[西魏:大統十四年 東魏:武定六年 梁:太清二年]

┃内部崩壊

 冬、10月、庚寅(3日)、景は合肥を攻めると見せかけて突如譙州(南譙州)を襲った[1]。譙州の助防の董紹先は城門を開いてこれに降り、刺史の豊城侯泰を捕らえた[2]

 泰(字は世怡)は、鄱陽王範の弟である。中書舍人となったのち、家財を傾けて権力者(朱异?)に賄賂を贈り、飛び級して譙州刺史に任ぜられた。江北の人情は血の気が多かったため、前任の刺史たちはみな綏撫を統治方針としていたが、泰は〔そのようなことは一顧だにせず、〕到る所で士庶の別無く州民を徴発して人夫とし、腰輿(前後二人で腰の高さまで持ち上げて運ぶもの)・扇(障扇、日差しよけの長柄で大きい扇)・繖(絹傘)などを持たせた。

○腰輿・扇・繖

 これを恥じて〔断った〕者は、重い杖打ちの刑が加えられたが、賄賂を多く贈った者は即座に放免された。州民はこのような仕打ちに怒り、いっそ乱が起きることを願うようになった。譙州が闘志無く開城したのは、このためであった。

○資治通鑑
 冬十月庚寅【《考異》曰:《太清紀》云:「十三年[日],陷譙城。」下又云:「十三日,以王質巡江遏防。」《典略》上作「庚戌」,下作「庚子」。按此月戊子朔,蓋三日庚寅也】,景揚聲趣合肥,而實襲譙州【此譙州非渦陽之譙州。魏收《志》:梁置譙州於新昌城,領高塘、臨徐、南梁、新昌郡。其地當在唐廬、和二州之間。宋白曰:梁大同三年,割北徐州之新昌、南譙州之北譙,立為南譙州,居桑根山西,今滁州城是也】,助防董紹先開城降之。執刺史豐城侯泰。泰、範之弟也;先為中書舍人,傾財以事時要,超授譙州刺史。至州,徧發民丁,使擔腰輿、扇、繖等物,腰輿者,人舉之而行,其高纔至腰【繖,蘇旰翻,又蘇旱翻,蓋也】。不限士庶;恥為之者,重加杖責,多輸財者,卽縱免之,由是人皆思亂。及侯景至,人無戰心,故敗。
○周42蕭世怡伝
 蕭世怡,梁武帝弟鄱陽王恢之子也。以名犯太祖諱,故稱字焉。幼而聰慧,頗涉經史。梁大同元年,封豐城縣侯,邑五百戶。除給事中,轉太子洗馬。尋入直殿省,轉太子中舍人。出為持節、仁威將軍、譙州刺史。及侯景為亂,路由城下,襲而陷之,世怡遂被執。
○梁56・南80侯景伝
 十(九)月,景〔發壽春,聲云游獵,人不覺也。〕留其中軍王顯貴【[一八]「中軍」下,南史有「大都督」三字,「王顯貴」作「王貴顯」。陳書任忠傳亦作「王貴顯」】守壽春城,出軍偽向合肥,遂襲譙州,助防董紹先開城降之。執刺史豐城侯泰。
○南52蕭泰伝
 脩弟泰字世怡,封豐城侯。歷位中書舍人,傾竭財產,以事時要,超為譙州刺史。江北人情獷強,前後刺史並綏撫之。泰至州,便徧發人丁,使擔腰輿扇繖等物,不限士庶。恥為之者,重加杖責,多輸財者,即放免之,於是人皆思亂。及侯景至,人無戰心,乃先覆敗。

 [1]魏書地形志曰く、譙州は新昌城に置かれ、高塘・臨徐・南梁・新昌郡を領した。
 [2]考異曰く、太清紀には『十三日,陷譙城。』とあり、また、『十三日,以王質巡江遏防。』とあり、典略は前者を「庚戌」のことと言い、後者を『庚子』のことと言っている。考えるにこの月は戊子が1日で〔あるから、庚戌では二十三日となり、流れがおかしくなる。庚戌ではなく〕庚寅であろう。

┃油断
 侯景が譙州を陥とした事が建康に伝えられた。梁の武帝はその対策を都官尚書の羊侃528年8月に北魏から梁に寝返った。文武に優れた名将。548年〈2〉参照に尋ねた。侃は答えて言った。
「動きを見るに、景は猪の如く、ただひたすらに建康だけを狙ってきています。もし〔私に?〕兵二千を〔与えて〕采石に急派してその進路を塞ぎ、邵陵王に寿陽を攻略させますれば、景は進むことも退くこともできなくなり、烏合の衆のこと、自然と瓦解するでしょう。」
 人々は景がまだ建康に迫っていない事を以てこれに反対した。帝はこれを聞くと侃の意見を却下した。
 庚子(10月13日)、梁は寧遠将軍・太子家令の王質字は子貞)に〔貧弱な〕舟師三千を与え、長江沿岸の防衛に就くように命じた。
 侃は〔嘆息して〕こう言った。
「我らの敗北は決まった!」

 侯景が歴陽を攻めた。太守の荘鉄は弟の荘均に夜襲を仕掛けさせたが、均は〔返り討ちに遭って〕戦死した。鉄の母は〔これ以上〕愛している息子が死ぬことを恐れ、鉄に投降を勧めた。
 丁未(20日)、〔鉄がこれに従って景に降ると、〕景は鉄の母に〔感謝して〕拝礼した。鉄はそこで景にこう勧めて言った。
「梁の人々は長い平和が続いたおかげで戦いに慣れておらず、大王が挙兵したと知るとただただ震え上がるだけで、〔何ら適切な対策を打てずにおります〕。この隙に乗じて速やかに建康を突けば、刃を血に塗れさせることないほど非常に容易に大功を打ち立てることができるでしょう。〔もしもたもたとすれば、〕彼らはその間にやや落ち着いて、采石(牛渚。歴陽の対岸)に兵を派遣しましょう。もし采石に兵が置かれますと、それがたった千人の弱兵で、大王に百万の精兵がいたとしても、成功は覚束ぬようになります。」(南史には『「速やかに行動すれば天が味方してくれましょうが、もたもたとすれば必ず身に災いが及ぶでしょう。」』とある
 景はこれに頷き、儀同三司の田英郭駱に歴陽の留守を任せると、鉄の案内に従って長江にまで進軍した。
 長江沿岸の鎮戍が相い次いでこれを朝廷に告げると、朱异武帝の寵臣。548年〈2〉参照)はこう言った。
「景は渡江など決して考えておりません。」

