●七月生児
 これより前、梁の武帝が南斉を滅ぼし(502年)東昏侯(蕭宝巻、南斉6代皇帝)の寵姬の吳淑媛を後宮に入れると、それからたった7ヶ月にして豫章王綜が産まれたため(基本約10ヶ月)、宮中の者の多くがその出自を疑った。のち武帝の寵愛が薄れると、淑媛は武帝に恨みを抱くようになった。
 綜は14,5歳になった時から、太った年若い男が己の首をぶら下げて綜の前に現れる夢を何度も見るようになり、心底驚いてやまなかった。そこで密かにこの事を淑媛に尋ねて言った。
「この夢は一体何なのでしょうか?」
 淑媛がその夢に出てくる男の姿形を尋ねると、特徴が非常に東昏と合致した。淑媛は感ずる所があり、そこで密かに綜にこう言った。
「お前は7ヶ月で産まれた子で、本来なら諸皇子と同じ待遇をされる身では無かったのですが、幸い太子の次弟と認められ、富貴の身分となったのです。この事は決して誰にも漏らしてはなりませんよ!」
 かくて綜と抱き合って泣いた。綜はこれ以来己の出自について疑問を抱くようになり、昼間はいつものように談笑していたが、夜になると静かな部屋に籠り、髪をザンバラにして筵の上に座り、涙を流して哀悼の意を表した。

 綜は南徐州に赴任した時(517年)、別室にて密かに南斉7代の皇帝たちを祀るまでになったが、ある時確証を得ようとして、庶民の服に着替え、人目を避けて曲阿にある南斉の高宗(明帝蕭鸞、南斉5代皇帝。東昏侯の父)陵に詣でると、『骨に血を垂らして、染みこめば父子』という俗説を試した。即ち密かに東昏侯の墓を暴いてその骨に血を垂らし、また己の年端もいかぬ次男を殺して地面に埋め、骨となった所でこれにも血を垂らしたのである。するとどちらも俗説の通り染み込む結果となった。かくてこれより綜は常に異志を抱き、ひたすらその時機が来るのを伺うようになった。
 綜はそこで度々折を見ては武帝に辺境の任務に就かせてくれるよう求めたが、帝はこれを許可しなかった。王侯妃主及び宮外の人々は皆その意図に気づいていたが、武帝は己の気難しさが災いして知らされることが無かった。

 南兗州刺史となると(523年)、賓客が来ても会おうとせず、訴訟を採決する時も簾越しに行ない、外出する時は垂れ幕のある輿に乗って顔を人に見せるのを嫌った。更に蕭宝寅に密使を遣わして叔父と呼び(宝寅は東昏の父・明帝の子)、鎮所と共に北魏に降る約定を取り交わした。

 綜は勇気があって力が強く、素手で暴れ馬を抑えることができた。更に常に居間に砂を敷き詰めて一日中その上を素足で歩き、足裏をタコだらけにして鍛え、一日に三百里を踏破できるまでになった。また蓄財を軽んじて士人と交際するのを好み、自分は古着だけを着て、残りの衣服を全て分け与えるなどしたため、常に生活に困窮していた《梁55・南53蕭綜伝,魏59蕭賛伝》

●彭城逼迫
 そして現在彭城の統治を任されると、北魏は安豊王延明・臨淮王彧に二万(南61陳慶之伝では十万)を与えて彭城に攻撃させた(正月参照)。延明は別将の丘大千を先行させて潯梁に砦を築かせ、近辺の偵察をさせた。陳慶之は進撃してこの砦を攻め、一息に陥とした(詳しい時期は不明)《梁32陳慶之伝》
 延明はこれより前に徐州刺史となっていて、非常に民からの評判が良かったため、彼が徐州に帰順工作を行なうと、多くがこれに応じた《魏20元延明伝》
 しかしこの調略優先の方針が孝明帝にはぐずぐずしているように見え(正月に出発し、現在5月)、そこで辛雄を太常少卿の元誨(生年506、時に20歳)に添え、斉庫刀(千牛刀)を持たせて持節とすると、直ちに進軍するように催促させ、違えば斬ってもよいと言った。その際、帝は雄にこう言った。
「誨は、朕の家の諸子(孝明帝と同じ孝文帝系。孝明帝のいとこ)であり、とても親しい間柄であるから名目上正使としただけである。計略を立てて軍を勝利に導くのは、そなたにかかっている。」
 軍に到着すると、督促してこれを徐州に進軍させた《魏77辛雄伝》。延明は蕭城に本陣を置いた《南53蕭綜伝》
 武帝は綜や彭城軍が敵の手に落ちるのを恐れ、綜に軍を率いて帰還するように命じた。綜は南に帰ればもう二度と北辺に行く機会が無くなると危惧し、そこで密使を遣わして彧に投降の意志を示した。

