●東魏新体制

 甲午(4月28日)、東魏が兼散騎常侍の李緯字は乾経)を正使とした使節を梁に派遣した(この時までは東魏・梁の関係は悪化していなかった?)。李緯は李繪542年5月参照)の弟である。
 5月、丁酉朔(1日)、大赦を行なった。
 戊戌(2日)、尚書右僕射の襄城王旭城陽王徽の弟)を太尉とした《魏孝静紀》

 東魏の武衛将軍の元柱らが数万の兵を率い、昼夜兼行の強行軍で侯景を奇襲しようとしたが、〔これを察知していた〕景に潁川の北にて迎え撃たれ、大敗した。しかし景は羊鴉仁らの軍がまだ到着していないことからこれを追撃せず、潁川に退いた(詳細な時期は不明《三国典略?》

 甲辰(8日)、開府儀同三司・定州刺史の厙狄干歓の妹の夫。544年参照を太師とし、録尚書事の孫騰を太傅とし、汾州刺史の賀抜仁焉過児? )を太保とし、司徒の高隆之四貴の一人。歓に可愛がられ、義弟とされた。544年参照を録尚書事とし、司空の韓軌を司徒とし、青州刺史の尉景四貴の一人。歓の姉の夫。幼くして母を喪った高歓を引き取って育てた。542年参照)を大司馬とし、領軍将軍・并州刺史の可朱渾道元元の字535年に西魏から東魏に寝返った。546年〈2〉参照)を司空とし、僕射の高洋時に22歳。高歓の第二子。546年〈2〉参照)を尚書令・領中書監(高澄の官職)とし、徐州刺史の慕容紹宗もと爾朱兆の腹心。546年〈2〉参照)を尚書左僕射とし、高陽王斌高陽王雍の孫。546年〈1〉参照を右僕射とした【斌は澄の側室となった庶妹の元玉儀のおかげで出世したのであろう】。

○魏孝静紀
 甲午,遣兼散騎常侍李緯使于蕭衍。五月丁酉朔,大赦天下。戊戌,以尚書右僕射、襄城王旭為太尉。甲辰,以太原公今上為尚書令,領中書監,餘如故,詢以政事。以青州刺史尉景為大司馬,以開府儀同三司厙狄干為太師,以錄尚書事孫騰為太傅,以汾州刺史賀仁為太保,以司空韓軌為司徒,以領軍將軍可朱渾道元為司空,以司徒高隆之錄尚書事,以徐州刺史慕容紹宗為尚書左僕射,高陽王斌為右僕射。

●尉景の死
 戊午(22日)、大司馬の尉景が朝廷に還る前に任地の青州で(北斉15尉景伝)亡くなった。

○魏孝静紀
 戊午,大司馬尉景薨。

潁川包囲

 東魏が司徒の韓軌歓の側室の韓氏の兄。547年〈1〉参照)、驃騎大将軍・儀同三司の賀抜仁焉過児? 本年5月に太保とされた)、可朱渾道元元の字535年に西魏から東魏に寝返った。547年〈1〉参照)、左衛将軍の劉豊536年に西魏から東魏に寝返った。546年〈2〉参照らに侯景を討伐させ、潁川に包囲した(詳細な時期は不明。包囲した将軍は、周文帝紀では『韓軌・厙狄干』、北62王思政伝では『高岳』、梁56侯景伝では『慕容紹宗』となっている)。
 景はこれに恐懼し、己の所領から東荊(沘陽)・北兗州【このとき北兗州は無い。北荊州ならば治所が伊陽なので西魏の領土に接している。史家は「荊」を「兗」と間違えたのではないか?】・魯陽(広州)、長社(潁州)の四城を西魏に割いて救援を求めた。

○魏孝静紀
 遣司空韓軌,驃騎大將軍、儀同三司賀拔勝、可朱渾道元,左衞將軍劉豐等帥眾討之。景乃遣使降於寶炬,請師救援。
○北斉文襄紀
 遣司空韓軌率眾討之。
○梁56・南80侯景伝
〔高澄嗣事為勃海王,〕齊文襄遣大將軍慕容紹宗圍景於長社,景〔急,乃求割魯陽、長社、東荊、北兗〕請西魏為援。

