[西魏:大統七年 東魏:興和三年 梁:大同七年]

●如願の隴右統治と宕昌羌の乱

 春、正月、辛巳(9日)梁の武帝時に78歳)が南郊にて天を祀り、大赦を行なった。
 辛丑(29日)、明堂にて祖先の祭祀を執り行なった《梁武帝紀》

 これより前、独孤如願は侯景の荊州侵攻を撃退し、三荊大使とされていた(540年)が、間もなく隴右十州大都督(北史では十一州)・秦州(治 天水)刺史とされた。秦州は長官に闇弱な者が多かったため、政治は乱れ、民が訴えを起こしても何年も解決されない状態が続いていた。しかし如願が赴任すると、一切が滞りなく行なわれるようになった。如願は州民に儒教の教育や農業の振興・奨励を行ない、数年の内に官民を富裕と為した。この善政を聞きつけて秦州にやってくる流民は数万家にも及んだ。西魏の丞相の宇文泰時に35歳)は如願の信義を旨とする政治が遠近に知れ渡っているのを以て、如願に『信』の名を与えた(以下、独孤信と称す《周16独孤信伝》
 この年、西魏の岷州(秦州の西)刺史・要安蛮王(独孤信伝では『赤水蛮王』)で宕昌(秦州の西南、漢中の西)羌の王の梁仚定535年〈2〉参照)が西魏に叛乱を起こした。西魏は信(如願)にその討伐を命じた。仚定は信と戦う前に配下に殺され、仚定の弟の梁弥定梁54宕昌国伝では『子』の『弥泰』)が軍を引き継いだ《周49宕昌羌伝》

 2月、甲辰(2日)、阿至羅国の出吐抜那渾吐抜那渾? 出吐抜那渾大?)が多くの部衆を引き連れて東魏に降った《魏孝静紀》
 乙巳(3日)、梁は行宕昌王の梁弥定を平西将軍・河・梁二州刺史とし、正式に宕昌王に封じた。
 辛亥(9日)武帝が藉田を耕す儀式を行なった
 丁巳(15日)、中領軍の鄱陽王範武帝の異母弟、鄱陽忠烈王恢の子。以前益州刺史を担任していた。535年〈2〉参照)を使持節・都督雍梁東益南北秦五州(北西部)諸軍事・鎮北将軍・雍州刺史とした《梁武帝紀》
 
●順陽王仲景の死
 この月、西魏の幽州(豳州?)刺史の順陽王仲景東魏の汝陽王暹の兄)が州にて内乱を多発させた事で(北17元仲景伝)死を賜った《北史西魏文帝伝》
 仲景は峻厳な性格の持ち主で、孝荘帝の時には兼御史中尉として洛陽の綱紀を粛然とさせた。また、常に赤い牛に乗って役所に出勤したため、『赤牛中尉』と呼ばれた。のち太昌元年(532年)に河南尹とされると、私情を挟まずに全て法に則って職務に当たった《魏19元仲景伝》

●劉平伏の乱
 3月己酉(13日)、東魏梁州(治所 大梁)民の公孫貴賓が徒党を集めて叛乱を起こし、天王を自称した。陽夏鎮将がこれを討伐して虜とした《魏孝静紀》

 この月、西魏の夏州刺史で稽胡帥の劉平伏が上郡(今の延安の西南?)にて叛乱を起こした。泰は開府・大丞相府長史の于謹に開府・東西北三夏州諸軍事・夏州刺史の怡峯河橋の戦いの際、李遠と共に先んじて退却し全軍の崩壊を招いたが、罪に問われなかった)、開府の侯莫陳崇河橋で随一の戦功を立てた。むかし群雄の一人の万俟醜奴を単騎馬上にて捕らえたことがある)、梁椿梁台、大都督・北華州刺史の豆盧寧字は永安、もと慕容氏。侯莫陳悦を見限り、宇文泰に付いた。534年〈2〉参照)、帥都督の厙狄昌、徐州刺史(名目上)の陸通趙青雀討に大いに貢献した)らを率いて討伐するように命じた。于謹はこれを平定することに成功し、梁椿は別帥の劉持塞を捕らえた。
 于謹は大都督・恒并燕肆雲五州諸軍事・大将軍・恒州刺史とされた。
 陸通は大都督とされた。

○周文帝紀
 七年春三月,稽胡帥、夏州刺史劉平伏據上郡叛,遣開府于謹討平之。
○周15于謹伝
 拜大丞相府長史,兼大行臺尚書。稽胡帥夏州刺史劉平叛,謹率眾討平之。
○周16侯莫陳崇伝
 七年,稽胡反,崇率眾討平之。
○周17怡峯伝
 拜東西北三夏州諸軍事、夏州刺史。後與于謹討劉平伏。
○周19豆盧寧伝
 七年,從于謹破稽胡帥劉平伏於上郡。
○周27厙狄昌伝
 後與于謹破胡賊劉平伏於上郡,授馮翊郡守。
○周27梁椿伝
 七年,從于謹討稽胡劉平伏,椿擒其別帥劉持塞。
○周27梁台伝
 復與于謹破劉平伏。
○周32陸通伝
 與于謹討劉平伏,加大都督。
○周49稽胡伝
 七年,別帥夏州刺史劉平伏又據上郡反。

