[西魏:永熙三年 東魏:天平元年 梁:中大通六年]


┃紇豆陵伊利滅ぶ
 春、正月、壬辰(9日)高歓が河西の苦泄河に割拠する費也頭族長の紇豆陵伊利を攻め、これを捕らえてその部落を河東に移住させた[1]

 孝武帝は歓の行為を責めて言った。

「伊利は叛かず侵さず、国家の忠臣であった(左伝襄公十四年の戎子駒支の言葉『不侵不叛之臣』を踏まえている)。それを朝廷に無断で討伐するとは何事か!」

○資治通鑑
 六年春正月壬辰,魏丞相歡擊伊利於河西【河西,五原河之西也。河東,亦五原河之東】,擒之,遷其部落於河東。魏主讓之曰:「伊利不侵不叛,為國純臣【《左傳》:戎子駒支曰:「為先君不侵不叛之臣。」】,王忽伐之,詎有一介行人先請之乎!」
○魏出帝紀
 三年春正月壬辰,齊獻武王討費也頭於河西苦洩河,大破之,獲其帥紇豆陵伊利,遷其部落於內地。
○北斉神武紀
 河西費也頭虜紇豆陵伊利居河池,恃險擁眾,神武遣長史侯景屢招不從。天平元年正月壬辰,神武西伐費也頭虜紇豆陵伊利於河西,滅之,遷其部於河東。

 [1]河西は、五原河の西の地域のことである。河東は、五原河の東の地域のことである。

┃東梁州の乱
 北魏東梁州【治所は金城(西城)。金城・安康・魏明郡を管轄した】の異民族が叛乱した。
 2月、行東雍州【太武帝が平陽に東雍州を置いたが、太和年間(477~499)に廃止され、孝昌年間(525~528)に改めて平陽に唐州が置かれ、建義元年(528)に晋州と名を改められた。再び東雍州が置かれたという記述は見当たらない。五代志曰く、雍州の鄭県に北魏は東雍州を置いた。魏書地形志では鄭県は華州に属されている。この東雍州というのがどこに置かれたのか、まだ分からない。豊陽県は上庸郡に属し、太安二年(456)に置かれた】事の泉企蕭宝寅の乱の際、洛州に侵入してきたのを撃退した。527年〈4〉参照)を東梁州行台・都督として、これを討たせた。
 壬戌(9日)、大赦を行なった。

 癸亥(10日)、梁の武帝が藉田を耕す儀式を行ない、大赦を行なった。

永寧寺の塔焼け落つ
 この月、北魏の永寧寺(胡太后が熙平元年〈516〉に洛陽の大通りの西側に建てた)にある九重の塔(魏書釈老志では『四十余丈(120メートル超)』、水経注穀水では『四十九丈(150メートルほど)』あり、都から百里離れたところからでも望見できたという)が夜明けに八層目から出火し、全体に回った。孝武帝は陵雲台に登ってこれを望見すると、南陽王宝炬と録尚書事の長孫稚に羽林の兵(近衛兵)一千を率いてこれを消し止めるように命じた。しかし彼らは結局どうすることもできず、涙を流してその場を去ることになった。この火災を見る者はみな声を上げて泣き、それは洛陽中を震わせた。このとき三人の僧が火の中に飛び込んで死んだ。火は三ヶ月経っても消えず、地下の基柱にまで至って年中燻り続けた《伽藍一》
 間もなく東萊より人がやってきて、こう言った。
「海上の人みな、仏塔新しくなりて東海中に没するを見ゆ。」
 そう言ったきり、突然生じた霧に紛れて姿を消してしまった。ある論者がこれを天意だと見なしてこう言った。
「永寧寺被災せば、魏安寧ならず。東海は渤海、つまり渤海王(高歓)のことを指す。神仏の霊験あらたかな永寧寺の仏塔が、新しい姿で王に飛び入るというのは、即ち魏に代わって王が天命を得ることを暗示しているのだ。」《魏112霊徴志・伽藍一・北斉神武紀》

○北斉神武紀
 二月,永寧寺九層浮圖災。既而人有從東萊至,云及海上人咸見之於海中,俄而霧起乃滅。說者以為天意若曰,永寧見災,魏不寧矣,飛入東海,渤海應矣。

┃まさかの最後、河曲の変

 これより前(正月)、賀抜岳は霊州刺史の曹泥を討つにあたって、都督で武川の人の趙貴を夏州に派して刺史の宇文泰に意見を聞いた。泰は答えて言った。
曹泥は高歓と遠く離れて孤立しておりますので、これを征伐するのはまだ後でもよろしいでしょう。むしろ私は悦(侯莫陳悦)の方が気がかりです。彼は大軍を擁して公の近くにおり、しかも財貨に貪欲で信の置けない男です。こちらを先に討っておくべきだと考えます。」
 岳はこれを聞き入れず、悦を高平(原州)に呼び、共に泥の討伐を行なうことにした[1]。このとき悦は既に翟嵩531年参照)の工作を受けて岳に対し異志を抱いていたが、岳は平素から悦を侮っていたため、警戒をしなかった。
 岳はよく悦と宴会を開いて雑談をし、京兆太守の雷紹に軽率さを諌められていたが、岳はこれも聞き入れなかった。

