[西魏:永熙三年 東魏:天平元年 梁:中大通六年]

于謹の提案
 これより前、于謹は六鎮の乱のさい広陽王淵の軍師となって活躍し、淵の死後は荊州にて梁と戦っていたが、孝荘帝が即位すると鎮遠将軍とされ、まもなく直寝(侍衛の官)に遷された。のち太宰の元天穆爾朱栄の義兄)の葛栄討伐(528年〈5〉参照)・邢杲平定(529年〈1〉参照)に加わり、征虜将軍に任ぜられた。天穆は謹に会うと感嘆してこう言った。
「王佐の才なり。」
 のち爾朱天光万俟醜奴討伐(530年〈1〉参照)に従って石城県伯に封ぜられ、普泰元年(531年)に征北大将軍・金紫光禄大夫・散騎常侍とされた。また、天光の宿勤明達討伐(531年〈3〉参照)に従い、夏州賊帥の賀遂有伐らを討った功で大都督とされた。のち韓陵山にて天光が高歓を討つのに従ったが、天光が敗れると関中に引き返した。賀抜岳は上表して謹を関中に留めるよう求め、許されると共に衛将軍・咸陽郡守とされた。宇文泰が夏州刺史となると、そのもとに迎え入れられ、防城大都督・兼夏州長史とされた。岳が殺され、泰が平涼に赴くと、謹は泰にこう言った。
「魏国の命数は既に尽きんとしており、権臣がのさばり、群盜が並び起こって人民は大いに苦しんでおります。明公は容姿絶世にして胸に救世の大略を抱き、万民から敬い慕われているお方。どうか早く良計を立て、万民の期待に応えられますよう。」
 泰は答えて言った。
「良計とは何か?」
 謹は答えて言った。
「関右(西)の地は秦・漢の都が置かれた場所で、古には天府の地と称され、将兵は勇猛で、土地は肥沃、西には豊かな巴蜀が、北には多くの羊馬が産する地を控える利点がございます(『史記』留侯世家に曰く、「それ関中は左(東)に殽函、右(西)に隴蜀あり、沃野千里にして、南に巴蜀の饒(じょう。豊かさ)、北に胡苑(牧場)の利あり、三面阻(けわ)しくして守られ、ただ一面を以て東のかた諸侯を制す。諸侯安定せば、河渭もて天下より漕輓(貨物の運送)し、西のかた京師に給す。諸侯変あらば、流れに順(したが)いて下り、以て委輸(輸送。討伐軍の兵糧の輸送)するに足る。これいわゆる金城千里にして、天府の国なり。」)。今もし明公がその要害に拠って英雄を呼び集め、兵を鍛え農桑を勧めますれば、充分に天下の一角を占めることができましょう。この上で更に諸賊に迫られ苦境に立たされている洛陽の天子に、明公が至誠を披露して時事の利害を述べ、関右の地に遷都をするように請願なされば、天子は必ずその忠心に感じて西遷いたすでしょう。然るのちに天子を擁して諸侯に号令し、王命を奉じて暴乱を討てば、桓・文の覇業を成すことができます。今はその千載一隅の好機なのです!」
 泰はこれを聞いていたく喜んだ《周15于謹伝》

●高歓、宇文泰の懐柔を図る
 高歓は泰が秦・隴の地を平定したことを聞くと、使者を派してこれを丸め込もうとしたが、泰は聞き入れずに書状に封をし《周文帝紀》、都督で済北の人の張軌孝武帝のもとへ送り届けさせた。軌が洛陽にたどり着くと、斛斯椿反高歓の急先鋒)が軌に尋ねて言った。
高歓が逆心を抱いていることは路傍の人ですらみな知っている。その誅罰を、天下の人々は一日千秋の思いでただ西方に期待しているのだが、果たして宇文泰とは、賀抜岳と比べてどうなのだろうか?」
 軌は答えて言った。
「宇文公は文においては国家を統治するに足り、武においては天下の動乱をよく治めることができます。」
 椿は言った。
「君の言う通りであれば、真に頼むべき人物だ。」《周37張軌伝》

●雍州揺れる
 孝武帝は泰にまず二千騎を東雍州に派させ、主力もおいおい東に動かすように命じた。
 また、5月、行徐州刺史・東道大行台の賈顕度を雍州刺史・西道大行台とした。
 親戚や旧友が張方橋にて送別の宴を開くと、顕度は酒杯を手に取って言った。
「顕智(賈顕智。顕度の弟)は軽率な性格で、節操の無い奴だ。我が家を滅ぼすのはこやつであろう!」

 泰は武衛将軍で武川の人の梁禦を大都督・雍州刺史とし、五千の兵を与えて先行させた。
 これより前、泰が侯莫陳悦を討とうとしていた時、悦は歓に援軍を要請していた。歓はそこで都督で太安の人の韓軌に一万を与え、蒲坂より悦を救援させようとした。軌が蒲坂に到ると、賈顕度は船を出してこれを関中に迎え入れようとした。禦は顕度に会ってこう説いた。
「魏室衰え、天下動乱する中、高歓が不遜にも逆心を抱きましたが、その誅戮は遠くに非ず、すぐ近くに迫っております。何故なら、傑出した英姿と縦横無尽の智謀を有される宇文夏州が、今より国家を存亡の危機から救い、中興の大業を為すからです。公がかような時にこれに力を貸さず、ぐずぐずして躊躇われるのは、災いを目前に呼び寄せるようなものですぞ(原文『恐禍不旋踵矣』。体の向きを変える暇すら無いという事)。」
 顕度はこれを聞いて泰の側に付くことにし、禦軍を雍州に入れた。

