●高歓出陣

 高歓は洛陽に向かうに際して、弟で定州刺史の高琛を并・肆・汾大行台僕射・領六州九酋長大都督として晋陽の留守を任せ《北斉13高琛伝》、兼丞相府長吏の崔暹にこう言った。
「丈夫同士が理解し合うのに、時間などいらぬ(原文『豈在新旧』。崔暹伝を見るに、歓と崔暹は出会ってから少ししか経っていない)。そもそも、軍事行動というのは非常に重大なもので、留守の任もそれに比して重要なものである。しかし、その留守の任を任せる家弟(高琛)は年少(20歳付近)でまだ物事に通じておらぬ。ゆえに、留守のことを全てそなたに託そうと思う。」
 かくて暹と三、四度にわたって固い握手を交わした北斉30崔暹伝
 崔暹、字は季倫は、崔挺(496年9月参照)の族孫である【524年7月に破六韓抜陵に大敗を喫した崔暹とは別人である(この崔暹は河陰の変の際に殺害されている】。戦乱を避けて勃海の高乾を頼り、妹をその弟の仲密に嫁がせた。のち仲密が滄・光二州の刺史となると、暹はその長史とされて政務を任された。のち高琛が定州刺史となると、その開府諮議とされた。のち琛に従って晋陽に赴くと、歓と話して気に入られ、その兼丞相長史とされていた《北32崔暹伝》
 歓は兵士たちに対してこう告げて言った。
「わしは爾朱氏の擅()権に憤り、これを討って大義のなんたるかを天下に示し、主上を奉戴して大忠のなんたるかを人神に示した。しかるにいま斛斯椿の讒言に遭い、天子に忠義心ではなく叛逆心を抱いているかのように疑われてしまった。昔、晋の趙鞅(簡子)が晋陽に挙兵したのは、君側の奸(范子・中行子)を誅せんがためであった。いま南下するのも、ただ君側の奸である椿を討つためである!」
 かくて高敖曹を先鋒として洛陽へ進軍を開始した。このとき歓はこう言った。
「司空(高乾)の言(孝武帝が事を起こす前に禅譲を受けるように勧めた事?)を聞いておれば、このような事をせずとも良かったであろうに。」
 すると司馬子如が答えて言った。
「幼少な者を天子とすべきだと言ったのは、まさにこのような事態になるのを恐れたからです。」《北斉神武紀》