 趙貴、字は元貴(北史では『元宝』)は、〔名門の〕天水南安〔趙氏〕の出である。曾祖父の趙達は北魏の庫部尚書となり、臨晋子に封じられた。祖父の趙仁の代に良家の子弟ということで武川鎮に居を遷された。
 貴は若くして聡明で、堅い節操を持っていた。孝昌年間(525~528)に天下が大いに乱れると、貴は郷里の人々を連れて南方の中山に遷ったが、葛栄がこれを陥とすとその配下となった。のち栄が滅ぶと、爾朱栄に別将に任じられ、元顥討伐に功を挙げて燕楽県子・伏波将軍・武賁中郎将とされた。次いで賀抜岳に従って関中を平定し、魏平県伯に封じられ、五百戸の封邑を与えられた。のち次第に昇進して鎮北将軍・光禄大夫・都督とされた。

 この月(2月、岳は渴波隘()中の黄河の表面に張った氷がまだ溶けていないのを見に行くと称し、悦を先鋒として霊州に進軍した。悦は夜通し東進(北進?)を続けた。
 晦日の壬午(29日)の夜明け、悦は河曲(霊州の南。黄河が大きく曲がる地)にまで到った。岳は軍に先んじて悦のもとに向かった。そこで悦は岳を己の軍営に誘い、軍事について議論した。その途中、悦はふと腹痛と称して席を立った。刹那、悦の婿の元洪景が刀を抜いて岳を斬り殺した(河曲の変)。

 令狐徳棻曰く…賀抜岳は二千の弱兵を以て三秦の強敵と当たり、その智勇を存分に奮って良くこれを討伐し、異民族を恐れさせて遥か彼方まで朝廷に服従させた。これはまことに一代の盛事であった。しかし、赫々たる勲功が引き寄せた災いに何ら備える事無くむざむざと殺される事になってしまったのは、非常に残念な事であった。しかし、むかし陳涉が事を起こしたからこそ、劉邦が前漢を打ち立て得たように、岳が関中を制圧する功を立てたからこそ、宇文泰が北周の建国の基を築き得たのである。『廃する所非ざれば、君何を以てか興らんや。』(春秋晋の里克の言葉。『私が邪魔者を廃していなければ、公はどうして立つことができたでしょう』といった意味)とは、まことに真実の言葉であると言えよう。

○周・北史周文帝紀
 魏永熙三年春正月,岳欲討曹泥,遣都督趙貴至夏州與太祖計事。太祖曰:「曹泥孤城阻遠,未足為憂。侯莫陳悅怙眾密邇,貪而無信,必將為患,願早(是宜先)圖之。」岳不聽,遂與悅俱討泥。二月,至於河曲,岳果為悅所害。
○魏80・周14賀抜岳伝
 三年正月,岳召侯莫陳悅會於高平,將討之,令悅前驅,北趣靈州。聞渴波隘中河水未解,將往趣之。岳既總大眾,據制關右,憑強驕恣,有不臣之心。齊獻武王惡其專擅,令悅圖之。悅素服威略,既承密旨,便潛為計。〔而悅受齊神武密旨圖岳,岳弗之知也,而先又輕悅。〕時岳遣悅先行,悅乃通夜東進,達明晦日,岳行軍前與悅相見。悅誘岳入營,坐(共)論兵事。悅詐云腹痛,起而徐行,悅女夫(壻)元洪景抽刀斬岳〔於幕中〕。〔朝野莫不痛惜之。〕後岳部下收岳尸葬於雍州北石安原。六月,贈大將軍、太保、錄尚書事,都督、刺史、開國並如故。〔贈侍中、太傅、錄尚書、都督關中三(二)十州諸軍事、大將軍、雍州刺史,諡曰武壯,葬以王禮。……岳以二千之羸兵,抗三秦之勍敵,奮其智勇,克翦凶渠,雜種畏威,遐方慕義,斯亦一時之盛也。卒以勳高速禍,無備嬰戮。惜哉!陳涉首事不終,有漢因而創業;賀拔元功夙殞,太祖藉以開基。「不有所廢,君何以興」,信乎其然矣。〕
○魏80侯莫陳悦伝
 永熙三年正月,岳召悅共討靈州。悅誘岳斬之。
○周16・北59趙貴伝
 趙貴字元貴(寶),天水南安人也。曾祖達,魏庫部尚書、臨晉子。祖仁,以良家子鎮武川,因家焉。貴少貴悟,有節槩。魏孝昌中,天下兵起,貴率鄉里避難南遷。屬葛榮陷中山,遂被拘逼。榮敗,爾朱榮以貴為別將,從討元顥有功,賜爵燕樂縣子,授伏波將軍、武賁中郎將。從賀拔岳平關中,賜爵魏平縣伯,邑五百戶。累遷鎮北將軍、光祿大夫、都督。
○北49雷紹伝
 在郡踰年,岳被害。初,紹見岳數與侯莫陳悅宴語,嘗謂岳曰:「公其慎之!」岳不從,果及於難。


