[西魏:大統十年 東魏:武定二年 梁:大同十年]


┃李賁、皇帝を称す
 春、正月、交州叛民の李賁541年に梁に対して叛乱を起こした。543年〈2〉参照)が官軍に次々と勝利を博した事を以て、遂に交阯にて南越帝を自称し(後世これを李南帝と称す)、百官を置いて年号を天徳(通鑑では『大徳』)と改め、国家が万世に続くことを願って国号を『万春』と定めた。また、万寿殿を建てて朝賀の儀式を行なう場所とし、趙粛を太傅に、并韶范脩らを将軍や大臣とした。

○資治通鑑
 十年春正月,李賁【在越南北部】自稱越帝,置百官,改元德。
○梁武帝紀・南史梁武帝紀
 十年春正月,李賁於交阯竊位號,署置百官〔,年號天德〕。
○大越史記前李紀4
 甲子天德元年梁大同十年春正月,帝因勝敵,自稱南越帝,即位建元,置百官,建國號曰萬春,望社稷至萬世也。起萬壽殿以為朝會之所。以趙肅為太傅,并韶范脩等並拜將相官。

●劉烏黒の乱
 2月、丁卯(12日)、東魏徐州民の劉烏黒が叛乱を起こした(北斉20慕容紹宗伝では『梁人』とあり、『徐州に侵入した』とある)。東魏は行台の慕容紹宗もと爾朱兆の腹心。歓に降ると韓雄の平定や洛陽以東の奪取に活躍した。538年〈1〉参照)を派してこれを討伐させた《魏孝静紀》。紹宗が烏黒を大破すると、東魏は紹宗を徐州刺史に任じた。烏黒が残兵を集めて再び徐州を荒らし回ると、紹宗は密かにその徒党に寝返りの工作を行ない、数ヶ月後に烏黒を捕らえて殺害した《北斉20慕容紹宗伝》

 3月、癸巳(9日)、東魏の丞相の高歓時に49歳)が冀・定二州を巡視し、河北の人口の増減を調べたのち(出典不明)鄴に赴いて孝静帝時に21歳)に朝見した。歓は冬・春季に大旱魃があった事から、人民が延滞している租税を免除し、窮乏者に援助をし、死罪以下を赦すよう求めた。また、長寿の者にそれぞれ差をつけて名誉職を与えるよう求めた(原文『以冬春亢旱,請蠲懸責,賑窮乏,宥死罪以下。又請授老人板職各有差。』《北斉神武紀》
 
●蘭陵巡行
 甲午(10日)、梁の武帝時に81歳)が蘭陵(建康の東)に赴き、建陵(建寧陵? 武帝の母・張尚柔の陵墓)に参拝した。その間、太子綱531年参照)に建康の留守を任せた。
 辛丑(17日)、修陵(武帝の皇后・郗徽の陵墓)に参拝した(503年閏4月参照《梁武帝紀》

 丙午(22日)、東魏が開府儀同三司で元司徒の孫騰542年5月参照)を太保とした《魏孝静紀》

 己酉(25日)武帝が京口城(南徐州の治所。建康の東にある)の西にある北固山【北固山は三面を長江に囲まれ、数十丈の高さがあった。東晋の蔡謨はその上に楼を建て、軍需物資を蓄えた】に赴いた。その山頂にある北固楼は既に倒壊していたが、代わりに小さなあずまやが建てられていた。ただ、そこまでの道の幅が非常に狭かったため、武帝はこれに登る際、輦(てぐるま)から降りて歩いて行かざるを得なかった。そこで南徐州刺史の臨川王正義字は公威。武帝の弟宏の子)がその道を広くして両脇に欄楯(手すり)を設けると、その翌日、武帝は小さな輿を使って山頂に行くことができた。これに武帝は喜び、山頂に着くと、そこからの景色を長らく眺めたのちこう言った。
「この山は固く守るには物足りぬが、眺めはとても素晴らしい。」
 かくて北顧山と名を改めた。また、正義に束帛(十反の絹)を下賜した《南51蕭正義伝》
 庚戌(26日)、回賓亭を訪れ、酒宴に招いた鄉里の古老及び、道中の出迎えに来た者数千人にそれぞれ二千銭を与えた《梁武帝紀》

