[北魏(爾朱氏):普泰二年 北魏(高歓):中興二年→太昌元年→永興元年→永熙元年 梁:中大通四年]


┃爾朱氏破滅

 度律・天光が洛陽に向かう中、斛斯椿は都督の賈顕度・賈顕智にこう切り出した。
「歓よりも先に爾朱氏を捕らえて恩を売っておけば、族誅に遭うことは避けられよう。」
 そこで夜密かに桑の木の下で誓いを立てると、馬に鞭をくれて度律らより先に南へ向かった《魏80斛斯椿伝》。このとき世隆は外兵参軍の陽叔淵に単騎北中城(河橋の北。ここを通らないと洛陽には行けない)に急派し、その検めを経た者しか城の中に入れないようにさせていた。椿はその順番待ちに遭うと、早く関門を突破するために叔淵にこう偽りの言葉を述べて言った。
「天光が洛陽を大略奪したのち長安に遷都しようとしている。私を早く中に入れ、その対策をさせよ。」
 夏、4月、甲子朔(1日)、叔淵がこれを信じて中に引き入れると、椿らは爾朱氏の一党をことごとく殺して北中城を占拠してしまった《魏75爾朱世隆伝》。度律・天光らがこれを攻めようとすると、途端に雨が降り出し、それは一日中続く大雨となった。これに兵馬は疲労困憊して弓矢もみな駄目になってしまったので、遂に度律らは城攻めを諦めて西に逃亡した《魏75爾朱度律伝》。しかし灅陂津に到った所で大雨のため立ち往生し、遂に捕らえられて椿のもとに送られた【灅陂津は河橋の西にあり、雷波とも呼ばれる。爾朱兆が孝荘帝を攻めた時に乗馬したまま渡った所である《魏75爾朱天光伝》
 椿はまた行台の長孫稚に節閔帝へ状況を伝えに行かせると同時に、別に弟の斛斯元寿《北49斛斯椿伝》賈顕智張歓らに数百騎を与えて世隆を奇襲させた。世隆は突然のことになすすべなく捕らえられた《魏75爾朱世隆伝・魏80斛斯椿伝》。このとき彦伯は宮中に宿直していた。長孫稚は神虎門(宮城西門)より宮城に入ると、帝にこう上奏した。
高歓の義軍は大勝を博しました。どうか爾朱氏を討つ許可をお与えください。」
 帝がこれを舍人の郭崇を通して彦伯に伝えると、彦伯は宮中より慌てて逃げ出したが捕らえられ、世隆と共に閶闔門(宮城南門)外の市中(魏後廃帝紀)にて斬首された(世隆、時に33歳)。首は斛斯椿の門の傍の木に吊るされて晒されたあと《魏75爾朱彦伯伝》、度律・天光の身柄と共に高歓のもとへ送られた。
 これより前、洛中にはこのような童謡が流行っていた。
「三月末、四月初、揚灰簸土、真珠をもとむ。」
 また、このような童謡も流行った。
「頭、項を去り、脚、根にひとしく、駆けて樹に上り、梯(はしご)をもちいず。」
 これらの童謡はここに至って現実のものとなったのである。

○魏後廃紀
 大都督斛斯椿、賈顯智倍道先還。夏四月甲子朔,椿等據河橋,懼罪自劾,尋擒天光、度律於河橋。西北大行臺長孫稚、都督賈顯智等率騎入京師,執尒朱世隆、彥伯,斬於都街,囚送天光、度律於齊獻武王。
○北斉神武紀
 斛斯椿倍道先據河橋。
◯魏75爾朱彦伯伝
 天光等敗於韓陵,彥伯欲領兵屯河橋以為聲勢,世隆不從。及張勸等掩襲世隆,彥伯時在禁直從。長孫稚等於神虎門啟陳齊獻武王義功既振,將除尒朱。廢帝令舍人郭崇報彥伯知。彥伯狼狽出走,為人所執。尋與世隆同斬於閶闔門外,懸首於斛斯椿門樹,傳首於齊獻武王。先是,洛中謠曰:「三月末,四月初,揚灰簸土覔真珠。」又曰:「頭去項,脚根齊,驅上樹,不須梯。」至是並驗。
○魏75爾朱世隆伝
 及天光戰敗,世隆請出收兵,前廢帝不許。世隆令其外兵參軍陽叔淵單騎馳赴北中,簡閱敗眾,以次內之。而斛斯椿未得入城,詭說叔淵曰:「天光部下皆是西人,聞其欲掠京邑,遷都長安。宜先內我,以為其備。」叔淵信而內之。椿既至橋,盡殺世隆黨附,令行臺長孫稚詣闕奏狀,別使都督賈智、張勸率騎掩執世隆與兄彥伯,俱斬之。時年三十三。
 初,世隆曾與吏部尚書元世儁握槊,忽聞局上歘然有聲,一局之子盡皆倒立,世隆甚惡之。世隆又曾晝寢,其妻奚氏忽見有一人持世隆首去,奚氏驚怖就視,而世隆寢如故也。既覺,謂妻曰:「向夢人斷我頭去,意殊不適。」又此年正月晦日,令、僕並不上省,西門不開。忽有河內太守田怗家奴告省門亭長云:「今旦為令王借車牛一乘,終日於洛濱遊觀。至晚,王還省,將車出東掖門,始覺車上無褥,請為記識。」時世隆封王,故呼為令王。亭長以令、僕不上,西門不開,無車入省,兼無車跡。此奴固陳不已,公文列訴。尚書都令史謝遠疑謂妄有假借,白世隆付曹推檢。時都官郎穆子容窮究之,奴言:「初來時至司空府西,欲向省,令王嫌遲,遣二防閤捉儀刀催車。車入,到省西門,王嫌牛小,繫於闕下槐樹,更將一青牛駕車。令王著白紗高頂帽,短小黑色,儐從皆裙襦袴褶,握板,不似常時服章。遂遣一吏將奴送入省中廳事東閤內東廂第一屋中。」其屋先常閉籥。子容以西門不開,忽言從入;此屋常閉,奴言在中。詰其虛罔。奴云:「此屋若閉,求得開看,屋中有一板牀,牀上無席,大有塵土,兼有一甕米。奴拂牀而坐,兼畫地戲弄,甕中之米亦握看之。定其閉者,應無事驗。」子容與謝遠自入看之,戶閉極久,全無開跡。及入,拂牀畫地,蹤緒歷然,米亦符同,方知不謬。具以此對。世隆悵然,意以為惡。未幾見誅。
○魏75爾朱度律伝
 斛斯椿先據河梁,度律欲攻之,會大雨,晝夜不止,士馬疲頓,弓矢不得施用,遂西走於灅波津,為人擒執。椿囚之,送於齊獻武王。王送於洛,斬之都市。

