[西魏:大統十四年 東魏:武定六年 梁:太清二年]


●李賁の死
 己未(3月28日)、梁が鎮東将軍・南徐州(建康の東)刺史の邵陵王綸武帝の第六子。白昼堂々人を殺害させた事がある。546年〈1〉参照を平南将軍・湘州(治 盧江)刺史・同三司之儀とし、中衞将軍・開府儀同三司・中書令・侍中の西昌侯淵藻武帝の兄の子。539年参照)を征東将軍・南徐州刺史とした《梁武帝紀》

 この日、南越帝の李賁546年〈1〉参照)が潜伏先の交州の屈獠洞中にて屈獠族に斬られた。首は建康に伝えられた(大越史記では辛亥〈20日〉の事で、死因も『肙(小さく細長い虫?)瘴』による病死となっていて異なる《梁武帝紀》
 賁の兄の李天宝は九真(交州の南)に逃れ、劫帥の李紹隆と共に残兵二万を集めて徳州(九真の南)刺史の陳文戒を殺し、愛州【隋書地形志曰く、梁が九真郡に置いた】を囲んだ。交州司馬の陳霸先546年〈1〉参照)がこれを討伐して平定した。梁は覇先を振遠将軍・西江督護・高要太守・督七郡諸軍事とした《陳武帝紀》

●孫騰の死
 夏、4月、甲子(3日)、東魏の吏部令史の張永和・青州民の崔闊らが任命書を偽造して人に官位を与えていたことが発覚した。これに関連して検挙された者・自首した者は六万余人に及んだ《魏孝静紀》
 この月、録尚書事の孫騰字は龍雀。早くから高歓に従って懐刀となりその雄飛を支えた。のち栄達して『四貴』の一人となった。545年〈2〉参照)が亡くなった(享年68)。文公と諡された《北斉18孫騰伝》

┃蠕蠕公主の死
 これより前(545年8月)、柔然の頭兵可汗の第二女の郁久閭氏高歓に嫁ぎ、蠕蠕公主とされていた。
 のち歓が死ぬと(547年正月)、歓の子の高澄が柔然の慣習(レヴィレート婚)に従って公主と結婚し、一女を産ませた。
 甲戌(4月13日)、公主が并州王宫にて亡くなった(享年19。産褥死?)。
 のち(5月30日)、歓の陵墓(鄴の西北の漳水の西にある。義平陵)の北一里に埋葬された。
 
 戊寅(17日)、梁が護軍将軍の河東王誉前太子蕭統の第二子。544年参照)を湘州刺史とした(結局邵陵王綸ではなく河東王誉を湘州刺史としたのである《梁武帝紀》

○北14蠕蠕公主伝
 神武崩,文襄從蠕蠕國法,蒸公主,產一女焉。
○魏故斉献武高王閭夫人墓志 
 春秋一十有九,以武定六年四月十三日,薨于并州王宫,其年五月卅日,窆于齐王陵之北一里。

●宇文泰の西巡・北巡

 5月、西魏が丞相・安定公の宇文泰を太師、大冢宰・中軍大都督の広陵王欣節閔帝の兄。537年〈1〉参照)を柱国大将軍(北19広陵王欣伝)・太傅、大尉の李弼を大宗伯、前大尉(御史中尉の誤り?)〔で司空〕の趙貴宇文泰が賀抜岳の遺衆を接収するのに非常な貢献をした。河橋・邙山では共に失態を演じ、一時免官に遭った。548年〈1〉参照)を大司寇、司空(誤り?)の于謹泰の譜代で智謀に優れた名将。邙山の敗戦の際、東魏の追撃を阻止した)を大司空とした(宇文泰以外、列伝に叙任の記載は無い)【周の官制を真似たのである《北史西魏文帝紀》
 文帝は欣にこう言った。
「王は三たび太傅となり(533年、535年)、二度太師となった(533年?、537年以前?)。このような例は古今聞いたことが無いぞ。」
 欣はただただへりくだって感謝の言葉を述べるだけだった《北19広陵王欣伝》

