●梁の彭城侵攻と崔孝芬の復帰
 2月、虜賊(高平軍?)が北魏の潼関を抜いた。

 庚申(27日)、北魏司州東郡(白馬)民の趙顕徳が叛し、太守の裴煙を殺して都督を自称した。また兄の子を太守に立てた。北魏は都督の李叔仁にこれを討伐させた。

 この月、梁将の成景俊が北魏の彭城を攻めた。北魏は前荊州刺史の崔孝芬元叉に連座して除名、のち章武王融に誣告されて一家逃亡に追い込まれた)を徐州行台として防衛にあたらせた《魏孝明紀》
 これより前、孝芬は元叉の党人と目されて盧同・李奬らと共に除名処分に遭っていた。そして現在孝芬が徐州に赴く前に太后に暇ごいに行くと、太后は彼を詰って言った。
「私とそなたは姻戚【孝芬の娘は孝明帝の世婦(序列五位の妃)】であるのに、どうして以前、元叉の車中に頭を入れて、『あの老婆を除くべし!』などと言ったのか⁉」
 孝芬は答えて言った。
「臣は国家に大恩を蒙った身、そのような事は決して口にいたしません。また、たとえ臣が口にしたとしても、誰がその言葉を聞き得たのでしょうか⁉ いたとするなら、それは元叉の側近か、遠くの通行人かのどちらかであります。陛下、どうか告発者に会わせてください。臣はきっとその虚実を明らかにしてみせましょう。」
 太后は己の過ちを悟り、うなだれて恥じ入った。
 孝芬が徐州に到着した時、成景俊は砦を築き、堰を造って泗水の水を城に注ごうとしていた。孝芬が大都督の李叔仁柴集らと共にこれを突くと、景俊らは敗北して退却した。孝芬はこの功により安南将軍・光禄大夫・兼尚書・徐兗行台に任じられた《魏57崔孝芬伝》

●源子雍、千里を踏破す


 3月、甲子(1日)孝明帝が西方に親征することを決め、天下に戒厳令を発した。すると虜賊は西に逃亡し、潼関は再び北魏の手に還った。

 戊辰(5日)、そこで次いで北方への親征を決めたが、実際はどちらも実行しないままに終わった《魏孝明紀》。

 この時、信都(冀州の治所)は葛栄に長らく包囲されていた(1月参照)《魏41源子雍伝》。北魏はそこで金紫光禄大夫の源子雍を大都督(子雍伝では北討都督)として救援に赴かせた《魏孝明紀》。


 これより前、蕭宝寅らが大敗を喫した時、万俟醜奴の将の宿勤明達は息子の宿勤阿非を派してその退路を遮断させた。かくて華州・白水が包囲を受けると関中の治安は大いに乱れ、僅かな距離でも交通が途絶する有様となった。

 この時、源子雍は黒城(五原の稒陽塞付近?)を息子の源延伯率いる義勇兵の助力を受けて平定した所だった。そこに関中の敗報を聞くと、子雍は夏州の兵馬と義勇兵を率い、一家と共に直ちに南下を開始した。 

 この時敵将の康維摩が羌・胡の兵を率いて鋸谷水(華州東北?)を守備し、甄棠橋を遮断していた。子雍がこれに戦いを挑むと、延伯はその先鋒となって敵陣を陥れ、維摩を自らの手で捕える活躍を見せた。更に敵将契官斤が守る楊氏堡(華州東北の楊氏壁?)を破り、遂に東夏州(北史の記述による。魏書では単に『東』。もしかすると河東なのかもしれない)の地に出ることに成功した。このとき子雍は西夏より東夏まで千里もの道のりを踏破していた。朝廷はここに至ってようやく子雍が生きていることを知った。

 散騎常侍・使持節・仮撫軍将軍・都督・兼行台尚書に任じられた子雍は更に敵将の紇単步胡提を曲沃堡(? 『東』が河東なら洛陽西北の曲沃、東夏州なら関中にある砦)にて撃破し、孝明帝から璽書を受け嘉賞された。

 子雍が次いで白水郡にて宿勤阿非の軍と戦うと、息子の延伯は再びその先鋒を務めてこれを撃破し、多くの首級・捕虜を得た。子雍はこの功により、潼関にて城陽王徽を介して帝の慰労の言葉を受け、中軍将軍・金紫光禄大夫・給事黄門侍郎・楽平県開国公とされた《魏41源子雍・延伯伝》


