[西魏:大統三年 東魏:天平四年 梁:大同三年]


┃善渚の戦い

 春、正月、辛丑(5日)、梁の武帝時に74歳)が南郊にて天を祀り、大赦を行なった。また、父兄に良く仕える者、農業に熱心な者にそれぞれ一級の爵位(二十等爵)を授けた。
 この夜、朱雀門で火災が発生した。
 壬寅(6日)、空に雲が無いのに黄色の灰が降ってきた(クラタカウ大噴火の影響?)。
 癸卯(7日)、中書令の邵陵王綸を江州刺史とした。

 この月、東魏の丞相の高歓時に42歳)が龍門を攻めて蒲坂()に陣を置き、三つの浮き橋を架けて黄河を押し渡る姿勢を示した。
 また、この時、その大都督の竇泰は風陵津より黄河を南に渡って潼関に迫り、司徒の高敖曹は兼僕射行台の汝陽王暹と共に洛州(治 上洛)を包囲した。
 この時、西魏の征東将軍・揚州刺史・大都督・武衛将軍の陽猛は善渚(?潼関の東?)を鎮守していたが、竇泰に襲撃されると身一つで逃走した。ただ、宇文泰は多勢に無勢の戦いであったことを考慮し、責めることはしなかった。猛は千人の兵を与えられ、牛尾堡()を守備した。

 陽猛は上洛郡邑陽の人で、豪族の出である。父の陽斌は上庸太守となった。
 北魏の正光年間に万俟醜奴が関西を乱すと、朝廷は猛が商洛の名族であることを以て、襄威将軍・大谷鎮将に抜擢し、胡城令を帯びさせて醜奴を防がせた。元顥が入洛し、北魏の孝荘帝が河北に逃走すると、范陽王誨孝武帝の兄弟)は猛のもとに身を寄せた。猛は孝荘帝が洛陽に帰るまでこれを匿い続け、これによって名を知られるようになった。間もなく広陵王恭が身を寄せてくると、これも良く匿った。北魏の孝武帝は即位すると猛の善行を絶賛し、猛を征虜将軍・行河北郡守とし、間もなく安西将軍・華山郡守とした。猛はどちらの郡においても頗る政績を挙げた。
 帝が西遷すると、猛は部下を率いて鎮所を潼関に遷し、郃陽県伯(邑七百戸)に封ぜられた。

○周文帝紀
 三年春正月,東魏寇龍門,屯軍蒲坂,造三道浮橋度河。又遣其將竇泰趣潼關,高敖曹圍洛州。
○北斉神武紀
 十二月丁丑,神武自晉陽西討,遣兼僕射行臺汝陽王暹、司徒高昂等趣上洛,大都督竇泰入自潼關。

○梁武帝紀
 三年春正月辛丑,輿駕親祠南郊,大赦天下;孝悌力田賜爵一級。是夜,朱雀門災。壬寅,天無雲,雨灰,黃色。癸卯,以中書令邵陵王綸為江州刺史。

○南史梁武帝紀
 三年春正月辛丑,祀南郊,大赦。賜孝悌力田爵一級。是夜,朱雀門災。壬寅,雨灰,黃色。
○周44陽雄伝
 陽雄字元畧,上洛邑陽人也。世為豪族。祖斌,上庸太守。父猛,魏正光中,万俟醜奴作亂關右,朝廷以猛商洛首望,乃擢為襄威將軍、大谷鎮將,帶胡城令,以禦醜奴。及元顥入洛,魏孝莊帝度河,范陽王誨脫身投猛,猛保藏之。及孝莊反正,由是知名。俄而廣陵王恭偽瘖疾,復來歸猛,猛亦深相保護。魏孝武即位,甚嘉之,授征虜將軍,行河北郡守,尋轉安西將軍、華山郡守。頻典二郡,頗有聲績。及孝武西遷,猛率所領,移鎮潼關。封郃陽縣伯,邑七百戶。俄而潼關不守,猛於善渚谷立柵,收集義徒。授征東將軍、揚州刺史、大都督、武衞將軍,仍鎮善渚。大統三年,為竇泰所襲,猛脫身得免。太祖以眾寡不敵,弗之責也。仍配兵千人,守牛尾堡。
○周47蒋昇伝
 大統三年,東魏將竇泰入寇,濟自風陵,頓軍潼關。

