●恒農帰還
 西魏の文帝宇文泰が河橋から引き返して恒農に到ったとき、その守将は既に城を棄てて逃亡しており、東魏の投降兵たち(莫多婁貸文らの兵。穀城の戦いの後恒農に送られていた)が叛乱を起こして門を閉じていた。泰はこれを攻め陥とすと、その主だった者数百人を死刑に処した。
 その深夜、蔡祐泰の義子が恒農に辿り着いた。泰は祐と再会すると、これを字で呼んで言った。
「承先、お前が帰ってきたのなら、わしはなんの心配もない。」
 泰はこのとき恐怖のあまり眠れずにいたが、祐の膝を枕にするとようやく安心して眠りにつくことができた。
 祐は戦いのさい常に士卒に先んじて突撃し、塹壕を突破し敵陣を陥とした。戦場から帰還すると諸将は争って自分の手柄を申し立てたが、祐は最後まで何も言わずにいた。泰はその態度にいつも感嘆して諸将にこう言った。
「承先は何も言わぬから、わしが代わりに陛下に申し立ててやろう。」
 祐が泰に理解されていることはこのようであった。
 祐は公に進められ、京兆郡守とされた。
 泰は長安に発つにあたり、王思政を侍中・東道行台として恒農の守備を任せた。

○周文帝紀
 大軍至弘農,守將皆已棄城西走。所虜降卒在弘農者,因相與閉門拒守。進攻拔之,誅其魁首數百人。
○周18・北62王思政伝
 仍鎮弘農〔,除侍中、東道行臺〕。
○周27蔡祐伝
 祐至弘農,夜中與太祖相會。太祖見祐至,字之曰:「 承先 ,爾來,吾無憂矣。」太祖心驚,不得寢,枕祐股上,乃安。以功進爵為公,增邑三百戶,授京兆郡守。…及從征伐,常潰圍陷陣,為士卒先。軍還之日,諸將爭功,祐終無所競。太祖每歎之,嘗謂諸將曰:「 承先口不言勳,孤當代其論敘。」其見知如此。

 ⑴宇文泰…字は黒獺。生年507、時に32歳。武川鎮の出身。身長八尺、額は角ばって広く、ひげ美しく、地まで届く髪と膝まで届く手を備えた。父の肱は鮮于修礼に仕えて中山にて戦死し、兄の洛生は葛栄に仕えて漁陽王とされた。同じ武川鎮出身の賀抜岳に従って関中平定に活躍し、岳が関西大行台となるとその左丞・府司馬とされ、事務を一任された。のち夏州刺史とされ、岳が侯莫陳悦に殺されると後継となり、悦を討って復讐を果たした。孝武帝が亡命してくるとこれを受け入れ、西魏の丞相となった。537年、小関・沙苑にて東魏軍を大破した。
 ⑵蔡祐…字は承先。生年506(通鑑)、時に33歳。曾祖父は夏州鎮将、祖父は陳留郡守、父は平舒県伯。頭の回転が早く、品行方正で、母親に良く仕え、膂力に優れ、騎射を得意とした。宇文泰が夏州刺史の時に仕え、賀抜岳が死んだ際に夏州の人心が動揺すると、これを鎮めるのに貢献し、以後、泰から我が子のように遇されるようになった。河橋の戦いではこれに報いるため大いに奮戦した。
 ⑶王思政…字は思政。太原王氏の出で、後漢の司徒の王允の後裔とされる。姿形が逞しく立派で、知略に優れていた。孝武帝と即位前から親しく、即位後は側近とされ、祁県侯・武衛将軍→中軍大将軍とされ、禁軍の統率を任された。高歓が帝と対立し洛陽に迫ると、関中の宇文泰を頼るよう帝に勧めて聞き入れられた。入関すると太原郡公・光禄卿・并州刺史とされ、更に散騎常侍・大都督を加えられた。帝が崩御すると樗蒲の遊戯の際に泰に至誠を示して気に入られた。537年、独孤如願らと共に洛陽を陥とし、538年の河橋の決戦の際には奮戦し、重傷を負った。

