●莫折念生の死

 9月、秦州城民の常山王《魏59蕭宝寅伝》の杜粲が裏切って莫折念生を一族ごと殺し、行州事を自称した。南秦州城民の辛琛も行州事を自称し、共に使者を派遣して蕭宝寅の軍門に降った。

 北魏はそこで再び宝寅を尚書令とし、旧封(斉王・梁郡公)に復した(10月)。


●東豫州の陥落


 梁の譙州刺史の湛僧智が北魏東豫州刺史の元慶和を広陵(東豫州の治所)に包囲し、その外城にまで侵入するに至って、北魏将の元顕伯がその救援に向かったが撃退された。梁の司州刺史の夏侯夔は武陽関より僧智の助勢に赴き、北魏軍の退路を断った。

 冬、10月、辛卯(2日)、慶和は城内に陣地を築いて守りを固めていたが、夔の軍が城下に到ったのを聞くや、遂に観念して州城と共に梁に投降した。

 夔はその入城の栄誉を僧智に譲ったが、僧智は首を振って言った。

「慶和は君に降ろうと思ったのであって、私に降りたいと思ったのではない。もし今私が行けば、必ずや彼の意志に背くことになるだろう。それに、私の兵隊は急造の寄せ集め部隊であって、統制がまだ取れていないが、君の軍は平素から厳重に軍法を遵守し、統制が取れている。君の軍が行けば、必ずや城中に乱暴を働くことなく、接収を穏便に済ませられるだろう。だから、君が行くのだ。」

 夔はそこで入城役を引き受け、広陵に入るや、北魏の軍旗を抜いて代わりに梁の軍旗を建てた。その間梁兵たちは軍法を守って妄動することなかったため、慶和が北魏軍を束ねて城外に出ても、城中の吏民たちは安心していることができた。

 かくて夔は無事広陵の男女四万余人を得、また穀物六十万斛を接収したが、その他の物もこれと同じほどあった。


 司馬光…『湛僧智は君子と言うべきである! 彼は長期(1月〜10月)に渡って東豫に戦った労苦にこだわる事無く、入城の名誉を新参の将に与えた。彼は己の短所をよく弁え、他人の長所を消してしまうこと無く、己の功名より国家の事業の完遂を優先したのだ。まさに彼は忠義にして無私の人である。故に君子と言うべきなのである!』


 一方、顕伯は広陵降伏の報を聞くや、夜陰に紛れて逃走を図った。梁軍はこれを追撃し、二万余人を捕虜とし、数え切れないほどの首級や鹵獲物を手に入れた。

 梁は僧智に東豫州刺史を兼任させ、広陵を守備させた。

 夔は次いで安陽に駐屯し、更に偏将を派遣して楚城を陥落させ、そこにいた住民をことごとく連行させた。ここにおいて義陽(郢州の治所)は北道を断たれ、敵中に孤立することとなった《梁28夏侯夔伝》。


●渦陽の戦い


 梁の領軍の曹仲宗と東宮直閤の陳慶之526年、寿陽攻略に参加し、接収役を担った)が北魏の渦陽を攻め、尋陽太守の韋放寿楊攻略に参加し、南道軍の夏侯亶を救援した)も明威将軍に任じられてこれに合流した。するとその道中、突如北魏の援軍で散騎常侍の費穆の攻撃を受けた。

 この時放の陣地はまだ建設途中で、麾下の兵はわずか二百余人にしか過ぎなかった。放の從弟の韋洵は剛勇にして優れた武勇を持っており、放軍の心の拠り所となっていた。放がそこで洵に単騎にて北魏軍に突撃させたところ、洵はこれに応えて何度もこれを撃退することに成功した。しかし洵も無事では済まず、愛馬が傷ついて進めなくなった。放の兜にも三本の流れ矢が突き立つに及び、兵はみな色を失い、囲みを破って逃走を図るよう放に勧めた。しかし放は声を励まし彼らを叱咤して言った。

「今日はただ死あるのみだ!」

 かくて兜を脱ぎ馬から下り、胡床(折りたたみ椅子。隋代に胡の字が嫌われ交床とされた)に座って指揮を執った。その覚悟を見るや兵士たちはみな奮い立ち、一人で百人に匹敵する戦いぶりを示した。北魏軍はこの勢いに遂に引き下がった。放はこれを追撃しながら北上し、渦陽に到った。


