●韓賢の死
 10月、己酉(18日)、西魏の行台の宮景寿・都督の楊白駒が洛陽を攻めたが、東魏の大都督〔・洛州刺史〕の韓賢『魏書』では延。いま北史の記述に従う)に撃退された。
 韓賢はまた洛州民の韓木蘭韓雄)の挙兵も擊破した。賢が雄軍の死体の鎧武器を自ら品定めしていると、死体の間に隠れていた雄兵が突如そのすねを斬りつけた。賢は間もなくその傷が元で死んだ。
 賢は武将ではあったが穏やかな性格で正しい行ないを好み、ひどい仕打ちを人民に加えなかった。ゆえに、どの任地でも善政という善政はしなかったが、吏民が苦しむようなことは無かった。
 洛陽の白馬寺は後漢の二代明帝の時に、西域から仏典が白馬に乗せられてやってきたことで建てられたものであり、その仏典は箱に入れられて大切に保管され、当時のままの姿で後世に伝えられていた。人々は代々この仏典を古くからある物として宝物のように扱っていたのだが、賢はそれを何の理由もなく斬って破いたことがあった。論者はそれが原因でこのような死を招いたのだと言い合った。

○魏孝静紀
 己酉,寶炬行臺宮景壽、都督楊白駒寇洛州,大都督韓延(賢)大破之。
○北斉19韓賢伝
 民韓木蘭等率土民作逆,賢擊破之,親自按檢,欲收甲仗。有一賊窘迫,藏於死屍之間,見賢將至,忽起斫之,斷其脛而卒。賢雖武將,性和直,不甚貪暴,所歷雖無善政,不為吏民所苦。昔漢明帝時,西域以白馬負佛經送洛,因立白馬寺,其經函傳在此寺,形制淳朴,世以為古物,歷代藏寶。賢無故斫破之,未幾而死,論者或謂賢因此致禍。贈侍中、持節、定營安平四州軍事、大將軍、尚書令、司空公、定州刺史。

 ⑴韓雄…字は木蘭。河南東垣(洛陽の近西)の人。若年の頃から勇敢で、人並み外れた膂力を有し、馬と弓の扱いに長け、人を率いる才能があった。535年に西魏側に立って挙兵し、東魏の洛州刺史の韓賢と何度も戦った。のち家族を捕虜とされ、やむなく賢に降った。今年、脱走して恒農にいた宇文泰に拝謁し、郷里に帰って再び兵を集めるよう命じられた。537年(2)参照。

┃宇文泰、戦果の拡大を図る
 宇文泰は更に左僕射の馮翊王季海を行台とし、開府の独孤如願と共に二万を率いて洛陽を陥とすように命じた。また、洛州刺史の李顕に三荊を攻略させ、賀抜勝李弼に黄河を渡って蒲坂(泰州)を包囲させた。

○周文帝紀
 遣左僕射、馮翊王元季海為行臺,與開府獨孤信率步騎二萬向洛陽;洛州刺史李顯趨荊州;賀拔勝、李弼渡河圍蒲坂。

 李弼…字は景和。生年494、時に44歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。537年(3)参照。