●趙青雀の乱
 西魏は洛陽への出兵に多くの兵を割き、関中にあまり兵を残していなかった。このとき民間に分置されていた東魏の投降兵たちは西魏軍が敗北したのを聞くと、一斉に叛乱を起こして略奪を始めた。沙苑の戦いのさい西魏に降っていた東魏の都督の趙青雀や雍州民の于伏徳らはこれを見るや、彼らをおのおの手元に収め、長安や咸陽に攻め寄せた。長安にいち早く退却していた李虎ら(河橋の戦いのさい後軍を指揮していたが、前線の将兵らが退却してきたのを見ると戦意なく同じように退却した)はこれになすすべなく、太尉の王盟周20王盟伝)や僕射の周恵達周22周恵達伝)ら公卿と共に太子欽を連れて渭橋(周22周恵達伝)の北に避難した。青雀は長安の子城を、伏德は咸陽を占拠し、咸陽太守の慕容思慶と連携して洛陽から帰還してくる西魏軍に抵抗した。
 青雀らは長安の大城に連日攻め寄せたが住民の激しい抵抗を受け《周文帝紀》、渭橋の北に避難した太子欽の軍を攻めても、西魏の行河州事・大都督の侯莫陳順崇の兄、535年〈2〉参照)に橋上にて次々と撃破された。やがて青雀らは太子欽の軍を制圧するのを諦めた《周19侯莫陳順伝》

 河橋にて西魏軍が敗れたことや、青雀らが長安を占拠したことは、西魏領内の人心を動揺させずにはおかなかった。河東(泰州の治所。蒲坂)を守備していた西魏の扶風公の王羆防衛戦の第一人者。孝荘帝に仕えては荊州を、宇文泰に仕えては華州をよく守り切った)は、そこで大いに州庁の門を開き、守兵を集めてこう言った。
「今、天子は戦いに敗れて安否が不明となり、人心はひどく動揺している。だが、わしはあくまで命令どおりこの城を守り、一死(一命、自分の命)をもって国恩に報いるつもりだ。諸君の中に二心のある者がいるなら、来たりてわしを殺すがよい。城を守り抜く自身の無い者がいるなら外に出るがよい。わしは、国に忠で、わしと心を同じくする者だけで城を守り抜く。」
 兵士たちはその忠義心に感じ入り、全員が城に残って守備についた《北62王羆伝》

 泰は閿鄉(潼関の手前)に着くと、自ら大軍を率いて青雀らを討伐しようとしたが、人馬が共に疲弊していることや、青雀らが烏合の衆であることをかえりみてこう言った。
「長安の賊どもは、わしが軽騎を率いてきたのを見ただけで降伏してくるだろう(軽騎兵だけで充分だろう)。」
 すると通直散騎常侍で呉郡の人の陸通、字は仲明がこう諫めて言った。
「青雀らがこたび叛乱を起こしたのは、我が軍が敗れ国家が危機に瀕したと見たからでしょうが、その叛志は前々から抱いていたに違いありません。そのような輩が善に立ち返ることなどありませぬ。それに蜂やサソリのような卑小な者にも毒という思わぬ痛手を負わせてくることがあるのです。これでどうして軽騎だけで臨めましょう(資治通鑑)。また、彼らは我が軍が大敗し、東賊が今にも長安に到ろうとしているとの噂を流しているのです。そのような状況下で閣下が軽騎だけの小勢で長安に行けば、人々は丞相が命からがら逃げてきたものと思い、噂はやはり事実だと考えていよいよ国家から心を離すでしょう。閣下、いま我が軍は疲弊しているとはいえ、まだ精鋭が多く残っております。しかも彼らは矢の如き帰心を抱いているのです。その兵を素晴らしき用兵術を持つ閣下が率いれば、向かう所敵はありませぬ。」
 泰はこれに深く頷いた《周32陸通伝》。かくて泰は文帝を閿鄉に残すと、大軍を率いて長安に到った。長安の父老は泰を見ると泣いて喜んでこう言った。
「まさか今日再び公にお目にかかれようとは!」
 士女もみなこれを喜んだ。
 華州刺史の宇文導泰の兄の子。侯莫陳悦討伐のさい、その追撃を担当した。のち泰が恒農を攻めると領軍将軍となって禁軍を統べ、沙苑の際にはこれを率いて勝利に貢献した。泰が洛陽に出陣すると、華州刺史とされてその留守を任されていた)は咸陽に攻め入って慕容思慶を斬り、于伏徳を捕らえ、渭橋を渡って泰と合流した。泰は導軍と力を合わせて青雀を攻め、撃破した。
 洛陽出兵時、病気で長安に留まっていた太傅の梁景睿)は、青雀と通謀したかどで誅殺された。関中の騒擾はここにおさまった《周文帝紀》

