[北魏(爾朱氏):普泰二年 北魏(高歓):中興二年・永熙元年 梁:中大通四年]

蕭正徳と朱异

 春、正月、丙寅(1日)、梁が鎮衛大将軍・開府儀同三司の南平王偉を大司馬、司空の元法僧を太尉、尚書令・中権大将軍・開府儀同三司の袁昂を司空とした。

 また、臨川靖恵王宏の子の西豊侯正徳531年〈4〉参照)を臨賀王に進めた《梁武帝紀》。

 この封爵は、亡き太子統531年〈3〉参照)の子どもたちですらそれぞれ王に封じられていたのに対し、武帝の養子となり、一時は皇太子とされていた正徳が王に封じられていないのはおかしいと朱异(531年〈3〉参照)が異を唱えたためであった。正徳は非行が原因で追放されかかった事があって以来、异に接近するようになっており、今回の発言はそれに応えたものであった《南51蕭正徳伝》。

 また、太子右衛率の薛法護北魏の広州刺史だったが、496年4月に梁に降っていた)を平北将軍・司州牧に任じ、魏王悦を洛陽まで護送させることにした(530年の北魏の混乱に乗じて国境にまで進んでいたが、爾朱兆が既に入洛した事を知ると引き返していた)。

 庚午(5日)太子綱531年〈3〉参照)の長子の蕭大器を宣城王に封じた《梁武帝紀》。


○梁武帝紀
 四年春正月丙寅朔,以鎮衞大將軍、開府儀同三司南平王偉進位大司馬,司空元法僧進位太尉,尚書令、中權大將軍、開府儀同三司袁昂進位司空。立臨川靖惠王宏子正德為臨賀郡王。戊辰,以丹陽尹邵陵王綸為揚州刺史。太子右衞率薛法護為平北將軍、司州牧,衞送元悅入洛。庚午,立嫡皇孫大器為宣城郡王。

 ⑴朱异…字は彦和。生年483、時に47歳。寒門の出身。顔つきが堂々として立派であり、立ち居振る舞いが素晴らしかった。10余歲の頃は賭博を好む不良だったが、成長すると心を改めて学問に励んだ。貧しかったため筆耕をしてお金を稼いだが、写し終わった時にはもう暗誦できるようになっていた。文学を好み、礼経・周易に深い造詣を持ち、各種の技芸にも通暁し、囲碁・書画・算術を得意とした。職務態度が良く機知に富んでいたため、武帝の信任を得、524年に軍事のこと、地方司令官の任免、朝廷の儀式や祝典の事、詔勅作成などを一手に任された。政治・軍事両面に知悉し、山のような書類も瞬時に処理することができた。北魏の徐州刺史の元法僧が降った時、信頼できるとして受け入れを勧めた。529年(3)参照。

鄴攻略

 高歓は去年の11月に鄴を攻めていたが、相州刺史の劉誕の抵抗に遭いなかなか陥とせずにいた。そこで歓は行台倉部郎中の敬顕俊字は孝英。高歓が晋州刺史となった時、その別駕となった)に土山を築かせた。また、坑道を城壁の下まで掘らせた。歓は坑道の各所に建てておいた大柱を一斉に燃やし、坑道を意図的に破壊した。すると城壁はその崩壊に従って地下に崩落した。
 壬午(17日)、鄴を陥とし、誕を虜とした。
 これより前、歓は鄴がなかなか陥ちないことから、楊愔名門楊氏出身の貴公子。爾朱氏からの虐殺に一人逃れ、歓のもとに身を寄せていた。531年〈4〉参照)に天を祭る文章を作らせ、それを焼いて天に捧げると、鄴が陥ちた。そこで愔を行台右丞とした。
 このとき歓の覇業は始まったばかりで、軍事も政治もやるべき事が山積し、次々と檄文や政令を発さなくてはならなかったが、その全てがこの愔と開府咨議参軍の崔㥄によって出された。㥄は、逞(397年2月参照)の五世孫である。
 歓は孫騰を相州刺史・咸陽郡公とした(高隆之もこのとき行相州事とされている?)。
 また、高敖曹に黎陽を鎮守させた。