●鹿悆入城
 綜は武帝の愛児という評判だったため、北魏軍中は一様にこの投降に不信の念を抱き、彧が彭城に入ってその真偽を確かめる者を募っても、誰も手を挙げなかった。その中でただ一人、殿中侍御史で時に彧の監軍となっていた、済陰の人の鹿悆のみが志願して言った。
「もし綜の心が本当ならば、これと約定を交わしてきましょう。もし偽りだったとしても、ただ一人の男を失うだけのこと。どうして命を惜しんだりしましょうか!」
 時に徐州は失陥したばかりで梁軍の警戒が強く、また綜の部将の成景俊・胡龍牙は共に精鋭の兵を率いてかなりの防衛態勢を築いていた。その中を悆が単騎間道を通って彭城に直行すると、案の定、綜の将軍の程兵潤に捕らえられてしまった。
 兵潤が何をしに来たか尋問すると、悆は答えて言った。
「交戦していても、古来より使者のやり取りはしたものです。私は臨淮王の使者であり、その伝言にやってきました。」
 兵潤がそこでまず人をやって龍牙等にこの事を伝えさせた所、既に投降の意志を固めていた綜は景俊らにこう語って言った。
「私は常日頃、元略が彭城を手土産に降伏しようとしているのではないかと疑っていて、その真偽を確かめるために、側近の者を元略の使いと称して北魏軍中に到らせ、彼一人を呼んでみさせていたのだ。果たして彼が来たからには、誰かに略の振りをさせて、病気で会えないということにして、奥の部屋に引っ込ませ、戸外にてやり取りをさせる事にしようと思う。」
 時に元略は武帝の命によって建康に帰還したばかりだった(3月参照)。綜は更に腹心の梁話に悆を迎えさせると、密かに己の投降の意志が本当である事や、元略云々の事を説明させておいた。それから悆を連れて入城させると、龍牙のもとに赴かせた。
 時に日は既に暮れており、龍牙は松明を持たせた兵士の列の中に悆を招いて言った。
「元中山(略)が非常にそなたに会いたいと言っていたから呼んだのだ。」
 更にこう言った。
「安豊・臨淮の将少なく兵弱く、この城を収復したいと願ってもまず無理だろうな!」
 悆は言った。
「彭城は魏の東辺にて、必ず係争の地となる所。それを得るか得られないかは天が決めたもう所であり、人の推測できる所ではありますまい。」
 龍牙は言った。
「そなたの言う通りだ。」
 次いで景俊の屯所に訪れると、悆はその外門にて長い間待たされた。時に夜も更けて、星月がとても明るく輝いていた。綜の将軍の姜桃来が悆に語って言った。
「あなたは年を召されているのに、今使者となられ、よくぞここまで来られた。さて、元法僧は魏氏の遠い血筋の者であるのに、城と共に梁に帰順すると、陛下はこれをとても厚遇された。」
 そこで手を挙げ、天空を指差して言った。
「今歲星(木星)は斗宿の地に位置している。斗宿は、呉の分野である。君はどうして梁国に帰順しないのか、私は君を富貴にしてやるぞ。」
 悆は答えて言った。
「君は一を知って、二を知りませんな。法僧は莒僕(春秋時代の莒国の太子。太子の座を廃されると父を殺し、宝玉を持ち去って魯に亡命した)の類いで、梁はこれを受け入れましたが、季孫(季孫行父。魯の大臣で、莒僕を不徳のかどで追放した)に顔向けできるのでしょうか? また、今月は北斗が鶉首(東南)を指し示す月であり、斗牛(東南にある星座、つまり東南の勢力)を破ることを示します。歲星は五行では木に相当し、水徳の魏が逆にこれに勝つことを示しています。君の呉国が敗れるのは間もなくです。君の知識は錦を着て夜遊ぶようなもの、有識者の目はごまかせませんぞ。」
 言葉がまだ言い終わらない内に、景俊に呼ばれて引見された。景俊は言った。
「元中山がそなたを呼んだとはいえ、よく恐れずに来たものだな?」
 悆は答えて言った。
「昔楚が呉を討った時、呉王は弟の蹶由にその説得に赴かせましたが、蹶由はそれを全く恐れませんでした。今回の行ないは、おおよそ彼と同じものです。」
 更にこう言った。
「私は長らく遊学していましたから、この機会にあなたに教えてあげましょう。」
 そこで由縁について述べると、景俊は直ちにそれを記録した。それから悆を同席させると、こう言った。
「そなたはよもや刺客ではあるまいな?」
 答えて言った。
「今私は使者として来ているのですから、無事帰還して臨淮王に復命するのが望みです。刺し違えるのは、また別に機会があったらですな。」
 次いで食事が運ばれてくると、悆は暴飲暴食して数人分も食べたが、あまり自慢にする事もなかった。それを見て梁の人々は口々にこう言い合った。
「壮士だな!」
 かくて元略の所に連れていかれると、門内にて座っているよう指示された。それから部屋より使者が現れて、悆に言った。
「中山王からの伝言である。よく聞くのだ。」
 悆がそこで起立すると、使者は悆にこう言った。
「君は座っていたまえ。」
 悆は言った。
「我が国の王子のお言葉を聞くのに、どうして座ったままでいられましょうか。」
 使者はそこで言った。
「『君には謝罪しなければならぬ。今そなたを呼んだのは、長らく南に居て離れていた郷里の事を聞きたかったからであったが(元略が梁に亡命したのは520年8月)、昨晩突然に病気に罹り、顔を合わせられなくなってしまったのだ。』」
 悆は言った。
「明け方王の伝言を受けて、危険を冒してここまで来ましたのに、今お会いする事ができないのは納得できませんな。」
 かくてその場を辞して去った。
 間もなく夜明けとなる頃、綜の将軍の范勗・景俊・司馬楊㬓らが競うようにして北朝の兵馬の数を尋ねてきた。悆はそこで言った。
「秦・隴の地は既に平定され、東・西・北が安寧となった今、高車・白眼・羌・蜀の兵を合わせて五十万を、斉王・李陳留(崇)・崔延伯・李叔仁らが率いて三道より直ちに江西に赴いており、また、安楽王鑑・李神が冀・相・斉・済・青・光・羽林の兵十万を率いて、直ちに琅邪より南に向かっている所であります。」
 諸将は口を揃えてこう言った。
「それは大ボラではないか?」
 悆は言った。
「いずれ分かることです。どうしてホラなど吹きましょうか!」
 かくて帰途についた。景俊はこれを戯馬台上まで見送ると、北にある彭城の城壁を遠望して言った。
「彭城の堅固なる事かくのごとし。真に魏軍がどうこうできる代物ではない。そなたは二王に対し、撤退して後図を策するよう勧めるべきだな。」
 悆は言った。
「いくら金城湯池の如き堅城であっても、攻守の根本は人如何にあります。堅固さを論じても意味がないでしょう。」
 悆は帰還する途上で、再び綜の腹心の梁話と打ち合わせを行なった《魏79鹿悆伝》