 この月、太師の宇文泰が太子の元欽を連れて西境の巡撫に赴いた。新平、安定と進んで隴山に登り、そこで石碑を立ててこの事を記録した。次いで隴山を下りて安陽(北秦州?)、原州と進み、北長城を越えたところで大規模な狩猟を行なった。次いで東方の五原に赴こうとしたが、蒲川(周49稽胡伝によれば、北周時代の丹・綏・銀三州にある川。今の延安北部)に到った所で文帝が病に倒れたことを聞いたため、巡撫を取り止めて長安に帰還した。しかし到着した時には既に帝の病気は平癒していた。そこで泰は華州に帰還した《周文帝紀》

 この年、西魏が隴右十(十一?)州大都督・秦州刺史・大司馬の独孤信もとの名は如願で、泰の旧友。知勇兼備の名将で、西方を委任された。547年〈1〉参照)を柱国大将軍とした。また、下溠戍攻略(533年参照)・洛陽防衛(538年〈1〉参照)・岷州撃破(541年参照)・涼州平定(546年〈1〉参照)などの長年の功を賞して、封邑を加増し、それを諸子に下げ渡すことを許可した。かくて信は第二子の善を魏寧県公、第三子の穆を文侯県侯、第四子の蔵を義寧県侯、第五子の順を項城県伯、第六子の陁を建忠県伯とした。
 信は隴右勤務が非常に長く(541年頃に秦州刺史とされた)、その間朝廷に戻ることを求めたことはあったが、泰に許可されなかった。ある時、東魏から来降してきた者が信の母の訃報を伝えてくると、信はその死を世間に公表して喪に服した。
 宇文泰は今回の巡行の途中、信の鎮所である河陽(安陽。北秦州)に弔問しに立ち寄った。信はそのさい哀苦の情を訴え、満期の三年の喪に服する許可を求めたが、泰は許さなかった。ただ、信の父の庫者を司空公、信の母の費連氏を常山郡君と、追贈・追封し〔てその心を慰めることはし〕た《周16独孤信伝》

 辛丑(11日)、梁が中書令の邵陵王綸を安前将軍・開府儀同三司とし、前湘州刺史の張纘539年参照)を領軍将軍とした。
 辛亥(21日)、交・愛・徳三州に限定して恩赦を行なった《梁武帝紀》

 6月高澄が北辺にある城砦の巡視に出かけ、その将兵らに等級をつけて金品を与えた《北斉文襄紀》
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 李弼...字は景和。生年494、時に55歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。河橋の戦いでは莫多婁貸文を斬る大功を立てた。のち重傷を負って捕らえられたが、逃走することに成功した。540年に侯景が荊州に攻めてくるとその防衛に赴き、547年に景が帰順してくるとその救援軍の総指揮官とされた。548年、北稽胡の乱を平定した。547年(2)参照。

●梁、北斉に使者を送る

 秋、7月、庚寅朔(1日)、日食があった《出典不明》
 この月、梁は東魏から返答が来なかったため、改めて建康令・兼散騎常侍の謝挺、兼通直散騎常侍の徐陵らを東魏に派遣した(通鑑では5月、朱异伝では6月とある)。
 徐陵、字は孝穆は、徐摛531年〈3〉参照)の子である《陳26徐陵伝》

 乙卯(26日)高澄が鄴の朝廷に参内した《北史北斉文襄紀》
 道士の大半が偽者ばかりであったため、〔太武帝以来(432年12月参照)首都の〕南郊に置いていた道壇を廃止した(ここに置かれている理由は不明《魏114釈老志》
 8月、庚寅(2日)、澄が晋陽に帰還した。