 [1]曹泥は高歓派の人間である。岳が宇文泰の言葉に従わずに曹泥の討伐を急いだのは、自派の伊利を高歓に捕らえられたことに早く報復をしたかったのだろう。


┃悦、岳の遺衆を放置す
 岳の従者たちが狼狽して逃げ散ると、悦は人を遣ってこう諭した。
「私は丞相()より特命を受けたが、それはただ岳を殺せというものであった。ゆえに他の者には手をかけぬ。諸君は恐れずとも良い。」
 これを聞いて岳の兵士たちは落ち着きを取り戻したが、悦は岳を殺してより精神がぼんやりとしていたため、これを捨て置いてしまったどころか、己の軍だけで隴山に入ると、水洛城に引き籠もってしまった。
 これより前、岳が殺された時、岳の遺衆たちは逃げ散って為すところを知らなかったが、ただ趙貴のみこうこう言ってすすり泣いた。
「自分はこう聞いている。『仁義の道は一定でなく、これを行なえば君子となり、これに違えば小人となる』と。朱伯厚後漢の朱震のことか。旧友の陳蕃が殺されると、危険を顧みずその遺児を匿った)、王叔治後漢の王修のこと。主君の袁譚が殺されると、泣いて曹操に嘆願し、その遺体を引き取って弔った)は微恩に意気を感じて立派な行動を行ない、名誉と節操を後世に残した。それなのに、賀抜公に国士として遇され、大恩を蒙った我々が、どうして凡人と行動を共にできよう。一致団結して公の恩に報いようではないか!」
 ここにおいて五十人が貴と共に悦のもとに到って偽りの投降を行ない、信用されたところで貴が岳の遺体を弔わせてくれるように求めた。悦はその気迫のこもった言葉を立派としてこれを許した。貴はかくて岳の遺体を得て還ると、右都督で武川の人の寇洛らと共に岳の遺衆を糾合して平涼に赴き、〔態勢を立て直してから〕悦を討つ算段を立てた。
 洛は遺衆の諸将たちの中で最年長(時に48歳)で、平素から信望が厚かった。遺衆が無事平涼に帰還できたのは、ひとえに洛の力によるものだった。

 寇洛生年487、時に48歳)は、上谷昌平の人である。代々将軍・官吏を輩出した家に生まれ、父の寇延寿は和平年間(460~465)に良家の子弟ということで武川鎮に居を遷した。
 洛は生まれつき物の道理をよくわきまえ、小さなことにこだわらなかった。正光(520~525)の末に北辺に乱が起こると、郷里の人々と共に并・肆の地に避難し、爾朱栄の征討に従軍するようになった。のち賀抜岳が天光の関中征伐に従うと、洛は同郷(岳も武川鎮に育った)ということでこれに加わり、赤水の蜀人を破った功を以て中堅将軍・屯騎校尉・別将とされ、臨邑県男に封ぜられた。更に岳が渭水にて賊帥の尉遲菩薩を捕らえた戦いや百里細川に侯伏侯元進を破った戦い、長坑に万俟醜奴を捕らえた戦いに参加し、常に力戦して功を挙げ、龍驤将軍・都督を加えられ、安鄉県子に爵を進められた。のち征北将軍・衛将軍を歴任し、岳が平涼に赴いた際に右都督に任ぜられた。


 岳が死ぬと悦の軍中はみなこれを祝ったが、行台郎中の薛憕は密かに親しい者にこう言った。
「閣下は元々才略に欠けているのに、敢えて良将を殺すような事をした。その敗北は目の前にあり、我らは今に捕虜とされるだろう。それなのにどうして祝ったりなどしているのだろうか!」
 聞いた者は皆もっともだと思い、顔に憂色を浮かべた。
 憕は、薛真度494年12月参照)の従孫であり、また薛孝通532年〈2〉参照)の族孫である。

 翟嵩が晋陽に帰り岳が死んだ事を伝えると、高歓は牀から下り嵩の両頬を叩いてこう言った。
「そなたのおかげで我が心痛は取り除かれた! この恩はいつまでも忘れぬだろう!」