┃西魏、救援軍を発す

〔これより前、西魏は侯景に対して当分静観の方針を決めており、長らく援軍をこれに送っていなかった。これを忸怩たる思いで見つめていたのが、兼尚書左僕射・〔東南道〕行台・都督(〜諸軍事?)・荊州刺史の王思政王羆に代わる防衛の専門家。546年〈2〉参照)だった。〕
 思政はこのように考えていた。
「好機逸すべからず! 慎重に行けばこれを逸する危険性がある。それならば進んで取るべきだ!」
 思政はしびれを切らすと、〔独断で?〕まず南荊州(治 舂陵)刺史の郭賢字は道因。536年参照)を三鵶路(穣城〜魯陽間の山道)より出撃させ、魯陽を押さえさせたのち、荊州の步騎一万余を率いて魯陽関より陽翟に向かった。泰はこれを聞くと太尉の李弼と大将軍・御史中尉の趙貴宇文泰が賀抜岳の遺衆を接収するのに非常な貢献をした。河橋・邙山では共に失態を演じ、一時免官に遭った)に大軍(三国典略?では『一万』)を指揮させて侯景の救援に赴かせた(梁書侯景伝では『五城王元慶』なる者が率いている)。
 また、太子少師・都督義州恒農等二十一防諸軍事の李遠于寔于謹の子)・陳忻らを指揮させて九曲(543年に西魏将の韋法保が九曲城を鎮守し、544年に侯景が九曲城を築いた。後者か?)を平定させ、開府の李義孫李延孫の弟)と洛陽令の魏玄に伏流城(伊陽、北荊州)を陥とさせた。義孫らは更に孔城(新城の治所)も陥とし、そこを守備した。間もなく伏流に鎮所を遷した。
 また、開府・渭州刺史の梁椿が閻韓鎮(詳細不明)を攻めて鎮城の徐衛を斬ると、城主の卜貴洛は軍士千人と共にこれに降った。椿はこの功により四百戸を加増された。

 これら救援軍の総指揮は李弼が執った。

○資治通鑑
 荊州刺史王思政以為:「若不因機進取,後悔無及。」即以荊州步騎萬餘從魯陽關向陽翟。丞相泰聞之,加景大將軍兼尚書令,遣太尉李弼、儀同三司趙貴將兵一萬赴潁川。
○魏孝静紀
 遣司空韓軌,驃騎大將軍、儀同三司賀拔勝(仁)、可朱渾道元,左衞將軍劉豐等帥眾討之。景乃遣使降於寶炬,請師救援。寶炬遣其將李景和、王思政帥騎赴之。
○周・北史周文帝紀
 齊文襄遣其將韓軌、厙狄干等圍景於潁川。三(六)月,太祖遣開府李弼率軍援之。
○周15李弼伝
 十三年,侯景率河南六州來附,東魏遣其將韓軌圍景於潁川。太祖遣弼率軍援景,諸將咸受弼節度。
○周15于寔伝
 侯景來附,遣寔與諸軍援之,平九曲城。
○周18・北62王思政伝
 十三年,侯景叛東魏,擁兵梁、鄭,為東魏所攻。景乃請援乞師。當時未即應接。思政以為若不因機進取,後悔無及。即率荊州步騎萬餘,從魯關向陽翟。〔周文聞思政已發,乃遣太尉李弼赴潁川。〕
○周27梁椿伝
 開府儀同三司…除清州刺史【[三一]宋本、南本「清」作「渭」,汲本、局本作「清」,注「一作渭」。魏書卷一0六地形志無「清州」,疑作「渭」是】。在州雖無他政績,而夷夏安之。十三年,從李弼赴潁川援侯景。別攻閻韓鎮,斬其鎮城徐衞。城主卜貴洛率軍士千人降。以功增邑四百戶。
○周28郭賢伝
 及侯景來附,思政遣賢先出三鵶,鎮於魯陽。
○周34裴寛伝
 十三年,從防主韋法保向潁川,解侯景圍。
○周43陳忻伝
 十三年,從李遠平九曲城,授帥都督。
○周43魏玄伝
 十三年,與開府李義孫攻拔伏流城,又剋孔城,即與義孫鎮之。尋移鎮伏流。
○梁56・南80侯景伝 
 西魏遣其五城王元慶等率兵救之,紹宗乃退。

