●賀琛、武帝に意見す
 12月、東魏が司空の侯景滏口の戦いにて葛栄を捕らえて大いに武名を挙げ、のち高歓に河南の軍事権を委任された。544年参照)を司徒に、中書令の韓軌歓の側室の韓氏の兄。むかし泰州を治めた。535年〈1〉参照)を司空とした。
 戊子(14日)、太保の孫騰四貴の一人。歓に早くから従い、懐刀として活躍した。545年〈1〉参照を録尚書事とした《魏孝静紀》

 この冬、西魏が長安の南に円丘(天を祀るための円形の祭壇)を築いた《北史西魏文帝紀》

 このとき、梁の武帝時に82歳)は高齢となっていたため(南62賀琛伝)〔監督が行き届かず〕、巧言令色の奸人がはびこって人民を虐待するようになっていた。そこで散騎常侍・参礼儀事賀琛539年正月参照)が、四事の意見書を武帝に提出した(詳細な時期は不明)。
 一、「北方が臣服し【東魏と友好状態にあることを指す】、戦争が久しく行なわれていない今こそ、生聚教訓(国力充実)の絶好の機会【左伝哀公元年の伍子胥の言葉(『越が十年に渡って人民を殖やし〈生聚〉、十年に渡ってこれに教練を施せば〈教訓〉、二十年後に我が呉は沼地とされてしまうだろう』)を用いたもの】であります。しかし、この間、我が国の人口は逆に減少の一途を辿っています。これはまさに当今の喫緊の課題であります。この現象は新たに手に入れた華外の地【淮・汝・潼・泗などの新しく手に入れた地】において顕著なのでありますが、これは、当地の郡県が州郡からの取り立てに耐えられず、とにかくその要求に応えるために、政治の大基本である人民の生活安定を放棄し、搾取することだけに血道を上げた結果でありました。この搾取に人民は耐えられず、やむを得ず流民となり、豪族のもとや屯田の地(軍隊)に逃亡してしまったのです。しかし、これは新領の人民に対し税を軽減すれば済んだ話なのでありますから、単に牧守(州郡の長官)の過失として片付けることはできないでしょう! また、東境の地【三呉の地(呉・呉興・会稽の地味豊かな地)を指す】の人口減少は、全て頻繁な朝使の派遣に原因があります(朝廷が直接使者を地方に派遣し、臨時の徴税を行なう事を指す)。そもそも、夜に犬が吠えないような社会(盗賊がおらず、財産が守られた社会)こそ、安定した社会と言えるのです。今、徴税使の到着は、豊かな州郡県で十以上を数えますが、それは僻遠の地でも例外ではありません。普通は一回使者が来ただけでも大騒ぎになりますのに、それが次から次へと来るとなれば尚更です。無能な県の長官はこれにただただ従って領民の搾取されるのを眺め、狡猾な県の次官級たちはこれを機に重ねて寮民から収奪する始末で、時に県の長官次官に廉潔公平な者がいても、郡から干渉を受けてどうしようもなくなってしまうのです。当地の状況がこのようですから、陛下が毎年人民にもとの土地に戻るように詔を下し、しばしば租税労役を免除しても、効果が全く現れないのです。」(原文『今北邊稽服,戈甲解息,政是生聚教訓之時,而天下戶口減落,誠當今之急務。雖是處彫流,而關外彌甚,郡不堪州之控總,縣不堪郡之裒削,更相呼擾,莫得治其政術,惟以應赴徵斂為事。百姓不能堪命,各事流移,或依於大姓,或聚於屯封,蓋不獲已而竄亡,非樂之也。國家於關外賦稅蓋微,乃至年常租課,動致逋積,而民失安居,寧非牧守之過。東境戶口空虛,皆由使命繁數。夫犬不夜吠,故民得安居。今大邦大縣,舟舸銜命者,非惟十數;復窮幽之鄉,極遠之邑,亦皆必至。每有一使,屬所搔擾;況復煩擾積理,深為民害。駑困邑宰,則拱手聽其漁獵;桀黠長吏,又因之而為貪殘。縱有廉平,郡猶掣肘。故邑宰懷印,類無考績,細民棄業,流冗者多,雖年降復業之詔,屢下蠲賦之恩,而終不得反其居也。』
 二、「現在、天下の地方長官たちが貪欲にして民を虐げてやまぬのは、奢侈淫靡の風潮のせいであると考えます。現在の宴会というのは、己がいかに富裕であるかを競い合う場であり、丘のようにうず高く積んだ果物、艶やかな刺繍のように列を成した酒肴を用意するため、露台(バルコニー)を造れるほどの資産(露台の産。史記孝文紀曰く、『露台を造るには百金〈百万銭〉の費用がかかる。百金は中流家庭十軒の財産にあたる』)があっても、一回の宴会分の費用すら賄えないほどとなっています。しかし、そこまでして用意した食事も、一同が満足したところで廃棄されてしまうため、お開きとなる前から既に残飯の山と変わらぬ有り様となってしまうのです。また、現在は身分の高下に関わらず、みな妓女を囲い、誰も彼もが彼女たちを綺麗に着飾らせることに血道を上げています。これら一瞬の快楽を追い求める風潮が蔓延しているために、地方長官は人民たちを痛ぶり、収奪に勤しむのです。そしてその結果巨億の資産を手に入れても、職を離れるや数年も持たずにみんな使い尽くしてしまうのです。そしてそれを反省するどころか、かえって在任中にもっと稼いでおけば良かったと後悔し、再び長官の任に就けば、以前にも増して人民から搾取を行なうのです。朝廷がこのような輩を再任するのは、まこと道義にもとっております! 今挙げた宴会・舞楽以外に例をあげようとすれば、切りがありません。このような風潮が日増しに酷くなっているのに、官吏に清廉潔白で居るよう要求しても無駄でありましょう! ゆえに、ここは贅沢に厳しい制限を課し、これを守らぬ者に糾弾を加え、人々の耳目を一変させて倹約の方に導いていくべきだと考えます。そもそも節制せずに失敗することは人類共通の心配事であり、普通なら人は他人より節制できていないのを恥じ、自然とこれに努め励むものです【易水沢節三爻曰く、『節若たらざれば、則ち嗟若なり。咎めるもの無し。』象伝曰く、『節せざるの嗟きは、又た誰をか咎めんや!】。もし純朴を良しとする風潮にできれば、官吏たちの暴虐も自然と収まり、人民の流亡も無くなることでしょう。そもそも天下を良く治めた者は、率先して倹約を行なった者たちでありました。衰微の流れを抑えることができるのは、質素倹約の気風を作るほかにありません。」(原文『聖主恤隱之心,納隍之念,聞之遐邇,至於翾飛蠕動,猶且度脫,況在兆庶。而州郡無恤民之志,故天下顒顒,惟注仰於一人,誠所謂「愛之如父母,仰之如日月,敬之如鬼神,畏之如雷霆」。苟須應痛逗藥,豈可不治之哉?今天下宰守所以皆尚貪殘,罕有廉白者,良由風俗侈靡,使之然也。淫奢之弊,其事多端,粗舉二條,言其尤者。夫食方丈於前,所甘一味。今之燕喜,相競誇豪,積果如山岳,列肴同綺繡,露臺之產,不周一燕之資,而賓主之間,裁取滿腹,未及下堂,已同臭腐。又歌姬儛女,本有品制,二八之錫,良待和戎。今畜妓之夫,無有等秩,雖復庶賤微人,皆盛姬姜,務在貪污,爭飾羅綺。故為吏牧民者,競為剝削,雖致貲巨億,罷歸之日,不支數年,便已消散。蓋由宴醑所費,既破數家之產;歌謠之具,必俟千金之資。所費事等丘山,為歡止在俄頃。乃更追恨向所取之少,今所費之多。如復傅翼,增其搏噬,一何悖哉!其餘淫侈,著之凡百,習以成俗,日見滋甚,欲使人守廉隅,吏尚清白,安可得邪!今誠宜嚴為禁制,道之以節儉,貶黜雕飾,糾奏浮華,使眾皆知,變其耳目,改其好惡。夫失節之嗟,亦民所自患,正恥不及羣,故勉強而為之,苟力所不至,還受其弊矣。今若釐其風而正其失,易於反掌。夫論至治者,必以淳素為先,正彫流之弊,莫有過儉朴者也。』
 三、「〔むかし、〕陛下は常に四海のことを思いやり、そのためには激務を厭いませんでした。また、百官は次々と上奏を行ない、上司は部下を責めず、部下は上司の過失を言い立てませんでした。これこそまことに政道のあるべき姿でした。しかしやがてそこに斗筲(取るに足りない人物)・藻梲(分不相応の見栄っ張り)の類が現れ、詐術を用いて陛下に近づき、出世を企みました。彼らは法律を厳格に執行できるのを己が才幹とし、人の些細な過ちを糾弾して排斥するのを己が任務として、公明正大を看板に職場の綱紀を正しました。しかし、彼らが気にかけるのは枝葉の部分ばかりで大局ではなく、一見国に尽くしているように見える行動も、実際は己の権力固めのためのものでした。法を巧みにかいくぐる犯罪者が激増し、職務をないがしろにする官吏が増大したのは、彼らが原因なのです。どうか陛下は官吏登用の際、公心を持つ者を求め、姦佞な者を退けるようにしてくださいますよう。さすれば、天下の人心は落ち着き、予想外の災いも避けられましょう。」(原文『聖躬荷負蒼生以為任,弘濟四海以為心,不憚胼胝之勞,不辭癯瘦之苦,豈止日昃忘飢,夜分廢寢。至於百司,莫不奏事,上息責下之嫌,下無逼上之咎,斯實道邁百王,事超千載。但斗筲之人,藻梲之子,既得伏奏帷扆,便欲詭競求進,不說國之大體。不知當一官,處一職,貴使理其紊亂,匡其不及,心在明恕,事乃平章。但務吹毛求疵,擘肌分理,運挈缾之智,徼分外之求,以深刻為能,以繩逐為務,迹雖似於奉公,事更成其威福。犯罪者多,巧避滋甚,曠官廢職,長弊增姦,實由於此。今誠願責其公平之效,黜其讒愚之心,則下安上謐,無徼倖之患矣。』
 四、「北辺を征伐してより国庫は空っぽとなり、天下は泰平であっても、ゆとりのある日は一日もございません。ゆえに、ここはどうか事務を縮小して人民を休め、経費を節減して国庫を豊かにするように願います。朝廷の各役所は、それぞれの担当の部署―都の庁舎・官舎・公邸・店舗及び、儀礼道具・軍備、地方の屯所・駅舎・公邸・官衙など―を調査し、廃してもいい所があれば廃し、減らしてもいい所があれば減らすようにすべきであります。急ぐ必要の無い工事があれば、全て中止し、無駄な経費を節減して民を休めるようにすべきです。また、征討や徴税も、国の大事に関わることですが、時宜にかなったものかどうかよく見定めた上で、これをやめ、国費を節約し、人民を休めるべきであります。国庫に資金を蓄え、人民を休めるのは、のちの大事業に用いるためであります。もし小さな事に国費を使い、人民を使役すれば、いつまで経っても国庫は潤わず、人民は休まらず、永遠に富強を誇ることも、大事業を計画することもできなくなるでしょう。」(原文『自征伐北境,帑藏空虛。今天下無事,而猶日不暇給者,良有以也。夫國弊則省其事而息其費,事省則養民,費息則財聚,止五年之中,尚於無事,必能使國豐民阜。若積以歲月,斯乃范蠡滅吳之術,管仲霸齊之由。今應內省職掌,各檢其所部。凡京師治、署、邸、肆應所為,或十條宜省其五,或三條宜除其一;及國容、戎備,在昔應多,在今宜少。雖於後應多,即事未須,皆悉減省。應四方屯、傳、邸、治,或舊有,或無益,或妨民,有所宜除,除之;有所宜減,減之。凡厥興造,凡厥費財,有非急者,有役民者;又凡厥討召,凡厥徵求,雖關國計,權其事宜,皆須息費休民。不息費,則無以聚財;不休民,則無以聚力。故蓄其財者,所以大用之也;息其民者,所以大役之也。若言小事不足害財,則終年不息矣;以小役不足妨民,則終年不止矣。擾其民而欲求生聚殷阜,不可得矣。耗其財而務賦斂繁興,則姦詐盜竊彌生,是弊不息而其民不可使也,則難可以語富強而圖遠大矣。自普通以來,二十餘年,刑役荐起,民力彫流。今魏氏和親,疆場無警,若不及於此時大息四民,使之生聚,減省國費,令府庫蓄積,一旦異境有虞,關河可掃,則國弊民疲,安能振其遠略?事至方圖,知不及矣。』