○周・北史周文帝紀
 其士眾散還平涼,唯大都督趙貴率部曲收岳屍還營。
○魏80・周14賀抜岳伝
 後岳部下收岳尸葬於雍州北石安原。六月,贈大將軍、太保、錄尚書事,都督、刺史、開國並如故。〔贈侍中、太傅、錄尚書、都督關中三(二)十州諸軍事、大將軍、雍州刺史,諡曰武壯,葬以王禮。〕
○北49賀抜岳伝
 翟嵩復命于神武,神武下牀鳴其頰曰:「除吾病者卿也,何日忘之!」
○魏80侯莫陳悦伝
 岳左右奔散,悅遣人安慰云:「我別禀意旨,止在一人,諸君勿怖。」眾皆畏服,無敢拒違。悅心猶豫,不即撫納,乃還入隴,止水洛城。…悅自殺岳後,神情恍惚,不復如常。
○周15寇洛伝
 寇洛,上谷昌平人也。累世為將吏。父延壽,和平中,以良家子鎮武川,因家焉。洛性明辨,不拘小節。正光末,以北邊賊起,遂率鄉親避地於并、肆,因從爾朱榮征討。及賀拔岳西征,洛與之鄉里,乃募從入關。破赤水蜀,以功拜中堅將軍、屯騎校尉、別將,封臨邑縣男,邑二百戶。又從岳獲賊帥尉遲菩薩於渭水,破侯伏侯元進於百里細川,擒万俟醜奴於長坑。洛每力戰,並有功。加龍驤將軍、都督,進爵安鄉縣子,累遷征北將軍、衞將軍。於平涼,以洛為右都督【[一]張森楷云:「『於』上當有挩誤,否則於文不屬。」按北史卷五九寇洛傳作「及岳為大行臺,以洛為右都督」,這裏「於」上疑脫「及岳為大行臺」六字,「為大行臺於平涼」連讀】。侯莫陳悅既害岳,欲并其眾。時初喪元帥,軍中惶擾,洛於諸將之中,最為舊齒,素為眾所信,乃收集將士,志在復讐,共相糾合,遂全眾而反。
○周16・北59趙貴伝
 及岳為侯莫陳悅所害,將吏奔散(敗),莫有守者。貴謂其黨曰:「吾聞仁義豈有常哉,行之則為君子,違之則為小人。朱伯厚、王叔治(王脩)感意氣微恩,尚能蹈履名節;況吾等荷賀拔公國士之遇,寧可自同眾人乎?」〔因〕涕泣歔欷。於是從之者五十人。乃詣悅詐降,悅信之。因請收葬岳,言辭慷慨,悅壯而許之。貴乃收岳屍還〔營〕,與寇洛等糾合其眾,奔平涼,共圖拒悅。
○周38薛憕伝
 及齊神武起兵,憕乃東遊陳、梁間,謂族人孝通曰:「高歡阻兵陵上,喪亂方始。關中形勝之地,必有霸王居之。」乃與孝通俱遊長安。侯莫陳悅聞之,召為行臺郎中,除鎮遠將軍、步兵校尉。及悅害賀拔岳,軍人咸相慶慰。憕獨謂所親曰:「悅才略本寡,輒害良將,敗亡之事,其則不遠。吾屬今即為人所虜,何慶慰之有乎!」聞者以憕言為然,乃有憂色。

 ⑴水洛城…《読史方輿紀要》曰く、『静州(平涼府の西二百三十里、秦州の北二百五十里、原州の西南百六十里)の西南百里にある。《水經注》曰く、「水洛亭は隴山の西にあり、略陽県界付近にある。
 ⑵『孟子』告子上八に曰く、『操(と)れば則ち存し、捨つれば則ち亡(うしな)う。出入時なく、その郷(おるところ)を知るなし』。また尽心上三に曰く、『求むれば則ちこれを得、捨つれば則ちこれを失う』。

┃岳の遺衆、宇文泰を推す


 岳の遺衆が次第に再び軍としての体裁を取り戻していくと、今度は誰を新しい指導者に据えるかという問題が持ち上がった。そこで諸将は、自分たちの中で最年長で、軍の信頼の厚い寇洛を推し、盟主としたが、洛は元々雄略無く軍令を徹底させることができなかったので、やがて辞退して言った。
「私は生まれつき才知に欠け、人を統べるのに向いていないのに、先頃衆議に迫られて軍を率いることになってしまった。どうか辞退を認め、改めて指導者に相応しい者を選んでほしい。」
 そこで趙貴が言った。
「元帥()が朝廷に忠節を尽くしていたのは朝野の知るところであったが、国家を救うという功業を成し遂げる前に非業の死を遂げてしまわれた。その死はただ国家が名臣を失ったということに留まらず、人々の寄る辺さえも失わせてしまった。我らは国家や人民にそのような痛苦を与えた悦に、何としても復讐し恨みをすすがねばならぬのであるが、それには良き指導者を戴くことが必須で、もしこれに人を得なければ、大事を集()すことは難しく、いくら忠義の心を持っていたとしても、成功は覚束なくなるだろう。そこで、私は宇文夏州を推す。私が見るに、夏州は不世出の英姿を備え、天下に冠した雄略を持ち、遠きも近きもこれに心を寄せており、士卒も命を尽くしている。また、法令は整粛で賞罰は厳明であり、誠に頼みとするべき人物である。今もし元帥の死を知らせれば、夏州は必ず我々の苦境を救わんと駆けつけてくるであろう。そこで指導者に戴けば、必ずや大事を集()すことができよう。」
 しかし諸将はなおも迷い、決断を下せないでいた。すると、都督で盛楽の人の杜朔周がこう言った。
「宇文夏州は以前左丞を務め、その知略は人にずば抜けたものがあり、まさに当世の傑物といえます。我らの仇討ちは、彼でなければ実現不可能でありましょう。趙将軍の意見が正しいと思われます。私が早馬に乗って、元帥の死を知らせると共に、彼を迎えに行ってまいりましょう。」
 諸将のある者は南方の賀抜勝を呼び寄せるべきだと言い(李虎)、ある者は東方の魏朝に指示を仰ぐべきだと言った。すると朔周が重ねてこう言った。
「それらはどれも近くの火を消すために遠くの水を汲みに行くようなもの。話になりません!」
 ここにおいて諸将は遂に断を下し、朔周を泰のもとに急行させた。朔周は泰にまみえると声を上げて激しく泣いた。泰がそのわけを尋ねると、朔周は真摯な態度でこれに答えて言った。
侯莫陳悦は盟誓や恩義を顧みず、忠良の臣を無道に殺害しました。人々はこれを憤り恨むも、その心の遣りようが無い状況です。公は以前元帥の左丞だった時、恩徳と信義に溢れた政治を執り行なわれたことで有名であり、いま小と無く大と無く全ての者が、その公を盟主に推し戴きたいと一日千秋の思いで待っているのです。公よ、どうか夏州に留まらず、人々の期待にお応えください。」

