[北魏:孝昌元年 梁:普通六年]


●杜洛周の乱


 8月、北魏の柔玄鎮民の杜洛周が徒党を集めて上谷にて叛し、真王と改元して近隣の郡県を攻略した。これに高歓(519年2月参照)・蔡俊・尉景・段榮・安定の彭楽らが皆従った。洛周は北魏燕州刺史で博陵の人の崔秉(生年460、時に66歳)を包囲した。
 9月丙辰(14日)、北魏は幽州刺史の常景に尚書を兼ねさせて行台とし、幽州都督の元譚(趙郡王幹の子)と共にこれを討伐させた。景は盧龍塞より軍都関に到るまでの要地全てに守兵を置き、譚は居庸関を守備した。
 常景は、常爽(439年12月参照)の孫である。


●西方の動乱
 10月、吐谷渾が兵を発して趙天安を攻撃し、天安を降伏させて涼州を再び北魏の物とした(524年に天安は莫折念生に呼応して刺史を捕らえていた)。

 平西将軍高徽が朝使として嚈噠(エフタル)に赴き、帰還して枹罕に到った所で、偶然河州刺史の元祚が逝去した。すると前刺史の梁釗の子の景進が莫折念生の兵を引き入れて州城を包囲したため、長史の元永らは徽を行州事に推してこれを防いだ。景進も行州事を自称した。徽は吐谷渾に援軍を請い、吐谷渾がこれに応じると、景進は敗れて逃走した。
 高徽は、高湖の孫であある。


●南方でも叛乱起こる

 北魏は西・北方において戦乱が起こっていたが、ここに来て南方の二荊・西郢の諸蛮がことごとく叛し、三鴉路を遮断して都督を殺し、略奪をしながら北上して襄城に到った。
 当時汝水一帯には冉氏・向氏・田氏の集落が最も強勢を誇っており、その他の大なる者でも一万家、小なる者でも千家を誇り、それぞれ王侯を自称して要害を占拠したため、南方への交通は全く遮断されてしまった《魏101蛮伝》
 12月壬午(12日)、孝明帝は詔を下して言った。
「朕自ら六軍を率い、流賊らを掃討せんとす。まず先に荊蛮を討ち果たし、南境の秩序を回復したいと思う。」
 時に諸蛮は梁将の曹義宗らを引き入れて北魏荊州の州城を包囲していた。包囲は長期に及び、更に義宗は城を水攻めにしたため、城は数板(一板は約60センチ)を残して水没した。しかし刺史の李神俊は兵民をよく慰撫して力を尽くさせ、これに抵抗を続けていた《魏39李神俊伝》
 北魏の都督の崔暹は数万を率いてこの救援に赴いたが、魯陽に到った所で蛮族に遮られ進軍できなくなった。

 そこで北魏は改めて臨淮王彧を征南大将軍として魯陽蛮を討伐させ、また、司空長史の辛雄を為行台左丞として東方の葉城に赴かせた。また別に、征虜将軍の裴衍と恒農太守で京兆の人の王羆に一万を率いて武関より三鴉路を開通し、荊州を救援させようとした。


○魏孝明紀
 是月,以臨淮王彧為征南大將軍,率眾討魯陽蠻。
○魏39李神俊伝
 時四方多事,所在連兵。蕭衍遣將曹敬宗來寇,攻圍積時,又引水灌城,城不沒者數版。 神儁循撫兵民,戮力固守。詔遣都督崔暹,別將王羆、裴衍等赴援。

