[北魏︰永安三年・建明元年 梁︰中大通二年]

┃爾朱氏一派の動向

 衛将軍の賀抜勝爾朱栄が殺されたことを知ると、栄の屋敷に駆け込んで田怡怙?、滏口の戦いのとき葛栄配下で広州刺史となっていた)らと合流し、善後策を講じた。このとき怡らは宮門の備えがまだ整っていないと考えて、即刻これを攻めようと言った。しかし勝はこれを制止して言った。
「このような大事を行なった天子がそんなヘマをするはずが無い。そもそも我らは小勢なのだから、もっと慎重になるべきだ。ここは洛陽から脱出し、後図を策すしか道は無いだろう。」
 怡らはそこで攻撃を諦めた。

 いっぽう尚書右僕射の爾朱世隆は栄が死んだとき屋敷におり、栄の死を知ると栄の私兵を集め、その日(9月25日)の夜に西陽門を焼き、栄の妻の郷郡長公主中山王英の妹)と兼京畿大都督の爾朱度律・右衛将軍の叱列平・討逆将軍の李㯹・親信の綦連猛らと共に洛陽を脱し、黄河の南に逃れた。
 賀抜勝はこれに途中まで付き従ったが、臣下の仇を取るために君主を討つのはどうなのかと思い直し、遂に部下とともに都へ引き返し、朝廷に降った。帝は非常に喜んだ。

 侍中の朱瑞も途中まで世隆に従ったものの、平素から孝荘帝に厚遇されていたことと、世隆一派に英雄の才が無いことから密かに抜け出して都に還った。
 瑞は栄の腹心ではあったが、誠実に朝廷の人々と付き合い波風を立てなかったため、帝からも信任を受け厚遇されていたのだった。帝はかつて侍臣にこう語ったこともあった。
「人臣が君主に忠実であるのは当然だが、朱元龍(瑞の字)ほどまで忠実にされては、接し方を他と区別せねばならん。」
 その瑞が還ってきたことに帝は喜び、思わずその手を取ってこう言った。
「忠臣というのは、そちのような者である!」

 また、同じく栄から信任を受けていた金紫光禄大夫の司馬子如は、宮中で栄の死を知るや慌てて栄の屋敷に逃れ、己の家を捨てて世隆に付き従い洛陽を脱出した。その途中、世隆が直ちに晋陽まで帰ることを口にすると、子如は反対してこう言った。
「戦いというのは騙し合いです。今天下の人々は戦々恐々として、誰に付けばいいかを目を凝らして探っています。そこに公が晋陽まで脇目も振らず還ったりしますと、人々は必ずその余裕の無いさまに頼りなさを感じるでしょう。そうなりますと晋陽に還る前に足下から事変が起きて大事に到るやもしれません。故に、ここは兵を分けて一方は河橋を確保し、一方は馬首を返して都に攻め入るのが宜しいかと存じます。朝廷もまさか我々が都に攻め入ってくるとは考えておらぬはずですから、その油断を突けばあるいは大きな成功を収めるかもしれません。また、たとえ陥とせなかったとしても、余力がある所を天下に見せつけることができます。さすれば天下の人々は我らを強者と見、叛乱・離反もしなくなることでしょう。」
 世隆はこの意見に従った。
 己亥(9月26日)、世隆は河橋(黄河に架かる浮橋。洛陽の東北五十里〈北魏時は洛陽の位置が東北に二十里ずれているので三十里〉の孟津県の北にある)を攻め、奚毅らを捕らえてこれを殺し、北中城(河橋の北岸にある城)を占拠した。朝廷は震撼し、前華陽太守の段育に説得を試みさせたが、世隆はこれを斬って晒し首に処した。
 帝はまた司徒公の臨淮王彧に河陰の防衛を命じた。

 この日、帝は雍州刺史の爾朱天光を侍中・儀同三司とし、更に朱瑞を西道大行台尚書左僕射として天光のもとに遣わして懐柔させた。
 また、光禄大夫の裴良を持節・仮安西将軍・潼関都督とし、更に河東・恒農・河北・宜陽行台尚書として天光の侵攻に備えさせた(裴良の詳細な時期は不明)。