○南史梁武帝紀
 秋七月,使兼散騎常侍謝班聘于東魏結和。

○魏98島夷蕭衍伝
 衍於是遣其散騎常侍謝珽、通直常侍徐陵詣闕朝貢。

○梁38朱异伝
 其年六月,遣建康令謝挺、通直郎徐陵使北通好。
○南80侯景伝
 又聞遣伏挺、徐陵使魏,不知所為。


 ⑴魏98島夷蕭衍伝では『謝挺』。南史梁武帝紀では『謝班』。南80侯景伝では『伏挺』。伏挺は梁50文学に伝がある。謝挺・謝珽・謝班は伝が無い。

┃潁川討伐
 澄は太尉の高岳を使持節・河南総管・大都督とし、尚書左僕射の慕容紹宗を東南道大行台とし、司徒の韓軌・大都督(儀同?)・殷州刺史の劉豊生ら(梁軍や侯景を大破した。548年〈1〉参照)と共に十万の兵を率いて西魏の大将軍(去年固辞したが、今年になって受け入れた)・東道行台・河南諸軍事の王思政王羆に代わる防衛の専門家。547年〈2〉参照)が守る潁川を攻めるよう命じた。

○魏孝静帝紀
 秋八月甲戌(庚寅),以尚書左僕射慕容紹宗為大行臺,與太尉高岳、司徒韓軌、大都督劉豐等討王思政於潁川,引洧水灌其城。
○周文帝紀
 是歲,東魏遣其將高岳、慕容紹宗、劉豐生等,率眾十餘萬圍王思政於潁川。
○北史北斉文襄紀
 八月庚寅,還晉陽。使大行臺慕容紹宗與太尉高岳、大都督劉豐討王思政於潁川。
○周18王思政伝
 東魏太尉高岳、行臺慕容紹宗、儀同劉豐生等率步騎十萬來攻潁川。
○北斉13清河王岳伝
 六年,以功除侍中、太尉,餘如故,別封新昌縣子。又拜使持節、河南總管、大都督,統慕容紹宗、劉豐等討王思政於長社。
○北斉20慕容紹宗伝
 西魏遣其大將王思政入據潁州,又以紹宗為南道行臺,與太尉高岳、儀同劉豐等率軍圍擊。
○北斉21高季式伝
 還,除衞尉卿。復為都督,從清河公攻王思政於潁川。
○北斉27劉豊伝
 出除殷州。王思政據長社,世宗命豐與清河王岳攻之。

●侯景に異志あり
 乙未(7日)、梁が右衛将軍の朱异武帝の寵臣。548年〈1〉参照)を中領軍とした。中書通事舎人の官はそのままとした《梁武帝紀》

 侯景滏口の戦いにて葛栄を捕らえて大いに武名を挙げ、のち高歓に河南の軍事権を委任された。歓が病気になると立場が微妙になって西魏に寝返ったが、これにも叛いて最終的に梁に付いた。548年〈1〉参照は渦陽にて大敗を喫したのち、朝廷に間断なく要求を行なったが、朝廷はこれを寛大に受け入れていた〔が、いくつか例外があった〕。
 ある時、景が王・謝(南朝最上級の名門)の家から妻を娶りたいと求めると、武帝はこう答えた。
「王・謝では家柄が高すぎてそなたとは釣り合わぬ。朱・張【朱异・張綰の家を指す】以下から選ぶと良い。」
 景はこれに激怒して言った。
「呉()の女どもなどみな奴隷の嫁にしてやる!」
 また、軍人の戦袍(軍服)を整えるため、一万疋の錦を所望すると、中領軍の朱异は錦を蔵から出すのは賞賜の時だけだとしてこれを断り、代わりに青布を支給させた。侯景はこれを全て戦袍とし、以来青色をたっとぶようになった(梁56侯景伝)。
 これより前、大同年間(535~546)にこのような童謠が流行った。
「青絲白馬、寿陽より〔建康に〕来たる。」
 景はこれを耳にすると、乗馬を白馬とし、手綱を青絲で作って験を担ごうとした。
 また、支給される武器の多くが不良品だとして、建康の東冶から熟練工を呼び、寿陽で武器を製造することへの許可を求めた。武帝はこれを許可した《南80侯景伝》
 景は梁の故・安北将軍の夏侯夔538年〈2〉参照)の子の夏侯譒もと蕭淵明の長史)を豫州長史とし、徐思玉侯景の豫州入城に貢献した。548年〈1〉参照)を豫州司馬とした。このとき、譒は己の名字から『夏』を去って『侯譒』と名乗り、侯景の族子のように振る舞った《出典不明》

