●段孝先
 これより前、歓は攻城戦の中で病床に就くと、諸将を招集してこれから取るべき行動ついて議論した。このとき、歓は大司馬の斛律金・司徒の韓軌・左衛将軍の劉豊らにこう言った。
「わしは段孝先とよく軍事について議論したが、そのたびに孝先は優れた意見を披露していた。その意見を用いておれば、今日の労苦はなかったように思う。今、わしの病状は非常に重く、不測の事態が起こってもどうすることもできぬ。ゆえに、孝先に鄴のことを任せておこうと思うのだが、どうだろうか?」
 金らは答えて言った。
「臣を知るは君に若()くは莫()し(臣下のことは君主が一番良く知っている)とか。孝先より適任な者はいないかと存じます。」
 そこで歓は韶を呼んでこう言った。
「わしは昔、卿の父(段栄)と艱難を共にして王室を補佐する大功を立てた。今、わしの病状は見ての通りで、ほぼ助からぬ。孝先よ、どうかわしと父の業を良く受け継ぎ、身を粉にして王室を補佐してくれ。」
 庚戌(11日)、かくて姑臧県公・武衛将軍の段韶に、歓の第二子で太原公・尚書左僕射・領軍将軍の高洋に従って鄴に赴き、これを守備するようよう命じた。また、世子で大将軍・尚書令・領中書監の高澄に軍営まで来るように命じた。
 辛亥(12日)、澄が軍営に馳せ参じてくると、歓は晋陽に帰るまでの護衛を命じた。

○北斉神武紀
 庚戌,遣太原公洋鎮鄴。辛亥,徵世子澄至晉陽。
○北斉文襄紀
 武定四年十一月,神武西討,不豫班師,文襄馳赴軍所,侍衞還晉陽。
○北斉16段韶伝
 武定四年,從征玉壁。時高祖不豫,攻城未下,召集諸將,共論進止之宜。謂大司馬斛律金、司徒韓軌、左衛將軍劉豐等曰:「吾每與段孝先論兵,殊有英略,若使比來用其謀,亦可無今日之勞矣。吾患勢危篤,恐或不虞,欲委孝先以鄴下之事,何如?」金等曰:「知臣莫若君,實無出孝先。」仍謂韶曰:「吾昔與卿父冒涉險艱,同奬王室,建此大功。今病疾如此,殆將不濟,宜善相翼佐,克茲負荷。」即令韶從顯祖鎮鄴,召世宗赴軍。

 ⑴韓軌...字は百年。高歓の側室の韓氏の兄。謙虚な性格で、感情を表に出さなかった。むかし泰州を治め、のち司空とされた。545年(2)参照。
 ⑵劉豊...字は豊生。立派な容姿と勇敢な性格の持ち主。もと西魏の臣だったが、536年に東魏に寝返った。河橋の戦いでは一番の手柄を立てた。邙山では河橋を守備し、西魏軍を恒農まで追撃した。543年(2)参照。
 ⑶段孝先...名は韶。孝先は字。高歓の妻の婁昭君の姉の子。知勇兼備の将。韓陵山の戦いでは歓を勇気づけ、邙山の戦いでは賀抜勝に追われた歓を助けた。543年(2)参照。
 ⑷段栄...字は子茂。478~539。高歓の妻の婁昭君の姉の夫。温厚な性格で、各地で善政を行なった。天象に通じ、沙苑の戦いの敗北を予見した。539年参照。
 ⑸高洋...字は子進。時に21歳。高歓の次子。兄と違い、容姿も性格もぱっとしなかったが、才能はあり、歓に評価された。544年参照。
 ⑹高澄...字は子恵。時に26歳。高歓の長子。女好きの美男子。536年より鄴の朝政を任され、乱脈な勲貴の弾圧を行なって綱紀を粛清した。546年(1)参照。