●宇文泰、州郡に檄を発す
 宇文泰は州郡に檄文を送って言った。
『蓋(けだ)し聞けらく、陰陽 遞(かわるがわる)用(はたら)き、盛衰 相い襲(くりかえ)すと。苟(いや)しくも百六に当たらば、三五を聞く無し()。皇家(北魏)創歷(建国)せしより、蒼生(人民)を陶鑄(育む)し、四海(天下)を保安し、万物を仁育す。運 孝昌(525~528)より距(へだ)たり、屯沴(災禍)しばしば起こり、隴・冀騷動し、燕・河狼顧す。霊命重啓なりといえども、蕩定に期あれば、乗釁(火事場泥棒)の徒、因りて羽翼を生ず。
 賊臣高歓、器識(器量見識)庸下(並よりも下)にして、出自輿皂(卑賤)なれば、礼義〔の評判〕を聞くこと罕(まれ)なり。直()だ一介の鷹犬のみなるを以て、力を戎行(戦争)に效()くし、恩私(寵愛)を靦冒(受けることを恥じる)して遂に栄寵に階(すす)む。〔しかるに〕誠を尽くし節を尽くすこと能わず、もっぱら姦回(邪心)を挟(いだ)きて、乃ち爾朱栄に茲(ますます)篡逆を行なわしむ。栄 政をもっぱらにして誅に伏し、世隆(爾朱世隆) 凶党を以(ひき)いて外叛するに及ぶや、歓 苦(しき)りに相い敦勉して京師を取らしむ。また吐万児(爾朱兆)に弒虐を為さしめ、暫く建明(元曄)を立てて以て天下に令し、仮に普泰節閔帝元恭)を推して威権を竊(ぬす)まんと欲す。並(とも)に廃斥(廃位)に帰し、俱(とも)に酷害(殺害)せらる。ここにおいて(この時点では元曄は廃されていたが殺されてはおらず、節閔帝は廃されても殺されてもいない。歓が挙兵して爾朱氏を討ったのちにこれに殺された)兵を河北に称()げ、仮に爾朱を討ちて、亟(すみ)やかに表奏を通じ、讒賊を取(ほろぼ)したりと云()えり。既に廃黜を行ない、遂に篡弒(天子を殺して位を奪う)せんとす。〔しかるに〕人望未だ改まらず(人心が北魏から完全には離れていないこと)、鼎鑊の交及(釜茹でにされる。破滅する)を恐るるを以て、乃ち宗室を求め、権(かり)に人心を允(おさ)めんとす。〔しかるに〕天まさに魏に与せんとし、必ずまさに主を有らしめんとせば、聖明(天子、ここでは孝武帝のこと)を翊戴(皇帝の座に就ける)するは、誠に歓の力に非ざるなり。しかるに歓 兵を阻(たの)みて安忍(残忍な振る舞いを平気で行なう)なれば、〔増長して〕自らの功とおもえり。広く腹心を布()くこと、州を跨ぎ郡に連なり、禁闥(宮中)を端揆(つかさどる)すること、親党(歓の一党)に非ざるはなし。みな貪虐を行ない、生人(人民)を窫窳(あつゆ。人を食らう伝説上の獣。窫窳のように人を虐げる意)す。しかして(また、)旧将名臣・正人直士、瘡痏(災い)横生(次々と起こる)し、動けば網羅(法令)に挂()かる。故・武衛将軍の伊琳、清貞剛毅なりて、禁旅ここに属す。直閤将軍の鮮于康仁、忠亮驍傑なりて、爪牙ここに在り。歓 收()らえてこれを戮(ころ)し、曾て聞奏(孝武帝に伝える)するなし。司空の高乾、これ其()の党与にして、毎(つね)に相い影響して社稷を危うくせんと謀る。但()だ姦志未だ従わざるを以て、先に洩漏するを恐るれば、乃ち密かに朝廷に白(もう)し、高乾を殺さしむるに、方(まさ)に其の弟(高敖曹)と哭対して、天子の横戮(無実の罪で殺す)と称す。孫騰・任祥、歓の心膂にして、並(とも)に枢近に入居して国の間隙を伺い、歓の逆謀まさに発せんとするを知るや、相い継いで逃帰す。しかるに、歓 益(ますます彼らに)撫待を加え、亦た陳白(上奏)するなし。
 然りて歓の入洛の始めは、本より姦謀有り。親人の蔡俊をして河・済(黄河・済水一帯)に作牧(長官とする。ここでは済州刺史としたことを指す)し、厚く相い恩贍(恩恵を与える)して、以て東道主人と為さしむ。故・関西大都督・清水公の賀抜岳、勳徳隆重にして、興亡ここに寄(やど)るに、歓 乱を好みて禍いを楽しめば、深く相い忌毒し、乃ち侯莫陳悦と陰かに陷害せんことを図る。幕府(宇文泰)、受律專征を以てただちに〔悦を〕討戮す。歓 逆状すでに露(あらわ)れたるを知れば、稍(ようよう)旅距(反逆心)を懐き、遂に蔡俊をして代わるを拒ましめ、竇泰をしてこれを佐(たす)けしむ。また侯景らをしてここに白馬に向かわしめ、輔世珍らをしてただちに石済に赴かしめ、高隆之・疋婁昭疋〈匹〉婁は婁氏の胡姓。婁氏は漢風に改めたもの)らをして壺関に屯據せしめ、韓軌の徒をして衆を蒲阪に擁せしむ。ここにおいて天子に上書し、しばしば得失を論じ、乗輿を訾毀(非難)し、朝廷を威侮す。此れ微庸(つまらぬ働き)に藉()りて、ここに大宝(帝位)を冀う。谿壑(けいがく)盈()つるべくして(深い谷が満ちるほどで)禍心測れず。或いはただちに荊・楚()に赴き、彊(領土)を外に開かんと言う。或いは分かちて伊・洛に詣(いた)り、彼の讒人を取らんと言う。或いは来たりて関に入り、幕府と決戦せんと欲すと言う。今聖明(陛下)運を御して、天下を清夷(平定)し、百寮(百官)師師として(臣下としての道を守る)、四隩(四方の辺境)より来暨(到来)す。人ことごとく忠良なるに、誰が君側(悪臣)たらんや? しかるに歓 自己に威福せしめ、ここに乱階を生ず。南箕(讒佞)を緝構して、鹿を指して馬と為し(『史記』始皇本紀に曰く、『〔趙高〕鹿を持して二世に献じて曰く、「馬なり。」二世笑いて曰く、「丞相(趙高)も誤るか? 鹿を謂うに馬と為せり。」左右に問うや、左右或いは默し、或いは馬と言いて以て趙高に阿順(へつら)い、或いは鹿と言う者あり。高因りて陰かに諸(もろもろ)の鹿と言う者に中(あ)つるに法(厳刑)を以てす。〔これより〕のち群臣みな高を畏る。』)、凶逆を包蔵して我が神器を伺う。これをしも忍ぶべくんば、孰(なに)をか容るるべからざらん(『論語』八佾1に曰く、『季氏(魯国の家老)を謂(のたま)わく、八佾(八人八列の舞人を宗廟に奉納する天子の特権)を庭に舞わしむ。これをしも忍ぶべくんば、孰(なに)をか忍ぶべからざらん』。これさえも我慢できるのなら、もう世の中に我慢できないものはないだろう、と言うほどに容赦のできないことを指す)!
 幕府()、宇宙(天下)を折衝(平定)せんとするも、〔まず〕親しくまさに脤を受く(天子より軍の統率を任される)べきとす。銳師百万・彀()騎千群あるも、糧を裹(つつ)み(携帯して)甲(よろい)きて坐り(臨戦態勢を取ること)、ただ敵をこれ俟()つのみなるは、義の在る所にして、躯(からだ)を糜(つい)やすを恡()しむに匪(あら)ず。〔いま〕頻りに詔書(軍の統率を認める詔)有れば、天下に班告して、歓の逆乱を称()げ、兵を徵(あつ)めて伐を致さんとす。今すなわち将帥に分命して、機に応じて進討し、或いは其の要害に趣(おもむ)き、或いは其の窟宅(窟穴)を襲うこと、蛇擊のごとく電繞(素早くまとわりつく、懐に入る)し、星羅(無数に羅列した星)のごとく霧合(一致団結して畳み掛ける)せしむ。しかして(その上)歓、天地に違負(そむ)き、人鬼に毒被せらるれば、これに乗じて掃蕩するの易きこと、俯(かが)みて拾うに同じ。歓もし河を渡り、稍(ようよう)宗廟に逼れば、則ち諸将に分命し、直ちに并州を取らしめ、幕府()躬(みずから)東轅(東方に出兵)し、伊・洛(洛陽一帯)に電赴せん。若し〔歓、〕其の巣穴(本拠)を固め、未だ敢えて発動(出兵)せずんば、また群帥に命じて百道より俱に前み、賊臣を轘裂して以て天下に謝せん。
 其れ州鎮郡県は、土の人黎(人民)、或いは州郷の冠冕(名族)、或いは勳庸世濟,並(とも)に宜しく逆を棄てて順に帰し、効()を軍門に立つべし。封賞の科はすでに別に格有り。凡百の君子、勉めざるべきや。』