┃関中軍の反攻

〔これより前、北魏の関中軍が万俟醜奴に大敗を喫すると、岐州刺史の魏蘭根は醜奴に内応した城民に捕らえられていた。〕

 のち蕭宝寅が長安に到って敗残兵を収容して態勢を立て直し、反攻に転じると、岐州の城民は刺史の侯莫陳仲和を捕らえて再び魏蘭根を刺史の位に就けた。朝廷は蘭根が西土の人心をよく摑んでいることを以て都督涇岐東秦南岐四州諸軍事・兼四州行台尚書(時期不明。この時、東秦州も奪還したと思われる。北華州は不明)。


○北斉23魏蘭根伝

 寶寅至雍州,收輯散亡,兵威復振,城民復斬賊刺史侯莫陳仲和,推蘭根復任。朝廷以蘭根得西土人心,加持節、假平西將軍、都督涇岐東秦南岐四州軍事,兼四州行臺尚書。


●大通改元と武帝の捨身
 これより前、梁の武帝は同泰寺という寺を建てると共に、その交通の便を良くするため大通門という門を造った。これらは互いに反語となっていた【『同泰』(dong+tai)は『大』(dai)の翻しである。『大通』dai+tong)は『同』(dong)の翻しである】。武帝は同泰寺にて講義にを行なう時、朝晩を問わず常にこの大通門を使用した《南史梁武帝紀》
 辛未(8日)、武帝は同泰寺に赴き捨身(出家)した(第一次捨身《梁武帝紀》

 北魏斉州広川民の劉鈞が清河太守の邵懐を捕らえて叛し、大行台を自称した。また、清河民の房須)が大都督を自称して昌国城を占拠し《魏孝明紀》、三斉(斉州・青州・南青州?)を扇動した《魏21元劭伝》

 甲戌(11日)、武帝が宮殿に戻り、大赦を行なって年号を大通と改めた《梁武帝紀》

 、北魏別将の元斌之が東郡を討伐し、趙顕徳2月27日参照)を斬った《魏孝明紀》
 元斌之、あざなは子爽は、安楽王鑑の弟である。

●柔然の朝貢
 己酉(17日)、柔然の頭兵可汗(阿那瑰)が鞏鳳景ら朝貢の使者を派し、諸賊の討伐の手助けを申し出てきた。北魏は裏に何かあるのを心配し、詔を下して言った。
「北鎮の諸狄の叛乱が相次ぐ中、蠕蠕主が国家のためにその誅討の手助けをしたいと申し出てきた。思うに昔日の寝食の恩(520年、阿那瑰は北魏に亡命していた)を忘れていなかったのであろう。昨今、蠕蠕は北辺に在って爾朱栄の軍区と隣り合っていたが、蠕蠕主はよく兵を統率して該地に乱暴を働かせなかった。そして今またこの申し出をしてきたのであるから、朕はその忠義を信じ、喜んでその通り東方に赴かせ討伐の手助けをさせたいと思う。ただ、蠕蠕は代々冷涼な北漠におり、炎暑での遠征には多大な困難が予想される。故に蠕蠕は一旦留まり、のちの沙汰を待って出陣するとよいであろう。」

●蕭宝寅に二心あり
 北魏雍州刺史の楊椿が急病を患い、頻りに朝廷に辞職を求めた。
 この月、朝廷は蕭宝寅を都督雍涇岐南豳四州諸軍事・征西将軍・雍州刺史・仮車騎大将軍・開府・西討大都督とし、再び関西の諸将の指揮を執らせることにした。
 椿が鄉里(華陰、潼関の西)に帰ると、息子の楊昱が洛陽に還るのに出会い(昱は宝寅が敗れると持節・都督に任じられ雍州の防衛に向かったが、高平軍が敗北すると洛陽に引き返していた《魏58楊昱伝》)、そこでこう言った。
「今雍州刺史に適任なのは宝寅をおいて他にいないのだが、問題はその幕僚の選任を彼の好き放題にやらせてしまったことだ。これは聖朝の百慮の内の唯一の失策である。」
 昱が何故かと問うと、椿は答えて言った。
「刺史という位は宝寅にとっては栄誉で無いはずなのに、わしの目には非常に喜んでいるように見えた。また、賞罰の行ない方や言動も出過ぎたものがあったように見えた。つまり、宝寅には二心があるのではないかと思うのだ。関中惜しむべし! お前は洛陽に着いたら、わしの意見を二聖や宰相連に伝え、長史・司馬・防城都督を改めて派遣していただくようにせよ。関中の安寧はまさにこの三者にかかっている。もしこれが為されなければ、必ずや深刻な災いが国家を襲うだろう。」
 昱は孝明帝と胡太后に拝謁してこの事を伝えたが、二人とも信用せず聞き入れなかった《魏58楊椿伝》
 昱は度支尚書に任じられ、のち徐州刺史に移り、間もなく鎮東将軍・仮車騎将軍・東南道都督とされた《魏58楊昱伝》