●爾朱敞逃亡
 この時、彦伯の子の爾朱敞字は乾羅)は十二歳で、母に連れられて宮中で育てられていた。敞は竇(排水溝?或いは、宮城の塀の穴)より逃走し、表通りに到った時、遊んでいる子どもたちに出会った。敞は綺羅金翠の服を脱いで子どもの服と交換し、再び逃走した。間もなく追騎がやってきたが、敞を良く知らなかったので、とりあえず綺麗な衣服を着ている子どもを捕らえた。間もなく問い詰めた結果人違いだと分かったが、その時には既に日が暮れていたため〔追跡を諦め、〕敞は逃げ切ることができた。
 敞はある村に入り、長孫氏の女性が胡牀に腰掛けて座っているのに会うと、再拝して助けを求めた。長孫氏は不憫に思い、二重壁の中に住まわせた。三年後、懸賞金がかけられていよいよ追及が厳しくなり、発見されそうになると、長孫氏は敞にこう言った。
「事態は切迫しました。ここに長く留まっていてはなりません。」
 かくて餞別の品を渡して立ち去らせた。敞は姓名を変え、道士のふりをして嵩山に隠遁し、書物を読み漁る生活を送った。その数年間、人々は非常に不思議がった。

◯隋55尒朱敞伝
 尒朱敞字乾羅,秀容契胡人,尒朱榮之族子也。父彥伯,官至司徒、博陵王。齊神武帝韓陵之捷,盡誅尒朱氏,敞小,隨母養於宮中。及年十二,自竇而走,至于大街,見童兒羣戲者,敞解所著綺羅金翠之服,易衣而遁。追騎尋至,初不識敞,便執綺衣兒。比究問知非,會日已暮,由是得免。遂入一村,見長孫氏媼踞胡牀而坐。敞再拜求哀,長孫氏愍之,藏於複壁。三年,購之愈急,迹(追)且至,長孫氏曰:「事急矣,不可久留。」資而遣之。遂詐為道士,變姓名,隱嵩山,略涉經史。數年之間,人頗異之。

 ⑴爾朱敞は十二歳…尒朱敞伝では亡くなった歳を72としていて、没年は載せていない。《爾朱敞墓志》では没年を『開皇十年(590)』とする。そうすると生年は519となり、数え年で言えばこのとき14歳ということになる。

●盧弁の忠義と侯景の降伏
 節閔帝は中書舍人の盧弁、字は景宣に鄴城の歓を慰労させた。歓がこれを廃帝に謁見させようとすると、弁は拒否して従わなかった。すると歓は怒ってこう言った。
「大義を掲げ、群醜を討ち滅ぼしたわしの言葉に逆らうとは! 天子はここにおわす! お前を派したのは何者だ?」
 弁がそれでも拒否の言葉を返し続け、節を守って屈しようとしなかったので、歓は遂にこれを謁見させずに放免した。弁は、盧同(元叉に付いて栄達したが、その転落と共に除名の憂き目に遭った。のち孝荘帝が即位すると復帰し、侍中に任じられていた)の兄の子である《北30盧弁伝》。

 辛未(8日)、〔爾朱氏の腹心で高歓の親友の一人の〕驃騎大將軍・行済州事の侯景が別駕の赫連子悦の勧めに従い、歓に降った。歓は景を儀同三司・兼尚書僕射・南道大行台・済州刺史とした。
 赫連子悦は字を士欣といい、赫連勃勃夏の建国者)の後裔である。永安(528~530)の初めに戦功を評価されて済州別駕とされた。

 甲戌(11日)、車騎将軍・尚書右僕射の魏蘭根を驃騎大将軍・儀同三司とした。
 乙亥(12日)、車騎大将軍・儀同三司・中軍大都督の高盛を北道行台尚書僕射とし、臨機応変に行動させた。
 高盛高謐高歓の祖父)の兄弟で広昌鎮将の高各抜の末子で、高歓の従叔祖である。寛大・温厚で長者の風格があった。歓が信都にて挙兵すると中軍大都督とされた。

○魏後廃紀
 未,前廢帝驃騎大將軍、行濟州事侯景據城降,仍除儀同三司、兼尚書僕射、南道大行臺、濟州刺史。甲戌,以車騎將軍、尚書右僕射魏蘭根為驃騎大將軍、儀同三司。乙亥,以車騎大將軍、儀同三司、中軍大都督高盛兼尚書僕射、北道行臺,隨機處分。
○魏32高湖伝
 謐長兄真,有志行。兄弟俱至孝,父亡,治喪墓次,甘露白雉降集焉,有司以聞,詔標閭里。自涇州別駕,稍遷安定太守,甚著聲績。卒,贈龍驤將軍、涇州刺史。…真弟各拔,廣昌鎮將。卒,贈燕州刺史。…各拔少子盛。
○北斉14広平公盛伝
 廣平公盛,神武從叔祖也。寬厚有長者風。神武起兵於信都,以盛為中軍大都督。
○北斉40赫連子悦伝
 赫連子悅,字士欣,勃勃之後也。魏永安初,以軍功為濟州別駕。及高祖起義,侯景為刺史,景本尒朱心腹,子悅勸景起義,景從之。