┃四貴と高澄の確執
 壬子(3月28日)、東魏が歓の世子で尚書令の高澄時に24歳)を大将軍・領中書監(魏孝静紀では侍中)とし、中書監の元弼を録尚書事とし、左僕射の司馬子如を尚書令とし、澄の弟で侍中で太原公の高洋時に19歳、543年〈2〉参照)を左僕射(魏孝静紀では右僕射)・領軍将軍とした。

 当時、殆ど晋陽にいる歓に代わって鄴の朝政を取り仕切っていたのは、孫騰歓に早くから従い、懐刀として活躍した。542年参照)・司馬子如歓の親友。歓が婁昭君・澄母子と仲違いした時、その間を取り持った)・高岳歓の従父弟。韓陵山の戦いに非常な活躍をした)・高隆之歓に可愛がられ、義弟とされた。542年参照)の四人だった。彼らはみな歓の親党(腹心)であり、鄴中から『四貴』と呼ばれた。彼らは絶大な権力を持ち、それを笠に専横・強欲の限りを尽くした。
 歓はその四貴の権力を弱めるために、澄を武の長官である大将軍と文の長官である中書監とし、更に門下省が司る機密事務を全て中書に移管して、文武官の賞罰を行なう際は、必ず澄に報告してから実施するようにさせたのだった。

 ある時、孫騰は澄に会った際、充分な敬意を払わなかった事があった。すると澄は騰を叱責し、左右に命じて自分の座っている牀(座具・寝具)の下にまで引っ張ってこさせ、刀環(刀の柄にある輪。刀の柄)で殴打したのち、門外に立たせた。
 また、高洋が澄の前で高隆之に拝礼し、これを叔父と呼んだ事があった。すると澄は怒って洋を罵倒した。
 歓は諸公にこう言った。
「我が息子は段々と成長してきた。公らはこれと争ってはならぬ。」
 これ以降、公卿以下は澄に会うと恐れおののくようになった。
 澄は叔母の夫〔で定州刺史〕の厙狄干歓の妹の夫。歓に信頼され大軍の指揮を任された)が定州より会いにやってきた時でさえも、門外に三日も立たせたのち、ようやく会うことを許した事があった。

○資治通鑑
 丞相歡多在晉陽,孫騰、司馬子如、高岳、高隆之,皆歡之親黨也,委以朝政,鄴中謂之四貴,其權勢熏灼中外,率多專恣驕貪。歡欲損奪其權,故以澄為大將軍、領中書監,移門下機事總歸中書【門下省眾事,侍中、給事中等掌之;今高歡移而總歸中書,所以重澄之權】,文武賞罰皆稟於澄。
 孫騰見澄,不肯盡敬,澄叱左右牽下於牀,築以刀環,立之門外。太原公洋於澄前拜高隆之,呼為叔父【隆之本洛陽人,歡命為弟,故洋以叔父呼之】;澄怒,罵之。歡謂群公曰:「兒子浸長,公宜避之。」於是公卿以下,見澄無不聳懼。狄干,澄姑之壻也【干娶歡妹】,自定州來謁,立於門外,三日乃得見。
○魏孝静紀
 壬子,以齊文襄王為大將軍,領侍中,其文武職事、賞罰眾典,詢稟之。中書監元弼為錄尚書,左僕射司馬子如為尚書令,以今上為右僕射。
○北斉文襄紀
 興和【[三]魏書卷一二、北史卷五孝靜帝紀,高澄為大將軍在武定二年五四四,距興和二年五四0四年。觀下文說高澄「奏吏部郎崔暹為御史中尉」,檢本書卷三0崔暹傳稱「武定初,遷御史中尉」,則這裏「興和」為「武定」之誤無疑。】二年,加大將軍,領中書監,仍攝吏部尚書。
○北斉文宣紀
 武定元年,加侍中。二年,轉尚書左僕射、領軍將軍。
○北斉18孫騰伝
 騰早依附高祖,契闊艱危,勤力恭謹,深見信待。及高祖置之魏朝,寄以心腹,遂志氣驕盈,與奪由己,求納財賄,不知紀極,生官死贈,非貨不行,餚藏銀器,盜為家物,親狎小人,專為聚斂。在鄴,與高岳、高隆之、司馬子如號為四貴,非法專恣,騰為甚焉。高祖屢加譴讓,終不悛改,朝野深非笑之。
○北斉39崔季舒伝
 文襄為中書監,移門下機事總歸中書。