◯資治通鑑
 庚子,詔遣寧遠將軍王質帥衆三千巡江防遏。…丁未,鐵以城降。因說景曰:「國家承平歲久,人不習戰,聞大王舉兵,內外震駭,宜乘此際速趨建康,可兵不血刃而成大功。若使朝廷徐得為備,內外小安,遣羸兵千人直據采石,大王雖有精甲百萬,不得濟矣。」景乃留儀同三司田英、郭駱守歷陽,以鐵為導,引兵臨江。江上鎭戍相次啓聞。
◯梁武帝紀
 冬十月,侯景襲譙州,執刺史蕭泰。丁未,景進攻歷陽,太守莊鐵降之。
○魏98島夷蕭衍伝
 衍好人佞己,末年尤甚,或有云國家強盛者,即便忿怒,有云朝廷衰弱者,因致喜悅。是以其朝臣左右皆承其風旨,莫敢正言。初景之將渡江也,衍沿道軍戍,皆有啟列,而中領軍朱异恐忤衍意,且謂景不能渡,遂不為聞。
◯梁39羊侃伝
 二年,復為都官尚書。侯景反,攻陷歷陽,高祖問侃討景之策。侃〔求〕曰:「景反迹久見,或容豕突,宜〔以二千人〕急據采石,令邵陵王襲取壽春。〔使〕景進不得前,退失巢窟,烏合之眾,自然瓦解。」議者謂景未敢便逼京師,遂寢其策,〔令王質往。侃曰:「今茲敗矣。」〕令侃率千餘騎頓望國門。
◯梁56・南80侯景伝
 遂襲譙州,助防董紹先開城降之。執刺史豐城侯泰。高祖聞之,遣太子家令王質率兵三千巡江遏防。景進攻歷陽,歷陽太守莊鐵遣弟均率數百人夜斫景營,不克,均戰沒,〔鐵母愛其子,勸鐵降。〕鐵又降之。〔景拜其母,鐵乃勸景曰:「急則應機,緩必致禍。」景乃使鐵為導。是時鎮戍相次啟聞,朱异尚曰:「景必無度江志。」〕
◯陳18王質伝
 侯景於壽陽構逆,質又領舟師隨眾軍拒之。景軍濟江,質便退走。

┃渡江
 戊申(10月21日)、梁が光禄大夫の臨賀王正徳武帝の弟の子。侯景と内応の密約を結んだ。548年〈1〉参照)を平北将軍・都督京師諸軍事とし、丹陽郡の朱雀航(秦淮河に架かる浮橋の中で最大のもの。朱雀門に面するためこう呼ばれる)を守備させた。
 正徳は葦草を運ぶためと偽って大船十艘(蕭正表伝では『数十舫』)を用意し、景軍を渡江させた。
 景は渡江する前に王質の舟師の妨害に遭うことを心配し、間諜を放ってその動向を探らせた。

 これより少し前、侯景が歴陽を包囲した時、梁は臨川(江州の東南)大守の陳昕陳慶之の子)を呼び戻していた。この時、昕は朝廷にこう上奏して言った。
「采石は早急に守りを固めねばならぬ所ですが、貧弱な王質の水軍ではその大任を果たせぬように思います。」
 武帝はそこで昕を雲旗将軍として質と代わらせ、質を知丹陽尹事として中央に召還した。質は辞令を受けると、昕が秦淮河(建康の近南に流れる川)の小島を過ぎる前に軍を率いて建康への帰途に就いた。景の間諜がやってきたのはちょうどその時であった。間諜は景にこう報告して言った。
「質は既に撤退しました。」
 景は〔そんな上手い話があるものかと〕疑い、間諜にこう言った。
「もしそれが本当なら、長江を渡り、そこの木の枝を折って取ってくることは造作もなかろう。」
 間諜がその注文通りに木の枝を取って帰ってくると、景はようやくこれを信じ、大喜びしてこう言った。
「我が事成れり!」
 己酉(22日)、景は横江(歴陽東南)より正徳の用意した船に乗り、侯譒夏侯譒。夏侯夔の子。侯景の豫州長史)を先鋒として采石に渡った。このとき数百頭の軍馬と八千人(梁書だと『千人』)の兵を擁していた。建康はその渡河を知らずにいた。

 景は兵を分けて姑孰を攻め、淮南太守の文成侯寧通鑑によれば、鄱陽王範の弟であるらしい)を捕らえた[1]
 これより前、侯景が歴陽を陥とし、長江を今にも渡ろうとしていた時、南津校尉(普通七年に南州津に置かれた。胡三省は采石に南州津があるとする)の江子一字は元貞〈亮?〉。時に62歳)が舟師千余人を率いて長江を下り、これを迎撃しようとした。しかしその途中、〔侯景のいる〕江北に実家があった副将の董桃生が〔家族を慮って〕配下の兵と共に逃げ去ってしまったため、子一は戦うことができなくなって南州津(南津)に還り、残兵を収容したのち步いて建康に赴いた。
 江子一は、江子四武帝の政治に批判を行なった。536年4月参照)の兄である。

○資治通鑑
 戊申,以臨賀王正德為平北將軍,都督京師諸軍事,屯丹楊郡【盧循之寇建康也,徐赤特敗於張侯橋,循兵大上,至丹楊郡。則丹楊郡治蓋近江渚】。正德遣大船十艘,詐稱載荻,密以濟景。景將濟,慮王質為梗,使諜視之。會臨川大守陳昕啓稱:「采石急須重鎭,王質水軍輕弱,恐不能濟【恐其不能濟國事也】」。上以昕為雲旗將軍,代質戍采石,徵質丹楊尹。昕,慶之之子也【陳慶之有入洛之功】。質去采石,而昕猶未下渚【未下秦淮渚也】。諜告景云:「質已退。」景使折江東樹枝為驗,諜如言而返,景大喜曰:「吾事辦矣!」己酉,自橫江濟于采石,有馬數百匹,兵八千人。是夕,朝廷始命戒嚴。
◯梁武帝紀
 戊申,以新除光祿大夫臨賀王正德為平北將軍,都督京師諸軍,屯丹陽郡。己酉,景自橫江濟于采石。
○魏59蕭正表伝
 衍末,復為散騎常侍、光祿大夫,知丹陽尹事。侯景之將濟江也,知正德有恨於衍,密與交通,許推為主。正德以船數十舫迎之。景渡江。
○魏98島夷蕭衍伝
 珽等未及還而侯景舉兵襲衍,密與衍弟子臨賀王正德交通,許推為主。景至橫江,衍令正德率軍拒景,正德因而迎之。
○梁28夏侯譒伝
 景尋舉兵反,譒前驅濟江。
○梁32陳昕伝
 太清二年,侯景圍歷陽,敕召昕還,昕啟云:「采石急須重鎮,王質水軍輕弱,恐慮不濟。」乃板昕為雲騎將軍,代質,未及下渚,景已渡江,仍遣率所領遊防城外,不得入守。
○梁43・南64江子一伝
 及侯景反,攻陷歷陽,自橫江將渡,子一帥舟師千餘人,於下流欲邀之,其副董桃生家在江北,因與其黨散走。子一乃退還南州(洲),復收餘眾,步道赴京師〔,見於文德殿〕。
○梁55・南51臨賀王正徳伝
 及景至江,正德潛運空舫,詐稱迎荻,以濟景焉。朝廷未知其謀,猶遣正德〔為平北將軍,〕守(屯)朱雀航。
○梁56・南80侯景伝
 蕭正德先遣大船數十艘,偽稱載荻,實裝(擬)濟景。景至京口(景至江),將渡,慮王質為梗,俄而質〔質被追為丹陽尹,〕無故退,景聞之尚未信也,乃密遣覘之。謂使者曰:「質若審退,可折江東樹枝為驗。」覘人如言而返,景大喜曰:「吾事辦矣。」乃自采石濟,馬數百匹,兵〔八〕千人,京師(都下)不之覺。景即分襲姑孰,執淮南太守文成侯寧,遂至慈湖。〔南津校尉江子一奔還建鄴。〕
○陳18王質伝
 侯景於壽陽構逆,質又領舟師隨眾軍拒之。景軍濟江,質便退走。