○魏後廃紀
 二年春正月壬午,拔鄴,擒刺史劉誕。詔諸將士汎四級,封侯、增邑九十七人,各有差等。癸未,詔曰:「自中興草昧,典制權輿,郡縣之官,率多行、督。假有正者,風化未均。眷彼周餘,專為漁獵。朕所以夙興夜寐,有惕於懷。有司明加糾罰,稱朕意焉。」
○北斉神武紀
 神武起土山,為地道,往往建大柱,一時焚之,城陷入地。麻祥時為湯陰令,神武呼之曰:「麻都!」祥慚而逃。永熙元年正月壬午,拔鄴城,據之。
○北斉18孫騰伝
 及平鄴,授相州刺史,改封咸陽郡公,增邑通前一千三百戶。入為侍中。
○北斉18高隆之伝
 從高祖起義山東,以為大行臺右丞。魏中興初,除御史中尉,領尚食典御。從高祖平鄴,行相州事。
○北斉21高昂伝
 及平鄴,別率所部領黎陽【[五]按「領」字疑是「鎮」之訛,不則「黎陽」下脫「太守」二字】。
○北斉22李愍伝
 相州既平,命愍還鄴,除西南道行臺都官尚書,復屯故城。尒朱兆等將至,高祖徵愍參守鄴城。
○北斉25張纂伝
 張纂,字徽纂,代郡平城人也。父烈,桑乾太守。纂初事尒朱榮,又為尒朱兆都督長史。為兆使於高祖,遂被顧識。高祖舉義山東,劉誕據相州拒守,時纂亦在其中。高祖攻而拔之,以纂參丞相軍事。纂性便僻,左右出內,稍見親待,仍補行臺郎中。
○北斉26敬顕儁伝
 敬顯儁,字孝英,平陽人。少英俠有節操,交結豪傑。為羽林監。高祖臨晉州,儁因使謁見,與語說之,乃啟為別駕。及義舉,以儁為行臺倉部郎中。從攻鄴,令儁督造土山。城拔。
○北斉34楊愔伝
 既潛竄累載,屬神武至信都,遂投刺轅門。便蒙引見,贊揚興運,陳訴家禍,言辭哀壯,涕泗橫集,神武為之改容。即署行臺郎中。大軍南攻鄴,歷楊寬村,寬於馬前叩頭請罪。愔謂曰:「人不識恩義,蓋亦常理,我不恨卿,無假驚怖。」時鄴未下,神武命愔作祭天文,燎畢而城陷。由是轉大行臺右丞。于時霸圖草創,軍國務廣,文檄教令,皆自愔及崔㥄出。遭離家難,以喪禮自居,所食唯鹽米而已,哀毀骨立。神武愍之,恒相開慰。

┃南兗州降る
 癸未(正月18日)、北魏南兗州城民の王乞が爾朱氏の圧政に反発し、刺史の劉世明を捕らえて州城と共に梁に降った。世明は、芳(494年12月参照)の族子である。

 梁は世明を征西大将軍・郢州(治夏口)刺史とし儀同三司を加官したが、世明はこれを受けず、何度も帰国させてくれるよう求めた。そこでこれを許した。
 世明は洛陽に着くと皇帝から授かっていた符節を奉還して鄉里(彭城)に還り、その後は仕官することなく猟に明け暮れる悠々自適な生活を行なって、興和三年(541)に世を去った。

○魏後廃帝紀
 是年(中興元年),南兗城民王乞德逼前刺史劉世明以州降蕭衍,衍使其將元樹入據譙城。
○梁武帝紀
 癸未,魏南兗州刺史劉世明以城降,改魏南兗州為譙州,以世明為刺史。
○魏55劉世明伝
 世雄弟世明,字伯楚,頗涉書傳。自奉朝請稍遷蘭陵太守、彭城內史。屬刺史元法僧以城外叛,遂送蕭衍。衍欲加封爵,世明固辭不受,頻請衍乞還,衍聽之。肅宗時,徵為諫議大夫。孝莊末,除征虜將軍、南兗州刺史。時尒朱世隆等威權自己,四方怨叛,城民王乞得逼劫世明,據州歸蕭衍。衍封世明開國縣侯,食邑千戶,征西大將軍、郢州刺史,又加儀同三司。世明復辭不受,固請北歸。衍不奪其意,乃躬餞之於樂遊苑。世明既還,奉送所持節,身歸鄉里。自是不復入朝,常以射獵為適。興和三年卒於家。贈驃騎大將軍、儀同三司、徐州刺史。

 ⑴劉世明…北魏に仕えて彭城内史とされた。525年に元法僧が徐州と共に降るとこれに巻き込まれて梁に送られた。のち武帝に何度も帰国の許可を求めて許され、孝荘帝の治世の末(530年)に南兗州刺史とされた。
 ⑵魏後廃帝紀では531年、梁武帝本紀では532年正月癸未(18日)の事とする。

┃野蛮視

 2月、壬寅(7日)、梁が太尉の元法僧を東魏王[1]に封じ、北魏を討伐させることにした[1]。このとき法僧がこう申し出た。
「侃とは旧知の間柄でございますので、彼を連れていきとうございます。」
 そこで雲麾将軍・青冀二州刺史の羊侃528年8月に泰山にて北魏に叛乱を起こしたが敗れて梁に亡命していた。529年9月参照)を召して北魏討伐の計を尋ねると、侃は事細かにこれを述べた。これに感心した帝は、侃にこう言った。
「そちは太尉と共に北伐に赴きたいか。」
 侃は答えて言った。
「臣は陛下に大恩を蒙った身であり、常に死力を尽くしてこれに報いんと考えておりましたが、法僧と共に北伐に赴きたいと考えたことは一度もございません。北人は臣のことを呉人と呼んでおりますが、南人も既に臣のことを北虜(北の異民族)と呼んでおります。いま法僧と同行いたせば、彼らにやはり北虜だと後ろ指を差されるばかりか、臣と同じ境遇にある者たちも同様に排斥に遭うでしょう。これは素心に違います。また、このやり口(北人を以て北人を討つやり方。夷を以て夷を制す中国伝統のやり口である。同類に殺し合いをさせる酷いやり方だった)は北人の軽蔑を生むように思えてなりません。」
 帝は言った。
「朝廷は今そちの同行を必要としているのだ。」
 かくて侃を使持節・都督瑕丘諸軍事・安北将軍・兗州刺史とし、また大軍司馬に任じた。帝は侃にこう言った。
「軍司馬は廃されて久しいが、そちのために再び設けたのだ。」
 また、安右将軍で法僧の子の元景隆を征北将軍・徐州刺史・彭城郡王とし、通直常侍の元景宗景仲の誤り?)を青州刺史・平昌郡王とし、散騎常侍の元樹509年に梁に亡命した)を鎮北将軍・都督北討諸軍事として同行させた。