●爾朱仲遠、梁に亡命
 爾朱仲遠が梁に亡命した。そののち、仲遠の帳下都督の橋寧・張子期が滑台より歓に降伏してくると(歓の入洛後)、歓はこれを責めたてて言った。
「お前らは仲遠に仕えて重用を受け、何度も血を啜り合って生死を共にすると誓い合った仲ではなかったか。また、仲遠が徐州から洛陽へ叛逆の軍を起こした時(530年11月参照)、お前らはその首謀者になったのではなかったか。なのに今、仲遠が南に逃れるとこれに付いていくことなく、誓いに背いた。お前らは天子に仕えては忠義無く、仲遠に仕えては信義が無かった。犬馬ですら飼い主には忠義や信義を尽くすものだ。お前らは犬馬以下の存在である!」
 かくてこれを斬った。

○魏後廃紀
 尒朱仲遠奔蕭衍。
○魏80斛斯椿伝
 初,獻武王之入洛,頓於邙山,尒朱仲遠帳下都督橋寧、張子期自滑臺而至。獻武王責寧等曰:「汝事仲遠,擅其榮利,盟契百重,許同生死。前仲遠自徐為逆,汝為戎首,今仲遠南走,汝復背之。於臣節則不忠,論事人則無信。犬馬尚識恩養,汝今犬馬之不如!」遂斬之。

┃長安陥落
 これより前、爾朱天光は関中より韓陵に赴く際、弟の爾朱顕寿に長安の留守を任せ、奏州刺史の侯莫陳悦に後から付いてくるよう命じていた。天光の必敗を察した都督三雍三秦二岐二華諸軍事・関西行台・雍州刺史の賀抜岳は、悦を引き止め、協力して顕寿を捕らえ高歓に呼応しようと考えたが、ただどう悦を引き止めればよいかいい案が浮かばないでいた。そのとき行原州(治所高平)事の宇文泰が岳にこう言った。
「天光が関中の近くにいる今は、悦はきっとその存在を恐れて叛こうとはせず、我らの計画を伝えても、驚き恐れてこれを密告する可能性すらありましょう。ただ、悦という男は一軍の将でありながら人を統率するのが非常に下手な男でありますから、もし先にその兵に天光の必敗と顕寿を捕らえる必要性を説いて留心を起こしておけば、悦はその心を翻すことができずに進軍できなくなるでしょう。さすれば、悦は東進できたとしても期日に遅れ、任地に退却しても浮き足立った軍の暴動を恐れてどうすることもできなくなります。その窮状に付け入れば、必ずや悦を説得できるでしょう。」
 岳がこれを聞いて大いに喜び、直ちに泰に悦の兵たちの説得をさせると、果たして悦は岳と共に長安を襲撃することを決心した。
 岳は軍を率いて隴山を下り(岳は最近まで隴右行台として原州にいた)、長安に向かった。泰は軽騎兵を率いてその先鋒となった。泰は顕寿が臆病な性格であることから、諸軍が叛したことを聞けば必ず長安に踏みとどまることなく東に遁走するだろうと予測し、悠長に進軍していてはきっと空振りに終わるだろうと考えた。そこで夜を日に継いで強行すると、果たして長安を棄てて東に逃走していた顕寿に華陰(潼関の西。周文帝紀では『華山』。今は通鑑の判断に従った)にて追いつき、これを捕らえることができた。
 のち歓が岳を関西大行台に任じると(歓の入洛後)、岳は泰を行台左丞(政務長官)・兼府司馬(軍事長官)とし、大小を問わずあらゆる事柄をこれに任せた。また、泰は散騎常侍を加えられた。

○資治通鑑
 歡以岳為關西大行臺【《考異》曰:《北史》:「薛孝通為中書郎,以『關中險固,秦、漢舊都,須預謀鎭遏以為後計,縱河北失利,猶足據之。』節閔帝深以為然,問:『誰可任者?』孝通與賀拔岳同事天光,又與周文帝有舊,二人並先在關右,並推薦之。乃超授岳督岐·華·秦·雍諸軍事、關西大行臺、雍州牧,周文帝為左丞,孝通為右丞,齎詔書馳驛入關,授岳等同鎭長安。後天光敗於韓陵,節閔遂不得入關,為齊神武幽廢。」按天光尚在,節閔安敢除岳鎭關中!今從《魏書》】。
○周・北史周文帝紀
 普泰二年,爾朱天光東拒齊神武,留弟顯壽鎮長安。秦州刺史侯莫陳悅為天光所召,將軍眾東下。岳知天光必敗,欲留悅共圖顯壽,而計無所出。太祖謂岳曰:「今天光尚邇(近),悅未有(必)二(貳)心,若以此事告之,恐其驚懼,然悅雖為主將,不能制物,若先說其眾,必人有留心。進失爾朱之期,退恐人情變動,〔若〕乘此說悅,事無不遂。」岳大喜,即令太祖入悅軍說之,悅遂不行。乃相率襲長安,令太祖輕騎為前鋒。太祖策顯壽怯懦,聞諸軍將至,必當東走,恐其遠遁,乃倍道兼行。顯壽果已東走,追至華山(陰),擒之。太昌元年,岳為關西大行臺,以太祖為左丞,領岳府司馬,加散騎常侍。事無巨細,皆委決焉。
○魏80賀抜岳伝
 及尒朱天光率眾赴洛,將抗齊獻武王,岳與侯莫陳悅下隴赴雍,以應義旗。永熙初,仍開府、兼僕射、大行臺、雍州刺史,增邑千戶。
○周14賀抜岳伝
 進位開府儀同三司,兼尚書左僕射、隴右行臺,仍停高平。二年,加都督三雍三秦二岐二華諸軍事、雍州刺史。天光將率眾拒齊神武,遣問計於岳。岳報曰:「王家跨據三方,士馬殷盛,高歡烏合之眾,豈能為敵。然師克在和,但願同心戮力耳。若骨肉離隔,自相猜貳,則圖存不暇,安能制人。如下官所見,莫若且鎮關中,以固根本;分遣銳師,與眾軍合勢。進可以克敵,退可以克全。」天光不從,果敗。岳率軍下隴赴雍,擒天光弟顯壽以應齊神武。
○魏80侯莫陳悦伝
 及天光向洛,使悅行華州事。普泰中,除驃騎大將軍、儀同三司、秦州刺史。天光之東出,將抗義旗,悅與岳下隴以應齊獻武王,至雍州,會尒朱覆敗。

