蕭宝寅の不安
 これより前、蕭宝寅が涇州にて大敗を喫し、長安に逃れた時、ある者は洛陽に還って潔くその判決に身を委ねるべきだと言い、ある者は関中(馮景伝では雍州)に残って罪滅ぼしをすべきだと言った。その中で行台都令史で河間の人の馮景はこう言った。
「大軍を擁しているのに洛陽に還らないというのは、罪を大きくする事ですぞ。」《北63馮景伝》
 しかし宝寅は、何年にも渡って出征し軍事費が莫大なものになっているのに、乱を平定することができず却って大敗を喫してしまったことから、朝廷の怒りは尋常でないと思い、恐れてこの言に従わなかった。すると、果たして朝廷は宝寅に大いなる疑念を抱くようになった《魏59蕭宝寅伝》

●酷吏酈道元
 酈道元は元来厳酷に公務を行なう酷吏として世に知られており、その彼が御史中尉に就任すると、洛陽の権勢家は初めて襟を正し、非常に恐れ憚った。しかし結局道元は彼らを糾弾して正すことができず、以前から悪かった評判を更に落とした。
 この時司州牧となっていた汝南王悦は、側近の丘念をとても寵愛しており、常にこれを傍に置いていたが、念はその寵愛をいいことに、州牧の属吏の多くを自分勝手に決めてしまった。道元はその乱脈ぶりを許せず、つねづねこれを逮捕しようと思っていたが、念がずっと悦の屋敷に隠れていたために果たせずにいた。しかしある時念が自邸に帰ったのを探知すると、遂にこれを捕らえて獄に繋いだ。悦が胡太后に念を赦免してくれるよう頼み、特赦が下されようとした時、道元は先んじて念を死刑に処し、同時に悦も弾劾した。悦は驚いて侍中の城陽王徽に泣きついた。徽も平素から道元を煙たく思っていたので、遂に朝廷に手を回してこれを関右()大使とし、疑惑が深まっている蕭宝寅への使者という危険な任務をあてがった。

●鸞の一子関中を治む
 一方、宝寅はあの道元が使者として来るのを聞いて、いよいよ不安となった。この時長安の軽薄な者たちは無責任に彼に挙兵するように勧めた。宝寅が思い悩んでこれを河東の人で行台郎中の《魏45柳楷伝》柳楷に諮ると、楷は答えて言った。
「大王は斉の明帝の子であり、天下の人々の期待の的でございます。今日の挙兵は、まことにその心に合致するでありましょう。また、謠言(流行歌)にも『鸞(鳳凰の一種、また暗に斉の明帝蕭鸞を指す)十子を生み九子は毈(すもり、卵の腐って孵化しなかったもの)となるも、一子は毈とならずして関中を乱(おさ)む。』と歌われています。大王は関中を治める運命にあります。心配の必要はございません。」《北29蕭宝寅伝》
 かくて宝寅は叛乱を決意すると、行台郎中の郭子恢を派遣し、道元を陰盤駅亭にて包囲させた。亭は丘の上にあり、水はいつも丘の下にある井戸から汲まれていた。道元らは包囲されてその井戸に行く事ができなくなると、井戸を掘って水を得ようとしたが、十余丈掘っても水は出てこず、万事窮した。
 子恢らはその抵抗が弱まったのを見、遂に塀を乗り越えて亭の中に侵入した。道元は目を怒らし、大声で罵りながら死んだ。道元の弟や二人の子どもも共に殺された。
 宝寅は部下を派遣して道元父子のなきがらを回収させると、長安城東にこれを埋葬し《北27酈道元伝》、それから偽りの上表をして言った。
「道元を殺したのは宝寅だと楊椿父子が中傷しています《魏58楊椿伝》が、実際は白賊【鮮卑(前秦の人々は鮮卑人を蔑んで『白虜』と呼んでいた〈384年9月参照〉)、あるいは白地に巣食う賊】がやった事であります。」

 蕭宝寅が関中に出征した時、渤海の人の封偉伯は関西行台郎としてこれに従っていたが、宝寅の二心が露見してくるに及んで、都督の南平王仲冏と共に、密かに関中の豪族の韋子粲らの協力を得て義兵を挙げようとした。しかし事前に事が漏れ、仲冏と共に殺された(享年36)。当時の人々はその死を惜しんだ《魏32封偉伯伝・魏59蕭宝寅伝》