 ⑴高隆之は高歓に義弟とされていた。故に洋は隆之の事を叔父(父の弟)と呼んだのである。

┃朕の乳母
 澄は孝静帝の左右に己の腹心を置くことを目論見、大将軍中兵参軍の崔季舒を中書侍郎とした。澄が帝に送る諫言や請願の上書は、ごちゃごちゃとして意図が分かりにくくなっていることがあったが、季舒がこれを分かりやすく書き直したので、帝は澄の言いたい事を察して対応する事が出来た。帝は澄父子へ返事を返す際、季舒と相談してから行なうのが常となった。帝はこう言った。
「崔中書は朕の乳母である。」
 季舒は、字を叔正といい、崔挺496年9月参照)の甥である。

 この月、梁の使節(散騎常侍の蕭確・通直常侍の陸緬?)が鄴に到着した《魏孝静紀》

 夏、4月、乙卯(1日)、梁の武帝が蘭陵より建康に帰還した(3月10日〜《梁武帝紀》

 5月、甲申朔(1日)、西魏の丞相の宇文泰時に38歳)が長安の朝廷に参内した《周文帝紀》

 甲午(11日)、東魏が散騎常侍の魏季景を梁に派遣した。季景は、魏收『魏書』の編纂者。536年参照)の族叔である《魏孝静紀》

○北斉31崔季舒伝
 崔季舒,字叔正,博陵安平人。父瑜之,魏鴻臚卿。季舒少孤,性明敏,涉獵經史,長於尺牘,有當世才具。年十七,為州主簿,為大將軍趙郡公琛所器重,言之於神武。神武親簡丞郎,補季舒大行臺都官郎中。文襄輔政,轉大將軍中兵參軍,甚見親寵。以魏帝左右,須置腹心,擢拜中書侍郎。文襄為中書監,移門下機事總歸中書,又季舒善音樂,故內伎亦通隸焉,內伎屬中書,自季舒始也。文襄每進書魏帝,有所諫請,或文辭繁雜,季舒輙修飾通之,得申勸戒而已。靜帝報答霸朝,恒與季舒論之,云:「崔中書是我妳母。」

●俗人宰相の転落
 梁の尚書令の何敬容539年正月参照)の妾に、費慧明という弟がいた。その慧明が夜に官米を盗んだ所、禁司に逮捕されて領軍府に送られた。敬容がそこで領軍将軍の河東王誉前太子蕭統の第二子。531年6月参照)に書簡を送って釈放を求めると、誉はこれに封をして武帝に上奏してしまった。帝はその内容を見るや激しく怒り、南司(御史台のこと。尚書省の南にあったことからそう呼ばれた)に罪状を取り調べさせた。御史中丞(御史台次官)の張綰張纉の弟。豫章内史として劉敬躬の乱の平定に大きく貢献した。542年参照)は、敬容が利己的な理由で帝を欺こうとしたことを問題にし、棄市の刑(打ち首にし、残った体を市中に晒す刑)に処するのが適当だと回答した《梁37何敬容伝》
 丁酉(14日)、武帝は特別に敬容の死を免じ(梁37何敬容伝)、処罰を免官に留めた《梁武帝紀》