┃爾朱弼の死
 韓陵の戦いの前、爾朱世隆は己の府長史の房謨を斉州(東北道)行台尚書に任じて、募兵を行なって四櫝津に赴くよう命じ、また、弟で青州刺史の爾朱弼に東陽(青州治所)の兵を率いて乱城に進軍し、示威行動をしながら黄河を北に渡り、掎角の勢(挟撃の態勢)を取るようにさせていた。
 のち韓陵にて爾朱氏が敗北すると、弼は東陽に引き返し、世隆らが死んだことを知ると梁に亡命しようとして、何度も左右と腕の血を啜って一致団結を誓った。この時弼の腹心で帳下都督の馮紹隆が弼にこう説いて言った。
「梁へ亡命しようとなされるのなら、心臓の前の血を啜らせねば、人々は付き従わないでしょう。」
 弼がそこで部下を大いに集め、胡床に座って服の前を開き、紹隆に血管を割くように命じると、紹隆はその刀で弼を殺し、首を洛陽に送った。

 丙子(13日)、北魏の安東将軍の辛永と右将軍・建州大都督の張悦が建州城(高都)と共に歓に降った。

○魏後廃紀
 青州刺史尒朱弼為其部下馮紹隆所殺,傳首京師。丙子,前廢帝安東將軍辛永、右將軍建州大都督張悅舉城降。
○魏75爾朱弼伝
 及天光等敗,弼乃還州。世隆既擒,弼欲奔蕭衍,數與左右割臂為約。弼帳下都督馮紹隆為弼信待,乃說弼曰:「今方同契闊,須更約盟。宜可當心瀝血,示眾以信。」弼乃從之,遂大集部下,弼乃踞胡牀,令紹隆持刀披心。紹隆因推刃殺之,傳首京師。


●節閔帝の処遇

 辛巳(4月18日)高歓廃帝と共に邙山(洛陽の北)まで到ると《魏前廃帝紀》、帝の血筋の悪さが気にかかるようになり、そこで上は百官を集め、下は士庶に至るまで令を下し、こう尋ねて言った。
「爾朱氏は暴虐にして天の理を捻じ曲げ弄んだため、孤は信都にて義兵を挙げ、天を蔑する罪人どもをかくのごとく討ち滅ぼした。孤はそこで皇室の中から血筋が良く賢明な者を推戴して補佐し、魏の国運を改めて盛んにしたいと思うのだが、天・人両方から国家の主として認められる人物は誰がおられるだろうか?」
 歓は何度も尋ねたが、答えようとする者は現れなかった。その時太僕卿の綦毋俊のみ席を立って言った。
「人主たる者は、必ず深い度量や聡明さ、そして情け深さがあるものです。広陵王(節閔帝)は艱難に遭った際、何年も唖のふりをして他人の出方を伺い、政争に巻き込まれるのを避け続けてまいられました。これは並大抵の事ではありません。ゆえに、爾朱氏に擁立されたとはいえ、広陵王こそが当世の聖主であるように考えます。」
 歓が喜んでこれに従おうとすると、黄門侍郎の崔㥄が色をなして進み出、俊にこう言った。
「広陵王は天子となっても国の大業を更に押し広め、恩徳を天下に行き渡らせることができなかった。これでなんで聖主と言えよう!《魏81綦俊伝》 そもそも彼が聡明であるというのならば、我が高王()の推戴を待って九五の位(天子)に即くべきではなかったのか。それを誤って既に逆胡によって擁立されてしまったのだから、もはや天子であり続けるのは無理があろう。俊の言に従えば、爾朱氏の行ないに正当性を与えることになる。お前は高王の義挙を無名の師にするつもりなのか?《北斉23崔㥄伝》
 これより前、歓は僕射の魏蘭根孝荘帝が爾朱栄を誅殺したさい井陘の守備をするように命じられたが、侯淵に敗れて高乾のもとに逃れ、のち高歓が爾朱氏に叛くと河北の名士という立場を買われて重用を受けた)に洛陽へ先行させて人々の慰撫をさせると共に、節閔帝が帝より皇帝にふさわしいかどうか観察させていたが、蘭根は帰還すると、帝は風貌と知力に優れ傀儡にしがたいと報じ、㥄の言葉に賛同した。このとき高乾兄弟も㥄の言に同意して帝を廃するように勧めた《北斉23魏蘭根伝》ので、歓はとうとう帝を崇訓寺に幽閉した《魏前廃帝紀》

●高歓暗殺計画
 歓が洛陽に入った時、斛斯椿賀抜勝にこう言った。
「今天下は私と君の手にある。先んじて人を制さねば、人に制せられる。洛陽に来たばかりの歓を攻めれば、容易く討ち取れよう。」
 勝は答えて言った。
「彼は人の心を得ているから、殺しても報復を受ける結果になるだろう。それに、歓は近頃私とよく寝床を共にし、事細かに私との思い出を話してくれた。また、歓は兄に対してもかなり恩義があると言っていた。歓はいい奴だ。何もそんなことをしなくても良いではないか!」
 椿はそこで計画を取り止めた。

○北49斛斯椿伝
 及神武入洛,椿謂賀拔勝曰:「今天下事在吾與君,若不先制人,將為人所制。高歡初至,圖之不難。」勝曰:「彼有心於人,害之不祥。比數夜與歡同宿,具序往昔之懷,兼荷兄恩意甚多,何苦憚之!」椿乃止。