●宝寅の挙兵に成功の理無し
 宝寅の行台郎中で武功の人の蘇湛はこの時病に臥して家にいた。宝寅は湛の従母弟の開府属で天水の人の姜倹(生年490、時に38歳)に命じ、湛をこう説得させた。
「元略(526年5月に梁から帰還し、胡太后に重用されていた)は蕭衍の意を受け、常日頃私を殺そうとしていた。その略が胡太后に信任されている中、道元が派遣されてきたのだから、不安にならざるを得ないだろう。私は座して死を待つことはできず、やむを得ず道元を殺し、結果的に魏臣でいられぬ身となった。こうなった上は、どうかそなたの協力を得、死生栄辱を共にしたいと思う。」
 湛はこれを聞くや声を上げて号泣した。倹が慌ててこれをとどめて言った。
「どうしてそう泣くのですか!」
 湛は答えて言った。
「我が一族が今にも屠戮せられようとしているのに、泣かずにいられようか!」
 かくて数十度も泣き続けたのち、おもむろに倹にこう言った。
「私に代わって斉王にこう申し上げてくれ。『大王は元々窮鳥の身空、今の尊尊の身分は、投じた先の魏朝がさいわい仁慈深く、王に羽翼を貸し大切に保護してくださったからです。それなのに大王は、今の国難に、忠義を尽くし恩義に報いることもせず、却ってその危機に乗じ、無見識の輩の言葉に惑って、敗残の兵を以て潼関を守り、天下を窺おうとしています。
 いま魏は衰えたりとは申せ、天命は未だ改まらず、人心が未だ離れたわけではございません。それに対し大王の恩義は未だ民衆の心を摑んだわけではないのですから、その失敗は火を見るより明らかで、成功は望むべくもありません。そのような無謀な賭けに乗って、一家の命をあたら族滅の危機に曝すことは、私にはできません。』とな。」
 倹がその言葉を宝寅に伝えると、宝寅は再び使者を派遣して言った。
「私が今回の挙に出たのは、死中に活を求めるためであり、やむを得ない事、断腸の思いだったのだ。恩を忘れたわけではない。また、前もってこの計画をそなたに伝えなかったのは、きっと制止されるだろうと心配したからであった。事が動いた今は、そのような事は言わず、どうか私に付いてきてくれ。」
 湛は答えて言った。
「そもそも今回のような大事は、天下の奇才と相談して行なうべきでありますのに、いま大王はただ長安の博打うちとしか相談しておられません。これでどうして成功する道理がありましょうか? 私は大王の失敗が目に見えて分かってなりません。どうか大王は私が辞職し、郷里に帰ることをお許しください。天寿を全うし、恥じることなく泉下の祖先にまみえることが、今の私の一番の望みです。」
 宝寅は元来湛のことを重んじていたため、彼の病気を慮ったのと、自分に力を貸すことが無いことを知ったのとで、やむをえず彼に郷里の武功に帰ることを許した《魏45蘇湛伝》

●宝寅叛す
 甲寅(25日)、宝寅は斉の皇帝を自称し、年号を隆緒と改めた。また、領内に大赦を下し、百官を置いた。
 都督長史の毛遐(関中軍の大敗の際、高平側に寝返ったが、楊侃の奇襲に遭って再び北魏に付き、高平軍を破る功を挙げた)はこの事を知るや、弟の鴻賓に書を与えて急いでこれと合流し、郷里の義兵を糾合して馬祗柵に宝寅打倒の兵を挙げた。宝寅は大将軍の盧祖遷にこれを討伐させたが、祖遷は遐に敗れ、捕らわれて殺されてしまった。宝寅はこの時まさに長安の南郊にて天を祀ろうとしている所で、即位の礼がまだ終わっていなかった。そこに敗報を耳にするや、宝寅は口が乾き顔色を変えて、部伍を整える余裕もなく狼狽して長安に引き返した。北魏は遐を南豳州刺史とした《魏59蕭宝寅伝・北49毛遐伝》
 また、西征軍司・行岐州事の杜顒も宝寅に従わず、岐州に拠ってこれに抵抗した《魏45杜顒伝》