○周32陸通伝
 軍還,屬趙青雀反於長安,文帝將討之,以人馬疲弊,不可速行。又謂青雀等一時陸梁,不足為慮。乃云:「我到長安,但輕騎臨之,必當面縛。」通進曰:「青雀等既以大軍不利,謂朝廷傾危,同惡相求,遂成反亂。然其逆謀久定,必無遷善之心。且其詐言大軍敗績,東寇將至,若以輕騎往,百姓謂為信然,更沮兆庶之望。大兵雖疲弊,精銳猶多。以明公之威,率思歸之眾,以順討逆,何慮不平。」文帝深納之,因從平青雀。錄前後功,進爵為公,徐州刺史。以寇難未平,留不之部。

●金墉陥落
 高歓は追撃隊を派遣して泰を追わせた。追撃隊は泰を探し求めて崤県まで到ったが、結局追いつくことができずに引き返した。
 壬辰(8月5日。河橋の戦いの翌日)《魏孝静紀》、歓は黄河を渡り、金墉を攻めた。守将の長孫子彦は城中に火をつけたのち逃走した。城中の家屋はみな灰燼に帰した(資治通鑑)。歓は金墉城を破却して帰還の途についた《北斉神武紀》

 西魏の開府属の裴諏之537年〈4〉参照)が西魏軍に従って関中に行くと、歓のもとにいた兄弟五人(諏之は次男)はみな捕らえられた。歓は彼らにこう問い詰めて言った。
「諏之は今どこにいる?」
 すると長男で太原公(高洋)開府記室の裴譲之、字は士礼がこう答えて言った。
「むかし諸葛兄弟は呉と蜀の二国に別れてそれぞれ忠義を尽くしました。まして、それがしの老母はここに在るのです。忠と孝を共に失うのは、愚者でもやらないことです。どうか閣下は人をよく信じなされますよう。人を信じないで、どうして人に信じられましょう。人の信を得ずに覇業の成就を求めるのは、後ろ向きに歩きながら道を探すようなものです。」
 歓はこれに納得し、兄弟をみな釈放した《北38裴譲之伝

 8月、甲辰(17日)、詔を下して言った。
「南兗・北徐・西徐・東徐・青・冀・南北青・武・仁・潼・睢等十二州は飢饉を経験して疲弊しているため、該地の民の租・調の滞納や借金を全て帳消しにし、今年の三調(穀物・絹・労働力)の徴収もやめる事とする。」

○梁武帝紀
 八月甲辰,詔「南兗、北徐、西徐、東徐、青、冀、南北青、武、仁、潼、睢等十二州,既經饑饉,曲赦逋租宿責,勿收今年三調。」

●文帝の帰還
 9月文帝が長安に帰ると《北史西魏文帝紀》、泰は華州に帰って駐屯した《周文帝紀》
 文帝は自ら侯莫陳順の手を取って言った。
「我が太子が生き延びられたのは、そなたが渭橋にて尽力してくれたからである。」
 かくて身につけていた金鏤玉梁の帯をこれに与えた《周19侯莫陳順伝》
 王盟は長楽郡公に進められ、拓王氏の姓を賜った《周20王盟伝》
 宇文導は章武郡公に進められた《周10宇文導伝》
 周恵達は吏部尚書とされた《周22周恵達伝》
 陸通は公爵とされた《周32陸通伝》