 ⑴王思政…字は思政。太原王氏の出で、後漢の司徒の王允の後裔とされる。姿形が逞しく立派で、知略に優れていた。孝武帝と即位前から親しく、即位後は側近とされ、祁県侯・武衛将軍→中軍大将軍とされ、禁軍の統率を任された。高歓が帝と対立し洛陽に迫ると、関中の宇文泰を頼るよう帝に勧めて聞き入れられた。入関すると太原郡公・光禄卿・并州刺史とされ、更に散騎常侍・大都督を加えられた。帝が崩御すると樗蒲の遊戯の際に泰に至誠を示して気に入られた。537年、独孤如願らと共に洛陽を陥とし、538年の河橋の決戦の際には奮戦し、瀕死の重傷を負った。のち汾晋并三州諸軍事・并州刺史・東道行台とされると玉壁に注目し、ここに要塞を築いた。542年、高歓の侵攻を撃退した。この功により開府とされた。543年、邙山にて西魏軍が大敗を喫すると恒農を守備して東魏軍の追撃を防いだ。546年、行台尚書左僕射・荊州刺史とされた。
 ⑵陽翟…《読史方輿紀要》曰く、『《九域志》曰く、長社(潁川)の西北九十里にある。』
 ⑶李弼...字は景和。生年494、時に54歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。河橋の戦いでは莫多婁貸文を斬る大功を立てた。のち重傷を負って捕らえられたが、逃走することに成功した。540年に侯景が荊州に攻めてくるとその防衛に赴いた。543年(2)参照。

●侯景の釈明
 侯景は〔西魏にも救援を要請したことで〕梁の心証を害しただろうと考え、中兵参軍の柳昕を派してこう上奏させた。その大意はこうであった。
「官軍が到着する前に焦眉の急告げる状態となったため、やむなく関中の助力を得てその場を凌ぐことになりましたが、誤解しないでいただきたいのは、臣が宇文の配下となったわけではないということです。臣は高氏に不信を抱〔き、順に帰って陛下に従うことを決め〕(い)たのでありますから、宇文めの配下にだってなろうはずがないからです! こたびのことは本当に、ただ国家のために、身を切る思いで、便宜的にやっただけのことでありますゆえ、平にご容赦を願います! ただ、一旦助力を得た上は、すぐ突き放すのはできかねますゆえ、四州の地をこれに割譲し、その進駐を許してしまいました。しかし、豫州以東・斉海(黄海)以西はまだ臣の手にあり、懸瓠(豫州)・項城(北揚州)・徐州(彭城)・南兗(譙城)の地はこぞって官軍の到来を待ち望んでおります。陛下はどうか速やかに境上に大軍を配し、臣の要請にすぐ応えられるようにして、これ以上錯誤を起こさせないようにしてください!」
 武帝は答えて言った。
「『大夫は命を受くるも辞を受けず、境を出でて、社稷を安んじ国家に利するべきものあらば、これを専らにして可なり』(春秋公羊荘公十九年。将軍は命令を受けても、それをどのように遂行するかについては制約を受けない。ひとたび出陣すれば、国家に利益のあることだと考えたものは独断専行してもよい。史記孫子伝曰く、『将、軍に在りては、君命も受けざる所あり』周勃世家曰く、『軍中は将軍の命のみを聞き、天子の詔命を聞かず』)とか【武帝はこの言葉を引いて侯景を懐けようとしたのだろうが、哀れや、狼子の飼い難さを知らなかった】。まして今、卿は奇謀を巡らし、大業を成そうとしているところなのであるから、なおさら臨機応変に処置するべきである。卿の誠心は分かっているゆえ、釈明はしなくてよろしい!」《出典不明》

 この月(5月、西魏が太子太保・隴右十一州大都督・秦州刺史の独孤信もとの名は如願、泰の旧友で、軍事・政治に優れた知勇兼備の名将。帝国西部を任され、宇文仲和の乱を平定した。546年〈1〉参照)を大司馬とした。
 また、太傅の侯景を大将軍とした《北史西魏文帝紀》

●梁、鎮撫軍を発す
 6月、戊辰(3日)、梁が前雍州刺史(545年10月より岳陽王詧雍州刺史となっている)の鄱陽王範武帝の異母弟、鄱陽忠烈王恢の子。父の跡を継いで益州刺史を務め、のち雍州刺史となった。541年参照)を使持節・征北大将軍・総督漢北征討諸軍事とし、西魏の穰城(荊州)を攻撃させた侯景の援護のためである】。

○梁武帝紀
 六月戊辰,以前雍州刺史鄱陽王範為征北將軍,總督漢北征討諸軍事。
○梁22鄱陽王範伝
 太清元年,大舉北伐,以範為使持節、征北大將軍、總督漢北征討諸軍事,進伐穰城。尋遷安北將軍、南豫州刺史。
○建康実録17
 六月,以雍州刺史鄱陽王範為征北将軍,總督縁邉初附之州。

 ⑴当時、梁と西魏は友好関係にあった。『襄城』(潁州と豫州の中間にある南潁川郡の襄城?)の誤りではないか?