○資治通鑑
 二月,以太尉元法僧為東魏王【上旣以元悅為魏王,使自西道入;又使元法僧從東道入,故謂之東魏王。】,慾遣還北,兗州刺史羊侃為軍司馬,與法僧偕行。
○梁武帝紀
 二月壬寅,老人星見。新除太尉元法僧還北,為東魏主。以安右將軍(侍中)元景隆為征北將軍、徐州刺史,〔封彭城郡王,〕雲麾將軍羊侃為安北將軍、兗州刺史,散騎常侍元樹為鎮北將軍。〔通直常侍元景宗【[一0]張森楷南史校勘記:「元法僧傳有元景仲,是法僧第二子,無景宗其人。疑『宗』字是『仲』字之誤。」】為青州刺史,封平昌郡王,隨法僧北侵。〕
○魏21元樹伝
 尒朱榮之害百官也,樹聞之,乃請衍討榮。衍乃資其士馬,侵擾境上。前廢帝時,竊據譙城。
○梁39元景隆伝
 四年,為征北將軍、徐州刺史,封彭城王。
○梁39元樹伝
 中大通二年,徵侍中、鎮右將軍。四年,為使持節、鎮北將軍、都督北討諸軍事,加鼓吹一部。以伐魏,攻魏譙城,拔之。
○梁39羊侃伝
 中大通四年,詔為使持節、都督瑕丘諸軍事、安北將軍、兗州刺史,隨太尉元法僧北討。法僧先啟云:「與侃有舊,願得同行。」高祖乃召侃問方略,侃具陳進取之計。高祖因曰:「知卿願與太尉同行。」侃曰:「臣拔迹還朝,常思効命,然實未曾願與法僧同行。北人雖謂臣為吳,南人已呼臣為虜,今與法僧同行,還是羣類相逐,非止有乖素心,亦使匈奴輕漢。」高祖曰:「朝廷今者要須卿行。」乃詔以為大軍司馬。高祖謂侃曰:「軍司馬廢來已久,此段為卿置之。」

 ⑴元法僧…454~536。道武帝の子孫で、江陽王鍾葵の子。 益州刺史とされると気の赴くままに人を殺し、感情が一定しなかった。王・賈ら地元の名士を兵士にするなどして反感を買い、梁の侵攻を許した。元叉に付き、徐州刺史とされたが、あまりの驕恣ぶりにいつか破滅して自分にも災いが訪れるのを恐れ、525年に叛乱を起こし、皇帝となって年号を天啓としたが、討伐軍を派遣されると三千余の兵の額に焼印を押して奴隷とし、梁に降って侍中・司空・始安郡公(王?)→宋王とされ、立派な邸宅や女楽隊、金帛など数え切れぬ賞賜を受けた。法僧長期に亘って梁と戦い怨まれていたため、護衛を連れて宮中を出入りすることを求めて許された。532年に太尉とされた。
 [1]このとき元悦が既に魏王に封じられ、西路より北侵しようとしていた。そのため東魏王とし、東路より北侵させようとしたのである。
 ⑶元樹…字は秀和(君立?)。生年484、時に45歳。北魏の献文帝の孫で、咸陽王禧の子。美男で談論を得意とし、将略を有した。509年に梁に亡命し、鄴王とされた。524年6月、平北将軍・北青兗二州刺史とされ、北伐に赴いて建陵城を陥とした。525年、北魏の徐州刺史の元法僧が梁に降るとその応接に赴いた。のち北魏の権臣の元叉を非難する書状を書き送った。526年、寿陽を攻略した。その際、降伏した北魏兵の帰国を許した。のち郢州刺史とされた。528年、北魏の郢州刺史の元願達が降伏すると接収に赴いた。528年(4)参照。

邵陵王の殺人
 揚州刺史の邵陵王綸武帝の第六子。525年12月に乱行によって封爵を剥奪されていたが、大通元年〈527〉に回復されていた)が人を市中に派し、錦彩絲布数百疋を証文無しに買い漁った。そこで市場の者はみな役人が来ると見るや店じまいをして表に出てこなくなった。のち尚書省が少府に宮廷用の衣類を求めに行かせたが、市場がこのような有り様なので、いつまで経っても所定の量を集めることができなかった。そこで武帝が勅書を下して少府を叱責すると、少府丞の何智通が真実を告白した。かくて今度は綸が叱責される番となり、自宅に謹慎処分とされた。しかし綸はこれを逆怨みし、腹心で防閤(王府の禁衛官)の戴子高・戴瓜・李撤・趙智英らに智通を探し求めさせた。彼らは白馬巷にてその姿を認めるや、槊(柄のかなり長い矛)を以て刺し殺し、その矛先は胸を通って背中に突き出た。しかし智通は子高が綸の腹心であることを知っていたため、壁に『邵陵』の二文字を血書して息絶え、これによって殺人の真相が明るみに出た。
 庚戌(15日)、武帝は舍人の諸曇粲に禁衛兵五百人を率いて綸の屋敷を囲むように命じ、瓜・撤・智英らが捕らえられた。子高は勇猛であったため、塀を乗り越え囲みを破って逃亡する事に成功した。智通の子は瓜らを細切れにし、その肉に塩胡椒をふりかけ、これを百姓らに一千銭の賞金で食らわせた。かくて瓜らやその母の肉は食べ尽くされた。
 綸は屋敷に監禁され、曇粲たちによって厳しく監視された。帝は綸を平民の身分に落としたが、三旬(30日)ののちに監禁を解かれ、間もなく封爵も元通りとされた。