●武帝の反駁
 この意見書が提出されると、武帝は激怒して主書(右筆)を呼び、勅書を口述筆記させたのち、それを琛に与えてこう責め立てた。
「朕が天下の主となってから四十余年(武帝が即位したのは502年)の間、直言の書状は毎日のごとく届けられたが、その述べる所は大体卿の書いたものと同じであった。朕はそのたびにこれを聞き入れようとしたのだが、激務に忙殺されてその暇が無かった。そんな時に、卿からも同種の直言の書状が届き、非常に困惑した次第である。卿は顕官の地位におり、博識な事で有名であるのだから、決して凡夫と同じ真似をしにこれを上奏したわけではあるまい。彼らは直言することが目的ではなく、ただ世間にこう自慢したいだけなのだ。『私は時事の得失について朝廷に意見したが、残念なことに受け入れられなかった。』と。あるいは『離世』のこの句を歌いたいのだ。『無人の荒野を自由に走り回りたいものだ。』(楚辞。原文『路蕩蕩其無人兮、遂不御乎千里。』)あるいは『老子』のこの句を歌いたいのだ。『私の言葉が分かる人が稀だからこそ、私は貴いのだ。』(70章。原文『知我者希、則我者貴。』)このような〔勝手に上奏して勝手に自己完結するだけの〕ものを直言と言うなら、誰もが立派な諌臣たり得る。卿はこのような輩とは違い、己の書いたことに責任を持ち、詳しく説明することができる人物である。どうか心を開いて隠し立てすることなく、朕の疑問に答えて、朕の心を満足させてほしい(原文『謇謇有聞,殊稱所期。但朕有天下四十餘年,公車讜言,見聞聽覽,所陳之事,與卿不異,常欲承用,無替懷抱,每苦倥偬,更增惛惑。卿珥貂紆組,博問洽聞,不宜同於闟茸,止取名字,宣之行路。言「我能上事,明言得失,恨朝廷之不能用」。或誦離騷「蕩蕩其無人,遂不御乎千里」。或誦老子「知我者希,則我貴矣」。如是獻替,莫不能言,正旦虎樽,皆其人也。卿可分別言事,啟乃心,沃朕心。』)。
 では、何がよく分からなかったか。
 まず、『某刺史が横暴、某太守が貪残、尚書・蘭台の某人が奸猾である』と述べているが、それは誰か? 卿が明言すれば、朕はそれを解任し、相応しいものを任用することができる(原文『卿云「今北邊稽服,政是生聚教訓之時,而民失安居,牧守之過」。朕無則哲之知,觸向多弊,四聰不開,四明不達,內省責躬,無處逃咎。堯為聖主,四凶在朝;況乎朕也,能無惡人?但大澤之中,有龍有蛇,縱不盡善,不容皆惡。卿可分明顯出:某刺史橫暴,某太守貪殘,某官長凶虐;尚書、蘭臺,主書、舍人,某人姦猾,某人取與,明言其事,得以黜陟。向令舜但聽公車上書,四凶終自不知,堯亦永為闇主。』)。
 次に、『東境の地の人口減少は、全て頻繁な朝使の派遣に原因があ』ると言うが、それを行なった使者は誰か? 『無能な県の長官はこれにただただ従って領民の搾取されるのを眺め、狡猾な県の次官級たちはこれを機に重ねて寮民から収奪する』と言うが、それらも誰か? また、『時に県の長官次官に廉潔公平な者がいても、郡から干渉を受けてどうしようもなくな』ると言うが、その干渉する人物も誰か? 朝廷は賢人を大切にするゆえ、そのように干渉するのはまことに不可解である。また、朝廷が使者を派遣するのは、人民の訴訟を解決するためであり、また、軍の食糧を確保するためであり、各地の急な要請に対応するためにやむを得ず行なわれたものであった。そもそも、使者を派遣しなければ天下の正不正を見分け、正すことができぬ。悪人が日に日にはびこり、善人が日に日に馬鹿を見るようになった天下など、到底治まりはせぬ。使者を遣わさずに天下が治まるなら、それに越したことはない。命令が足も翼も必要とせず、自然と天下に行き届けば、これほどもっけの幸いと言えるものは無い。卿は使者を遣わすなと大見得を切ったのだから、きっと何か妙案を持っているのだろう。才能という宝を抱きながら、国の危機を傍観するような真似(論語陽夏1に曰く、『其の宝を懐いて其の国を迷わすは、仁と言うべきか。』)は、決してしてはならぬぞ(原文『卿又云「東境戶口空虛,良由使命繁多」,但未知此是何使?卿云「駑困邑宰,則拱手聽其漁獵;桀黠長吏,又因之而為貪殘」,並何姓名?廉平掣肘,復是何人?朝廷思賢,有如飢渴,廉平掣肘,實為異事。宜速條聞,當更擢用。凡所遣使,多由民訟,或復軍糧,諸所飈急,蓋不獲已而遣之。若不遣使,天下枉直云何綜理?事實云何濟辦?惡人日滋,善人日蔽,欲求安臥,其可得乎!不遣使而得事理,此乃佳事。無足而行,無翼而飛,能到在所;不威而伏,豈不幸甚。卿既言之,應有深見,宜陳祕術,不可懷寶迷邦。』)。
 次に、『贅沢に厳しい制限を課し、これを守らぬ者に糾弾を加え、人々の耳目を一変させて倹約の方に導いていくべき』と言うが、彼らは迷路のような豪邸におり、派手な宴会をしているかどうかは一見分からぬし、もし捜査を行なって空振りに終われば、以降大人しく徴税に従わなくなるだろう。無理矢理徴税を行なえば、人心の動揺を招き、統治に支障をきたす。そのような事態は避けねばならぬ。また、もしこの文章が人民ではなく朝廷の事を指しているのだとすれば、それは誤りである。朕は祭祀のために使う家畜ですら殺さぬ【仏教を信じていたためである】ゆえ、宴会でも野菜しか出さぬからである。これに更に倹約を加えれば、蟋蟀の譏り(『詩経』唐風蟋蟀。礼にも当たらぬ、無意味でせせこましい倹約だと批判されている)を受けることになろう。また、もし朕の功徳関係の事を指しているのだとしても、それも誤りである。供え物【無遮会や無碍会にて仏や僧に供える物】は全て宮廷内の菜園で収穫した物であり、一つの瓜や一つの野菜をそれぞれ数十種の料理に変えているだけだからである。一つの瓜菜をこねくり回しても、食料の浪費には繋がらぬであろう! 朕は公式の宴会で無ければ公費で作られた料理は食べぬ。これは長らくの事である。これは宮廷内に住む者も一緒である。寺院の建立に関しても、人手に材官や国匠を用いず、私費で雇った人夫を用いている(原文『卿又云:守宰貪殘,皆由滋味過度。貪殘糜費,已如前答。漢文雖愛露臺之產,鄧通之錢布於天下,以此而治,朕無愧焉。若以下民飲食過差,亦復不然。天監之初,思之已甚。其勤力營產,則無不富饒;惰遊緩事,則家業貧窶。勤脩產業,以營盤案,自己營之,自己食之,何損於天下?無賴子弟,惰營產業,致於貧窶,無可施設,此何益於天下?且又意雖曰同富,富有不同:慳而富者,終不能設;奢而富者,於事何損?若使朝廷緩其刑,此事終不可斷;若急其制,則曲屋密房之中,云何可知?若家家搜檢,其細已甚,欲使吏不呼門,其可得乎?更相恐脅,以求財帛,足長禍萌,無益治道。若以此指朝廷,我無此事。昔之牲牢,久不宰殺,朝中會同,菜蔬而已,意粗得奢約之節。若復減此,必有蟋蟀之譏。若以為功德事者,皆是園中之所產育。功德之事,亦無多費,變一瓜為數十種,食一菜為數十味,不變瓜菜,亦無多種,以變故多,何損於事,亦豪芥不關國家。如得財如法而用,此不愧乎人。我自除公宴,不食國家之食,多歷年稔,乃至宮人,亦不食國家之食,積累歲月。凡所營造。不關材官,及以國匠,皆資雇借,以成其事。近之得財,頗有方便,民得其利,國得其利,我得其利,營諸功德。或以卿之心度我之心,故不能得知。所得財用,暴於天下,不得曲辭辯論。』)。