●蘭欽の快進撃


 5月、丙寅(4日) 、梁将の成景俊が北魏の臨潼・竹邑を攻め陥とした。

 梁は臨潼に潼州を、竹邑に睢州を置いた。


 この年、東宮直閣の蘭欽が北魏の蕭城を攻め陥とした。更に欽は彭城別将の郊仲(?)を撃破し、擬山城に侵攻して大都督の劉属(?)が率いる二十万の大軍も撃破した。次いで籠城に進み、馬千余頭を得た。更に大将の柴集と襄城太守の高宣(?)、別将の范思念(?)・鄭承宗徐州平東府長史の鄭籍〈あざなは承宗〉《魏56鄭籍伝》?)らも撃破した。

 次いで厥固・張龍・子城を攻めたが、抜けないでいる内に、彭城守将の楊目徐州刺史の楊昱?)が息子の楊孝邕楊昱の子に楊孝邕がいる)に輕騎兵を与えて救援させてきたので、欽はこれを迎え撃って敗走させたのち、次いで譙州(治所渦陽)刺史の劉海遊(?)を破った。それから厥固に引き返してこれを陥とし、その住民を捕らえた。

 のち楊目は更に都督の范思念・別将の曹龍牙に数万を与えて欽を攻撃させたが、欽はこれも破って龍牙を斬り、その首を建康に送った

 蘭欽、あざなは休明は、智謀に優れ、果断さを戦場で良く発揮し、步けば一日に二百里を行くことができ、その武勇は常人以上のものがあった。また、統率の才能があり、人によく死力を尽くさせることができた《梁32蘭欽伝》。


 ⑴この蘭欽の記事は『南史』では完全に無視、『資治通鑑』では蕭城・厥固・曹龍牙の部分だけ採り上げられている。『魏書』にはこれに対応する記事は見当たらない。


●豪胆鹿悆
 6月、北魏の都督の李叔仁が劉鈞(3月8日参照)を討ち、平定した。
 これより前、鹿悆は彭城を降す大功を立てたのち、員外散騎常侍に任じられ、間もなく青州刺史の彭城王劭の府長兼司馬(長史・兼司馬?)となったが、ほどなく長兼を解かれた。
 そして現在劉鈞・房須が叛乱を起こすと、悆は劭に命じられて州軍の監督をしてその討伐に赴いた。悆は商山にて叛乱軍と戦い、快勝を収めた。この時州軍の将軍・統軍らはみな劭の側近であり、その寵信をいいことに首級の数を勝手に水増しし、賞帛を余分に手に入れようとした。悆は面と向かってこれを拒否したが、劭はそう目くじらを立てずとも良いではないかと言った。すると悆はさっと色を変えて言った。
「私がここまで厳しく申しているのは、王や国家のためで、私情で言っているのではありません!」
 かくて暇ごいもせずに憤然と席を立って外に出た。劭は慌ててこれを追い、自分の非を認めて謝罪した。しかし将軍らは気が収まらず、悆の野郎を殺してやると言って憚らなかった。だが当の悆はこれを耳にしても笑うだけで、全く意に介さなかった《魏79鹿悆伝》
 元劭、字は子訥は、元勰(508年9月参照)の子である。武芸に達者で、若い頃から気骨があった。

●豫州の乱
 秋、7月、北魏陳郡民の劉獲・鄭弁が西華県にて叛し、年号を天授と改め、梁の譙州刺史の湛僧智1月27日より東豫州を包囲している)と誼を通じた。北魏は行豫州刺史で譙国の人の曹世表を東南道行台とし、元安平元纂の弟)・元顕伯・皇甫鄧林らを指揮してこれを討つように命じた。また、源子恭を彼の代わりに豫州刺史とした。