●西魏、潁川を解放す


 己巳(6月4日)、潁川を包囲していた東魏の韓軌・司空の可朱渾道元らが、李弼・趙貴ら西魏の援軍がやってきたことを知ると包囲を解いて撤退した[1]⑴

 侯景は弼と貴に感謝の意を表して酒宴に招待したが、その真意はこれにかこつけて二人を捕らえ、その軍勢を奪うことにあった。しかし貴は疑って行かず、逆にこちらから景を自分たちの軍営に誘って捕らえようとしたが、弼に制止されたため、実行しなかった[2]
宇文泰は景を朝廷に呼び寄せようとしたが、〕景は辺境の収拾をしたいと偽って河南に留まり、鎮所を潁川(潁州)から懸瓠(豫州)に遷した。泰は代わりに王思政に潁川の守備を任せた。
 この年、〔洛州刺史?〕の泉仲遵543年〈1〉参照)を思政の代わりに行荊州事とした。

○資治通鑑
 東魏韓軌等圍潁川,聞魏李弼、趙貴等將至,乙巳,引兵還鄴【《考異》曰:《周書·帝紀》:「三月,李弼救侯景。」今從《典略》】。侯景欲因會執弼與貴,奪其軍;貴疑之,不往。貴欲誘景入營而執之,弼止之【李弼之計,以為執侯景不能猝兼河南之地,徒為東魏去疾,故止貴】。
○魏孝静紀
 思政等入據潁川,景乃出走豫州。…六月,司徒韓軌、司空可朱渾道元等自潁州班師。
○周・北史周文帝紀
 三(六)月,太祖遣開府李弼率軍援之,〔東魏將韓〕軌等遁去。景請留收輯河南,遂徙鎮豫州。於是遣開府王思政據潁川,弼引軍還。
○北斉文襄紀
 六月己巳,韓軌等自潁州班師。
○周15李弼伝
 弼至,軌退。王思政又進據潁川,弼乃引還。
○周18・北62王思政伝
〔東魏將高岳等聞大兵至,收軍而遁。〕思政入守潁川。景引兵向豫州。
○周44泉仲遵伝
 十三年,王思政改鎮潁川,以仲遵行荊州刺史事。
○北斉17斛律金伝
 世宗嗣事,侯景據潁川降於西魏,詔遣金帥潘樂、薛孤延等固守河陽以備。西魏使其大都督李景和、若干寶領馬步數萬,欲從新城赴援侯景。金率眾停廣武以要之,景和等聞而退走。還為肆州刺史,仍率所部於宜陽築楊志、百家、呼延三戍,置守備而還。侯景之走南豫,西魏儀同三司王思政入據潁川。

 [1]考異曰く、このことを周文帝紀は「三月」のこととし、北史周文帝紀及び典略では「六月」のこととしている。今は後者の記述に従う。
 ⑴北斉17斛律金伝では、『侯景が潁川に拠って西魏に降ると、東魏は斛律金に潘楽・薛孤延らを率いさせて河陽を固守させ、その侵攻に備えた。西魏が大都督の李景和(弼)・若干宝(鳳? 恵?)に数万の兵を与え、新城郡(北荊州にある)経由で侯景の救援に赴かせると、金は広武(北豫州中牟? 広武山?)にてこれを待ち受けた。景和らはこれを聞くと退却した。金はこの功により肆州刺史に任じられたが、その前に宜陽(陽州)に楊志・百家・呼延の三戍を築き、守備兵を置いてから帰還した。』とある。李弼は侯景の救援には成功しているので、退却の一件はその後の追撃の時の話なのかもしれない。また、楊志などの築城タイミングは三国典略では548~549年の潁川包囲の期間中だとしている。
 [2]李弼は侯景を捕らえても、河南の地の速やかな奪取はできず、ただ東魏のために叛乱者を除いてやるだけの結果になると考え、貴を止めたのである。