 [1]晋成帝の初めに姑孰に仮の淮南郡を置いた。五代志曰く、丹陽郡の当塗県に淮南郡が置かれた。

┃戒厳令
 この日(10月22日)、景軍は慈湖にまで到った。帝は夕方になってようやく景の渡河に気づき、戒厳令を発した。建康は上を下への大騒ぎとなり、住民たちが互いに略奪し合ったため大通りでさえ通行不能になった。
 太子綱は事態が切迫しているのを知ると、戎服(軍服)を着て武帝に謁え、指示を仰いだ。すると帝はこう答えて言った。
「これはお前に関わることなのだから、いちいち聞きに来なくとも良い! 軍事の事は一切お前に託す。」[1]
 太子はそこで中書省を本陣として景軍迎撃の指揮を執った。また、朱异に募兵をさせた。しかし建康の人々はただただ恐れおののくばかりで、〔募兵に〕応じる者はいなかった。そこで東西冶(建康の東西にある鍛冶場)・尚方(官物や財貨の製造・管理を行なう)銭署(造幣局)・建康獄舎の囚人を解放する事で三千人の兵士を得た。
 また、
 ①揚州刺史の宣城王大器字は仁宗。太子綱の長子。532年参照)を都督城内諸軍事羊侃を軍師将軍としてその副官とし、
 南浦侯推字は智進。安成王秀〈武帝の弟〉の子。淮南・晋陵・呉郡の大守を歴任したが、どの地でも赴任中に大旱魃が起こったため、『旱母』と呼ばれた)に東府城を、
 ③〔知石頭戍軍事の〕西豊公大春字は仁経。太子綱の第六子)に石頭城を、
 ④軽車長史の謝禧謝挙〈侯景の受け入れに反対した。548年〈1〉参照〉の子)・始興太守の元貞侯景の北伐の際、その旗頭とされた。548年〈2〉参照)に白下を守らせた。
 ⑤また、〔琅邪彭城二郡太守の〕寧国公大臨字は仁宣。太子綱の第四子)を使持節・宣恵将軍として新亭を(のち、すぐに呼び戻され、端門の守備を任され、城南大都督とされた)、
 ⑥大府卿の韋黯もと南豫州刺史。侯景の寿陽入城を許した。548年〈1〉参照)や右衛将軍の柳津字は元挙。柳仲礼〈司州刺史。侯景の討伐を命じられた。548年(2)参照〉の父)らに台城の諸門(六門)および朝堂をそれぞれ守備させた(黯は間もなく都督城西面諸軍事とされた)。
 ⑦また、朱异に募兵をさせ、得た三千人を异に率いさせて大司馬門(台城南門)を守備させた。
 また、宮城を補修して景の来攻に備えた。
 また、諸寺[2]の庫に貯蔵されていた銭貨を徳陽堂[3]に集め、全て軍資金に充てた。

○資治通鑑
 己酉,自橫江濟于采石,有馬數百匹,兵八千人。是夕,朝廷始命戒嚴。…太子見事急,戎服入見上,稟受方略,上曰:「此自汝事,何更問為!內外軍事,悉以付汝。」【《考異》曰:《太清紀》云:「太宗見事急,乃入,面啓高祖曰:『請以軍事並以垂付,願不勞聖心。』《南史》云:「帝曰:『此自汝事,何更問為!』今從《典略》】太子乃停中書省,指授軍事,物情惶駭,莫有應募者。朝廷猶不知臨賀王正德之情,命正德屯朱雀門,寧國公大臨屯新亭,大府卿韋黯屯六門,繕修宮城,為受敵之備。大臨,大器之弟也【大臨、大器,皆太子綱之子】。己酉,景至慈湖。建康大駭,御街人更相劫掠,不復通行。赦東西冶、尚方錢署及建康繫囚,以揚州刺史宣城王大器都督城內諸軍事,以羊侃為軍師將軍副之,南浦侯推守東府,西豐公大春守石頭,輕車長史謝禧、始興太守元貞守白下,韋黯與右衞將軍柳津等分守宮城諸門及朝堂。推,秀之子【安成王秀,上弟也】;大春,大臨之弟;津,仲禮之父也。攝諸寺庫公藏錢,聚之德陽堂,以充軍實【攝,收也。諸寺,謂十二寺也。天監六年,改閱武堂為德陽堂,在南闕前】。
○魏98島夷蕭衍伝
 景濟江,立以為主,以趣建業。…景至嵫湖,方大驚駭,乃令其太子綱守中書省,軍事悉以委之。又逼居民入城,百姓因相剝掠,不可禁止。衍令直從監俞景茂赦二冶、尚方、錢署罪人及建康、廷尉諸囚,欲押令入城以充防捍。諸徒囚放火燒冶,一時散走。衍憂懣無計,唯令其王公已下分屯諸門;攝諸寺藏錢皆入聚德陽堂,以充軍實。
○梁8哀太子大器伝
 太清二年十月,侯景寇京邑,敕太子為臺內大都督。
○梁12韋黯伝
 黯字務直,性強正,少習經史,有文詞。起家太子舍人,稍遷太僕卿,南豫州刺史,太府卿。侯景濟江,黯屯六門,尋改為都督城西面諸軍事。
○梁22南浦侯推伝
 侯景之亂,守東府城。
○梁32朱异伝
 募兵得三千人,及景至,仍以其眾守大司馬門。
○梁39羊侃伝
 景至新林,追侃入副宣城王都督城內諸軍事。
○梁44・南54南海王大臨伝
 左夫人生南海王大臨,…南海王大臨字仁宣。〔簡文帝第四子也。〕大同二年,封寧國縣公,邑一千五百戶。少而敏慧。年十一,遭左夫人憂,哭泣毀瘠,以孝聞。後入國學,明經射策甲科,拜中書侍郎,遷給事黃門侍郎。十一年,為長兼侍中。出為輕車將軍、琅邪彭城二郡太守。侯景亂,為使持節、宣惠將軍,屯新亭。俄又徵還,屯端門,都督城南諸軍事。時議者皆勸收外財物,擬供賞賜,大臨獨曰:「物乃賞士,而牛可犒軍。」命取牛,得千餘頭,城內賴以饗士。
○梁44・南54安陸王大春伝
 左夫人生…安陸王大春。…安陸王大春字仁經。〔簡文第六子也。〕少博涉書記〔,善吹笙〕。天性孝謹,體貌瓌偉,腰帶十圍。大同六年,封西豐縣公,邑一千五百戶。拜中書侍郎。後為寧遠將軍,知石頭戍軍事。侯景內寇。
○梁56・南80侯景伝
〔皇太子見事急,入面啟武帝曰:「請以事垂付,願不勞聖心。」帝曰:「此自汝事,何更問為。」太子仍停中書省指授,內外擾亂相劫不復通。於是詔以揚州刺史宣城王大器為都督內外諸軍事,〕於是詔以揚州刺史宣城王大器為都督城內〔外〕諸軍事,都官尚書羊侃為軍師將軍以副焉;南浦侯推守東府城,西豐公大春守石頭城,輕車長史謝禧守白下。

