[西魏:大統十三年 東魏:武定五年 梁:中大同二年・太清元年]

●廬陵王続の死
 春、正月朔(1日)、日食があった(北斉神武紀)が、不完全で、鈎状に太陽が残った《出典不明》
 東魏の丞相の高歓時に52歳)はこう言った。
「これはわしのためか? ならば死んでも恨みはない。」《北斉神武紀》


 壬寅(4日)、梁の驃騎将軍・開府儀同三司・使持節・都督荊郢司雍南北秦梁巴華九州諸軍事(中・西北部総司令官)・荊州刺史の廬陵王続が亡くなった(享年44)。威王と諡された。
 梁は使持節・都督江州諸軍事(東南部総司令官)・鎮南将軍・江州刺史の湘東王繹武帝の第七子。時に40歳。劉敬躬の乱を平定した。542年参照)を代わりに都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事(巴華が湘寧に変わっている)・鎮西将軍・荊州刺史とした。
 続は馬や武具を多く集め、壮士を養い、女色を好んで財貨を愛し、蓄財に熱中したため、倉庫は金銀財宝でいっぱいになっていた。臨終の際、続は中録事参軍[1]謝宣融武帝時に84歳)のもとに派して、金銀の製品千余個を献上した。武帝はそこで初めて続がかなりの蓄財をしていることを知って驚いたが、やがてそんな者は必ず心もよこしま〔で嘘をついている〕と考えて、宣融にこう尋ねた。
「余財は本当にこれで全部なのか?」
 宣融は答えて言った。
「先程これを多いと驚きになったのに、どうしてまだあるとお考えになるのでしょうか! そもそも、王たる者は、過ちを犯しても、日食や月食のように隠し立てせぬものです(論語子張の『君子の過ちや、日月の食するが如し』を下敷きにしたもの)。ゆえに王は臨終の際に、こうして陛下に知らせたのです。〔疑ってはなりません。〕」
 帝はこれを聞くとようやく勘気を解いた。

○梁武帝紀
 太清元年正月壬寅,驃騎大將軍、開府儀同三司、荊州刺史廬陵王續薨;以鎮南將軍、江州刺史湘東王繹為鎮西將軍、荊州刺史。辛酉,輿駕親祠南郊,詔曰:「天行彌綸,覆燾之功博;乾道變化,資始之德成。朕沐浴齋宮,虔恭上帝,祗事槱燎,高熛太一,大禮克遂,感慶兼懷,思與億兆,同其福惠。可大赦天下,尤窮者無出即年租調;清議禁錮,並皆宥釋;所討逋叛,巧籍隱年,闇丁匿口,開恩百日,各令自首,不問往罪;流移他鄉,聽復宅業,蠲課五年;孝悌力田賜爵一級;居局治事賞勞二年。可班下遠近,博採英異,或德茂州閭,道行鄉邑,或獨行特立,不求聞達,咸使言上,以時招聘。」甲子,輿駕親祠明堂。
○梁元帝紀
 六年,出為使持節、都督江州諸軍事、鎮南將軍、江州刺史。太清元年,徙為使持節、都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事、鎮西將軍、荊州刺史。
○梁29・南53廬陵威王続伝
 續多聚馬仗,畜養驍(趫)雄,〔耽色愛財,極意收斂,〕金帛內盈,倉廩外實(倉儲庫藏盈溢)。…又出為使持節、都督荊郢司雍南北秦梁巴華九州諸軍事、荊州刺史。中大同二年,薨於州,時年四十四。贈司空、散騎常侍、驃騎大將軍,鼓吹一部,諡曰威。〔臨終有啟,遣中錄事參軍謝宣融送所上金銀器千餘件,武帝始知其富。以為財多德寡,因問宣融曰:「王金盡於此乎?」宣融曰:「此之謂多,安可加也。夫王之過如日月之蝕,欲令陛下知之,故終而不隱。」帝意乃解。〕

 ⑴廬陵王続…字は世訢。生年504、時に44歳。梁の武帝の第五子。母は丁貴嬪で、昭明太子統・太子綱の同母弟。勇猛果断で並外れた膂力を有し、騎射は百発百中の腕前であり、武帝に「我が任城(曹彰)」と賛嘆を受けた。ただ、強欲だった。509年に廬陵郡王とされた。511年に南彭城琅邪太守、514年に会稽太守、517年に江州刺史、520年に石頭戍軍事とされた。522年に都督雍梁秦沙四州諸軍事・雍州刺史とされた。のち南徐州刺史とされ、530年に再び都督雍梁秦沙四州諸軍事・雍州刺史とされた。533年、賀抜勝の侵攻に対処した。535年に江州刺史、537年に護軍将軍・領石頭戍軍事、539年頃に都督荊郢司雍南北秦梁巴華九州諸軍事・荊州刺史とされた。
 [1]中録事参軍…王府の事務を統べる、側近の官であろう。