 また、于謹は大丞相府長史・兼大行台尚書とされた《周15于謹伝》
 達奚武は侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・北雍州刺史とされた《周19達奚武伝》
 李遠は大丞相府司馬とされ、国家の重要な議題に全て関与するようになった。しかし遠は保身のため、いつも空気のようにふるまった《周25李遠伝》
 蔡祐は公に進められ、京兆郡守とされた《周27蔡祐伝》
 賀若敦包囲下の洛陽にて素晴らしい弓の腕前を示した。538年〈1〉参照)は独孤如願に薦められて泰の麾下都督とされ、安陸県伯に封ぜられた《周28賀若敦伝》

●盧景裕
 この月、東魏の大都督の賀抜仁焉過児? 南汾州を攻略した。538年〈1〉参照)が邢磨納・盧仲礼らを攻め、平定することに成功した(去年の12月に沿海部にて叛乱を起こしていた《魏孝静紀》
 仲礼の従弟の盧景裕、字は仲儒は経典に通暁していることで有名な儒者であったが、二人に迫られてやむなく叛乱に加担していた。歓はその罪を赦して自宅に呼び、息子たちの家庭教師をさせた。
 景裕の講釈は非常に筋が通っていて説得力があった。景裕を論難してくる者の中には、険しい顔をして不遜な言葉を怒鳴り散らす者がいたが、景裕はいつも通りの表情・態度で応対し、一切突け入る隙を見せなかった。景裕の性格は静かで落ち着いて、昇進しても降格しても得意や失意を表にあらわさず、粗末な着物や食事で満足し、一日中賓客と対しているかのように威儀を正していた《魏84盧景裕伝》

┃柔然、肆州を侵す
 この月(9月、柔然が東魏領の肆州(晋陽の北北百六十里)秀容郡を略奪し、三堆にまで到った所で引き返した。また、抑留していた東魏の使者の元整を殺害した。東魏はこれを聞くと柔然の使者の温豆抜らを監禁した。
 
○北98蠕蠕伝
 九月,又掠肆州秀容,至於三推(堆)。又殺元整,轉謀侵害。東魏乃囚阿那瓌使溫豆拔等。


 ⑴三堆…《読史方輿紀要》曰く、『三堆城は静楽県の治所である。静楽県は太原府(晋陽)の西北二百二十里にある。

●任祥の死
 この秋、東魏の徐州刺史の任祥が鄴にて逝去した(享年45《北斉19任延敬伝》

 冬、10月、西魏が高敖曹・竇泰・莫多婁貸文の首を東魏に返した《出典不明》

 この月、散騎常侍の劉孝儀ら梁の使節が鄴に到着した(今年の7月に派遣されていた)。

●陸操、美貌の人妻を守る
 11月、庚寅? 『北史』には「12月」とある。12月なら5日である)、東魏が陸操字は仲志。北魏の東平王の陸俟の曾孫)を兼散騎常侍とし、梁に使者として派遣した。
 操は高潔な性格をしていて風格があり、早くから学問で優秀さを示して名を知られ、詩文を愛好した。
 操は梁より帰還すると、廷尉卿に任じられた。
 高歓の世子で尚書令の高澄は非常な女好きで、いつも崔季舒に美女を探させていた。ある時、季舒は薛寘孝武帝の西遷に付いていった薛寘の事か?)の妻の元氏に目を付け、〔騙して〕澄のもとに連れて行った。澄が元氏を襲おうとすると、元氏は泣いて拒絶した。〔激怒した〕澄は季舒に〔元氏を〕廷尉のもとに送って処罰させるよう命じた。〔季舒が廷尉卿の操のもとに行って元氏を罰するように言うと、操はこう言った。
「その方はどのような罪を犯したのですか?」
 季舒は答えて言った。
「いいから、わしの言う通りにせよ!」〕
 すると操はこう言った。
「廷尉は国家を代表して法を司っている者です。〔故に、いい加減に人を処罰することはできないのです。〕どうか罪状をはっきりおっしゃってください。」
〔季舒がこれを澄に告げると〕澄は激怒し、操を屋敷に呼びつけた。操がやってくると、澄は刀の柄を以てこれを打ちのめさせた。それから改めて操に〔元氏を〕処罰するよう命じたが、操は最後まで肯んぜず、むしろ澄を罵る度胸を見せた。〔これに感服した澄は操を解放し、元氏の処罰を諦めた。〕のち、操は御史中丞とされた。