 次に、『地方長官は職を離れるや在任中にもっと稼いでおけば良かったと後悔し、再びその任に就くと、以前にも増して人民から搾取を行なう。朝廷がこのような輩を再任するのは、まこと道義にもとっている』と言っているが、人間は度胸の程度に差があるように、欲の程度にも差があるものだ。勇敢な者には攻撃を任せ、臆病な者には防御を任せるように、強欲な者に防衛を、廉潔な者に民政を任せるべきである。朝廷は貪欲な者の手助けをしたりはせぬ。卿は朝廷が道義にもとっていると言うが、自分の過ち(琛はがめつい性格で、賄賂を多く受け取り、既に豊かであったのに、更に公主の邸宅を買収して己の邸宅としたため、担当の役人に弾劾を受け、免職とされた事がある)には寛容である。まず己が道義にもとった理由をよく考えるべきではないか(原文『卿又云女妓越濫,此有司之責,雖然,亦有不同:貴者多畜妓樂,至於勳附若兩掖,亦復不聞家有二八,多畜女妓者。此並宜具言其人,當令有司振其霜豪。卿又云:「乃追恨所取為少,如復傅翼,增其搏噬,一何悖哉。」勇怯不同,貪廉各用,勇者可使進取,怯者可使守城,貪者可使捍禦,廉者可使牧民。向使叔齊守於西河,豈能濟事?吳起育民,必無成功。若使吳起而不重用,則西河之功廢。今之文武,亦復如此。取其搏噬之用,不能得不重更任,彼亦非為朝廷為之傅翼。卿以朝廷為悖,乃自甘之,當思致悖所以。』)!
 次に、『人々の耳目を一変させて倹約の方に導いていくべき』と言い、また『天下を良く治めた者は、率先して倹約を行なった者たち』と言っているが、これはまことに素晴らしい言葉である。孔夫子(孔子)も『其の身正しければ令せずして行なわる。其の身正しからざれば、令すと雖も従わず』と言っている。朕もこれを実行して、三十余年に渡って女人と接することをやめたし、寝室には寝台が一つあるだけで、飾り物一つとて置いていない。また、生まれてこのかた酒を飲まず、音楽も好まぬゆえ、朝廷の内々の宴で音楽を演奏させたことは一度も無い。これは諸君が知っていることである。また、朕は三更の時(午前0時頃)より政務を執り、処理するものが少なければ午前中、多ければ日没後に終え、そこで初めて食事を摂る。食事は病気のとき以外は一日一度で、それも昼か夜かは決まっていない。ゆえに、朕の腹回りはむかし十囲(五尺)以上もあったが、今は二尺余りにまで痩せ衰えてしまった。むかし使っていた腹帯がその証拠である。以上のような努力は一体何のためにしているのか? 民草を救うためである。書経に『股肱が人を成り立たせ、良臣が聖君を成り立たせる』(説命)とある。むかし朕には股肱の臣がいたため中程度の君主となることができたが、今は九品以下の存在となってしまっている。ゆえに『其の身正しければ令せずして行なわる』とは、虚言である。ゆえに、卿の言葉に応えることはできない(原文『卿云「宜導之以節儉」。又云「至治者必以淳素為先」。此言大善。夫子言「其身正,不令而行;其身不正,雖令不從」。朕絕房室三十餘年,無有淫佚。朕頗自計,不與女人同屋而寢,亦三十餘年。至於居處不過一牀之地,雕飾之物不入於宮,此亦人所共知。受生不飲酒,受生不好音聲,所以朝中曲宴,未嘗奏樂,此羣賢之所觀見。朕三更出理事,隨事多少,事少或中前得竟,或事多至日昃方得就食。日常一食,若晝若夜,無有定時。疾苦之日,或亦再食。昔要腹過於十圍,今之瘦削裁二尺餘,舊帶猶存,非為妄說。為誰為之?救物故也。書曰:「股肱惟人,良臣惟聖。」向使朕有股肱,故可得中主。今乃不免居九品之下,「不令而行」,徒虛言耳。卿今慊言,便罔知所答。』)。
 次に、『上奏を機に、詐術を用いて陛下に近づき、出世を企む者がいる』とあるが、これは誰のことを指しているのか? また、何を詐術と言うのか? いま官吏たちが上奏をせぬようになれば、誰がその任に当たるのか! 国事を任せられる人材をどうやって見抜けば良いのか? 古人は『ある一方の言葉だけを聞いて判断していると奸人を生み、一人だけを信任していると禍乱を生む。』と言ったとか【前漢の鄒陽の言葉である(史83鄒陽伝、原文『偏聽生姦,獨任成亂。』】。秦の二世皇帝が趙高のみを信任し、前漢の元后が王莽のみを信任した結果、どうなったか? その専横を招き、二世は望夷宮にて閻楽(趙高の娘婿)に自殺に追い込まれ(漢36劉向伝の言葉)、元后は王莽に禅譲を許すことになったのではないか(原文『卿又云「百司莫不奏事,詭競求進」。此又是誰?何者復是詭事?今不使外人呈事,於義可否?無人廢職,職可廢乎?職廢則人亂,人亂則國安乎?以咽廢飧,此之謂也。若斷呈事,誰尸其任?專委之人,云何可得?是故古人云:「專聽生姦,獨任成亂。」猶二世之委趙高,元后之付王莽。呼鹿為馬,卒有閻樂望夷之禍,王莽亦終移漢鼎。』)。
 次に、『人の些細な過ちを糾弾して排斥する』とあるが、これも誰の事を指しているのか? また、『庁舎・官舎・公邸・店舗などを調査し、廃してもいい所があれば廃し、減らしてもいい所があれば減らすようにすべきである』とあるが、一体何を廃し、何を減らせばいいのか? 儀礼道具・軍備の類も、何を省けばいいのか? 地方の屯所・駅舎も、どれが必要の無いものなのか? 急ぐ必要の無い工事とは何か? 無駄な経費とは何か? 征討や徴税についても同様である。国ができてよりこのかた、征討や徴税の無かったことはない。卿はこれ抜きにどうやって国を静謐にするのか。卿はもっと具体的に述べてほしい(原文『卿云「吹毛求疵」,復是何人所吹之疵?「擘肌分理」,復是何人乎?事及「深刻」「繩逐」,並復是誰?又云「治、署、邸、肆」,何者宜除?何者宜省?「國容戎備」,何者宜省?何者未須?「四方屯傳」,何者無益?何者妨民?何處興造而是役民?何處費財而是非急?若為「討召」?若為「徵賦」?朝廷從來無有此事,靜息之方復何者?宜各出其事,具以奏聞。』)!
 次に、『もし小さな事に国費を使い、人民を使役すれば、いつまで経っても国庫は潤わず、人民は休まらず、永遠に富強を誇ることも、大事業を計画することもできなくなる』とあるが、では人民を大いに使役している所はどこかと問いたい。また、国も民も疲れ切っていると言うが、その証拠はあるのかと問いたい。でたらめは許さぬぞ。もし答えることができたら、必ずや卿の富国強兵・息民省役・遠近号令の方法を実行しよう。そのためには、これらの具体的な方法も卿に述べてもらわなければならぬな! もし具体的に列挙できないのであれば、朝廷を欺いたという事になるぞ。卿が回答文を提出したなら、朕はこれを必ず読み、尚書に送付したのち、天下に頒布し、周の文王以来の美しき維新の再現を望むつもりでいる。」(原文『卿云「若不及於時大息其民,事至方圖,知無及也」。如卿此言。即時便是大役其民,是何處所?卿云「國弊民疲」,誠如卿言,終須出其事,不得空作漫語。夫能言之,必能行之。富國強兵之術,急民省役之宜,號令遠近之法,並宜具列。若不具列,則是欺罔朝廷,空示頰舌。凡人有為,先須內省,惟無瑕者,可以戮人。卿不得歷詆內外,而不極言其事。佇聞重奏,當復省覽,付之尚書,班下海內,庶亂羊永除,害馬長息,惟新之美,復見今日。』
 これに対し、琛は平謝りするばかりで、反論する事をしなかった《梁38賀琛伝》