●西帰内人
 湘東王繹の母の阮修容令贏、大同九年〈543年〉に67歳で亡くなった)が武帝の寵を得たのは、太子綱時に45歳)と廬陵王続の母である丁貴嬪令光、普通七年〈526年〉に42歳で亡くなった)のおかげだった。これが縁で繹は太子と仲が良く、続とも幼い頃からじゃれ合っていたが、長ずるに従って悪口を言い合う険悪な仲になった。
 繹は荊州に赴任した時(526年、時に19歳)、李桃児という、営戸(戦争の際に捕虜とされて各地に分置された者たちの家系。代々平時は軍のために耕作・牧畜・製造を行なわされ、有事には兵として駆り出された。その身分は平民よりも低かった)出身の才知に優れた女性を寵愛した。のち建康に還る際(539年)、繹は桃児を連れて行った。しかし、当時の法令では営戸の者を州外に連れ出すことは禁止されており、これを見逃さなかった続は、早速このことを洗いざらい武帝にぶちまけてしまった。繹は泣いて太子に仲介を求めたが、上手くいかなかった。繹はここに来て、やむなく桃児を荊州に帰した。これが有名な『西帰内人』の詩(秋気蒼茫結孟津、復送巫山薦枕神。昔時慊慊愁応去、今日労労長別人)の下りである。これ以降、二人は完全に絶縁状態となった。
 このような経緯があったため、続が死んだ時、繹は寝室に入って靴が破れるほど躍り上がって喜んだ。それから間もなく繹は荊州に復任したが、そのさい荊州の官民に何度も使者を派遣して自分を州境まで迎えに来るよう催促したので、彼らの失望を招いた。

○南53廬陵威王続伝
 始元帝母阮修容得幸,由丁貴嬪之力,故元帝與簡文相得,而與廬陵王少相狎,長相謗。元帝之臨荊州,有宮人李桃兒者,以才慧得進,及還,以李氏行。時行宮戶禁重,續具狀以聞。元帝泣對使訴於簡文,簡文和之得止。元帝猶懼,送李氏還荊州,世所謂西歸內人者。自是二王書問不通。及續薨,元帝時為江州,聞問,入閤而躍,屧為之破。尋自江州復為荊州,荊州人迎于我境,帝數而遣之,吏人失望。

●高歓の死
 丙午(8日)、東魏の丞相の勃海王高歓が晋陽にて逝去した(享年52)。
 歓は生真面目で気位が高く、終日犯しがたい威厳があり、心の内を測ることはできなかった。機略の縦横無比なことは神のごとくで、政治・軍事の大事は常に自分一人で決断し、他人に関与させるのは殆ど稀であった。
 兵に対しては軍令を厳守させ、戦えば必ず勝ったが、その戦術は一通りではなく、非常に多岐に渡っていた。
 事件を審理する時は真相を良く見抜き、欺かれることがなかった。
 人物を良く見分け、教養人を厚遇し、功臣や旧友【尉景(歓の姉の夫。542年5月参照)や司馬子如(歓の旧友。544年参照)、孫騰(542年に歓に罷免されたが、すぐ復職している。もしくは534年に孝武帝の追及から守ったことを言うか)の類いである】を全力で保護した。
 周到かつせっかちな性格で、文化の保護は熱心に行なったが、議論の際の言葉は中身を重視し、無駄な飾り立てを嫌った。
 任用の基準は才能の有無で、才能のあるものはどんなに卑しい身分の者でも任用し、虚名だけで才能の無い者は殆ど任用しなかった。
 諸将が征討に出かけた時、歓の指図に従った者は勝ち、逆らった者は負けた。
 歓は常に質素倹約を旨とし、刀剣や鞍勒(鞍や轡〈くつわ〉)に金や玉の飾りを付けることをしなかった。若い頃は無類の酒好きだったが、重職に就くと、多くても三杯までしか酒を飲まないようになり、自宅でも役所にいる時のように居住まいを正していた。
 また、教養人を愛した。これより前、范陽の盧景裕537年12月に叛乱を起こし、538年9月に賀抜仁によって平定された)は経義に明るく、魯郡の韓毅540年以前に叛乱を起こした? のち歓の第五子の高浟に書を教えた)は書の名人として著名だったが、どちらも反逆に加担して捕らわれた。しかし歓はどちらにも恩赦を与えて、己の子どもたちの家庭教師とした。また、捕らわれた者でも、その仕える所に忠節を尽くした者は殆ど罪に問わなかった【泉企(西魏の洛州刺史。伝には捕らえられたのち『鄴にて亡くなった』とだけある。537年〈1〉参照)・裴讓(東魏の太原公開府記室。弟が西魏に付いた際捕らえられたが許された。538年〈2〉参照)らがこれに当たる】。ここにおいて天下の人々は歓に心を寄せ、歓のために力を尽くそうと考えたのだった。その恩徳武威は南は梁国を従わせ、北は柔然を懐け(545年8月参照)、吐谷渾(540年・545年2月参照)・阿至羅(533年参照)は共にその招納に応じ、大いに力を尽くした。そのはかりごとは遠大であった《北斉神武紀》

 大将軍・尚書令・領中書監で勃海王世子の高澄時に26歳)は歓の遺言に従って喪を秘して発さなかったが、ただ行台左丞の陳元康搴に代わる歓の秘書で、非常な信任を受けた。546年〈2〉参照)だけはこれを知ることを許された。澄は父に引き続いて元康を重用した《北斉24陳元康伝》