●論功行賞
これより前、玉壁包囲の報が西魏に入った時、諸将はみな口を揃えて軍を出すように求めたが、宇文はこう言った。
「孝寛なら必ず城を守りきるゆえ、わざわざ救援に行く必要は無い。それに、歓は必ず救援を警戒しているゆえ、そこに向かって突撃しても勝利はほぼ得られぬ。孝寛はこれをよく分かっているからこそ、戦いが始まってから一度も救援を求めず、孤城をただただ堅く守ってその鋭鋒を挫くことに専念しているのだ。」
 かくて一人の兵すら出撃させなかった。やがて東魏軍が退却し、孝寛が勝利を報じると、泰は喜んでこう言った。
王思政は人物眼がある。」(孝寛を玉壁の守将に薦めたのは思政。546年〈1〉参照
 西魏は殿中尚書の長孫紹遠長孫稚の子)を大使に、左丞で藍田の人の王悦を副使にした慰問の使節を派遣して韋孝寛を労い(王悦はこのとき将兵の論功も行なった。周33王悦伝)、その官位を驃騎大将軍・開府儀同三司に、爵位を〔山北県侯から〕建忠郡公に進めた《周31韋孝寛伝》。〔その他将兵にも功の多寡を検証して進級を行なった。

○周18王思政伝
 其後東魏來寇,孝寬卒能全城。時論稱其知人。
○北史演義
 宇文泰初聞玉壁被圍,諸將咸請出師,泰曰:「有孝寬在,必能御之,無煩往救也,且歡嚴兵而來,以攻玉壁,謂吾師必出,欲逞其豕突,僥倖一勝耳。此意孝寬能料之,故被兵以來,絕不遣一介行人求救於朝,正欲守孤城以挫其鋒也。」於是不發一兵。及東魏兵退,孝寬報捷,泰喜曰:「王思政可謂知人矣。」乃加孝寬為驃騎大將軍、開府儀同三司。其餘守城將士晉級有差。

┃勅勒歌
 12月、己卯(11日)高歓が無功を以て都督中外諸軍事の辞職を願い出、許可された。

 歓が玉壁より撤退した時、その軍中では、韋孝寬が定功弩(強弩の一種)を以て丞相()を射殺したから撤退したのだという噂が広まった。西魏の朝廷はこれを聞くと、こう布告を出して言った。
「高歓鼠子(鼠輩。取るに足りぬ小賊)、親()ら玉壁を犯すも、強弩一発、凶賊落命す。」
 歓はこれを聞くと、極力人前に出るようにして人心を落ち着かせた。
 また、勅勒人の斛律金に勅勒歌を歌わせた(軍心を慰め、鼓舞するためか)。金はこう歌った。

 

 敕勒川は陰山より下り(流れ)、

 天は穹廬(テント。パオ)に似て四野を籠蓋す(包む)。

 天は蒼蒼として野は茫茫たり(果てしない)、

 風吹きて草を低(垂)れしめ、牛羊を見(現)す。

 歓はこれに唱和するうち、思わず涙を流した。

○北斉神武紀
 十一月庚子,輿疾班師。庚戌,遣太原公洋鎮鄴。辛亥,徵世子澄至晉陽。有惡鳥集亭樹,世子使斛律光射殺之。己卯,神武以無功,表解都督中外諸軍事,魏帝優詔許焉。是時西魏言神武中弩,神武聞之,乃勉坐見諸貴,使斛律金勑(敕)勒歌,神武自和之,哀感流涕。
○隋五行志射妖
 東魏武定四年,後齊神武作宰,親率諸軍,攻西魏於玉壁。其年十一月,帝不豫,班師。將士震懼,皆曰:「韋孝寬以定功弩射殺丞相。」西魏下令國中曰:「勁弩一發,凶身自殞。」神武聞而惡之,其疾暴增,近射妖也。
○楽府詩集86敕勒歌
 樂府廣題曰:北齊神武攻周玉壁,士卒死者十四五,神武恚憤疾發。周王下令曰:「高歡鼠子親犯玉壁,劒弩一發元凶自斃。」神武聞之,勉坐以安士衆。悉引諸貴,使斛律金唱敕勒。神武自和之。其歌本鮮卑語,易為齊言,故其句長短不齊。
 敕勒川,陰山下。
天似穹廬,籠蓋四野。
天蒼蒼,野茫茫, 風吹草低見牛羊。