 姜倹は蕭宝寅が関中に出征した時から機密を任されており、倹もこれを義に感じて宝寅に力を尽くしていた。宝寅が皇帝となると倹は尚書左丞とされ、変わらず一番の信任を受けたが、同時にやっかみの的となった《魏45姜倹伝》

 薛聡(495年8月参照)の子の薛孝通は宝寅の入関の際、参事として同行し、非常に丁重にもてなされていたが、宝寅に叛志が見え始めると先祖の祭りをするという理由で故郷に帰った。同僚はみないきなりの帰郷を怪訝に思って引き止めようとしたが、孝通はただただ笑うだけで何も答えようとしなかった。そののち、果たして宝寅は叛乱を起こしたのであった《北36薛孝通伝》

周恵達
○周22周恵達伝
 周惠達字懷文,章武文安人也。父信,少仕州郡,歷樂鄉、平舒、平成三縣令,皆以廉能稱。惠達幼有志操,好讀書,美容貌,進退可觀,見者莫不重之。魏齊王蕭寶夤為瀛州刺史,召惠達及河間馮景同在閤中,甚禮之。及寶夤還朝,惠達隨入洛陽。領軍元义勢傾海內,惠達嘗因寶夤與义言論,义歎重之,於座遺惠達衣物。孝昌初,魏臨淮王彧北討,以惠達為府長流參軍。及万俟醜奴等構亂,蕭寶夤西征,惠達復隨入關。寶夤後與賊戰不利,退還,仍除雍州刺史,令惠達使洛陽。未還,而寶夤反謀聞於京師。有司以惠達是其行人,將執之。乃私馳還,至潼關,遇大使楊侃。侃謂惠達曰:「蕭氏逆謀已成,何為故入獸口?」惠達曰:「蕭王為左右所誤,今往,庶其改圖。」及至,寶夤反形已露,不可彌縫,遂用惠達為光祿勳、中書舍人。

 文安の人の周恵達は宝寅が雍州刺史とされた時、その答礼の使者として洛陽に派遣されていたが、宝寅への疑惑が色濃くなってくると捕らえられそうになったが、なんとか逃げおおせて潼関に到った。その時、偶然大使の楊侃関中軍の大敗の際、毛遐の叛乱を防ぐ功を挙げた)と出会い、こう声をかけられた。
「蕭氏の叛乱はもはや確実なもの。なのにどうしてそなたはわざわざ虎口に入ろうとするのか?」
 恵達は答えて言った。
「蕭王はただ周囲に惑わされているだけであり、説得すればまだ間に合います。」
 かくて長安に辿り着いたが、宝寅の決心は既に確固たるものとなっており、叛乱を止めることはできなかった。宝寅は恵達を光禄勳・中書舍人とした。

 恵達、字は懐文は、章武文安の人である。父の周信は若くして州郡に務め、楽鄉・平舒・平成の三県令となり、どこでも廉潔な能吏という評価を受けた。
 恵達は幼くして固い志操を備え、読書を好んだ。美男で、立ち居振る舞いに立派なものがあったため、誰からも尊重を受けた。
 北魏の斉王の蕭宝寅が瀛州刺史となると(512年)、恵達は河間の人の馮景と共に召されて幕僚とされ、非常に丁重な扱いを受けた。宝寅が洛陽に帰ると(515年)、恵達もこれに従った。この時、絶大な権勢を誇っていた領軍の元叉と宝寅の伝手で議論を交わす機会を持った。叉は恵達の立派な言動に嘆服し、その場で衣物を与えた。孝昌の初め(525年)、北討に赴く臨淮王彧の府長流参軍とされた。のち万俟醜奴らが関中を乱し宝寅が西征に赴くと、恵達は再び彼に従ってその幕僚となった。

 一方、丹陽王の蕭賛(525年、徐州と共に北魏に降った。元の名は蕭綜)は宝寅の叛乱の報を聞くや、累が及ぶのを恐れて白鹿山に逃亡しようとし、河橋に到った。北魏の法律では河橋を渡る際馬に乗っては行けないことになっていたが、賛は急いで渡ろうと騎乗したまま渡ろうとしたため逮捕され、素性も明らかになってしまった《南53蕭綜伝》。しかし孝明帝は彼が叛乱に関わっていなかったのを知って、これを釈放して慰めの言葉をかけた。