●南兗州・北揚州奪還
 この時?、河橋五城を鎮守していた慕容儼が陳郡(陳留郡〈南兗州〉の誤り?)を攻め、景の部下の厙狄曷賴と景の太守の鄭道合、〔南?〕兗州刺史の王彦夏、行台の狄暢らを捕らえ、百余の捕虜と首級を得た。次いで項城(陳郡〈北揚州〉)を攻め、景の刺史の辛光蔡遵蔡遵道?或いは道遵?)およびその部下二千人を捕虜とした。儼はそのまま懸瓠を攻めようとしたが、折しも炎暑の頃おいだったため軍を返した(梁軍が迫っていたのもあるか?)。

○北斉文襄紀
 聊遣偏裨,前驅致討,南兗、揚州應時剋復。即欲乘機席卷縣瓠,屬以炎暑,欲為後圖,且令還師,待時更舉。
○北斉20慕容儼伝
 五年,鎮河橋五城。侯景叛,儼擊陳郡賊,獲景麾下厙狄曷賴及偽署太守鄭道合、兗州刺史王彥夏、行臺狄暢等,擒斬百餘級。旋軍項城,又擒景偽署刺史辛光及蔡遵,並其部下二千人。

●高澄、歓の死を公表
 大将軍の高澄が鄴より晋陽に発った《北斉文襄紀》。その際、澄は弟で尚書令・領中書監・太原公の高洋547年〈1〉参照)を京畿大都督とし、鄴の留守を任せた。また、黄門侍郎の高徳政にその補佐をさせた。
 徳政は、字を士貞といい、高顥508年9月参照】の子である。幼い頃から聡明で、その立派な人品は人々の模範となった。高洋の開府記室参軍となり、事務の一切を委任され、親密な関係を築いた。のち高歓にその才能を認められて丞相府掾とされ、腹心の位置を占めた。のち黄門侍郎となったが、常に小心翼々として驕らず、称賛の的となった《北斉30高徳政伝》
 丁丑(12日)、澄は晋陽に還り、そこで初めて高歓の死を公表し、文武百官にその遺言を告げ、諭した《北斉文襄紀》
 乙酉(20日)通鑑では7月丁酉(2日)の事となっている〉、孝静帝高歓のために緦縗(諸侯の喪の時に着る麻糸製の喪服)に着替え、東堂にて挙哀の礼(死者のために大声を上げて泣く儀式)を行なった。その服喪の礼法は前漢の権臣の霍光前68年3月参照)の様式に倣った。また、相国・都督中外諸軍事・斉王を追贈し、葬列には九錫の礼を加えた。また、献武王と諡した。
 また、尚書右僕射の高陽王斌547年〈1〉参照)を兼大鴻臚卿とし、晋陽に赴いて葬式を監護するよう命じた。また、太尉の襄城王旭城陽王徽の弟。547年〈1〉参照)を兼尚書令とし、詔を携えて澄を慰撫してくるよう命じた《魏孝静紀》

●若干恵の死

 秋、7月北史西魏文帝紀〉、西魏の司空で長楽公の若干恵邙山にて右軍を率い、大いに活躍した。のち、侯景の荊州侵攻を食い止めた。547年〈1〉参照)が、魯陽に出陣中に病気となり、逝去した。

 恵は剛毅木訥な性格で、体は大きくたくましく、人並み外れた武勇の持ち主だった。また、統率するのが上手く、将兵はみな恵に恩義を感じて力を尽くした。

 恵は諸将の内で最年少で、早くに父を亡くし、母に孝養を尽くして孝行者だと評された。新しい射堂が落成した時、諸将と共に競射の宴に招かれた。しかし恵は密かに嘆息して言った。

「老いた母がいるのに、行く暇などあろうか?」

 泰はこれを聞くと、その日の内に射堂を恵の家の敷地内に遷させた。泰が恵を重んずることは、みなこのようであった。泰は恵の訃報を聞くと暫くのあいだ涙を流し、恵の柩が〔魯陽から〕やってくると、自らその体を撫で、哀惜の念を表した。武烈公と諡され、子の若干鳳が跡を継いだ。