 この日、東魏の太尉の広陽王湛元淵〈北魏末の大乱の平定に尽力した。526年9月参照〉の子)が亡くなった《魏孝静紀》

●盧子略の乱と陳覇先の登場

 これより前(542年12月)、梁の高州刺史の孫冏と新州刺史の盧子雄が交州叛賊の李賁の討伐に赴いたが敗北を喫した。その原因は広州刺史の新渝侯暎字は文明。武帝の弟の始興王憺の子。542年参照)と武林侯諮字は世恭。武帝の弟の鄱陽王恢の子。交州にて苛政を行ない、李賁の乱を招いた。542年参照)の無理な進軍要求によるものだったが、二人は敗戦の責任を二人に取らせ、自害させた。
 子雄の軍の主帥で広陵の人の杜天合は、子雄の私兵たちにこう言った。
「盧公は数代に渡って我らを非常に厚遇してくださった。その盧公が冤罪によって亡くなられた今、その無念を晴らさねば男ではないだろう。我が弟の僧明(杜僧明、時に36歳)は一万人を相手にすることができる。〔これの力を借りて〕州城を包囲しよう。城内に内応を誘えば、きっと誰もが我らの味方をする。城を陥としたら、二侯の首を斬って孫・盧二公の墓前に供え、しかるのちに朝廷の使者を迎え入れ、廷尉の裁きに唯々諾々と従う。それで死刑になったとしても、その死は生の何倍も価値があろう。仇討ちが失敗しても、心残りは無い。」
 兵士たちは心を昂ぶらせて言った。
「これぞ我らの悲願なり! みな貴殿の命に従いましょう!」
 この月、天合は新安の人の周文育時に36歳)らと共に誓いの血をすすり、子雄の弟の盧子略を大将に戴くと、遂に兵を挙げて南江督護の沈顗を捕らえ、暎のいる広州城に進軍した(資治通鑑は542年の事とする。根拠は不明)。子略が城の南から、天合が北から、僧明・文育が東西から州城を昼夜に渡って攻め立てると、官民は一斉にこれに応じ、盧軍はわずか一日の間にたちまち数万の兵に膨れ上がった。
 このとき西江督護・高要(広州城の西)太守で吳興の人の陳覇先生年503、時に42歳)が軽装の精兵三千を率いて直ちに広州の救援に赴き【蕭子顕(梁の歴史家。『南斉書』を編纂した)曰く、『広州は西部と南部に二つの大江があり、交通に難があるので、特別に督護を置いて軍事を委任した。】、次々と盧軍を撃破した。天合は戦いの最中に流れ矢に当たって死に、僧明・文育らは生け捕りにされた。覇先は僧明・文育の人並み外れた勇猛さに惚れ込み、死を免じて主帥とした。
 梁は広州に恩赦を下した。武帝は覇先の鮮やかな手並みに非常に感嘆し、覇先を直閤将軍・新安県子とすると共に、絵師を派遣して肖像画を書かせ、それを見た。

○南史梁武帝紀
 五月,廣州人盧子略反,刺史新渝侯映討平之。詔曲赦廣州。
○陳武帝紀
 子雄弟子略與冏子姪及其主帥杜天合、杜僧明共舉兵,執南江督護沈顗,進寇廣州,晝夜苦攻,州中震恐。高祖率精兵三千,卷甲兼行以救之,頻戰屢捷,天合中流矢死,賊眾大潰,僧明遂降。梁武帝深歎異焉,授直閤將軍,封新安子,邑三百戶,仍遣畫工圖高祖容貌而觀之。
○陳8杜僧明伝
 子雄弟子略、子烈竝雄豪任俠,家屬在南江。天合謀於眾曰:「盧公累代待遇我等亦甚厚矣,今見枉而死,不能為報,非丈夫也。我弟僧明萬人之敵,若圍州城,召百姓,誰敢不從。城破,斬二侯祭孫、盧,然後待臺使至,束手詣廷尉,死猶勝生。縱其不捷,亦無恨矣。」眾咸慷慨曰「是願也,唯足下命之」。乃與周文育等率眾結盟,奉子雄弟子略為主,以攻刺史蕭映。子略頓城南,天合頓城北,僧明、文育分據東西,吏人竝應之,一日之中,眾至數萬。高祖時在高要,聞事起,率眾來討,大破之,殺天合,生擒僧明及文育等,高祖竝釋之,引為主帥。