 ⑴風陵津…《読史方輿紀要》曰く、『風陵堆は蒲州(蒲坂)の南五十五里にある。潼関と〔黄河を挟んで〕相対し、風陵山・風陵津ともいう。』

竇泰を奇襲すべし
 西魏の丞相の宇文泰時に31歳)は広陽[1]⑴に陣を置き、軍議を開いて諸将にこう言った。
「現在賊徒が三路より攻撃を仕掛けているが、蒲阪の軍が浮き橋を造ったのはただの示威行為にしか過ぎず、その真の目的は我らの注意を引きつけて、竇泰の関中入りを容易にすることにある。ゆえに、蒲坂軍と長く対峙するのはその成功を助けるもので、得策ではない。ではどうするか。真の目的である竇泰を叩くしかないのだ。だが、竇泰は歓が兵を起こして以来常にその先鋒を務めた猛将で、配下も精鋭ぞろいの難敵である。これを破るのは難しいと見る向きもあろう。しかし、竇泰は勝ってばかりいることで驕慢となり、敵を甘く見るようになっているのだ。今その油断を突いて奇襲すれば、必ず勝てる。竇泰に勝てば歓は意気阻喪して、戦わずに退くであろう。」
 すると諸将らは皆口を揃えてこう言った。
「近くにいる敵を放って遠くの敵を奇襲するという策は、成功すればよろしいですが、失敗すれば腹背に敵を受け、それで全てが終わってしまう危険性がございます! ゆえに、ここは兵を分けて防いだほうが宜しいのではないでしょうか。」
 宇文泰は答えて言った。
「これまで歓は二度潼関に迫ったが(534年9月・535年正月)、そのたび我が軍は覇上より先には動かなかった。そして今回大挙としてやってくれば、我が軍の本隊は長安郊外にすら出てこぬ始末となった。これらの事から、賊どもは我らのことをきっと、守りを固めるだけで打って出て来ることのない奴らと思っていることだろう。その上彼らは今得意の絶頂にあるのだ! これで我らを見くびらぬはずがない。我らがその油断を突いて遠く竇泰を奇襲すれば、間違いなく勝つ! 故に失敗した時のことなど考える必要は無いのだ! また、賊どもは浮き橋を架けたとはいっても、準備にまだ五日を要する。私はその間に竇泰を必ず勝ってみせる! 諸君よ、疑うでないぞ!」《周文帝紀》
 しかし諸将はなおその成功に疑いを持ち、結局この計に賛同の意を示したのは行台左丞の蘇綽《周23蘇綽伝》と東秦州刺史で代人の達奚武の二人のみだった《周19達奚武伝》。そこで宇文泰は己の考えを隠し、まだ何も考えついていないふりをして、密かに族子の尚書直事郎中の宇文深に策を尋ねた。

○周文帝紀
 太祖出軍廣陽,召諸將曰:「賊今掎吾三面,又造橋於河,示欲必渡,是欲綴吾軍,使竇泰得西入耳。久與相持,其計得行,非良策也。且歡起兵以來,泰每為先驅,其下多銳卒,屢勝而驕。今出其不意,襲之必克。克泰則歡不戰而自走矣。」諸將咸曰:「賊在近,捨而遠襲,事若蹉跌,悔無及也。」太祖曰:「歡前再襲潼關,吾軍不過霸上。今者大來,兵未出郊。賊顧謂吾但自守耳,無遠鬭意。又狃於得志,有輕我之心。乘此擊之,何往不克。賊雖造橋,不能徑渡。此五日中,吾取竇泰必矣。公等勿疑。」
○周19達奚武伝
 齊神武與竇泰 、高敖曹三道來侵,太祖欲并兵擊竇泰,諸將多異議,唯武及蘇綽與太祖意同,遂擒之。齊神武乃退。
○周23蘇綽伝
 大統三年,齊神武三道入寇,諸將咸欲分兵禦之,獨綽意與太祖同。遂併力拒竇泰,擒之於潼關。

 [1]広陽…『魏書』地形志曰く、広陽県は景明元年に置かれ、馮翊郡に属した。
 ⑴《読史方輿紀要》曰く、『広陽城は西安府(長安)の東七十里→臨潼県(陰盤)の北にある。』