 鳳は字を達摩といい、泰の娘を娶った《周17若干恵伝》


 戊戌(3日)、東魏は大将軍の高澄を使持節・大丞相・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台・勃海王とした。澄はこれらを全て辞退した。

 壬寅(7日)、帝は尚書令・領中書監・京畿大都督で太原公の高洋に政治・軍事の事を代理させる一方、勅使を晋陽に派遣して澄に官爵を受けるよう説得を行なった《魏孝静紀》


○北史西魏文帝紀

 秋七月,司空若干惠薨。


┃侯景叛す

 これより前、侯景が西魏に援軍を要請したとき、宇文泰は儀同で同軌(九曲?[1]防主の韋法保河南の義士の一人。538年〈2〉参照)および帥都督の賀蘭願徳らを先行して派遣していた。景は彼らを厚くもてなして味方に付けようとし、表面上は全く二心の無いふりをして、諸軍の陣営を行き来する際は護衛を殆ど連れず、名のある将のもとには残らず足を運んだ。景は特に法保と親しくした。同軌防長史の裴寛韋子爽を匿った。538年〈1〉参照)はこれを見て法保にこう言った。

侯景は狡猾な男でありますから、〔絶対に我らのもとには付かず、〕入関もしないでしょう。ですから、近づいてきても信用してはなりません。もしいま公が伏兵を以てこれを斬れば、一代の盛事となりますが、それができないのであれば、これに厳重な警戒をすることです。甘言にたぶらかされ、後悔を残すようになることは絶対になりません。」
 法保はこれに深く納得したが、景を図るような事はせず、ただ誘いを断るだけに留めた。
 大行台左丞の王悦玉壁の将兵を労った。546年〈2〉参照)も泰にこう言った。
侯景は初め高歓の同郷(懐朔鎮)の親友でありましたが、のち君臣の間柄になり、歓の元で上将・三公の位にまで登りつめました。思うに、二人の間柄は水魚の交わり(劉備と諸葛亮の関係)と同じものがあったのです。そのような関係であったのに、景は歓が死んだ途端叛乱を起こすに至りました。どうして景は君臣の道や忠義の礼を守らなかったのでしょうか? 思うに、景は野心家で、己の野望の達成のためには非難など全く顧みない男なのです。そのような男が、どうして我が朝に忠誠を尽くしましょうか! いま彼に官爵を与えてその威勢を拡張し、兵を派遣してその軍勢を増強したりなどなされば、きっと後世の物笑いの種になりましょう。」[2]
 泰はそこで行台郎中の趙士憲を河南に派し、賀蘭願徳・韋法保ら景の救援に送った諸軍をことごとく呼び戻した。王思政は諸軍を景の所領の七(六の誤り?)州(潁・北荊・広・襄・東荊・豫?)州十二鎮に分置し、その叛乱に備えた。
 景はここにきて遂に叛乱を決意し、泰に書簡を送って言った。
「高澄と雁行する(肩を並べる。澄は建前上は臣下の身分なので、そう言うのである)のをよしとしなかったわしが、どうして大弟(宇文泰)と肩を並べることができようか!」
 景はかくて遂に叛乱を起こした。
 西魏の将の任約は千余人の配下と共にこれに加わった。