●君命を待たず
 武関より出撃する衍らがまだ三鴉路に到達しない内に、彧軍は汝水のほとりに到着すると、蛮族に侵攻されている州郡(北淯郡など)から次々と救援を求める使者がやってきた。しかし彧は『衍らが到達してから共同して諸蛮を攻める』という命令に拘り、これに応じようとしなかった。それを見て辛雄が言った。
「裴衍らの軍が到着していない今、猖獗を極め畿内を脅かす蛮族を討つことができるのは、大王の軍以外にありません。大王は軍権を委ねられて出陣しているのですから、臨機応変に動くべきで、命令などに拘っていてはなりません! 『臣は己の義心に依って行動し、君命を待たない』(『春秋左氏伝』定公4年にも同じ言葉がある)とはこの事です!」
 彧はなおも任務外の行動で失敗したときの責任を恐れ、雄に符令を下してくれるよう頼んだ。雄は孝明帝親征の報を聞いて諸蛮は必ず浮き足立っており、今攻めれば必ず勝てると読んでいたため、求めに応じて彧軍に符令を下し、速やかにこれらを討つように命じた。諸蛮は彧軍が向かってくるのを聞くや、果たして四散して逃走した《魏77辛雄伝》

 孝明帝は自ら出馬して賊を征伐しようとしたが、中書令の袁翻に諫められ思いとどまった。

●信賞必罰
 この時、辛雄が陣中より上疏して言った。
「おおよそ人が戦いにて死を恐れないのは、一に功名を求め、二に多くの賞賜を欲し、三に刑罰を恐れ、四に災難から逃れたいがためであります。この4つの内のどれかが無い限り、たとえ聖王であっても臣下を働かすことができず、慈父であっても子を励ますことができないのであります。
 賢明なる君主はこの人情の機微をよく知っていて、賞罰を厳正に確実に行なうので、親疎・貴賤・勇怯・賢愚を問わず、その臣下たちはみな鐘鼓(銅鑼と太鼓、戦いの号令に用いる)の音を聞くや、旌旗(軍旗)の列を見るや奮激して、争って敵陣に突撃するのです。
 彼らは長生きが嫌いで、早く死ぬのが好きなのでしょうか? いえ、ただ利害が目の前にはっきりと示されているので、やめようとしてもやめられなくなっているだけなのであります。
 さて、現在、秦・隴の地にて叛乱が起き、南方の蛮族が暴れるようになってから既に数年になりますが、これに約数十万人を動員して三方を防衛しても、敗北が多く勝利が少ないのは、全てこの賞罰が明らかでなかったからであるように思います。
 陛下がいくら詔を下し、賞賜をすぐに実行すると宣言しても、実際には将兵が戦功を立ててもなかなか賞賜が下されず、逃亡した者は自宅にて安穏としている有り様で、これでは忠義の士を奮い立たすことができず、逆に凡人を世にはびこらせる事にしかなっていません。賊と死戦しても賞賜が下されず、逃亡しても何も処罰されないのでは、敵に出会えば逃走し、力を尽くさなくなるのが人情というものでしょう。
 陛下がここで今一度腰を据えて自らの言葉に責任を持ち、信賞必罰を行なうようになされば、必ずや軍の士気は上がり,盜賊どもの叛乱は止むでありましょう。
 臣は『食と信のどちらかを必ず捨てないといけないのであれば、食を捨てて信を取る』と聞いたことがあります。この言から考えるに、信は絶対に捨ててはいけないものなのです。
 信賞必罰は陛下が簡単に行なえる事なのに、未だしっかりとする事ができていません。それに比べて、命を投げ出して戦うのは、兵士が難しいとする事なのです。陛下が簡単な事をできないのに、どうして彼らが難しいことをできるのでしょうか?
 臣は凡才ながら、かたじけなくも軍使に任命されましたので、職務上敢えて上聞致しました。陛下がこの意見の可否をよく検討してくれますことを願います。」
 この意見が検討されることは無かった《魏77辛雄伝》