 また、侍中・司空の楊津を都督并肆燕恒雲朔顕汾蔚九州諸軍事・驃騎大将軍・北道大行台尚書令・并州刺史として并・肆の経略を命じた。

 庚子(27日)、もと代人(北族)を華林園に集め、帝自ら選任を行なった。

○魏孝荘紀
 是夜,僕射尒朱世隆、榮妻鄉郡長公主,率榮部曲焚西陽門,出屯河陰。己亥,攻河橋,擒毅等於途,害之,據北中城,南逼京邑。詔以驃騎大將軍、雍州刺史、廣宗郡開國公尒朱天光為侍中、儀同三司,以侍中、司空公楊津為使持節、督并肆燕恒雲朔顯汾蔚九州諸軍事、驃騎大將軍、并州刺史、兼尚書令、北道大行臺,經略并肆。庚子,詔諸舊代人赴華林園,帝將親簡叙。以撫軍將軍、金紫光祿大夫高乾邕為侍中、河北大使,招集驍勇。
○魏18臨淮王彧伝
 尒朱榮死,除彧司徒公。尒朱世隆率部北叛,詔彧防河陰。
○魏58楊津伝
 尒朱榮死也,以津為都督并肆燕恒雲朔顯汾蔚九州諸軍事、驃騎大將軍、兼尚書令、北道大行臺、并州刺史,侍中、司空如故,委津以討胡經略。
○魏69裴良伝
 孝莊末,除光祿大夫。尒朱榮死,榮從子天光擁眾關西,乃詔良持節、假安西將軍、潼關都督,又兼尚書,為河東、恒農、河北、宜陽行臺以備之。
○魏75爾朱世隆伝
 及榮死,世隆奉榮妻,燒西陽門率眾夜走,北攻河橋,殺武衞將軍奚毅,率眾還戰大夏門外。朝野震懼,憂在不測。莊帝遣前華陽太守段育慰喻,世隆斬之以徇。
○魏75爾朱度律伝
 尋轉安北將軍、朔州刺史,復除軍州刺史。後加散騎常侍、右衞將軍。又除衞將軍、左光祿大夫,兼京畿大都督。榮死,與世隆赴晉陽。
○魏80朱瑞伝
 尒朱榮死,瑞與世隆俱北走。既而以莊帝待之素厚,且見世隆等並無雄才,終當敗喪,於路乃還。帝大悅,執其手曰:「社稷忠臣,當須如此。」尒朱天光擁眾關右,帝欲招納之,乃以瑞兼尚書左僕射為西道大行臺以慰勞焉。
○魏80・周14賀抜勝伝
 尒朱榮之死也,〔事起倉卒,〕勝與田怙等奔走榮第。於時宮殿之門未加嚴防,怙等議即攻門。勝止之曰:「天子既行大事,必當更有奇謀,吾等眾旅不多,何可輕爾,但得出城,更為他計。」怙乃止。及世隆夜走,勝〔以為臣無讐君之義,〕遂不從,〔勒所部還都謁帝。〕莊帝甚嘉(大悅)之。
○周42李㯹伝
 㯹字靈傑。長不盈五尺,性果決,有膽氣。少事爾朱榮。魏永安元年,以兼別將從榮破元顥,拜討逆將軍。及榮被害,㯹從爾朱世隆奉榮妻奔河北。
○北斉18司馬子如伝
 尒朱榮之誅,子如知有變,自宮內突出,至榮宅,棄家隨榮妻子與尒朱世隆等走出京城。世隆便欲還北。子如曰:「事貴應機,兵不厭詐,天下恟恟,唯強是視,於此際會,不可以弱示人。若必走北,即恐變故隨起,不如分兵守河橋,迴軍向京,出其不意,或可離潰。假不如心,猶足示有餘力,使天下觀聽,懼我威強。」於是世隆還逼京城。
○北斉20叱列平伝
 平元顥,遷中軍都督、右衞將軍,封廮陶縣伯,邑七百戶。榮死,平與榮妻及尒朱世隆等北走。
○北斉41綦連猛伝
 永安三年,尒朱榮徵為親信。至洛陽,榮被害,即從爾朱世隆出奔建州。
○洛陽伽藍記
 唯右僕射尒朱世隆素在家,聞榮死,總榮部曲,燒西陽門,奔河橋。

 ⑴爾朱度律…爾朱栄の従父弟。素朴な性格で口数が少なかった。統軍とされて栄の征伐に付き従った。528年、栄が入洛すると楽郷県伯とされた。のち朔州刺史→軍州(?)刺史→右衛将軍→衛将軍→兼京畿大都督とされた。528年⑶参照。
 ⑵河陰…《読史方輿紀要》曰く、『平陰城は今の洛陽の東北五十里→孟津県の東一里にある。旧《志》曰く、「故洛陽城の東北五十里にある。」