 この時叛乱軍は小殷関(?)を遮断しており、中央と豫州の交通が途絶していた。諸将は討伐軍の兵が少ない事や敗残兵ばかりな事を理由に、城に籠り守りを固めたほうが良いと進言した。世表はこの時背中にできた悪性の腫瘍に苦しんでいたが、病身を押して輿を使って外に出ると、統軍の元宝是云宝)を呼んでこう言った。

湛僧智が危険を冒して奥深くまで侵入してきているのは、獲・弁ら州民に人望がある者たちが内応しているからだ。先ほど聞くところによると、その獲がここから八十里の所で僧智と合流しようとしているらしい。今その不意を突けば、必ず一戦にして撃破する事ができよう。獲を破れば、僧智も望みを失って敗走するだろう。東南の地の平定は、ひとえにそなたにかかっている。」
 かくて宝に兵馬を与えると、夜密かに城から出陣させた。宝が夜明けにその合流地点に到ると、叛乱軍はいきなりの官軍の出現に動揺し、大敗を喫した。宝は勝利に乗じて一挙に他の叛乱軍も討伐し尽くしてしまい、僧智はこれを聞くと果たして合流を諦めて引き返した。
 鄭弁は逃亡し、旧交のあった子恭のもとに逃れて匿われたが、世表はこれを知るや将吏の前で子恭を叱責し、弁を捕らえて斬った。

 北魏はこの功をもって世表を再び行豫州事とし、行台もそのままとした。


 元宝任城王澄の子孫で、祖父の元万は北魏の幽州刺史・西平簡王、父の元敦は北魏の相州刺史・邵陵王。


○魏72曹世表伝

 後加征虜將軍,出行豫州刺史。值蕭衍將湛僧珍陷東豫州,州民劉獲、鄭辯反於州界,為之內應。朝廷以源子恭代世表為州,以世表為東南道行臺,率元安平、元顯伯、皇甫鄧林等討之。於時賊眾強斷小殷關,驛使不通。諸將以士馬單少,皆敗散之餘,不敢復戰,咸欲保城自固。世表時患背腫,乃輿病出外,呼統軍是云寶謂之曰:「湛僧珍所以敢深入為寇者,以獲、辯皆州民之望,為之內應。向有驛至,知劉獲移軍欲迎僧珍,去此八十里。今出其不意,一戰可破。獲破,則僧珍自走,東南清服,卿之功也。」乃簡選兵馬,付寶討之。促令發軍,日暮出城,比曉兵合。賊不意官軍卒至,一戰破獲,諸賊悉平,湛僧珍退走。唯鄭辯與子恭親舊,亡匿子恭所。世表召諸將吏,眾責子恭,收辯斬之,傳首京師。敕遣中使宣旨慰喻,賜馬二匹、衣服被褥。復以世表行豫州事,行臺如故。

○元和姓纂

 是云元 隋內史令元夀狀稱,景帝後任城王澄子孫。避尒朱榮亂,投匿是云家,因從其姓。至隋改姓元氏。

○唐故寿州刺史王使君夫人元氏墓誌銘并序
 高祖萬,魏幽州刺史、西平簡王。曾祖敦,魏相州刺史、邵陵王。…祖寶,魏侍中、魏寧王,周大将軍、洞城哀公。

●安楽王叛す
 北魏は安楽王鑑を相州刺史・北討大都督とし、葛栄の討伐に赴かせた(時期不明、元淵の死んだ526年9月以降?)。次いで兼尚書右僕射・北道行台・尚書令を追加して、都督の裴衍と共に信都の救援に赴かせた(時期不明、包囲の始まった527年1月以降?)。
 この月、鑑は北魏が多事多難なのを見て密かにニ心を抱いた《魏20元鑑伝》。鄴西の武城を守っていた衍はそれを察し、朝廷に密告した《魏71裴衍伝》。間もなく鑑が鄴(相州)を占拠して叛し、葛栄に降る《魏20元鑑伝》と、その別将の嵇宗が早馬を飛ばして事変を告げた《魏71裴衍伝》
 李憲(長孫稚の代わりに寿陽を守備していたが、陥落の憂き目に遭って捕らえられたのち、北魏に送還されていた)は鑑に娘を嫁がせていた関係があり、胡太后は鑑への見せしめにこれに死を賜った(享年58)《魏36李憲伝》