●蘭陵長公主の輿入れ
 夏、4月、戊申(7日)、阿至羅国主の副伏羅越居の子の去賓が東魏に降り、高車王に封ぜられた。

 この日、東魏の使者の崔長謙らが建康に到着した(去年の12月12日に出発していた)。梁は報答の使者として兼散騎常侍の明少遐を東魏に派遣した。

 この月、柔然の吐豆発の郁久閭譬渾と俟利の莫何折豆渾侯煩らが千頭の馬を結納品として東魏に献上し、蘭陵長公主常山王騭の妹)の輿入れを求めた。東魏は詔を下し、兼宗正卿の元寿と兼太常卿の孟韶らに公主を晋陽から護送するよう命じた。嫁入り道具は高歓自らが手配したが、それらはどれも豪華な物ばかりだった。柔然は吐豆発の郁久閭匿伏と俟利の阿夷普掘・蒱提棄之伏らを新城()の南に派し、公主を出迎えさせた。
 5月高歓が北境を巡視し、柔然に通好を求める使者を送った。

 6月、乙丑(25日)明少遐字は処黙)と通直郎の謝藻が鄴に到着した。

 この月高歓は、公主の輿入れが重要な国事であることから、自ら楼煩の北まで出向いて公主や柔然の使者たちを見送った。その間、柔然の使者全員に常に手厚い接待を行なった(歓自らの見送りは、叛服常無い柔然の機嫌を取るためという切実な理由もあった)。
 この時、魏収が《出塞》と《公主遠嫁》の詩二首を作り、それを倉曹参軍の祖珽らが唱和した。この二首は当時大いに人気を博した。
 公主が来ると頭兵可汗は大いに喜び、以後間断なく東魏に使者を送るようになった。

○魏孝静紀
 夏四月戊申,阿至羅國主副伏羅越居子去賓來降,封為高車王。六月乙丑,蕭衍遣使朝貢。秋七月,齊文襄王如晉陽。己卯,宜陽王景植薨。八月甲子,遣兼散騎常侍李騫使于蕭衍。
○北斉神武紀
 三年五月,神武巡北境,使使與蠕蠕通和。
○南史梁武紀
 夏四月戊申,東魏人來聘,遣兼散騎常侍明少遐報聘。
○魏98島夷蕭衍伝
 三年夏,又遣散騎常侍明少遐、通直郎謝藻朝貢。
○北斉39祖珽伝
 時神武送魏蘭陵公主出塞嫁蠕蠕,魏收賦出塞及公主遠嫁詩二首,珽皆和之,大為時人傳詠。
○北98蠕蠕伝
 三年四月,阿那瓌遣吐豆登(発)郁久閭譬渾、俟利莫何折豆渾侯煩等奉馬千疋,以為聘禮,請迎公主。詔兼宗正卿元壽、兼太常卿孟韶等送公主自晉陽北邁,資用器物,齊神武親自經紀,咸出豐渥。阿那瓌遣其吐豆登郁久閭匿伏、俟利阿夷普掘、蒱提棄之伏等迎公主於新城之南。六月,齊神武慮阿那瓌難信,又以國事加重,躬送公主於樓煩之北,接勞其使,每皆隆厚。阿那瓌大喜,自是朝貢東魏相尋。

 楼煩...《元和郡県図志》曰く、『静楽県の北一百五十里に楼煩関がある。』《読史方輿紀要》曰く、『太原府(晋陽)の西北二百二十里→静楽県の南七十里にある。』また曰く、『代州(晋陽と平城の中間)の西南六十里→崞県の東十五里にある。雁門郡原平県にある。故城は崞県の東北にある。
 ⑵魏収...字は伯起。魏子建の子。名文家。若い頃は武芸で身を立てようとした。