●元貞逃亡
 これより前、侯景は武帝が己の言を用いずに東魏と和親を結んだことを知ると、上奏文に不遜な言辞を用いるようになった(2月17日)が、〔伏挺・〕徐陵らが東魏に派遣されたことを知ると(7月)狼狽し《南80侯景伝》、いよいよ叛志を明らかにするようになった《資治通鑑》
 元貞侯景が北伐に向かう際、その旗頭とした。547年〈4〉参照)は景の異志を知ると、何度も上奏して自分を朝廷に還してくれるよう求めた。すると景はこう言った。
「河北は取れなかったが、江南なら大丈夫だ(出典不明)。〔少し待てば江南に還れる(建康を攻略できる)というのに、〕なんで我慢できんのだ!」
 貞は震え上がり、遂に景のもとから脱走して建康に到り、侯景の異志明らかなることをつぶさに説いた《南80侯景伝》。しかし、武帝は貞を始興内史とするだけで、景に問い質すことはしなかった《出典不明》

●臨賀王との密約
 梁の臨賀王正徳武帝の弟の子。532年参照)はもともと子の無い武帝が養子としていた者だったが、蕭統が生まれるとお払い箱となった。正徳はこれを快く思わず、北魏に逃亡したが、厚遇されなかったため梁に還り、武帝の赦しを得た。しかしその後も行状改まらず、北征の時には軍を棄てて身一つで逃亡し、爵土を没収され、丹陽尹となっては部下の大半が強盗行為を働いたことで免職となった。また、南兗州刺史となっては暴政で豊かな広陵の地を荒野にし、人民相食む惨状を呈させたことで免職となった。正徳はこれらの処分に懲りることなく、むしろますます怨恨の情を募らせ、密かに逃亡者を集めて(梁55臨賀王正徳伝)決死の士を養い、兵糧を蓄えて事変が起こるのを待ち望むようになった。
 景はこれを知ると、北魏時代に正徳と知己の仲だった徐思玉に手紙を持たせ、そのもとに派した。手紙にはこう書かれていた。
「今、天子は高齢で〔耄碌し〕、姦臣が国政を乱している有様であります。このままでは、梁が滅亡するのも近いことでしょう。〔これを変えるのは、大王の他おりません。〕大王はそもそも太子にふさわしい人物であったのに、中途にて廃嫡に遭われました。これは天下の義士が憤慨するところであります。大王はどうして親族の情などにかかずらい、万民の期待に背かれるのですか。私は戦いが不得手ではありますが、大王のために力を尽くす所存であります。」
 正徳はこれを読むと大いに喜んで言った。
「図らずも侯公の考えていることはわしと同じだ。侯公は天がわしを助けるために遣わした者だ!」《南51臨賀王正徳伝》
 かくてこれに返事を書いて言った。
「朝廷の事は公の分析した通りであり、私も長年歯がゆく思っていたことだ。今、私が朝廷内から、公が外から事を起こせば、失敗することは無いだろう! 機は逸すべからずと言うが、今がまさにその時機である。」《出典不明》