●宇文家の陳平・宇文深
 宇文深は字を奴干といい、黄門侍郎の宇文測534年〈3〉参照)の弟である。正直な性格で器量があり、まだ数歳の時に石を重ねて兵隊に、草を折って軍旗になぞらえたが、その配置がどれも兵法にかなっており、父の永をして「お前は何も言わずとも兵法を知っている。必ずや将来名将となるぞ!」と大いに喜ばせた。

 永安の初め(528)に起家して秘書郎となり、戦乱の中にあってよく時事に的を射たことを言い、爾朱栄に重んじられた。のち車騎府主簿、三年(530)に子都督となって宿衛の兵卒を統率した。歓が入洛して孝武帝を長安に逐うと、他の者が逃亡する中、深は部下をしっかりと繋ぎ止めて入関した。

 宇文泰は深が智謀に優れているの見、大統元年(535)に丞相府主簿・朱衣直閤、のち尚書直事郎中として己の手元に置いていたのだった。

 その深が宇文泰の問いに対し、こう言った。
「竇泰は歓自慢の驍将で、手に負えぬほど勇ましく、常に勝ちを収めて敵を塵芥のように考えております。歓はその勇猛さを常に頼りにして、軍の主力としています。もし今我が軍が蒲坂に布陣すれば、歓は守りを固めて竇泰が潼関を突破するのを待つでしょう。そうなりますと、我が軍は腹背に敵を受ける格好となり、敗北となってしまいます。ゆえに、ここは選り抜いた軽鋭の士を以て、密かに小関【潼関の南にあり、唐代には禁谷と呼ばれた】より竇泰を奇襲するほかないでしょう。そうなされば、短気な竇泰は必ず我らに決戦を挑み、慎重な歓は直ちに助けには動かぬでしょうから、必ずや竇泰を虜にできましょう。竇泰を虜とすれば蒲坂の歓の意気が阻喪するは必定、そこを軍を返して攻め立てれば、これにも勝って一挙に勝負を決めることができましょう。」
 宇文泰は喜んで言った。
「これこそ、我が心である!」《周27宇文深伝》
 庚戌(正月14日)、宇文泰は六千騎を連れて長安に還ると、隴右に逃れて守りを固めると周囲に喧伝した。

○周27宇文深伝
 深字奴干【[三七]北史卷五七廣川公測附弟深傳「干」作「于」】。性鯁正,有器局。年數歲,便累石為營伍,并折草作旌旗,布置行列,皆有軍陣之勢。父永遇見之,乃大喜曰:「汝自然知此,於後必為名將。」
 至永安初,起家祕書郎。時羣盜蜂起,深屢言時事,爾朱榮雅知重之。拜厲武將軍。尋除車騎府主簿。三年,授子都督,領宿衞兵卒。及齊神武舉兵入洛,孝武西遷。既事起倉卒,人多逃散,深撫循所部,並得入關。以功賜爵長樂縣伯。
 太祖以深有謀略,欲引致左右,圖議政事。大統元年,乃啟為丞相府主簿,加朱衣直閤。尋轉尚書直事郎中。
 及齊神武屯蒲坂,分遣其將竇泰 趣潼關,高敖曹圍洛州。太祖將襲泰,諸將咸難之。太祖乃隱其事,陽若未有謀者,而獨問策於深。對曰:「竇氏,歡之驍將也,頑凶而勇,戰亟勝而輕敵,歡每仗之,以為禦侮。今者大軍若就蒲坂,則高歡拒守, 竇泰必援之,內外受敵,取敗之道也。不如選輕銳之卒,濳出小關。竇性躁急,必來決戰,高歡持重,未即救之,則竇可擒也。既虜竇氏,歡勢自沮。回師禦之,可以制勝。」太祖喜曰:「是吾心也。」軍遂行,果獲泰而齊神武亦退。