●祖珽の登場
 祖珽は字を孝徴といい、幽州范陽郡遒県の人である。父は北魏の護軍将軍の祖瑩名文家。神童と謳われた)。
 珽は頭の回転が早く、雄健で優れた文章を書き、若年の頃から令名を馳せて一目置かれる存在となった。出仕して秘書郎となり、試験で優秀な成績を修めたことで尚書儀曹郎中とされ、礼法を司った。ある時、冀州刺史の万俟受洛干万俟洛のために作った《清徳頌》が典麗(整っていて美しい)なことで評判となり、これを聞いた高歓によって并州刺史の高洋高歓の第二子)の開府倉曹参軍とされた。ある時、珽は〔丞相府にて〕歓から三十六の事柄を口授されると、外に出てこれを文章にして上疏したが、一つも遺漏が無かったので、同僚から大いに賞賛を受けた。
 ただ、珽は本能に忠実な性格で、倫理観が欠如していた。倉曹は〔并〕州に属していたが、山東全域の徴税を任されていた。珽はそれをいいことに、大いに賄賂を受け取って一財産を築いた。
 珽は琵琶を弾くのが上手く、新曲を作ることもでき、市中の少年を家に呼んでは歌い踊らせて楽しんだ。また、遊女を集めると、陳元康・穆子容・任冑・元士亮らと共に快楽を尽くした。ある時、元康らが珽の家に泊まると、珽は山東大文綾や連珠孔雀羅など百余疋を人に持ってこさせて賭けの対象とし、遊女たちに樗蒲をさせて楽しんだ。また、ある時、参軍の元景献故・尚書令の元世雋の子)の妻(司馬慶雲と博陵長公主〈東魏の孝静帝の叔母〉の娘)に金品を贈って宴会に呼び入れると、元康らと一緒に代わるがわるまぐわって楽しんだ。珽の法律を守らず、過度に女色に耽るさまはこの様であった。また、よくこう言っていた。
「男たる者、本能に従って生きるべきだ。」
 のち、高洋が刺史の任を解かれると、珽も慣例に従って倉曹参軍の任を解かれることになったが、珽は〔旨味のある〕この職を離れることを嫌がり、陳元康を伝手に留任を願い、受理された。
 珽はまた参軍事・兼典籤(文書を掌る)の陸子先と結託し、食糧を他所に送る際に子先に命令を出してもらい、十車ぶんの穀物を倉から余計に出して横領した。しかしこれは同僚に露見し、逮捕されて高歓のもとに送られた。歓が自ら尋問すると、珽はこう言った。
「私は何も知りません。全て子先がやったことです。」
 歓はこれを信じ、珽を釈放した。珽は外に出るとこう言った。
「丞相は生まれつきご明察である。しかし、こたびの一件は私が仕組んだことなのだ。」
 またある時、膠州刺史の司馬世雲の家にて酒を飲んだ時、銅疊(銅製の小皿)二面(面は平たい物を数える助数詞)が無くなった。料理人が客人たちの体を検めると、珽の懐の中から銅疊が発見された。場にいた者たちは珽の浅ましい行為を非常に恥ずかしく思った。
 珽の馬は老馬だったが、珽はこの老馬を騮駒(名馬)と呼んだ。また、年老いた未亡人の王氏と公然と関係を持っていたが、珽はこの老婦人のことを娘子(若妻)と呼んだ。珽と早くから交流を持っていた裴讓之は、あるとき人々の前で珽をからかってこう言った。
「卿はどうしてそんな風変わりなことができるのか。十歲の老馬をなお騮駒と呼び、耳順(60歳)の妻をなお娘子と呼ぶとは。」
 人々はこれにどっと笑い、この話は大いに語りぐさとなった。
 のち、高歓の中外府功曹となった。ある時、歓が部下たちを招いて宴会を開いた。この時、金製の叵羅(ハラ[1]が無くなった。〔御史中尉の〕竇泰が一同に帽子を脱ぐよう命じると、叵羅は珽の髻の上にて発見された。歓はその罪を不問とした。
 のち、秘書丞・兼中書舍人とされ、高澄高歓の息子。女好きの美男子。時に21歳)の部下となった。ある時、〔揚州から?〕《華林遍略》を売りに来た者があった。澄は〔これを買うと、〕大勢の人を集めて一日で全て書き写させた。それから、素知らぬ顔で返却してこう言った。
「要らぬ。」
 珽はこのとき書き写してできた遍略のうち数冊を勝手に質に出し、樗蒲の賭け金にした。澄は怒り、珽に四十の杖打ちを加えた。
 また、ある時は令史の李双・倉督の成祖らと共に、功曹参軍の趙彦深に話を通さずに勝手に高歓の命令書を作成すると、それを晋州(并州の南)の城局参軍に送り、三千石の食糧を出させて着服しようとした。しかし、〔晋州〕典籤の高景略はこの命令書の真贋を疑い、密かに彦深に確認を取った。彦深が身に覚えが無いと答えると、珽は追及を受け、即座に罪を認めた。激怒した歓は珽に二百の鞭打ち・懲役を加えた。また、鉗(首枷)を付けさせ、三千石の倍の六千石を罰穀として科した。
 その刑が執行される前に、たまたま并州にて定国寺が落成した。この時、歓は陳元康・温子昇(11)に尋ねて言った。
「昔、芒山寺が建てられた時に書かれた碑文は、並外れた精妙さで評判となった。定国寺の碑文〔もこれに負けないようにしたい。〕いったい誰に書かせたらいいものだろうか?」
 元康は答えて言った。
「祖珽は才能も学問もあり、しかも鮮卑語にも通じております。〔彼に書かせるべきでしょう。〕」
 そこで、留置所にいる珽に筆と紙を送り、文章を起草させた。すると珽はたった二日の内に非常に華麗な文章を書き上げてみせた。歓はその速さと巧みさに免じて罪を赦し、丞相府に出仕することを許した。ただ、依然として官位は剥奪したままで、特定の職務には就けなかった。

 秋、7月、東魏の尚書令の高澄が晋陽に赴いた。
 己卯(9日)宜陽王景植孝静帝の兄。去年の5月13日に宜陽王とされていた)が逝去した。
 8月、甲子(25日)、兼散騎常侍の李騫を梁に派遣した。