●河東の薛氏、泰に付く ー蒲坂の攻略ー
 これより前、高歓が晋陽を発ち沙苑に向かった時、蒲坂の人の薛敬珍、字は国宝が従祖兄の薛敬祥にこう言った。
「高歓は天子を関右に蒙塵せしめた大罪人であり、天下の有識者(資治通鑑では『忠義の士』)に力さえあれば、とっくのとうに腹に剣を刺されていたことでしょう。今、その歓が再び兵を頼みに魏室に不遜な態度を取り、大逆を為さんとしておりますが、これはまさに志士が国家に命を投げ打つ時。弟はその事について兄に相談に参りました。」
 敬祥はこれを聞くと非常に喜んでこう言った。
「どうするつもりなのか?」
 敬珍は言った。
「宇文丞相()は寬仁大度にして覇王の才略あり、天子を奉戴して諸侯に号令を下すこと既に数年が経過しております。その政刑は非常に整備され、将兵はみなその命令に服従しておりますので、歓がいくら大軍を擁しているといっても、決してその相手にならぬでしょう。この上更に丞相は天道に従い、歓はこれに背いているのですから、その道理から言っても、戦う前から勝負は決まっていると言ってよいでしょう。我らが今もし義勇兵を集めて歓の退路を断ち、凶徒を一人も残さず殲滅すれば、これはただ朝廷の恥を雪ぐだけでなく、壮子がよく一国一城の主となる功業を打ち立てることにもなるのです。」
 敬祥はこれに深く頷いた。かくて同郡の豪族の張小白・樊昭賢・王玄略らと共に挙兵すると、その軍勢は数日の内に一万余人に膨れ上がった。敬珍らがまさに歓の背後を突こうとした時、歓軍は泰軍に敗北し逃げ帰った。敬珍は敬祥と共にこれを迎撃して多くの首級と捕虜を得た。
 賀抜勝と李弼の軍が河東郡(蒲坂)に到ると、敬珍は小白ら猗氏・南解・北解・安邑・温泉・虞鄉六県の住民十余万を連れて西魏に付き従った。泰はこれを褒め、直ちに敬珍を平陽太守・兼永寧防主とし、敬祥を龍驤将軍・行台郎中・兼相里防主とした。泰は自ら敬珍の手を取ってこう言った。
「河東の地を手に入れられたのは卿ら兄弟の力によるものである。卿らにこの地を託せば、わしは東方に心配をせずともよくなるであろう。」《周35薛敬珍伝》
 

 歓は沙苑の戦いに敗れると、薛崇礼もと西魏の武将だったが、歓の侵攻に遭うとこれに降った。534年〈5〉参照)を河東(蒲坂)に留めこれを守備させていた。崇礼は賀抜勝・李弼軍に包囲されても、城を固く守って降ろうとしなかった。その時、崇礼の族弟で別駕の薛善、字は仲良が密かに崇礼にこう言った。

「高氏は兵を私的に動かし、主上を蒙塵させた大罪人です。一方、私と兄は河東の名族の後裔で、代々国から恩寵を受けてまいった者です。であれば、兄はすぐにでも朝廷に付き従うのが道理でしょう。しかし、朝廷の軍が到っても、兄はこれに帰順しようとせず、なおも逆賊の高氏のために力を尽くそうとされておられます。これでは兄は、もし城が陥落したさい、首を長安に送られ、逆賊なにがしの首として晒されることになるでしょう。死者にも霊魂があった場合、兄はこの非常な恥辱に耐えることができるのでしょうか! ゆえに、兄はこのような恥辱に遭わぬように、一日でも早く朝廷に帰順するべきです。さすれば、忠節心を十分に示すことは叶わずとも(直ちに降伏しなかったため)、生命は全うすることができるでしょう。」

 しかし、崇礼はなおぐずぐずとして決断しかねていた。このとき、善の従弟の薛馥の妹の夫の高子信が蒲坂の防城都督(周武帝紀では牙門将)として城の南面を守備していたが、その高子信が馥経由で善にこう意思を伝えてきた。

「西軍に応じようと考えているのですが、抵抗を排除する自信が無く、二の足を踏んでいます。」

 善がそこで直ちに弟の薛済に下男数十人を与えその助力に赴かせると、信・馥らはこれと力を合わせて門の閂を斬って落とし、勝・弼軍を城中に引き入れた《周35薛善伝》。崇礼は城を捨てて逃走したが、勝らに追いつかれて捕らえられた《周文帝紀》。このとき内応に加わった者は等しく五等の爵位を賞賜として下されていたが、善は弟の薛慎と共にこう言って授爵を固辞した。