┃偵察警戒の天才・韓果
 辛亥(正月15日)宇文泰は文帝に謁見したのち、軍を率い、虞候都督の韓果の定めた計画に従って秘密裏に東に向かった。
 韓果は元の姓を歩大汗、字を阿六抜といい、代郡武川の人である。若くして勇猛で、馬と弓の扱いに長けていた。また、人並み外れた膂力を持ち、鎧を着、矛を担いでいたとしても山道をまるで平地のように歩き、数十・百日が経っても疲労の色を見せなかった。
 賀拔岳の関中遠征に麾下の一人として従い、万俟醜奴やその一党と数十戦して全て撃破した。この功によって宣威将軍・子都督とされ、のち宇文泰の侯莫陳悦討伐に従い、都督に昇進して邯鄲県男の爵位を授かった。孝武帝が入関すると石城県伯に、大統元年(535)に公に爵位を進められ、通直散騎常侍を加官された。
 果は抜群の記憶力を有し、一度通った場所の地勢はつぶさに記憶することができた。また、智謀も兼ね備え、敵の内情を推察し把握することができた。果が高所より溪谷を眺め、怪しいと思った所には、必ず間者が隠れ潜んでいて、捕らえることができた。宇文泰はその特性を高く評価し、果を虞候都督(泰が初めて置いた官で、偵察・巡邏の兵を統べた)とし、常に戦いに連れて斥候の騎兵を率いさせた。果は殆ど眠ることなく、一日中周囲を警戒することができた。

○魏官氏志
 出大汗氏,後改為韓氏【[三一]姓纂卷八暮韵下、氏族略五「出大汗」並作「步大汗」。疏證及胡姓考又據北齊書卷二0步大汗薩傳,中岳嵩高廟碑陰題名有「步大汗契□真」證此志「出」字為「步」之訛】。
○周27韓果伝
 韓果字阿六拔,代武川人也。少驍雄,善騎射。賀拔岳西征,引為帳內。擊万俟醜奴及其枝黨,轉戰數十合,並破之。膂力絕倫,被甲荷戈,升陟峯嶺,猶涉平路,雖數十百日,不以為勞。以功授宣威將軍、子都督。從太祖討平侯莫陳悅,遷都督,賜爵邯鄲縣男。魏孝武入關,進爵石城縣伯,邑五百戶。大統初,進爵為公,增邑通前一千戶,加通直散騎常侍。果性彊記,兼有權畧。所行之處,山川形勢,備能記憶。兼善伺敵虛實,揣知情狀,有濳匿溪谷欲為間偵者,果登高望之,所疑處,往必有獲。太祖由是以果為虞候都督。每從征行,常領候騎,晝夜巡察,畧不眠寢。從襲竇泰於潼關,太祖依其規畫,軍以勝返。賞真珠金帶一腰、帛二百匹,授征虜將軍。

┃黄紫の気
 宇文泰が馬牧沢に到った時、西南方から立ち昇った黄紫色の雲気が太陽を包み込んだ。それは未の刻(13時から15時)から酉の刻(17時から19時)にまで及んだ。泰はこれを見ると、天象に詳しい蒋昇にこう尋ねて言った。
「これは何の前触れなのであろうか?」
 昇は答えて言った。
「雲気が現れた西南の方角は未の地に当たり、未は土徳に当たります。そして土王の四季は秦の分野に当たります。今その秦の地に拠るのは我々です。我が軍が出撃してこの雲気が現れたのは、まさしく、大きな慶事が起こる前触れでありましょう。」
 蒋昇は字を鳳起といい、楚国平河の人である。父の蒋儁は南平王府従事中郎・趙興郡守まで昇った。
 昇は無欲でさっぱりとした性格をしていて、若い頃から天象の事を好んで学んだ。宇文泰は昇を信任し、何かあればすぐ相談できるよう常に近侍させていた。

○周47蒋昇伝
 蔣昇字鳳起,楚國平河人也。父儁,魏南平王府從事中郎、趙興郡守。昇性恬靜,少好天文玄象之學。太祖雅信待之,常侍左右,以備顧問。大統三年,東魏將竇泰入寇,濟自風陵,頓軍潼關。太祖出師馬牧澤。時西南有黃紫氣抱日,從未至酉。太祖謂昇曰:「此何祥也?」昇曰:「西南未地,主土。土王四季,秦之分也。今大軍既出,喜氣下臨,必有大慶。」於是進軍與竇泰戰,擒之。