 6月庚辰(7日)、綜は梁話と淮陰の苗文寵と共に夜陰に紛れて城を出ると、徒歩で彧軍に身を投じた。
 翌朝、綜の寝室の扉が開かれないのを梁将が不審に思っていた時、城外より北魏軍が叫んで言った。
「お前たちの豫章王は昨晩既に降ったぞ! お前たちはこの上何をするつもりだ!」
 城中がそこで綜を慌てて探し求めても見つからなかったため、遂に梁軍は崩壊四散した《南53蕭綜伝》
 梁軍が潰走すると、延明らは彭城に入城したのち、勝ちに乗じて梁軍を追撃して諸城を収復し、宿預にまで到った所で引き返した《魏20元延明伝》。梁軍の戦死者は7,8割に達したが、唯一、陳慶之の部隊だけは一兵も失うことなく帰還した。



 武帝はこれを聞くや驚愕し、慟哭のあまり気絶した。のち8月になって、係役人が綜の爵位や封土を没収し、皇籍から除名して、子の蕭直の姓を悖(もとる、そむく、さからうという意味)氏に改めるよう奏請してくると、帝はこれを認めた。しかしそれから10日も経たない内に、帝は詔を下して綜を皇籍に復帰させ、直を永新侯とした《南53蕭綜伝》。非常に恥をかかされたのに、帝がまだ綜を自分の子だと言い、反逆したのも病気のせいだと言ってやまないのを、当時の人々は皆笑いものとした《魏98蕭衍伝》