 杜朔周は盛楽の人で、赫連勃勃夏の武烈帝)の後裔である。曾祖父の赫連庫多汗の時に難を避けるために杜氏に改姓した。
 朔周は剛直な性格で、度胸があった。若年の頃から賀抜岳の征討に付き従って功を立て、都将・長広郷男とされ、のち都督とされた。

○周・北史周文帝紀
 於是三軍未有所屬,諸將以都督寇洛年最長,相與推洛以總兵事。洛素無雄略,威令不行,乃謂諸將曰:「洛智能本闕,不宜統御,近者迫於羣議,推相攝領,今請避位,更擇賢材。」於是趙貴言於眾曰:「元帥忠公盡節,暴於朝野,勳業未就,奄罹凶酷。豈唯國喪良宰,固亦眾無所依。必欲糾合同盟,復讐雪恥,須擇賢者,總統諸軍。舉非其人,則大事難集,雖欲立忠建義,其可得乎。竊觀宇文夏州,英姿不世,雄謨冠時,遠邇歸心,士卒用命。加以法令齊肅,賞罰嚴明,真足恃也。今若告喪,必來赴難,因而奉之,則大事集(濟)矣。」諸將皆稱善。乃命赫連達馳至夏州,告太祖曰:「侯莫陳悅不顧盟誓,棄恩背德,賊害忠良,羣情憤惋,控告無所。公昔居管轄,恩信著聞,今無小無大,咸願推奉。眾之思公,引日成歲,願勿稽留,以慰眾望也。」
○周15寇洛伝
 既至原州,眾咸推洛為盟主,統岳之眾。洛復自以非才,乃固辭,與趙貴等議迎太祖。
○周16趙貴伝
 貴首議迎太祖,語在太祖紀。
○周16侯莫陳崇伝
 除安北將軍、太中大夫、都督,封臨涇縣侯,邑八百戶。及岳為侯莫陳悅所害,崇與諸將同謀迎太祖。
○周17梁禦伝
 後從賀拔岳鎮長安。及岳被害,禦與諸將同謀翊戴太祖。
○周17若干恵伝
 若干惠字惠保,代郡武川人也。其先與魏氏俱起,以國為姓。父樹利周,從魏廣陽王深征葛榮,戰沒,贈冀州刺史。惠年弱冠,從爾朱榮征伐,定河北,破元顥,以功拜中堅將軍。復以別將從賀拔岳西征,解岐州圍,擒万俟醜奴,平水洛,定隴右,每力戰有功。封北平縣男,邑二百戶。累遷鎮遠將軍、都督、直寢、征西將軍、金紫光祿大夫。及岳為侯莫陳悅所害,惠與寇洛、趙貴等同謀翊戴太祖。
○周17怡峯伝
 怡峯字景阜,遼西人也。本姓默台,因避難改焉。高祖寬,燕遼西郡守。魏道武時,率戶歸朝,拜羽真,賜爵長虵公。曾祖文,冀州刺史。峯少從征役,以驍勇聞。永安中,假龍驤將軍,為都將,從賀拔岳討万俟醜奴,以功授給事中、明威將軍,轉征虜將軍、都督,賜爵蒲陰縣男。及岳被害,峯與趙貴等同謀翊戴太祖。
○周17劉亮伝
 劉亮中山人也,本名道德。祖祐連,魏蔚州刺史。父持真,鎮遠將軍、領民酋長。魏大統中,以亮著勳,追贈車騎大將軍、儀同三司、恆州刺史。亮少倜儻,有從橫計略,姿貌魁傑,見者憚之。普泰初,以都督從賀拔岳西征,解岐州圍,擊侯伏侯元進、万俟道洛、万俟醜奴、宿勤明達及諸賊,亮常先鋒陷陣。以功拜大都督,封廣興縣子,邑五百戶。侯莫陳悅害岳,亮與諸將謀迎太祖。
○周17王徳伝
 王德字天恩,代郡武川人也。少善騎射,雖不經師訓,而以孝悌見稱。魏永安二年,從爾朱榮討元顥,攻河內,應募先登。以功除討夷將軍,進爵內官縣子。又從賀拔岳討万俟醜奴,平之。別封深澤縣男,邑二百戶,加龍驤將軍、中散大夫。及侯莫陳悅害岳,德與寇洛等定議翊戴太祖。
○周19達奚武伝
 達奚武字成興,代人也。祖眷,魏懷荒鎮將。父長,汧城鎮將。武少倜儻,好馳射,為賀拔岳所知。岳征關右,引為別將,武遂委心事之。以戰功拜羽林監、子都督。及岳為侯莫陳悅所害,武與趙貴收岳屍歸平涼,同翊戴太祖。
○周27赫連達伝
 赫連達字朔周,盛樂人,勃勃之後也。曾祖庫多汗,因避難改姓杜氏。
 達性剛鯁,有膽力。少從賀拔岳征討有功,拜都將,賜爵長廣鄉男,遷都督。及岳為侯莫陳悅所害,軍中大擾。趙貴建議迎太祖,諸將猶豫未決。達曰:「宇文夏州昔為左丞,明畧過人,一時之傑。今日之事,非此公不濟。趙將軍議是也。達請輕騎告哀,仍迎之。」諸將或欲南追賀拔勝,或云東告朝廷。達又曰:「此皆遠水不救近火,何足道哉。」貴於是謀遂定,令達馳往。太祖見達慟哭,問故,達以實對。
○周27梁台伝
 梁臺字洛都,長池人也。父去斤,魏獻文時為隴西郡守。臺少果敢,有志操。孝昌中,從爾朱天光討平關、隴,一歲之中,大小二十餘戰,以功授子都督,賜爵隴城鄉男。普泰初,進授都督。後隸侯莫陳悅討南秦州羣盜,平之。悅表臺為假節、衞將軍、左光祿大夫,進封隴城縣男,邑二百戶。尋行天水郡事,轉行趙平郡事。頻治郡,頗有聲績。未幾,天光追臺還,引入帳內。及天光敗於寒陵,賀拔岳又引為心膂。岳為侯莫陳悅所害,臺與諸將議翊戴太祖。
○周38呂思礼伝
 岳為侯莫陳悅所害,趙貴等議遣赫連達迎太祖,思禮預其謀。