 ⑴馬牧沢…《読史方輿紀要》曰く、『陜州の西六十里→霊宝県の西にある。霊宝県の西南三十里に〔西〕恒農城がある。』

┃小関の決戦
 癸丑(正月17日)の早朝、宇文泰は小関に到った。竇泰は西魏軍の突然の襲来に狼狽し、慌てて付近の山に拠って迎え撃とうとしたが、態勢が整わぬ内に攻撃を受けた。竇泰は大敗を喫して捕らえられ、斬首された(享年38。竇泰伝では自殺)。宇文泰は一万余の兵をことごとく虜とし、竇泰の首を長安に送った。
 宇文泰は戦功の殆どを挙げた李弼に、竇泰の乗っていた騅馬(青白毛の馬)と、竇泰が着用していた鎧兜を与えた。また、作戦の成功に大きく寄与した韓果に、真珠金帯一本・絹二百疋と、征虜将軍の官を与えた。この時、陽猛は東魏の恒農郡守の淳于業を虜とした《周44陽猛伝》
 一方、歓は急いで竇泰を助けに行こうとしたものの、黄河の表面の氷が薄かったためにできず、やむなく浮き橋を解体して撤退した。歓軍はその間に泰軍の追撃を受けたが、顕州刺史で代人の薛孤延が良く殿軍を務め、一日の内に十五振りの刀を折るほどの奮戦をしたことで無事晋陽まで帰還することができた《北斉19薛孤延伝》
 一方、宇文泰もまた軍を返した《周文帝紀》

○魏孝静紀
 四年春正月,…竇泰失利自殺。
○周文帝紀
 癸丑旦,至小關。竇泰卒聞軍至,惶懼,依山為陣,未及成列,太祖縱兵擊破之,盡俘其眾萬餘人。斬泰,傳首長安。
○北斉神武紀
 四年正月癸丑, 竇泰軍敗自殺。神武次蒲津,以冰薄不得赴救,乃班師。
○周11叱羅協伝
 兆死,遂事竇泰,泰甚禮之。泰為御史中尉,以協為治書侍御史。泰向潼關,協為監軍。泰死,協亦見獲。太祖以其在關歲久【[二四]冊府卷七七八九一頁「關」下有「中」字。按本傳前文協於大統三年五三七被俘,在關中並不久。「在關」固費解,「在關中歲久」也和事實不符,疑有誤。】,授大丞相府東閤祭酒、撫軍將軍、銀青光祿大夫,轉錄事參軍,遷主簿,加通直散騎常侍,攝大行臺郎中,累遷相府屬從事中郎。
○周15李弼伝
 從平竇泰,先鋒陷敵,斬獲居多。太祖以所乘騅馬及竇泰所著牟甲賜弼。

○周27韓果伝
 賞真珠金帶一腰、帛二百匹,授征虜將軍。

○北斉15竇泰伝
 四年,泰至小關,為周文帝所襲,眾盡沒,泰自殺。
○武貞竇公墓誌銘
 以魏天平四年正月十七日薨於弘農陣所,春秋三十八。

 李弼...字は景和。生年494、時に44歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。535年(1)参照。

●去りて還らず
 これより前、竇泰が鄴を出立せんとした時、鄴にいた恵化尼という者が、こう歌を作って言った。
「竇行台、去りて迴()らず。」(始皇帝暗殺を目論んだ荊軻の歌『壮士、一たび去りて復た還らず』を元に作ったものか
 また、出発の前夜の三更(約0時)頃に、突然数千人の朱衣朱巾の者たちが御史台に押し入り、「竇中尉を捕らえに来た」と言った(竇泰は御史中尉)。宿直の兵吏たちがあっと驚く中、彼らはいくつかの部屋を探し回り、それから突然消え失せた。朝になると、兵吏たちが門の錠前を確認してみたが、何の異常も無かった。人々はそこから彼らが人でなかった事を知り、また竇泰が必ず敗れる事を知ったのだった。
 竇泰は、歓の妻(婁昭君)の姉の婁黒女武貞竇公夫人墓誌銘)を妻に持ち、歓から縁者として厚遇されたが、これにあぐらをかくことをせず、飽くまで己の力量によって出世の道を切り開いた。御史中尉に任じられたのは功臣ゆえの事で、あまり弾劾を行なう事はなかったが、それでも威厳によって百官を恐れさせ、襟を正させた《北斉15竇泰伝》

●敗因
 これより前、北豫州驃騎大将軍府司馬で中山の人の杜弼、字は輔玄は、監軍として竇泰の軍に随行していたが、竇泰が敗北して自殺すると、同僚の六人と共に陝州に逃げ帰る醜態を見せた。刺史の劉貴がこれを捕らえて晋陽に送ると、歓は弼を詰りつけて言った。
「竇中尉の此度の出陣の際、わしは前もって事細かく言いつけをしておいたのに(原文『吾前具有法用』)、中尉はこれを守らず自ら敗北の道を選び取ってしまった。お前は監軍であったのに、どうしてその中尉の誤りを正そうとしなかったのか!」
 弼は答えて言った。
「私は一介の小役人で、詩文や書画が多少上手く書くのがせいぜいの者。そのような者に臨機応変の技を求めても、無駄なのは明らかでありませんか。」
 歓はこれを聞いてますます怒ったが、房謨の諌めを受けて不承不承放免し、下灌鎮司馬に左遷した《北斉24杜弼伝》