●警告容れられず
 合州刺史の鄱陽王範武帝の異母弟、鄱陽忠烈王恢の子。去年の6月に征北大将軍・総督漢北征討諸軍事とされ、12月に蕭淵明の代わりに安北将軍・南豫州刺史とされた。547年〈4〉参照)が、景が叛乱を企てていることを密奏した《梁38朱异伝》。しかし、辺境のことを全て委任され、その状況を知悉しているはずの朱异がその道理の無いことを言上したので、武帝は範にこう答えて言った。
「景は進退窮まって身を寄せてきた者で(梁38朱异伝)、言うなれば乳を求める赤子だ。その赤子がどうして叛乱など企てようか!」
 範は重ねて密奏して言った。
「早くこれを処分しませぬと、万民に禍いが及びましょう。」
 武帝は答えて言った。
「このようなことは朝廷が考えることで、お前が深く心配する必要は無い。」
 範はまた、合肥の兵を率いて景を討つ許可を求めたが、武帝は許さなかった【範は景の敵ではなく、武帝が許可を与えても飢えた虎に肉を投げるだけの結果に終わっただろう《出典不明》。朱异は範に使者を派して言った。
「鄱陽王は、朝廷が賓客一人を養うのも許さぬのか!」
 これ以降、异は範の上奏文が来ても全て握りつぶしてしまった《梁38朱异伝》
 また、司州刺史の柳仲礼賀抜勝の雍州侵攻を退けた。身長八尺の勇将。535年〈2〉参照)も精兵三万を率いて侯景を討ちたいと上奏したが、聞き入れられなかった《南38柳仲礼伝》

 景は叛乱を起こす前に、前司州刺史の羊鴉仁懸瓠から無断で撤退し、武帝に激怒されてやむなく淮河のほとりに留まっていた)に対し、共に叛乱しようと誘いをかけたが、鴉仁はその使者を捕らえて建康に送ると共に、このことを上聞した。しかし异はこう反駁して言った。
「たった数百人の叛虜で、何ができようか!」《南80侯景伝》
 武帝は〔侯景の〕使者を建康の獄舎に捕らえておくよう命じたが、間もなく釈放して景のもとに帰した。景はますます大胆になり、こう上奏して言った。
「もし臣の謀反が事実なら、どうぞ処刑してくださいませ。もし無実なら、鴉仁を誅殺してくださいませ!」【考異曰く、梁書・南史朱异・侯景伝みな『並抑不奏』とあり、典略も『朱异拒之』とある が、今は太清紀の記述に従った《出典不明》
 景はまたこう上奏して言った。
「高澄は狡猾な奴で、全く信ずるに値しない男でありますのに、陛下はその虚言を信じて和親を求めました。これは臣が密かに失笑する所であります。臣は四十六年生きてきましたが、江東に佞邪の臣がいるとは一度も聞いたことがありませんでした。しかし臣が一旦入国すると、すぐさま讒言を受けました。臣は国に粉骨砕身する事は厭いませんが、仇敵に命を差し出す事だけはできませぬ。どうか江西のどこかに領地をお与えください。お許しいただけなければ、臣は即座に鉄騎を率いて長江を押し渡り、閩・越の地まで進軍するつもりです。そうなりますれば、朝廷は恥辱を被るだけでなく、三公ですら食事の暇が無くなることでしょう。」
 武帝は朱异を介して景の使者にこう答えた。
「貧家でも五人や十人の食客を満足させられるものなのに、朕は一人の食客ですら不満にさせてしまっている。これは朕の過ちである。」《南80侯景伝》
 かくてこれまで以上に手厚く錦綵銭布を賜い、足繁く使者を往来させた《出典不明》

●侯景叛す

 戊戌(10日)《梁武帝紀》侯景は豫州(寿陽)城内にて配下の諸将を集め、祭壇に登って生贄の血を啜りあったのち、中領軍の朱异・少府卿(帝室の家産管理)の徐驎・太子右衛率(南80侯景伝では『太子左率』)の陸験・制局監(朝廷内の軍事を司る)の周石珍ら国政を乱す奸賊を討つことを名目に、遂に叛乱の兵を挙げた《南80侯景伝》
 异らはみな姦佞・驕貪で、武帝を騙し権力を弄んでいたため、人々から憎まれていた。景はそれにかこつけて兵を挙げたのである。
 徐驎・陸験は呉郡呉県の人である。験は若い頃貧困に喘ぎ、品の無い生活を送った。同県出身の大富豪の郁吉卿に身を粉にして仕えて〔気に入られ、〕銭米の融資を受けて商人となり(原文『吉卿貸以錢米,驗借以商販』)、やがて成功して大金持ちとなった。験はそこで都に赴き、権力者たちに金をばらまいて取り入った。朱异は験と同郷の出身(朱异も呉郡の人)で、以前恩を受けたことがあったので、武帝に口利きをして験を登用させた。験は徐驎と代わるがわる少府丞・太市令に任じられた。驎・験は共に厳しく商人に当たったため、その恨みを買った。异はその二人と仲が最も良かったため、人々は彼らを『三蠹』(サント、三匹の木食い虫〈害虫、有害分子)と呼んだ《南77陸験徐驎伝》
 験は無学で、しかも非常に不細工だった。人々はそこで、かつて外国から献上されてきた生犀(サイ)が非常に醜かったのになぞらえ、験のことを『生犀』と呼んだ。
 周石珍は丹陽尹建康県の人である。召使い(厮隷)の身分で、代々絹を売って生計を立てた。天監年間に次第に昇進して宣伝左右となった。七尺の長身で、物腰が非常に柔らかかった。のちに制局監・開陽令となった《南77周石珍伝》