「逆に背いて順に付くは、臣下として当然のこと。そのようなことで一門全員封邑を授かるのは心が許しませぬ。」

 泰はその心意気を褒め、善を汾陰令とした。


●東雍州・南汾州・絳郡・夏州の攻略
 賀抜勝と李弼は更に汾・絳一帯の攻略に向かった《周14賀抜勝伝・周15李弼伝》
 これより前、邵郡を陥とした功により大行台左丞・行正平郡事に任じられた楊檦は、沙苑に敗れた歓の追撃に大きな戦果を収めたのち、義軍を率いて更に說伏の使者を各地に派遣した《周34楊檦伝》
 司空従事中郎で聞喜の人の裴邃は、東魏の東雍州(治 正平)刺史の司馬恭が守る正平に密かに都督の韓僧明を入城させ、五百余の城兵から内応の約束を取り付けた。司馬恭はその決行の日の前にこれを知ると、恐れをなして夜陰に紛れて遁走した。ここにおいて東雍州は西魏の支配下に入った(詳細な時期は不明だが、周34楊檦伝では沙苑の後のこととして書かれているので、ここに置いた《周37裴邃伝》
 楊檦の調略はこの正平の他に、半月の間に南汾州・二絳(北絳・南絳)郡からも内応者を相次がせ、賀抜勝と李弼はこれによって両地を攻略することができた《周34楊檦伝》

 また、建州・太寧からも内応者が出たので、泰は楊檦を行建州事としてその攻略を命じた。このとき建州は遠く敵中三百余里の地に在ったが、檦の恩信と威望はそこにも既に知れ渡っていたため、檦軍は到る所で歓迎を受けた。かくて檦軍は建州(高都)に到る頃には一万の軍勢となっており、東魏の刺史の車折于洛の迎撃を破り、東魏の行台の斛律俱敦、斛律金か)の二万も州城の西にて撃破し、多くの軍需物資を得ることに成功した。檦はこれを気前よく義士たちに分け与えた。ここにおいて檦の威名は大いに振るうこととなった(詳細な時期は不明《周34楊檦伝》

 また、東魏の西夏州刺史の許和536年参照)が、西魏の夏州刺史の長孫慶明可朱渾元の出奔の際、動揺した渭州の安撫を任された。535年〈1〉参照)の工作に応じ、夏州刺史の張瓊536年参照)を殺して西魏に降った。泰は慶明を西夏州刺史とし、総統三夏州(夏州・西夏州・東夏州〈513年に徧城郡に置かれた〉)諸軍事とした《周文帝紀・北22長孫倹伝》

●晋州動揺
 東魏の行晋州(治 平陽)事の封祖業封隆之の弟、封延之の字)が城を棄てて逃げると、儀同三司の薛修義534年〈5〉参照)はこれを洪洞まで追って、晋州に戻り再び守備の任に就くよう説得した。しかし祖業は聞き入れず、そのまま北方へ逃亡した《北斉20薛修義伝》。歓はこれに激怒したが、功臣の封隆之の弟であることから死刑は免じた。しかしこれと一緒に逃亡した者たちはみな死刑に処した《北斉21封延之伝》
 当初、歓は晋陽(原文は晋のみ。あるいは晋州?)を大城塞にする計画を立てていたが、中外府司馬の房毓房謨の弟)に、
「賊がこの地にまで侵攻してくる時は、国家が危機に瀕し、人心がばらばらになっている時です。そのような時に大城塞があっても何の役に立ちましょうか?」(原文『「若使賊到此處、雖城何益?」』。
 と諌められたため取り止めたことがあった。
 そして現在歓は沙苑に敗れると、泰・南汾・東雍の三州の住民を并州に強制移住させると共に、晋陽(晋州)を放棄する事さえも考えた。そして実際に家族を英雄城(定州にある城?)に避難させると、修義にこう諫められた。
「晋州(晋陽?)が陥ちれば、定州も危険となります。放棄しないほうがよろしいでしょう。」
 すると歓は怒ってこう言った。
「お前たちはみな裏切り者だ! 以前、并州城(晋陽。あるいは晋州城?)の増築を却下したかと思えば、今度はそこに留まれと言う!」
 修義は答えて言った。
「もし陥落することになりましたら、どうぞそれがしを殺してください。」
 すると斛律金沙苑の敗北を認めない歓に対し、その馬を叩いて無理矢理退かせた。537年〈3〉参照)が言った。
「この漢小児(薛修義)に守らせると仰るなら、その家族を人質にし、兵馬を与えぬようにしてください。」
 歓はこれに従い、かくて修義を行晋州事として、晋陽防衛の要である晋州を守備させることとした《北53薛修義伝》
 修義は晋州に引き返すと、軍民をよく懐けて城を固く守った。西魏の儀同三司の長孫子彦長孫稚の子)が兵を率いて城下にやってくると、修義は門を開き、城内に伏兵を置いてこれを待ち受けた。子彦は開きっぱなしの城門を見て警戒し、遂に城を攻めずに引き返した。歓はこれにいたく喜び、修義を晋州刺史とし、また晋・南汾・東雍・陝四州の行台に任じて、絹千疋を与えた《北斉20薛修義伝》河東の薛氏は、それぞれの志に従って東・西魏に力を尽くしたのであった】。