●洛州の攻防
 これより前、高敖曹は歓より西南道大都督に任ぜられ、西魏の洛州の攻略を任されると、黄河を渡る際に河伯(黄河の水神)を祀ってこう言った。
「河伯は水中の神、高敖曹は地上の虎なり。いまその虎が神の住処を通るのだから、こんなにめでたいことは無い。どうか大いに飲もうではないか(原文『行経君所、故相決酔』)。」
 かくて敖曹は商・洛の地に到ると、以前東魏に降っていた当地の豪族の杜窟を先導に(周44泉企伝)、険しい山道を進みながら要害に立て籠もる巴人に連戦連勝し、そのまま洛州の治所である上洛に攻めかかった《北31高昂伝》。しかし洛州刺史の泉企は息子の元礼・仲遵と共に奮戦して十日余りも持ちこたえ《周44泉企伝》、敖曹はその最中に三本もの流れ矢を受けしばらく人事不省となった。しかし目を覚ますや再び馬に打ち跨り、兜を脱ぎ城の周囲を巡って己の健在を城内に知らしめた《出典不明》
 いっぽう武勇の誉れ高い仲遵は、父の命令で五百の兵を率いて城外に打って出たり、矢が尽きても棍棒で迫りくる敵を追い払ったりするなど力闘していたが、流れ矢が目に当たると戦うことができなくなった。
 丁巳(21日)魏孝静紀)、守りの要を失った城は遂に陥落した。東魏軍が入城してくると、城兵たちはこう慨嘆して言った。
「二郎(仲遵)どのが傷つかねば、このような事にはならなかったろうに。」《周44泉仲遵伝》
 企は敖曹に会うとこう言った。
「我が力が屈しただけで、我が心が屈したわけではない。」
 敖曹は杜窟を洛州刺史とした《周44泉企伝》。敖曹は城を陥としたものの戦傷甚だしく、生死の境をさまよっていたためつい左右にこうこぼした。
「我が身は既に国家に捧げておるゆえ、死んでも恨みは無いのだが、ただ唯一心残りがあるとすれば、それは季式が刺史となっておらぬことだな【季式は敖曹の弟孫搴と痛飲して死なせ、その代わりに陳元康を推挙した。536年参照)】。」
 歓はこれを伝え聞くと、直ちに朝廷に早馬を送り季式を済州刺史とした。
 敖曹は洛州を陥とすと更に藍田関【唐地理志に曰く、『京兆郡の藍田県に藍田関がある。古の嶢関劉邦の進攻に対し、秦が最後の防衛拠点とした場所である。』】に進出しようとしたが、そこで歓からの使者にこう告げられた。
「竇泰軍が敗北し人心が動揺しているゆえ、速やかに退却せよ。道の地勢は険しく賊の勢いは盛んであるから、身一つで逃げてもよい。」(出典不明
 しかし敖曹は兵士たちを見捨てることができず、これらと共に退却することを決めた《北31高昂伝》。泉企は元礼と共に(周44泉元礼伝)これに付き従わされたが、仲遵は傷が重いために城に残された(周44泉仲遵伝)。出立する時にあたり、企は密かに二子にこう教え諭して言った。
「わしの平生の望みはただ令長(県の長官)になることであったが、幸い聖恩を蒙り、台司(三公)に次ぐ位にまで昇る事ができた(企は大統元年に開府儀同三司・兼尚書右僕射・上洛郡公とされていた)。だが、そのような高い爵禄を得、しかも高齢となっては、余命幾ばくもないのは推して知るべしであろう。一方、お前たちの志は立派で、功名を打ち立てるに充分なものがある。忠と孝の道は並び立たぬもの。お前たちはそれぞれ一計を案じ、老い先短いわしを放って賊の手から逃れ、朝廷に帰するがよい。お前たちが朝廷のために力を尽くしてくれさえすれば、わしは満足なのだ。だから、わしが東方にいるからといって、決して臣節を汚すような真似は決してするな。頑張るのだぞ!」
 そして涙を払って別れると、もう何も言わなかった。これを聞いた者で憤嘆しない者はいなかった《周44泉企伝》
 元礼はその言いつけを守って道中逃亡して上洛に還ると、弟の仲遵と密かに会い、別れる際の父の言葉を胸に、秘密裏に地元の豪族らに杜窟討伐の協力を仰いだ。泉・杜の二氏はどちらも洛州の名族ではあったが、鄉人は泉氏を重んじ杜氏を軽んじていたので、喜んで兄弟の求めに従った。かくて兄弟は信宿(二晩)の間に窟を奇襲してこれを斬ることに成功した。窟の首を長安に送ると、朝廷はこれを嘉して元礼を衛将軍・車騎大将軍とし、洛州刺史の世襲権を与え《周44泉元礼伝》、仲遵を豊陽県伯とした《周44泉仲遵伝》
 一方、敖曹は全軍を率いて戦いながら退却し、軍を全うして還ることに成功した《北斉21高昂伝》