 司農卿(財政を司る)の傅岐字は景平。朱异に次ぐ権力を持った。548年〈1〉参照は正義感の強い男で、かつて异にこう言ったことがあった。
「卿は国家の大役を任されるほど、陛下から信頼を受けています。しかし、最近聞こえてくる噂は、下品で悪劣なものばかり。もし陛下がこれに気づけば、処罰は免れませんぞ!」
 异は答えて言った。
「世間がわしのことを悪く言っているのは随分前から知っている。しかし、わしは何もやましいことはしていないと自負している。それでどうして人の言葉など気にしようか!」
 岐はある人にこう言った。
「朱彦和(异の字)はもうすぐ死ぬな。彼はご機嫌取りの言うことだけを聞いて、諫言はあれこれ言い訳をして聞かず(原文『恃諂以求容,肆辯以拒諫』)、災難が近づいていると言っても恐れず、自分が悪評を受けていると知っていても改めることをしない。鏡を失った者に、先は無い(原文『天奪之鑒,其能久乎』)!」《南77陸験徐驎伝》

 侯景は西方の(通鑑)馬頭を攻め【今攻めた馬頭は、侯景が渦陽にて大敗したのち、寿陽に入るのを助けた劉神茂のいる当塗(寿陽東北)の馬頭とは異なる。考異曰く、梁書〔・南史〕には『太守の劉神茂を捕らえた』とある。考えるに、神茂はもともと景に付いていた(南史出典)のだから、わざわざ攻めて捕らえる必要は無い。ゆえに今は太清紀・典略の記述に従った】ると共に、将軍の宋子仙に東方(通鑑)の木柵【荊山の西にある】を攻めさせ、戍主の曹璆らを捕らえた(梁武帝紀ではこの他に荊山戍も攻めている)。
 武帝はこれを聞いて笑って言った。
「景に何ができよう! 半分に折った杖だけで〔ひっ捕らえて〕鞭打てるぞ(短い杖で倒せるほど容易な敵だということ)。」
 かくて敕を下して言った。
「景を斬った者は、南北人を問わず二千戸の封邑(通鑑では『三千戸の公に封ずる』とある)と刺史の官を与える。もし斬ったのが北人で、北に還りたいと願う者であれば、これの代わりにが絹布二万疋を与え、礼をもって北方に送ろう。」
 この日、梁国内で大地震があった《南80侯景伝》