┃梁政弛緩

 梁の西豊侯正徳は北魏より帰還した(522年12月参照)のちも改心することがなかった。


 武帝は年老い、政治に嫌気が差して仏教にのめり込むようになると、重罪人を処断した際、一日中鬱々として喜ばなかった。

 ある時、南苑の光宅寺に遊んだ際(518年)、〔弟の〕臨川王宏西豊侯正徳の父)が驃騎橋(東府城南)下に人を伏せ、夜にやってくるのを待って暗殺を図った。しかし、帝は胸騒ぎを感じ、朱雀航を通って帰還したので失敗した。間もなく暗殺者が捕らえられて事が発覚すると、担当官は死刑を求刑した。すると帝は泣いて宏を責め立てて言った。

「我が才能はお前の百倍(隋書では『十倍』)はあるが、それでも天子の座にいる事にいつも戦々恐々としているのだ。なのに、お前は何様のつもりで天子になろうとしたのか? 私は別に周公・漢文のように〔お前を殺す事は〕できなくはないのだ。ただ、お前の愚かさを憐れんでやらないだけなのだぞ!」

 宏は頓首して言った。

「私はやっていません、やっていません!」

 かくて罪を以て免官としたが、間もなく復職させてしまった。

 以後、王侯は天子の暗殺未遂でも赦されたのだからと無法ぶりをいっそう甚だしくした。

 当時、勲豪(功臣や王侯貴族)の子弟は驕りたかぶり、好き放題に暴れまわっていた。特に東府の正徳・楽山侯正則、潮溝(建康城近北董当門の子の董暹世間に董世子と呼ばれる)、南岸(秦淮河の?)の夏侯夔の世子の夏侯洪がおり、この『四凶』が人民を大いに苦しめていた。彼らは戸籍を抜けた者たちを多く抱え、夕暮れ時の砂埃が舞う時に路上で強姦・強盗・殺人を働き、これを『打稽』(稽は調査、或いは木の矛の意?)と称した。親たちはこれを抑えることができず、御史中尉や警察、果ては武帝でさえもこれを取り締まることができなかった。

〔彼らはまた立派な〕車服牛馬〔を用い、〕『西豊の駱馬(黒いたてがみの白馬)』『楽山の烏牛』と称された。董暹は金帖(帳? 垂れ布)を以て戦襖(陣羽織?)をこしらえ、その価値は七百万銭に相当した。正則は常に屋敷内に民を拘留して馬を養わせ、更に貨幣を偽造した。

 のち、正則は強盗を働いた際僧侶を殺した者を匿った罪で嶺南に流され(528年)、〔そこで叛乱を起こして〕死に(531年)、洪は父の夔の奏請により東冶(兵器製作所)に収監されて徒刑中に死んだ。暹は永陽王妃の王氏と不倫をして誅殺された。三人が除かれた事で建康の人々はやや安堵したが、正徳の暴虐ぶりはおさまることが無かった。

 

 また、今回の北伐では軽車将軍として綜に従ったが、梁軍が敗れると真っ先に軍を棄てて身一つで還った。武帝もこれは容赦できず、詔を下して言った。

「お前は昔朕の養子であったから、可愛がって、お前の兄に先んじて爵位を授けたのだ。また、昔、お前が蜀にいた頃、小人を近づけていたが、心が完成していない少年のやる事だからと考えて怒らなかった。〔しかるに、お前は心を改めることなく、〕呉郡では無辜の民を殺戮し財物を奪い、堂々として憚る色を見せなかった。また、都に帰ると亡命者を積極的に受け入れ、〔彼らを使って〕江乗や湖畔の要路にて通行人を襲わせたため、都の人々は暗くなる前に早くも家に引きこもり充分に明るくなってから遅く外出する生活を強いられた。また、人の妻妾や子どもをさらい、徐敖は配偶者を喪っただけでなく、路上に屍を晒すこととなり、大臣である王伯敖の娘さえもさらわれて侍妾とされた。朕は常にこれをおおやけにせずいつか改心する事を期待したが、結局お前は心を改めないばかりか、一層怨恨の情を抱き、遂に単騎出奔して(522年に北魏に亡命した事を指す)恩を仇で返した。朕が慰問の使者を派遣して帰ってくるのを待っていることを伝えると、果たしてお前は帰ってきて朕の望みを叶えてくれた。朕はそこでお前が読書を好まず、戦場で功を立てる事を望んでいるのを思い出し、兵を率いさせて先鋒としたが、あにはからんや、お前は未だに邪心を改めず、国家の大計を誤らせるのを喜びとしていた。今、お前の罪を赦して遠方に流罪にするに留める。また、行く先々で食糧も支給させる。お前の新妻や子の見理らは太尉府に留め、その他の家族についてはみな同行を許す。」