○梁武帝紀
 庚戌,新除揚州刺史邵陵王綸有罪,免為庶人。
○梁29・南53邵陵王綸伝
〔中大通〕四年,為侍中、宣惠將軍、揚州刺史。以侵漁細民(綸素驕縱,欲盛器服,遣人就巿賒買錦采絲布數百疋,擬與左右職局防閤為絳衫、內人帳幔。百姓並關閉邸店不出。臺續使少府巿采,經時不能得,敕責),少府丞何智通以事啟聞,〔因被責還第。〕綸知之,令客戴子高於都巷刺殺之(恒遣心腹馬容戴子高、戴瓜、李撤、趙智英等於路尋目智通,於白馬巷逢之,以槊刺之,刃出於背)。〔智通以血書壁作「邵陵」字乃絕,遂知之。〕智通子訴于闕下,〔帝懸錢百萬購賊,有西州游軍將宋鵲子條姓名以啟,〕高祖令〔舍人諸曇粲領齋仗五百人〕圍綸第,〔於內人檻中禽瓜、撤、智英。〕捕子高,綸匿之,竟不出(子高驍勇,踰牆突圍,遂免)。〔智通子敞之割炙食之,即載出新亭,四面火炙之焦熟,敞車載錢設鹽蒜,雇百姓食撤一臠,賞錢一千。徒黨并母肉遂盡。綸鎖在第,舍人諸曇粲并主帥領仗身守視。〕坐免為庶人。〔經三旬乃脫鎖,〕頃之,復封爵。

┃斛斯椿暗躍
 辛亥(2月16日)、廃帝元朗去年高歓が皇帝に担ぎ出した北魏の皇族)が孝荘帝を武懐皇帝と諡した(のち孝荘帝と改めて諡される)。
 甲子(29日)高歓を大丞相・柱国大将軍・太師とし、三万戸を加増して計六万戸とした。
 3月、丙寅(2日)、また、高澄歓の長子、生年521、時に12歳)を驃騎大将軍・儀同三司とした。
 丙子(12日)、侍中・車騎大将軍・尚書左僕射の孫騰を驃騎大将軍・儀同三司とした。
 丁丑(13日)、帝が百官を連れて信都から鄴に居を遷した。
 この時、青州の大都督の崔霊珍・耿翔らが使者を派して歓に付くことを表明した。
 また、行汾州事の劉貴高歓の友の一人で、爾朱栄に歓を薦めた。兆の入洛の際には孝荘帝の派した元顕恭軍を撃破し、歓が山東に赴くとその後任として晋州刺史に任じられたが、間もなく行汾州事に遷されていた)が州城を棄てて歓のもとに逃れてきた。

 閏3月、乙未(1日)、安北将軍・光禄大夫・博野県開国伯の尉景を驃騎大将軍・儀同三司とした。
 丙申(2日)、衛将軍・金紫光禄大夫の厙狄干を車騎大将軍・儀同三司とした。

 これより前、斛斯椿は広阿の戦いの直前に爾朱兆の説得に赴くも、逆に捕らえられてしまっていたが、なんとか兆から解放されると、同じ身の上の賀抜勝にこう持ちかけた。
「いま爾朱氏は天下の人々全てに酷く怨まれている。これに仕えておれば命がいくつあっても足りぬだろう。災いが降りかかる前に、爾朱氏を除き去るに越したことはない。」
 勝は答えて言った。
「兆と天光はそれぞれ一方を占め(山西と関隴)、同時に仕留めねば必ず他方から逆襲を受けるだろう。そこをどうするつもりなのか?」
 椿は言った。
「簡単な事だ。」
 かくて椿は世隆のもとに赴くと、兆と天光を洛陽に呼んで高歓を討つように勧めた《北49斛斯椿伝》
 この時、爾朱兆爾朱仲遠・爾朱度律らの間には深い確執が生じており、長らく不和な状態が続いていたため、世隆は辞を低くし礼を尽くし、兆に逆らわないようにする事で兆を洛陽に呼ぼうとした。兆は世隆が節閔帝に兆の娘を皇后にするよう求めたのを聞くと、大いに喜び、遂に爾朱天光や度律らと改めて誓いを立て、親睦を図ることにした。