○魏孝静紀
 十有一月(十二月)庚寅【[一四]北史卷五「十一月」作「十二月」。按本年十一月丙辰朔,無「庚寅」,十二月丙戌朔,庚寅是五日,似北史是。但這裏若本是「十二月」,則下文不應又出「十二月甲辰」。且梁書卷三武帝紀大同四年即東魏元象元年五三八記「十一月乙亥,魏使來聘」。乙亥是二十日。豈有十二月遣使,十一月已抵梁朝之理。則北史作「十一月」也有可疑,今不改。】,遣陸操使于蕭衍。
○北28陸操伝
〔陸〕高貴子操,字仲志,高簡有風格,早以學業知名,雅好文。操仕魏,兼散騎常侍聘梁,使還,為廷尉卿。齊文襄為世子,甚好色,崔季舒為掌媒焉。薛氏寘書妻元氏有色,迎入欲通之。元氏正辭,且哭。世子使季舒送付廷尉罪之。操曰:「廷尉守天子法,須知罪狀。」世子怒,召操,命刀環築之,更令科罪。操終不撓,乃口責之。後徙御史中丞。

●西魏の反撃

 西魏は河橋の戦いの敗北後、東魏に次々と国境を侵犯された。そこで西魏は韋孝寛普泰年間〈531~532析陽郡守とされ、新野郡守の独孤如願と共に優れた治績を挙げて『連璧』と称賛された。のち沙苑の勝利に乗じて豫州を攻略した。537年〈4〉参照)を行宜陽郡事、のち南兗州刺史(どちらも仮のものか)として洛陽西部の地を守備させた《周31韋孝寛伝》
 これより前、独孤如願が旧都洛陽に入った時、宮殿を修築しようとして外兵郎中で天水の人の権景宣、字は暉遠に三千の兵を与えて木材の運搬をさせた。そのときたまたま東魏軍が来襲し、司州牧の元季海らが守兵の少なさを以て逃走すると、その一帯の城市はことごとく東魏に付き、景宣の帰路を塞いだ。景宣は二十騎を引き連れて戰いながら西魏領内を目指したが、やがて包囲下のなか従騎のほとんどを失った。そこで景宣は軽騎を以て突撃し、自ら数人の東魏兵を斬って包囲を破り、ある民家に身を寄せた。景宣はいずれここも危ういと見ると、泰の書を偽造して五百余の兵を得、これを率いて宜陽に立て籠もり、じき大軍が援軍にやってくると喧伝した。東魏将の段琛陽州刺史だったが、泰が恒農を陥とすと城を棄てて逃走していた。537年〈2〉参照)らはこれを信じ、九曲(洛陽と宜陽の中間)に到ったところで進軍をやめた。景宣は琛らが真実を知る前に腹心を連れて大軍を迎えに行くと嘘を言って宜陽を発ち、そのまま西に逃走した《周28権景宣伝》
 この年段琛・堯傑堯雄の従父兄)は再び宜陽を占拠し、その土人(周43陳忻伝)の牛道恒を陽州【天平元年(534)に宜陽に置かれ、宜陽・金門を領した】刺史として西魏の国境の民を招誘させた。
 これに大いに苦しめられた孝寛は、そこで間者に道恒の筆跡を手に入れさせると、これを字の上手い者に真似させ、道恒が孝寛に投降の意を示すという内容の書簡を偽造させた。また、その書簡に火の粉が落ちた跡をつけ、道恒が夜に火の元で密かに書いたように見せかけた。そうした上で、孝寛は間者にこの書簡を琛の陣営にわざと落とさせた。琛はこれを得ると果たして道恒を疑い、以降道恒が進言した策を全く用いないようになった。孝寛は二人の仲違いに乗じてこれを奇襲し、道恒及び琛を捕らえた。ここに崤山・澠池の地は再び西魏のものとなった《周31韋孝寛伝》