 ⑴《読史方輿紀要》曰く、『慈湖水は太平府(南豫州)の北六十三里にある(和州は西北九十里)。
 [1]考異曰く、太清紀や南史には綱が武帝に「私にお任せください。陛下の御心を煩わせたくはありません。」(原文『「請以事垂付,願不勞聖心。」』)と自ら進み出たとある。今は典略の記述に従う。
 ⑵梁8哀太子伝では『台内大都督』とされたとある。南80侯景伝では『都督城内外諸軍事』とある。
 [2]十二の官庁。
 [3]もと閲武堂、天監六年(507)に改められた。宮城の南門前にある。

┃計略
 庚戌(10月23日)侯景は板橋(南80侯景伝では『朱雀航』)に到ると、敵情視察のために前寿州(豫州)司馬の徐思玉侯景の豫州入城に貢献した。548年〈2〉参照)を武帝のもとに派遣した。思玉は景のもとから逃走してきたと偽り、内密に申し上げたい事があると言って人払いを求めた。帝がこれに従おうとすると、舍人の高善宝が制止して言った。
「思玉は賊中からやってきた者で、その心中は測り難いものがあります。そのような者をひとり殿上に残すというのは、いかがなものでしょうか!」
 すると、傍らに座っていた朱异が口を挟んで言った。
「徐思玉が刺客であるものか! でたらめを申すな!」
 善宝は反駁して言った。
「思玉は臨賀王と共に北に奔った(522年参照。思玉は寿陽の人)ことがある男ですぞ。そのような者をどうしてそうやすやすと信じるのですか!」
 その言葉を言い終わらぬ内、思玉は〔人払いを諦め、本性を表して〕景の上奏文を出し、こう読み上げて言った。
「朱异ら君側の奸を除くため、武装して入朝することをお許しください!」
 异は己の不明に恥じ入ると共に、その内容に非常に恐れおののいた。
 景は〔建康を油断させるため、〕更に、自分が真心で行動しているかどうかを見極めてもらうため、優秀な舍人を派遣してほしいと武帝に求めた。帝はそこで思玉が帰るのに際し、中書舍人の賀季と主書の郭宝亮を随行させた。二人が板橋にやってくると、景は帝のいる北の方角を向いて慰労の勅をしずしずと受けた。季が尋ねて言った。
「どうして兵を挙げたのか?」
 景は答えて言った。
「皇帝になるためである!」
〔これを聞いて〕王偉が〔慌てて〕進み出て言った。
朱异・徐驎ら国を乱す姦臣を除くためであります。」
 景は〔しまったと思ったが時すでに遅く、やむなく〕本音を聞いた賀季を拘束し、郭宝亮のみを建康に還した。

○資治通鑑
 庚戌,侯景至板橋【張舜民曰:出秦淮西南行,循東岸,行小夾中,十里過板橋店】,遣徐思玉來求見上,實欲觀城中虛實。上召問之。思玉詐稱叛景請間陳事,上將屛左右,舍人高善寶曰:「思玉從賊中來,情僞難測,安可使獨在殿上!」朱异侍坐,曰:「徐思玉豈刺客邪!」思玉出景啓,言:「异等弄權,乞帶甲入朝,除君側之惡。」异甚慚悚。景又請遣了事舍人出相領解【了事,猶言曉事也。領,總錄也;解,分判也;領解,言總錄景所欲言之事而分判是非也。凡此皆侯景詭言,以怠梁朝君臣,使無戰心】,上遣中書舍人賀季、主書郭寶亮隨思玉勞景于板橋。景北面受敕,季曰:「今者之舉何名?」景曰:「欲為帝也!」王偉進曰:「朱异等亂政,除姦臣耳。」景旣出惡言,遂留季,獨遣寶亮還宮。
○南62朱异伝
 及賊至板橋,使前壽州司馬徐思玉先至求見於上,上召問之,思玉紿稱反賊,請閒陳事。上將屏左右,舍人高善寶曰:「思玉從賊中來,情偽難測,安可使其獨在殿上。」時异侍坐,乃曰:「徐思玉豈是刺客邪?何言之僻。」善寶曰:「思玉已將臨賀入北,詎可輕信。」言未卒,思玉果出賊啟,异大慚。
○南80侯景伝
 既而景至朱雀航,遣徐思玉入啟,乞帶甲入朝,除君側之惡,請遣了事舍人出相領解,實欲觀城中虛實。帝遣中書舍人賀季、主書郭寶亮隨思玉往勞之于板橋。景北面受敕,季曰:「今者之舉,何以為名?」景曰:「欲為帝也。」王偉進曰:「朱异、徐驎諂黷亂政,欲除姦臣耳。」景既出惡言,留季不遣,寶亮還宮。
 
┃肝力倶壮
 建康近郊の住民たちは、景軍がやってきたのを知ると身の危険を覚え、我先にと城壁の中に逃げ込んだ。また、兵たちは係役人の制止も聞かず、勝手に武器庫に入って武器や鎧を自分のものとした。副都督城内諸軍事の羊侃が厳命して数人の兵を斬ると、混乱はようやく収まった。羊侃は副官とされると、各守備地点に必ず宗室を入れ、〔秩序の引き締めを図った〕(原文『皆以宗室間之』。「間」は「あずかる」?)。
 この時、江南の地は梁が建国されてより、四十七年もの間(502~548)平和が続き、建康の官民は武器や鎧を見ることが無かった。そのため、いざ景軍が急に眼前に迫ってくると、官民は恐慌状態に陥った。また、この時に頼りにすべき宿将たちはみな死んでおり、後進の将軍たちも殆どが建康より遠く離れた地におり、城内にはただ羊侃・柳津・韋黯がいるだけだった。しかも津は老齢で病身であり、黯は惰弱にして無才だった。そこで防衛の指揮は全て侃に一任された。侃は優れた度胸と果断さがあったため、太子綱から深い信頼を受けた。

○梁39・南63羊侃伝
 時景既卒至,百姓競入,公私混亂,無復次第(序)。侃乃區分防擬,皆以宗室間之。軍人爭入武庫,自取器甲,所司不能禁,侃命斬數人,方得止。〔是時梁興四十七年,境內無事,公卿在位,及閭里士大夫莫見兵甲。〕及賊逼城(卒迫),眾皆恟懼(公私駭震)。〔時宿將已盡,後進少年並出在外,城中唯有侃及柳津、韋黯。津年老且疾,黯懦而無謀,軍旅指撝,一決於侃,膽力俱壯,簡文深仗之。〕