○魏後廃紀
 二月辛亥,上孝莊皇帝諡曰武懷皇帝。甲子,以齊獻武王為大丞相、柱國大將軍、太師,增封三萬戶,并前為六萬戶。三月丙寅,以齊文襄王起家為驃騎大將軍、儀同三司。丙子,以侍中、車騎大將軍、尚書左僕射孫騰為驃騎大將軍、儀同三司。丁丑,車駕幸鄴。乙酉,詔文武家屬自信都赴鄴城。閏月乙未,以安北將軍、光祿大夫、博野縣開國伯尉景為驃騎大將軍、儀同三司。丙申,以衞將軍、金紫光祿大夫厙狄干為車騎大將軍、儀同三司。
○北斉神武紀
 廢帝進神武大丞相、柱國大將軍、太師。是時青州建義,大都督崔靈珍、大都督耿翔皆遣使歸附。行汾州事劉貴棄城來降。
○魏75爾朱兆伝
 兆與仲遠、度律遂相疑阻,久而不和。世隆請前廢帝納兆女為〔皇〕后,兆乃大喜。世隆〔謀抗神武,乃降辭〕厚禮,喻兆赴洛,深示卑下,隨其所為,無敢違者。

 ⑴爾朱兆…字は万仁。爾朱栄の甥。若くして勇猛で馬と弓の扱いに長け、素手で猛獸と渡り合うことができ、健脚で敏捷なことは人並み以上だったが、知略に欠けていた。栄に勇敢さを愛され、護衛の任に充てられた。栄が入洛する際に兼前鋒都督とされた。孝荘帝が即位すると車騎将軍・武衛将軍・都督・潁川郡公とされた。529年、上党王天穆の部将として邢杲討伐に赴いた。その隙に元顥が梁の支援を受けて洛陽に迫ると、胡騎五千を率いて引き返し、陳慶之と戦ったが敗れた。天穆が河北に逃れる際後軍を率いた。栄が洛陽を攻めた時、賀抜勝と共に敵前渡河を行なって顥の子の元冠受を捕らえた。この功により驃騎大将軍・汾州刺史とされた。530年、栄が孝荘帝に殺されると晋陽を確保し、爾朱世隆らと合流して長広王曄を皇帝の位に即け、大将軍・王となった。間もなく洛陽を陥とし、帝を捕らえた。紇豆陵步蕃が晋陽に迫ると帝を連れてその迎撃に向かい、中途にて帝を殺害した。步蕃に連敗したが、高歓の助力を得てなんとか平定することに成功した。531年、節閔帝が即位すると都督中外諸軍事・柱国大将軍・領軍将軍・領左右・并州刺史・兼録尚書事・大行台とされた。皇帝の廃立に関して何ら相談を受けなかったので、激怒して爾朱世隆を攻撃しようとした。間もなく天柱大将軍とされたが、栄の最後の官職であることを以て固辞し、代わりに都督十州諸軍事の官と并州刺史の世襲権を与えられた。高歓が挙兵すると討伐に赴いたが、広阿にて敗北を喫した。531年⑷参照。
 ⑵爾朱度律…爾朱栄の従父弟。母は山氏。素朴な性格で口数が少なかったが、強欲だった。統軍とされて栄の征伐に付き従った。528年、栄が入洛すると楽郷県伯とされた。のち朔州刺史→軍州(?)刺史→右衛将軍→衛将軍→兼京畿大都督とされた。530年、栄が孝荘帝に殺されたことを知ると爾朱世隆と共に洛陽を脱し、黄河の南に逃れた。間もなく反転し、胡騎一千を率いて洛陽を攻撃したが陥とせなかった。のち爾朱兆と合流し、建明帝を擁立して太尉・四面大都督・常山王とされた。洛陽を陥とすと世隆と共に洛陽を鎮守した。531年、節閔帝を擁立し、大将軍・太尉とされた。高歓が挙兵すると東北道大行台尚書令とされて爾朱兆らと討伐に赴いたが広阿にて敗北した。帰ると母に責められた。直後に母を亡くした。531年⑷参照。

┃天光動く
 天光に関しては、世隆は前々から何度も呼びかけをしていたが、拒否され続けて現在に至っていた。そこで椿が天光のもとに赴いてこう言った。
高歓の乱は、王(天光は隴西王)の力無くしては平定できません。一族が滅びようとしているというのに、王は何故動こうとなされないのでしょうか!?」
 天光はこれを聞くや、隴右行台(治 原州)の賀抜岳天光の関中征伐に多大な貢献をした勇将)に使者を派して(岳は高平の守備を任されていた)どうすればよいか尋ねた。岳は答えて言った。
「王家は三方(兆の山西・天光の関隴・仲遠の徐兗)に割拠し非常に強力な軍隊も擁していますので、普通であれば烏合の衆を率いる高歓など敵にもなり得ません。しかしこれは王家が心を合わせて協力すれば、という条件の上での話で、仲違いなどなさっていますと、却って王家の方が瞬く間の内に滅亡の危機に瀕し、何人にも打ち勝つことができなくなるのです。下官が見るところ、王家の仲は残念ながら後者に属し、勝利は危ういものがあります。故にここは大王自ら出撃すべきではなく、暫く関中に残って足下を固め、誰か適当な人物に精鋭を委ねて援軍に赴かせるのが良いと思います。さすれば、上手く行けば歓を討つことができ、失敗しても身の安全を保つことができましょう。」
 天光はこれを聞き入れず、遂に弟の爾朱顕寿に長安の留守を任せて出陣した。