●蘇綽の死
 西魏の大行台・度支尚書・司農卿の蘇綽字は令綽。泰の腹心。戸籍・計帳の創始者。六条詔書を作り、二十四条及び十二条の新制を五巻にまとめた。また、大誥も作った。545年〈1〉参照は質素倹約をたっとび、財産をふやすことに無関心であったため、家には余財が無かった。また、天下が未だに平定されていないのは自分の責任とし、国家を共に盛り立てる人材を広く求め、推挙したものは殆ど高官にまで至った。宇文泰も心の底から綽を信任したため、余人の讒言が入り込む事は無かった。泰は出かける際、いつもあらかじめ白紙に認可の署名だけをしておいたものを綽に渡しておき、綽はそれに自由に文章を書いて命令書を作り、泰の留守中に起こった案件を処理した。泰が帰った時、綽はそれを事後報告するだけでよかった。綽はあるとき国を治める姿勢方針についてこう語ったことがあった。
「国を治める者は、民を慈父のように愛し、厳格な師のように教え導かねばならぬ。」
 綽は高官たちと議論する際、いつも昼から晩にまで至り、国事についてはどんな些細なことでも知悉していた。綽はその過労が祟り、遂に病気となった。
 この年、綽は在職中に死去した(享年49)。
 泰はその死をひどく嘆き悲しみ、そのさまは周囲を感動させずにおかなかった。埋葬の際、泰は高官たちにこう言った。
「蘇尚書は生前常に控えめで、質素倹約をたっとんだ。わしはその素志を全うしてやりたいのだが、問題は世俗の者どもがわしの心遣いを勘違いすることだ(泰は綽と不仲だったのではないかと勘違いすること)。しかし、綽に手厚い埋葬や追贈追諡を行なえば、今度は綽の気持ちに背く。一体どうしたらよいものだろうか?」
 そのとき、尚書令史の麻瑤が身分の低さを顧みずに、泰の前に進み出てこう言った。
「むかし、晏子は斉の賢大夫でありましたが、三十年を狐の皮衣で過ごし、斉侯もこれを理解して彼が死去した際車一台しか贈りませんでした。綽もこの晏子と同じく清廉で慎ましやかであったのですから、彼の葬儀も当然質素にし、その生前の美徳を顕彰すべきだと愚考します。」
 泰はその言葉を立派だとし、瑤を朝廷に推薦した。かくて綽の遺体は布で覆われただけの車で故郷の武功に運ばれた。泰は諸公と共にこれを華州の外城の門外まで歩いて見送った。泰は自ら車の後ろにて酒を地面に注いで供養をし、言挙げしてこう言った。
「尚書の事については、その妻子兄弟が知らないことも、わしはみな知っている。ただ汝だけがわしの心を知り、わしだけが汝の心を理解していた。わしは尚書と共に天下を平定しようと思っていた。なのに、どうしてわしを置いて先に逝ってしまったのだ!」
 やがて泰は声を上げて泣いたが、その激しいこと、思わず盃を手から取り落としてしまうほどだった。埋葬の日、泰は最上級の供え物(太牢。牛・羊・豚)や自作の祭文を贈った《周23蘇綽伝》

 この年、三十六曹(役所)を十二部に縮小し、雍州別駕の柳慶高歓との対決が迫った際、荊州ではなく関中に逃げるよう孝武帝に進言した。534年〈3〉参照)を計部郎中《周22柳慶伝》、左民郎中の李彦字は彦士)を民部郎中とした《周37李彦伝》

●劉亮の死
 この年、長広郡公・東雍州刺史の劉亮元の名は劉道徳。宇文泰の関中制圧に非常に貢献し、泰から『わしの孔明だ』と絶賛された。544年参照)が亡くなった(享年40)。棺が長安に到ると、泰は自らこれを迎え、泣いて人にこう言った。
「手足を喪ったら、腹や胸は何を頼りにすればよいのか!」
 かくて鴻臚卿に葬儀を監護させた。太尉を追贈し、襄公と諡した《周17劉亮伝》

●貧富の差の解消
 この年、西魏が侍中の韓褒を都督・西涼州刺史とした。
 羌胡人(中国西北の人々)は貧乏人を見下し、金持ちを尊ぶ傾向があった。金持ちは貧乏人を収奪し、奴隷のように扱ったため、貧乏人は日に日に貧しくなり、金持ちは日に日に豊かになった。褒はそこで貧乏人を集めて兵士とし、その家の租税や力役を免除した。また、金持ちから徴収した財貨を与えた。また、西域から商人がやってくると、まず極貧の者から取引をさせた。すると貧富の差は次第に無くなっていき、住民の生活は安定して人口が増えた。