┃高敖曹、自由の身となる
 これより前、高乾・高敖曹兄弟は済水・黄河の間で叛乱を起こしたが(528年4〜6月)、東道大使の元羅の説得にあって朝廷に降り、乾は給事黄門侍郎・兼武衛将軍に、敖曹は通直散騎常侍にそれぞれ任じられていた。しかし叛乱の前科を気にした爾朱栄に更迭され、郷里(冀州渤海)に還ると(葛栄が滅んだ528年9月以降?)、乾は猟をして悠々自適の生活を送ったが、敖曹は再び豪傑たちを集めて暴れ回り始めた。そこで栄は冀州刺史の元嶷仲宗)に計略を以てこれを捕らえさせ、その身柄を晋陽に送らせた。
 のち栄が洛陽に入る際、敖曹は李裔・薛修義・李無為らと共に連行され(薛修義は元顥が入洛した際、これに呼応して爾朱氏一派の樊子鵠が守る晋州を攻め、撃退されていた〈529年(2)参照〉。この時捕らわれたのだろう)、駝牛署に監禁された。
 そして現在、栄が死ぬと、孝荘帝は彼らを救い出して引見し、これまでの労苦をいたわった。

○魏36李裔伝
 永安初,尒朱榮既擒葛榮,遂縶裔及高敖曹、薛脩義、李無為等於晉陽。從榮至洛。榮死乃免。
○北斉20薛修義伝
 尒朱榮以脩義豪猾反覆,錄送晉陽,與高昂等並見拘防。榮赴洛,以脩義等自隨,置於駝牛署。
○北斉21高乾伝
 莊帝聽乾解官歸鄉里。於是招納驍勇,以射獵自娛。
○北斉21・北31高敖曹伝
 解官歸,與昂俱在鄉里,陰養壯士〔,又行抄掠〕。尒朱榮聞而惡之,密令刺史元仲宗誘執昂,送於晉陽。永安末,榮入洛,以昂自隨,禁於駝牛署。既而榮死,魏莊帝即引見勞勉之。
 
┃爾朱氏、早くも洛陽に迫る
 冬、10月、癸卯朔(1日)爾朱世隆郷郡長公主と共に邙山の馮王寺に詣で、爾朱栄の追善供養を営んだのち、爾朱弗律帰[1]に胡騎一千を与えて洛陽を攻撃させた。弗律帰らはみな白の喪服を着て洛陽城下に到ると、栄の遺体の返還を朝廷に要求した。孝荘帝は大夏門(洛陽西北の門)の上に登ってこれを眺めると、主書の牛法尚にこう説得させた。
「太原王(爾朱栄)は功を立てたが終わりを全うせず、陰かに大逆を企てた。大逆罪はたとえ王公でも容赦はされぬ。ゆえにやむなく処断したのである。ただ、こたびの罪は王のみに問い、他の者には一切問わぬことにしている。いま大人しく投降すれば、官爵は今まで通りであるぞ。」
 弗律帰は答えて言った。
「臣たちは太原王に大恩を受けた者。その王を思いがけず濡れ衣によって殺されたというのに、どうして黙って還れましょう。太原王の遺体を手に入れ、弔うことができますれば、臣たちは死んでも悔いはございません。」
 その言葉を言う内に弗律帰は悲しみを抑えきれなくなって雨のように涙を流し、胡騎らも哀情を同じく慟哭した。その泣声洛陽を震わすさまに、帝は説得の困難を見て、侍中の朱瑞を通して世隆に鉄券を下賜し、生命や地位の保証に裏付けを与えて安心させようとした。すると世隆は瑞にこう言った。
「太原王の功は天地にあまねく、民を救い国に尽くしたことは神もご存知である。その明らかなる忠臣を、長楽は信義などどこ吹く風といったように、無理矢理難癖をつけて殺してしまったのだ。そのような者からいま二行の鉄字を貰っても、どうして信ずる事ができよう! 自分は誓って太原王の仇討ちをやる。投降する考えは一切ない!」
 瑞は世隆が帝の事を『長楽』(孝荘帝は即位する前、長楽王だった)と言ったことに忠心の全く無いのを察し、還って帝にそう報告した。これを受けて帝は直ちに官庫から物を出して城西の門外に置き、勇士を募って世隆を討たんとした。すると一日の内に一万人もの人々が正義のために立ち上がった。
 甲辰(2日)、帝は先の車騎大将軍の李叔仁を大都督、侍中の源子恭を都督として世隆を討伐するよう命じた。
 また、御史中尉・兼給事黄門侍郎の高道穆に督戦を命じた。
 洛陽の人々はみな義勇の心を振るって弗律帰らと大夏門の北にて戦ったが、なかなかこれを討つことができなかった。弗律帰らが幾度も戦陣を経て武器の扱いに慣れていたのに対し、こちらは戦いの経験が無く心に力が伴わなかったためであった。かくて戦いは三日経った後も続いた。この時、帝は大夏門上にて自ら指揮を執った。
 この間、高敖曹は鎧兜を身に着け矛を小脇に抱えると、弗律帰らを凌ぐ闘志を以て従子の高長命と共に撃って出、まっしぐらに突き進んで無敵の戦いぶりを示した。帝たちはこの雄々しい姿を見て感嘆せずにはいられなかった。帝はそこで敖曹を直閤将軍とし、絹千疋を下賜した。
 また、中軍将軍・太府卿の楊寛字は景仁。もと元天穆の参謀。529年〈2〉参照)は鎮北将軍・使持節・大都督とされて臨機応変に世隆の攻撃を防いだ。世隆は寛にこう言った。
「太宰(元天穆)の恩を忘れたのか?」
 寛は答えて言った。
「確かに太宰に重用はされたが、それは人臣の間でのこと。臣下なら陛下を優先するのが当然のことだ。」