●武帝老耄
 武帝は誰にも優しく慎み深い性格で、博学であり、優れた文章を書き、陰陽・卜筮・騎射、・草隸(書法)・囲碁に精通していた。政務に真摯に取り組み、冬でも四更(午前二時頃)には起きて筆を執るので、手にはアカギレができた。天監年間より仏教に帰依したため、魚肉を口に入れず、野菜と玄米だけを摂ったが、それも一日に一食だけであり、忙しい時などは水で口をゆすいだだけで一日を過ごした。衣服は布製の物を着用し、寝台の垂れ布(カーテン)は木綿でできた黒色の粗末な物を使用した。また、帽子は三年、布団は二年に渡って同じ物を使い続け、後宮に対しても、貴妃以下みな床にまで垂れる長い裳(スカート)を穿くこと、きらびやかな衣服を身に着けることを許さなかった。生来酒と音楽を好まず、宗廟の祭祀や大宴会、諸法事の時でさえ演奏をさせなかった。また、暗い部屋の中でも常に衣冠を正して椅子に腰掛け、盛夏の時でも肌脱ぎにならなかった。また、宮中の奴僕には国賓のような扱いで接した《梁武帝紀》
 しかし、士大夫層への取り締まりが寛大に過ぎたため、地方長官・朝廷の使者が郡県を搾取するのを看過した。また、小人を信任したため、些細な失敗が大きく糾弾される空気を醸成し、事なかれ主義の官吏をはびこらせた。また、仏塔を数多く建立し、公官民に負担をかけた。江南は久しく泰平を享受していたが、風俗は奢侈・頽廃に流れ〔、社会不安が増大していた。〕琛はこれを憂えて意見書を提出したのだが、余りに図星を突いていたために、武帝を激怒させてしまったのだった《出典不明》