 この時、中書郎の薛孝通は関中が堅固で秦・漢の旧都である事を以て、ここを予め押さえておいて爾朱氏が敗れた際の節閔帝の避難先にしようと図った。帝はこれを聞くと深く頷いて言った。
「誰を長官にしておけば良いか。」
 孝通はむかし天光に仕えていた時、親交があった賀抜岳と〔行原州事の〕宇文泰を推薦した。帝はそこで岳を飛び級で岐華秦雍諸軍事(都督三雍三秦二岐二華諸軍事?)・関西行台・雍州牧(刺史?)とし、泰を行台左丞、孝通を行台右丞とした。孝通は詔書を持って急いで入関し、〔原州に赴いて〕これを岳らに授け、共に長安の鎮守に向かった。岳は孝通を非常に尊重し、師友の礼(先生と仰いで交友する関係)を以て遇した。また、〔孝通は?〕泰と義兄弟の関係を結び、非常に親しく交際した。

○周文帝紀
 普泰二年,爾朱天光東拒齊神武,留弟顯壽鎮長安。
○魏75爾朱天光伝
 於時獻武王義軍轉盛,尒朱兆、仲遠等既經敗退,世隆累使徵天光,天光不從。後令斛斯椿苦要天光云:「非王無以能定,豈可坐看宗家之滅也。」天光不得已而東下。
○魏80賀抜岳伝
 天光入洛,使岳行雍州事。元曄立,除驃騎大將軍,增邑五百戶,餘如故。普泰初,都督二岐東秦三州諸軍事、儀同三司、岐州刺史。尋加侍中,給後部鼓吹,仍詔開府。俄兼尚書左僕射、隴右行臺,仍停高平。後以隴中猶有土民不順,岳助侯莫陳悅所在討平。二年,加岳都督三雍、三秦、二岐、二華諸軍事,雍州刺史,關西行臺,餘如故。及尒朱天光率眾赴洛,將抗齊獻武王,岳與侯莫陳悅下隴赴雍,以應義旗。
○周14賀抜岳伝
 二年,加都督三雍三秦二岐二華諸軍事、雍州刺史。天光將率眾拒齊神武,遣問計於岳。岳報曰:「王家跨據三方,士馬殷盛,高歡烏合之眾,豈能為敵。然師克在和,但願同心戮力耳。若骨肉離隔,自相猜貳,則圖存不暇,安能制人。如下官所見,莫若且鎮關中,以固根本;分遣銳師,與眾軍合勢。進可以克敵,退可以克全。」天光不從,果敗。
○北36薛孝通伝
 屬齊神武起兵河朔,攻陷相州刺史劉誕。尒朱天光自關中討之。孝通以關中險固,秦、漢舊都,須預謀鎮遏,以為後計。縱河北失利,猶足據之。節閔深以為然,問誰可任者。孝通與賀拔岳同事天光,又與周文帝有舊,二人並先在關右,因並推薦之。乃超授岳岐、華、秦、雍諸軍事,關西大行臺,雍州牧;周文帝為左丞,孝通為右丞。齎詔書馳驛入關授岳等,同鎮長安。岳深相器重,待以師友之禮。與周文帝結為兄弟,情寄特隆。

┃四胡、鄴城に会す
 壬寅(閏3月8日)、天光が長安より、兆が晋陽より、度律が洛陽より、仲遠が東郡よりおのおの軍を率いて鄴に会した。爾朱氏の軍は総勢二十万の大軍(周14賀抜勝伝では『十余万』)となり、洹水(鄴城の南を流れる)の南に陣を布いた。
 節閔帝は度律の東北道大行台の官を解き、代わりに長孫稚を大行台に任じ、総大将とした。

 また、爾朱世隆は己の府長史の房謨を斉州(東北道)行台尚書に任じて、募兵を行なって四櫝津に赴くよう命じ、更に弟で青州刺史の爾朱弼に東陽(青州治所)の兵を率いて乱城に進軍し、示威行動をしながら黄河を北に渡り、掎角の勢(挟撃の態勢)を取るようにさせた。

 この報を聞くや、高歓は吏部尚書の封隆之に鄴の留守を任せて出陣した。
 癸丑(19日)、歓は紫陌(鄴の西北五里)に陣を布いた。大都督の高敖曹が鄉里(渤海)の王桃湯・東方老・呼延族ら三千人を率いてこれに従うと、歓はこう声をかけた。
「高都督の兵は漢人ばかりではないか。これでは力の振るいようがなかろう。いま鮮卑兵千余人を与えるゆえ、それを混じえて戦ってはどうだ。」
 敖曹は答えて言った。
「私の率いる漢兵は訓練行き届き、これまでの戦いでも鮮卑兵に引けなど取っておりません。いま私の軍に鮮卑兵を混じえますと、かえって不和を生じ、勝てば手柄の奪い合い、退けば罪のなすりつけ合いを起こすでしょう。どうか漢兵のみ率いさせてください。改めて鮮卑兵を配さずとも結構でございます。」
 歓はこれを聞き入れた。
 庚申(26日)爾朱兆が軽騎三千を率いて鄴城を夜襲し、その西門を攻め立てたが破ることができず、引き返した。