 梁禦は字を善通といい、本貫は安定郡烏氏県であったが、のちに武川鎮に居住するようになり、姓も紇豆陵氏に改めた。高祖父の俟力提は道武帝の征討に従い、揚武将軍・定陽侯とされた。
 禦は若くして学問を好み、立ち居振る舞いはおっとりとしていて上品なものがあった。長ずると更に弓馬の扱いにも長けるようになった。爾朱天光が西討に赴いた際、才略を認められて側近とされ、宣威将軍・都将とされた。関中を平定すると鎮西将軍・東益州刺史・第一領民酋長・白水県伯とされ、のち征西将軍・金紫光禄大夫に遷った。後に賀抜岳に従って長安を守備し、岳が殺されると諸将と共に泰を推戴した。のち侯莫陳悦の征伐に従い、武衛将軍とされた。

○周文帝紀
 時齊神武已有異志,故魏帝深仗太祖。乃徵二千騎鎮東雍州,助為聲援,仍令太祖稍引軍而東。太祖乃遣大都督梁禦率步騎五千鎮河、渭合口,為圖河東之計。太祖之討悅也,悅遣使請援於齊神武,神武使其都督韓軌將兵一萬據蒲坂,而雍州刺史賈顯送船與軌,請軌兵入關。太祖因梁禦之東,乃逼召顯赴軍。禦遂入雍州。
○魏80・北49賈顕度伝
 未幾,以本官行徐州刺史、東道大行臺。永熙三年五月,轉雍州刺史、西道大行臺。〔親故祖餞於張方橋,顯度執酒曰:「顯智性輕躁,好去就,覆敗吾家,其此人也!」〕
○周17梁禦伝
 梁禦字善通,其先安定人也。後因官北邊,遂家於武川,改姓為紇豆陵氏。高祖俟力提,從魏太祖征討,位至揚武將軍、定陽侯。禦少好學,進趨詳雅。及長,更好弓馬。爾朱天光西討,知禦有志略,引為左右,授宣威將軍、都將。共平關右,除鎮西將軍、東益州刺史、第一領民酋長,封白水縣伯,邑三百戶。轉征西將軍、金紫光祿大夫。後從賀拔岳鎮長安。及岳被害,禦與諸將同謀翊戴太祖。從征侯莫陳悅,遷武衞將軍。太祖既平秦隴,方欲引兵東下,雍州刺史賈顯持兩端,通使於齊神武。太祖微知其意,以禦為大都督、雍州刺史,領前軍先行。既與顯相見,因說顯曰:「魏室陵遲,天下鼎沸。高歡志在凶逆,梟夷非遠。宇文夏州英姿不世,算略無方,方欲扶危定傾,匡復京洛。公不於此時建立功効,乃懷猶豫,恐禍不旋踵矣。」顯即出迎太祖,禦遂入鎮雍州。授車騎大將軍、儀同三司。

●官爵授与権の付与
 孝武帝宇文泰を侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・関西大都督・略陽県公とし、官爵授与権を与えた(原文『承制封拝』)。泰はそこで寇洛を涇州刺史に、李弼を秦州刺史に、先の略陽太守の張献を南岐州刺史とした。南岐州刺史の盧待伯が交代を拒むと、泰は軽騎を派してこれを奇襲し、捕虜とした。待伯は自ら命を断った《周文帝紀》