 長命は高永楽の子である。卑賤の出だったため、二十余歳になって初めて登用された。殺人を好む凶暴な性格だったが、〔その代わり〕戦場では勇敢さを示した。大夏門において爾朱世隆を迎撃し、その功により左光禄大夫とされた。


 戊申(6日)爾朱皇后が皇子を産んだため、大赦を行なった。また、中書令の魏蘭根を兼尚書左僕射・河北行台とし、定・相・殷三州の指揮をさせた。
 蘭根は爾朱栄が死ぬ前にその暗殺計画を世隆に漏らしてしまっていた暗い過去があり(530年〈3〉参照)、栄が死ぬとそれがいつ帝に発覚するか心配する日々を過ごしていた。蘭根はやがてこれを免れるには戦いにて功績を立てるしかないと考え、当時帝に信任を受けていた応詔の王道習530年〈1〉〈3〉参照)に言付けを頼んだ結果、この任務に就いたのだった。
 蘭根は河北行台となると、定州にて募兵を行なったのち、井陘の防衛にあたることにした。

 また、東萊王貴平を武衛将軍・兼侍中とし、河北・山東慰労大使とした(詳細な時期は不明)。

 また、二千石郎中の徐招を行台左丞とし、迂回して虎牢より黄河を渡って馬塲()・河内の兵を集めて世隆に抵抗するよう命じた(詳細な時期は不明)。


○資治通鑑

【《考異》曰:《魏書》無拂律歸名,《伽藍記》有之。按爾朱度律時在世隆所,或者拂律歸卽度律也。】…甲辰,以前車騎大將軍李叔仁為大都督,帥衆討世隆。

○魏孝荘紀

 冬十月癸卯朔,封安南將軍、大鴻臚卿元寶炬為南陽王,大宗正卿、汝陽縣開國公元脩為平陽王,通直散騎常侍、龍驤將軍、新陽縣開國伯元誕為昌樂王。復通直散騎常侍、琅邪縣開國公。李叔仁官爵,仍為使持節、大都督,以討世隆。〔甲辰,〕以魏郡王諶徙封趙郡王,諶弟子趙郡王寘改封平昌王。儀同三司李虔薨。戊申,皇子生,大赦天下,文武百僚汎二級。以平南將軍、中書令魏蘭根兼尚書左僕射,為河北行臺,定相殷三州禀蘭根節度。

○魏19東萊王貴平伝

 除平北將軍、南相州刺史。莊帝既殺尒朱榮,加武衞將軍,兼侍中,為河北、山東慰勞大使。

○魏41源子恭伝

 尒朱榮之死也,世隆、度律據斷河橋,詔子恭為都督以討之,出頓於大夏門北。

○魏77高道穆伝
 及尒朱世隆等率其部類戰於大夏門北,道穆受詔督戰。

○周22楊寛伝

 爾朱榮被誅,其從弟世隆等擁部曲燒城門,出據河橋,還逼京師。進寬鎮北將軍、使持節、大都督,隨機扞禦。世隆謂寬曰:「豈忘太宰相知之深也?」寬答曰:「太宰見愛以禮,人臣之交耳。今日之事,事君常節。」