○資治通鑑
【東魏之師已退,而梁之援兵始來,弼若不還師,則梁、魏之兵必浪戰於汝、潁之間矣。引兵而還,則禍集於梁。】…法保深然之,不敢圖景,但自為備而已;尋辭還所鎭。王思政亦覺其詐,密召賀蘭願德等還,分布諸軍,據景七州、十二鎭。景果辭不入朝,遺丞相泰書曰:「吾恥與高澄鴈行,安能比肩大弟!」【《記王制》:父之齒隨行,兄之齒鴈行。鴈行,言如鴈並飛而進也。景知泰覺其情,且知梁之可侮弄也,故以書絕泰而決意附梁。】泰乃遣行臺郎中趙士憲悉召前後所遣諸軍援景者。景遂決意來降。魏將任約以所部千餘人降於景。
○北史西魏文帝紀
 秋七月,…大將軍侯景據豫州叛。
○周文帝紀
 秋七月,侯景密圖附梁。太祖知其謀,悉追還前後所配景將士。景懼,遂叛。
○周18・北62王思政伝
 景引兵向豫州,外稱略地,乃密遣送款於梁。〔先是,周文遣帥都督賀蘭願德助景扞禦,景既有異圖,因厚撫願德等,冀為己用。思政知景詭詐,乃密追願德。〕思政分布諸軍,據景七州十二鎮【[一一]卷二文帝紀下大統十三年、卷一五李弼傳都說侯景「舉李弼傳作「率」河南六州來附」。錢氏考異卷三二據之疑這裏作「七州」誤】。
○周33王悦伝
 十三年,侯景據河南來附,仍請兵為援。太祖先遣韋法保、賀蘭願德等帥眾助之。悅言於太祖曰:「侯景之於高歡,始則篤鄉黨之情,末乃定君臣之契,位居上將,職重台司,論其分義,有同魚水。今歡始死,景便離貳。豈不知君臣之道有虧,忠義之禮不足?蓋其所圖既大,不卹小嫌。然尚能背德於高氏,豈肯盡節於朝廷。今若益之以勢,援之以兵,非唯侯景不為池中之物,亦恐朝廷貽笑將來也。」太祖納之,乃遣行臺郎中趙士憲追法保等,而景尋叛。
○周34裴寛伝
 大統五年,授都督、同軌防長史,加征虜將軍。十三年,從防主韋法保向潁川,解侯景圍。景密圖南叛,軍中頗有知者。以其事計未成,外示無貳,往來諸軍間,侍從寡少。軍中名將,必躬自造,至於法保,尤被親附。寬謂法保曰:「侯景狡猾,必不肯入關。雖託款於公,恐未可信。若仗兵以斬之【[二七]北史本傳和冊府卷四0五四八一三頁、通鑑卷一六0四九五五頁「仗」作「伏」。疑作「伏」是】,亦一時之計也。如曰不然,便須深加嚴警,不得信其誑誘,自貽後悔。」法保納之,然不能圖景,但自固而已。
○周43韋祐伝
 及侯景以豫州來附,法保率兵赴景。景欲留之,法保疑其有貳心,乃固辭還所鎮。

 [1]隋書地理志曰く、北周は河南郡宜陽県を割いて熊耳県を作り、そこに同軌郡を置いた。北周・北斉は宜陽を以て国境とした。同軌と名付けたのは、ここより出兵して天下を一統しようとする気概からであろう。
 [2]西魏は智者が多く、宇文泰はそのはかりごとをよく用いて侯景に得意の奸智を振るわせなかった。かくてその災いは梁に移った。

●梁、河南南部を制圧


〔西魏の大尉の李弼周文帝紀では侯景が豫州に遷った時点で長安に還っている。梁56侯景伝では李弼ではなく五城王元慶だとしている)が侯景の討伐に赴くと、〕景は梁の都督南北司豫楚四州諸軍事・北司州刺史の羊鴉仁547年〈1〉参照)に援軍を要請した。鴉仁がそこで長史の鄧鴻を汝水に進出させると、弼は〔討伐を諦めて〕長安に還った。


 庚申(25日)、鴉仁が懸瓠城に入った。

 甲子(29日)武帝は詔を下し、もと東魏の豫州・梁の北豫州の懸瓠を豫州とし、豫州の寿春()を南豫州とし、南豫州の合肥を合州とし、合州の合浦を南合州とし、西豫州の北広陵を淮州とし、もと東魏の北揚州の項城を殷州とした。

 また、鴉仁を都督豫司淮冀殷応西豫等七州諸軍事(梁39羊鴉伝)・司・豫二州刺史として懸瓠を守備させ、西陽太守の羊思達を殷州刺史として項城を守備させた《梁56侯景伝》


 泰は侯景に授けていた使持節・太傅・大将軍・兼尚書令・河南大行台・都督河南諸軍事の位を王思政に与えたが、思政は全て固辞した。泰が何度も使者を派遣して説得すると、都督河南諸軍事の位だけを受けた。


○資治通鑑

 羊鴉仁遣長史鄧鴻將兵至汝水,弼引兵還長安。

○梁武帝紀

 秋七月庚申,羊鴉仁入懸瓠城。甲子,詔曰:「二豫分置,其來久矣。今汝、潁剋定,可依前代故事,以懸瓠為豫州,壽春為南豫,改合肥為合州,北廣陵為淮州,項城為殷州,合州為南合州。」