○魏孝静紀
 五年春正月丙午,齊獻武王薨於晉陽,祕不發喪。

●朝臣の鑑であり親馬鹿
 また、崔暹澄の腹心。司馬子如ら勲貴を弾劾した。545年〈1〉参照)を度支尚書・監国史・兼右僕射として変わらず己の右腕とし、また孝静帝の侍読も兼任させた。
 暹は国の行く末を自分の家のように案じ、その盛衰を自分の責任だと考えて行動した。
 澄は車や服がド派手で、常識に外れた誅戮を行ない、言動には時々礼儀を失した所があった。暹がそのたびに表情を厳しくして言葉を尽くして諌めると、澄はこれを聞き入れてそれらを全て改めた。例えば、澄は臨淮王孝友を身近に置いて親愛し、しばしば自分の前で歌舞をさせたり笑い話を言わせたりしたが、暹の姿を見ると居住まいを正してやめさせた。また、ある時、澄は数百人の囚人を一挙に皆殺しにしようと思い、執行に必要な文書を催促したが、暹はわざと作成を遅らせ、持っていくのを遅らせた。その間に澄は理性を取り戻し、囚人たちは死から免れる事ができた。また、澄は司州別駕の司馬仲粲・中従事の陸士佩を殴打して牢屋に入れ、餓死させようとしたが、暹は〔こっそり〕食事や薬を二人に届け、澄を宥めて機嫌を良くさせ、二人を釈放に導いた。
 暹は官僚になって以降、常に夜明け頃になると兄弟と共に母の寝所に行って跪き、起きているか尋ね、〔昼間は職務に精励して〕日が暮れるまで家に帰らず、帰宅すると母に食事を進め、眠ったのを確認すると離れに行って賓客と時事について議論したり、僧侶と真理について議論したりし、夜遅くになってようやく母屋に帰って眠る生活を続け、生涯一度も家の事について尋ねる事が無かった。
 東魏と梁が国交を通じると(536年)、朝廷の要人貴人たちはみな人を派して梁使の帰国に付いて行かせ、南方の珍品を手に入れ〔てひと儲けし〕たが、暹はただ仏典を探し求めさせただけだった。梁の武帝はこれを聞くと暹のために仏典を筆写し、これに幡花(仏に供える花)・宝蓋(仏像の頭上にかざす天蓋)を添え、讃唄(仏教の三宝を褒め讃える歌)と共に賓館にまで送り届けさせた。
 ただ、暹は大言壮語を好み、節操なく悪ふざけをする所があった。ある時、こっそり僧侶の明蔵に自分の署名をさせた《仏性論》を作らせ、それを江南に広まらせて面白がった事があった。

 子の崔達拏は幼い頃から利発だった。十三歳の時、父の暹は儒者の権会字は正理)に《周易》の二字について達拏に講説させたのち、朝廷の高官や名士を集め、達拏を高座に上らせて講義をさせた。この時、趙郡の眭仲譲が〔おべっかを使って〕感服したふりを見せると、暹は喜んで仲譲を司徒中郎に抜擢した。鄴の人々はこれについてこう言った。
「たった二文字の講義によって中郎〔の人材〕を得た。」
 仲讓はのちに右丞にまで昇進した。
 達拏は十余歳にして早くも五言詩を作っていた。当時、東魏と梁は和平を結んでいたため、使者が賓館にやってきていた。暹は達拏に〔達拏が作った〕数首の詩を持たせて才能・学識ある朝士たちに見せて感想を聞いたのち、これを梁の使者に見せようとした。朝士たちは暹の権勢を恐れ、みな達拏の詩に高評価をして梁使に見せるように言ったが、陽休之だけはこう言った。
「ご令息は聡明でいらっしゃり、いつか立派な人物となられる事でしょう。ただ、〔まだ子どもなのです。〕子どもの詩文を梁使に見せるのはお控えになったほうが宜しいかと存じます。」
 休之の正直ぶりはこの様だった。王元景はよくこう言った。
「当今の直諌の士と言えば、陽子烈休之の字)がいる。」
 これらは暹の短所であった。
 
○北斉30・北32崔暹伝
 高祖崩,未發喪,世宗以暹為度支尚書,〔監國史,〕兼〔右〕僕射,委以心腹之寄〔,仍為魏帝侍讀〕。暹憂國如家,以天下為己任。〔文襄盛寵王昭儀,欲立為正室,暹諫曰:「天命未改,魏室尚存,公主無罪,不容棄辱。」文襄意不悅,苦請乃從之。〕世宗車服過度,誅戮變常,言談進止,或有虧失,暹每厲色極言,世宗亦為之止。〔臨淮王孝友被文襄狎愛,數歌舞戲謔於前,顧見暹,輒歛容而止。〕有〔獄〕囚數百,世宗盡欲誅之,每催文帳。暹故緩之,不以時進,世宗意釋,竟以獲免。〔司州別駕司馬仲粲、中從事陸士佩並被文襄毆擊,付獄將餓殺,暹送食藥,為致言而釋之。〕自出身從官,常日晏乃歸。侵曉則與兄弟〔跪〕問母之起居,暮則嘗食視寢,然後至外齋對親賓〔論事,或與沙門辯玄理,夜久乃還寢〕。一生不問家事〔產〕。魏、梁通和,要貴皆遣人隨聘使交易,暹惟寄求佛經。梁武帝聞之,為繕寫,以幡花〔寶蓋〕贊唄送至館焉。然而好大言,調戲無節。〔嘗〕密令沙門明藏著佛性論而署己名,傳諸江表。子達拏年十三,暹命儒者權會教其說周易兩字,乃集朝貴名流,令達拏昇高座開講。趙(同)郡眭仲讓陽屈服之,暹喜,擢為司徒中郎。鄴下為之語曰:「講義兩行得中郎。」〔仲讓官至右丞。〕此皆暹之短也。
○北47陽休之伝
 尚書僕射崔暹為文襄所親任,勢傾朝列,休之未嘗請謁。暹子達拏幼而聰敏,年十餘,已作五言詩。時梁國通和,聘使在館,暹持達拏數首詩示諸朝士有才學者,又欲示梁客。餘人畏暹,皆隨宜應對,休之獨正言:「郎子聰明,方成偉器。但小兒文藻,恐未可以示遠人。」其方直如此。元景每云:「當今直諫,陽子烈其有焉。」