 かくて官爵を剥奪して臨海郡に流罪としたが、到着する前に使者を派して赦免してしまった。


○資治通鑑

 西豐矦正德自魏還,志行無悛,多聚亡命,夜剽掠於道,以輕車將軍從綜北伐,弃軍輙還。上積其前後罪惡,免官削爵,徙臨海;未至,追赦之。

○隋刑法志

 武帝敦睦九族,優借朝士,有犯罪者,皆諷羣下,屈法申之。百姓有罪,皆案之以法。其緣坐則老幼不免,一人亡逃,則舉家質作。人既窮急,姦宄益深。後帝親謁南郊,秣陵老人遮帝曰:「陛下為法,急於黎庶,緩於權貴,非長久之術。誠能反是,天下幸甚。」帝於是思有以寬之。

 …帝銳意儒雅,疎簡刑法,自公卿大臣,咸不以鞫獄留意。姦吏招權,巧文弄法,貨賄成市,多致枉濫。大率二歲刑已上,歲至五千人。是時徒居作者具五任,其無任者,著斗械。若疾病,權解之。是後囚徒或有優劇。

 …是時王侯子弟皆長,而驕蹇不法。武帝年老,厭於萬機,又專精佛戒,每斷重罪,則終日弗懌。嘗遊南苑,臨川王宏,伏人於橋下,將欲為逆。事覺,有司請誅之。帝但泣而讓曰:「我人才十倍於爾,處此恒懷戰懼。爾何為者?我豈不能行周公之事,念汝愚故也。」免所居官。頃之,還復本職。由是王侯驕橫轉甚,或白日殺人於都街,劫賊亡命,咸於王家自匿,薄暮塵起,則剝掠行路,謂之打稽。武帝深知其弊,而難於誅討。

○南51臨川靖恵王宏伝

 十七年,帝將幸光宅寺,有士伏於驃騎航待帝夜出。帝將行心動,乃於朱雀航過。事發,稱為宏所使。帝泣謂宏曰:「我人才勝汝百倍,當此猶恐顛墜,汝何為者。我非不能為周公、漢文,念汝愚故。」宏頓首曰:「無是,無是。」於是以罪免。

○南51臨賀王正徳伝

 正德志行無悛,常公行剝掠。時東府有正德及樂山侯正則;潮溝有董當門子暹,世謂之董世子者也;南岸有夏侯夔世子洪。此四凶者,為百姓巨蠹,多聚亡命,黃昏多殺人於道,謂之「打稽」。時勳豪子弟多縱恣,以淫盜屠殺為業,父祖不能制,尉邏莫能禦。車服牛馬,號西豐駱馬,樂山烏牛。董暹金帖織成戰襖,直七百萬。後正則為劫,殺沙門,徙嶺南死。洪為其父夔奏繫東冶,死於徒。暹坐與永陽王妃王氏亂,誅。三人既除,百姓少安。正德淫虐不革,尋除給事黃門侍郎。

 六年為輕車將軍,隨豫章王北侵。正德輒棄軍委走,為有司所奏下獄。帝復詔曰:「汝以猶子,情兼常愛,故越先汝兄,剖符連郡。往年在蜀,昵近小人,猶謂少年情志未定。更於吳郡殺戮無辜,劫盜財物,雅然無畏。及還京師,專為逋逃,乃至江乘要道,湖頭斷路,遂使京邑士女,早閉晏開。又奪人妻妾,略人子女,徐敖非直失其配匹,乃橫屍道路;王伯敖列卿之女,誘為妾媵。我每加掩抑,冀汝自新,了無悛革,怨讎逾甚。遂匹馬奔亡,志懷反噬。遣信慰問,冀汝能還,果能來歸,遂我夙志。謂汝不好文史,志在武功,令汝杖節,董戎前驅。豈謂汝狼心不改,包藏禍胎,志欲覆敗國計,以快汝心。今當宥汝以遠,無令房累自隨。敕所在給汝稟餼。王新婦、見理等當停太尉間,汝餘房累悉許同行。」於是免官削爵土,徙臨海郡。未至徙所,道追赦之。