 泰は諸将にこう言った。
高歓は知恵が足りないとはいえ、詐術をよく用いる。いま西方に向かわんと高らかに宣言しているが、その真の狙いは入洛であろう。そこでわしは寇洛に一万余を与えて涇州より東進させ(寇洛は涇州刺史)、王羆に一万を与えて先んじて華州に陣取らせておくことにする。さすれば、歓が本当に宣言どおり西に来ても王羆にこれを防がせることができるし、入洛したとしても寇洛に直ちに汾・晋(そのまま汾州・晋州の意味か、あるいは汾水が流れる晋陽一帯。)を襲わせる事ができる。このようにした上で、わし自ら軍を率いて都に急行すれば、歓は進んでは後方を脅かされ、退いては追撃に遭うことになり、一挙に大勢が決しよう。これこそ上策である。」
 諸将はみなこれに賛同した。
 秋、7月、かくて泰は自ら大軍を率いて高平を発ち、前軍(先鋒)は恒農(潼関の東)にまで到った《周文帝紀》
 いっぽう賀抜勝も広州に流れる汝水まで軍を進めた【思うに賀抜勝は魯陽関を出て、襄城郡の領域を僅かに越えた所で進軍を停止したのであろう】が、そこで進軍を停止した《魏出帝紀・周》