┃孝武帝の即位

 歓は梁にいる魏王悦が高祖孝文帝の子で天子にふさわしいと考え、これを呼び寄せたが、亡命前と同じく言動が軽はずみで動けば何かしら罪を犯したので、擁立を取り止めた《北19元悦伝》
 このとき諸王の多くが身の危険を感じてあちこちに逃げ隠れており、広平王懐高祖孝文帝の子、497年8月参照)の子で尚書左僕射の平陽王修孝明帝の従兄弟)も田舍に隠れ潜んでいた。歓はこれを擁立しようとして、斛斯椿に探し求めさせた。椿は修と親しかった員外散騎侍郎で太原の人の王思政にその所在を問うと、思政は言った。
「何故そのような事を聞いてくるのですか?」
 椿は言った。
「天子に立てようと思うのだ。」
 思政がそこで修の居場所を答えて案内すると、修は顔色を変えて思政にこう言った。
「私を売るつもりでは無いだろうな?」
 思政は言った。
「もちろん違います。」
 修は言った。
「絶対に保証できるのだな?」
 思政は言った。
「時局は千変万化に動いておりますゆえ、保証はできかねます。」
 椿が馬を飛ばして歓に報告すると、歓は四百騎を派して修を氈帳[1]に迎え入れ、自分に邪心が無いことを、襟を濡らすほどに泣きながら述べた。修はそれでも己の徳の薄いことを理由に辞退したが、歓が再拝して固く求めてきたので、遂にこちらも再拝してこれを受け入れた。歓は氈帳より出でて皇帝用の衣服や装飾を用意し、沐浴してこれに着替えるよう求め、兵に夜通しその周囲を護衛させた。また歓は早朝になると、文武百官に手に手に馬鞭を持たせて帳中の修に拝謁させ[2]斛斯椿に皇帝の位に登るよう勧める上奏文を修に献じさせた。椿は氈帳の門に到ると,磬折(『へ』の形をした磬という楽器のように深く腰を曲げる礼)をして首をすくめ、恐れ多いようにふるまって中に入ろうとしなかった。そこで修は思政を通じてこれを手に取って読むと、こう言った。
「こう求められては、『朕』と称せざるを得ないだろうな。」
 これを受けて歓は廃帝に禅譲の詔を下させた。
 これより前、嵩山の道士の潘弥という者が洛陽の西に天子の気が立ち昇っているのを望見し、その場に赴いてみると、修から発せられているということが分かった。弥が修の屋敷を訪れて密かにこの事を伝えると、それから五十日後に果たして修のもとに斛斯椿がやってきたのであった。
 戊子(4月25日)、修は洛陽城の東にて皇帝の位に即いた。これが孝武帝出帝)である。
 帝は代都時代の旧制を用い、黒い獣毛で織った敷物を歓ら七人にかぶらせ、その上にて西に向かって上天を拝んだのち、東陽門(洛陽城東門)・雲龍門(宮城東門)を通って太極殿に入り、群臣の拝賀を受けた。そののち帝は閶闔門(宮城南門)に登って大赦を行ない、年号を中興から太昌に改め、歓を大丞相・天柱大将軍・太師として、定州刺史の世襲を許し、封邑を加増して十五万戸とした。歓は天柱大将軍を辞退し、また封邑を十万戸に留めるよう求めた《北斉神武紀》

 孝武帝生年510、時に23歳)、諱は修、字は孝則は、広平武穆王懐の第三子である。母は李氏。素朴で寡黙な人柄で、人情に厚く、広く学問を学んで武芸を好み、全身に龍の鱗のような紋様があった。十八歳の時に汝陽県公に封じられた。ある時、夢にて虎を従えた人に出会い、こう言われた。
「お前は非常に尊い身分となり、二十五年にして亡くなるだろう。」
 のち通直散騎侍郎や中書侍郎とされた。のち、建義の初め(528)に散騎常侍とされ、間もなく平東将軍・兼太常卿とされ、次いで鎮東将軍・宗正卿とされた。永安三年(530)、平陽王とされ、普泰の初め(531年)に侍中・鎮東将軍・儀同三司・兼尚書右僕射とされ、普泰年間(531~532)に侍中・尚書左僕射とされた。

 王思政、字は思政は、太原郡祁県の人で、後漢の司徒王允の後裔である。王氏は曹魏の太尉王凌が誅されてより顕職に就くことが無くなった。父の王祐は州主簿となった。
 思政は姿形が大きく立派で、知略に長けていた。正光年間(520~525)に出仕して員外散騎侍郎となり、万俟醜奴・宿勤明達らが関中を乱すと、北海王顥に意気盛んな所を買われてその討伐軍に加えられ、軍議に常に招待された。のち洛陽に帰還すると、評判を耳にしていた元修に招かれ、賓客として非常に手厚くもてなされた。修が即位するとその腹心とされ、安東将軍に任じられた。のち更に祁県侯・武衛将軍とされた。