○北斉21高敖曹伝

 時尒朱世隆還逼宮闕,帝親臨大夏門指麾處分。昂既免縲絏(紲),被甲橫戈,志凌勁敵,乃與其從子長命等推鋒徑進,所向披靡。帝及觀者莫不壯之。即除直閤將軍,賜帛千疋。

○北斉21高長命伝

 翼長兄子永樂…子長命,本自賤出,年二十餘始被收舉。猛暴好殺,然亦果於戰鬭。初於大夏門拒尒朱世隆,以功累遷左光祿大夫。

○北斉23魏蘭根伝

 莊帝之將誅尒朱榮也,蘭根聞其計,遂密告尒朱世隆。榮死,蘭根恐莊帝知之,憂懼不知所出。時應詔王道習見信於莊帝,蘭根乃托附之,求得在外立功。道習為啟聞,乃以蘭根為河北行臺、於定州率募鄉曲,欲防井陘。

○北70徐招伝

 方轉二千石郎中。尒朱榮死,尒朱世隆屯兵河橋,莊帝以招為行臺左丞,自武牢北度,引馬塲、河內之眾以抗世隆。

○洛陽伽藍記

 至十月一日,隆與榮妻北鄉郡長公主至芒山馮王寺為榮追福薦齋。卽遣尒朱侯討伐、尒朱弗律歸等領胡騎一千,皆白服來至郭下,索太原王尸喪。帝升大夏門望之,遣主書牛法尚謂歸等曰:「太原王立功不終,陰圖釁逆,王法無親,已依正刑,罪止榮身,餘皆不問。卿等何為不降?官爵如故。」歸曰:「臣從太原王來朝陛下,何忽今日枉致無理?臣欲還晉陽,不忍空去,願得太原王尸喪,生死無恨。」發言雨淚,哀不自勝。羣胡慟哭,聲振京師。帝聞之,亦為傷懷。遣侍中朱元龍齎鐵券與世隆,待之不死,官位如故。世隆謂元龍曰:「太原王功格天地,道濟生民,赤心奉國,神明所知。長樂不顧信誓,枉害忠良,今日兩行鐵字,何足可信?吾為太原王報仇,終不歸降!」元龍見世隆呼帝為長樂,知其不款,且以言帝。帝卽出庫物置城西門外,募敢死之士,以討世隆,一日卽得萬人。與歸等戰於郭外,兇勢不摧。歸等屢涉戎場,便利擊刺;京師士衆未習軍旅,雖皆義勇,力不從心。三日頻戰,而游魂不息。


 [1]考異曰く、魏書には弗律帰の名前は見当たらず、伽藍記にだけ見受けられる。このとき爾朱度律が世隆の傍にいることは確実なので、もしかすると弗律帰は度律のことを言っているのかもしれない。

┃忠烈

 爾朱氏の兵が未だ城下に在って退かぬのを見て、帝は御前会議を開いて広く意見を求めたが、朝臣たちはみな恐れるばかりで何も名案を出せない有り様だった。その時、通直散騎常侍の李苗が勢い良く立ち上がって言った。
「賊どもが突如都を襲うという大それたことをしでかし、魏朝が思いがけぬ災難に見舞われております今こそ、忠臣烈士が忠節を尽くす時であります。臣は武臣ではありませんが、かようなときには必ず国のために身を粉にして尽くそうと考えておりました。どうか一旅【杜預曰く、五百人を一旅とする】の軍勢を臣にお与えください。さすれば、陛下のために直ちに河橋を断ってご覧に入れましょう。」
 城陽王徽や御史中尉の高道穆がこれに賛同すると、帝もその意気を立派として遂に実行を許可した。
 乙卯(10月13日)、苗は勇士を募ると、夜陰に紛れて船に乗って馬渚の上流より黄河を下り、橋から数里の地点において火船を放った。この時黄河の流れは速かったため、火船はたちまち河橋に達し、これを勢い良く燃え上がらせた。黄河南岸にいた爾朱氏の兵はその炎を見るや退路を失うのを恐れ、争って燃える橋を渡って北岸に赴こうとした。しかし橋は間もなく焼け落ちたため、数多くの者が溺れ死ぬ結果となった。苗は火船を放ったのち、百余人と共に黄河の小島に身を置いて朝廷の援軍を待ったが、その前に爾朱氏の攻撃を受けた。苗らは死力を尽くしてこれと戦ったが、いかんせん多勢に無勢だったため遂に兵は全滅し、苗も黄河に身を投げて死ぬこととなった(享年46)。帝はその報を聞くと長くその死を悼み、こう言った。
「生きておれば必ずまた奇功を立てたであろう。」
 かくて苗に使持節・都督梁益巴東梁四州諸軍事・車騎大将軍・儀同三司・梁州刺史を追贈し、また河陽県開国侯を追封し、更に忠烈侯と諡した。