┃入城

 辛亥(10月24日)〈魏孝静紀では戊申(21日)、景軍が朱雀大橋()の南にまで迫ると、太子は臨賀王正徳に宣陽門を、東宮学士・建康令で新野の人の庾信東魏に使者として赴いたことがある。545年7月参照)に東宮の文武官千余人(通鑑では『三千余人』)を率いて朱雀航(通鑑では『朱雀門』)の北を守備するよう命じた。
 太子は信に大橋を切り離してその鋭気を挫こうとした。すると正徳が反対して言った。
「大橋を切り離したりなどなされば、人民は〔賊はそこまで強いのかと思って〕必ず恐慌状態に陥りましょう。今は何より人心の安定を優先すべきです。」
 太子はこれに従った。
 間もなく景が朱雀大橋の近くにまで迫ってくると、信は部隊を率いて浮橋の大船の縛めを解こうとした(結局太子が考えを改めたのか、寸前で解く予定だったのか)。しかしその内の一艘を縛めを解いた所で、鉄面をつけ〔殺気立った〕景軍がやってくるのを見ると、〔恐れをなして〕朱雀門まで逃走した。信はそこで口の渇きを訴え、何度も所望して甘蔗(サトウキビ)を手に入れた。しかしその刹那、傍の門柱に流れ矢が当たると、信は仰天して甘蔗を取り落とし、部隊を棄てて逃げ去った。
 臨賀王正徳の息のかかった南塘の遊軍の沈子睦は、これを見ると再び大橋を元通りにして景の渡河を助けた。
 いっぽう信の逃亡を知らない太子は、知丹陽尹事の王質に乗馬と精兵三千を与えて救援に向かわせていた。質は宣陽門外の領軍府に到った所で景軍に遭遇すると、戦わずして逃走し、髪を落とし僧のふりをして民間に隠れた。
〔宣陽門()を守っていた〕正徳は軍を率いて張侯橋(老虎橋)にて景を迎え、馬上で揖礼(拱手。両手を胸の前で組み、頭を下げる礼)を交わし合ったのち、景を宣陽門の中に引き入れた。正徳は内城(建康には宮城・台城・内城・外城がある。外城は朱雀橋の戦いで突破された)の中に入ると、北にある宮城を三たび拝し、ひざまずいて〔叔父に叛いた〕罪を謝する言葉を述べ、啜り泣きした。このとき正徳軍は紅色の戦袍を着ていたが、その裏地は青色で、景軍と合流すると尽く戦袍を裏返して景軍の戦袍の色と同じくした。
 景は勝ちに乗じて一気に台城(皇城。宮城を護る城壁)にまで迫った。羊侃は城内の人々が恐れをなしているのを見ると、城外から矢文を得たと偽ってこう言った。
「邵陵王と西昌侯の援兵がすぐそこまで来ている。」[1]
 これを聞くと人心はやや落ち着いた。

 一方、西豊公大春は石頭を棄てて〔東方の〕京口(南徐州)に奔り、謝禧・元貞は白下を棄てて逃走した。石頭に残された津主の彭文粲らは城を挙げて景に降り、景は儀同三司の于子悦にこれを守備させた。

○資治通鑑
 辛亥,景至朱雀桁南,太子以臨賀王正德守宣陽門,東宮學士新野庾信守朱雀門,帥宮中文武三千餘人營桁北。太子命信開大桁以挫其鋒,正德曰:「百姓見開桁,必大驚駭,可且安物情。」太子從之。俄而景至,信帥衆開桁,始除一舶【大舟曰舶】,見景軍皆著鐵面,退隱于門。信方食甘蔗,有飛箭中門柱,信手甘蔗,應弦而落,遂棄軍走。南塘遊軍沈子睦,臨賀王正德之黨也,復閉桁渡景【景至秦淮南岸,子睦領遊軍在南塘,庾信旣走,北岸無兵,子睦因得閉桁以渡景兵】。太子使王質將精兵三千援信,至領軍府,遇賊,未陳而走。正德帥衆於張侯橋迎景,馬上交揖,旣入宣陽門,望闕而拜,歔欷流涕,隨景渡淮。景軍皆著青袍,正德軍並著絳袍,碧裏,旣與景合,悉反其袍。
○魏孝静紀
 冬十月戊申,侯景濟江,推蕭衍弟子臨賀王正德為主,以攻建業。
○梁武帝紀
 辛亥,景師至京,臨賀王正德率眾附賊。
○梁39羊侃伝
 及賊逼城,眾皆恟懼,侃偽稱得射書,云「邵陵王、西昌侯已至近路」。眾乃少安。
○梁44安陸王大春伝
 侯景內寇,大春奔京口。
○梁56・南80侯景伝
 既而景至朱雀航,蕭正德先屯丹陽郡,至是,率所部與景合。建康令庾信率兵千餘人屯航北,見景至航,命徹航,始除一舶,〔見賊軍皆著鐵面,〕遂棄軍走南塘,遊軍復閉航渡景。皇太子以所乘馬授王質,配精兵三千,使援庾信。質至領軍府,與賊遇,未陣便奔走,景乘勝至闕下。西豐公大春棄石頭城走,景遣其儀同于子悅據之。謝禧亦棄白下城走。
○陳18王質伝
 尋領步騎頓于宣陽門外。景軍至京師,質不戰而潰,乃翦髮為桑門,潛匿人間。
○南51臨賀王正徳伝
 朝廷未知其謀,以正德為平北將軍,屯朱雀航。景至,正德乃北向望闕三拜跪辭,歔欷流涕,引賊入宣陽門。與景交揖馬上,退據左衞府。先是,其軍並著絳袍,袍裏皆碧,至是悉反之。
○三国典略
 二八九、侯景至朱雀街南,建康令庾信守朱雀門。俄而景至,信眾撤桁,始除一舶,見景軍皆著鐵面,退隱於門,自言口燥,屢求甘庶。俄而飛箭中其門柱,信手中甘庶應弦而落。(卷九七四)

 ⑴張侯橋…《読史方輿紀要》曰く、『応天府(建康)の南にある。恐らく秦淮河の北岸の横橋であろう。』
 [1]このとき邵陵王綸は長江を渡って鍾離に向かっており、西昌侯淵藻は京口を守備していた。

┃台城包囲
 壬子(10月25日)、景軍の黒旗が台城を取り囲んだ。景は台城に矢文を射込んで言った。
「〔こたび兵を挙げたのは、〕朱异らが勝手に権力を行使し、臣に無実の罪を着せて殺そうとしてきたためです。陛下がいま朱异らを誅殺なさいますなら、臣は必ずや馬首を返して江北に帰るでございましょう。」
 武帝太子綱に尋ねて言った。
「朱异らは本当にこのような事をしていたのか?」
 太子は答えて言った。
「本当であります。」
 帝がそこで异らを処刑しようとすると、太子は言った。
「〔朱异らが悪事を犯していたのは事実ですが、〕この矢文の内容は単なる建前にしか過ぎません。ゆえに、もし今日异らを殺したとしても何も解決できないばかりか、物笑いの種とされてしまうことでしょう。処刑は賊を平定してからでも遅くはありません。」
 帝はそこで処刑を取りやめた。