○資治通鑑
 時諸王多逃匿,尚書左僕射平陽王修,懷之子也【廣平王懷,高祖之子;修於孝明帝從兄弟也】,匿於田舍。歡欲立之,使斛斯椿求之。椿見修所親員外散騎侍郎太原王思政,問王所在,思政曰:「須知問意。」椿曰:「欲立為天子。」思政乃言之。椿從思政見修,修色變,謂思政曰:「得無賣我邪?」曰:「不也。」曰:「敢保之乎?」曰:「變態百端,何可保也!」椿馳報歡。歡遣四百騎迎修入氈帳【氈帳,胡夷酋帥所居,漢人謂之穹廬】,陳誠,泣下霑襟,修讓以寡德,歡再拜,修亦拜。歡出備服御,進湯沐,達夜嚴警。嚴為警備也。昧爽【孔安國曰:昧,冥。爽,明;早旦。馬曰:昧,未旦也。陸德明曰:爽,謂早旦也】,文武執鞭以朝【軍中不能備朝服,故執鞭以為敬】,使斛斯椿奉勸進表。椿入帷門,磬折延首而不敢前【張守節曰:磬折,謂曲體揖之,若石磬之形曲折也。磬形皆中屈垂兩頭,言人屈腰則似也】,修令思政取表視之,曰:「便不得不稱朕矣。」【《書》曰:天位艱哉。又曰:毋安,厥位惟危。雖天人樂推,神器歸屬,賢君處此之時,慄慄乎懼其不勝也。平陽王視勸進表而發此言,驕滿之氣溢出於肝鬲之上,君子以是知其不能終】乃為安定王作詔策而禪位焉。
○魏出帝紀・北史孝武紀
 出帝,諱脩,字孝則,廣平武穆王懷之第三子也,母李氏。性沉厚少言,〔學涉,〕好武事〔,遍體有鱗文〕。始(年十八)封汝陽縣開國公,〔夢人有從諱謂己曰:「汝當大貴,得二十五年。」〕拜通直散騎侍郎,轉中書侍郎。建義初,除散騎常侍,尋遷平東將軍、兼太常卿,又為鎮東將軍、宗正卿。永安三年,封平陽王。普泰初,轉侍中、鎮東將軍、儀同三司、兼尚書右僕射,〔普泰中,〕又加侍中、尚書左僕射。
 中興二年夏四月,〔高歡既敗尒朱氏,〕安定王(廢帝)自以疏遠,未允四海之心,請遜大位。齊獻武王〔乃〕與百僚會議,僉謂高祖(孝文)不可無後,〔時召汝南王悅於梁,至,將立之,宿昔而止。又諸王皆逃匿,帝在田舍。先是,嵩山道士潘彌望見洛陽城西有天子氣,候之乃帝也。於是造第密言之。〕乃共奉王。〔居五旬而高歡使斛斯椿求帝。椿從帝所親王思政見帝,帝變色曰:「非賣我耶?」椿遂以白歡。歡遣四百騎奉迎帝入氈帳,陳誠,泣下霑襟。讓以寡德。歡再拜,帝亦拜。歡出,備服御,進湯沐。達夜嚴警。昧爽,文武執鞭以朝。使斛斯椿奉勸進表。椿入帷門,罄折延首而不敢前。帝令思政取表,曰:「視,便不得不稱朕矣。」於是假廢帝安定王詔策而禪位焉。〕戊子,即帝位於東郭之外,〔用代都舊制,以黑氈蒙七人,歡居其一,帝於氈上西向拜天訖,〕入自東陽、雲龍門,御太極前殿,羣臣朝賀。禮畢,昇閶闔門,詔曰:「否泰相沿,廢興互有,玄天無所隱,精靈弗能諭。大魏統乾,德漸區宇,牢籠九服,旁礴三光。而上天降禍,運踵多難,禮樂崩淪,憲章漂沒。赫赫宗周,翦為戎寇;肅肅清廟,將成茂草。胡羯乘機,肆其昏虐,殺君害王,刳剔海內。競其吞噬之意,不識醉飽之心。自書契以來,未有若斯者已!大丞相勃海王忠存本朝,精貫白日,爰舉義旗,志雪國耻。故廣阿之軍,貔虎奪氣;鄴下之師,金湯失險。近者四胡相率,實繁有徒,驅天下之兵,盡華戎之銳。桴鼓暫交,一朝盪滅,元兇授首,大憝斯擒。揚旆濟河、掃清伊洛,士民安堵,不失舊章。社稷危而復安,洪基毀而還構。朕以託體宸極,猥當樂推,祗握寶圖,承茲大業。得以眇身,託於王公之上,若涉淵水,罔識攸津。思與兆民同茲嘉慶,可大赦天下。改中興二年為太昌元年。」
○周18・北62王思政伝
 王思政字思政,太原祁人〔,漢司徒允之後也。自魏太尉凌誅後,冠冕遂絕。父祐,州主簿〕。〔思政〕容貌魁偉(梧),有籌策。魏正光中,解褐員外散騎侍郎。屬万俟醜奴、宿勤明達等擾亂關右,北海王顥率兵討之,〔聞思政壯健,〕啟思政隨軍。軍事所有謀議,竝與之參詳。時魏孝武在藩,素聞其名,顥軍還,乃引為賓客,遇之甚厚。及登大位,委以心膂,遷安東將軍。預定策功,封祁縣侯〔,為武衞將軍〕。

 [1]氈帳(フェルトのテント)は胡夷酋帥の住居であり、漢人はこれを穹廬(弓状に張った丸天井の仮小屋)と呼んだ。
 [2]軍中では正式な官服を着ることができないので、代わりに馬鞭を持って、馭者のごとくその手足となることを示して敬意を表したのである。

┃高氏と元氏の縁組
 庚寅(27日)高澄歓の長子)を侍中・開府儀同三司に任じた。
 
 この年清河王亶孝文帝の孫)の娘の馮翊公主兄の元善見〈のちの東魏の孝静帝〉が524年生まれであるため、公主はこの時9歳以下)が澄に降嫁した。

 澄はこのとき12歳と幼かったが、既に大人びた精神を有していた。歓が試しに当今の問題について尋ねてみると、その分析はどれも的を射る物ばかりだったので、以降、国の政治・軍事に全て関与する事を許された。