 韋放生年474?、時に54歳)、字は元直は、韋叡520年8月参照)の子である。身長は七尺七寸(約192センチ?)、腰まわりは八囲(約96センチ?)あり、容貌は非常に立派だった。


 北魏は更に常山王昭・大将軍の李奨・乞仏宝乞伏宝・費穆雲州を良く守るも逃亡に追い込まれ、のち長孫稚と共に陳双熾の乱を平定した)らに五万(陳慶之伝では十五万。今は韋放伝の記述に従う)を与えて渦陽を救わせた。その前軍が渦陽まで四十里の駝澗に到った時、陳慶之はこれに攻撃をかけようとした。韋放は反対して言った。

「賊の先鋒は必ずや軽快にして強力であり、これと戦って勝ったとしてもたいした功にはならず、敗れれば我が軍勢の士気を阻喪させる結果となる。ここは孫子の言うように、逸を以て労を待つべきだろう(気力充分の体勢で疲労困憊した敵を迎撃する。『孫子』軍争篇)。攻撃はしないほうが良い。」

 慶之は答えて言った。

「魏人は遠くより来たりて、みな既に疲労しており、また、我が軍よりまだ距離があれば、必ず油断しております。またその集結の前に一撃を与え、鋭気を挫いておくのは当然のことです。彼らの不意を突けば、必ず負けることはありません。また、聞く所によると、敵の陣地がある所には,樹木が生い茂っている所でありますから、きっと今夜いっぱいまで出てこないでしょう。これでもまだ疑いますのなら、私の部隊だけでやらせてみてください。」

 かくて自らの麾下二百騎(南史では五百騎)だけで進擊し、先鋒を見事に破り、北魏軍を驚かせてみせた(韋放伝では、放も督将の陳度・趙伯超らを率い、北魏軍を挟撃して大破している)。慶之は梁の陣営に還ると、諸将と共に西へ進発し、渦陽城を背に北魏軍と対峙した。

 梁軍は春から冬にかけて、北魏軍と数十百度も刃を交じえ、大いに疲弊していた。そこに北魏軍が背後に砦を築こうとしている報が入ってきたので、曹仲宗らは腹背に敵を受けるのを恐れ、退却を図るようになった。慶之はこれを聞くや軍門に節旄を立てて言った。

「我らが出征してより一年が経過し、かかった費用は莫大なものとなっていますのに、今諸君はみな戦意無く、ただただ逃げる算段ばかりしておられる。諸君は功名を立てようとしてここまでやってきたのでしょう。それがそこらの土地を荒らし回っただけに終わっていいのですか⁉ 

 私は兵を死地に置けば、却って生を受くと聞いています(兵を絶対絶命の場所の立場に置けば、兵はがむしゃらになって全力を出し、逆に勝利を得ることができる。『孫子』九地篇。〈これを亡地に投じて然る後に存し、これを死地に陥れて然る後に生く。それ衆は害に陥れて然る後によく勝敗をなす。〉)。故にここは敵の大包囲陣が完成するのをわざと待ってからこれと戦うようにするべきだと思います。

 これでもまだ退却など言う者がおられるなら、私が特別に授かった密勅に基づき、刑を執行するまでです!」

 仲宗らは慶之の作戦を立派だとして、退却を思いとどまった。


 庚戌(21日)、北魏軍がかくて梁軍の前後に十三城を築くと、慶之は馬に枚をくわえさせ、夜陰に紛れ隠密裏に出撃し、その四城をたちどころに陥落させた。この勢いに渦陽城主(譙州刺史?)の王緯は遂に投降を決めた。

 この時残りの九城はいまだ健在であり脅威であった。そこで韋放は投降兵四千二百人を選び抜いて武器を持たせ、軍容を大きく見せかけると共に、捕虜三十名に対し、李奨・費穆ら北魏の諸営に渦陽の降伏したことを伝えるよう命じた。