○北斉39・北47祖珽伝
 祖珽,字孝徵,范陽遒人也。父瑩,魏護軍將軍。珽神情機警,詞藻遒逸,少馳令譽,為世所推。起家祕書郎,對策高第,為尚書儀曹郎中,典儀注。嘗為冀州刺史万俟受洛制清德頌,其文典麗,由是神武聞之。時文宣為并州刺史,署珽開府倉曹參軍,神武口授珽三十六事,出而疏之,一無遺失,大為僚類所賞。
 ...珽性疏率,不能廉慎守道。倉曹雖云州局,乃受山東課輸,由此大有受納,豐於財產。又自解彈琵琶,能為新曲,招城市年少歌儛為娛。遊集諸倡家。與陳元康、穆子容、任冑、元士亮等為聲色之遊。諸人嘗就珽宿,出山東大文綾并連珠孔雀羅等百餘疋,令諸嫗擲樗蒲賭之,以為戲樂。參軍元景獻,故尚書令元世雋子也,其妻司馬慶雲女,是魏孝靜帝姑博陵長公主所生。珽忽迎景獻妻赴席,與諸人遞寢,亦以貨物所致。其豪縱淫逸如此。常云:「丈夫一生不負身。」
 已文宣罷州,珽例應隨府,規為倉局之間,致請於陳元康,元康為白,由是還任倉曹。珽又委體附參軍事攝典籤陸子先,並為畫計,請糧之際,令子先宣教,出倉粟十車,為僚官捉送。神武親問之,珽自言不受署,歸罪子先,神武信而釋之。珽出而言曰:「此丞相天緣相鑒,然實孝徵所為。」性不羈放縱,曾至膠州刺史司馬世雲家飲酒,遂藏銅疊二面。厨人請搜諸客,果於珽懷中得之,見者以為深恥。所乘老馬,常稱騮駒。又與寡婦王氏姦通,每人前相聞往復。裴讓之與珽早狎,於眾中嘲珽曰:「卿那得如此詭異,老馬十歲,猶號騮駒;一妻耳順,尚稱娘子。」于時喧然傳之。後為神武中外府功曹,神武宴僚屬,於坐失金叵羅,竇泰令飲酒者皆脫帽,於珽髻上得之,神武不能罪也。
 後為秘書丞,領舍人,事文襄。州客至,請賣華林遍略。文襄多集書人,一日一夜寫畢,退其本曰:「不須也。」珽以遍略數帙質錢樗蒲,文襄杖之四十。又與令史李雙、倉督成祖等作晉州啟,請粟三千石,代功曹參軍趙彥深宣神武教,給城局參軍。事過典籤高景略,疑其定不實,密以問彥深,彥深答都無此事,遂被推檢,珽即引伏。神武大怒,決鞭二百,配甲坊,加鉗〔刓〕,其穀倍徵。未及科,會并州定國寺新成,神武謂陳元康、溫子昇曰︰「昔作芒山寺碑文,時稱妙絕,今定國寺碑當使誰作詞也?」元康因薦珽才學,并解鮮卑語。乃給筆札就禁所具草。二日內成,其文甚麗。神武以其工而且速,特恕不問,然猶免官散參相府。

 ⑴万俟洛...字は受洛干。?〜539。東魏の大尉の万俟普の子。匈奴の別種の出。破六韓抜陵→北魏→西魏→東魏に仕えた。馬と弓の扱いに長けた。538年、河橋の戦いにて逃げる友軍を尻目に一人踏みとどまり、奮戦した。
 ⑵陳元康...字は長猷。孫搴に代わって高歓父子から絶大な信任を受けた
 ⑶穆子容...本姓は丘穆陵。北魏の司空の穆崇の甥。知的好奇心旺盛で、万余巻の書を集めた。
 ⑷任冑...任祥(延敬。勲貴の一人)の子。聡明で、若年の頃から高歓の傍に仕えた。天平年間(534~537)に東郡太守とされると蓄財に励み、汚職の罪で起訴されたが、歓によって不問とされた。
 ⑸樗蒲...遊戯の一つ。片面が黒、片面が白に塗られた五枚の平たい板を盤上に投げ、出た組み合わせによって勝負を決める。
 ⑹司馬世雲...司馬子如(勲貴の一人。高歓の親友)の甥。叔父の七光によって州郡の長官を歴任した。
 ⑺裴讓之...字は士礼。名門の河東裴氏の出。16の時に父を亡くすと悲しみのあまり死にかけたが、賢母の辛氏に諭されて生気を取り戻した。若年の頃より学問を好み、詩文・弁舌に長けた。楊愔と仲が良く、一日中清談を語り合うこともあった。太原公(高洋)開府記室となり、梁の使者が来ると接待を任された。弟の諏之が西魏に従うと高歓に疑われて捕らえられたが、三国時代の諸葛兄弟の例を引いて弁明し、赦された。
 [1]叵羅...盃盞(酒器)の一つである。叵は、普火の翻し(hu+ka=ha)である。
 ⑻竇泰...字は世寧。?〜537。知勇兼備の名将。高歓の妻・婁昭君の妹を娶った。小関の戦いで宇文泰の奇襲を受けて戦死した。
 ⑼華林遍略...梁の武帝が徐勉らに編纂させた類書。全620巻。八年の歳月をかけ、516年に完成した。これまでの書籍の記述を項目別にまとめ、検索の便を図った。
 ⑽趙彦深...本名隠。生年507、時に35歳。東魏の名臣の陳元康と共に機密に携わり、『陳・趙』と並び称された。
 (11)温子昇...字は鵬挙。非常な読書家で、当代きっての名文家。