○周37韓褒伝
 十二年,除都督、西涼州刺史。羌胡之俗,輕貧弱,尚豪富。豪富之家,侵漁小民,同於僕隸。故貧者日削,豪者益富。襃乃悉募貧人,以充兵士,優復其家,蠲免徭賦。又調富人財物以振給之。每西域商貨至,又先盡貧者市之。於是貧富漸均,戶口殷實。

 ⑴韓褒…字は弘業。祖父は北魏の平涼郡守・安定郡公。父は恒州刺史。書物を読み漁り、奥深い策略を有するようになった。建明年間(530~531)に出仕し、世が乱れると夏州に避難し、刺史の宇文泰に礼遇を受けた。泰の上司の賀抜岳が暗殺されるとその兵を早く接収しに行くよう勧めた。泰が丞相となると録事参とされ、侯呂陵氏の姓を与えられた。のち行台左丞→丞相府属→丞相府従事中郎とされ、淅・酈の鎮守に赴いた。のち丞相府司馬とされた。543年に北雍州刺史とされると、策を用いて盗賊たちを沈黙させた。543年(2)参照。
 ⑵西涼州…《隋地理志》曰く、『西魏が張掖に置いた。《元和郡県図志》曰く、『張掖から東〔南〕五百里に涼州(武威)が、西〔北〕四百里に肅州(酒泉)がある。』

●侯景
 東魏の司徒・河南大行台侯景は、身長七尺に満たず、胴長短足だったが、整った容姿を持ち、額は広く頬骨は高く、赤ら顔で髭薄く、眼は下を向いてしばしば左右に揺れ動き、声はしわがれていた。識者は言った。
「しわがれ声は豺狼の声である。故に、人を食い、また人に食われる所となるだろう。」
 景は右足が左足より短かったため、弓や馬の扱いに不得手であったが、その代わり智謀に優れていた。性格は残虐で軍法を厳しく執行したが、戦利品を得ると気前よく将兵に分け与えたので兵士からの評判は良く、戦えば殆どの確率で勝利を得た。東魏では高敖曹彭楽らが勇将と謳われていたが、景は常に彼らを軽んじてこう言った。
「こやつらは突進する猪と同じで、ろくな死に方をしないだろう!」
 景はまたあるとき歓にこう言った。
「私に三万の兵を与えてくだされば、天下無敵。長江を押し渡って蕭衍じいさんをひったて、太平寺[1]の和尚にすることなぞ造作もありません。」
 歓はそこで景に十万の兵と河南の指揮権を与え、己の半身のように頼りにした。

 景は平素から高澄を侮り、かつて司馬子如にこう言ったことがあった。
「高王(高歓)なら叛かぬが、鮮卑のこわっぱ(高澄)には絶対に仕えぬ!」
 子如は慌ててその口を塞いだ。
 ある時、景は歓にこう求めた。
「遠方にて大軍の指揮権を握っていると、これを脅威に感じた者が、王の命令書を偽造して私を陥れようとしてくるかもしれません。どうか王の物と判別できるよう、命令書の背面のどこかに小さな点を付けておいてくれませぬか。」
 歓はこれを聞き入れた。
 のち、歓が危篤となると、〔景に根を持っていた〕澄は歓の命令書を偽造し、景を呼び寄せ〔て誅殺しようとし〕た。
 景は命令書を受け取ると、背面に点が無かったのでこれに応じなかった。そこに更に歓が危篤だという知らせを耳にしたので、いよいよ身の危険を感じ、遂に行台郎(左丞?)で潁川の人の王偉と謀り(南80侯景伝)、兵を集めて守りを固めた。

 王偉はもともと略陽(天水の北)の人だったが、父の王略が北魏に仕えて許昌令となった関係で、潁川に移住した。偉は若くして優れた才能と学識を有し、周易に通じ、高雅な文章を書いた。景の出した書簡は全て偉が書いたものだった。

