帝紀
 乙酉,綸進軍湖頭,與賊戰,敗績。
◯梁29・南53邵陵攜王綸伝
 斬首千餘級。翌日,賊又來攻,相持日晚,賊稍引却,南安侯駿以數十騎馳之。賊回拒駿,駿部亂,賊因逼大軍,軍遂潰。綸至鍾山,眾裁千人,賊圍之,戰又敗,乃奔還京口。〔軍主霍俊見獲,賊送于城下,逼云已禽邵陵王。俊偽許之,乃曰:「王小失利,政為糧盡還京口。俊為託邏所獲,非軍敗也。」賊以刀背敺其髀,俊色不變,賊義而捨之。俊,中書舍人靈超子也。
○南51南安侯駿伝
〔長沙宣武王懿…懿子業…業弟藻…藻弟猷…猷子韶…〕韶弟駿字德款,善草隸,工文章,晚更習武,膂力絕人,與永安侯確相類。位尚書殿中郎、超武將軍,封南安侯。
○南53永安侯確伝
 軍敗,賊使負砲,不之知也。確因隙自拔,得達朱方。
○梁44・南54安陸王大春伝
 侯景內寇, 大春奔京口,隨邵陵王入援,戰于鍾山,〔軍敗,肥大不能行,〕為賊所獲。
◯梁56・南80侯景伝
 旦日,景復陳兵覆舟山北,綸亦列陣以待之(自將銳卒拒綸,陣於覆舟山北,與綸相持)。景不進,相持。會日暮,景引軍還,南安侯駿率數十騎挑之,景迴軍與戰,駿退。時趙伯超陳於玄武湖北,見駿急(退),不赴,乃率軍前走,眾軍因亂,遂敗績。綸奔京口。
 賊盡獲輜重器甲,斬首數百級,生俘千餘人,獲西豐公大春、綸司馬莊丘惠達、直閤將軍胡子約、廣陵令霍儁等,來送城下徇之,逼云「已擒邵陵王」。儁獨云「王小小失利,已全軍還京口,城中但堅守,援軍尋至」。賊以刀毆之,儁言辭顏色如舊,景義而釋之。
建康実録
 乙酉,戰於玄武湖東,而保愛敬寺,為賊所破。
◯読史方輿紀要
 愛敬寺在蔣山西。梁武帝所造。太清二年,邵陵王綸赴援臺城,營於蔣山,因山巔寒雪,乃引軍下愛敬寺,既而戰於玄武湖側,軍敗,走入天寶寺。景追之,縱火燒寺,綸奔朱方。天寶寺蓋在玄武湖北。


 [1]考異曰く、太清紀には『二十九日』とあり、典略には『壬午(21日)』とある。今は梁武帝紀の記述に従った。
 [2]考異曰く、典略には『広陵令の崔俊』とあり、侯景伝には『直(南)閤将軍の胡子約・広陵令の霍俊』とある。今は太清紀の記述に従った。

┃霍俊の忠義
 丙戌(29日)、景は建康に帰ると綸軍から得た首級や捕虜・鎧・武器を台城城下に並べ(出典不明)、捕虜らにこう言わせた。
「邵陵王は既に捕らえられました!」(通鑑では『「邵陵王は既に乱兵によって殺されました!」』となっている
 しかし、霍俊のみこう叫んだ。
「王はただ小さな敗北を喫しただけであり、軍は無事であります! 京口に還ったのも兵糧が続かなかったためです! それがしがこうなったのも大敗したからではなく、ただ巡邏の兵に捕らえられてしまったからに過ぎません!(南53邵陵王綸) 城中は〔安心して今まで通り、〕城を堅く守っていてくだされ! 援軍は間もなく到着いたします!」《梁56侯景伝》
 景兵は俊がその言葉を言い終わる前に刀〔の柄〕でその口を傷つけたが(南53邵陵王綸伝・通鑑では背中を打っている)、俊は顔色を変えず、むしろますます声を張り上げた(出典不明)。景は俊を義人と見て釈放したが、皇帝の蕭正徳武帝の弟の子。侯景と内応の密約を結び、建康に引き入れた見返りに皇帝とされた。548年〈3〉参照はこれを許さず、殺してしまった《南80侯景伝》。俊は、中書舍人の霍霊超の子である《南53邵陵王綸》

●鄱陽王範動く
 この日(11月29日)の晚、安北将軍・合州刺史の鄱陽王範武帝の異母弟、鄱陽忠烈王恢の子。548年〈2〉参照)が雄信将軍・西豫州(晋熙)刺史の裴之高字は如山。名将裴遽の兄の子。548年〈2〉参照)を督江右援軍事に任じ、世子の蕭嗣や建安[1]太守の趙鳳挙らと共に江西の兵を率い、建康へ救援に向かうよう命じた。嗣らは後渚(秦淮別渚。建康の西南)に到ると、蔡洲(建康の西二十五里にある、長江の小島。またの名を張公洲[2]に陣を構え、長江上流から来る諸軍を待つことにした。
 景はこれを聞くと、〔秦淮河〕南岸の住民を北岸に強制移住させ、大街(建康の目抜き通り)以西の地の住居を全て焼き払って更地とした。
 鄱陽世子嗣は字は長胤といい、大兵巨漢で、腰回りは十囲(約120センチ)もあった。勇猛果断で度胸があり、才気に優れて細かい作法にこだわらなかったが、腰を低くして兵士と対したので、善くその死力を尽くさせることができた。