○周文帝紀
 太祖乃傳檄方鎮曰:
『蓋聞陰陽遞用,盛衰相襲,苟當百六,無間三五。皇家創歷,陶鑄蒼生,保安四海,仁育萬物。運距孝昌,屯沴屢起,隴、冀騷動,燕、河狼顧。雖靈命重啟,蕩定有期,而乘釁之徒,因生羽翼。
 賊臣高歡,器識庸下,出自輿皂,罕聞禮義,直以一介鷹犬,効力戎行,靦冒恩私,遂階榮寵。不能竭誠盡節,專挾姦回,乃勸爾朱榮行茲篡逆。及榮以專政伏誅,世隆以凶黨外叛,歡苦相敦勉,令取京師。又勸吐萬兒復為弒虐,暫立建明,以令天下,假推普泰,欲竊威權。並歸廢斥,俱見酷害。於是稱兵河北,假討爾朱,亟通表奏,云取讒賊。既行廢黜,遂將篡弒。以人望未改,恐鼎鑊交及,乃求宗室,權允人心。天方與魏,必將有主,翊戴聖明,誠非歡力。而歡阻兵安忍,自以為功。廣布腹心,跨州連郡,端揆禁闥,莫非親黨。皆行貪虐,窫窳生人。而舊將名臣,正人直士,橫生瘡痏,動挂網羅。故武衞將軍伊琳,清貞剛毅,禁旅攸屬;直閣將軍鮮于康仁,忠亮驍傑,爪牙斯在:歡收而戮之,曾无聞奏。司空高乾,是其黨與,每相影響,謀危社稷。但以姦志未從,恐先洩漏,乃密白朝廷,使殺高乾,方哭對其弟,稱天子橫戮。孫騰、任祥,歡之心膂,並使入居樞近,伺國間隟,知歡逆謀將發,相繼逃歸,歡益加撫待,亦無陳白。
 然歡入洛之始,本有姦謀。令親人蔡儶作牧河、濟,厚相恩贍,以為東道主人。故關西大都督、清水公賀拔岳,勳德隆重,興亡攸寄,歡好亂樂禍,深相忌毒,乃與侯莫陳悅陰圖陷害。幕府以受律專征,便即討戮。歡知逆狀已露,稍懷旅距,遂遣蔡儶拒代,令竇泰佐之。又遣侯景等云向白馬,輔世珍等徑趣石濟,高隆之、疋婁昭等屯據壺關,韓軌之徒擁眾蒲坂。於是上書天子,數論得失,訾毀乘輿,威侮朝廷。藉此微庸,冀茲大寶。谿壑可盈,禍心不測。或言徑赴荊楚,開疆於外;或言分詣伊洛,取彼讒人;或言欲來入關,與幕府決戰。今聖明御運,天下清夷,百寮師師,四隩來暨。人盡忠良,誰為君側?而歡威福自己,生是亂階,緝構南箕,指鹿為馬,包藏凶逆,伺我神器。是而可忍,孰不可容!
 幕府折衝宇宙,親當受脤,銳師百萬,彀騎千羣,裹糧坐甲,唯敵是俟,義之所在,糜軀匪恡。況頻有詔書,班告天下,稱歡逆亂,徵兵致伐。今便分命將帥,應機進討。或趣其要害,或襲其窟宅,電繞蛇擊,霧合星羅。而歡違負天地,毒被人鬼,乘此掃蕩,易同俯拾。歡若渡河,稍逼宗廟,則分命諸將,直取幷州,幕府躬自東轅,電赴伊洛;若固其巢穴,未敢發動,亦命羣帥,百道俱前,轘裂賊臣,以謝天下。
 其州鎮郡縣,率土人黎,或州鄉冠冕,或勳庸世濟,並宜捨逆歸順,立效軍門。封賞之科,已有別格。凡百君子,可不勉歟。』
 太祖謂諸將曰:「高歡雖智不足而詐有餘,今聲言欲西,其意在入洛。吾欲令寇洛率馬步萬餘,自涇州東引;王羆率甲士一萬,先據華州。歡若西來,王羆足得抗拒;如其入洛,寇洛即襲汾晉。吾便速駕,直赴京邑。使其進有內顧之憂,退有被躡之勢。一舉大定,此為上策。」眾咸稱善。
 秋七月,太祖帥眾發自高平,前軍至於弘農。
 
┃河内降る
この年、帝は辛纂を持節・河内太守としていた。〕
 歓が密かに野王(河内の治所)の城下にまで進出すると、河内太守の辛纂は城を出て歓に会い、こう言った。
「私はこの地を守るよう命じられましたが、大王は王室に忠義を尽くし、危うきをお助けなされるお方でありますので、敢えて命に従わぬことに致します。」
 歓は答えて言った。
「我が志は姦佞の臣を陛下のそばから除き去り、国家を安んじることにある。河内(辛纂)の言は真に王臣の節というものを理解したものである。」
 そこで前侍中の司馬子如にこう言った。
「わしは遠征で疲れたゆえ、おぬしが代わりに河内の手を取ってくれ。」

 北中郎将の田怙は歓に内応の約束を交わしていたが、歓が野王に進軍した所で、帝に察知され斬られた《出典?》。歓は黄河の北岸まで十余里の地点に到ると、再び帝に使者を派して二心の無いことを述べたが、帝はこれに返答しなかった《北斉神武紀》

◯魏77辛纂伝
 永熙三年,除使持節、河內太守。齊獻武王赴洛,兵集城下,纂出城謁王曰:「纂受詔於此,本有禦防。大王忠貞王室,扶奬顛危,纂敢不匍匐。」王曰:「吾志去姦佞,以康國道,河內此言,深得王臣之節。」因命前侍中司馬子如曰:「吾行途疲弊,宜代吾執河內手也。」便入洛。