●荊州の戦い
 荊州刺史の李神俊が包囲されると、崔孝芬が代わりに荊州刺史に任じられ、尚書を兼任して南道行台となり、軍司も兼ねて諸軍を率いてその救援に赴いた。孝芬は自軍の兵が少ないのを見て直進せず、恒農の堰渠山道を経由して荊州に入った《魏57崔孝芬伝》
 曹義宗・王玄真らが北魏の順陽・馬圏など荊州の砦を全て攻略し、次いで裴衍・王羆の軍を淅陽に迎え撃った。この時孝芬は弟で別将の孝直に羽林の軽騎兵二千を与えて先行させ、賊の不意を突かせた。梁軍は大敗を喫し、敗走した。かくて荊州の包囲は解かれた※1
 この時、城外には多くの死骸が散乱していた。神俊はこれらを回収し、埋葬した。
 衍らは勝ちに乗じて順陽を取り戻し、更に進んで馬圏を攻囲した。洛州刺史の董紹は馬圏が堅固であり、衍らの兵糧が僅少な事を理由に、上書してその必敗を告げた。間もなく義宗は果たして衍らを攻撃してこれを破り《魏79董紹伝》、順陽の蛮夷を扇動し、近隣を乱したので、崔孝直が兵を率いてこれを迎撃し、退走させた《魏57崔孝直伝》
 のち孝芬が元叉に連座すると、王羆が代わりに荊州刺史となった。

○魏39李神俊伝
 時四方多事,所在連兵。蕭衍遣將曹敬宗來寇,攻圍積時,又引水灌城,城不沒者數版。神儁循撫兵民,戮力固守。詔遣都督崔暹,別將王羆、裴衍等赴援,敬宗退走。時寇賊之後,城外多有露骸,神儁教令收葬之。徵拜大司農卿。
魏57崔孝芬伝
 荊州刺史李神儁為蕭衍遣將攻圍,詔加孝芬通直散騎常侍,以將軍為荊州刺史,兼尚書南道行臺,領軍司,率諸將以援神儁,因代焉。於時,州郡內戍悉已陷沒,且路由三鵶,賊已先據。孝芬所統既少,不得徑進,遂從弘農堰渠山道南入,遣弟孝直輕兵在前,出賊不意,賊便奔散,人還安堵。肅宗嘉勞之,并賚馬及綿絹等物。後以元叉之黨,與盧同、李奬等並除名,徵還。
○魏57崔孝直伝
 孝演弟孝直,字叔廉。身八尺,眉目踈朗。早有志尚,起家司空行參軍。尋為員外散騎侍郎、宣威將,仍以本官入領直後。轉寧遠將軍、汝南王開府掾,領直寢。兄孝芬除荊州,詔孝直假征虜將軍,別將,總羽林二千騎,與孝芬俱行。孝直潛師徑進,賊遂破走。孝芬入城後,蕭衍將曹義宗仍在馬圈,鼓動順陽蠻夷,緣邊寇竊。孝直率眾禦之,賊皆退散。
魏79董紹伝
 加冠軍將軍,出除右將軍、洛州刺史。紹好行小惠,頗得民情。蕭衍將軍曹義宗、王玄真等寇荊州,據順陽馬圈,裴衍、王羆討之。既復順陽,進圍馬圈。城堅,裴王糧少,紹上書言其必敗。未幾,裴衍等果失利,順陽復為義宗所據。紹有氣病,啟求解州,詔不許。
 