●長孫稚、宝寅討伐に向かう
 宝寅は郭子恢に潼関を攻めさせ、行台の張始栄に華州刺史の崔襲を攻囲させた《魏59蕭宝寅伝》
 北魏は尚書右僕射の長孫稚(鮮于修礼に大敗したのち、陳双熾の乱を薛修義と共に平定し、尚書右僕射となっていた)を行台として宝寅の討伐に赴かせた。
 この時稚は背中の腫瘍に苦しんでいたため、胡太后はこれにいたわりをかけて言った。
「そなたの腫れ物はとても酷い。朕はそなたに行かせたくは無いのだが、他に信頼できるものがいないのじゃ。どうしたものだろうか?」
 稚は答えて言った。
「臣は命のある限り国家に尽くすつもりです。討伐の任は喜んで引き受けましょう。ただ、陛下がご心配なさるなら、あまり無理しないように心がけます。」
 この時子の子彦もまた脚の痺れに悩まされており、杖をついて参内した。尚書僕射の元順は大臣たちを顧みて言った。
「我らはみな大臣となり顕貴の身分となっているのに、いざ国難に直面すると、病人を先に行かせようとしている。これで果たして良いのだろうか?」
 反論できるものは誰もいなかった《魏25長孫稚伝》
 この時正平民の薛鳳賢が叛乱を起こし、龍門鎮城を包囲した。鎮将で鳳賢の宗人の薛修義は天下動乱の情勢を鑑み、遂にこれに加わった。そして黄鉞大将軍を自称すると、河東の兵を集めて塩池を占拠し、次いで蒲坂を攻囲して宝寅と通じた。北魏はそこで都督の宗正珍孫にこれを討伐させた《魏25長孫稚伝・北斉20薛修義伝》

●泉企
 郭子恢が潼関を攻め取り、次いで上洛(長安東南から武関までの途中)にも攻め込むと、北魏の上洛郡守の泉企は郷兵三千を率いてこれを迎え撃ち、連日戦って二十人ばかりの死者を出したものの、遂に子恢を大破した。この功によって征虜将軍を授けられた。宝寅は更に一万の兵を青泥に派遣し、巴人を扇動して上洛を攻め取ろうとした。これに上洛の豪族の泉・杜氏が密かに内応を約したが、企は刺史の董紹宗董紹、馬圏を包囲している自軍の敗北を予見した。535年〈5〉参照)と共に潜行して奇襲を仕掛け、これも撃破してちりぢりにさせたため、宝寅は東南への侵攻を諦めた(具体的な時期は不明)。
 これより前、宝寅が叛乱を起こすと、洛州刺史の董紹はその討伐を求める上表文を提出してこう言った。
「盲目の巴人三千を率いて、蜀賊(関中には強制移住させられた蜀の人たちが多くいた)めを生きたまま食らってやりましょう。」
 孝明帝はこれを読むと、給事黄門侍郎の徐紇にこう尋ねた。
「巴人というのは、本当に盲目なのか?」
 紇は答えて言った。
「これは紹の誇張でありまして、ただ単に、巴人が非常に勇敢で、敵を見ても恐れないことを『盲目』と言っているだけなのであります。ゆえに、巴人が盲目というわけではございません。」
 帝はこれを聞くと大いに笑い、それから紹に速やかに討伐に赴くように命じた。
 のち、紹は宝寅の侵攻を防いだ功を賞され、新蔡県開国男に封ぜられた《魏79董紹伝》

 泉企、字は思道は、上洛豊陽の人である。家は代々商・洛の地(長安の東南から武関に至るまでの地域)の豪族で、曾祖父の景言の代に豊陽県令の世襲を許されていた。
 企は九歲の時に父を亡くしたが、その悲しみようは大人のそれと変わらなかった。三年の喪が開けると郷里の人の皇平・陳合ら三百余人が州府に至って企に県令を世襲させるよう求めた。州がこれを朝廷に伝えると、吏部尚書の郭祚は企が十二歳の幼さで統治の任に堪えないと考え、別の者に県令を任せるよう宣武帝に求めた(原文『請別選遣、終此一限、令企代之。』)。帝は詔を下して言った。
「企は一人前になろうと努力しているし、郷里の人々も泉氏の統治を良しとしている。どうして世襲をやめ、別の者に交代させられようか。」
 かくて郷民の求めに従い、企を県令とした。企は幼いとはいえ学問を好み悠然としていたので、人々はその統治に安んじた。間もなく今度は母の死に遭って職を去ったが、県中の父老がまた熱心に請願したため県令に復職できた。
 孝昌元年(525)に龍驤将軍・仮節・防洛州別将を加えられ、間もなく上洛郡守に任じられた《周44泉企伝》