 これより前、大都督・東道軍司・潁川郡守の趙剛孝武帝が歓と対決するに当たり、東荊州への援軍要請の使者とされた。東魏の言う趙継宗? 537年〈2〉参照)は、泰が恒農を攻め陥としたのち、開府の李延孫孝武帝が西遷すると、伊川・洛水一帯にて反東魏の兵を挙げた。534年〈5〉参照)ら七軍を指揮して陽城を取り戻し、太守の王智納を捕らえ、陳留郡守に任じられていた。しかし東魏の行台の吉寧の三万に郡城を陥とされて潁川に引き返し、そこでも侯景に敗れると、残兵を率いて洛陽に身を寄せた。大行台の元季海に潁川郡に帰って兵糧を集めてくるように命じられると、剛は潁川郡の西境にある陽翟の民二万戸を味方につけ、彼らを使って洛陽に兵糧を輸送した。洛陽が失陥すると、剛は敵中に孤立したが、連戰して東魏の広州刺史の李仲偘を破り、侯景の別帥の陸太・潁川郡守の高沖ら八千人が襄城【襄州の治所。襄州は孝昌年間に赭陽に置かれ、襄城・舞陰・南安・期城・北南陽・建城郡を領した】など五郡を攻めていたのも五百の精鋭で戦い、沖を大破した(詳細な時期は不明)。
 権景宣は儀同三司の李延孫と合流して孔城【新城郡の治所。新城郡は天平年間に置かれ、北荊州に属した】を攻め陥とし、洛陽以南を西魏の手に取り戻した。泰は景宣に張白塢【宜陽の西北にある】を守備させ、東南方面にて西魏に内応した者たちの指揮をさせた(詳細な時期は不明)。
 12月、西魏の是云宝権景宣・李延孫らと共に(周28権景宣伝)東魏の洛陽を奇襲し、これを陥として東魏洛州刺史の王元軌)を逃走させた《周文帝紀》
 景宣は大行台右丞とされ、宜陽に進駐したのち、襄城を攻め陥として郡守の王洪顕を捕らえ、五百余人の首級や捕虜を得た(詳細な時期は不明《周28権景宣伝》
 この年李延孫が長史の楊伯蘭に殺されると、西魏の大都督の韋法保534年〈5〉参照)が代わりに延孫の砦(伏流?)を守備した。剛は伯蘭を斬り《周33趙剛伝》、更に広州を奇襲して陥とした。ここにおいて襄州・広州以西の城鎮は再び西魏のものとなった《周文帝紀》

 また、この年、宇文泰が東征に赴いた際、司馬裔字は遵胤。去年、河内温城と共に西魏に付いたが、東魏の攻撃に遭って苦戦していた。537年〈2〉参照)は配下の兵を率いてこれに随行し、河橋に戦い、更に別に懐県(河橋東北)を攻めて東魏将の呉輔叔を虜とした。これ以降、裔はたびたび東魏と戦い、常に勝利を得た《周36司馬裔伝》

 ⑴是云宝…《元和姓纂》によると北魏の任城王澄の子孫。《王使君夫人元氏墓誌銘并序》によると祖父の元万は北魏の西平簡王、父の元敦は邵陵王。爾朱栄の乱(河陰の変?)の時に是云家に逃げ隠れ、以後その姓を名乗るようになったという。統軍とされ、527年、陳郡が叛乱を起こすと曹世表の指揮のもと迅速にこれを平定し、梁の介入を防いだ。のち東魏に仕えたが、537年、揚州刺史の那椿を捕らえて西魏に降り、儀同とされた。

┃玉壁移転
 恒農を守備する東道行台の王思政は、玉壁(河東と平陽の中間)が要害であることから、ここに城を築くことを朝廷に求め、許可されると恒農から玉壁に鎮所を移した。西魏は思政を都督汾晋并三州諸軍事・并州刺史とし、東道行台はそのままとした(詳細な時期は不明)。