 司馬光曰く…武帝が終わりを全うしなかったのは、当然である! そもそも君主が意見を聴く際、臣下が意見する際、些細なつまらぬことに拘ると失敗に陥るものである。それゆえ、明君は大要だけを抑えて国内を統治し、良臣は大略だけを述べて君主の非を正すのである。故に明君はその身を労せずして子々孫々にまで残る治績を挙げ、良臣は言葉少なくして国家に大きな利益をもたらしたのである。私が見るに、賀琛の意見はそこまで直接的なものではなかった。それなのに武帝はこれに激怒し、己の悪い所を弁護し、良い所を自慢した。また、貪虐な者の個人名や、無駄な経費の項目など、明らかに琛の答えにくい事をわざといちいち問い質して、二の句を告げなくさせたのである。武帝は自ら粗食に甘んじて倹約の美德を実践し、日没まで政務に取り組んで治績を挙げてきたことで、名君の条件を完備していると自負し、群臣の諫言など必要のないものと慢心していた。このような態度を取られると、琛よりも直接的な意見を出そうとする者がいても、みな尻込みしてしまうではないか! ここにおいて武帝は、奸佞な者が眼前にいても見抜くことができず、大きな失敗を犯してもそれに気づくことができず、結果名声を落として命を危険に晒し、国を滅ぼして祖先の祭祀を絶やし、千古の物笑いの種とされた。悲しいことである!(原文『臣光曰:梁高祖之不終也,宜哉!夫人主聽納之失,在於叢脞;人臣獻替之病,在於煩碎。是以明主守要道以御萬機之本,忠臣陳大體以格君心之非。故身不勞而收功遠,言至約而為益大也。觀夫賀琛之諫亦未至於切直,而高祖已赫然震怒,護其所短,矜其所長;詰貪暴之主名,問勞費之條目,困以難對之狀,責以必窮之辭。自以蔬食之儉為盛德,日昃之勤為至治,君道已備,無復可加,群臣箴規,舉不足聽。如此,則自餘切直之言過於琛者,誰敢進哉!由是奸佞居前而不見,大謀顛錯而不知,名辱身危,覆邦絕祀,為千古所閔笑,豈不哀哉!』