 慶之は残りの城を攻める際、投降兵らに大声を上げさせてこれに従わせた。北魏軍は渦陽が降伏したのを聞いて浮き足立っていた上に、更にこの勢いを見せつけられて肝を潰し、先を争って逃げ出した。梁軍はこれを追撃してその殆どを殺し捕らえたので、渦水の流れは死体で一時堰き止められたほどの有り様となった。

 韋放は渦陽城中の男女三万余人を収め、費穆の弟の費超王緯の身柄を建康に送った。

 梁軍は勝ちに乗じて城父にまで進軍した。武帝はこれを嘉賞し、慶之に手製の詔を与えて言った。

「そなたは元々将軍の家系でもなく(原文『将種』、陳慶之は武芸が下手であったため、将軍に適した者ではなかったことを言っているのかもしれない)、豪族の出でも無かったため、機会を得ること無く現在まで至った。しかし今いっときその機会を得るや、深く奇略をめぐらし、見事に勝利を収めた。その功績は富貴の身分になるに足り、挙げた名声は竹帛に残すに足るものであった。どうしてそなたが大丈夫でないと言おうか!」


○梁武帝紀

 冬十月庚戌,魏東豫州刺史元慶和以渦陽內屬。甲寅,曲赦東豫州。

○梁28・南58韋放伝

 普通八年(大通元年),高祖遣兼領軍曹仲宗等攻渦陽,又以放為明威將軍,帥師(總兵)會之。魏大將費穆帥眾奄至,放軍營未立,麾下止有二百餘人。放從弟洵驍果有勇力,一軍所仗,放令洵單騎擊刺,屢折魏軍,洵馬亦被傷不能進,放冑又三貫流矢。眾皆失色,請放突去。放厲聲叱之曰:「今日唯有死耳()。」乃免冑下馬,據胡牀處分。於是士〔〕皆殊死戰,莫不一當百。魏軍遂退,放逐北至渦陽。魏又遣常山王元昭、大將軍李奬、乞佛(伏)寶、費穆等眾五萬來援,放率所督將陳度、趙伯超等夾擊,大破之。渦陽城主王緯以城降。放乃登城,簡出降口四千二百人,器仗充牣;又遣降人三十,分報李奬、費穆等。魏人棄諸營壘,一時奔潰,眾軍乘之,斬獲略盡。擒()穆弟超,并王緯送於京師(建鄴)。還為太子右衞率,轉通直散騎常侍。

○梁32・南61陳慶之伝

 大通元年,隸領軍曹仲宗伐渦陽。魏遣征南將軍常山王元昭等率馬步十五萬來援,前軍至駝澗,去渦陽四十里。慶之欲逆戰,韋放以賊之前鋒必是輕銳,與戰若捷,不足為功,如其不利,沮我軍勢,兵法所謂以逸待勞,不如勿擊。慶之曰:「魏人遠來,皆已疲倦,去我既遠,必不見疑,及其未集,須挫其氣,出其不意,必無不敗之理。且聞虜所據營,林木甚盛,必不夜出。諸君若疑惑,慶之請獨取之。」於是與麾下二(五)百騎奔擊,破其前軍,魏人震恐。慶之乃還與諸將連營而(西)進,據渦陽城,與魏軍相持。自春至冬,〔各〕數十百戰,師老氣衰,魏之援兵復欲築壘於軍後,仲宗等恐腹背受敵,謀欲退師。慶之杖節軍門曰:「共來至此,涉歷一歲,糜費糧仗,其數極多,諸軍並無鬭心,皆謀退縮,豈是欲立功名,直聚為抄暴耳。吾聞置兵死地,乃可求生,須虜大(圍)合,然後與戰。審(若)欲班師,慶之別有密敕,今日犯者,便依明詔。」仲宗壯其計,乃從之。魏人掎角作十三城,慶之銜枚夜出,陷其四壘,渦陽城主王緯乞降。所餘九城,兵甲猶盛,乃陳其俘馘,鼓噪而攻之,遂大奔潰,斬獲略盡,渦水咽流,降城中男女三萬餘口。詔以渦陽之地置西徐州。眾軍乘勝前頓城父。高祖嘉焉,賜慶之手詔曰:「本非將種,又非豪家,觖望風雲,以至於此。可深思奇略,善克令終。開朱門而待賓,揚聲名於竹帛,豈非大丈夫哉!」



(4)に続く