 11月丁卯(8日)、梁が護軍の蕭淵藻武帝の兄の子)を北討都督とし、渦陽を守備させた。
 戊辰(9日)、渦陽に西徐州を置いた。

●冀州の陥落


 葛栄の信都包囲は春から冬に及んでいた《魏72潘永基伝》。守将の冀州刺史元孚は、以前阿那瑰の説得に向かって捕らえられた上、その長に担ぎ上げられた失態があり、除名されたが、のち冀州の刺史に任じられると、農耕と養桑をよく指導し、領内の人々に慈父と讃えられ、近隣の州の者には神君と称される素晴らしい政治を行なっていた。
 これより以前、冀州には張孟都・張洪建・馬潘・崔独憐・張叔緒・崔醜・張天宜・崔思哲ら八家が林野に盤踞し、朝廷の命令に従おうとせず、八王と呼ばれていた。しかし孚が州に赴任するや、彼らはみなその来訪を願い、彼のために死力を尽くすことを誓った。
 そして現在葛栄に包囲されるや、孚はよく将兵を率いた《魏18元孚伝》
 防城都督の一人の李瑾は二子と共にその防衛にあたり、次子が戦死しても、人心の動揺を心配して悲しみを外に表さなかった《魏49李瑾伝》
 また同じく防城都督の潘永基は孚と心を合わせて日夜防戦に尽力した《魏72潘永基伝》
 このような冀州の激しい抵抗に葛栄が業を煮やした時、その配下の杜纂が水攻めを進言した。纂はもともと清河太守として評判の高い者だったが、孝昌年間(525年〜)に葛栄に包囲されるとこれに降っていたのだった。彼は栄が信都を攻めるにあたり降伏勧告の任務を与えられ、入城したが、李瑾に斬られそうになった。しかし元孚が杜纂を賢者として重んじていたため、事なきを得た経緯があった《魏88杜纂伝》
 栄がその進言に従って信都に水を注ぐと、さしもの堅城も苦境に陥った。
 己丑(30日)、信都は兵糧や矢玉が尽き、援軍も来なかったことで遂に落城した。
 栄は孚を捕らえ、住民を厳寒の外に追い出してその6,7割を凍死させた。
 この時孚の兄の祐は防城都督として、兄の子の子礼も録事参軍として信都におり、孚と共に捕らわれていた。栄はまず子礼を殺そうとしたが、孚が叩頭流血して己の命と引き換えに子礼を助けるよう懇願してきたので取りやめた。栄が更に大いに将兵を集めて孚兄弟の生殺を議論させた所、兄弟は互いに自分に責任があると言って死を代わりに引き受けようとした。また、孚配下の張孟都・潘紹(永基の字は紹業)ら数百人も叩頭して己の命の代わりに使君(刺史の尊称)を助けるよう懇願してきたので、遂に栄はこう言った。
「彼らは魏の忠臣義士である!」
 かくて捕らえていた約五百人の死を免じた《魏18元孚伝》
 栄は杜纂の水攻め進言の功を以て彼を常山太守とした《魏88杜纂伝》

○周11叱羅協伝
 叱羅協本名與高祖諱同,後改焉。少寒微,嘗為州小吏,以恭謹見知。恆州刺史楊鈞擢為從事。及魏末,六鎮搔擾,客於冀州。冀州為葛榮所圍,刺史以協為統軍,委以守禦。俄而城陷,協沒於榮。