●太陽を呑んだ男
 陳覇先は字を興国、幼名を法生といい、呉興郡(建康と会稽の中間)長城県下若里の人である。非常に微賤な家(土豪?)の生まれだったが、後漢の太丘長の陳寔の後裔を自称した。
 その家譜によれば、寔の子孫の陳達が永嘉年間(307~313)に南遷し、長城令に任じられるとその自然を気に入ってそこに居を構えるようになった。ある時、達は親しい者にこう語った。
「この地は山川が非常に美しく、帝王が現れるべき場所である。我が子孫は二百年後に必ずその機会に巡り合うだろう。」
 達の息子の康の代に、咸和(326~334)の土断によって長城の戸籍に編入された、という。
 覇先は若くして人並外れた才気を有し、文武に優れ、高い志を抱いて農業に従事しようとしなかった。成人すると史書や兵書を読むのを好んだ。また、吉凶の占いや武芸の多くを得意とした。また、物事の道理に通じて決断力があったため、衆人から尊敬の対象となった。身長は七尺五寸あり、龍の角のように額の左右がわずかに隆起していて(原文『日角龍顔』)、手を下げれば膝まで届いた。ある日、義興に遊んで許氏という者の家で眠った際、数丈に渡って開いた天から赤装束の四人が現れ、持っていた太陽を口に入れられる夢を見た。はっとして目を覚ますと、お腹の中は太陽を呑んだかのように熱かった。覇先はこれを〔瑞兆として〕密かに喜んだ。
 初め郷の役所に出仕して里司となり、のち上京して油庫吏となった。のち新渝侯暎の伝教(伝令係?)とされると、真摯に働いて暎に褒められた。大同元年(535)、暎が呉興太守となると非常な重用を受けた。暎はある時、属吏にこう言った。
「覇先はきっと自分より偉くなるだろう。」
 暎が広州刺史となると中直兵参軍とされた。覇先はそこで募兵の指示を受けて千人の兵を集めた。また、宋隆郡を監督するように命じられると、その管内で朝廷に反抗的だった安化など二県(『所部安化二県元不賓』)を討った。間もなく西江督護・高要太守に任じられた。

○陳武帝紀・南史陳武帝紀
 高祖武皇帝諱霸先,字興國,小字法生,吳興長城下若里人,〔其本甚微,自云〕漢太丘長陳寔之後也。世居潁川。寔玄孫準,晉太尉。準生匡,匡生達,永嘉南遷,為丞相掾,歷太子洗馬,出為長城令,悅其山水,遂家焉。嘗謂所親曰:「此地山川秀麗,當有王者興,二百年後,我子孫必鍾斯運。」達生康,復為丞相掾,咸和中土斷,故為長城人。康生盱眙太守英,英生尚書郎公弼,公弼生步兵校尉鼎,鼎生散騎侍郎高,高生懷安令詠,詠生安成太守猛,猛生太常卿道巨,道巨生皇考文讚。
 高祖以梁天監二年癸未歲生。少俶儻有大志,〔長於謀略,意氣雄傑,〕不治生產。既長,〔涉獵史籍,〕讀兵書,〔明緯候、孤虛、遁甲之術,〕多武藝,明達果斷,為當時所推服。身長七尺五寸,日角龍顏,垂手過膝。嘗遊義興,館於許氏,夜夢天開數丈,有四人朱衣,捧日而至,令高祖開口納焉,及覺,腹中猶熱,高祖心獨負(喜)之。
〔初仕鄉為里司,後至建鄴為油庫吏,徙為新喻侯蕭映傳教,勤於其事,為映所賞。〕大同初,新喻侯蕭暎為吳興太守,甚重高祖,嘗目高祖謂僚佐曰:「此人方將遠大〔,必勝於我〕。」及暎為廣州刺史,高祖為中直兵參軍,隨府之鎮。暎令高祖招集士馬,眾至千人,仍命高祖監宋隆郡。所部安化二縣元不賓,高祖討平之。尋監西江督護、高要郡守。