※1…崔孝芬関連は本紀や他の列伝には一切出てこず、彼の伝にしか記述がなされていない。崔暹ならよく出てくるのだが…。

 ⑴馬圏…《読史方輿紀要》曰く、『馬圈城は鄧州(北魏の荊州)の東北七十里にある。

●一族への甘さ
 梁の邵陵王綸が南徐州の刺史を代行していたが、感情の起伏が激しく、不法行為を平気で行なっていた。綸はある時市場に遊びに行き、鮎売りに尋ねて言った。
「ここの刺史はどんなお人かな?」
 鮎売りは答えて言った。
「短気でむごい人だね。」
 綸はこれを聞くや怒り、その口に鮎を突っ込ませて殺した。人々はこの所業に恐れおののき、以降路上では口をつぐみ、目配せで会話をするようになった。
 また、ある時霊柩車に会うと、故人の子の喪服を奪ってこれを着、はいはいをして叫びわめいた。
 籤帥(表向きは文書を司る役職だが、実際は王侯の監視が役目)は己に罪が及ぶことを恐れ、武帝に密告した。すると帝は綸を厳しく叱りつけたが、綸の行状に変化が見られなかったため、刺史を交代させた。
 すると綸の反抗的な態度はますます酷くなり、低身痩躯で帝に似ている猿を飼い、これに皇帝の衣冠を着せて高座に座らせ、朝見の真似をして自らの無罪を請うたかと思えば、その衣服を剥ぎ取って庭に転がし、鞭打ったりした。
 更に、ある時には新しい棺に司馬の崔会意を入れて、それを霊柩車に載せ、棺引きの者たちに哀悼歌を歌わせたり、老婆を車上に載せて号泣させたりした。会意はこの屈辱に堪えられず、軽騎にまたがるや都に還って数々の非行を武帝に報告した。
 帝は彼の出奔を恐れ、先手を打って近衛兵にその身柄を拘束させると、獄中にて死を賜おうとしたが、太子統が泣いて何度も諌止してきたので、思いとどまった。
 戊子(18日)、綸の官爵を剥奪した。

○梁29・南53邵陵携王綸伝
 邵陵攜王綸字世調,〔小字六真,〕高祖第六子也。少聰穎,博學善屬文,尤工尺牘。天監十三年,封邵陵郡王,邑二千戶。出為寧遠將軍、琅邪彭城二郡太守,遷輕車將軍、會稽太守。十八年,徵為信威將軍。普通元年,領石頭戍軍事,尋為江州刺史。五年,以西中郎將權攝南兗(徐)州〔事〕,坐事(在州輕險躁虐,喜怒不恒,車服僭擬,肆行非法。遨遊巿里,雜於厮隸。嘗問賣䱇者曰:「刺史何如?」對者言其躁虐,綸怒,令吞䱇以死,自是百姓惶駭,道路以目。嘗逢喪車,奪孝子服而著之,匍匐號叫。籤帥懼罪,密以聞。帝始嚴責,綸不能改,於是遣代。綸悖慢逾甚,乃取一老公短瘦類帝者,加以衮冕,置之高坐,朝以為君,自陳無罪。使就坐剝褫,捶之於庭。忽作新棺木,貯司馬崔會意,以轜車挽歌為送葬之法,使嫗乘車悲號。會意不堪,輕騎還都以聞。帝恐其奔逸,以禁兵取之,將於獄賜盡。昭明太子流涕固諫,得免)免官奪(削)爵〔土還第〕。

●劉蠡升の乱
 これより前、汾州(蒲子。平陽の西北二百八十里、延安の東百三十里)の吐京郡(蒲子の北九十五里、西河の西南二百里)の群胡の薛羽らが叛乱を起こすと、北魏は尚書考功郎中の裴良を西北道行台尚書左丞とし、〔討伐を命じた。〕別将の李徳龍が羽に敗れると、良は汾州に入って刺史の汝陰王景和汝陰王天賜の孫)と徳龍と共に数千の兵を率いて州城に立て籠った。羽が城を激しく攻め立てると、北魏は西北道行台の裴延儁と西北道大都督の章武王融、西北道都督の宗正珍孫らを援軍として派遣した。
 この時、五城郡(蒲子の西南百六十里→定陽の北六十里)の山胡の馮宜都賀悦回成らが妖術を用いて人々を洗脳し、叛乱を起こした。〔宜都は〕皇帝を称し、白衣を着、車に白傘と白幡(のぼりばた)を付けて雲台郊にて官軍に抵抗した。章武王融はこれと戦ったが、軍事に疎かったため大敗を喫した。宜都は勝利に乗じて州城を包囲した。すると良は出撃してこれを大破し、回成を斬った。更に諸胡を説得して宜都を殺させ、首を送らせた。
 この月、雲陽谷に住む山胡[1]劉蠡升が叛し、天子を自称して年号を神嘉とし、百官を置いた。蠡升は聖術の使い手を自称し、胡人はみなこれを信じ切っていたので、挙兵してから短時日の内に汾州の叛乱軍の勢いは再び盛んになった。
 徳龍らは州城を放棄することを提議したが、良が拒否すると思いとどまった。やがて景和が亡くなると、北魏は良を汾州刺史とし、輔国将軍を加え、行台はそのままとした。のち都督の高防が援軍としてやってきたが、百里候にて敗れてしまった。これより前、汾州は官府の穀物を貧民に貸し与えていたが、秋の取り立ての前に叛乱に遭ったため、州城の人々は大いに飢え、食人行為が始まった。叛乱軍は州城の倉庫が空っぽであることを知ると、日に日に激しく攻撃を行なうようになったので、城内の死者は三・四割に及ぶまでに至った。良は飢えに苦しんだ事でやむなく城民と共に西河(蒲子の東北二百七十里、晋陽の西南二百里)に逃れた。汾州の治所が西河になったのは、良の時からだった。