○資治通鑑
 東魏司徒、河南大將軍、大行臺侯景...。
○北斉神武紀
 侯景素輕世子,嘗謂司馬子如曰:「王在,吾不敢有異,王無,吾不能與鮮卑小兒共事。」子如掩其口。至是,世子為神武書召景。景先與神武約,得書,書背微點,乃來。書至,無點,景不至,又聞神武疾,遂擁兵自固。
○梁56侯景伝
 侯景字萬景,朔方人,或云雁門人。少而不羈,見憚鄉里。及長,驍勇有膂力,善騎射。...景性殘忍酷虐,馭軍嚴整;然破掠所得財寶,皆班賜將士,故咸為之用,所向多捷。總攬兵權,與神武相亞。魏以為司徒、南道行臺,擁眾十萬,專制河南。及神武疾篤,謂子澄曰:「侯景狡猾多計,反覆難知,我死後,必不為汝用。」
 ...景長不滿七尺,而眉目疏秀。
○南80侯景伝
 ...後為河南道大行臺,位司徒。又言於歡曰:「恨不得泰。請兵三萬,橫行天下;要須濟江縛取蕭衍老公,以作太平寺主。」歡壯其言,使擁兵十萬,專制河南,仗任若己之半體。
 景右足短,弓馬非其長,所在唯以智謀。時歡部將高昂、彭樂皆雄勇冠時,唯景常輕之,言「似豕突爾,勢何所至」。及將鎮河南,請于歡曰:「今握兵在遠,姦人易生詐偽,大王若賜以書,請異於他者。」許之。每與景書,別加微點,雖子弟弗之知。及歡疾篤,其世子澄矯書召之。景知偽,懼禍,因用王偉計。
 ...景長不滿七尺,長上短下,眉目疏秀,廣顙高顴,色赤少鬢,低眡屢顧,聲散,識者曰:「此謂豺狼之聲,故能食人,亦當為人所食。」
○梁56王偉伝
 王偉,陳留人,少有才學,景之表、啟、書、檄,皆其所製。
○南80王偉伝
 王偉,其先略陽人。父略,仕魏為許昌令,因居潁川。偉學通周易,雅高辭采,仕魏為行臺郎。

 ⑴河南大行台...通鑑には『河南大将軍・大行台』とある。
 ⑵弓や馬の扱いに不得手...梁書には『勇敢で膂力に優れ、騎射を得意とした』とある。今は通鑑の判断に従った。
 ⑶高敖曹...本名は昂。敖曹は字。501~538。天下一の馬上槍の使い手で『地上の虎』を自称し、人々からは項籍になぞらえられた。爾朱栄死後、兄弟と共に信都にて挙兵し、討伐に来た五千の兵をたった十余騎で撃破した。のち高歓に仕え、韓陵の戦いでは歓の危機を救う活躍を見せた。538年、河橋の戦いにて戦死した。
 ⑷彭楽...字は興。東魏の猛将。杜洛周→爾朱栄→韓楼→爾朱栄→高歓に仕えた。怪力の持ち主で、一丈六尺の矟を振るうことができた。韓陵の戦いでは先頭に立って爾朱氏の軍を大破したが、沙苑の戦いでは油断して重傷を負った。邙山では西魏軍を大破し、宇文泰をあと一歩という所まで追い詰めたが、欲に目が眩んでこれを逃した。歓に言いつけられてその息子たちに襲いかかり、その度胸を試したこともある。543年(1)参照。
 [1]太平寺...恐らく鄴にある寺であろう。
 ⑸司馬子如...字は遵業。時に57歳。四貴の一人で高歓の親友。口が達者で、爾朱栄に仕えると重用を受けた。爾朱氏が滅ぶと高歓に仕え、信任を頼みに好き勝手に振る舞った。高澄が密通事件を起こすと、その仲裁を行なった。539年参照。