 ⑴『韓非子』説林上。犁鉏曰く、『火を失(あやま)つるに水を海より取れば、海水は多しといえども火は必ず滅(き)えず。遠水は近火を救わざるなり。』

┃去就議論
 泰は岳の死を知ると、将佐賓客と共に去就を議論した。すると前太中大夫で潁川の人の韓褒が言った。
「現在王室は衰え、天下は大いに乱れております。その中で使君は生まれつき武勇に優れ、恩徳を以て将兵の心を良く掴み、賀抜公の関中平定に多大な貢献を致しました。その賀抜公が俄に非業の死を遂げられると、遺衆の心は突然の事態に恐れおののき、急場しのぎに寇洛を指導者に推戴しましたが、洛は己の非才をわきまえ、その地位を使君に託してきました。もしいま兵権を握りますれば、関中の地は自然と使君のもとに転がり込んできます。これはまさに天が使君に与えたもうた好機です。それをどうして疑うのですか! また、侯莫陳悦は人倫に背いて軽率に事を起こしただけでなく、勝ちに乗じて平涼に拠る遺衆を攻めることもせず、却って己の方が逃げ帰って水洛城に引き籠もってしまいました。悦は誠に物の道理を知らぬ井の中の蛙としか言いようがなく、使君がこれを攻めれば必ず虜とするのは必定です。稀に見る一大勲功を打ち立てるは、まさにこの一挙にあります。時(機会)というものは得難く失い易いものです(『史記』淮陰侯伝。蒯通曰く、『夫(そ)れ功は成り難くして敗れ易く、時は得難くして失い易し。時か時か、再び来たらず』)。私は使君がこの策を容れてくださることを切に望みます。」
 泰がこれに頷いて出立しようとすると、夏州の吏民が泣いてこう言った。
「聞くところによると、悦はいま水洛城に拠っているとか。水洛城は遺衆の拠る平涼からそう遠くない地にあります。もしいま既に悦がこれを攻めて併呑していれば、悦と対するのが非常に困難となります。一旦ここに留まり、動向を良く見極めてから動くことをお勧めします。」
 泰は答えて言った。
「悦は元帥を手にかけたなら一気呵成に平涼を攻め取るべきであったのに、何を考えたのか、逆に自らが退いて水洛城に籠ってしまった。これよりわしはその大事を為す無きを知った。夫れ得難くして失い易きは時なり、日を終うるを俟()たざるは機なり(『易経』繋辞下伝に曰く、『君子は幾(機)を見て作(な)し、日を終うるを俟たず』)。いま早く赴かなければ、遺衆はわしが日和見をしていると思い幻滅するだろう。それでは大事を為すことはできぬ。」