○資治通鑑
 壬子,景列兵繞臺城,旛旗皆黑,射啓於城中曰:射,而亦翻。「朱异等蔑弄朝權,輕作威福,朝,直遙翻。臣為所陷,欲加屠戮。陛下若誅朱异等,臣則斂轡北歸。」上問太子:「有是乎?」對曰:「然。」上將誅之。太子曰:「賊以异等為名耳;今日殺之,無救於急,適足貽笑,將來俟賊平誅之未晚。」上乃止。

┃台城の攻防


 景軍は台城を包囲すると、地を震わせるほどに盛大に軍鼓や口笛を鳴らし(原文『鳴鼓吹脣』)、四方八方から一斉に攻撃をかけた。大司馬門(宮城南門)・東華門(東門)・西華門(西門)などの諸門(他に万春門・太陽門・承明門がある)はたちまち紅蓮の炎に包まれた。羊侃はこれを見るや、各門楼に穴を穿ち、そこから水を流して火に注いだ(羊侃伝では『東掖門』の事)。太子綱は自ら銀鞍を持って手柄を立てた戦士に与え、〔兵の士気を高めた。〕そこで直閤将軍の朱思は数人の戦士を率いて城壁を乗り越え、火に向かって水を撒き散らした。すると暫くして火は消えた。
 景軍はまた長柄の斧を用いて東掖門(台城東側にある小門。東華門)の破壊を目論んだ。門がまさに切り破られようとした時、羊侃は門扉〔の上に?〕に開けた穴から自ら槊を繰り出し、景兵二人を突き殺した(羊侃伝では弓を使っている)。すると斧を持った景兵は破壊をやめて退いた。
 このとき、景は〔城南の〕公車府に、正徳は左衛府に、将軍の宋子仙侯景の挙兵時に木柵を攻めた。548年〈2〉参照)は〔城東の〕東宮に、范桃棒は〔城北の〕同泰寺に陣を構えた。また、侯譒は城西の士林館に陣を構え、王侯の邸宅や富豪の住居を破壊・略奪し、その子女・財貨を全て自分の物とした。〔譒の元上司の〕貞陽侯淵明は豫州刺史だった時、章氏於氏于氏?)・王氏・阮氏の四人の妾を囲っており、彼女たちはみな絶世の美女だった。淵明が東魏に捕らえられると、彼女たちはみな建康にある淵明の本宅に帰された。現在、譒は建康に到ると、淵明の邸宅を破壊して〔侵入し〕、彼女たちをみな我が物とした。
 景は東宮の妓女数百人を捕らえて軍士に分け与えた。東宮は台城に近い所にあったため、景兵はその塀の上に登って城内に矢を射込んだ。夜になると、景は東宮にて酒宴を開いた。太子が人を遣って東宮に火を放たせると、建物やそこに所蔵されていた数百棚分の本は全て灰燼に帰した。これより前、太子は夢にある人が始皇帝の絵を描くのを見た。その人はこう言った。
「この人が再び焚書をしにやってきます。」
 果たして今その夢の通りになったのであった。
 景は台城の西にある乗黄廄・士林館・太府寺を焼いた。
 癸丑(10月26日)、景軍が数百輌の『木驢』を作って城を攻めると、梁兵は城壁の上から石を投げてこれを破壊した。すると景軍は石に対抗できるよう、新たに『尖頂()木驢』を作って城を攻めた。その姿は轒轀車(攻城兵器の一)に似、石を投げても壊すことはできなかった[1]⑴

○尖頂(頭)木驢

 羊侃はそこで『雉()尾炬』[2]を作り、鉄の鏃をつけた上でこれに油や蝋を注ぎ、〔火を付けて〕木驢に大量に投擲した所、間もなく木驢は全て灰燼に帰した(湿らせた牛皮にも限界があったのだろう)。
 景軍は更に『登城楼車』という十余丈(約30m)の高さがある攻城兵器を作り、これを用いて城内に矢を射込もうとした。侃は〔これを見て〕言った。
「非常に高い物を、塹壕を〔埋め立てたばかりの不安定な〕所に動かせば、〔平衡を失って〕転倒するに決まっている。我らは備えなど設けず、ただくつろいで見物しているだけで良い。」
 車が動くと、果たして侃の言う通り転倒した。梁兵は侃の洞察力に感服した。

○資治通鑑
 景繞城旣帀【帀,作答翻,周也】,百道俱攻,鳴鼓吹脣,喧聲震地。縱火燒大司馬、東西華諸門。羊侃使鑿門上為竅【竅,苦弔翻,空也,穴也】,下水沃火;太子自捧銀鞍,往賞戰士;直閤將軍朱思帥戰士數人踰城出外灑水,久之方滅。賊又以長柯斧斫東掖門,門將開,羊侃鑿扇為孔【扇,門扇也】。以槊刺殺二人,斫者乃退。景據公車府【蕭子顯《齊志》:公車令,屬領軍,以受天下章奏。梁制,公車令屬衞尉,其署舍在臺城門外,故景得據之。府者,署舍之通稱】,正德據左衞府,景黨宋子仙據東宮,范桃棒據同泰寺。景取東宮【妓,女樂也】數百,分給軍士東宮近城【近臺城也】,景衆登其牆射城內。至夜,景於東宮置酒奏樂,太子遣人焚之,臺殿及所聚圖書皆盡。景又燒乘黃廐、士林館、太府寺【大同中,於臺城西立士林館,使朱异、顧琛、孔子袪等遞互講述】。癸丑,景作木驢數百攻城,城上投石碎之。景更作尖項木驢【石不能破。杜佑曰:以木為脊,長一丈,徑一尺五寸,下安六腳,下闊而上尖,高七尺,內可容六人,以濕牛皮蒙之,人蔽其下舁,直抵城下,木石鐵火所不能敗,用以攻城,謂之木驢】。羊侃使作雉尾炬,灌以膏蠟,叢擲焚之,俄盡【杜佑曰:鷰尾炬,縛葦草為之,分為兩岐,如鷰尾狀,以油蠟灌之,加火,從城墜下,使人騎木驢而燒之。侃之作雉尾炬也,施鐵鏃,以油灌之,擲驢上焚之】。景又作登城樓,高十餘丈,欲臨射城中。侃曰:「車高塹虛,彼來必倒,可臥而觀之。」及車動,果倒。
○梁28夏侯譒伝
 頓兵城西士林館,破掠邸第及居人富室,子女財貨,盡略有之。淵明在州有四妾,章、於、王、阮,並有國色。淵明沒魏(明被魏囚),其妾並還京第,譒至,破第納焉。
○梁39・南53羊侃伝
 賊攻東掖門,縱火甚盛,侃親自距抗,以水沃火,火滅,引弓射殺數人,賊乃退。加侍中、軍師將軍。有詔送金五千兩,銀萬兩,絹萬匹,以賜戰士,侃辭不受。部曲千餘人,並私加賞賚。賊為尖頂木驢攻城,矢石所不能制,侃作雉尾炬,施鐵鏃,以油灌之,擲驢上焚之,俄盡。賊又東西兩面起〔二〕土山,以臨城,城中震駭,侃命為地道,潛引其土,山不能立。賊又作登城樓車,高十餘丈,欲臨射城內,侃曰:「車高壍(塹)虛,彼來必倒,可臥而觀之,不勞設備。」及車動果倒,眾皆服焉。
◯梁56・南80侯景伝
 景於是百道攻城,持(縱)火炬燒大司馬、東西華諸門。城中倉卒,未有其備,乃鑿門樓,下水沃火,久之方滅。賊又斫東掖門將開(入),羊侃鑿門扇,刺殺數人,賊乃退。又登東宮牆,射城內,至夜,太宗募人出燒東宮,東宮臺殿遂盡。〔所聚圖籍數百厨,一皆灰燼。先是簡文夢有人畫作秦始皇,云「此人復焚書」,至是而驗。〕景又燒城西馬廐、士林館、太府寺。明日,景又作木驢數百攻城,城上飛石擲之,所值皆碎破。〔賊又作尖頂木驢,狀似槥,石不能破。乃作雉尾炬,灌以膏蠟,叢下焚之。〕
○南51臨賀王正徳伝
 退據左衞府。
○通典兵5守拒法
 鷰尾炬,縛葦草為之,尾分為兩歧,如鷰尾狀,以油蠟灌之,加火,從城墜下,使人騎木驢而燒之。