●孝武帝と高歓の暗闘
 これより前、歓が洛陽より鄴に帰還した時(532年4月29日参照)、侍中の封隆之がこう言った。
斛斯椿・賀抜勝・賈顕智らは初め爾朱氏に仕えましたが、のちに裏切って王に与し、仲遠(爾朱仲遠)が討伐されると、再び爾朱氏に通じました(原文『「斛斯椿・賀抜勝・賈顕智等往事爾朱、中復乖阻、及討仲遠、又與之同、猜忍之人、志欲無限。又叱列延慶・侯。念賢皆在京師、王授以名位、此等必搆禍隙。」』)。まさしく彼らは情というものが無い、飽くなき野心家であります。また、叱列延慶、侯淵・念賢らもみな都に居りますが、彼らもこれと同じ類いで、王が彼らに名誉や地位を与えたとしても、必ずやのちに災いをもたらすでしょう。」《北斉21封隆之伝》
 京兆王愉孝文帝の子で、孝武帝の父懐の弟)の娘の平原公主が寡婦となると、侍中の孫騰がこれを妻にめとろうとしたが、拒絶された《北斉18孫騰伝》。騰がこれに悶々としていると、侍中の封隆之にこう言われた。
「私が妻を亡くしたと言うと、陛下が従妹(平原公主)を嫁がせようと仰ってきた。」
 騰はこの話を眉唾ものだと思ったが、もし本当だとすると妬ましく、遂に隆之を陥れんとして隆之が歓に語った言葉を斛斯椿に漏らした(この記事は北斉書神武紀にあるが、神武紀では騰が漏らした言葉を従妹降嫁の言のように書いている。資治通鑑では歓に語った言葉のように書いている《北斉神武紀》。椿は怒って帝に讒言し、隆之は身の危険を感じて郷里の渤海に逃亡した。歓は隆之の悪評を偽りだと見抜き、隆之を晋陽に招いた。のち帝は侍中復帰を餌に隆之を洛陽に呼び戻そうとしたが、隆之は固辞して行かなかった《北斉21封隆之伝》
 孫騰は歓の腹心として門下省の監視の任を務め、斛斯椿と共に機密を司り、剣を帯びたまま禁中に入って、勝手に御史を殺すなどやりたい放題に振る舞っていたが、椿が歓への反抗の態度を鮮明にしてくると、身の危険を感じて密かに十余騎と共に晋陽に馳せ戻った《北斉18孫騰伝》
 領軍将軍の婁昭も病気を理由に職を辞して晋陽に還った北斉神武紀・北斉15婁昭伝》
 帝は斛斯椿を兼領軍とし、改めて河南・関西の督将や刺史を任命し直した。
 華山王鷙が徐州刺史の地位に在った時、歓は大都督の邸珍533年11月に東徐州の乱の討伐に赴いていた)にその職を奪わせた(北87邸珍伝では、『珍は乱民の王早らが引き込んだ梁将の成景俊らを破って東徐州を解放し、軍を彭城〈徐州〉に還した』とある。この時に行なわれたのであろう)。
 建州刺史の韓賢や済州刺史の蔡俊は歓の党人であったため、帝は建州を廃して韓賢を逐い【建州の地は太行山脈の山あいにあり、晋陽から入洛する際の要路にあった。帝が建州を廃し韓賢を逐ったのは、歓の党人を排斥したかったからという理由以外に、歓の入洛の道を奪うためでもあった】、御史中尉の綦俊蔡俊を弾劾させたのち(蔡俊の州政は苛虐的で賄賂が横行したという《北斉神武紀》汝陽王叔昭暹の字)に交代させた《北斉19蔡俊伝》。そこで歓が上奏して言った。
「俊は国家に大きな功績を立てた者。その者から刺史の任を剥奪するというのは解せませぬ。また、汝陽王は立派な徳を備えしお方。そのようなお方には、済州よりも大藩の刺史に任ずるべきであります。ただいま臣の弟の永宝(高琛の字。北51高琛伝では『元宝』)が分不相応にも定州刺史の任に就いておりますゆえ、こちらと交代させるべきでありましょう。」
 しかし帝はこれを聞き入れなかった《出典不明。北斉神武紀・北斉19蔡俊伝にそれらしき記述はある》
 丙戌(5月5日)、帝は勲府(功臣の子弟で構成された近衛隊)の兵を一廂あたり六百人増員し、更に騎官(近衛騎兵隊)も一廂あたり二百人増員した《魏出帝紀》。更に部曲(533年参照。斛斯椿が進言して置かれた皇帝直属の私兵)も数千人増員した《北史魏孝武紀》

○北斉神武紀
 魏帝既有異圖,時侍中封隆之與孫騰 私言,隆之喪妻,魏帝欲妻以妹。騰亦未之信,心害隆之,洩其言於斛斯椿。椿以白魏帝。又孫騰帶仗入省,擅殺御史。並亡來奔。稱魏帝撾舍人梁續於前,光祿少卿元子幹攘臂擊之,謂騰曰:「語爾高王,元家兒拳正如此。」領軍婁昭辭疾歸晉陽。魏帝於是以斛斯椿兼領軍,分置督將及河南、關西諸刺史。華山王鷙在徐州,神武使邸珍奪其管籥。建州刺史韓賢、濟州刺史蔡儁皆神武同義,魏帝忌之。故省建州以去賢,使御史中尉綦儁察儁罪,以開府賈顯智為濟州。儁拒之,魏帝逾怒。
○北斉18孫騰伝
 入為侍中。時魏京兆王愉女平原公主寡居,騰欲尚之,公主不許。侍中封隆之無婦,公主欲之,騰妬隆之,遂相間構。高祖啟免騰官,請除外任,俄而復之。騰以高祖腹心,入居門下,與斛斯椿同掌機密。椿既生異端,觸塗乖謬。騰深見猜忌,慮禍及己,遂潛將十餘騎馳赴晉陽。