●万人敵・杜僧明
 杜僧明は字を弘照といい、広陵郡臨沢県の人である。体つきは小さかったが、度胸の強さと武勇は人並み外れ、騎射を得意とした。大同年間(535~)に盧安興が広州南江督護となると、僧明は兄の杜天合周文育と共にこれに付き従い、俚獠(中国南部の原住民)の討伐にて幾度も戦功を立て、新州助防とされた。天合も戦の才能があったので、討伐に加わった。安興が死ぬと、僧明はその子の盧子雄の部下となった。

○陳8杜僧明伝
 杜僧明字弘照,廣陵臨澤人也。形皃眇小,而膽氣過人,有勇力,善騎射。梁大同中,盧安興為廣州南江督護,僧明與兄天合及周文育竝為安興所啟,請與俱行。頻征俚獠有功,為新州助防。天合亦有材幹,預在征伐。安興死,僧明復副其子子雄。

●勇冠軍中・周文育
 周文育は字を景徳といい、新安郡寿昌県(会稽の西南)の人である。本名は項猛奴といった。幼くして父親を亡くし、貧困の中で育った。十一歳の時には水の中を数里先まで潜って帰ってくることができ、また、跳躍すれば五・六尺を跳ぶことができた。遊び仲間の中でこれに敵う者は誰もいなかった。のち、義興郡陽羨県の人の周薈が浦口戍主に任じられて寿昌県にやってくると、猛奴は〔その優れた体格を〕目に留められ、呼ばれてこれと話をした。猛奴は答えて言った。
「母は老齢で家は貧しく、兄や姉がみな成人しても、賦役(租税や力役)に苦しむ有り様です。」
 同情した薈は、猛奴と共に猛奴の家に行くと、猛奴の母に文育を引き取って養子にすることを求め、許可された。任期が満了となると、薈は猛奴と共に建康に還り、太子詹事の周捨に会って猛奴に良い名前と字を付けてくれるよう求めた。捨はそこで猛奴に文育の名と景徳の字を付け、兄の子の周弘譲に読み書きと計算を教えさせた。字が達者だった弘譲は蔡邕後漢の大学者)の《勧学》と古詩を書き写して文育に与えたが、文育はこれを読まず、弘譲にこう言った。
「誰がこんなものを学びましょう。富貴を取る道はただ一つ、槍働きだけであります!」
 弘譲がその心意気を気に入り、騎射を教えると、文育は大いに喜んだ。
 司州刺史の陳慶之は薈と同じ郡の生まれで、親交があったので、薈を配下とし、前軍軍主に任じた。ある時、慶之は薈に五百の兵を与え、新蔡郡懸瓠県にいる白水蛮たちの説得に赴かせた。薈は蛮人が自分を捕らえて北魏に付こうとしているのを事前に察知すると、文育と共にこれと戦った。この時、蛮人の軍勢は薈軍よりも非常に多く、一日の内に数十回も戦いを挑んできた。文育は先鋒を務めて敵部隊を撃退し、軍中一の勇猛さを示した。薈が戦死すると、文育は急いでそのもとに駆けつけ、遺体を回収した。蛮人は〔その気迫を恐れ、〕妨害しなかった。夕方になると、両軍は共に帰路に着いた。文育は身に九つの傷を受けていた。傷が癒えると陳慶之のもとに赴き、薈の埋葬に行く許可を求めた。慶之はその節義に感じ入り、手厚い供物をこれに贈った。
 葬儀が終わると、ちょうど南江督護となった盧安興に招かれて同行した。俚獠族の討伐に参加すると必ず戦功を挙げ、その功によって南海令とされた。