○梁32朱异伝
 八月,景遂舉兵反,以討异為名。
○梁56侯景伝
 八月,景遂發兵反,攻馬頭、木柵,執太守劉神茂、戍主曹璆等。

┃邵陵王出陣

 甲辰(16日)《梁武帝紀》、合州刺史の鄱陽王範を南道都督とし、北徐州(治所 鍾離)刺史の封山侯正表臨賀王正徳の弟)を北道都督とし、司州(治所 義陽)刺史の柳仲礼を西道都督とし、通直散騎常侍・西豫州(治所は、隋書では新息。胡三省は晋熙郡とする。西豫州が淮州と改められた時に、晋熙に遷ったものか?)刺史(梁28裴之高伝)の裴之高を東道都督とし、歴陽に渡って共同して景を討伐するよう命じた。また、侍中・開府儀同三司の邵陵王綸を持節・征討大都督とし、その総大将とさせた《南80侯景伝》
 綸がまさに出立しようとした時、武帝はこれを戒めて言った。
「侯景は小童にしか過ぎぬが、ただ戦いを良く知悉している。お前は決戦を避け、時間をかけて攻めるようにせよ。」
 綸は出立する前、楽遊苑に駐屯していた。臨賀王正徳がその陣所を訪れ、本陣に入った途端、突風が吹いて大将旗を折った。また、牛を殺して兵士を労おうとした所、一頭の牛が逃げ出して厩に入り、綸の乗馬を殺した。牛は更に二本の角で一頭の馬の腹を貫き、馬を頭に載せながら軍営の幕にぶち当たったため、軍中は大騒ぎになった《三国典略》
 綸は白下(南琅琊、建康の北)を発って長江を渡ったが、その途中高波に遭い、船は揺れ動いて今にも転覆しそうになった。有識者はこれを非常に奇怪に感じた。

 封山侯正表は字を公儀といい、臨川王宏武帝の弟)の子で、臨賀王正徳の弟である。七尺九寸(193cm)の長身で、秀でた容貌を備えていたが、見識は浅はかだった。封山県開国侯・給事中とされ、のち東宮洗馬・淮南晋安二郡太守を歴任した。のち軽車将軍・北徐州刺史とされ、鍾離を鎮守した。

○魏59蕭正表伝
 蕭正表,字公儀,蕭衍弟臨川王宣達子也。正表長七尺九寸,眉目疏朗。雖質貌豐美,而性理短闇。衍以為封山縣開國侯,拜給事中,歷東宮洗馬、淮南晉安二郡太守。轉輕車將軍、北徐州刺史,鎮鍾離。
○梁29・南53邵陵携王綸伝
 太清二年,進位中衞將軍、開府儀同三司。侯景構逆,加征討大都督,率眾討景。將發,高祖誡曰:「侯景小豎,頗習行陣,未可以一戰即殄,當以歲月圖之。」〔綸發白下,中江而浪起,有物蕩舟將覆,識者尤異之。
○梁56侯景伝
 於是詔合州刺史鄱陽王範為南道都督,北徐州刺史封山侯正表為北道都督,司州刺史柳仲禮為西道都督,通直散騎常侍裴之高為東道都督,同討景,濟自歷陽;又令開府儀同三司、丹陽尹、邵陵王綸持節,董督眾軍。

●婁昭の死
 9月出典不明)、東魏の定州刺史・濮陽公の婁昭が任地にて死去した。武公と諡された。
 昭は酒を好み、晩年、〔脳卒中が起きて〕偏風(半身不随)となった。のち平癒したものの、もはや激務を処理するだけの力は残っておらず、定州では属吏に全てを任せ、自分は大筋を把握するだけだった《北斉15婁昭伝》

 ⑴婁昭...字は菩薩。高歓の正室の同母弟。正直な性格で度量が大きく、優れた智謀を有していた。腰回りは八尺もあり、弓と馬の扱いは抜群のものがあった。早くから高歓の才能を見抜き、歓に付き従ってその雄飛に貢献した。544年、司徒とされた。544年(2)参照。