○周文帝紀
 太祖將赴之,夏州吏民咸泣請曰:「聞悅今在水洛,去平涼不遠。若已有賀拔公之眾,則圖之實難。願且停留,以觀其變。」太祖曰:「悅既害元帥,自應乘勢直據平涼,而反趑趄,屯兵水洛,吾知其無能為也。且難得易失者時也,不俟終日者幾也,今不早赴,將恐眾心自離。」
○周37韓褒伝
 魏建明中,起家奉朝請。加彊弩將軍,遷太中大夫。屬魏室喪亂,襃避地於夏州。時太祖為刺史,素聞其名,待以客禮。及賀拔岳為侯莫陳悅所害,諸將遣使迎太祖。太祖問以去留之計。襃曰:「方今王室凌遲,海內鼎沸。使君天資英武,恩結士心。賀拔公奄及於難,物情危駭。寇洛自知庸懦,委身而託使君。若總兵權,據有關中之地,此天授也,何疑乎!且侯莫陳悅亂常速禍,乃不乘勝進取平涼,反自遁逃,屯營洛水。斯乃井中蛙耳,使君往必擒之。不世之勳,在斯一舉。時者,難得而易失,誠願使君圖之。」太祖納焉。

┃弥姐元進処断
 この時、夏州の第一等の望族で都督の弥姐元進らが密かに悦に内応しようとした。泰はこれを察知すると、帳下都督で高平の人の蔡祐に元進を捕らえるよう命じた。すると祐はこう言った。
「『狼子野心』(『左伝』宣公四年)という諺があります。元進はその狼の子にして、飼い馴らすことはできず、必ず恩に背いて牙を剥くでしょう。彼を捕らえると言うなら、いっそのこと殺した方がよいでしょう。」
 泰は答えて言った。
「お前は大事を決める力がある。」
 そこで元進らを衆議に呼び寄せると、泰がこう言った。
「隴賊が叛乱を起こしたゆえ、諸君と力を合わせてこれを討伐したいと思うのだが、諸君は乗り気でないように見える。何故か?」
 これを聞くや元進らは顔色を青ざめさせた。そこで泰が祐にちらと目配せすると、祐は即座に帳幕から出、鎧を身に着け刀を持った姿で帰り、目を怒らせて元進らにこう怒鳴りつけて言った。
「朝には殿の意見に賛成していた癖に、夜には同意できないと言う。そのような者は人ですら無いわ! 今日わしは必ず姦人の首を斬る!」
 そう言って剣の柄に手をかけてこれに迫ると、元進らは堪らず床几よりまろび下り、頭を地に打ちつけてこう言った。
「どうか殺す者は数人に留めてください(原文『「願有簡択。」』)。」
 祐はそこで元進を怒鳴りつけて斬り殺すと、同時に計画に深く関わっていたと見られる者も斬って捨てた。残された者たちは皆一様に戦慄し、頭を上げることすらできなかった。ここにおいて泰は諸将と誓いを行ない、心を合わせて悦を討つことを約した。泰はこの一件から祐を重んじるようになり、こう言った。
「我らは今より父子である!」

○資治通鑑
 泰曰:「汝有大決。」【言能決大計也】
○周文帝紀
 都督彌姐元進規欲應悅,密圖太祖。事發,斬之。
○周27蔡祐伝
 及侯莫陳悅害賀拔岳,諸將遣使迎太祖。將赴,夏州首望彌姐元進等陰有異計。太祖微知之,先與祐議執元進。祐曰:「狼子野心,會當反噬,今若執縛,不如殺之。」太祖曰:「汝大決也。」於是召元進等入計事。太祖曰:「隴賊逆亂,與諸人戮力討之。觀諸人輩似有不同者。」太祖微以此言動之,因目祐。祐即出外,衣甲持刀直入,瞋目叱諸人曰:「與人朝謀夕異,豈是人也!蔡祐今日必斬姦人之頭。」因按劍臨之。舉座皆叩頭曰:「願有簡擇。」祐乃叱元進而斬之,并其黨並伏誅。一坐皆戰慄,不敢仰視。於是與諸將結盟,同心誅悅。太祖以此知重之。乃謂祐曰:「吾今以爾為子,爾其父事我。」


┃宇文泰と侯景
 泰はかくて麾下の軽騎数百を率いて夏州を発った。これより先、歓も岳の遺衆を収めようとして長史の侯景を派しており、両者は安定の宿駅にて邂逅した。このとき泰は丁度食事を摂っていたが、景がやってきた事を知るや口の中のものを吐き出し、乗馬してこれに会って言った。
「賀抜公死すとも、まだこの宇文泰がいる! そなたは一体何をしに来たか!」
 景はこれに気圧され、色を失って言った。
「それがしは言わば矢のような者で、ただ人に放たれるままにここへ赴いただけのこと、それがしの意志で来たのではございませぬ。」
 かくて景は晋陽に引き返した。

○資治通鑑
 景失色曰:「我猶箭耳,唯人所射。」【英雄之姿表與其舉措必有異乎人者,以侯景之凶狡,宇文泰一語折之,辭氣俱下,良有以哉。李密見唐太宗不覺驚服,事亦類此。】遂還【侯景不敢前至平涼】。
○周・北史周文帝紀
 太祖乃率帳下輕騎,馳赴平涼。時齊神武遣長史侯景招引岳眾,太祖至安定,遇之〔傳舍。吐哺上馬〕,謂景曰:「賀拔公雖死,宇文泰尚存,卿何為也?」景失色,對曰:「我猶箭耳,隨人所射〔者也〕,安能自裁。」景於此即還。
○周27赫連達伝
 太祖遂以數百騎南赴平涼。