●両者、遂に動く


 斛斯椿が帝にこう進言した。
蕭衍)を討つという名目で兵を集め、歓を討たれませ。」
 帝はこれに頷いた《魏80斛斯椿伝》
 辛卯(10日)、帝は歓を討伐せんとし、戒厳令を発して言った。
「自ら親征して蕭衍を討たん。」《魏出帝紀》
 かくて河南諸州の兵を洛陽の西に集め、大規模な閱兵式を行なった。集まった兵たちは南は洛水、北は邙山に到るまでに満ち溢れ、早朝、帝は軍服を着て斛斯椿と共にこれらを閲兵した《魏80斛斯椿伝》
 6月、丁巳(6日)、帝は密かに歓に詔を下して言った。
宇文黒獺泰の字)・賀抜勝は異志極まりなきゆえ、南伐という名目を借りて密かにこれに対する備えを設けたのだ。王も遠くよりこれを支援するべきである。この密詔は読み終えたあと焼き捨てるように。」《出典不明。北斉神武紀にある内容とは異なっている》
 歓が上表して言った。
「荊州(賀抜勝)や関隴(宇文泰)が反逆を図らんとしている今、遠くより支援するだけで良しといたしますのは、迂闊で危険であります。臣はいま密かに自ら兵馬三万を率いて河東より、恒州刺史の厙狄干・瀛州刺史の郭瓊・汾州刺史の斛律金・前武衛将軍の彭楽に四万を与えて来()違津より黄河を押し渡り、夏州に進軍し、また、領軍将軍の婁昭・相州刺史の竇泰・前瀛州刺史の堯雄・并州刺史の高隆之に五万を与えて荊州に、冀州刺史の尉景・前冀州刺史の高敖曹・濟州刺史の蔡俊・前侍中の封隆之に山東の兵七万・突騎(突撃騎兵)五万を与えて江東()に進軍させております。これらは皆ひとしく厳しく律された軍で、陛下のご指揮に従う者たちであります。」
 帝は歓に己の計画を察知されたのを悟り、歓の上表文を群臣に検討させた結果、歓軍の進軍を停止させることに決めた。歓も并州の大丞相府の幕僚たちを集めて協議したのち、再び上表文を提出して言った。
「臣陛下に忠を尽くし、一度たりとも違背した事はございませんでしたのに、嬖佞の臣に讒言を受け、一朝にして陛下に疑いを持たれる立場となってしまいました。もし陛下が臣の赤心を疑われますのなら、どうぞ臣を誅し、子孫を根絶やしになさってください。陛下が臣の赤心を信じられますのなら、兵を抑え、佞臣の一・二人を朝廷より追放していただきとうございます。」《北斉神武紀》
 丁卯(16日)、帝は大都督の源子恭に陽胡を守らせ【陽胡は陽壺城の事であり、函谷関の北、黄河の北岸にある。魏主は入関を策していた。故に、先に子恭にこの地を守らせておき、入関の妨害を防ごうとしたのであろう】(魏書出帝紀では『胡陽』)、汝陽王暹に石済津(滑台〈白馬〉の西南にある黄河の渡し場)を守らせ、更に儀同三司の賈顕智を済州刺史とし、豫州刺史の斛斯元寿椿の弟。椿の字は法寿。韓陵の戦いののちに爾朱世隆を奇襲して捕らえた。532年〈1〉参照)と共に東進して済州に赴くように命じた《魏出帝紀》。しかし蔡俊が交代しようとせず激しい抵抗の構えを見せたので、顕智は気後れし、東郡に到った所で進軍を停止した《北斉19蔡俊伝》。帝の歓に対する怒りの念はこれによりいよいよ昂じた《北斉神武紀》