┃東魏、潁川を攻める
 この月(9月、東魏の太尉の高岳らが西魏の潁川を攻めた(8月2日に攻略を命じられていた)。
 守将の王思政は城内に対し旗を隠し鼓を打たぬよう下知し、まるで誰もいないかのようにさせた。岳は自軍が大軍であることから一揉みに揉み潰せると考え、四方から太鼓を打ち鳴らして吶喊させた。思政は城中から勇士をよりすぐり、〔突如〕開門してこれに突撃させた。東魏軍は〔不意を突かれ、〕潰走した。思政は城壁の上から岳の陣を望見し、その乱れを見てとると、三千の兵を率いてこれを襲い、非常に多くの兵を殺傷した。それから城に還ると、防備を整えて再度の来攻に備えた。岳はこの一戦で急攻を諦め、城の周囲に多数の砦を築〔き、長期戦に切り換えた〕。また高地に土山を築いて城内〔に攻撃せんとした。〕また、雲梯や火車(或いは大車。安全に城壁に取り付くための装甲車)などあらゆる手を用いて昼夜の別無く苛烈に攻め立てた。すると思政は火䂎(火の付いた小矛)を用意し、強風に乗じてこれを土山に投じた。また、火矢を射て攻城兵器を燃やした。また、勇士を募って城壁から〔縄を伝い下りて〕東魏軍を攻撃させた。東魏軍は陣地に敗走し、土山を守っていた者たちも山を棄てて逃走した。思政はそこで二つの土山を占拠し、そこに樓堞()を築いて守りの助けとした。岳らは戦意を喪失し、遠巻きに包囲するだけとなった。

○周18・北62王思政伝・太平御覧兵50
〔九月,〕東魏太尉高嶽、行臺慕容紹宗、儀同劉豐生等,率步騎十萬來攻潁川。城內臥鼓偃旗,若無人者。嶽恃其眾,謂一戰可屠,乃四面鼓噪而上。思政選城中驍勇,開門出突。嶽眾不敢當,引軍亂退。[思政登城遙見岳陣不整,乃率步騎三千出邀擊之,]〔殺傷甚眾,〕[然後還城設守御之備。]嶽知不可卒攻,乃多修營壘。又隨地勢高處,築土山以臨城中。飛梯火(大?)車,晝夜〔盡〕攻〔擊〕之〔法〕。思政亦作火䂎,因迅風便投之土山。又以火箭射之,燒其攻具。仍募勇士,縋而出戰。嶽眾披靡,其守土山人亦棄山而走。[思政即命]〔據其兩土山,置樓堞以助防守。〕[岳等於是奪氣,不敢復攻。]

●ただ建康に向かえ
 侯景は梁軍がやってくるのを聞くと、王偉548年〈1〉参照)にどう対処すればよいか尋ねた。偉はこう答えて言った。
「邵陵王がやってくれば、兵力差は明らかとなり、苦戦は必至。ここは淮南を棄て、軽騎を率いて直ちに建康を突くのが良いでしょう。臨賀王が内応すれば、天下は取ったも同然です。兵は拙速を尊び、巧遅を尊ばずとか。早く決断なさいませ。」
 景はそこで東向に決し、寿陽の留守は外弟(従兄弟)で中軍大都督の王顕貴南史は『貴顕』)に任せることにした。
 癸未(25日)出典不明〉、狩猟に出かけると偽って寿陽を発った。住民はこれを信じ込んだ《南80侯景伝》

●寒暑を知る

 乙酉(9月27日)謝挺徐陵ら梁の使節が鄴に到着した(7月参照《魏孝静紀》
 東魏は使節のために迎賓館で酒宴を催した。主客郎(接待の幹事)の魏収魏書の編纂者)は当日の非常な暑さにかこつけて、徐陵をこう嘲って言った。
「今日かように酷く暑くなったのは、徐常侍()が来たせいでしょう。」
 陵はそれを聞くと直ちにこう答えて言った。
「昔、王肅が北方にやってくると、魏(北魏)は初めて礼制を理解しましたが、いま私がやってくると、卿は初めて寒さや暑さというものが分かるようになったのですね。」
 收はこれを聞いて大いに恥じ入った。高澄は失言を理由に収を数日獄舎に入れた。

○魏孝静帝紀
 九月乙酉,蕭衍遣使朝貢。
○陳26・南62徐陵伝
 太清二年,兼通直散騎常侍。使魏,魏人授館宴賓。是日甚熱,其主客魏收嘲(謿)陵曰:「今日之熱,當由徐常侍來。」陵即答曰:「昔王肅至此,為魏始制禮儀;今我來聘,使卿復知寒暑。」收大慙。〔齊文襄為相,以收失言,囚之累日。〕
 
 
 548年(3)に続く