●漳曲の戦い(源子雍の死)
 これより前、鎮東将軍・北討都督の源子雍は相州刺史・北討大都督の裴衍と共に鄴を発って葛栄の討伐に赴いていたが、救援が間に合わず信都が陥落すると、朝廷は子雍を冀州刺史とした。子雍は冀州の陥落を受けて、朝廷に上書して言った。
「賊は今非常に兵糧が欠乏しており、州郡を陥とし略奪することによってなんとか食いつないでいる状態です。それに対し、今朝廷は食糧が豊富で、兵卒も衣食に何ら不自由していないのですから、ここは城壁を高くし堀を深くして守りに徹するべきでしょう。さすれば賊軍は戰いによっても、略奪によっても兵糧を獲る事ができず、数旬(20〜30日)も経たずに労せずして凶醜を制圧することができましょう。」
 しかしこの時裴衍が上表して進軍を進言したので、朝廷は子雍の建議を受け入れず、衍と共に速やかに進軍するよう命じた。しかし子雍はなおも重ねて上表して籠城策を勧め、もし聞き入れられないのであれば、せめて裴衍のみ行かせるよう求め、詔を撤回できないのであれば、裴衍を留めて自分一人を行かせるよう求めた。また、もし同行を強制するのであれば、敗北は旦夕に迫ると忠告した。朝廷は聞き入れず、遂に衍と共に進軍させた。
 12月戊申(20日)、陽平郡東北(陽平郡北?)の漳水曲(相州と冀州の中間にあるに到った時、官軍は葛栄率いる十万の軍勢の攻撃を受け、大敗を喫し、子雍・衍は共に敗死した(子雍、享年40)。二人の死を痛まぬ者は一人もいなかった。また、別将で子雍の子の源延伯も戦死した(享年24)。

 冀州の陥落と子雍らの敗北の報は、相州の人々をひどく動揺させた。しかし行相州事で恒農の人の李神がいつもと変わらぬていで兵民を勉励して回ったので、人々は老若に関わらず奮起し、彼のために力を尽くした。葛栄が長らく相州を攻めても勝つことができなかったのは、まさしく李神の功績であった(李神伝では528年4月〜9月の事として書いている)。

 この月、秦州民《出典?》駱超杜粲9月に莫折念生を殺し北魏に降っていた)を殺し、北魏に降った。北魏は超を秦州刺史とした。

○魏孝明紀
 十有二月戊申,都督源子邕、裴衍與葛榮戰,敗於陽平東北漳水曲,並戰歿。是月,杜粲為駱超所殺,超遣使歸罪。
○魏41源子雍伝
 進號鎮東將軍。遂與裴衍發鄴以討葛榮,而信都城陷。除子雍冀州刺史。餘官如故。子雍以冀州不守,上書曰:「賊中甚飢,專仰野掠。今朝廷足食,兵卒飽暖。高壁深壘,勿與爭鋒,彼求戰則不得,野掠無所獲,不盈數旬,可坐制凶醜。」時裴衍復表求行,詔子雍與衍速進。子雍重表固請,如謂不可,乞令裴衍獨行。若不賜解,求停裴衍。苟逼同行,取敗旦夕。詔不聽,遂與衍俱進。至陽平郡東北漳曲,榮率賊十萬來逼官軍。子雍戰敗被害,年四十。朝野痛惜之。贈車騎大將軍、儀同三司、雍州刺史,公如故。
○魏41源延伯伝
 假冠軍將軍、別將,隨子雍北討。與葛榮戰歿,時年二十四。贈持節、平北將軍、涼州刺史,開國如故。
○魏71裴衍伝
 除撫軍將軍、相州刺史,假鎮北將軍、北道大都督,進封臨汝縣開國公,增邑千二百戶,常侍如故。仍詔衍與子邕北討葛榮。軍次陽平之東北漳曲,賊來拒戰,衍軍敗見害。朝野人情,莫不駭惋。贈使持節、車騎大將軍、司空、相州刺史。

 ⑴陽平郡東北の漳水曲…《読史方輿紀要》曰く、『陽平郡は北魏の代に館陶県に治所を移された。館陶は臨清州の西南百二十里にある。東至府城百三十里,南至直隸大名府七十里。』『漳河(清漳河)は館陶の西南五十里を経る。

┃東梁州の設置
 この年、北魏が梁州の安康郡(漢中の東)が川や山に守られた要害の地である事を以て、分割して東梁州を置き、〔行巴州刺史の〕淳于誕を鎮遠将軍・〔東〕梁州刺史とした。

○魏71淳于誕伝
 三年,朝議以梁州安康郡阻帶江山,要害之所,分置東梁州,仍以誕為鎮遠將軍、梁州刺史。