 ⑴辛纂…字は伯将。辛雄の従父兄。読書家で、温和・正直な性格。咸陽王禧の謀叛の際に李伯尚を匿った罪で免官に遭い、十余年に亘って無職となった。のち復帰を赦され、太尉騎兵参軍とされると、府主の清河王懌から賞賛を受け、「辛騎兵は学識・才能がある。上第(成績第一等)とするべきだろう。」と言われた。のち尚書令の李崇の柔然討伐の際、録事参軍とされた。この時の働きぶりが評価され、臨淮王彧の北征・広陽王淵の北伐の際に長史とされた。526年、梁将の曹義宗が荊州・新野に迫ると南道行台とされて救援に向かい、これを撃破した。荊州の兵は二千しかいなかったが、迅速な用兵と団結ぶりを警戒され、攻撃を受けなかった。のち荊州軍司とされた。528年、孝明帝の崩御の報が届くと、帝の死を隠すことなく号泣し、兵全員の服を喪服に着替えさせた。間もなく再び曹義宗の包囲を受けたが、費穆に救出された。この時、穆に「辛行台がここにいらっしゃらなければ、功を立てられませんでした」と言われ、更に孝荘帝に労苦をいたわられ、東中郎将とされた。529年、陳慶之の攻撃を受けて捕らえられたが、不問にされた。のち滎陽太守とされた。529年(4)参照。

┃奇襲策容れられず
 己丑(9日)孝武帝は自ら十余万を率いて河橋に軍を進め、殿中尚書・儀同三司の念賢侯淵の妻の兄。530年〈5〉参照)を中軍北面大都督とし(周14念賢伝)、斛斯椿を前軍大都督として(魏出帝紀)邙山の北に布陣させた《魏80斛斯椿伝》。このとき椿が精騎二千を率いて夜、黄河を渡り、遠征で疲労している歓軍を奇襲したいと申し出た。帝がこれを認めると、黄門侍郎〔・兼武衛将軍〕の楊寛字は景仁。もと元天穆の参謀。530年〈4〉参照)が帝にこう説いて言った。
高歓は臣下の分際で君主を討とうとするという道に反した行為を行なっているのですから、こちらから冒険をせずとも必ずやこれを討つことができます! それにいま人に兵を貸し与えますのは、事変の起こる元になる恐れがあります。椿が黄河を渡って万一高歓を討滅できたとしても、今度は椿が第二の高歓となるだけでございましょう。」
 帝はそこで椿に勅を下し、渡河を中止させた。椿はこれに嘆息して言った。
「先ごろ(5月18日)熒惑(けいこく。火星)が南斗に入った【『晋書天文志』に曰く、『南斗六星は天廟である。天子の事は南斗によって占うことができる。』熒惑は罰星であり、これが南斗に入るのは、天子の地位が危うくなることを示す】。陛下が左右の讒言を信じ、我が計を用いなかったのは、天意でなくてなんであろう!」《北49斛斯椿伝》
 帝は斛斯椿と大行台の長孫稚、大都督の潁川王斌之安楽王鑑の弟)に虎牢を守備させた《北斉神武紀》
 宇文泰はこの報を朝廷の使者から聞くや、左右の者にこう言った。
高歓は数日で八・九百里の距離を行く強行軍を行なったが、これは兵家が忌避する所(『孫子』軍争。強行軍を行なえば、輜重部隊は置き去りとなり兵糧に不安が生じ、距離があればあるほど疲労により落伍者が出、兵力に不安が生ずるため)である。洛陽はこの機に乗じて直ちにこれに攻めかかるべきだったのであるが、皇帝という重い立場上、陛下は渡河して決戦をすることができず、黄河沿岸の防備を固めて防ぐことを選択なさった。しかし黄河は万里の長さがあれば、その全てを守りきることは困難であり、しかも一箇所でも渡河を許せば勝敗は決まってしまうのだ。形勢は非常に厳しい。早く陛下をお救いせねばならぬ。」
 そこで泰は直ちに大都督の趙貴を別道行台として、蒲坂より渡河して并州(晋陽)に向かわせて歓を牽制しつつ、大都督の李賢に精騎一千を与えて洛陽に向かわせ、帝を関中に迎えんとした《周文帝紀》