○周18・北62王思政伝
 思政以玉壁地在險要,請築城。即自營度,移鎮之。遷〔汾晉并三州諸軍事、〕幷州刺史〔,行臺如故〕,仍鎮玉壁。

●寺院乱立
 北魏は正光年間(520~524)より以降大いに乱れ、民は増大した賦役を避けようとして多くの者が僧尼となった。そのため、遂に僧尼の数は二百万人に、寺は三万余寺にまで膨れ上がった。
 この冬、東魏はようやく詔を下して言った。
「刺史・郡守・県令は以後寺を建立してはならぬ。もしこれに違反した者は、いくらその建立に自らの身を削っていたとしても、私利私欲で建てたものとみなす。」(原文『「天下牧守令長、悉不聽造寺。若有違者、不問財之所出、并計所営功庸、悉以枉法論。」』《魏釈老志》

●高澄の人心収攬
 この年、東魏が尚書令の高澄歓の長子、時に17歳)を摂吏部尚書とした。
 澄は崔亮が始めた年労の制(停年格、519年2月参照)を改め、賢能の士を優先して登用するようにした。また、尚書郎(尚書省の吏員)に対しても、人員整理を行ない、才能・門地をよく調べてこれに充てるようにした。ここにおいて才能のある者はみな任用されるに至った。
 彼らの内まだ高官になれず、〔不満を抱いていそうな者がいれば、〕ことごとく自分の邸宅に呼んで賓客とし、宴会を開く際には必ず招待し、弓や議論、詩賦などそれぞれの得意なものを披露させて心を満足させた。このため、士大夫の誰もが澄を称賛するようになった。

 東魏が都を鄴に遷して以降(534年10月)、吏部尚書に就いて知名度があった者は四名ほどいたが、それぞれ一長一短あり、完全ではなかった。高澄在位538~?)は若さゆえの闊達さがあったが、そのぶん大雑把な所があった。

○資治通鑑
 東魏以高澄攝吏部尚書,始改崔亮年勞之制【崔亮制停年格】,銓擢賢能;又沙汰尚書郎,妙選人地以充之。凡才名之士,雖未薦擢,皆引致門下,與之遊宴、講論、賦詩,士大夫以是稱之史言高澄收拾人物以傾元氏】。
○北斉文襄紀
 元象元年,攝吏部尚書。魏自崔亮以後,選人常以年勞為制,文襄乃釐改前式,銓擢唯在得人。又沙汰尚書郎,妙選人地以充之。至于才名之士,咸被薦擢,假有未居顯位者,皆致之門下,以為賓客,每山園游燕,必見招擕,執射賦詩,各盡其所長,以為娛適。
○北斉38辛術伝
 遷鄴以後,大選之職,知名者數四,互有得失,未能盡美。文襄帝少年高朗,所弊者疏。

 [1]高澄は士大夫の心を自分に移す事で、東魏を滅亡に追いやろうとしたのである。

●梁禦の死
 また、この年、西魏の十二将の一人で、開府・東雍州刺史の梁禦泰の長安獲得に大きく貢献した)が赴任先にて死去した。禦は臨終の際、国家の行く末を心配する言葉だけを口にし、家のことについては全く触れなかった。武昭と諡された《周17梁禦伝》

李遠の河東統治
 この頃(詳細な時期は不明)、西魏は河東(泰州)を手に入れたばかりで(去年、沙苑の戦いに勝利した後に奪取した)、民情がまだ安定していなかったため、泰は大丞相府司馬の李遠にこう言った。
「河東は国家の要鎮(重要拠点)である。これをよく治められるのは、卿しかおらぬ。」
 かくて河東を治める王羆を雍州刺史とし(北62王羆伝)、李遠を代わりに河東郡守とした。遠は河東に赴任すると、風紀・習俗を整え農業を振興し、悪人を厳しく取り締まると共に防備を整えた。すると河東区の民は朞月(一年)も経たない内にこれに懐き従った。泰はこれを賞賛し、ねぎらいの書状を送った《周25李遠伝》