●侯景叛す



〔歓の死がそれとなく伝わってくると、〕東魏の司徒・河南大行台の侯景はその後継の高澄と険悪な関係にあったため、身に不安を覚えた。
 辛亥(13日)、景は梁(大梁)・鄭(虎牢?)の兵を擁して河南にて叛し、六州を挙げて西魏に付いた。東魏の潁州(治 潁川長社)刺史の司馬世雲は州城と共にこれに応じた。景は州城に入ると、計を用いて豫州(治 汝南懸瓠)刺史の高元成・襄州(治 赭陽)刺史の李密・広州(治 魯陽)刺史で懐朔の人の暴顕字は思祖)らを誘い出し、みな捕らえてしまった。
 また、武器を満載させた車を軍士二百人に西兗州(治 左城)に運ばせ、夜陰に紛れてこれを攻め取ろうとした。刺史の邢子才は景の叛乱を察すると、軍士たちを奇襲して捕らえた。また、東方諸州に檄を発して警戒をさせたため、景はこれ以上の制圧が不可能になった[1]

○資治通鑑
 侯景自念己與高氏有隙,內不自安。辛亥,據河南叛,歸于魏,潁州刺史司馬世雲以城應之。景誘執豫州刺史高元成、襄州刺史李密、廣州刺史懷朔暴顯等。遣軍士二百人載仗暮入西兗州,欲襲取之,刺史邢子才覺之,掩捕,盡獲之,因散檄東方諸州,各為之備,由是景不能取【侯景之變,當時覺之而能發其姦者,邢子才一人耳。孰謂文士不可以當藩翰哉!】。
○魏孝静紀
 辛亥,司徒侯景反,潁州刺史司馬世雲以城應之。景入據潁城,誘執豫州刺史高元成、襄州刺史李密、廣州刺史暴顯等。
○北斉文襄紀
 辛亥,司徒侯景據河南反,潁州刺史司馬世雲以城應之。景誘執豫州刺史高元成、襄州刺史李密、廣州刺史暴顯等。
○周文帝紀
 十三年春正月,…是月,齊神武薨。其子澄嗣,是為文襄帝。與其河南大行臺侯景有隙,景不自安,遣使請舉河南六州來附。
○周18王思政伝
 十三年,侯景叛東魏,擁兵梁、鄭,為東魏所攻。
○北斉17斛律金伝
 世宗嗣事,侯景據潁川降於西魏。
○北斉18司馬世雲伝
 子如兄纂,先卒,子如貴,贈岳州刺史。纂長子世雲,輕險無行,累遷衛將軍、潁州刺史。世雲本無勳業,直以子如故,頻歷州郡。恃叔之勢,所在聚斂,仍肆姦穢。將見推治,內懷驚懼,侯景 反,遂舉州從之。時世雲母弟在鄴,便傾心附景,無復顧望。
○北斉22李密伝
 侯景外叛,誘密執之,授以官爵。
○北斉25張纂伝
 世宗嗣位,侯景作亂潁川,招引西魏。
○北斉41暴顕伝
 武定二年,除征南將軍、廣州刺史。侯景反於河南,為景所攻,顯率左右二十餘騎突出賊營,拔難歸國。

 ⑴侯景…滏口の戦いにて葛栄を捕らえて大いに武名を挙げ、のち高歓に河南の軍事権を委任された。546年⑵参照。
 ⑵司馬世雲…司馬子如の兄・司馬纂の子。叔父のコネで刺史となり、好き勝手に人民から収奪を行なったが、最近追及が迫り、身に危険を感じていた。
 ⑶高元成…537年4月に張倹の乱を平定した。
 ⑷李密…李元忠の族弟。広阿の戦いの際、黄沙・井陘の二道を遮断した。531年⑷参照。
 ⑸邢子才…邵。名文家。麟趾新制の制定に貢献した。541年10月参照。
 [1]侯景の乱の際、それに気づいた者は邢子才一人だけであった。文筆家に刺史は任せられぬとは、誰が言ったのか!