 良(生年475、時に51歳)は〔河東の名門の裴氏の出で、〕太常卿の裴延儁の従祖弟で、字を元賓という。出仕して奉朝請とされ、のち北中府功曹参軍とされた。宣武帝在位499~515)の初めに南絳県令とされ、のち次第に昇進して并州安北府長史とされ、のち中央に入って中散大夫・尚書考功郎中とされた。

 正光(520~524)の末期、汾州の吐京群胡の薛悉公馬牒騰が共に自立して王を名乗り、徒党を集めて叛乱を起こした。その数は数万にまで至った。北魏は員外散騎侍郎の裴慶孫を募人別将とし、郷里にて募兵を行なわせ、その兵を以て討伐をさせた。慶孫は募兵の結果数千の兵を得た。慶孫は陣頭で指揮を執り、たびたびやってくる胡賊を蹴散らし、敵地奥深くの雲台郊にまで到った。すると諸賊は改めて連合し、郊西にて一大決戦を行なった。戦いは朝から晩までに及び、慶孫が自ら敵陣に突入して賊王の郭康児を斬ると、賊軍は総崩れになった。のち朝廷は慶孫を都に呼び、直後とした。
 のち、胡賊は再び結集し、北は劉蠡升と、南は絳蜀と連携し、勢いを盛り返した。そこで北魏は再び慶孫を別将とし、軹関経由で討伐させた。慶孫が斉子嶺の東に到ると、賊帥の范多・范安族らが迎撃してきたが、慶孫はこれを破って多の首を斬った。勝利に乗じて二百余里も進攻し、陽胡城にまで到った。北魏はこの地が山と河に守られた要害の場所であることを以て、孝明帝の治世(515~528年)の末期に邵郡を設置し、慶孫をその太守とし、仮節・輔国将軍・当郡都督とした。郡民は戦乱の結果土地を離れて減少していたが、慶孫が生活の安定に努めると、避難していた人々はみな帰って生業に復した。