 [1]通典曰く、縦の長さが一丈あり、横の長さが一尺五寸ある。木製の屋根があり、下には六脚(6つの車輪)があって安定しており、屋根の下は空洞で、屋根の上は尖り、高さは七尺あり、六人が収容できた。湿らせておいた牛皮で屋根を覆っていたため、木や石、鉄や火でも破壊することはできなかった。人はこれに守られながら城壁の下に突き進み、〔攻城を行なった〕。
 ⑴『武備志』曰く、形状は轒轀車に似、異なる所はただ車輪が二つ増えている所と、上に大木を横たえて棟木としている所である。縦の長さは一丈五尺あり、上は鋭く〔尖り、〕下は方形で、高さは八尺あり、牛皮で包まれている。十人を収容でき、兵はこの中に隠れて城壁の下にまで迫り、地下道を掘る。
 [2]通典曰く、〔鉄製の矢に〕葦草を燕尾のように二つに分けて縛りつけて〔軌道を安定させた上で、〕これに油や蝋を注いで火を付け、城壁の上より投擲して木驢を焼いた。

┃長期戦へ
 景軍は何度も攻城に失敗し、多くの死傷者を出したため、力攻めを止めて〔長期戦に切り換え、〕城の周囲に長い塀を築いて内外の連絡を断った。その上で〔再び〕朱异らを誅殺してくれるよう求めると、城内は報酬を書いた矢文を景軍に射込んでこう言った。
「景の首を斬って送ってきた者には景の官爵ならびに銭一億万枚、布・絹を一万疋ずつと、女楽隊を二組与える。」
 朱异・張綰劉敬躬の乱の平定に活躍し、高澄が和平を求めてくるとこれに賛同した。548年〈1〉参照)がこちらから打って出ることを求めると、武帝羊侃にその可否を尋ねた。すると侃は答えて言った。
「なりません。賊はいま何日かけても台城を陥とせず、ただ長塀を築き、〔心理的に苦しめて〕城内から投降者(内応者)が出てくるのを望むしかない状況になっているのです。〔そのような時に出て戦おうとするのは愚の骨頂です。そもそも攻撃をかける場合、〕その兵が少なければ賊を破るのに不充分で、多かったとしても、もし一旦敗北を喫してしまえば、数の多さが仇となり、逃げようとしても門や橋の狭い所で揉みくちゃになり、大損害を出すでしょう。これでどうして王威を示せましょうか。ただ我らの弱体を示す結果になるだけであります。」
 帝はこれを聞かず、千余人を出撃させた。しかし梁兵は刃を交える前におじげづいて退走し、侃の言う通り、橋の所で揉みくちゃになり、多くが水に飛び込んで溺れ死ぬこととなった。

◯梁39羊侃伝
 賊既頻攻不捷,乃築長圍。朱异、張綰議欲出擊之,高祖以問侃,侃曰:「不可。賊多日攻城,既不能下,故立長圍,欲引城中降者耳。今擊之,出人若少,不足破賊,若多,則一旦失利,自相騰踐,門隘橋小,必大致挫衂,此乃示弱,非騁王威也。」不從,遂使千餘人出戰,未及交鋒,望風退走,果以爭橋赴水,死者太半。
○梁56・南80侯景伝
 景苦攻不剋,〔士卒〕傷損(死者)甚多,乃止攻,築長圍以絕內外,〔又〕啟求誅中領軍朱异、太子右衞率陸驗、兼少府卿徐驎、制局監周石珍等。城內亦射賞格出外:「有能斬景首,授以景位,并錢一億萬,布絹各萬匹,女樂二部。」

┃羊侃、子を射る
 これより前、侃の長子の羊鷟サク)は景の捕虜となっていた。景はこれを城下に引っ立てて侃に見せ、〔投降を呼びかけた。〕すると侃はこう答えて言った。
「一家全員の命を陛下に捧げてもまだ足りないくらいだというのに、どうして息子一人の命くらいで心を動かそうか! むしろ早く殺してほしいくらいだ!」
 数日後、景は諦めきれずに再び鷟を引っ立て、侃に見せると、侃は鷟にこう言った。
「とっくのとうに死んだと思っておったのに、まだ生きていたのか! わしは身命を国に捧げており、死ぬ時は戦場と心に決めている! お前が死のうとわしの決心は変わらぬ!」
 かくて弓を引き、鷟に向かって矢を射た。景は侃の忠義に感じ入り、遂に最後まで鷟に害を加えなかった。

○梁39羊侃伝
 初,侃長子鷟為景所獲,執來城下示侃,侃謂曰:「我傾宗報主,猶恨不足,豈復計此一子,幸汝早能殺之。」數日復持來,侃謂鷟曰:「久以汝為死,猶復在邪?吾以身許國,誓死行陣,終不以爾而生進退。」因引弓射之。賊感其忠義,亦不之害也。