●崔暹斬るべし
 景の叛乱を知ると、諸将は口々にこう言った。
「景が叛いたのは、崔暹が憎いがためであります!」[1]
 澄はこの圧力に屈し、やむを得ず暹を殺して景に詫びようとした。これを陳元康に諮ると、元康はこう言った。
「いま天下は定まっておりませんが、国法は既に定まっております。地方にて軍を率いている数人の歓心を買うためだけに無実の者を殺せば、刑典は見向きもされないようになり、国は無法状態となります。それでどうやって天神や人民の心を落ち着けるつもりですか! 晁錯[2]の件もあります。公よ、どうか慎重に事を行なわれませ。」
 澄はそこで処断を取り止め《北斉24陳元康伝》、司空の韓軌に景討伐軍を指揮させた《魏孝静紀》

 辛酉(23日)武帝が南郊にて天を祀り、大赦を行なった。
 甲子(26日)、明堂にて祖先を祀った《梁武帝紀》

○魏孝静紀
 遣司空韓軌,驃騎大將軍、儀同三司賀拔勝、可朱渾道元,左衞將軍劉豐等帥眾討之。

 [1]崔暹が勲貴を弾劾したのを諸将は恨んでいた。ゆえに景の乱にかこつけてこれを罪に落とそうとしたのである。
 [2]晁錯…前漢の名臣。中央集権を推し進め、諸侯の領土を次々と削ったが、それがもとで呉楚七国の乱が起きると、これをなだめようとした景帝によって処刑された。しかし結局叛乱が止むことはなかった。景帝三年(154年)正月参照。
 ⑴韓軌…高歓の側室の韓氏の兄。むかし泰州を治め、のち司空とされた。546年⑵参照。

●力比べ
 乙丑(27日)、散騎常侍の謝藺字は希如)・通直常侍の鮑至ら(魏98島夷蕭衍伝)梁の使節が東魏が到着した《魏孝静紀》
 この時、使節の中に力自慢の者がおり、北人と力比べを求めてきた。高澄は〔中外府帳内都督の〕綦連猛を迎賓館に派遣し、これに応じさせた。猛は二つの弓袋を身につけて馬に乗ると、左右の手どちらからでも矢を射てみせた。また、梁人は同時に二張りの弓までしか引くことができなかったが、猛は一気に四張りの弓を引くことができ、しかも限界まで引き絞ることができた。梁人はこれを見ると猛に感服した。

○魏孝静紀
 乙丑,蕭衍遣使朝貢。
○北斉41綦連猛伝
 五年,梁使來聘,云有武藝,求訪北人,欲與相角。世宗遣猛就館接之,雙帶兩鞬,左右馳射。兼共試力,挽強,梁人引弓兩張,力皆三石,猛遂併取四張,疊而挽之,過度。梁人嗟服之。

 ⑴綦連猛...字は虎児。弓・馬の扱いに長けた。爾朱栄の親信とされ、爾朱氏に忠義を尽くした。爾朱兆が滅ぼされると高歓に仕えた。

●西魏、静観に決す
 侯景が西魏に付き、援軍を求めてくると、西魏の丞相の宇文泰時に41歳)は景を太傅・河南道行台・上谷公に任じ(北史西魏文帝紀)、大尉の李弼字は景和。西魏随一の猛将。548年〈2〉参照)を派遣しようとした。すると尚書左僕射・領司農卿の于謹泰の譜代で智謀に優れた名将。邙山の敗戦の際、東魏の追撃を阻止した。543年〈1〉参照)が諌めて言った。
「景は年少の頃から権謀術数に長けた、海千山千で信頼の置けぬ男です。ひとまず彼には充分な官爵を与えてやるだけにしておいて、兵を送るのはその挙動を見定めてからにした方がいいでしょう。」
 泰は聞き入れなかった《周15于謹伝》
 泰はまた、隴右十州大都督・秦州刺史・大司馬の独孤信もとの名は如願で、泰の旧友。知勇兼備の名将で、西方を委任された。546年〈1〉参照)を東下させ、代わりに《北57宇文導伝》宇文導字は菩薩。宇文泰の兄の子。543年〈2〉参照)を隴右大都督・秦南等十五州諸軍事・秦州刺史として隴右の守備に就かせた《周10宇文導伝》

┃柔然の侵攻
 この月、柔然が西魏の高平(原州)に侵攻し、方城()にまで到った《周文帝紀》。西魏はこれに対処するため、独孤信を〔引き返させ、〕その鎮所を河陽(略陽、阿陽? 秦州の北)に移転した(これ以後、河陽・天水の両立体制? 《周16独孤信伝》
〔泰はこの侵攻を受けて、救援を取り止めた(北62王思政伝に、『即座に救援軍を送らなかった』とある)。〕

○周文帝紀
 十三年春正月,茹茹寇高平,至于方城。

┃原州の戦い
 柔然が原州城(高平)を包囲し、住民を略奪し、家畜を駆り立てて連れ去った。〔原州刺史の〕李賢は出撃して戦おうとしたが、大都督〔原霊顕三州五原蒲川二鎮諸軍事〕の烏丸徳王徳)は躊躇した。賢が強く出撃を求めると、徳はやむなくこれを聞き入れた。賢が出撃する直前、柔然は密かにこれを察知して撤退した。賢は騎兵を率いて追擊し、首級二百余・捕虜百余と、〔略奪されていた〕駞馬牛羊二万頭と数え切れないほどの財物を取り戻した。拉致されていた住民たちは家に帰り、安寧を得る事ができた。賢は〔この功により〕使持節・車騎大将軍・儀同三司とされた。