 苗は若い頃から固い節義を持ち、国家のために功名を立てんとする志に燃えていた。愛読書は三国志の『蜀書』(苗は蜀の地の出身)で、その丞相の諸葛亮が魏に北伐を行なった時に、魏延の提案した長安奇襲を容れなかった下り(魏延伝注の『魏略』にある)を読むと、常にため息をついて亮に優れた戦略眼が無かったのを嘆いていた。また、『呉書』の周瑜伝を読むと、常にかくありたいものだと思い、その生き様に傾倒してやまなかった。
 城陽王徽臨淮王彧はどちらも苗を重用する点では一致していたが、互いの仲は非常に悪く、よく苗がその仲裁役となっていた。しかしその甲斐無く、徽は権勢を極めるにつれてますます彧を邪険に扱うようになった。苗はその様を見て人にこう語った。
「城陽王は蜂のように細い目と山犬のような気味の悪い声を有し、冷酷な心の持ち主であるが、近頃はそれがますます酷くなってきたようだ。」
 苗はまた琴の音を解し、詩文を吟ずるのを好み、手紙をしたためる速さは誰にも負けなかった。
 苗が死ぬと、朝野は悲嘆に暮れたが、同時にその壮絶な死に様を立派として褒め称えたのだった。

 爾朱世隆は橋が焼かれたのを見ると、周辺の住民を拉致しつつ北方に逃れた。

○魏孝荘紀
 乙卯,通直散騎常侍、假平西將軍、都督李苗以火船焚河橋,尒朱世隆退走。
○魏41源子恭伝
 尋而太府卿李苗夜燒河橋,世隆退走。
○魏71李苗伝
 於時蕭衍巴西民何難尉等豪姓,相率請討巴蜀之間,詔苗為通直散騎常侍、冠軍將軍、西南道慰勞大使。未發,會殺尒朱榮,榮從弟世隆擁榮部曲屯據河橋,還逼都邑。孝莊親幸大夏門,集羣臣博議。百僚恇懼,計無所出。苗獨奮衣而起曰:「今小賊唐突如此,朝廷有不測之危,正是忠臣烈士效節之日。臣雖不武,竊所庶幾。請以一旅之眾,為陛下徑斷河梁。」城陽王徽、中尉高道穆讚成其計。莊帝壯而許焉。苗乃募人於馬渚上流以舟師夜下,去橋數里便放火船,河流既駛,倏忽而至。賊於南岸望見火下,相蹙爭橋,俄然橋絕,沒水死者甚眾。苗身率士卒百許人泊於小渚以待南援。既而官軍不至,賊乃涉水,與苗死鬬。眾寡不敵,左右死盡,苗浮河而歿,時年四十六。帝聞苗死,哀傷久之,曰:「苗若不死,當應更立奇功。」贈使持節、都督梁益巴東梁四州諸軍事、車騎大將軍、儀同三司、梁州刺史,河陽縣開國侯、邑一千戶,賵帛五百匹、粟五百石。諡忠烈侯。苗少有節操,志尚功名。每讀蜀書,見魏延請出長安,諸葛不許,常歎息謂亮無奇計。及覽周瑜傳,未曾不咨嗟絕倒。太保、城陽王徽,司徒、臨淮王彧重之,二王頗或不穆,苗每諫之。及徽寵勢隆極,猜忌彌甚。苗謂人曰:「城陽蜂目先見,豺聲今轉彰矣。」解鼓琴,好文詠,尺牘之敏,當世罕及。死之日,朝野悲壯之。及莊帝幽崩,世隆入洛,主者追苗贈封,以白世隆。世隆曰:「吾爾時羣議,更一二日便欲大縱兵士焚燒都邑,任其採掠。賴苗京師獲全。天下之善一也。不宜追之。」
○魏75爾朱世隆伝
 會李苗燒絕河梁,世隆乃北遁。
○魏77高道穆伝
 又贊成太府卿李苗斷橋之計,世隆等於是北遁。
○洛陽伽藍記
 帝更募人斷河橋。有漢中人李苗為水軍,從上流放火燒橋。世隆見橋被焚,遂大剽生民,北上太行。

洛陽北方守備

 丙辰(10月14日)孝荘帝は大行台尚書僕射・大都督の源子恭豫州刺史として長らくその防衛にあたっていたが、元顥討伐〜爾朱栄誅殺の間に朝廷勤務となり、侍中とされていた)に一万の兵を、行台の楊昱李侃希らや洛陽城内で募った義勇兵八千を与え、それぞれ洛陽北方の西道・東道を守備させて爾朱世隆の来襲に備えた。子恭は太行山にある丹谷(建州の東)に砦を築いた[1]
 この時、もと邵郡太守で太中大夫の裴慶孫は大都督とされて子恭と共に世隆を追擊したが、太行に到った所で世隆と密通しているのがばれ、呼び戻されて河内にて斬られた(享年36)。