●琅邪の解放
 彭群・王弁が琅邪を包囲してから(1月参照)季節は春から秋に及んだが、北魏の援軍は未だ来ず、また両青の軍勢もわずかに一万余足らずであったため、鄖城(?)に留まって久しく進軍せずにいた。
 この月、そこで青州刺史の彭城王劭は司馬の鹿悆を、南青州刺史の胡平は長史の劉仁之を派遣して進軍を促した。諸将はそこで直ちに敵陣に突き入り、これを大破して彭群の首を含め首級・捕虜二千余を得ることに成功した《魏79鹿悆伝》
 斉州民の劉均・房頃(須)が三斉を乱し、梁将の彭群・王弁らが辺境を乱したのを防いだのは、まことに彭城王劭の功によるものであった。
 劭はやがて(10月)胡太后の失政と天下の動乱を見て、朝廷を粛清しようと考えるようになったが、安豊王延明に先手を打たれ、朝廷に召還され御史中尉とされた《魏21元劭伝》

●高道穆、難を避く
 己丑(28日)、北魏が大赦を行なった。

 これより前(正光年間〈520〜524〉)、李崇の子の李世哲が相州刺史だった時、彼は父の権勢を笠に着て、民衆を追い立てたり、仏寺を無理矢理移転させたりして土地を売却させ、そこに広大な私邸を建設した。その建物にはどれも屋根に鴟尾(しび、鳥の尾の飾り)がしつらえてあり、また、馬場の囲いの楼には節を持った木像が立てられた。のち父の崇が北征に出立し、世哲も朝廷に召されて兼太常卿となると、侍御史の高道穆(525年4月、崔延伯が戦死した後、蕭宝寅に命じられて朝廷に援軍の要請をした)は相州の査察に赴いてその私邸を捜索し、鴟尾や木像などを全て破却すると共に、乱脈行為を暴いて世哲を弾劾した。世哲一門はこれを恥辱とし、道穆に逆恨みをしてその復讐の機会を待った。
 のち世哲の弟の李神軌が太后に寵愛されて権力の座に就くと、道穆の兄の高謙之の家奴に訴良(良民であったのに無理矢理奴婢にされた者が、そのことを訴えること)させ、神軌はこれを認めて謙之を獄に繋いだ。
 そして現在大赦が下ると、神軌は太后に意見してその前に謙之に死を賜ってしまった(享年42)。朝士の中でその死に哀しまぬ者はなかった《魏66李世哲伝、魏77高謙之・道穆伝》

 一方道穆は兄の死を聞くや心中不安となり、侍中で長楽王の元子攸(生年507、時に21歳)のもとに身を寄せることにした。子攸は道穆を特に敬慕していたため、喜んで彼を屋敷の中に入れ匿った。しかし間もなく子攸が兄の彭城王劭に連座して(10月)衞将軍・左光禄大夫・中書監に転出させられると、道穆は一家を挙げて済陰に逃れ、姓名を変えて東平の畢氏のもとに行き来し、難を避けることにした《魏77高道穆伝》
 元子攸は、彭城王勰の第三子である。母は李妃。幼い頃から孝明帝に近侍してその読書に付き合った。彼は成長するに従い、非常に美しい容貌と上品な人柄を備えるようになった。中書侍郎・城門校尉・兼給事黄門侍郎となり、常に孝明帝から親密な待遇を受け、長く禁中に宿直した。のち散騎常侍・御史中尉に昇進した。
 孝昌二年(526)8月、長楽王に封じられた。のち侍中・中軍将軍となった。

●安楽王の最期
 8月、北魏が都督の源之雍・李神軌・裴衍に鄴を攻撃させた。子雍が湯陰に達すると、元鑑は弟の元斌之に夜襲をかけさせたが、子雍はこれを撃退し、勢いに乗じて安陽を通り《北斉22李愍伝》直ちに鄴城を攻囲した《魏41源子雍伝》
 丁未(17、鄴城が陥落し、鑑は斬られて首を洛陽に送られた。朝廷は鑑の姓を拓跋に改める処分を下した。斌之は葛栄のもとに亡命した《魏20元斌之伝》
 北魏は裴衍を撫軍将軍・相州刺史・仮鎮北将軍・北道大都督として子雍と共に葛榮を討伐させた《魏71裴衍伝》


(3)に続く