○周25李賢伝
 俄而茹茹圍逼州城,剽掠居民,驅擁畜牧。賢欲出戰,大都督王德猶豫未決。賢固請,德乃從之。賢勒兵將出,賊密知之,乃引軍退。賢因率騎士追擊,斬二百餘級,捕虜百餘人,獲駞馬牛羊二萬頭,財物不可勝計。所掠之人,還得安堵。加授使持節、車騎大將軍、儀同三司。

 ⑴烏丸徳(王徳)…字は天恩。武川の人。騎射を得意とした。また、父母や兄に良く仕えた。529年、爾朱栄が元顥を攻めた際、河内攻めで先陣を志願した。のち賀抜岳の万俟醜奴討伐に加わり、岳が侯莫陳悦に殺されると宇文泰を後継に迎え入れ、平涼郡守とされた。本を読まなかったが政治を良く取り仕切り、涇州所管の五郡のうち常に一番の政績を挙げた。のち、行東雍州事とされるとすぐに州民に懐かれた。また、烏丸氏の姓を与えられた。535年、儀同・公・北雍州刺史とされた。のち沙苑にて功を立て、開府・郡公とされた。のち河州刺史とされ、羌族を良く治めた。547年、大都督原霊顕三州五原蒲川二鎮諸軍事とされた。

┃去勢・入れ墨の禁
 2月、西魏の文帝時に41歳)が詔を下して言った。
「今より、宮刑の罪にあたった者がいても、刑は行なわず、奴婢とするだけに留める。また、入れ墨の刑を受けるべき逃亡した奴婢も、刑は行なわず、ただ逃亡の罪だけを問うことにする。」
 また、開府儀同三司の若干恵邙山の敗戦の際、奮戦して撤退に成功した。のち、侯景の荊州侵攻を食い止めた。546年〈1〉参照を司空とした《北史西魏文帝紀》

┃侯景、梁にも秋波を送る
 庚辰(13日)、景はまた行台郎中の丁和を梁に派し、こう上表して言った。
「臣はむかし高歓と肩を並べて国家のために力を尽くし、中興以降はその出兵に常に従い、天平以降は常に先鋒を務めるまでになりました。臣は城を攻めれば必ず陥とし、野戦を行なえば必ず敵を殲滅したものです。臣が戦場に全身全霊を捧げたのは、ただただ国家を想う真心からでありました。しかし歓が病気になって代わりに全権を握った子の高澄は陰険で、佞臣を好んでその讒言をすぐ信じ、忠臣を排斥しました。澄は今、甘い言葉で臣を呼び寄せてきましたが、実際は臣を除こうという心づもりに決まっています。かくて臣はこれに応じませんでしたが、抗命した以上は、歓の病気が快癒したとしても、父子のもとに居続けることはできないでしょう。ゆえに、臣は兵を挙げ、周・韓の地(河南の西部を言う)に義の旗を建て、陛下に仕えることを決めたのです。臣は今、豫州刺史高〔元〕成・広州刺史暴顕・潁州刺史司馬世雲・〔東?〕荊州刺史郎椿・襄州刺史李密・兗州刺史邢子才実際は協力をしていない)・南兗州刺史石長宣石栄の子)・済州刺史許季良実際は協力をしていない・東豫州刺史丘元征・洛州刺史可朱渾願・陽州刺史楽恂・北荊州[1]刺史梅季昌・北揚州[2]刺史元神和ら河南の刺史たちの協力を得ることに成功しました。ゆえに、函谷関以東、瑕丘(兗州)以西の十三州[3]は今より全て陛下のものであります。ただ、青・徐など数州からはまだ返事をもらっておりませんが、必ずやすぐ良い答えをもらえるだろうと考えております。何故なら、黄河以南は臣の庭のようなもので、これらを馭することは掌を返すように容易いものだからでございます。もし斉・宋[4]が平定されましたら、燕・趙[5]も自ずと陛下のもとに従うことでありましょう。天下一統の時は今です。良い返事をお待ちしております。」《梁56侯景伝》

 丁和がやってくると、武帝は群臣を集めて投降の受け入れの是非を問うた。すると尚書僕射の謝挙字は言揚)らはみな口を揃えて言った。
「近年辺境が平和であったのは、魏と友好関係にあったからです[6]。今その叛臣を受け入れるのは、よろしくないように存じます。」
 帝は答えて言った。
「そうではあるが、景の投降を受け入れれば塞北(国境の北)の地が労せずして手に入るのだぞ。そのような機会は滅多にない。『柱(ことじ、琴柱)に膠(にかわ、接着剤)する』ような融通の利かなさでは、大事は成せぬ!」《梁56侯景伝・南20謝挙伝。言葉は出典不明》