 武帝は上品な事を好み、刑獄の事について関心を持たなかったため、公卿大臣もこれに注意を払わなくなった。ゆえに、奸吏は権力を握ると、法を自分勝手に解釈して濫用し、人々から山のような賄賂を貪ることができた。
 この悪弊によって無実の罪を着せられた者は非常に多く、二年の徒刑以上とされた者は年に五千人を数えた。徒刑にかけられた者で、木の加工に長じた者は木工、金属の加工に長じた者は金工、皮の加工に長じた者は革工、染め物に長じた者は染工、陶芸に長じた者は陶工とされたが(五任)、何の取り柄も無い者は足に木の枷をはめられて牢屋に入れられた。ただ、病人は一時的に枷をつけられるのを免除されたため、ここから賄賂を看守に贈って病人ということにしてもらい、枷を逃れる者が現れた。一方、賄賂を贈れず、病気の身でも枷を免除されない者も現れた。
 当時、王侯の子弟の多くが贅沢や淫行に耽り、国法を犯していた。しかし、武帝は年老いてから政務に飽き、仏道にのめり込んで重刑を厭うようになっていたため、彼らの中から謀反を計画する者が現れても、涙を流してこれを赦してしまった。〔如臨賀王正德父子是也。〕これをいいことに王侯はますます傍若無人に振る舞い、白昼堂々街中で人を殺したり、夜間に公然と強盗を働いたり、逃げてきた罪人を家に匿ったりした。武帝はこのことをよく知っていたが、歪んだ愛情によってこれを抑え留めることができなかった《出典不明》