○魏孝静紀
 丁巳,高敖曹攻上洛,克之,擒寶炬驃騎大將軍、洛州刺史泉企。以汝陽王暹為錄尚書事。

○北斉神武紀
 高昂攻剋上洛。

┃霜害と旱害
 この月、東魏の孝静帝時に14歳)が元宵節(正月十五日の祭り)の偸戯(軽薄な遊戯?)を禁じた《魏孝静紀》
 
 2月乙酉(20日)、東魏の并・肆・汾・建・晋・東雍・南汾・泰・陝九州が霜害と旱害に悩まされ、人々が飢餓に陥り食糧を求めて流亡するようになっていたため(去年の秋8月頃に発生していた)、歓はそれぞれの州に倉を開いて彼らを救済するように命じた。それでも死者は膨大な数に上った。

 丁亥(22日)、梁の武帝が藉田を耕す儀式を行なった。
 己丑(24日)、尚書左僕射の何敬容字は国礼)を中権将軍とし、護軍将軍の蕭淵藻武帝の兄の子。527年〈4〉参照)を左僕射とし、右僕射の謝挙を右光禄大夫とした《梁武帝紀》

○魏孝静紀
 四年春正月,禁十五日相偷戲。

○北斉神武紀
 二月乙酉,神武以并、肆、汾、建、晉、東雍、南汾、泰、陝九州霜旱,人饑流散,請所在開倉賑給。
○魏食貨志
 四年春,詔所在開倉賑恤之,而死者甚眾。

┃神璽
 この月、西魏の文帝時に31歳)が扶風郡槐里県にて神璽が発見されたのを祝い、大赦を行なった《北史西魏文帝紀》

 夏、4月『資治通鑑』では3月とあるが、今は『魏書』『北史』孝静紀の記述に従う、辛未(6日)、東魏が七帝の位牌を新廟に移し【七帝とは、道武・明元・太武・文成・献文・孝文・宣武のことである】、大赦を行なった。

○魏孝静紀
 夏四月辛未,遷七帝神主入新廟,大赦天下,內外百官普進一階。

┃張倹の乱
 これより前、滎陽の人の張倹らが大騩山にて叛乱を起こし、西魏と気脈を通じていた。
 壬辰(27日)、武衛将軍の高元盛成?)がこれを撃破した《魏孝静紀》

○魏孝静紀
 先是,滎陽人張儉等聚眾反於大騩山,通寶炬。壬辰,武衞將軍高元盛討破之。


●斛斯椿の死
 この月、西魏の太傅の斛斯椿が逝去した(享年43《北史西魏文帝紀》。文帝は自らその弔問に出向き、百官もこれに赴いて嘆きの声を上げた。帝は椿の棺に東園の秘器(皇室・顕官用の棺材)を用いることを許し、尚書・梁郡王景略にその喪事を監護させた。また大将軍・録尚書事・三十州諸軍事・侍中・恒州刺史・常山郡王を追贈し、文宣と諡し、太牢(天子が社稷を祀るときに供える、牛・羊・豚の肉)を以てこれを供養した。のち大将軍を大司馬に改め、轀輬車(温度を調節できる大車)に棺を乗せることを許した。埋葬の際、帝は自ら渭陽に出向き、棺を縛る縄に縋り付いて慟哭した。
 孝武帝が西遷してより、関中には戦乱が続いて戒厳令が布かれていたが、椿のみ外出の際に儀杖兵を伴い、先払いをする事を許可されていた。また、文帝がある時椿に数軒の店舗と三十頭の耕牛を下賜すると、椿は国難が続いている事や人民と利を争うべきでない事を理由に、店舗を辞退して耕牛のみを受け、その耕牛も一日一頭を煮て軍士の腹を満たすのに用いた。その臨終の際、家には最低限の財産しか遺されていなかった【椿は爾朱氏と高歓の間にあって暗躍し、爾朱氏が滅んだのちも高歓の手を焼かせた。しかし、入関したのちは、宇文泰と同列の身分にあったというのに何もすることなく終わった。思うに、権力が無ければその智謀も振るいようが無かったのだろう《北49斛斯椿伝》