●訣別
 辛未(20日)、帝は再び在京の文武百官と協議した結果、歓に再度詔を送ることにし、その草案の作製を中書舍人の温子昇に命じた。子昇が歓を恐れて起草を渋ると、帝は顔色を変えて胡床の上で剣を抜き放った。子昇はそこでやむを得ず草稿を書き、帝はこれを清書して歓に送った。詔の内容は次の通りであった。
『前(さき)に心血(心臓付近を傷つけて出した誓約のための血)を持たせて遠く以て王()に示し、深く彼此(帝と歓)共に相い体悉(相手の立場になって、その心中を察し思いやる)せんことを冀(こいねが)うも、不良の徒、いながらにして間弍を生ぜしむ。近ごろ孫騰倉卒として彼(歓のいる晋陽)に向かい、聞く者をして〔朕らに〕異謀あるを疑わしむるを致す。故に御史中尉の綦俊をしてつぶさに朕が懐(おも)いを申()べさしむるに、いま王の啓(上奏文)を得るや、言誓(誓いの言葉)懇惻(痛切)なり。反覆して(何度も)このゆえを思うも、なお解せざる所あり。ゆえは何ぞや? 朕、眇身(つまらぬ身)を以て王の武略に遇い、尺刃を労せずして居ながらに天子となりしがためなり。これいわゆる我を産みしは父母なるも、我を貴くせしは高王というもの(『史記』管晏列伝に曰く、「我を生みしは父母なるも、我を知りしは鮑子なり」)にして、今もし事(ゆえ)無くして王に背き、相い攻討するを規(はか)れば、則ち身(おのれ)及び子孫をしてまた王誓の如くせしめん(歓の先の上奏文にある、『もし陛下が臣の赤心を疑われますのなら、どうぞ臣を誅し、子孫を根絶やしになさってください。』の部分のことを言っているのだと思われる)。皇天后土、まことにこの言を聞くべし。
 近ごろ宇文(宇文泰)乱を為さんとし、賀抜勝これに応えんとするを慮り、故に戒(まも)りを厳しくして王とともに声援〔相互支援〕を為さんと欲す。しかるに宇文、今日使者を相い(次々と)望まし、更(あらた)めてその所為を観る(観察する)に異跡(叛意があるような行為の跡)無し。また賀抜、南に在りて辺境を開拓し、国のために功を立つれば、念(おも)うに責むべきところ無し。君、もし分討せんと欲さば、何ぞ以て辞を為さん。また東南の賓(したが)わざること日すでに久しかりしといえども、今天下の戸口(人口)減半したれば、未だ宜しく兵を窮()くして武を極()くすべからず(まだ大規模な軍事行動を行なう時期ではない)。
 また、朕既(もと)より暗昧なれば、佞人の誰たるかを知らず。その姓名を列(なら)べ、朕に知らしむるべきなり《北斉神武紀》。さきごろの高乾の死(533年参照)も、あに独り朕が意のみならんや(高乾が誅殺されたのは、乾が帝のもとにて背信行為を働いていたからであったが、歓も乾のそのような行為の証拠を見せるなどして、帝の怒りに油を注いでいたのである)! しかるに王 忽(だしぬ)けに昂(高敖曹、乾の弟)に対して兄の枉死(無実の罪を着せられて死ぬ)するを言えり。人の耳目何ぞ易(たやす)く軽んずるべけんや!《出典不明》 朕かく聞けり、厙狄干 王に語りていわく、『本(もと)より干 懦弱の者を取りて主と為さんと欲せしに、王 事(ゆえ)無くしてこの長君を立て、駕御(思いのままに操る)すべからざしむ。今ただ十五日に作(おこ)して行き、自らこれを廃し、更めて余(ほか)の者を立つべきのみなり。』と。これが如き議論は、是れ王間()の勲人の口より出づ。あに佞臣の口より出でんや! 去る歲、封隆之叛き、今年孫騰逃去せしに、王 これを罪せず送らず。誰か王を怪しまざらんや! 騰既に禍いの始め(根源)となるに、かつて愧懼する無し。王もし君に事(つか)うるに誠を尽くさんとせば、何ぞ斬りて二首を送らざるや! 
 王、啓(上奏文)に『西去』【西方の宇文泰を攻めることを言う】を図ると云うも、四道とともに進み、或いは南して洛陽に渡らんと欲し、或いは東して江左(東、即ち梁)に臨まんと欲す【四道とは、河東に進む歓軍・来違津に進む厙狄干軍、荊州に進む婁昭軍・江東に進む尉景軍の事を指す。婁昭は荊州に向かい、尉景は江左に向かうと称するも、実際は道中の洛陽が真の目的であり、河東・来違津に向かうのも、宇文泰を牽制して洛陽に東下させないようにするのが真の狙いであった】。これを言う者すらまさに自ずから怪しむ(西去が本当の目的なのかどうか怪しむ)べきに、これを聞く者いずくんぞよく疑わざらんや! 王もし誠を守り弍(そむ)かず、晏然(静粛)として北に居らば、ここ(朕の手もと)に百万の衆あるといえども終(つい)に彼()を図るの心無し。王もし邪を信じて義を棄て、旗を挙げて南指せば、たとい匹馬隻輪(一頭の馬、一台の戦車)すら無くとも、なお空拳を奮いて争死(徒手空拳で立ち向かって闘死する)せんと欲す。朕本より徳寡なきに、王すでにこれを立てり。しかるに百姓無知なれば、或いはまことによき(皇帝にふさわしい)者と謂(おも)う。もし他人(歓とは違う第三者)の図る所となれば、則ち朕の悪(徳が寡なく、皇帝にふさわしくなかったこと)が彰(あき)らかになるのみ。たとい王の殺す所となり、幽辱(幽閉されて恥辱を受ける)・虀粉(せいふん。粉微塵にされる)せられて了(おわ)るとも遺恨無し! ゆえは何ぞや? 王既に徳を以て朕を推し、義を以て朕を挙げたるに、一朝にして徳に背き義を捨つれば、便(すなわ)ち是れ過ち帰する所あらんがためなり(民衆の信を失う)。
 本より君臣の一体なること、符契(割符)の合うがごとくなるを望むに、図らずして今日分疏して(疎遠となって)ここに到る! 古語いわく、「越人我を射んとすれば笑いてこれを道(かた)り、吾が兄我を射んとすれば泣きてこれを道(かた)る。」(『孟子』告子上3。弓を引かれたのは同じであるのに、その話を人に語るさい感情が異なるのは、前者が赤の他人で、後者が肉親であったからである。肉親を愛しているからこそ、その行ないを悲しむのである)と。朕既に王と親しく、情は兄弟の如くなれば、筆を投げて膺(むね)を拊()ち(この詔を書いている時に悲しみの余り筆を投げ出し、胸を叩く)、覚えずして歔欷(きょき。むせび泣く)せり。』《北斉神武紀》