○陳8周文育伝
 周文育字景德,義興陽羨人也。少孤貧,本居新安壽昌縣,姓項氏,名猛奴。年十一,能反覆游水中數里,跳高五六尺,與羣兒聚戲,眾莫能及。義興人周薈為壽昌浦口戍主,見而奇之,因召與語。文育對曰:「母老家貧,兄姊並長大,困於賦役。」薈哀之,乃隨文育至家,就其母請文育養為己子,母遂與之。及薈秩滿,與文育還都,見於太子詹事周捨,請製名字,捨因為立名文育,字景德。命兄子弘讓教之書計。弘讓善隸書,寫蔡邕勸學及古詩以遺文育,文育不之省也,謂弘讓曰:「誰能學此,取富貴但有大槊耳。」弘讓壯之,教之騎射,文育大悅。
 司州刺史陳慶之與薈同郡,素相善,啟薈為前軍軍主。慶之使薈將五百人往新蔡懸瓠,慰勞白水蠻,蠻謀執薈以入魏,事覺,薈與文育拒之。時賊徒甚盛,一日之中戰數十合,文育前鋒陷陣,勇冠軍中。薈於陣戰死,文育馳取其尸,賊不敢逼。及夕,各引去。文育身被九創,創愈,辭請還葬,慶之壯其節,厚加賵遺而遣之。
 葬訖,會盧安興為南江督護,啟文育同行。累征俚獠,所在有功,除南海令。安興死後,文育與杜僧明攻廣州,為高祖所敗,高祖赦之,語在僧明傳。

 ⑴周捨...字は昇逸。469~524。政治家・文学者。二十余年に渡って機密を司った。

●賀抜勝の死
 これより前、西魏の太師の賀抜勝は関中に入るさい子どもたちを東魏に残していたが、邙山の戦いの後、彼らは高歓によって皆殺しにされてしまった【邙山の戦いの際に勝に殺されそうになった事に報復したのである】。勝はこれを聞くや、怒りの余り病気になった(543年の事)。
 この月、勝は死去した(北史西魏文帝紀)。臨終の際、勝は自筆の遺書を泰に預けていた。その内容は以下のようなものだった。
『勝は万里の彼方からこの地にたどり着き、公と共に賊を掃除したく思っておりましたが、
今、不幸にもその志半ばで倒れることになりました。公よ、どうか内に対しては協和を尊び、外に対しては機を見て動かれますように。もし死者に知覚がございますなら、勝はなおも魂を賊のもとに飛ばし、恩遇に報いるつもりでおります。』
 泰はこれを読むと、暫くの間涙を流した。

 勝の生前、泰はよくこう言っていた。

「敵と対する時、諸将はみな緊張しているが、賀抜公だけは平然としている。真の勇者である。」

 勝は重職に座るようになってから読書を好むようになり、学者を呼んではその内容について討論するようになった。さっぱりとした人柄で、義理を重んじて財貨を軽んじ、死去するに及んで、家には愛用の武器と千余巻の書物しか残さなかった。

 朝廷は勝に定冀等十州諸軍事・定州刺史・太宰・録尚書事を追贈し、貞献公の諡号を与えた。

 勝には子が無かったため、弟の賀抜岳の子の仲華がその跡を継いだ《周14賀抜勝伝》


 令狐徳棻曰く…賀抜勝は、優れた武勇と知略を用いて、乱世の到来の際にその時流に乗って大きく武功を立てた。初め爾朱氏に、次いで高氏に仕え、太昌(532年)ののちには孝武帝に仕えて高氏と敵対したが、その動機から察するに、節義の士とは決して言えなかった。ただ、魏室の危機を心配して江東から関西に舞い戻ったことや、梁朝から受けた厚遇を忘れなかったことは、まことに長者(徳行を備えた者)の風があった。勝が終わりをよく全うできたのは、実にこのためであった。



 544年(2)に続く