 李延寿曰く…椿は幾多の危難に遭ったのに、良く終わりを全うすることができた。これは人智の及ばぬところ(運命)がそうさせたのであろう。

 夏、5月、西魏が広陵王欣節閔帝の兄)を太宰(北19広陵王欣伝では『大冢宰・中軍大都督』)とし、賀抜勝を太師とした。
 6月、司空の扶風王孚を太保、大尉の梁景睿覧の字、535年〈2〉参照)を太傅、司徒の広平王賛を太尉、開府儀同三司の王盟宇文泰の母の兄。侯莫陳悦討伐のさい原州の留守を守った。534年〈2〉参照)を司空とした《北史西魏文帝紀》

┃王遊浪の乱
 夏陽の人の王遊浪が楊氏壁にて乱を起こすと、宇文泰は開府儀同三司・北雍州刺史の于謹534年〈3〉参照)にこれを討たせ、虜とした《周15于謹伝》

 宇文泰が大行台の廃止を申し出た。文帝は〔これを聞き入れず、かえって〕以前(535年正月)固辞された録尚書事と王爵を泰に再び授けた。すると泰は録尚書事は受けたものの、王爵はなおも固辞した《周文帝紀》

●六王三川
 壬申(8日)《北斉神武紀》、歓が汾陽の天池【水経注に曰く、『太原郡汾陽県の北にある燕京山の頂きにある大池で、一里四方余りあり、鏡のように澄んだ水を湛える。』祁連池ともいう。524年〈2〉参照)】にて遊んだ際、そのほとりに『六王三川』という文字が浮き出ている瑞石を見つけた。これを不思議に思って幕中にいた行台郎中の陽休之字は子烈。もと賀抜勝に仕え、共に梁に亡命したが、そこで袂を分かって東魏に付いていた。534年〈5〉参照)に尋ねると、休之はこう言った。
「『六』は、大王の字【歓の字は賀六渾】を指し、『王』は大王が天下の王となる事を指しています。これは大王が天子となるめでたい印であります。大王がこれを天池にて拾われたのは、まさに天命が降りたことを現すもの。紛れもなく吉祥であります。」
 歓が次いで『三川』の意味を問うと、休之はこう言った。
「『三川』とは、河・洛・伊、また涇・渭・洛の三川の事を指します【涇・渭・洛の『洛』は、関中にある洛水のことで、鄜・坊・同三州を経て渭水に注ぐ】。河・洛・伊は洛陽の地にあり、涇・渭・洛は関中の地にあります。これはすなわち、大王が天子となった場合、関・の地を統べ治めることができることを表しているのです。」
 すると歓はこう言った。
「人々は何事が無くてもわしが簒奪すると言い合っているのに、今この事を聞けばますますうるさくなるだろう! 今日のことは妄りに口にするでないぞ!」
 休之は、陽固の子である【陽固は孝文帝に仕え、劉昶の南伐に従った】(495年正月参照《北斉42陽休之伝》
 行台郎中の杜弼もある時折を見て歓に禅譲を受けるように勧めたが、杖で打たれて追い払われた【高歓の志は曹操の「わしは周の文王となろう」という言葉と同じ所にあり、本当に北魏から禅譲を受けるつもりが無かったのであろう《北斉24杜弼伝》

┃七月降雪
 この月(6月、梁の青州朐山にて霜が降りた。
 7月、青州にて雪が降り、穀物に被害が出た。
 この年、飢饉が発生した。

○梁武帝紀
 六月,青州朐山境隕霜。己酉,義陽王譼薨。秋七月,青州雪,害苗稼。…是歲,饑。