○北斉神武紀
 辛未,帝復錄在京文武議意以答神武,使舍人溫子昇草勑,子昇逡巡未敢作。帝據胡牀,拔劍作色。子昇乃為勑曰:
『前持心血,遠以示王,深冀彼此共相體悉,而不良之徒坐生間貳。近孫騰倉卒向彼,致使聞者疑有異謀,故遣御史中尉綦儁具申朕懷。今得王啟,言誓懇惻,反覆思之,猶所未解。以朕眇身,遇王武略,不勞尺刃,坐為天子,所謂生我者父母,貴我者高王。今若無事背王,規相攻討,則使身及子孫,還如王誓。皇天后土,實聞此言。
 近慮宇文為亂,賀拔勝應之,故纂嚴,欲與王俱為聲援。宇文今日使者相望,觀其所為,更無異迹。賀拔在南,開拓邊境,為國立功,念無可責。君若欲分討,何以為辭。東南不賓,為日已久,先朝已來,置之度外。今天下戶口減半,未宜窮兵極武。
 朕既闇昧,不知佞人是誰,可列其姓名,令朕知也。如聞厙狄干語王云:「本欲取懦弱者為主,王無事立此長君,使其不可駕御,今但作十五日行,自可廢之,更立餘者。」如此議論,自是王間勳人,豈出佞臣之口。去歲封隆之背叛,今年孫騰逃走,不罪不送,誰不怪王!騰既為禍始,曾無愧懼,王若事君盡誠,何不斬送二首。王雖啟圖西去,而四道俱進,或欲南度洛陽,或欲東臨江左,言之者猶應自怪,聞之者寧能不疑。王若守誠不貳,晏然居北,在此雖有百萬之眾,終無圖彼之心。王脫信邪棄義,舉旗南指,縱無匹馬隻輪,猶欲奮空拳而爭死。朕本寡德,王已立之,百姓無知,或謂實可。若為他所圖,則彰朕之惡,假令還為王殺,幽辱韲粉,了無遺恨。何者?王既以德見推,以義見舉,一朝背德舍義,便是過有所歸。本望君臣一體,若合符契,不圖今日分疏到此。古語云:「越人射我,笑而道之;吾兄射我,泣而道之。」朕既親王,情如兄弟,所以投筆拊膺,不覺歔欷。』

┃関中か、荊州か
 王思政帝が即位する前から深い付き合いがあり、即位の際にはその説得に赴いた。のち斛斯椿らと共に反高歓派の一人として活動していた。532年〈2〉・533年参照)はこの時帝に使持節・中軍大将軍・大都督とされ、宿衛兵の統率を任されていた。その思政が帝にこう言った。
高歓が逆心を抱いているのは、路傍の人ですら知っているところです。問題がはっきりと分かっているのなら、その対策をしておかねばなりません。いま陛下のいる洛陽は四面に敵を受ける守りにくい所で、戦いに適さぬ地であります。一方、関中は崤(こう)山と函谷関の険に守られ、一人で万人を防ぎ切ることができる地であります(『史記』留侯世家に曰く、「雒陽は固きといえども、それ中小にして数百里に過ぎず、田地薄く、四面に敵を受くれば、これ用武の国に非ざるなり。それ関中は左(東)に殽函、右(西)に隴蜀あり、沃野千里にして、南に巴蜀の饒(じょう。豊かさ)、北に胡苑(牧場)の利あり、三面阻(けわ)しくして守られ、ただ一面を以て東のかた諸侯を制す。」)。また、その兵馬は精強で、兵糧も豊富ですので、進んでは逆臣を討つことができ、退いては函谷関・黄河の険に拠って身を保つことができましょう。また、関中を守る宇文夏州は、同志を糾合して陛下に力を尽くさんことを願っておりますれば、陛下が西方に御幸したことを知れば、必ずや直ちにお迎えに参ってくるでありましょう。天府の地である関中の資本と陛下のご威徳が加われば、一・二年、兵馬を鍛え農業を勧めるだけで、必ずや洛陽を取り戻すことができましょう。」
 帝は深くこれに頷き《周18王思政伝》、散騎侍郎で河東の人の柳慶字は更興。生年517、時に18歳)を高平にいる泰のもとに派し、時事を論じさせた。泰は今より直ちに奉迎しに行くと答え、慶にこの事を帝に伝えさせた。すると帝は人払いをして慶にこう言った。
「高歓がもう黄河の北にまでやってきたゆえ、関中の兵が来るのを待ってはおれぬ。そこで荊州に身を避けようと思うのだが、どうだろうか?」
 慶は答えて言った。
「関中は金城千里(千里に渡る堅城)にして、天下の強国であります(『史記』留侯世家に曰く、「それ関中は左(東)に殽函、右(西)に隴蜀あり、沃野千里にして、南に巴蜀の饒(じょう。豊かさ)、北に胡苑(牧場)の利あり、三面阻(けわ)しくして守られ、ただ一面を以て東のかた諸侯を制す。諸侯安定せば、河渭もて天下より漕輓(貨物の運送)し、西のかた京師に給す。諸侯変あらば、流れに順(したが)いて下り、以て委輸(輸送。討伐軍の兵糧の輸送)するに足る。これいわゆる金城千里にして、天府の国なり。」)。また、関中を守る宇文泰は忠誠心に溢れる朝廷の良臣であります。陛下の聖明を以て宇文泰の力を借りれば、進んでは東方の群雄を制すことができ、退いては関を閉じて天府の地を保持することができるでしょう。まさにこれこそ万全の計であります。これと比べ、荊州の地は要害に非ず、兵も弱小で、外は梁賊、内は歓一党の攻撃を受け、非常に危うい状況となる懸念がございます。これでどうして大業の基礎を固めるに恰好の地と言えましょうか? 臣はこの点より、まだ荊州に行く利点を見出だせずにおります。」
 帝はこれに深く頷き、そこで荊州へ行くのを中止した《周22柳慶伝》