 [1]英雄というものは姿貌や言動が必ず人と異なっているものである。凶悪狡猾なる侯景が、宇文泰のたった一語に心をへし折られ、へりくだった言葉を言うまでになったのは、誠にそのためであった。のち李密が唐の太宗(李世民)に会ったときに自然と驚服したのも、これと同じたぐいのことである。

┃宇文泰、岳の遺衆を収む
 泰は平涼に到ると岳の遺体の前で激しく慟哭し、弔意を表した。遺衆はこれを見て貰い泣きすると共に、その到来を喜んでこう言った。
「宇文公がやってきてくださったからには、もう心配は要らないぞ!」
 泰は趙貴を大都督・府司馬に、寇洛を右大都督とした。

 これより前、賀抜岳が河曲に進駐した時、ある軍吏が一人歩いていると、突然髭も眉も真っ白な老翁に出会った。老翁は軍吏にこう言った。
賀抜岳はこの軍を率いてはいるが、結局何も成せないまま死ぬだろう。その時、宇文家のある者が東北よりやってきて〔この軍を収め〕、のち必ず大いに盛んとなるだろう。」
 言い終わると姿が見えなくなった。軍吏はこの事をよく親しい者に話した。これが今になって現実のものとなったのである。

○周文帝紀
 太祖至平涼,哭岳甚慟。將士且悲且喜曰:「宇文公至,無所憂矣。」…初,賀拔岳營於河曲,有軍吏獨行,忽見一老翁,鬚眉皓素,謂之曰:「賀拔岳雖復據有此眾,然終無所成。當有一宇文家從東北來,後必大盛。」言訖不見。此吏恆與所親言之,至是方驗。
○魏80侯莫陳悦伝
 岳之所部,聚於平涼,規還圖悅,遣追夏州刺史宇文黑獺。黑獺至,遂總岳部眾并家口,入高平城,以自安固。
○周15寇洛伝
 太祖至平涼,以洛為右大都督。
○周16趙貴伝
 太祖至,以貴為大都督,領府司馬。

┃侯景捕縛
 歓は泰が岳の遺衆を収めたのを聞くと、散騎常侍で代郡の人の張華原と義寧太守で太安の人の王基を付けて侯景を再び派し、泰に己の軍門に降るように言ったが、泰はこれを受け入れないどころか、却って景らを拘留し、華原にこう言った。
「もし有能なるそなたが降るのなら、富貴を約束しよう。でなければ、命は今日限りである。」
 華原が答えて言った。
「渤海王は天命を受けてこの世に生まれ、既に天下の大半を手中にされました。しかし明公がまだ矮小なる関右(関中)に拠って使者をよこさぬものですから、それがしに説得を任せたのです。しかしいま明公は考えを改めて禍いを転じ福と為すことなく、却ってそれがしを脅しになられました。かくなる上は、もはや死あるのみです。さっさとお斬りくださいませ。」
 泰はその実直さを褒め、これを東方に帰還させた。しかし間もなく後悔して人に追わせたが結局追いつくことができなかった。歓は華原が長いこと帰ってこないので日夜嘆息していたが、彼が帰ってくると大いに喜色を表した。
 また、泰は葛栄の配下時代に王基と旧交があったので、景ともども引き留めようとしたが、共に頑として首を縦に振らなかったため、これらも釈放した。このとき泰のもとにやってきていた斛斯椿がこう言った。
「景は人傑。どうして放してしまうのか。」
 泰はこれを聞いて後悔し、人に駅馬を使わせてこれを追わせたが、これまた追いつくことができずに終わった。
 基は歓のもとに還るとこう言った。
「泰は英雄であります。足下が固まる前に兵を差し向け、討ち滅ぼしてしまうべきです。」
 歓は答えて言った。
「お主は岳が悦の手にかかって死んだのを知らぬのか? 泰などに兵は要らぬ。岳と同じく計略のみで滅ぼしてみせよう。」

○北史周文帝紀
 齊神武又使景與常侍張華原、義寧太守王基勞帝,帝不受命。與基有舊,將留之,并欲留景,並不屈,乃遣之。時斛斯椿在帝所,曰:「景,人傑也,何故放之?」帝亦悔,驛追之不及。基亦逃歸,言帝雄傑,請及其未定滅之。神武曰:「卿不見賀拔、侯莫陳乎,吾當以計拱手取之。」
○北斉25王基伝
 高祖平兆,以基為都督,除義寧太守。基先於葛榮軍與周文帝相知,及文帝據有關中,高祖遣基與長史侯景同使於周文帝,文帝留基不遣。基後逃歸。
○北斉46・北86張華原伝
 周文帝始據雍州也,高祖猶欲以逆順曉之,使華原入關說焉。周文密有拘留之意,謂華原曰:「若能屈驥足於此,當共享富貴,不爾命懸今日。」華原曰:「渤海王命世誕生,殆天所縱,以明公蕞爾關右,便自隔絕,故使華原銜喻公旨。明公不以此日改圖,轉禍為福,乃欲賜脅,有死而已〔,不敢聞命〕。」周文嘉其亮正,乃使東還〔,尋悔,遣追不及〕。高祖以華原久而不返,每歎惜之,及聞其來,喜見於色。