○魏孝荘紀
 丙辰,詔大都督、兼尚書僕射、行臺源子恭率步騎一萬出自西道,行臺楊昱領都督李侃希等部募勇士八千往從東路,防討之。子恭仍鎮太行丹谷。
○魏41源子恭伝
 仍以子恭兼尚書僕射,為大行臺、大都督。尋遷衞將軍、假車騎將軍,率諸將於太行築壘以防之。
○魏69裴慶孫伝
 永安中,還朝,除太中大夫。尒朱榮之死也,世隆擁眾北渡,詔慶孫為大都督,與行臺源子恭率眾追擊。軍次太行,而慶孫與世隆密通,事泄,追還河內而斬之,時年三十六。

 [1]考異曰く、伽藍記には「侍中の源子恭と給事黄門侍郎の楊寬に三万を与えて河内を守備させた。」とある。今は魏書の記述に従う。

┃高乾兄弟の派遣
 また、この時、高乾が帝のもとに馳せ参じ、帝をいたく喜ばせた。帝は世隆の軍を挟み撃ちにする事を策し、乾を撫軍将軍・金紫光禄大夫・兼侍中・河北大使に任じて、郷里の勇士たちを集め軍を組織するよう命じた。
 また、その弟の高敖曹にも通直常侍・平北将軍の位を与え、同じく郷里に帰らせ、兵を募らせた。帝は彼らの出立を河橋まで見送り、そのさい酒杯をこれに与え、黄河を指差してこう言った。
「そなたたち兄弟は冀州の豪傑であり(高兄弟は冀州渤海の出身)、兵士に力を尽くさせる事ができる。都に一旦変事あらば、黄河を遡って朕を助けに来てくれ。」
 乾は涙を流してその命を押し頂き、敖曹は剣舞を舞って死力を尽くすことを誓った

 また、刁整を鎮東将軍・行滄州事とした。
 また、中書侍郎の甄楷を故郷の〔中山に近い〕常山の試守太守とし、義兵を募らせ、絹二百疋を与えた。

○魏38刁整伝
 及莊帝殺尒朱榮,就除鎮東將軍、行滄州事。
○魏68甄楷伝
 孝莊時,徵為中書侍郎。尒朱榮之死,帝以其堪率鄉義,除試守常山太守,賜絹二百匹。
○北斉21・北31高乾伝
 榮死,乾馳赴洛陽,莊帝見之,大喜。時尒朱徒黨擁兵在外,莊帝以乾為〔以乾兼侍中,加撫軍將軍、〕金紫光祿大夫、河北大使,〔鎮河北。又以弟昂為通直散騎常侍、平北將軍。〕令〔俱歸,〕招集鄉閭為表裏形援。〔帝親送於河橋上,舉酒指水曰:「卿兄弟冀部豪傑,能令士卒致死。京城儻有變,可為朕河上一揚塵。」〕乾垂涕奉詔,弟昂援劍起舞,請以死自効(繼之)。
○北斉21・北31高敖曹伝
 昂以寇難尚繁,非一夫所濟,乃請還本鄉,招集部曲。仍除通直常侍,加平北將軍。所在義勇,競來投赴。

 ⑴魏孝荘紀ではこの出来事を9月27日辺りの事としている。しかしたった2日で冀州から洛陽に行けるのか?という事と、高兄弟の記述に合わない事から、今ここに置いた。

┃建州陥落
 一方、爾朱世隆は建州[1]にて刺史の陸希質の抵抗に遭ったが、直ちに州城を攻め陥とすと城中の者を撫で切りにし、抵抗された鬱憤を晴らした。ただ、希質のみはその妻が郷郡長公主の姉妹であったことから死を免じた。

○魏孝荘紀
 世隆至建州,刺史陸希質拒守,城陷,盡屠之,唯希質獲免。
○魏40陸希質伝
 轉建州刺史,將軍如故。尒朱榮之死也,世隆率眾北還晉陽,希質固守拒之,城陷,兄子被害。希質妻元氏,榮妻之兄孫,由是獲免。
○魏75爾朱世隆伝
 建州刺史陸希質閉城拒守,世隆攻克之,盡殺城人以肆其忿。