 公主は容姿・性格共に優れ、万事温和で控えめだった。


○魏出帝紀

〔中興二年夏四月…〕庚寅,加齊文襄王侍中、開府儀同,餘如故。

◯北斉文襄紀

 二年,加侍中、開府儀同三司,尚孝靜帝妹馮翊長公主,時年十二,神情儁爽,便若成人。神武試問以時事得失,辨析無不中理,自是軍國籌策皆預之。

○北斉9文襄元后伝

 文襄敬皇后元氏,魏孝靜帝之姊也。孝武帝時,封馮翊公主而歸於文襄。容德兼美,曲盡和敬。

 
爾朱氏余党の動向
 これより前、歓が信都にて挙兵した時、爾朱世隆は侍中・驃騎大将軍の司馬子如爾朱栄の腹心。爾朱世隆・朱瑞と共に天下の虚実を知る者と王道習に評され、除くべき対象とされた。栄が死ぬと北方に逃げようとする世隆に洛陽攻めを提案し、余力のあることを天下に示すべきだと言った。のち節閔帝が即位すると侍中・驃騎大将軍に任じられていた)が歓と旧交があるのを知って、内応するのではないかと疑いを持ち、そこで南岐州刺史として洛陽から追いやった。子如はこれに憤慨して泣いて己の潔白を述べたが、世隆は考えを変えなかった。そしていま歓が入洛すると、子如は歓に祝賀の使者を送り、昔受けた恩情を述べた。歓はこれに応えて子如を洛陽に呼び戻すと、大行台尚書に任じ、朝夕そばに置いて国家の大事を預からせた《北斉18司馬子如伝》

 また、広州(治所魯山、洛陽と荊州の間)刺史で広寧(馬邑付近)石門の人の韓賢も歓とむかし交友があり、歓が挙兵すると爾朱度律に疑われて洛陽に呼び戻されそうになった。賢はそこで密かに諸蛮に使者を送って多くの烽火を上げさせ、今にも南方に戦乱が起ころうとしているように見せかけた。度律の使者はこれを見て賢にその防衛をさせるよう上申したので、遂に広州に留まることができた。賢はこれと同時に歓に使者を送り、密かによしみを通じた。この働きかけにより、爾朱氏一党がみな歓の入洛後に官爵を剥奪されたのに対し、賢だけは従来のままでいることを許された《北斉19韓賢伝》

 これより前、樊子鵠爾朱栄が死んだ時に孝荘帝に付いたことを爾朱兆に責められ、部衆を取り上げられたが、紇豆陵步蕃が兵を起こして晋陽に迫ると、都督に任じられて兵糧や武器を集めてくるよう命じられた(530年〈5〉参照)。のち子鵠は建明帝元曄)に侍中・御史中尉・中軍大都督に任ぜられ、帝に従って洛陽に向かい、普泰元年(531年)に元の官爵(車騎大将軍・豫州刺史・仮驃騎大将軍・都督二豫郢三州諸軍事・兼尚書右僕射・二豫郢潁四州行台)に戻されたが、趙修延が荊州にて叛くと(530年〈5〉参照)、詔により三鵶道を通って洛陽に帰還した(洛陽の防衛のためか、あるいは呼応して叛乱するのを防ぐためか)。のち母が亡くなると官界から去ったが、洛陽に屋敷無く、葬儀代にも事欠く有り様だったため、これを聞いた節閔帝により絹四百疋・粟五百石を与えられ、また、元の官爵に即した俸禄を与えられた(原文『以本官起之。』)。
 この月、樊子鵠は元の官爵に戻され、兼尚書左僕射・東南道大行台に任じられ、徐州刺史・大都督の杜徳と共に爾朱仲遠の追討に赴いた。間もなく仲遠が既に梁に入国したのを知ると、その兵馬などを接収したのち、矛先を転じて譙城を守備する元樹531年〈4〉参照を攻めた魏孝武紀・魏80樊子鵠伝》。 

 歓が賀抜岳を関中から洛陽に呼び寄せて冀州刺史に任じようとした。岳が歓の威勢を恐れてこれに応じようとすると、行台右丞の薛孝通が岳にこう説いて言った。
「高王は数千の鮮卑兵で爾朱氏の百万の大軍を破り、その勢いは真に当たるべからざるものがあります。しかし、公の両兄は太師()・領軍として長らくその上に在り、侯淵・樊子鵠・賈顕智・斛斯椿・大野胡也抜・叱列延慶らも爾朱氏の時代にはみな歓の同輩であり、韓陵の戦いの前後に歓に付き従いましたが、それはその威勢に押されたためで、本心ではありません。彼らが高王の下にあるのは、いにしえの曹操孔融司馬懿諸葛誕の関係に等しく、彼らは都や州鎮に在ってなお権勢を有し、高王がこれを除けば人望を失い、これを留めれば統治の大きな障害となるという厄介な存在となっています。この問題は、孫騰婁昭が王廷の内外に在って奮励努力しても、建安(曹操在世時の年号)の時のようには上手く行かぬでしょう。ここから見ますに、歓の体制はまだ不安定なのです。その上、敗北を喫したとはいえ并州では吐万仁(爾朱兆)がなお盤踞しているのですから、ますます高王はこの討伐に注力するために、各地のもと同輩らの機嫌を取っておかねばならないはず。それなのに、どうして歓がこれを放って、公と関中の地を巡って戦うことに専念することができるでしょうか? これに対し、公のお膝元の六郡(雍州?)の三輔(雍州、ひいては関中)には幽・并の驍騎や汝・潁の奇士の知勇に勝る良家の子弟や士人が在って、しかもみな公のために力を尽くそうとしているのです。公がその力を借りて、華山を城壁に、黄河を堀とし、防衛に徹すればたった一丸泥のみで函谷関を守りきることができるでしょう[1]し、兵を進めては建水流域(襄陽・江陵一帯)を併せ、ひいては天下をも狙うことができるでしょう。これで手をつかねて歓の意のままになるのが、どれだけ下策か分かったでありましょう。」
 この言葉を言い終わらぬ内に、岳は孝通の手を取って言った。
「真にその通りだ。」
 岳はかくて考えを変えると、自分に冀州刺史は過分の沙汰と歓に上申し、とうとう招聘に応じなかった。