歓軍渡河す
 帝は行台の長孫子彦稚の子)と前恒農太守の元洪略に陝城を、賈顕智・斛斯元寿椿の弟)に滑台(東郡、白馬)を守備させていた(蔡俊から済州刺史の任を代わろうとしたが、抵抗されて滑台にて進軍を停止していた)。また、このとき汝陽王暹が石済津を守備していた(6月16日参照)。
 歓は左廂大都督の莫多婁貸文に精鋭三万を与え、相州刺史の竇泰らと定州にて会同させたのち《北斉19莫多婁貸文伝》、滑台(莫多婁貸文伝では『石済』)を攻めさせた。また、建州刺史の韓賢に石済津を攻めさせた。顕智は長寿津(滑台の東北)にて竇泰に会うと、密かに寝返りを約したのち軍を退いた。軍司()の元玄は顕智の寝返りを察し、馬を飛ばして都に還ると、これに対応できるよう増援を請うた。帝はそこで大都督の侯幾紹を派遣した。のち滑台の東にて戦いが行なわれると、顕智は手はずどおりに軍と共に寝返り、紹は戰死した《北斉神武紀》
 
 丙午(26日)《出典?》、歓が東方より黄河を渡った《北斉神武紀》

●孝武帝の西走
 帝は東部方面軍の敗報を聞くと《北49斛斯椿伝》、善後策を群臣に諮ったが、ある者は梁に亡命してはどうかと言い、ある者は南方の賀抜勝を頼ってはどうかと言い、ある者は西方の関中に赴いてはどうかと言い、ある者は洛口にて死戦すべきだと言って、なかなか方針が決定しなかった。
 このとき潁川王斌之斛斯椿が虎牢を守備していたが、二人は軍権を争っていがみ合っていた。そしてとうとう我慢ならなくなった斌之が椿を置いて洛陽に還ると、帝をこう欺いて言った。
「高歓の兵既に虎牢に到れり!」《北斉神武紀》
 丁未(27日)、帝は椿を虎牢から呼び戻すと、南陽王宝炬・清河王亶・広陽王湛と五千騎を率いて瀍水(洛陽と函谷関の間に流れる川)の西岸に逃れ、そこで一夜を明かした。南陽王別舍沙門都維那の恵臻は玉璽と千牛刀を携えてその身辺を護衛した。帝は兵の歓心を買うために牛百頭を屠って食わせたが、兵士たちは帝が西方の関中に逃亡しようとしているのを知ると、夜の内に過半が帝を見捨てて逃げ出した。清河王亶広陽王湛も逃亡した《北孝武帝紀》
 その中で武衛将軍・爰(受?)徳県侯の独孤如願は、帝が突如洛陽を脱出したのを知るや単騎、馬を飛ばして帝に追いつき、随行を願った。帝はこれに感嘆して言った。
「武衛は父母と別れ妻子を棄てて、遠く朕のもとにやってきた。『世乱れて貞()良を識る』とは、この事である!」
 かくてすぐさま御馬一頭を与え、爵位を進めて浮陽郡公(邑千戸)とした。
 また、広平王賛の師の盧弁爾朱氏が滅んだ際、節関帝によって歓のもとに派遣された。532年〈1〉参照)も帝の西走を聞くや、家に立ち寄ることなく単騎にてこれに付き従った。このときある者が弁にこう尋ねて言った。
「何故家族に別れの挨拶をしなかったのですか?」
 弁は答えて言った。
「朝廷に仕える者は、大義のために私情を捨てるものだ。どうして別れの挨拶などできよう。」《周24盧弁伝》
 潁川王斌之は右将軍の李㯹と共に梁に亡命した。

 㯹は字を霊傑(《北史》では雲傑)といい、宇文泰配下の李弼の弟である。身長は五尺(約115cm? 五尺は子どもの身長の比喩)にも満たなかった(小人症?)が、勇猛果断で度胸があった。若くして爾朱栄に仕え、兼別将とされて元顥を破り、討逆将軍とされた。栄が孝荘帝に誅殺されると爾朱世隆と共に栄の妻を連れて河北に奔った。のち、爾朱兆に従って入洛し、淝城郡男・都督とされた。普泰元年(531)に梁将の元樹が譙城を占拠すると行台の樊子鵠の指揮のもとこれを擊破し(532年)、右将軍とされた。