 封祖業が逃亡した際、晋州民の柴覧が徒党を集めて叛乱を起こした。東魏の洪洞鎮将の高市貴がこれを攻めると、覧は柴壁に逃げ込んで抵抗したが、結局敗れて斬られた《北斉19高市貴伝》

┃洛陽攻略
 馮翊王季海独孤如願・李遠・王思政の軍が東魏洛州の新安郡(洛陽の西)に到ると、恒農から洛陽に撤退していた高敖曹は更に黄河の北に退いた。如願らの先鋒の韓雄・李延孫・陳忻が洛陽に迫ると、東魏の洛州刺史の広陽王湛広陽王淵〈526年(2)参照〉の子)、字は士深は城を棄てて河陽に逃亡し、その長史の孟彦は城を挙げて西魏に降った。如願らは洛陽を占拠し、金墉城(洛陽城内西北にある堅城)に本陣を置いた。
 西魏は開府・華州刺史の寇洛泰が賀抜岳の遺衆を収めるのに大きく貢献した)に恒農の守備を命じた。
 このとき儀同三司の怡峯は奇兵を率いて成臯(北豫州)を襲い、その外城の住民を拉致して帰った。

 これより前、孝武帝が関中に逃亡した時、員外散騎常侍で河東の人の裴寛、字は長寛が諸弟(裴漢・裴尼らがいる)にこう問いかけた。
「現在、権臣が専政し、天子は都落ちを余儀なくされた。両者の間に次なる戦いが始まるのは時間の問題である。我らはそのどちらに付くべきであろうか?」
 諸弟が答えられないでいると、寛はこう言った。
「君臣があべこべになっている今、大義ははっきりとしているではないか。今天子が西方におわすに、東方に付いて臣節を汚す道理は無い。」
 かくて一家を引き連れて大石嶺【水経注曰く、『洛陽の南に新城県があり、その県内に大石嶺がある』】に避難した。そしていま如願らが洛陽に入ると、再び世に姿を現してそのもとに参上したのであった《周34裴寬伝》
 このとき洛陽は荒廃しており、人士は流散してただ河東の人の柳虯生年501、時に37歳)、字は仲蟠が東南の陽城に、同じく河東の人の裴諏之ハイソウシ・ハイシュシ)、字は士正が潁川に在っただけだった。如願はこの二人を共に洛陽に呼び寄せ、虯を行台郎中(季海は行台)に、諏之を開府属(如願は開府)とし、事務を担当させた。当時の人々は二人を「北府の裴諏、南省の柳虯」と言った。このとき洛陽派遣軍のやることは山のようにあったが、虯は徹夜も厭わずに仕事に精励してよくこれを処理した。季海はあるときこう言った。
「柳郎中が採決したものは、確認する必要が無い。」《周38柳虯伝》
 裴諏之はむかし常景幽州刺史の時に杜洛周と激しく戦った。525年〈5〉〜526年〈2〉参照)から百巻の本を借りたが、わずか十日ほどで返してしまった。景はちゃんと読んでいないだろうと思い、一巻ずつその内容について質問してみたが、諏之はその全てに完璧に答えた。景はこれに感嘆して言った。