●今羊祜・宇文測
 西魏が侍中・大丞相府右長史(長史は于謹、左長史は趙貴)の宇文測生年489、時に53歳)を大都督・行汾州(隋書地理志によれば、義川郡〈東魏の南汾州の西〉に置かれたという)事とした(542年以前のこと)。測は、宇文深宇文家の陳平。小関・恒農・沙苑の戦いの際に泰に献策を行なった)の兄で、泰の族子(一世代下の同族)である。
 測の州政は平明(分かりやすくはっきりとしている)で思いやり深く、よく州民の心を摑んだ。汾州の地は東魏と隣接しており、しばしばその略奪を受けた。ある時多くの侵入者が縛られて測のもとに送られてくると、測は彼らの縄を解かせて賓客用の立派な邸宅に送った。そこで測は自ら宴席を設けて彼らを賓客のようにもてなしたのち、国に帰したが、その際も食料を持たせたり、護衛の兵を付けたりするなど充分な礼を尽くした。これに東魏の人々は大いに恥じ入り、以降二度と汾州に侵入しないようになった。かくて西魏の汾州と東魏の晋州の間には諍いが無くなり、二州の人民は互いに家業に専念できるようになった。やがて彼らは互いに慶弔の使者を送り合うまでとなり、二度と敵視しないようになった。天下の人々はこれを称賛し、測を羊叔子(西晋の羊祜。孫呉の陸抗と国境を挟んで良好な関係を築いた)になぞらえた。その一方で、測が東魏と交通しているのは二心を抱いているからだと考える者もいた。ある時、ある者がそのことを泰に訴え出ると、泰は怒ってこう言った。
「測はわしのために辺境を安穏にしてくれているだけだ! 測に二心などあろうはずが無い! お前はどうしてそんなでたらめを言って、肉親の仲を引き裂こうとするのか!」
 かくてこれを斬らせた。泰はそののちも変わらず測に自由に裁量させた。

 宇文測は字を澄鏡といい、高祖父の中山、曾祖父の豆頹、祖父の騏驎、父の永はみな北魏に仕えて栄達した。
 測は落ち着いていて、何事も真摯に取り組み、若くして学問を好んである時には一ヶ月丸々外に出ないことがあった。仕官して奉朝請・殿中侍御史となり、次第に司徒右長史・安東將軍に昇進し、宣武帝(七代。孝明帝の父)の娘の陽平公主を娶って駙馬都尉に任じられた。孝武帝が高歓と対立すると、帝によって使者として泰のもとに派遣され(534年〈3〉参照)、泰に非常に喜ばれた。洛陽に帰還すると広川県伯に封じられ、間もなく帝が関中に西遷すると公に進められた。
 のち泰が丞相となると(534年9月)その府の右長史とされ、国政の処理の多くを任された。また、宇文一族の序列の査定も任された。のちに通直散騎常侍・黄門侍郎とされた。大統四年(538)に侍中・兼右長史とされたが、六年(540)にある一件に連座して免官となった。間もなく使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督・行汾州事とされた《周27宇文測伝》

●六条詔書
 宇文泰が政治を改革して強国富民を図ろうとすると、大行台左丞の蘇綽泰の腹心。戸籍・計帳の創始者)は智能を尽くしてこれに協力した。綽は〔無駄な〕官員を減らし、二長()を置き、屯田を行なって国庫の充実を図った。
 9月北史西魏文帝紀)、綽が起草した六条詔書(政治之法六条)を天下に頒布した。内容は以下の通りだった。

 一、先治心。
 治民の根本は、地方の行政長官にある。長官らは心を清く平静に保ち、行ないを潔白にせよ。さすれば、人民は統治者を畏愛して手本とするようになり、領内は良く治まるであろう。統治者がしっかりとしていないのに、人民にしっかりとするよう求めるのは、体が曲がっているのにまっすぐな影を求め、的が無くなっているのに的に射当てろと求めるようなものである。

 二、敦教化。
 教化はそれを行なう者の性質によって左右される。質朴な者が教化すれば民は質朴になり、浮薄な者が教化すれば民は浮薄になる。質朴は落ち着いた気風を、浮薄は退廃した気風を生じさせる。民が質朴に化せば平和となり、浮薄に化せば乱世となる。治乱興亡は全て教化次第で決まるのだ。
 教化で重要なのは孝悌・仁順・礼義の三者である。孝悌を教えれば慈愛の精神を得る。仁順を教えれば和睦の精神を得る。礼義を教えれば敬譲の精神を得る。慈愛の精神を得れば家族を見捨てることが無くなり、和睦の精神を得れば他人を怨むことが無くなり、敬譲の精神を得れば豊かさで競うことが無くなる。三者が人民の心に備われば、王道は既に成ったも同然である。
 