◯資治通鑑
 是日晚,鄱陽王範遣其世子嗣與西豫州裴之高、建安太守趙鳳舉各將兵入援,軍于蔡洲,以待上流諸軍,範以之高督江右援軍事。景悉驅南岸居民於水北,焚其廬舍,大街已西,掃地俱盡。
◯梁武帝紀
 丙戌,安北將軍鄱陽王範遣世子嗣、雄信將軍裴之高等帥眾入援,次于張公洲。
◯梁22鄱陽王範伝
 及景圍京邑,範遣世子嗣與裴之高等入援,遷開府儀同三司,進號征北將軍。
◯梁22鄱陽世子嗣伝
 世子嗣,字長胤。容貌豐偉,腰帶十圍。性驍果有膽略,倜儻不護細行,而能傾身養士,皆得其死力。
◯梁28裴之高伝
 尋除雄信將軍、西豫州刺史,餘如故。侯景亂,之高率眾入援,南豫州刺史、鄱陽嗣王範命之高總督江右援軍諸軍事,頓于張公洲。
◯梁43韋粲伝
 先是,安北將軍鄱陽王範亦自合肥遣西豫州刺史裴之高與其長子嗣,帥江西之眾赴京師,屯於張公洲,待上流諸軍至。
◯梁56侯景伝
 是日,鄱陽世子嗣、裴之高至後渚,結營于蔡洲。景分軍屯南岸。

 [1]建安…寿陽〜義陽(晋熙?)付近に建安は無い。黄州麻城県(郢州東北)に梁は建寧郡を置いたが、もしかすると史家はこの建寧を建安と書いたのかもしれない。
 [2]考異曰く、梁帝紀〔や裴之高伝・韋粲伝〕には『張公洲』とある。今は太清紀〔や侯景伝〕の記述に従った。

●封山侯正表の乱
 これより前、侯景が叛乱を起こすと、朝廷は北徐州(鍾離)刺史の封山侯正表臨賀王正徳の弟。548年〈2〉参照)を北道都督としてその討伐を命じていたが、侯景が建康に迫ると、援軍に来るよう命令を変更していた。
 しかし正表は広陵に到った所で兄の臨賀王正徳が景に推戴されたのを聞くと、船や兵糧が集まらないことを理由に進軍を停止した。景は正表を南兗州(広陵)刺史とし、南郡王に封じた。正表はそこで欧陽[1]に砦を築き、建康への援路を断ったのち、建康に援軍に行くのだという名目で妾の兄の龔子明に一万の兵を与えて広陵を奇襲しようとした。このとき、正表は〔前?〕広陵令の劉詢瑗?)に密書を与え、城内に火を放って内応するよう求めたが、詢はこれを拒否し、南兗州刺史の南康王会理武帝の孫。幼くして父を亡くしたため、武帝に憐れまれ、特に大切にされた。東魏討伐の際には総司令官に任じられたが、のちに資質を疑問視されて貞陽侯淵明に交代させられた。547年〈2〉参照)に正表が攻めてくることを知らせた。
 12月、会理は詢に千の兵を与え、正表軍を夜襲させた。正表は大敗し、軽騎兵を引き連れて鍾離に逃げ帰った。詢はその兵糧を接収したのち、会理のもとに帰り、これと共に建康の救援に向かった《出典不明

◯資治通鑑
 北徐州刺史封山侯正表鎭鍾離,上召之入援,正表託以船糧未集,不進。景以正表為南兗州刺史,封南郡王。正表乃於歐陽立栅以斷援軍,帥衆一萬,聲言入援,實欲襲廣陵。密書誘廣陵令劉詢,使燒城為應,詢以告南兗州刺史南康王會理。十二月,會理使詢帥步騎千人夜襲正表,大破之。正表走還鍾離。詢收其兵糧,歸就會理,與之入援。
○魏59蕭正表伝
 景渡江,衍召正表入援。正表率眾次廣陵,聞正德為侯景所推,仍託舫糧未集,磬桓不進。景尋以正表為南兗州刺史,封南郡王。正表既受景署,遂於歐陽立柵,斷衍援軍。又欲遣其妾兄龔子明進攻廣陵。衍南兗州刺史、南康王蕭會理遣前廣陵令劉瑗襲擊,破之。正表狼狽失據,乃率輕騎,走還鍾離。
◯梁29南康王会理伝
 二年,侯景圍京邑,會理治嚴將入援,會北徐州刺史封山侯正表將應其兄正德,外託赴援,實謀襲廣陵,會理擊破之,方得進路。

 [1]欧陽…《水経注》曰く、『長江から邗溝水(長江と淮河を結ぶ運河)を遡ると欧陽があり、更に〔東に〕六十里向こうに広陵城がある。


 548年(5)に続く