「応奉(後漢の儒学者)は一度に五行を読み下し、禰衡(後漢の毒舌家)は一目見ただけでだけで文章を暗記できたというが、今、私はこれに匹敵する裴生に会った。」
 如願は諏之を『洛陽遺彦』(洛陽の遺賢)と呼んだ《北38裴諏之伝》
 東魏のもと新安郡守の趙粛は、独孤如願が東討に赴いてくると一族を率いて道案内を買って出た。のち、司州治中、次いで別駕とされ、兵糧を管理して不足を生じさせなかった。宇文泰にはこれを聞くと、人にこう言った。
「趙粛は『洛陽主人』と言うべきである。」
 趙粛は字を慶雍といい、河南郡洛陽県の人である。代々河西に居住し、沮渠氏(北涼)が滅ぶと、曽祖父の趙武は北魏に仕え、金城侯とされた。祖父の趙興は中書博士となった。父の申侯は秀才に挙げられて後軍府主簿となった。
 粛は早くから品行正しいことで有名となった。北魏の正光五年(524)に酈道元が河南尹となると、その主簿とされた。孝昌年間(525~528)に朝廷に出仕して殿中侍御史・威烈将軍・奉朝請・員外散騎侍郎とされた。間もなく直後、次いで直寝とされた(共に宿衛の官)。永安元年(528)に廷尉平とされ、二年(529)に廷尉監とされた。後に母の死に遭って職を去り、のち復帰して廷尉正とされた。のち病気となって職を去り、暫くして征虜将軍・中散大夫とされ、のち、左将軍・太中大夫とされた。東魏の天平元年(534)に新安郡守とされ、任期満了となると洛陽に帰った。

○魏孝静紀
 寶炬又遣其子大行臺元季海、大都督獨孤如願逼洛州,刺史廣陽王湛棄城退還,季海、如願遂據金墉。
○周文帝紀
 初,太祖自弘農入關後,東魏將高敖曹圍弘農,聞其軍敗,退守洛陽。獨孤信至新安,敖曹復走度河,信遂入洛陽。
○周15寇洛伝
 三年,出為華州刺史,加侍中。與獨孤信復洛陽,移鎮弘農。
○周17怡峯伝
 仍與元季海、獨孤信復洛陽。峯率奇兵至成臯,入其郛,收其戶口而還。
○周37趙粛伝
 趙粛字慶雍,河南洛陽人也。世居河西。及沮渠氏滅,曾祖武始歸於魏,賜爵金城侯。祖興,中書博士。父申侯,舉秀才,後軍府主簿。
 肅早有操行,知名於時。魏正光五年,酈元為河南尹,辟肅為主簿。孝昌中,起家殿中侍御史,加威烈將軍、奉朝請、員外散騎侍郎。尋除直後,轉直寢。永安初,授廷尉平,二年,轉監。後以母憂去職,起為廷尉正。以疾免。久之,授征虜將軍、中散大夫,遷左將軍、太中大夫。東魏天平初,除新安郡守。秩滿,還洛。大統三年,獨孤信東討,肅率宗人為鄉導。授司州治中,轉別駕。監督糧儲,軍用不匱。太祖聞之,謂人曰:「 趙肅可謂洛陽主人也。」
○周43韓雄伝
 雄乃招集義眾,進逼洛州。東魏洛州刺史元湛委州奔河陽,其長史孟彥舉城款附。俄而領軍獨孤信大軍繼至,雄遂從信入洛陽。
○周43陳忻伝
 及獨孤信入洛,忻舉李延孫為前鋒,仍從信守金墉城。