○琴柱

○魏94石栄伝
 石榮者,從主書稍進為州。自被劾後,遂便廢頓。子長宣,武定中,南兗州刺史,與侯景反,伏法。

 ⑴許季良…惇。北斉43許惇伝では叛乱に加担した形跡は無い。また、斉・梁州刺史となったことはあるが、済州刺史となった記述は無い。
 ⑵東豫州…魏書地形志によれば、孝昌三年(527)から武定七年(549)まで梁が支配し、西豫州と改名されているはずである。
 [1]北荊州…魏書地形志曰く、北荊州は武定二年(544)に伊陽(伏流)に置かれ、新城・汝北郡を領した。
 [2]北揚州…魏書地形志曰く、北揚州は天平二年(535)に陳郡の項城県に置かれ、南頓・汝陰・丹楊・陳留郡を領した。
 [3]十三州…蕭韶の太清紀には『兗州刺史胡延・豫州刺史傅士哲・揚州刺史可足渾洛』とあり、邢子才の名前が無い。典略には『荊州刺史厙狄暢』とあり、高成・暴顕・許季良・可朱渾願・楽恂・梅季昌の名前が無い。今は梁書の記述に従った。
 [4]斉・宋…斉は青州、宋は徐州を言う。
 [5]燕・趙…河北のことを言う。
 [6]大同二年(536)に和睦して以来、梁は絶えず東魏と使者を行き来させていた。
 ⑶『柱に膠する』…史記21廉頗藺相如伝にある藺相如の言葉で、琴柱を接着剤で固定してしまっては同じ音しか出せないことから、融通のきかず、臨機応変の処置ができない者の例えに使われる。『柱に膠して瑟を鼓す』。

●金甌無欠
 この年の正月乙卯(17日)考異曰く、三国典略には『去年十二月』とある】〈南80侯景伝〉、武帝は中原の牧守(地方長官)たちがみな州を挙げて投降してきたのを、朝臣たちがこぞって祝賀する夢を見た。目を覚ますと、いたく気を良くした。
 朝、武帝は中書舍人の朱异武帝の寵臣。賀抜勝らの北帰を助けた。536年参照)にこのことを告げると、异はこう言った。
「それは天下一統の予兆であります。」
 武帝はこう言った。
「わしは夢をあまり見ないのだが、ひとたび夢を見ると必ず正夢となるのだ。わしは非常に気分がいい。」
 武帝はまた、善言殿にて読経をした際に、傍にいた黄慧弼にこう言った。
「わしは昨晩、天下が泰平になる夢を見た。これをよく覚えておいてくれ。」(南80侯景伝
 そして現在、丁和侯景が梁に投降を決めた日を聞くと、それは果たして正月乙卯であった。武帝はこれを聞いて、やはりあの夢は仏が見せた正夢であったかといよいよ気を良くしたが【国家もよく治められていないうえに、妖しい夢も妄信するに至っては、その破滅も当然と言えよう】、それでもまだ思う所があって、まだ決断を下さずにいた。
 ある夜(梁38朱异伝には早朝とある)、武帝は巡視に出かけ、武徳閤の入り口(南62朱异伝)に到った時、こう独り言を言った。
「我が国家は一点の傷も無い金甌(黄金の瓶)のように、完全無欠で、安泰堅固である(金甌無欠の語源)。そこに新たに土地を受けて、果たしていいのだろうか。もしいらぬ騒動でも引き起こせば、悔やんでも後の祭りだろう。」
 朱异はこれを聞くと、武帝の心をおしはかって(南62朱异伝)こう言った。
「陛下が登極してより、天下の至る所仰ぎ慕わぬ者はおりません。それは北土の遺民も同様で、機会があればいつでも陛下のもとに赴きたいと願っているのです。いま、侯景が魏の土地の半分の河南十余州を挙げて、遠方より聖朝に帰順を願ってきたのは、天がその心を変え、人がその計画を支持したからにほかなりません。考えますに、景の心はまことに嘉賞に当たるもの。いまもしこれを拒絶すれば、北人は望みを絶ち、以後帰順しないようになるでしょう。陛下、利害はこのように全く明らかであります。お疑いなさいませぬよう。」
 武帝はこれに深く納得し、遂に景の投降を受け入れることとした《梁56侯景伝》

●乱階ここにあり
 壬午(15日)梁武帝紀〉、梁は侯景を大将軍・都督河南北諸軍事・大行台とし、河南王に封じた。また、鄧禹のように、これに臨時に皇帝と同等の権限を与えた《梁56侯景伝》
 平西諮議参軍の周弘正太子綱の立太子を非難した。531年〈3〉参照)は博識で、天象に通じ、よく未来を占うことができた。大同(535~546)の末のある時、弘正は弟の周弘譲にこう言った。
「数年の間に国家に兵乱が訪れる。逃げ場はどこにも無い。」
 そして現在、侯景の投降が受け入れられたことを聞くと、こう言った。
「乱階(乱れの原因)ここにあり!」《陳24周弘正伝》

●第四次捨身
 丁亥(20日)武帝が藉田を耕す儀式を行なった《梁武帝紀》
 3月、庚子(3日)、帝が同泰寺にて無遮大会(四部の人々に分け隔てなく布施を行なう催し)を開いたのちに捨身を行なった《梁武帝紀》。その形式は大通(529年の第二次)の時と同じであった《南史梁武帝紀》

 ⑴捨身…527・529・546年に続く第四次捨身。身を捨てて仏に奉仕すること。
 ⑵大通の時と同じ…皇帝の衣服を脱いで法衣に着替え、僧侶となり、便省〈簡易宮殿。同泰寺内にある武帝の休憩所〉を住まいとして、質素な寝台と食器を使用し、小さな車に乗り、一個人として雑務をこなした。