 三、尽地利。
 人にとって衣食は命である。食が不足していれば飢え、衣が不足していれば凍え、危機に陥るからだ。ゆえに、この二者が不足している時に礼節を教えようとしても無理なのだ。衣食を充足させるには地利を尽くす(農地の生産力を最大限に発揮させる)ことが重要である。地利を尽くさせるには農法を正確に教える必要がある。また、脱落者を出さぬよう、貧しい家や耕牛の無い家には援助を行なわせる必要がある。また、農業の合間に民に桑や果物、野菜、家畜を育てる方法を教え、生活を安定させる必要がある。


 四、擢賢良。
 古来より州郡の高官は家柄で選ばれ、才能で選ばれることがなかった。一方、下級役人たちは事務能力だけで選ばれ、性格は一顧だにされなかった。今はその登用方法を変え、家柄にこだわらずに、才能のある者を積極的に採用していくべきである。しかし性格が悪ければいくら才能があろうと乱れを為す元になるから、何よりもまず性格の良し悪しを見極めるようにしなければならない。
 今、人事官の多くが『我が国には賢才がいないため、誰を挙げていいか分からない』と言っているが、それは思慮の足らない、理に合わぬ意見である。古人はこう言っている。『明主は天が輔佐の臣を降すのを待たず、王者は地が賢才を選び出すのを待たない』(陸機『演連珠』三)と。古来より、明主・王者は常に当世の人々から最高の人材を見つけ出し、立派な政治を行なったのである。殷・周が稷・契(堯舜時代の名臣)の助けを借りず、魏・晋が蕭・曹(蕭何・曹参。前漢の名臣)の助けを借りずに興ったのは、これがためである。仲尼はこう言った。『十室の邑、必ず忠信 丘の如き者あり』と。ならば、どうして万家の都市に才士がいないことがあろうか? 『賢才がいない』と言うのは、探す努力が足らぬからである。見極める努力が足りないからである。人材は必ずいる。ただ、ふさわしき官職を得ていないため、才能を振るうことができていないだけなのである。古人は言った。『千人より秀でた者を「英」といい、万人より英でた者を「俊」という』と。一つの官を授けるに値する才智を持ち、一つの州を任せられるような品行を備える者こそ、英俊の士に最も近い者だ。よくその仕事ぶりを観察し、上辺を取り除いて本質を見極めた上で、州郡の中で最も優れた者を用いるようにすれば、人口の多少を問わず、どのような所でも良く治まるようになるだろう。賢才がいないと言ったのは誰か!

 五、恤獄訟。
 人は陰陽の気、理性と感情を持って生まれる。理性は善の部分で、感情は悪の部分である。人は賞罰の妥当性によって善にもなり悪にもなる。妥当なら善に動き、不当であれば身の置きどころが無くなり、遂に叛心を生ずる。だからいにしえの優れた君主は賞罰を重んじ、これを軽々しく扱わずに、充分に審理を行なってから判決を下したのである。そもそも人というのは天地の貴物であって、一たび死ねば生き返ることの無いものである。刑罰が不当で妄りに善人を殺せば、天の心を傷め、和気を乱し、気候を不順にして人民の生活を脅かす。地方長官はこのことを肝に銘じ、慎重にならなければならない。ただ、真の悪人に対しては、殺すだけで百の利益が生じ、民の徳化を促進するゆえ、厳刑に処すべきである。
 
 六、均賦役。
 逆賊の平定が未だ成らず、多大な軍事費が必要とされる今、減税をする余裕は無いが、民の痛苦は無視できぬものがある。そこで上下を平均にすることで窮乏を防ぎたいと思う。平均というのは、豊かな者や上手く逃れようとする者にしっかりと徴税をすることを言う。ただ、その徴税もただ徴税すればいいというものではない。民が余裕を持って納税できる下地を整えてから徴税を行なうべきだ。さすれば民は困苦を感じることが無くなる。また、徴税も全員に通り一遍に行なうのではなく、貧富などをよく考えて一人ひとり税率を変えるべきである。また、労役に駆り出す際も、貧困な者に重労働を課したり、遠方の守備を任せたりしてはならない。富裕な者に軽労働を課したり、近辺の守備を任せたりしてはならない。このような事をする地方長官がいれば、それは王政を妨げる罪人である。
 
 泰はこの六条詔書を非常に重んじ、常に自分の手元に置いて、百官にもその内容を暗唱させた。百官はこれと計帳(戸籍に基づいて作られる、徴税のための基本台帳。蘇綽が初めて作成した。535年〈1〉参照)に通じていなければ地方長官に就くことを許されなかった《周23蘇綽伝》

●麟趾新制の制定
 冬、10月、癸卯(5日)高澄が晋陽より鄴に帰還した(7月参照)。

 これより前、東魏の都が鄴に遷ってより、人民の訴訟は頻繁に起こされるようになっていたが、政府が法律を改めたと思えば後日もとに戻す無軌道な事を繰り返していたので、法吏たちは寄る辺を失い、採決に困った案件の書類が山積みになってしまっていた。そこで孝静帝時に18歳)は澄に対し、左丞・吏部郎の崔暹を中心にして、侍中の封隆之、光禄大夫の邢子才邵。名文家。節閔帝が即位した際、大赦文を起草した。531年〈1〉参照)や散騎常侍の温子昇名文家。爾朱栄誅殺に加担した。530年〈3〉参照)らと共に宮中の麟趾閣にて新しい法制を制定するよう命じていた。