 戊申(28日)、帝は崤山にて李賢の保護を受けた《北孝武帝紀》
 己酉(29日)、歓は洛陽に入城すると(北斉神武紀)、永寧寺に本陣を置き、領軍の婁昭を西道大都督、河南尹の元子思を行台僕射としてこれに帝の左右・侍官を付け、帝に洛陽へ戻るよう説得に行かせた(『資治通鑑』。『魏書』出帝紀では9月13日の事とされている。ただ魏書のこの辺りの日付記述は疑わしいところがある《魏出帝紀・北孝武帝紀》長孫子彦は陝城を守り切ることができず、城を棄てて関中に逃走した《出典?》高敖曹は精騎五百を率い、馬を飛ばして帝を陝城の西まで追ったが、及ばずして還った《北孝武帝紀・北斉21高昂伝》。帝らは馬に鞭をくれて遠路を急いだが、その道中、糗(はったい、米や麦を煎って粉状にしたもの。湯で溶いたりして食べる)や漿(おもゆ、あるいは酒以外の飲料全般を指す)に欠乏をきたし、二・三日間、従官は谷川の水だけを飲んで飢えを凌ぐ有り様となった。餓えや渇きは湖城の辺りにて激しくなったが、そこで王思という村民(王思村? あるいは村の名前?)から麦飯や壺に入れた飲み物の献上を受け、帝はいたく喜んでその村の税を十年間免ずることとした。稠桑に到ると、帝は更に潼関大都督の毛鴻賓蕭宝寅の乱の平定に活躍した。528年〈1〉参照)から酒食の献上を受け、従官はここでようやく餓えや渴きから解放された。帝は感激して鴻賓の手を取ってこう言った。
「そなたは寒松(寒い中でも葉の色を変えないことから、節操の堅いことを示す)・勁草(前記の王覇伝の引用を参照)の如き忠臣だ。天下が平定されても、そなたの事はずっと忘れまいぞ。」北孝武帝紀・北49毛鴻賓伝》

○魏20元斌之伝
 帝入關,斌之奔蕭衍。
○周15・北60李㯹伝
 㯹字靈(雲)傑。長不盈五尺,性果決,有膽氣。少事爾朱榮。魏永安元年,以兼別將從榮破元顥,拜討逆將軍。及榮被害,㯹從爾朱世隆奉榮妻奔河北。又隨爾朱兆入洛。賜爵淝城郡男,遷都督。普泰元年,元樹自梁入據譙城,㯹從行臺樊子鵠擊破之,遷右將軍。魏孝武西遷,㯹從大都督元斌之與齊神武戰於成臯。兵敗,遂與斌之奔梁。梁主待以賓禮。
◯周16独孤信伝
 及孝武西遷,事起倉卒,信單騎及之於瀍澗。孝武歎曰:「武衞遂能辭父母,捐妻子,遠來從我。世亂識貞良,豈虛言哉。」即賜信御馬一疋,進爵浮陽郡公,邑一千戶。

 ⑴独孤如願…生年502、時に33歳。字は期弥頭(河内戻公墓誌)。雲中の人。北魏の譜代の出。祖父の代に武川鎮に移住した。父は領民酋長。おしゃれ好きの美男子で、独孤郎(独孤の若殿)と呼ばれた。騎・射に優れた。宇文泰の幼馴染み。六鎮の乱が起こると、賀抜度抜らと共に衛可孤を斬って名を上げたが、中山に赴いた所で葛榮に捕らえられた。528年、爾朱栄が葛栄を滅ぼすと別将に任じられた。韓樓が幽州にて叛乱を起こすと賀抜勝と共に討伐に赴き、袁肆周を一騎討ちで捕らえた。529年、元顥討伐の先鋒を任された。建明年間〈530~531〉に荊州の新野鎮将・新野郡守、→荊州防城大都督・南郡守とされ、二郡両方で治績を挙げた。勝が荊州刺史となると大都督とされた。533年、勝の南伐に加わり梁の下溠戍を陥とした。534年、賀抜岳の遺衆を収めに関中に赴いたが、宇文泰に先んじられた。間もなく朝廷に招聘され、孝武帝から厚い信任を受けた。534年(2)参照。
 ⑵『老子』十八に曰く、『国家昏乱して忠(貞)臣有り』。『後漢書』王覇伝に曰く、『光武、霸に曰く、「潁川より我に従いし者、みな逝(さ)りて子(王覇)独り留まるのみ。努力せよ! 疾風に勁草を知る(強風が吹いて初めて根の強い草が見分けられるように、困難の中でこそ初めて人の本質が分かるということ)。」』