●瓜州乱る

 これより前、西魏の東陽王の元栄太栄?)は瓜州【 敦煌】刺史に任じられると(529年8月18日までの出来事)、娘婿の劉彦周36令狐整伝では『鄧彦』)を連れて任地に赴いた。のち栄が死ぬと、劉彦は瓜州の筆頭名士によって後継とされた栄の子の元康を殺し、刺史の座におさまってしまった。このとき西魏は四方に問題を抱えている時だったので、やむなくこれを認めた。彦はたびたびの召還要請に応じず、南方の吐谷渾と大河を挟んでよしみを通じ、叛逆を企んだ。宇文泰は瓜州が僻遠の地であることから、出兵よりも計略が適任だと考え、給事黄門侍郎の申徽を河西大使とし、彦の捕縛を命じた。
 徽は密命を受けるとただ五十騎のみを率いて瓜州に到り、その賓館(客舎)に居を構えた。彦は徽が少数の兵しか連れてこなかったのを見てなんの疑いも持たなかった。徽はまず彦の意志を測ろうとして、使者を遣わしてそれとなく朝廷に還るよう勧めさせたが、拒絶されると、また使者を派して逗留の許可を与えた。ここにきて彦は徽を全く信用し、賓館に足を運んだ。徽は州主簿で敦煌の人の令狐延・開府の張穆ら(周36令狐整伝)地元の豪族たちと事前に打ち合わせていた通りに、彦が座に就いた所で(出典不明)大喝一声、これをひっ捕らえた。彦が無実を訴えると、徽はこれを責め立てて言った。
「君は尺寸の功も無いのに妄りに刺史の重位に就いた。また、僻遠の地を頼みにして朝廷に背き、貢ぎ物を納めず、朝使を辱め、詔命を軽んじた。君の罪は誅殺を免れぬが、朝廷に身柄を送れとのご命令ゆえ、今やむなくその命を預け置く。刑罰を厳正に執行して、辺境の人民に〔生活を乱したことを〕謝罪できないのが残念だ。」
 徽がそこで官民及び彦の部下に罪は問わぬこと、大軍が続けてやってくることを言うと、城内に抵抗しようとする者はいなくなった。かくて彦の身柄を連れて長安に還ると、徽は〔その功により〕都官尚書に任じられた(大統十二年〈546〉より前の出来事)。また、令狐延も都督とされた(周36令狐整伝)。

◯魏孝荘紀
〔永安〕二年…八月…丁卯,封瓜州刺史元太榮為東陽王。
◯周32申徽伝
 先是,東陽王元榮為瓜州刺史,其女壻劉彥【[二]張森楷云:「令狐整傳卷三六『劉』作『鄧』。」按通鑑卷一五九四九三六頁也作「鄧」,冊府卷六五七七八七一頁作「劉」。未知孰是。】隨焉。及榮死,瓜州首望表榮子康為刺史,彥遂殺康而取其位。屬四方多難,朝廷不遑問罪,因授彥刺史。頻徵不奉詔,又南通吐谷渾,將圖叛逆。文帝難於動眾,欲以權略致之。乃以徽為河西大使,密令圖彥。徽輕以五十騎行,既至,止於賓館。彥見徽單使,不以為疑。徽乃遣一人微勸彥歸朝,以揣其意。彥不從。徽又使贊成其住計,彥便從之,遂來至館。徽先與瓜州豪右密謀執彥,遂叱而縛之。彥辭無罪。徽數之曰:「君無尺寸之功,濫居方嶽之重。恃遠背誕,不恭貢職,戮辱使人,輕忽詔命。計君之咎,實不容誅。但授詔之日,本令相送歸闕,所恨不得申明罰以謝邊遠耳。」於是宣詔慰勞吏人及彥所部,復云大軍續至,城內無敢動者。使還,遷都官尚書。