○魏後廃紀
 壬寅,尒朱天光、兆、度律、仲遠等屯於洹水之南。癸丑,齊獻武王出頓紫陌。庚申,尒朱兆率輕騎三千夜襲鄴城,叩西門,不克,退走。
○北斉神武紀
 閏三月,尒朱天光自長安,兆自并州,度律自洛陽,仲遠自東郡,同會鄴,眾號二十萬,挾洹水而軍,節閔以長孫承業為大行臺總督焉。神武令封隆之守鄴,自出頓紫陌。
○魏75爾朱兆伝
 兆與天光、度律更自信約,然後大會於韓陵山。
○魏75爾朱度律伝
 後解大行臺,總隸長孫稚。
○魏75爾朱弼伝
 世承弟弼,字輔伯。前廢帝初,為散騎常侍、左衞將軍,封朝陽縣開國伯。又除車騎將軍、左光祿大夫、領左右,改封河間郡公。尋為驃騎大將軍、開府儀同三司、青州刺史。天光等之赴韓陵也,世隆以其府長史房謨兼尚書,為齊州行臺,召募士馬,以趣四瀆。弼總東陽之眾,亦赴亂城,揚聲北渡,以為掎角之勢。
○北斉21高昂伝
 又隨高祖討尒朱兆(四胡)於韓陵,昂自領鄉人部曲王桃湯、東方老、呼延族等三千人。高祖曰:「高都督純將漢兒,恐不濟事,今當割鮮卑兵千餘人共相參雜,於意如何?」昂對曰:「敖曹所將部曲,練習已久,前後戰鬭,不減鮮卑,今若雜之,情不相合,勝則爭功,退則推罪,願自領漢軍,不煩更配。」高祖然(從)之。
○北斉22李義深伝
 中興初,除平南將軍、鴻臚少卿。義深見尒朱兆兵盛,遂叛高祖奔之。

 ⑴四瀆津…《読史方輿紀要》曰く、『済南府(斉州)の西南七十里→長清県の西南にある。』
 ⑵乱城…《読史方輿紀要》曰く、『般城が訛ったものが乱城か?般城は済南府の西北二百八十里→徳州(安徳郡)の東百六十里→徳平県の東北三十里にある。』楽陵郡濕沃県の治所。

┃韓陵の決戦




 壬戌(閏3月28日)、歓は自軍の騎兵が二千、步兵が三万に満たず、爾朱氏の大軍に抗しがたいとみるや、〔鄴の東南の〕韓陵山に円陣を布き、牛驢を連ねて退路を塞ぎ、将兵らに決死の覚悟を抱かせた。
 兆は遥か遠くに歓の姿を認めると、己に背いたことを詰りつけた。すると歓はこう答えた。
「わしが忠を尽くすのは帝室だけである。その天子にお前は何をした!」
 兆は答えて言った。
「永安(孝荘帝)は罪無き天柱(爾朱栄)を非道に殺害した! わしはその仇を討っただけだ!」
 歓は答えて言った。
「わしは昔、天柱から直接謀反(クーデター)の計画を聞いたことがある。それはお前も戸前にて聞いていたであろう! これでどうして非道に殺害したなどと言うのか! 非道と言うなら、君主が臣下を誅殺するという正当な行為に報復を加えたお前の方が非道なのだ! お前とは今日をもって義兄弟の縁を切る!」
 かくて寅の刻(午前4時〜6時)に戦いの火蓋が切られた。
 歓が中軍を、高敖曹が左軍を、歓の従父弟の高岳が右軍を率い、段韶が先鋒を務めた。韶は爾朱軍に突撃してその前衛を破った。また、爾朱氏に一族を皆殺しにされた楊愔も先頭に立って戦い、同僚たちをこう驚かせた。
「儒者の一門である楊氏から立派な武士が出た。『仁者は必ず勇有り』(『論語』憲問5)とは、虚論では無いぞ。」
 いっぽう兆は自ら鉄騎を率いて歓のいる中軍を攻め、尉景の軍を撃破した。歓はその勢いに押されてやや退いたが、間もなく陣を突き破られて背後を取られた。兆は手筈通り度律と挟撃をかけようとしたが、度律は兆が第一の殊勲者になるのを嫌って動こうとしなかった。兆はやむなく単独で攻撃を続行しようとしたが、その時、歓の危機を察した右軍の高岳が、韓匈奴韓軌?)と共に五百騎を率い、絶叫しながらその前に立ち塞がった(高岳伝では前ではなく横)。また、別将の斛律敦斛律金の本名)が散り散りになった兵を集めて背後を襲った。また、敖曹と蔡俊の千騎が栗園より出てその脇腹を撃った。これによって歓のいる中軍は危機を脱して態勢を立て直し、岳らと共に反攻に転じた。〔しかし間もなく天光・仲遠の軍が参戦してくると、〕歓軍は四方から攻撃を受ける格好となり、一転して再び窮地に陥った。
 午の刻(午後12時〜14時)の段階で歓の軍は何度も崩壊しそうになっていたが、〔その度になんとか踏みとどまっていた。歓が兵の限界の近いのを悟って〕退却しようとすると、占い師の王春が歓の馬を叩いて言った。
「退くべきではありません! もう少しで必ず勝利することができます!」
〔歓が疑うと、〕春は自分の子どもを縛り上げ、敗北した時にはこれを斬るように言った。歓はその覚悟を見て退却を思いとどまった。
 それから間もなくして、賀抜勝が〔動こうとしない〕爾朱度律を見限り、徐州刺史の杜徳と共に歓に寝返った。これに動揺した度律軍が退却を始めると、爾朱軍全体も動揺をきたし、混乱が始まった。彭楽韓樓の乱に参加した。529年〈1〉〈3〉参照)らがその動揺に乗じて突撃をかけると、勝敗は決し、兆らは大敗した。
 兆は敗走する中で、胸を打って行台の慕容紹宗兆の軍師。歓が信都で挙兵すると、兆は紹宗を行台に任じ、壺関にてこれに備えるよう命じていた。528年〈3〉・530年〈5〉参照)にこう言った。
「そなたの言葉通り、歓を山東に行かせないでおけば、こんなことにはならなかったであろうに!」
 兆は軽騎を率いて晋陽に逃れようとしたが、手元に殆ど兵が残っていなかったため、直行を諦めて潜行して逃れることにした。そのとき、紹宗が軍旗をはためかせて角笛を鳴らすと、散り散りになっていた兵が集まり、軍容が整った。かくて兆は整然と退却することができた《北斉神武紀・北斉20慕容紹宗伝》
 この時、〔敖曹の弟の〕高季式が七騎を率いて追撃し、野馬崗を越えた所で兆と遭遇した。高敖曹は高所に登って遠くを望見し、帰ってくるのを待ったがいつまで経っても姿が見えなかったので、泣いて言った。
「弟を喪った!」
 のち、深夜になって季式が帰ってきたが、その袖は血で濡れそぼっていた。
 仲遠は南下して東郡に逃亡した《魏75爾朱仲遠伝》
 爾朱彦伯は韓陵の敗北を知ると自ら兵を率いて河橋を守備し、度律・天光らの退却の支援をしようとしたが、世隆に許可されなかった《魏75爾朱彦伯伝》