●苻安寿の乱
 この年、西魏の南岐州の氐族の苻安寿北史では『苻寿』)が叛乱を起こし、武都を攻め陥として太白王を自称した。大都督の侯莫陳順と渭州刺史の長孫澄長孫稚の子、字は士亮)がこの討伐に向かったが、安寿は要害の地に立て籠もって抵抗したため、これに攻撃を仕掛けることができなかった。順がそこで反間の計を用いて安寿とその腹心を仲違いさせ、確たる恩賞で部下たちを釣って士気を阻喪させると、安寿は大勢が既に去ったことを知って、部落一千家と共にその軍門に降った(河橋の戦いの後のことだと思われる《周19侯莫陳順伝・周49氐伝》

●莫折後熾の乱
 この年莫折後熾が徒党を集めて西魏の涇州やその周辺を荒らし回った。行涇州事の史寧賀抜勝と共に梁から西魏に帰した。536年参照)が州兵を率い、その討伐に向かうと《周28史寧伝》、後熾は陣を布いてこれを待ち受けた。郷兵を率いて討伐に加わっていた行原州事の李賢李遠の兄)は、史寧にこう献策して言った。
「涇州とその近隣の人民は、賊の強盛(原文『賊聚結歲久,徒眾甚多』。討伐はこの年の出来事ではないのかもしれない)にひれ伏し、多くがその指図に従っておりますゆえ、我らが後熾の本隊だけに攻撃をかけた場合、彼らはこぞってその救援に駆けつけ、我らがどれだけ力を尽くしたとしても、衆寡敵せず、敗れることになるでしょう。これを避けるには、敵を分断し、集結させぬようにするしかありません。ゆえにここは、旗指し物や太鼓を多く与えて大軍に見せかけた部隊を複数作り、敵の諸柵を威圧するとともに、精兵を率いた公が直ちに後熾のもとに向かってこれを牽制するべきです。さすれば、諸柵は疑兵(囮の兵士)をはばかり、後熾は公の鋭気を恐れて、戦うことも退くこともできない状態に陥るでしょう。そのうち疲労した所を我らが攻撃すれば、必ず勝ちます。後熾さえ破れば、諸柵は攻めるまでもなく自ずと降ってくるでありましょう。」
 寧はこれに従わず、結果、連戦連敗した《周25李賢伝》。このとき都督・平涼郡守で長池の人の梁台字は洛都。爾朱天光・賀抜岳に仕え、文武に活躍して信任を受けた)が、寧に賊の内情を説明したのち、その撃破方法を仔細に述べた。寧はこれを採用した《周27梁台伝》
 ある日、寧がいつものように敗れて逃げ出し、後熾がこれを追った。賢は数百騎を率いて〔がら空きになった〕後熾の本営を奇襲し、妻子・奴僕五百余人・輜重などを奪った。後熾が驚いて本営に取って返すと、賢は自ら後熾兵十余人を斬り殺し、六人を生け捕りにした。後熾は大敗を喫し、身一つで遁走した。討伐軍が長安に凱旋すると、朝廷は賢に奴婢四十人と諸畜数百匹を褒賞として与えた《周25李賢伝》
〔こののち、後熾は勢力を盛り返して(?)、〕秦州を荒らし回った。岐州刺史の李虎がその討伐に赴くと、後熾はこれを恐れて遂に降伏した。虎は降卒から数千人を選抜して己の配下とした《冊府1唐景帝紀》


○梁32陳昕伝
 第五子昕,字君章。七歲能騎射。十二隨父入洛,於路遇疾,還京師。詣鴻臚卿朱异,异訪北間形勢,昕聚土畫地,指麾分別,异甚奇之。
 大同四年,為邵陵王常侍、文德主帥、右衞仗主,敕遣助防義陽。魏豫州刺史堯雄,北間驍將,兄子寶樂,特為敢勇。慶之圍懸瓠,雄來赴其難,寶樂求單騎校戰,昕躍馬直趣寶樂,雄即散潰,仍陷溱城。