○北36薛孝通伝
 後天光敗於韓陵,節閔遂不得入關,為齊神武幽廢。
 孝武帝即位後,神武方得志,徵賀拔岳為冀州刺史。岳懼,欲單馬入朝。孝通乃謂岳曰:「高王以數千鮮卑破尒朱百萬之眾,其鋒誠亦難敵。然公兩兄太師、領軍,宿在其上。侯深、樊子鵠、賈智、斛斯椿、大野胡也杖、吒呂延慶之徒,於尒朱之世,皆其夷等。韓陵之役,此輩前後降附,皆由事勢危逼,非其本心。在於高王,曹操之孔融,馬懿之葛誕。今或在京師,或據州鎮,除之又失人望,留之腹心之疾。雖令孫騰在闕下,婁昭處鈎陳,必不能如建安之時,明矣。以今觀之,隙難未已。吐萬仁雖復退逸,猶在并州,高王之計,先須平殄。今方綏撫羣雄,安置內外,何能去其巢穴,與公事關中地也?且六郡良家之子,三輔禮義之人,踰幽、并之驍騎,勝汝、潁之奇士,皆係仰於公,效其智力。據華山以為城雉,因黃河而為池壍,退守不失封泥,進兵同於建水。乃欲束手受制於人,不亦鄙乎?」言未卒,岳執孝通手曰:「君言是也。」乃遜辭為啟,而不就徵。

 ⑴樊子鵠...爾朱栄配下の武将。栄が入洛したさい河東の統治を任された。のち呂文欣の乱を平定し、殷州刺史となると善政を行なった。栄の死後は不遇をかこった。高歓が入洛すると東南道大行台とされ、爾朱仲遠の追討を命じられた。
 ⑵爾朱兆…字は万仁。爾朱栄の甥。若くして勇猛で馬と弓の扱いに長け、素手で猛獸と渡り合うことができ、健脚で敏捷なことは人並み以上だったが、知略に欠けていた。栄に勇敢さを愛され、護衛の任に充てられた。栄が入洛する際に兼前鋒都督とされた。孝荘帝が即位すると車騎将軍・武衛将軍・都督・潁川郡公とされた。529年、上党王天穆の部将として邢杲討伐に赴いた。その隙に元顥が梁の支援を受けて洛陽に迫ると、胡騎五千を率いて引き返し、陳慶之と戦ったが敗れた。天穆が河北に逃れる際後軍を率いた。栄が洛陽を攻めた時、賀抜勝と共に敵前渡河を行なって顥の子の元冠受を捕らえた。この功により驃騎大将軍・汾州刺史とされた。530年、栄が孝荘帝に殺されると晋陽を確保し、爾朱世隆らと合流して長広王曄を皇帝の位に即け、大将軍・王となった。間もなく洛陽を陥とし、帝を捕らえた。紇豆陵步蕃が晋陽に迫ると帝を連れてその迎撃に向かい、中途にて帝を殺害した。步蕃に連敗したが、高歓の助力を得てなんとか平定することに成功した。531年、節閔帝が即位すると都督中外諸軍事・柱国大将軍・領軍将軍・領左右・并州刺史・兼録尚書事・大行台とされた。皇帝の廃立に関して何ら相談を受けなかったので、激怒して爾朱世隆を攻撃しようとした。間もなく天柱大将軍とされたが、栄の最後の官職であることを以て固辞し、代わりに都督十州諸軍事の官と并州刺史の世襲権を与えられた。高歓が挙兵すると討伐に赴いたが、広阿にて敗北を喫した。532年、韓陵山にて再び歓と戦い、あと一歩のところまで追い詰めたが結局大敗を喫し、晋陽に逃走した。532年⑴参照。
 ⑶杜徳...爾朱仲遠の配下で徐州刺史だったが、韓陵山の戦いの際に高歓に寝返った。532年(1)参照。
 ⑷元樹...字は秀和(或いは君立)。生年485、時に48歳。祖父は献文帝、父は咸陽王禧。美男子。将略を有していた。梁に亡命し、鄴王・郢州刺史とされた。531年、南兗州城民が譙城と共に梁に降ると、その守備を任された。今年、北魏領内に侵攻した。532年(1)参照。
 [1]新末より始まった動乱にて、王元が関中の群雄の隗囂に語った言葉。

●節閔帝の死
 壬辰(29日)、歓が鄴に還った。孝武帝はこれを乾脯山まで見送り、手を取り合ったのち別れた。
 5月、丙申(3日)、もと節閔帝元恭が門下外省にて死を賜った(時に35歳)。帝は百官を集め、葬儀をことさら盛大に行なった。
 また、沛郡王欣を太師に、趙郡王諶を太保に、南陽王宝炬を太尉に、長孫稚を太傅とした。
 戊戌(5日)、歓が天柱大将軍などを辞退したのを許可した。
 己酉(16日)清河王亶を司徒とした。

○北史魏孝武紀
 壬辰,高歡還鄴。

剛毅元宝炬
 侍中で河南の人の高隆之、字は延興は、自称高平鎮出身で、宦官の徐成の養子とされたが、羊侃討伐(528年〈5〉参照)の時より歓と昵懇の仲になり、長年の貢献によって義弟とされると《北斉18高隆之伝》、その威を借りて公卿(高官)を侮弄するようになった。宮中にて宴会が開かれた際も、太尉となった南陽王宝炬に勧められた酒を断る無礼を見せた。宝炬はこのとき頭に血が上り、隆之を殴りつけてこう言った。
「たかが鎮兵の分際で、よくもこんな真似ができたものだな!」《北西魏文帝紀》
 6月、丁卯(5日)、帝は歓を慮り、宝炬を驃騎大将軍に左遷し、蟄居させた《魏出帝紀》。歓も隆之の協調性の無さを慮り、朝廷勤務から外そうと考えるようになった《北斉18高隆之伝》

 帝が父の懐の名を避けて、元子攸の諡号を武懐皇帝から孝荘皇帝に改め【謚法解曰く、武にして遂げざるを荘と名づく。原野にて死するを荘と名づく。兵甲(戦い)しばしば起こる(起こす?)を荘と名づく】、廟号を敬宗とした。

 秋、7月、庚子(8日)、宝炬を再び太尉とした。