○魏後廃紀
 壬戌,齊獻武王大破尒朱天光等四胡於韓陵,前廢帝鎮軍將軍賀拔勝、徐州刺史杜德於陳降。尒朱兆走趣并州,仲遠奔東郡,天光、度律將赴洛陽。
○北斉神武紀
 時馬不滿二千,步兵不至三萬,眾寡不敵。乃於韓陵為圓陣,連牛驢以塞歸道,於是將士皆有死志,四面赴擊之。尒朱兆責神武以背己。神武曰:「本戮力者,共輔王室,今帝何在?」兆曰:「永安枉害天柱,我報讐耳。」神武曰:「我昔日親聞天柱計,汝在戶前立,豈得言不反邪?且以君殺臣,何報之有,今日義絕矣。」乃合戰,大敗之。尒朱兆對慕容紹宗叩心曰:「不用公言,以至於此。」將輕走。紹宗反旗鳴角,收聚散卒,成軍容而西上。高季式以七騎追奔,度野馬崗,與兆遇。高昂望之不見,哭曰:「喪吾弟矣!」夜久,季式還,血滿袖。
○魏天象志
 既而尒朱兆等大敗于韓陵,覆師十餘萬。
○魏75爾朱兆伝
 然後大會於韓陵山。戰敗,復奔晉陽。
○魏75爾朱度律伝
 戰於韓陵,敗還。
○周11叱羅協伝
 兆等軍敗,還幷州,令協治肆州刺史。
○周14賀抜勝伝
 齊神武既克相州,兵威漸盛。於是爾朱兆及天光、仲遠、度律等眾十餘萬,陣於韓陵。兆率鐵騎陷陣,出齊神武之後,將乘其背而擊之。度律惡兆之驕悍,懼其陵己,勒兵不肯進。勝以其攜貳,遂率麾下降于齊神武。度律軍以此先退,遂大敗。
○北斉13清河王岳伝
 中興初,除散騎常侍、鎮東將軍、金紫光祿大夫,領武衞將軍。高祖與四胡戰于韓陵,高祖將中軍,高昂將左軍,岳將右軍。中軍敗績,賊乘之,岳舉麾大呼,橫衝賊陣,高祖方得回師,表裏奮擊,因大破賊。以功除衞將軍、右光祿大夫,仍領武衞。
○北斉15尉景伝
 韓陵之戰,唯景所統失利。
○北斉16段韶伝
 及韓陵之戰,韶督率所部,先鋒陷陣。
○北斉21高昂伝
 及戰,高祖不利,軍小卻,兆等方乘之。高岳、韓匈奴等以五百騎衝其前,斛律敦收散卒躡其後,昂與蔡儁以千騎自栗園出,橫擊兆軍,兆眾由是大敗。是日微昂等,高祖幾殆。
○北斉34楊愔伝
 及韓陵之戰,愔每陣先登,朋僚咸共怪嘆曰:「楊氏儒生,今遂為武士,仁者必勇,定非虛論。」
○北斉49王春伝
 王春,河東人。少好易占,明風角,遊於趙、魏之間,飛符上天。高祖起於信都,引為館客。韓陵之戰,四面受敵,從寅至午,三合三離。高祖將退軍,春叩馬諫曰:「比未時,必當大捷。」遽縛其子詣王為質,不勝請斬之。俄而賊大敗。
○北53彭楽伝
 韓陵之役,樂先登陷陣,賊眾大崩,封樂城縣公。

 ⑴韓陵山…(《読史方輿紀要》曰く、『彰徳府(安陽)の南の愁思岡上の防陵城の東北十七里にある。韓信が駐屯した事からこの名が付いた。別名七里岡という。』)
 ⑵栗園…《読史方輿紀要》曰く、『韓陵山の東北にある。』