○周18王思政伝

 太祖乃以所授景使持節、太傅、大將軍、兼中書令、河南大行臺、河南諸軍事,回授思政。思政竝讓不受。頻使敦喻,唯受河南諸軍事。


●梁、東魏討伐の軍を起こす



 8月、乙丑(1日)、梁が大挙として東魏討伐の軍を起こした。武帝は南豫州刺史の貞陽侯淵明字は靖通。武帝に可愛がられた)と《梁武帝紀》使持節・都督南北兗北徐青冀東徐譙七州諸軍事・平北将軍(梁29南康王会理伝)・南兗州刺史の南康王会理生年519、時に29歳。字は長才。幼くして父を亡くしたため、武帝に憐れまれ、特に大切にされた)にそれぞれ諸将を指揮させた。淵明は、長沙宣武王懿武帝の兄)の子である《北斉33蕭明伝》。会理は南康簡王績武帝の第四子。若くして亡くなった。529年〈2〉参照)の子である《梁29南康王会理伝》

 初め(6月以前?)、武帝は鄱陽王範6月に征北大将軍・総督漢北征討諸軍事とされた)を元帥(北伐軍総司令官)にしようとした。このとき中書舎人の朱异武帝の寵臣。547年〈1〉参照)は休暇を取って自宅にいたが、これを聞くと直ちに宮殿に入って武帝にこう言った。

「鄱陽王は雄豪世を覆い、兵に死力を尽くさせることができますが、行くところ乱暴を働きますので、解放軍の元帥には向きません。また、陛下はむかし北顧亭に登って景色を眺められた時(544年3月参照)、江右に謀反の気があり、一族の誰かがその首領になると仰られていたではありませんか。こたびの人選は、よくよくお考えになられますよう。」【江・郢・揚・南徐の地が江左(長江の東岸の地域)で、豫・南豫・南兗の地が江右(長江の西岸の地域)である。朱异は帝に鄱陽を警戒するように言ったが、臨賀を警戒しなければならなかったことを知らず、帝は江右に謀反の気があることを知っていたが、侯景が寿陽にて兵を挙げることは察知できなかった。〔侯景の乱を成さしめたのは〕天か? 人か?

 武帝はしばし黙考したのち、こう言った。

「では、会理ではどうか?」

 异は答えて言った。

「陛下は良き人を得られました。」

 しかし、会理は臆病であって知恵も無く、身を守るために襻輿(ハンヨ)【二本の長柄に紐を取り付け、それを肩に乗せて運ぶ輿】の上に板の箱を乗せ、その箱の上に更に牛皮をかぶせ〔る醜態を見せ〕た。武帝はこれを聞くと不快になった《南52鄱陽王範伝》


○襻輿


 また、会理はもともと皇孫であることを鼻にかけていたが、いま更に都督となると、ますます増長し、遂に将軍たちに殆ど会おうともしなくなった。貞陽侯淵明北伐軍への参加を熱望して武帝に認められていた)が諸将と共にこのことを朱异に告げ口すると《出典不明》、会理は宿預(南徐州)にて任地に還され、淵明が代わりに都督とされた《南51蕭明伝》


●高歓埋葬

 戊辰(4日)高澄が上奏し、高歓の遺令として、己の封邑を削り、それを将軍や都督たちに差をつけて分け与えてくれるよう求めた。

 辛未(7日)、高澄が鄴の朝廷に参内し、大丞相の職のみ依然として固辞した。

 孝静帝は詔を下して言った。

「既にそなたは朝野にとって無くてはならぬ者であるゆえ、その本懐を遂げさせることはできぬ。ゆえに、大丞相の辞退は認めるが、以前授けていた大将軍をもう一度授ける(丞相になると自動的に大将軍の職は解かれる)。他は以前の命の如くとする。」《北斉文襄紀》


 甲申(20日)《魏孝静紀》高歓の柩を漳水(鄴の近くを流れる川)の西に埋葬したが(魏孝静紀では、『高歓を鄴城の西北に埋葬した。帝は漳水のほとりにて路神を祀り、これを見送った』とある。)、本当の柩は成安県(鄴の東北)の鼓山にある石窟寺院の傍に穴を開けて埋めた。その工事を担当した工匠たちは口封じのために殺された。残された子どもたちの一人はその場所を知っており、北斉が滅ぶと、石をどかして中に入り、副葬品の金を盗んで逃亡した《三国典略?》


 

 547年(3)に続く