 ⑴宿白氏の《東陽王与建平公》曰く、『《金城郡軍 (王夫人) 華光墓志》曰く、『故金城郡軍,姓元,字華光,河南洛陽嘉平里人也。…瓜州榮之第二妹。…春秋三十七,孝昌元年九月癸卯朔十六日寅時寢疾,卒於家。』ここから推測するに、元栄が瓜州刺史とされたのは妹が死ぬ孝昌元年 (525) 九月十六日の前の事であろう。栄の死亡年は530年代後半~540年代前半の事だと思われる。

┃義理堅き能吏・申徽
 申徽は字を世儀といい、魏郡の人である。六世祖の申鐘は後趙の司徒となった。冉閔の治世の末に中原が乱れると、鐘の子の申邃は江東に避難し、曾祖父の申爽は宋に仕えて雍州刺史、祖父の申隆道は北兗州刺史にまで昇った。父の申明仁は郡功曹となったところで早くに亡くなった。
 徽は幼い頃から母と〔二人で?〕暮らし、孝養を尽くした。読書好きで思慮深く、むやみに交遊関係を広げようとしなかった。母が死に、その喪が開けると、北魏に帰順した。
 元顥が入洛して(529年元邃を東徐州刺史とすると、徽はその邃に起用されて主簿となった。顥が敗れると邃の故吏・賓客らはみな邃を見放したが、徽だけは邃が檻車に入れられて洛陽に送られていくのを見送った。のち邃は赦免されると、賓客や友人たちを大勢集めた席で、徽には古人の風格(昔の人のように純粋なこと)があると賛嘆した。徽は間もなく太尉府行参軍とされた。

 孝武帝の治世の初め(532年頃)、徽は洛陽にまた戦禍が訪れると考え、間道を通って関中に入り、宇文泰と会った。泰は言葉を交わす中で徽を優れた人物だと見抜き、上司の賀抜岳に推薦した。岳も徽に非常な敬意を払い、招いて賓客とした。泰が夏州刺史となると、徽はその記室参軍・兼府主簿とされた。泰は徽の落ち着いていて手抜かりがなく、度量の大きい所を評価し、〔岳に代わって大行台となると、〕大行台郎中とした。時に西魏は建国されたばかりで、幕府の事務は多岐にわたり、四方に文書や檄文を送ったが、その文章は全て徽によって書かれたものだった。孝武帝を奉迎した功によって博平県子・本州大中正とされた。大統の初め(535年)に侯に進み、四年(538年)に中書舍人とされて起居注の編纂を任された。河橋の戦い(538年)にて西魏軍が敗北した時、文帝の侍官たちの多くが離散したが、徽だけは帝の傍を離れなかったため、賛嘆を受けた。十年(544年)に給事黄門侍郎とされた。


◯周32申徽伝

 申徽字世儀,魏郡人也。六世祖鐘,為後趙司徒。冉閔末,中原喪亂,鐘子邃避地江左。曾祖爽仕宋,位雍州刺史。祖隆道,宋北兗州刺史。父明仁,郡功曹,早卒。徽少與母居,盡心孝養。及長,好經史。性審慎,不妄交遊。遭母憂,喪畢,乃歸於魏。元顥入洛,以元邃為東徐州刺史,邃引徽為主簿。顥敗,邃被檻車送洛陽,故吏賓客並委去,唯徽送之。及邃得免,乃廣集賓友,歎徽有古人風。尋除太尉府行參軍。孝武初,徽以洛陽兵難未已,遂間行入關見文帝。文帝與語,奇之,薦之於賀拔岳。岳亦雅相敬待,引為賓客。文帝臨夏州,以徽為記室參軍,兼府主簿。文帝察徽沉密有度量,每事信委之。乃為大行臺郎中。時軍國草創,幕府務殷,四方書檄,皆徽之辭也。以迎孝武功,封博平縣子,本州大中正。大統初,進爵為侯。四年,拜中書舍人,修起居注。河橋之役,大軍不利,近侍之官,分散者眾,徽獨不離左右。魏帝稱歎之。十年,遷給事黃門侍郎。


┃西州令望・令狐延
 令狐延は字を延保といい、敦煌の人である。令狐家は代々西方の第一人者の地位を占め、曾祖父の令狐嗣・祖父の令狐詔安は共に郡守となって良二千石(名太守)の評判を得た。父の令狐虬は早くから徳行を重ねて名声が高く、瓜州司馬・敦煌郡守・郢州刺史を歴任し、長城県子に封ぜられた(この時点でまだ存命)。

 延は幼い頃から聡明で、思慮深く器量があり、学問の深さ・騎射の腕前は河西の人々がこぞって太鼓判を押すほどであった。瓜州刺史の東陽王栄は延を招聘して己の主簿とし、盪寇将軍を加えた。延は立ち居振る舞いに気品があり、応答は流麗で、〔栄に〕謁見する時のやり取りは州府の人々の注目の的となった。栄は延の徳行・名望に優れた賢才と考え、あるとき部下にこう言った。

「令狐延保は西州に令名の高い、得難き人材である。州郡の職にかかずらわせるべきではない。ただ、人材も必ず地歩を固める時期があるものだから、私はこれから彼に事務の一切を任せて、自分はただ提出された書類に『承諾した』とだけ書くようにするつもりだ。」(原文『「令狐延保西州令望,方城重器,豈州郡之職所可縶維。但一日千里,必基武步,寡人當委以庶務,書諾而已。」』

 間もなく孝武帝が関中に西遷すると、河西の地は乱れたが、栄が延に防御の一切を任せると州内は平和となった《周36令狐整伝》



 546年に続く