 甲寅(16日)、『麟趾新制』(またの名を『麟趾格』という)十五篇が完成し、天下に公布した。省府(中央の官庁)はこれによって案件を処理し、州郡もこれを行政の手本として用いた。

 11月乙巳(1日)、五万の工夫を動員し、漳河(鄴を通る河)の堤防を三十五日かけて修築した。

 丙戌(18日)彭城王韶孝荘帝の兄の子)を太尉とし、度支尚書の胡僧敬を司空とした。
 僧敬は本名を虔といったが、字を本名のように用いた。胡太后の父・胡国珍の兄の孫で、孝静帝の舅であった《魏83胡虔伝》


○魏孝静紀

 秋七月,齊文襄王如晉陽。…冬十月癸卯,齊文襄王自晉陽來朝。先是,詔文襄王與羣臣於麟趾閣議定新制,甲寅,班於天下。己巳,發夫五萬人築漳濱堰,三十五日罷。

○北斉21封隆之伝

 詔隆之參議麟趾閣,以定新制。

○北斉30崔暹伝

 主議麟趾格。

○洛陽伽藍記三景明寺

 暨皇居徙鄴,民訟殷繁,前革後沿,自相與奪,法吏疑獄,簿領成山,乃敕子才與散騎常侍溫子升撰《麟趾新制》十五篇。省府以之決疑,州郡用為治本。


●宕昌羌、再度叛す
 この月、宕昌羌の梁仚定の徒党が赤水城にて西魏に叛いた《北史西魏文帝紀》。秦州刺史の独孤信は軍司・監隴右諸軍事の豆盧寧や開府の梁椿らを率いて万年に向かい、三交口に陣を構えた。そこで叛乱軍の守りが堅いのを見ると、密かに間道を通って稠松嶺に到り、敵の不意を突いた。叛乱軍がこれに驚いて戦わずして潰走すると、信はその追撃に移って本拠にまで到り、これを開城・降伏させた。
 西魏は宕昌羌を手懐けるため、仚定の弟の梁弥定梁54宕昌国伝では『子』の『弥泰』)を宕昌王とした(周49宕昌羌伝)。また、信に太子太保の官を加えた《周16独孤信伝》
 梁椿は清(渭?)州刺史とされた《周27梁椿伝》
 豆盧寧は侍中・使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司とされた《周19豆盧寧伝》

 この月宇文泰は百官を職務に精励させるため、従来の二十四条の法令(535年3月参照)に加え、新たに十二条の新制を制定した《周文帝紀》

 12月、壬寅(5日)、東魏の使者である兼散騎常侍の李騫が建康に到着した。梁は答礼の使者として兼散騎常侍の袁狎を派遣した《南史梁武帝紀》

●李賁の乱
 梁の交趾(交州の治所。ベトナム北部)の人の李賁は地元の豪族の出であったが(出典不明)、中央に仕官してもなかなか上手く行かずにいた。このとき同郡の者に并韶という優れた詞文を作る者がいて、彼もまた中央に仕官したが、并姓に著名な人物がいないという理由で、吏部尚書の蔡撙天監十七年〈518〉に吏部尚書、普通二年〈521〉に呉郡太守とされ、四年〈523〉に亡くなった)に広陽門郎【建康城の西面の一番南にある門】(広陽門の管理人?)とされ、悶々とした生活を送っていた。李賁は并韶と共に故郷に帰ると、叛乱の計画を練るようになった大越史記外紀4。この時、交州刺史の武林侯諮は苛政を行なって州民から非常に怨まれていた《陳武帝紀》
 この年、監徳州(ベトナム中部)となっていた賁は、これを見て付近の州内にいる豪傑と手を結び叛乱を起こした。賁の才徳に心服していた朱鳶の酋長の趙肅は、部衆を引き連れ率先してこれに味方した大越史記外紀4。叛乱を悟った諮は賁に金目のものを渡して助命を乞い、ほうほうのていで越州(交州と広州の間)、次いで広州(陳8杜僧明伝)に逃れた《梁武帝紀》
 蕭諮は、字を世恭といい、鄱陽王恢武帝の弟】の子である《南52蕭諮伝》

○梁武帝紀
 是歲,交州土民李賁攻刺史蕭諮,諮輸賂,得還越州。
○大越史記外紀前李紀
 辛酉元年〈梁大同七年〉,交州刺史武林侯蕭諮以刻暴失眾心。帝世家豪右,天資奇才,仕不得志。又有并韶者,富於詞藻,詣繏求官。梁吏部尙書蔡樽以并姓無前賢,除廣陽門郎。韶耻之,還鄕里,從帝謀起兵。帝時監九德州,因連結數州豪傑,惧響應。有朱鳶酋長趙肅者,服帝才德,首率眾歸焉。諮覺之,賄輸于帝,奔還廣州。帝出據州城,即龍編也。