┃遺言
 歓が澄にこう言った。
「わしが病気なこと以外に、何か心配事があるようだな?」
 澄が返答に詰まると、歓はこう言った。
「侯景が叛くかもしれないということを心配しているのだろう?」
 澄は答えて言った。
「その通りです。」
 歓は言った。
「景に河南の兵権を委ねてからもう十四年になる【天平元年(534)、歓は景に荊州を占拠させて以降、これに河南の兵権を委ねるようになった。すると本年まで十三年ということになって、一年合わない計算になる。この言葉は来春の臨終の際に発されたものであろう】。その間、景は常に勝手気ままにふるまった(飛揚跋扈)が、わしはこれを良く押さえることができた。しかし、お前では景を使いこなせぬだろう。〔そこで、わしが死んだ後のことについて言い残しておく。〕まず、今、天下は未だ治まっておらぬゆえ、喪を発してはならぬ(死を公表するな)。それから、厙狄干歓の妹の夫。歓に信頼され大軍の指揮を任された。河橋の戦いの際に一人退却する失態を演じ、邙山ではその挽回に躍起になった。544年参照は鮮卑の、斛律金は敕勒の長老で、共に剛直な人柄ゆえ、最後までお前に背かぬ。可朱渾道元元の字535年に西魏から東魏に寝返った。544年参照)と劉豊生豊の字)は遠方よりわしのもとに投じてきゆえ、必ず二心は無い。賀拔焉過兒仁? 紇豆陵歩蕃の侵攻の際、爾朱兆を助けるのをわざと遅らせるよう歓に提言した。530年〈5〉参照。仁なら538年に南汾州の攻略や盧仲礼の乱の平定に活躍している)は質朴な人柄ゆえ、過ちは犯さぬ。潘相楽潘楽。字は相貴。537年〈4〉参照)は有道の人で温厚な人柄ゆえ、お前たち兄弟は彼の力を得るべきだ。韓軌はやや愚図だがまあ大目に見てやってくれ。彭楽は裏がありすぎて信頼できぬ人物ゆえ、警戒しておけ。侯景になんとか渡り合えるのは、ただ慕容紹宗もと爾朱兆の腹心。歓に降ると高隆之と共に鄴の朝政を任され、のち韓雄の挙兵の平定や洛陽以東の奪取、劉烏黒の乱の平定に活躍した。544年参照)だけだが、わしはこれをわざと重用しなかった(紹宗は徐州刺史とはなったが、開府にも公にもなっていない)。お前はこれに深く礼を尽くして〔感激させ、それから〕、国家の大事を任せるのだぞ。」
 また、こう言った。
「忠義や仁義に厚く、智勇も兼ね備えているのは親戚の中でただ段孝先だけだ。軍事の重要なことを決める際は、これと相談してから決めるようにせよ。」
 また、こう言った。
「邙山の戦いの際、陳元康搴に代わる歓の秘書で、非常な信任を受けた。543年〈2〉参照)の言葉を聞かなかったばかりに、お前に面倒事を残してしまうことになった(邙山にて歓が泰に大勝した際、元康は徹底的な追撃を主張したが、疲労しきっていた歓はこれを断っていた)。これがただただ心残りで、死んでも目を閉じれぬ。お前は元康の言うことをよく聞くのだぞ。」

○北斉神武紀
 神武謂世子曰:「我雖疾,爾面更有餘憂色,何也?」世子未對。又問曰:「豈非憂侯景叛耶?」曰:「然。」神武曰:「景專制河南十四年矣,常有飛揚跋扈志,顧我能養,豈為汝駕御也!今四方未定,勿遽發哀。厙狄干 鮮卑老公,斛律金勑勒老公,並性遒直,終不負汝。可朱渾道元、劉豐生遠來投我,必無異心。賀拔焉過兒樸實無罪過。潘相樂本作道人,心和厚,汝兄弟當得其力。韓軌少戇,宜寬借之。彭相樂心腹難得,宜防護之。少堪敵侯景者唯有慕容紹宗,我故不貴之,留以與汝,宜深加殊禮,委以經略。」揚跋扈志,顧我能養,豈為汝駕御也!今四方未定,勿遽發哀。厙狄干鮮卑老公,斛律金勑勒老公,並性遒直,終不負汝。可朱渾道元、劉豐生遠來投我,必無異心。賀拔焉過兒樸實無罪過。潘相樂本作道人,心和厚,汝兄弟當得其力。韓軌少戇,宜寬借之。彭相樂心腹難得,宜防護之。少堪敵侯景者唯有慕容紹宗,我故不貴之,留以與汝,宜深加殊禮,委以經略。」
○北斉16段韶伝
 高祖疾甚,顧命世宗曰:「段孝先忠亮仁厚,智勇兼備,親戚之中,唯有此子,軍旅大事,宜共籌之。」
○北斉24・北55陳元康伝
 及高祖疾篤,謂世宗曰:「邙山之戰,不用元康之言,方貽汝患,以此為恨,死不瞑目。〔事皆當與元康定也。〕」


 547年に続く