 慶孫は裴良の従父兄の子で、字を紹遠という。若年の頃に父を喪った。度量が大きく、約束したことは必ず実行した。

 この月、北魏が臨淮王彧を征南大将軍とし、魯陽蛮を討伐させた。

○魏孝明紀
 山胡劉蠡升反,自稱天子,置官僚。是月,以臨淮王彧為征南大將軍,率眾討魯陽蠻。
○北斉神武紀
 初孝昌中,山胡劉蠡升自稱天子,年號神嘉,居雲陽谷,西土歲被其寇,謂之胡荒。
○魏19章武王融伝
 汾夏山胡叛逆,連結正平、平陽,詔復融前封,征東將軍、持節、都督以討之。融寡於經略,為胡所敗。
○魏69裴延儁伝
 至都未幾,拜太常卿。時汾州山胡恃險寇竊,正平、平陽二郡尤被其害,以延儁兼尚書,為西北道行臺,節度討胡諸軍。尋遇疾,敕還。
○魏69裴良伝
〔裴〕延儁從祖弟良,字元賓。起家奉朝請,轉北中府功曹參軍。世宗初,南絳縣令,稍遷并州安北府長史,入為中散大夫,領尚書考功郎中。
 時汾州吐京羣胡薛羽等作逆,以良兼尚書左丞,為西北道行臺。值別將李德龍為羽所破,良入汾州,與刺史、汝陰王景和及德龍率兵數千,憑城自守。賊併力攻逼,詔遣行臺裴延儁,大都督、章武王融、都督宗正珍孫等赴援。時有五城郡山胡馮宜都、賀悅回成等以妖妄惑眾,假稱帝號,服素衣,持白傘白幡,率諸逆眾,於雲臺郊抗拒王師。融等與戰敗績,賊乘勝圍城。良率將士出戰,大破之,於陣斬回成,復誘導諸胡令斬送宜都首。又山胡劉蠡升自云聖術,胡人信之,咸相影附,旬日之間,逆徒還振。德龍議欲拔城,良不許,德龍等乃止。景和薨,以良為汾州刺史,加輔國將軍,行臺如故。都督高防來援,復敗於百里候。先是官粟貸民,未及收聚,仍值寇亂。至是城民大飢,人相食。賊知倉庫空虛,攻圍日甚,死者十三四。良以飢窘,因與城人奔赴西河。汾州之治西河,自良始也。
○魏69裴慶孫伝
〔裴〕良從父兄子慶孫,字紹遠。少孤,性倜儻,重然諾。釋褐員外散騎侍郎。
 正光末,汾州吐京羣胡薛悉公、馬牒騰並自立為王,聚黨作逆,眾至數萬。詔慶孫為募人別將,招率鄉豪,得戰士數千人以討之。胡賊屢來逆戰,慶孫身先士卒,每摧其鋒,遂深入至雲臺郊。諸賊更相連結,大戰郊西,自旦及夕,慶孫身自突陳,斬賊王郭康兒。賊眾大潰。敕徵赴都,除直後。
 於後賊復鳩集,北連蠡升,南通絳蜀,兇徒轉盛,復以慶孫為別將,從軹關入討。至齊子嶺東,賊帥范多、范安族等率眾來拒,慶孫與戰,復斬多首。乃深入二百餘里,至陽胡城。朝廷以此地被山帶河,衿要之所,肅宗末,遂立邵郡,因以慶孫為太守、假節、輔國將軍、當郡都督。民經賊亂之後,率多逃竄,慶孫務安緝之,咸來歸業。
○周49稽胡伝
 魏孝昌中,有劉蠡升者,居雲陽谷,自稱天子,立年號,署百官。屬魏氏政亂,力不能討。蠡升遂分遣部眾,抄掠居民,汾、晉之間,畧無寧歲。

 [1]山胡…山胡は、汾州の稽胡の事である。

●斛律金
 勅勒酋長の斛律金(生年488、時に38歳)は、誠実で実直な人柄で、騎射が上手く、匈奴の兵法を戦いに用い、敵が巻き上げた土煙でその規模を知ることができ、風が運ぶ臭いでその位置を測ることができた。
 初め懐朔鎮将の楊鈞の軍主となり、彼と共に阿那瑰を故地に送った時、瑰は猟において金の射術の巧みさに感嘆した。のち瑰が高陸に侵攻すると、金はこれを迎え撃って撃破した《北斉17斛律金伝》
 破六韓抜陵が叛乱を起こすと、金は部眾を率いてこれに付き、王に封じられた。しかし金は抜陵がいずれ敗滅すると考え、のち部衆一万戸と共に抜陵に背いて北魏に付き、雲州に赴いた。北魏は金を第二領民酋長に任じ、秋に京師に参内し、春に部落に還る特典を与えた(爾朱氏は冬に参内し夏に還る)ので、人々は金を『雁臣』と称した(雁は春になると北に還る)。間もなく漸次南下した所で黄瓜堆(平城の南)にて杜洛周に敗れ、兄の斛律平と二人だけになって爾朱栄のもとに逃れると、栄は金を別将とした※1《北54斛律金伝》

※1…『通鑑』ではこの出来事をここに置いているが、杜洛周がいきなり平城の南まで進攻できるとは思えないので、適当ではないように思われる。


526年(1)に続く