●梁の救援軍出陣
 甲辰(7日)、梁が都督南北司豫楚四州諸軍事・北司州刺史(梁39羊鴉仁伝)の羊鴉仁に対し、土州[1]⑴刺史の桓和〔之?〕・仁州[2]⑵刺史の湛海珍らと共に精兵(梁39羊鴉仁伝)三万を率いて梁でいう北豫州の懸瓠(東魏豫州の治所)に赴き、侯景を迎えるよう命じた《梁武帝紀》

 この月、西魏が大赦を行なった《北史西魏文帝紀》

 [1]土州…五代志曰く、漢東郡の土山県を梁は龍巣と呼んで土州を置き、更にその東西に二永寧・真陽の三郡を置いた。
 ⑴土州…《読史方輿紀要》曰く、『隨州の東北五十里にある。
 [2]仁州…魏書地形志曰く、梁代に赤坎城に置かれ、臨淮郡を帯び、己吾・義城県を領した。五代志曰く、彭城郡穀陽県に己吾・義城二県があり、北斉はこれを合併して臨淮県とした。
 ⑵仁州…《読史方輿紀要》曰く、『梁が天監八年(509)に赤坎戍を置き、大同二年(536)に戍を廃して仁州を置いた。《寰宇記》曰く、「赤坎城は虹県(のちの北斉の潼州。北徐州の東北百七十里)の西南百九十五里にある」。

●高澄、鄴に赴く
 これより前、高澄は河南の事変による諸州の動揺を憂慮し、自らその巡撫に赴くことにしていた。そこで武衛将軍・姑臧県公の段韶に留守中の晋陽の軍事を、大丞相府功曹参軍の趙彦深を大行台都官郎中とし、政務を任せた。出発の際、澄は彦深の手を握り、泣いてこう言った。
「母や弟をそなたに託す。どうか私の苦しい心の内を分かってくれ。」《北斉38趙彦深伝》
 澄はこのとき、予め陳元康高歓の名義で作らせておいた数十枚の命令書を段韶と趙彦深に残し、己の出発後に順次実行させた《北55陳元康伝》

 夏、4月、壬申(6日)高澄が鄴の朝廷に参内した《魏孝静紀》孝静帝時に24歳)が宴を開くと、澄は〔喪中にも関わらず〕舞を踊った。識者は澄が終わりを全うしない(いい死に方をしない)ことを知った[1]

○魏孝静紀
 夏四月壬申,大將軍齊文襄王來朝。
○隋五行貌不恭
 東魏武定五年,後齊文襄帝時為世子,屬神武帝崩,秘不發喪,朝魏帝於鄴。魏帝宴之,文襄起儛。...有識者知文襄之不免。

 ⑴段韶…高歓の妻、婁昭君の姉の子。韓陵山の戦いでは歓を勇気づけ、邙山の戦いでは賀抜勝に追われた歓を助けた。546年(2)参照。
 ⑵留守中の晋陽の軍事を…韶は高洋と共に鄴に赴いていたはずである。これを見るに韶はまだ出発していなかったか、もしくは呼び戻されたのであろう。
 ⑶趙彦深…陳元康と共に機密のことを司り、『陳・趙』と並び称された。536年参照。
 [1]むかし、周の景王は太子と后の喪に服す期間であるにも関わらず宴を催した(前527年12月)。晋の叔向(羊舌肸)はこれを聞いて言った。「王は終わりを全うせぬだろう! 『何を楽しんだかによって、終わり方が決まる』と私は聞いているが、いま王は憂いの中で楽しんだゆえ、憂いの中に死ぬ。それは終わりを全うしたとは言えぬ(前520年4月、王は太子の反対派を除く前に突然心臓病で亡くなった)。」景王は伉儷(妃)と冢適(太子)の喪中であるにも関わらず、葬式を済ませるとすぐに宴を催した。これは賢者のやることではない。高澄は父が死ぬと、その死を隠さなければならない時だったとはいえ、その遺体が冷たくなっていない内に哀しみを忘れて舞を踊って楽しんだのである。人の心が無いと言えよう! 柏堂に惨めに死ぬことになったのは因果応報である。

●武帝、宮殿に還る
 丙子(10日)、梁の群臣が一億万銭を以て皇帝菩薩の武帝の身を贖った[1]
 丁亥(21日)、武帝は皇宮に還り[2]、太極殿に還御してにて擬似的な即位の礼を催し、大赦を行って年号を中大同から太清に改めた。この一連の流れは中大通元年(529年〈3〉参照)のそれと同じであった《南史梁武帝紀》

 [1]3月3日に捨身をして4月10日に身を贖われるまで、37日が経っている。帝王の政務は一日たりとも欠かしてはならぬものであるのに、武帝は仏教に没頭して天下の事を忘れてしまったのである。
 [2]「丁亥」は「丁丑」(11日)の誤りではないか。
 ⑴中大通元年のそれ…百官が寺の東門〈鳳荘門〉に参じ、武帝に皇宮へ帰還してくれるよう上表文を三度奉った。武帝はこれに応じ、寺を出た。武帝は三度の返書の末尾に全て『頓首』と記し、あくまで一個人としての姿勢を貫いた。
 

 547年(2)に続く