●潁州・梁州・滎陽・広州降る
 東魏潁州【天平元年(534)に穎川郡長社に置かれ、許昌・潁川・陽翟郡を領した】長史の賀若統北方の言葉で賀若は忠貞を意味する】が、滎陽の人で大騩山(密県にある)にて東魏に叛いていた(魏孝静紀張倹537年〈1〉4月参照)と協力して、刺史の田迅を捕らえて州城と共に西魏に降った《周文帝紀》
 統は迅を捕らえる前、失敗した時のことや、一族の老弱の多くが歓のもとにいて脱出することが困難なのを考え、久しくその実行を躊躇っていた(原文『統之謀執迅也、慮事不果、又以累弱既多、難以自抜、沉吟者久之。』)。そのとき息子の賀若敦生年521、時に17歳)が進み出て言った。
「父上はむかし葛栄に仕えてその将軍となり、栄が滅んだ後も爾朱氏に仕えて重んぜられた者。韓陵の戦いののち節を曲げて高歓に仕えましたが、その軍中に昔からいたわけでも、功績を立てたわけでもないのに、長史という大役を任されましたのは、ひとえに前者と同様、天下が依然として平定されていない事から、英雄の力を借りなければならないがためでした。ゆえに、もしひとたび天下が統一されますれば、地位は保証されず、むしろ身に危険が及ぶ事態にさえなるように思います。父上、生命を全うし、災禍から逃れんとするなら、どうか迷いはお捨てください。」
 統は涙を流してこれに従い、遂に計画を実行に移したのであった。
 このとき群盗が相次いで山谷に拠って蜂起していた。その内の一人、大亀山の山賊の張世顕が統を奇襲すると、敦は身を挺してこれと戦い、手ずから七・八人を斬って賊を退走させた。統はこれに大いに喜び、左右の幕僚にこう言った。
「わしは若い頃から軍中に在り、多くの戰いに加わってきたが、あの歳であれだけの肝っ玉と頭を持った者を見たことがない。敦は我が家を興すだけに留まらず、国家の名将にさえなるだろう。」
 西魏は都督の梁回に潁州城を守備させた《魏孝静紀》
 前通直散騎侍郎の鄭偉生年515、時に23歳)、字は子直は如願らが入洛したのを聞くと、親族にこう言った。
「今上陛下は崤・函の地(関中)に拠って鼎業を中興なさり、ただいま河内公(如願)が自ら大軍を率いて瀍・洛の地を収復された。もはや天下の到る所、陛下の聖恩に浴したいと思わぬ者はいない。ましてや、我らは代々国から恩を受け、これに報いることを家訓にしてきた一族なのである。今こそ国のために立ち上がって臣節を世に表し、富貴の足がかりを得なければならぬ。どうして平々凡々と何も為さずにいられようか!」
 かくて族人の鄭栄業と共に州里の人々を糾合し、陳留に挙兵した。すると数日のうちにその軍勢は一万余人に膨れ上がった。偉と栄業はこれを率いて東魏の梁州【天平元年(534)に大梁城に置かれ、陽夏・開封・陳留・汝南・潁川・汝陽・義陽・新蔡・初安・襄陽・城陽・広陵郡を領した】を攻め、その刺史の鹿永吉鹿悆の字は永吉。525年に彭城を降す立役者となった。のち孝荘帝が爾朱氏の反撃に遭うと、賀抜勝と共に爾朱仲遠と戦ったが敗れ洛陽に引き返した。その後も兼度支尚書、河北五州和糴大使などを歴任し、天平年間に梁州刺史とされていた。530年〈4〉参照)及び鎮城守将の令狐德・陳留郡守の趙季和を捕らえて関中に向かった。偉が朝廷に馳せ参じると、泰はその心がけに感心してこれを褒め称え、龍驤将軍・北徐州刺史とし、武陽県伯に封じた。
 偉は、鄭先護爾朱栄が胡太后を討とうと洛陽に出兵した時にこれに寝返り、以後孝荘帝の忠臣として活躍した。帝が爾朱氏に敗れると梁に亡命したが、間もなく帰還したところを爾朱仲遠に殺された。531年〈1〉参照)の子である《周36鄭偉伝》
 清河の人で前大司馬従事中郎の崔彦穆、字は彦穆も兄の崔彦珍檀琛と共に成臯(北豫州)にて兵を挙げ、滎陽を攻めて太守の蘇淑周文帝紀では『蘇定』)を捕らえた。泰は彦穆を鎮東将軍・金紫光禄大夫・滎陽郡守とした。