●高歓の復興政策
 当時、東魏の諸州は旧来の規定に拠らずに、一疋の尺を不当に水増しして調の絹を徴収していた。ために人民は非常な苦しみを味わっていた。
 この冬、丞相の高歓時に46歳)はこの悪弊を改めるため、一疋を四十尺に統一した《魏食貨志》

 これより前、華北の地は孝昌(520~524)以来、政道乱れ、争乱相次いで農業も商業も破壊された。官軍は出動するたびに臨時の調を徴発し、生活に困窮した人民はいっそ世が乱れたらと願うまでになった。叛乱を起こした六鎮の民は相次いで内地に移住し、斉・晋の地に活を求めた。高歓が覇業を為せたのは、彼らを上手に利用したからであった。
 のち孝武帝が西遷して北魏が東西に分裂し、その間で連年戦争が繰り広げられると、河南の州郡は荒廃し、官民ともに苦境に陥り、人民に餓死者が相次ぐに至った(資治通鑑)。歓はそこで黄河沿いの諸州に対し、交通の便のいい渡し場や橋全てに官倉を作らせ、出兵や飢饉の際に迅速に対処できるようにさせた。更に、海沿いの幽・瀛・滄・青の四州に対して、塩官を置き製塩を勧めた(魏食貨志によると、塩釜が滄州では1,484、瀛州では452、幽州では180、青州では546、邯鄲でも4個設置され、年に20万9702斛4升の塩を製造した、とある。)。これ以降、国庫はある程度充足し、完備された官倉によって、飢饉が起きても人民の生活はそれほど動揺しなくなった。その上、元象・興和年間(538~)豊作が続いたので、穀物は一斛九銭という廉価で買えるまでになった《隋書魏食貨志》。山東の民はここにようやく息を吹き返すことができた《資治通鑑》

●高孝琬の誕生
 孝静帝の妹で高澄の正室の馮翊長公主中興二年〈532年〉に降嫁していた。532年〈2〉参照)が高孝琬澄の第三子)を産んだ。大臣たちが澄のもとに訪れて祝いの言葉を述べると、澄はこう言った。
「この子は至尊(孝静帝)の甥なのであるから、まず至尊に祝いの言葉を述べるべきであろう。」(資治通鑑
 三日後、帝が親しく澄の屋敷に訪れ、錦彩布絹一万疋を下賜すると、貴族たちも相次いで礼物を澄に送った。その数は十部屋を埋め尽くすほどだった(この記事がここに置かれている理由は不明《北斉文襄元后伝》

●三正改革
 東魏の臨淮王孝友北魏の臨淮王彧の弟。539年参照)が上表して言った。
「規定では、百家を『族』、二十五家を『閭』、五家を『比』としております。つまり一族には二十五の帥(族帥が一人、閭帥が五人、比帥が二十人)がいるわけですが、その彼らはみな兵役・労役を免じられております。これは不公平であるばかりか、少ない羊に多くの狼が群がるような状況を呈し、帥同士で支配下の家々を蚕食し合う悪弊を生じさせております【羊の数が多くても、結局は狼の餌食となってしまうのである。まして羊の数が少なく狼の数が多いなら、なおさらであろう。族帥は閭帥の家を蚕食し、閭帥は比帥の家を蚕食し、比帥は四家を蚕食する。〔つまり多重搾取の状況となるのである〕】。この悪弊は今日に始まったことではないのです。京邑の諸坊では七八百家に一人の里正と二人の史を置いているだけですが、それでも万事上手く行っております。外州でどうしてできないことがありましょうか! ゆえに、ここは三正の名は改めずに、ただ一閭につき二比を置く(十二家を一比とする)だけにするべきであります。さすれば一族は十三の帥(族帥が一人、閭帥が四人、比帥が八人)がいるだけとなり、免税のものが十二人減って、徴発する絹や兵の数が十二増える計算となるのです。これこそが国は富み、民は休まる方法であります。」
 この意見は尚書省にて審議されたが、結局採用されることはなかった《魏18元孝友伝》
 

●王羆の死

 この年、河東を鎮守していた西魏の扶風郡公の王羆防衛の専門家。華州や河東を東魏から守り抜いた。柔然の侵攻の際には長安にてうろたえる周恵達を叱咤した。540年参照)が亡くなった。朝廷は太尉・都督・相冀等十州刺史を追贈し、忠公と諡した。

 羆は貧素に甘んじ、副業を行なわず、身分が高くなっても郷里(覇城)の実家は粗末なままとしたので、羆が亡くなったとき、家族は極貧にあえいでいた。人々はその廉潔さを称賛した《北62王羆伝》


 令狐徳棻曰く…王羆は剛直一点張りの男で、上品さには欠けていたが、質素に甘んじて私よりも公を優先したことは立派であった。また、〔戦場に在っては〕危険に瀕した城にて忠節を発揮し、強敵を前にすれば恐れることなくこれに激しい言葉を投げかけた。〔この烈々たる闘志があったからこそ、〕梁人は〔荊州から〕退き(528年参照)、高氏は〔華州に〕攻撃を加えようとしなかった(537年〈3〉参照)のである。彼が称賛されたのは至極当然のことであった。