○周18・北62王思政伝
 俄而齊神武潛有異圖,帝以思政可任大事,拜〔使持節、〕中軍大將軍、大都督,總宿衞兵。思政乃言於帝曰:「高歡之心,行路所共知矣。洛陽四面受敵,非用武之地。關中有崤、函之固,一人可禦萬夫。且士馬精彊(強),糧儲委積,進可以討除逆命,退可以保據關、河。宇文夏州糾合同盟,願立功効。若聞車駕西幸,必當奔走奉迎。藉天府之資,因已成之業,一二年間,習戰陣,勸耕桑,修〔復〕舊京,何慮不克。」帝深然之。
○周22柳慶伝
 魏孝武將西遷,除慶散騎侍郎,馳傳入關。慶至高平見太祖,共論時事。太祖即請奉迎輿駕,仍命慶先還復命。時賀拔勝在荊州,帝屏左右謂慶曰:「高歡已屯河北,關中兵既未至,朕欲往荊州,卿意何如?」慶對曰:「關中金城千里,天下之彊國也。宇文泰忠誠奮發,朝廷之良臣也。以陛下之聖明,仗宇文泰之力用,進可以東向而制羣雄,退可以閉關而固天府。此萬全之計也。荊州地非要害,眾又寡弱,外迫梁寇,內拒歡黨,斯乃危亡是懼,寧足以固鴻基?以臣斷之,未見其可。」帝深納之。

●入関に決す
 帝は更に閤内(宮内)都督【時に南北朝みな直閤(宮中に宿直する)将軍を置く。孝武帝はこの上更に斛斯椿の言を容れて閤内都督を置いたのである(533年参照】の宇文顕和(泰の親族。帝が即位する前から深い付き合いがあり、帝が即位すると非常に重用された)にもこう尋ねた。
「天下は騒然としている。どうしたらよいだろうか?」
 顕和は答えて言った。
「善良なる者を見極め、これに頼るしかないでしょう。」
 そこで詩経国風の一節を吟誦して言った。
「彼の美()き人は、西方の人なり。」(『詩経』国風:邶風:簡兮。「山にはハシバミがあり、沢にはミミナグサがある。ここに誰を思うか? 西方の美人なり。彼の美人は、西方の人なり。」
 帝は答えて言った。
「これこそ我が心である!」
 かくて入関の策を定めた。
 このとき帝は顕和の母が老境に入っていることや、一門が山東に多く分布していることを鑑み、そこで顕和に先に去就を決めさせた。すると顕和はこう答えて言った。
「今回の一挙は、忠孝が両立せぬものです。しかし、言葉を慎まぬ臣下は身を滅ぼすとか(『易経』繋辞上。「乱の生ずる所は、則ち言語を以て階(よりどころ)と為す。君密ならざれば臣を失い、臣密ならざれば身を失う。幾事(ほとんどの事)密ならざれば害成る。ここを以て君子慎密にして出ださざるなり。」)。どうして私事を優先しましょうか!」
 帝はその覚悟に胸を打たれ、顔色を改めてこう言った。
「そなたは朕の王陵である。」(前漢の王陵は項羽に母を人質にされてもこれに付かず、劉邦に付いた
 かくて顕和を朱衣直閤・閤内大都督とし、封爵を長広県公に改めた《周40宇文顕和伝》

┃泰も危険なり
 このとき帝は広く州郡から兵を集めており、この呼びかけに河東の人で東郡太守の裴協も応じて、部下と共に洛陽に到った。そこに王思政が尋ねて言った。
「現在、権臣()が勝手気ままに天下に命令を発し、王室の権威は日々失墜している。そこでこの状況を打破するために宇文泰を頼ろうと思うのだが、どうだろうか。」
 協は答えて言った。
宇文泰は三軍(大軍)の推す所で、しかも百二の地[1]⑴を地盤としています。宇文泰を頼っても、いわゆる己の戈矛(武器)の柄を人に与える(権力を与える)ようなものになるだけで、『蒺蔾(しつり。ハマビシ・イバラグサ)に拠る』(『易経』困。針のむしろに座るように落ち着かない)結果になるでしょう。」
 思政が言った。
「しからば、どうすれば良い?」
 協は答えて言った。
「歓と正面切って当たれば直ちに大難が降りかかり(立至の憂)、西巡せばのちのち大難が訪れます(将來の慮)。ゆえに、ここはひとまず関右(西)に赴いて目前の大難を避け、それからおもむろにのちの大難に対処していけば良いと思います。」
 思政はこれに頷き、協を帝に推挙すると、帝は協を左中郎将とした。

○北38裴俠伝
 授東郡太守,帶防城別將。及孝武與齊神武有隙,徵兵,俠率所部赴洛陽。武衞將軍王思政 謂曰:「當今權臣擅命,王室日卑,若何?」俠曰:「宇文泰為三軍所推,居百二之地,所謂己操戈矛,寧肯授人以柄,雖欲撫之,恐是『據於蒺蔾』也。」思政曰:「奈何?」俠曰:「圖歡有立至之憂,西巡有將來之慮。且至關右,日慎一日,徐思其宜耳。」思政然之,乃進俠於帝,授左中郎將。