 これより前、高歓が入洛して孝武帝が関中に亡命した時(534年)、広州別駕の劉思は〔広州〕城に立て籠もって東魏に抵抗し、間道伝いに長安に使者を送った。帝はその忠義心を褒め、思を広州長史・襄城郡守とした。しかし、のちに東魏の攻撃を受けると、奮戦むなしく敗れ、以後潜伏生活を余儀なくされていた。
 現在、独孤如願が洛陽に入ると、思は義兵を集めて挙兵し、広州城を占拠して西魏に献じた。
 思は恒農華陰の人で、後漢の太尉の劉寛の十世孫である。高祖父の劉隆は劉宋の武帝が後秦を滅ぼした時(417年)に、劉氏の首望であることを以て招聘を受け、馮翊郡守とされた。のちに赫連勃勃が関中に侵攻してくると(418年)河洛の地に避難し、汝潁の地に居住するようになった。祖父の劉善は北魏の天安年間(466~467)に秀才に挙げられ、中書博士とされた。のち恒農郡守・北雍州刺史を歴任した。父の劉瓌は汝南郡守とされ、徐州刺史を追贈された。
 思は幼少の頃から学問を好み、書物を読み漁った。生まれつき生真面目・謙虚で軍才も有していた。正光年間(520~524)に明経を以て国子助教とされ、のち行台郎中とされた。永安の初年(528)に宣威将軍・給事中を加えられた。二年(529)、東中郎府司馬・征虜将軍とされ、永熙二年(533年)に安北将軍・、銀青光禄大夫・広州別駕とされた。

○周文帝紀
 東魏潁川長史賀若統與密縣人張儉執刺史田迅舉城降。滎陽鄭榮業、鄭偉等攻梁州,其刺史鹿永吉;清河人崔彥穆 、檀琛攻滎陽,擒其郡守蘇定:皆來附。自梁、陳已西,將吏降者相屬。
○周36崔彦穆伝
 大統三年,乃與兄彥珍於成臯舉義,因攻拔滎陽,擒東魏郡守蘇淑。
○周36劉志伝
 鄭偉等之以梁州歸款,時劉志亦以廣州來附。志,弘農華陰人,本名思,漢太尉寬之十世孫也。高祖隆,宋武帝平姚泓,以宗室首望,召拜馮翊郡守。後屬赫連氏入寇,避地河洛,因家于汝潁。祖善,魏天安中,舉秀才,拜中書博士。後至弘農郡守、北雍州刺史。父瓌,汝南郡守,贈徐州刺史。志少好學,博涉羣書,植性方重,兼有武略。魏正光中,以明經徵拜國子助教,除行臺郎中。永安初,加宣威將軍、給事中。二年,轉東中郎府司馬、征虜將軍。永熙二年,除安北將軍、銀青光祿大夫、廣州別駕。三年,齊神武舉兵入洛,魏孝武西遷。志據城不從東魏,潛遣間使,奉表長安。魏孝武嘉之,授□□長史、襄城郡守。後齊神武遣兵攻圍,志力屈城陷,潛遯得免。大統三年,太祖遣領軍將軍獨孤信復洛陽。志糺合義徒,舉廣州歸國。

 
 537年(5)に続く