粛清
 8月、甲寅(4日)、歓は永寧寺にて百官を集めて言った。
「臣下たる者、君主が過ったならば匡し、危険に陥ったならば救わねばならぬ。もしこれまで天子を諌めることをせず、天子が洛陽より脱してもこれに陪従せず、平時には己の栄達ばかり考え、一旦事あれば真っ先に逃げ隠れるような臣下がいたとすれば、それは誅されても仕方がない不忠者と言ってよいだろう!」
 群臣が黙ってものを言わぬ中、兼尚書左僕射の辛雄のみが口を開いて言った。
「此度の一挙は陛下が近習らのみと諮って決めたことであり、我らは一切これに関われませんでした。また、陛下が西幸なされた時に陪従しなかったのは、佞臣どもと同じに見なされるのを危惧したためです。しかるに、都に留まって大王を迎えても、このように陪従しなかった事を責められるのでは、全くどうしようもないではありませんか!」
 歓は答えて言った。
「そなたらは大臣の位にありながら、身をなげうって国に尽くすことをせず、佞人どもが権力を握ればこれにこびへつらい、一言たりとも強諫したことがなかったであろうが! 国家を一朝にしてこのような状態に陥れた責任は己に無いと思っておるのか!」
 かくて雄および開府儀同三司の叱列延慶・兼吏部尚書の崔孝芬・都官尚書の劉廞・兼度支尚書で天水の人の楊機・散騎常侍の元士弼を捕らえてみな殺害した(辛雄享年50、崔孝芬享年50《北斉神武紀・魏77辛雄伝説》
 孝芬の子で司徒従事中郎の崔猷は間道伝いに入関し、帝に謁えるを得たが、その悲しみようは痛ましく、周囲の人々の心を動かさずにはおかぬほどだった。猷が退出すると、帝は襟を正してこれをじっと見送って言った。
「忠孝の道は、この一門に集まる。」
 かくて本官のまま奏門下事とした《周35崔猷伝》

 この日、歓は清河王亶を大司馬とし、尚書省にて皇帝の職務を代行(承制)させ、重要案件を決裁させた《北斉神武紀》

●長安遷都

 この月宇文泰趙貴梁禦日和見な態度を取っていた雍州刺史の賈顕度を説得し、泰に付かせた)に甲騎二千を与えて帝を奉迎させた。帝は黄河に沿って西行する中で、禦にこう言った。
「黄河は東に流れているが、朕はその流れに逆らって西上している。もし朕が再び洛陽の陵廟に謁えることができたなら、それはそなたらの功である。」
 そう言うと、帝と左右はみな涙を流した《北孝武紀》
 泰は帝を護衛するための兵士(儀衛)を連れて帝を東陽駅にて出迎えると、冠を脱ぎ涙を流して言った。
「臣は奸賊の凶行を阻止することができず、陛下を流亡の憂き目に遭わせてしまいました。どうか臣を獄に繋ぎ、刑に処していただきとうございます。」
 帝はこれに答えて言った。
「公の忠節は天下の者全てが良く知る所である。こたびの事は、全て朕が徳が薄いのに帝位に即いたばかりに起こったことで、いま公を目の前にして非常に恥じ入っている所なのだ。罪は朕に在って、公には無い。ゆえに公は罪を請わずともよろしい。むしろ朕は国家の命運を公に託そうと思っておるのだ《周文帝紀》。公よ、努力するのだぞ!《出典?》
 これに将兵はみな万歲を叫んだ。かくて帝は長安に入ると、雍州刺史の官庁を皇宮とし、大赦を行なった《北孝武紀》。また泰を大将軍・雍州刺史・兼尚書令とし、政治・軍事を問わず一切のことを全て取り仕切らせた。また正式なものとは別に二尚書を置いて事務を分掌させることとし、毛遐毛鴻賓の兄)・周恵達527年〈4〉・528年〈1〉参照。蕭宝寅の幕僚として活躍し、その乱が失敗したのちも付き従った。宝寅が捕らえられると岳に引き立てられて従事中郎とされ、岳が死ぬと侯莫陳悦に捕らえられたが逃亡し、泰に従って秦州司馬、のち府司馬とされていた)の二人を行台尚書としてこれを担任させた。このとき関中新政府は創設されたばかりで多くのことに不備があったが、兵糧や武器、訓練された兵馬に困らなかったのは二人の力によるものだった《周22周恵達伝》。泰は帝が入関する前に約していた(534年〈4〉参照)通りに馮翊長公主帝の従妹)を娶り、駙馬都尉に任じられた。
 
 これより前、熒惑が南斗に入って十余日後に去ったが、逆行して再び入り、六十日に渡って去らない事があった(永熙元年〈532〉11月)。そして今年の5月(北孝武紀では『2月』、梁武帝紀では『4月』)己亥(18日)にも熒惑が逆行して南斗に入り《魏星変下》、多くの星が北に流れ、鼠が次々と黄河を渡って鄴に向かう事があった。梁の武帝は『熒惑が南斗に入ると、天子が宮殿より追い出され、蒙塵の憂き目に遭う』という俗言が気にかかり、一度裸足で宮殿を出ることでこれを避けようとした。のち孝武帝が西方に蒙塵したのを聞くと、恥じ入りつつこう言った。
「胡虜でも天象に影響されるのだな!」《北孝武紀》

 己未(9日)、梁が武興王の楊紹先534年〈2〉参照)を秦・南秦二州刺史とした。