┃北人欽慕
 侯景は儀同の傅士哲に命じて侃を説得させた。士哲は侃にこう叫んで言った。
「侯王はただ天子にお尋ねしたき儀があって遠路はるばるやって来ただけなのに、どうして門を閉じて中に入れないのか。尚書(羊侃。侃は都官尚書)は国家の大臣であるなら、宜しくこの事を朝廷に伝えるべきである。」
 侃は言った。
「侯将軍が北方で一敗地に塗れて我が国に亡命してくると、陛下は将軍を要衝の長官とし、深く頼りになされた。それなのに、何が不満で突然兵を挙げたのか? 今、将軍は烏合の兵を駆り立てて王城のもとに到り、胡虜の馬に淮水の水を飲ませ(『飲馬長江』を変えた物で、東魏の淮南侵攻を招いている事を指す?)、矢を宮城に降り注いでいるが、これでどうして人臣としてやって来たと言えようか? 私は国家の重恩を受けた身なれば、ただ朝廷のご命令に従って大逆の臣を掃滅するだけである。妄言を聞き入れて開門して盗賊たちを入れるようなことは断じてせぬ。侯王にこう伝えよ、早くかかって来いと。」
 士哲はまたこう言った。
「侯王は陛下に忠義を尽くしてこられたのに、〔君側の奸に邪魔されて〕その気持ちが朝廷に伝わることが無かったので、今こうして陛下に直接お会いし、君側の奸を除くよう進言しに来たのである。また、甲冑を身に着けているのは我らが久しく戦陣に身を置いていた者であるゆえ、これを正装としてきたからである。なのに、どうして叛逆者などと言うのか?」
 侃は言った。
「聖上(陛下)は五十年近くの長きに亘って天下を治めてこられたお方で、そのご聡明さは何もかもお見通しになる。その陛下がおられる朝廷でどうして姦佞の臣が跋扈し得ようか? 自らの非を誤魔化そうとして虚言を弄してはならない。それに、侯王は自ら白刃を掲げて宮城に向けているが、忠義を尽くすとはかような事を言うのか!」
 士哲は何も反論できず、ただこう言った。
「私は北方にいた時、長らく尚書のご高名を耳にしておりましたので、いつもお話する機会を得なかったのを残念に思っていました。どうか兜を脱いでお顔を見せてください。」
 侃がそこで兜を脱いで士哲に見せると、士哲は望見する事暫くして去った。侃が北人に敬慕されることはこの様であった。

○梁39羊侃伝
 景遣儀同傅士哲呼侃與語曰:「侯王遠來問訊天子,何為閉距,不時進納?尚書國家大臣,宜啟朝廷。」侃曰:「侯將軍奔亡之後,歸命國家,重鎮方城,懸相任寄,何所患苦,忽致稱兵?今驅烏合之卒,至王城之下,虜馬飲淮,矢集帝室,豈有人臣而至於此?吾荷國重恩,當禀承廟算,以掃大逆耳,不能妄受浮說,開門揖盜。幸謝侯王,早自為所。」士哲又曰:「侯王事君盡節,不為朝廷所知,正欲面啟至尊,以除姦佞。既居戎旅,故帶甲來朝,何謂作逆?」侃曰:「聖上臨四海將五十年,聰明叡哲,無幽不照,有何姦佞而得在朝?欲飾其非,寧無詭說。且侯王親舉白刃,以向城闕,事君盡節,正若是邪!」士哲無以應,乃曰:「在北之日,久挹風猷,每恨平生,未獲披敘,願去戎服,得一相見。」侃為之免冑,士哲瞻望久之而去。其為北人所欽慕如此。

┃荘鉄の逃走
 荘鉄歴陽大守。侯景に攻められると母の勧めに従って降伏した。548年〈2〉参照)は景の挙兵が失敗に終わると考え、母を迎えに行くと偽って側近数十人と共に歴陽に戻った。鉄はその際、書簡を守将の田英・郭駱548年〈2〉参照)に送り、こう嘘をついて言った。
「侯王(侯景)は既に官軍に殺され、私は朝廷に元の鎮所に戻るよう命じられた(出典不明)。」
 駱らはこれを聞いて仰天し、歴陽を棄てて寿陽に逃走した。鉄は入城はしたものの敢えて守ることはせず、母を連れて尋陽(江州)に逃亡した。
 江州刺史の当陽公大心字は仁恕。太子綱の第二子)は宿将である鉄を厚遇し、軍事のことを全て一任すると共に、豫章内史とした。

 11月、戊午朔(1日)、梁が太極殿の前に祭壇を設け、白馬を生贄にして蚩尤(戦の神)を祀〔り、勝利を祈願した〕。

○資治通鑑
 莊鐵慮景不克,託稱迎母,與左右數十人趣歷陽,先遣書紿田英、郭駱曰:「侯王已為臺軍所殺,國家使我歸鎭。」駱等大懼,棄城奔壽陽,鐵入城,不敢守,奉其母奔尋陽。
○南史梁武帝紀
 十一月戊午朔,設壇,刑白馬,祀蚩尤於太極殿前。
○梁44尋陽王大心伝
 初,歷陽太守莊鐵以城降侯景,既而又奉其母來奔,大心以鐵舊將,厚為其禮,軍旅之事,悉以委之,仍以為豫章內史。
○南80侯景伝
 莊鐵乃奔歷陽,紿言景已梟首。景城守郭駱懼,棄城走壽陽。鐵得入城,遂奔尋陽。
 
┃正徳の即位

 己未(11月2日)臨賀王正徳が台城南門の前にある儀賢堂[1]にて皇帝の位に即いた。正徳は詔を下して言った。
「普通(520~527)以来、政治は奸臣に乱され、陛下も長らく病気を患って、国家は滅亡の危機に瀕した。河南王景は〔この状況を見過ごせず、〕地位を釈()てて朝廷に赴き[2]、ありがたくも朕を帝位を継がせてくれた。今、大赦を下し、正平と改元することとする。」
 かくて世子の蕭見理字は孟節)を皇太子とし、景を相国(正徳伝では『丞相』)・天柱将軍とし、娘をこれに妻合わせた。また、自邸にあった財貨を外に出し、全て軍費に充てた。
 『正平』と年号を定めたのは、以前流行った童謡にあやかったもの(正徳伝では他に、人々が口喧嘩をした際、一様に『正平』という言葉が突いて出たためとする)であったが、有識者はこれを『正』徳が討『平』される予兆だと見た。

○資治通鑑
 臨賀王正德卽帝位於儀賢堂【天監六年,改聽訟堂為儀賢堂,在南闕前】,下詔稱:「普通以來,姦邪亂政,上久不豫,社稷將危。河南王景,釋位來朝【《左傳》:王子朝曰:「諸侯釋位以間王政。」】,猥用朕躬,紹茲寶位,可大赦,改元正平。」立其世子見理為皇太子,以景為丞相,妻以女,幷出家之寶貨悉助軍費。
○南史梁武帝紀
 己未,景立蕭正德為天子於南闕前。
○梁56・南80侯景伝
 十一月,景立蕭正德為帝,即偽位於儀賢堂,改年曰正平。初,童謠有「正平」之言,故立號以應之。〔識者以為正德卒當平殄也。〕景自為相國、天柱將軍,正德以女妻之。
○梁55・南51臨賀王正徳伝
 景推正德為天子,改年為(號曰)正平元年,〔初童謠有之,故以應也;又世人相佷,必稱正平耳。正德乃以長子見理為太子,〕景為丞相。〔以女妻景。〕
○南51蕭見理伝
 見理字孟節,性甚凶粗,長劍短衣,出入廛里,不為宗室所齒。及肆逆,甚得志焉。

 [1]もと聴訟堂。天監六年(507)〔9月〕に儀賢堂と改められた。
 [2]左伝昭公二十六年の王子朝が諸侯に出した布告に、「諸侯、位を釈(す)てて王政に間(あずか)れり。」とある。


 548年(4)に続く