 [1]『史記』高祖本紀に曰く、「田肯曰く、『秦は形勝の国なり、河を帯びて山に阻(さえぎ)られ、〔諸侯と〕懸隔すること千里にして、しかも持戟(兵士)百万あれば、秦すなわち百二を得たり。』蘇林の注に曰く、「百二とは、秦の地勢が堅固であることから、百万の内の二万だけで諸侯の百万に当たることができることを指す。」
 ⑴虞喜の『志林』に曰く、「百二とは、百を二つ得ることを指す。百万の兵とそれに匹敵する地勢の堅固さを持つことから、百二を得ていると言うのである。秦兵は二百万に当たるという事なのだろう。」
 ⑵『漢書』梅福伝に曰く、「泰阿を倒(さかしま)に持ちて、人に授くるに柄を以てす。」また『後漢書』何進伝に曰く、「干戈(武器)を倒(さかしま)に持ちて、人に授くるに柄を以てす。」

●洛陽圧迫
 これより前、歓は洛陽より北に還ろうとした際(532年4月29日参照)、洛陽が長らく戦禍に遭って王気がが衰滅した事や、山河の険があるといっても土地が狹小であることを理由に、帝に鄴へ遷都するように勧めた。帝は詔を下して言った。
「高祖(孝文帝)が都を黄河・洛水の地に定めて万世の基を築かれ、諸制度を整備なさったのを、世宗(宣武帝)が完成なさったのである。王は国家に功を立てたのだから、太和(477~499。孝文帝の治世の年号)以来の伝統も遵守してほしい。」
 歓はその時は詔に従ったものの、今になって再び遷都を企むようになった。三千騎(北史斉神武紀では『千騎』とある)を派して建興を守備させると共に、河東及び済州の兵を増員し、白溝河の船を拿捕して洛陽に向かうのを許さず、諸州より合法的に穀物を買い上げて(和糴)鄴城に運び入れさせた。そこで帝は再び歓に勅を下して言った。
「王がもし人心を平静にしたいと願うのならば、ただ河東や建興の兵を撤退させ、相州に集中させている穀物を諸州に返し、済州への増援を中止し、刺史の蔡俊に交代を了承させ、邸珍を徐州から退出させ、兵馬の臨戦態勢を解き、それぞれ家業に復帰させてやるべきである。糧食が必要なのであれば、別に転輸させよ。このようにすれば、讒言をする者も口をつぐみ、人に疑念や後悔の心を生じさせなくなるだろう。さすれば王も太原にて枕を高くして眠ることができ、朕も都にて安穏と暮らし、黄河を渡って干戈を交えることなど最後までせぬであろう。しかし、あくまで王が馬首を南に向け鼎の軽重を問おうとするのであれば、朕は力無く、制止することが不可能でも、必ずや社稷宗廟を守るために決死の抵抗を示すであろう。全ては王の考え次第である。朕には王の心をどうすることもできぬ。ただ山を築いてあと一簣(き、もっこ。一もっこ分)にして止むること(『書経』旅獒に曰く、「山をつくること九仞にして、功を一簣に欠く。」また『論語』子罕19に曰く、「たとえば山をつくるが如し。未だ成らざること一簣にして止むるも、吾が止むなり。」大功業の成就があと一歩の所で未完に終わることを指す)を、王のために惜しむだけである。」《北斉神武紀》
 歓は上表して、口を極めて宇文泰・斛斯椿の罪を論じた。

忠義三策
 帝は太昌の初め(532年)に魏公・広寧【建州沁水県に置かれた】太守で広寧【馬邑郡善陽県に置かれた】の人《北斉19任延敬伝》の任祥を兼尚書左僕射とし、開府儀同三司を加官していたが、斛斯椿が策動を始めると祥は官や家を棄てて逃亡し、黄河を渡って郡を挙げて歓を迎え入れた。帝はそこで文武百官のうち北方より来た者に勅を下し、去就を自由に決定させた。また歓の罪状を列挙した詔を下し、更に賀抜勝を洛陽に呼びつけた《北斉神武紀》。勝がこれを太保掾で范陽の人の盧柔に諮ると、柔はこう答えて言った。
「高歓の叛逆に対して公が直ちに都に赴き、これと生死を賭けた決戦を行なうのが忠義の上策。北は魯陽の守りを固め、南はいにしえの楚の版図(梁の領域)を攻めて併呑し、東は兗・豫と連絡し、西は関中と手を合わせ、百万の兵を手もとに形勢を窺うのが中策。三荊の地と共に梁に降り、功名をみな棄てて命だけ全うするのが下策であります。」
 勝は柔の若年なるを侮っていたため、この言を聞いても笑うだけで何も答えようとしなかった《周32盧柔伝》

●宇文泰動く
 泰が洛陽に帳内都督で秦郡【雍州扶風郡寧夷県】の人の楊荐(せん)を参内させると、帝は泰を兼尚書僕射・關西大行台とし、馮翊長公主(孫騰が狙った平原公主。封邑を改められ馮翊長公主となっていた)を妻とすることを許した。また、荐を直閤将軍とした。帝が荐に入関の意向を伝えると、荐はこれに賛同の意を示した。帝はそこでこう言った。
「そなたは行台にこの言葉を伝え、騎兵を派して朕を迎えに来るようにさせよ!」《周33楊荐伝》
 泰はそこで前秦州刺史の駱超(北魏末の群雄の一人・莫折念生を殺した杜粲を殺し、北魏に降った。527年〈4〉参照)を大都督として、軽騎一千を率いて洛陽に赴くように命じた《周文帝本紀》。また、荐と洛陽から使者としてやってきていた司徒右長史・駙馬都尉(周27宇文測伝)の宇文測を派して、帝を迎えに行かせた《周33楊荐伝》