 [1]永安年間(528〜)に建興郡を廃して建州が設置され、爾朱仲遠や斛斯椿がその刺史に任じられていた。治所は高都城で、高都・長平・安平・恭寧郡を領した。

┃西北方守備
 孝荘帝は更に前東荊州刺史の元顕恭城陽王徽の次兄)を使持節・都督晋建南汾三州諸軍事・鎮西将軍・西北(征西)道行台尚書左僕射・晋州刺史とし、都督の薛善楽・薛修義・裴元俊・薛崇礼・薛憘嘉?らを指揮させた。
 また、薛修義を恒農・河北・河東・正平四郡大都督に任じた。

○魏孝荘紀
 以中軍將軍、前東荊州刺史元顯恭為使持節、都督晉建南汾三州諸軍事、鎮西將軍、晉州刺史、兼尚書左僕射,為征西道行臺,節度都督薛善樂、薛修義、裴元儁、薛崇禮、薛憘族等。
○魏19元顕恭伝
 徽次兄顯恭,字懷忠。揚州別駕,以軍功封平陽縣開國子,邑三百戶。孝莊初,除北中郎將,遷左將軍、東徐州刺史。入為安東將軍、大司農卿。尋除中軍將軍、荊州刺史。莊帝既殺尒朱榮,乃除顯恭使持節、都督晉建南汾三州諸軍事、鎮西將軍、兼尚書左僕射、西北道行臺、晉州刺史。
○北斉20薛修義伝
 榮死,魏孝莊以脩義為弘農、河北、河東、正平四郡大都督。時高祖為晉州刺史,見脩義,待之甚厚。

┃楊津躊躇
 これより前、孝荘帝は栄を誅すると、侍中・司空の楊津を都督并肆燕恒雲朔顕汾蔚九州諸軍事・驃騎大将軍・兼尚書令・北道大行台・并州刺史とし、并・肆の攻略をさせていた(9月26日)。
 津は馬を飛ばして鄴(相州)に到ったが、手持ちの兵が羽林兵の五百しかおらず弱体であったことから、まず募兵を行なってから滏口より并州に侵入しようと考えた。

○魏58楊津伝
 尒朱榮死也,以津為都督并肆燕恒雲朔顯汾蔚九州諸軍事、驃騎大將軍、兼尚書令、北道大行臺、并州刺史,侍中、司空如故,委津以討胡經略。津馳至鄴,手下唯羽林五百人,士馬寡弱。始加招募,將從滏口而入。

┃東徐州の動向
 爾朱栄の腹心であり征東将軍・東徐州(下邳)刺史とされていた斛斯椿は、栄が死んだ事を聞くと身の危険を感じた。この時、汝南王悦が梁に魏王に封じられて国境上に進出している(530年〈2〉参照)のを聞くや〔渡りに船と〕大いに喜び、州城と共に梁に降った。
 東徐州防城都督の王則はこれを知ると蘭陵太守の李義と共に椿を攻めて撃破した。椿は城を棄て、配下の兵と共に悦のもとに逃れた。
 悦は椿を使持節・侍中・大将軍・領軍将軍・領左右・尚書左僕射・司空・大行台前駆都督とし、また霊丘郡公に封じた。

 孝荘帝は鎮東将軍・金紫光禄大夫の鹿悆を使持節・東南道三徐行台尚書左僕射とした。

○魏79鹿悆伝
 還,拜鎮東將軍、金紫光祿大夫。尋詔為使持節、兼尚書左僕射、東南道三徐行臺。
○魏80斛斯椿伝
 又轉征東將軍、東徐州刺史。及尒朱榮死,椿甚憂懼。時蕭衍以汝南王悅為魏主,資其士馬,次於境上。椿聞大喜,遂率所部棄州歸悅,悅授椿使持節、侍中、大將軍、領軍將軍、領左右、尚書左僕射、司空公,封靈丘郡開國公,邑萬戶,又為大行臺前驅都督。
○北斉20王則伝
 遷征虜將軍,出為東徐州防城都督。尒朱榮之死也,東徐州刺史斛斯椿其枝黨,內懷憂怖。時梁立魏汝南王悅為魏主,資其士馬,送境上,椿遂翻城降悅。則與蘭陵太守李義擊其偏師,破之。

┃河内固守
 これより前、爾朱世隆が叛いた時、河内城(河南府〈洛陽〉の東北百四十里)はこれに付かずに抵抗した。
 丁卯(10月25日)、河内城の督将(徐招?)と文武官に爵位(二十等爵)を二級加え、兵士に三年間の免税の特典を与えた。

○魏孝荘紀
 丁卯,詔以世隆北叛,河內固守,其在城督將文武普加二級,兵士給復三年。


(5)に続く