○南51楽山侯正則伝

 正則字公衡,天監初,以王子封樂山侯。累遷太子洗馬、舍人。恒於第內私械百姓令養馬,又盜鑄錢。大通二年,坐匿劫盜,削爵徙鬱林。帝敕廣州日給酒肉,南中官司猶處以侯禮。


 ⑴西豊侯正徳…蕭正徳。字は公和。父は梁の武帝の弟の臨川王宏。父と同じく問題行動が多かった。子の無い武帝の養子とされたが、501年に蕭統が生まれるとお払い箱とされ、502年、西豊侯とされた。これを不満に思い、522年、北魏に逃亡し、怒った帝に背氏に改姓された。のち、厚遇されなかったため梁に還り、帝の赦しを得た。
 ⑵周公・漢文のように…周公旦は三兄の管叔鮮・五弟の蔡叔度・八弟の霍叔処らの叛乱を平定すると、叔鮮を誅殺し、叔度は配流、叔処は平民に落とした。前漢の文帝は弟の淮南王長を叛乱を計画した罪で捕らえると、爵位を剥奪して蜀に配流するに留めたが、長は結局護送車の中で死亡した。
 ⑶潮溝…《読史方輿紀要》曰く、『潮溝は上元県(南京城東北)の西四里にある。長江の水を青渓(上元県の東六里。秦淮水と玄武湖を繋ぐ)まで引き入れるために呉の赤烏年間に開削されたものである。〔南は〕秦淮水(建康近南を流れ長江に注ぐ)に接し、西は運瀆(上元県治の西北。秦淮水から建康の近西を流れる)に通じ、北は後湖(玄武湖)に連なっている。五代の時に廃された。今(明)、青渓の西、鶏籠山の東南の辺りに名残がある。』
 ⑷正徳伝に蜀に行った記述は無く、父が益州に行った記述も無い。
 ⑸正徳が呉郡太守となったのは、梁書正徳伝では中大通四年〈532〉のこととなっている。しかし梁書の正徳伝は年の記載に誤りがあるのでここも誤りなのかもしれない。或いは記述が無いだけで532年の前に呉郡太守とされた事があったのかもしれない。

┃江革の忠義

 綜が洛陽に到り孝明帝に謁見すると、金陵館に住まいを与えられ、そこで父・東昏侯のために哀悼の儀式を行なって、三年の喪に服す事にした。太后は高官を連れて金陵館に弔問に訪れると、彼に非常に手厚い賞賜・礼遇を与え、司空に任じ、高平郡公・丹陽王に封じた上、賛と改名することを許した。

 また、彼の腹心の苗文寵・梁話も共に光禄大夫に任じられた。

 また、鹿悆を定陶県子に封じ、員外散騎常侍とした。

 綜の長史で済陽の人の江革と、司馬で范陽の人の祖暅之は将兵五千人と共に北魏の捕虜となっていたが、延明は彼らの評判を伝え聞いていたため厚遇した。しかし革は足の病気を理由に拝礼をしなかった。延明は暅之に欹器(訓戒用の器)と漏刻(水時計)の銘を作らせた。革はこれを聞くと暅之に唾を吐き罵って言った。
「そなたは国家の大恩を受けた身であるのに、どうして夷狄のために銘文を作ったりしたのか!」
 延明はこれを聞くや、革に大小寺の碑文と彭祖彭城は彭祖仙人によって築かれたという伝説がある)を祀る文章を作らせようとしたが、革はあくまで固辞して作ろうとしなかった。延明がそこでこれを鞭打とうとすると、革は顔を険しくして言った。
「江革既に六十なれば、今日死んでも悔いは無い! 誓って代筆などするものか!」

 延明は革の必ず屈せぬ事を悟ると、鞭は取り止めたが、一日の扶持を玄米三升のみの死なない程度に留めさせた。


┃北伐中止

 夏侯亶裴邃が死んだのち代わりに寿陽方面軍を率い、遺命に従って防衛に徹し、北魏の河間王琛・臨淮王彧らを次々と撃退していた。

 間もなく武帝は亶に密使を送ると、合肥に還って兵を休め、淮河の堰が完成するのを待ってから再び北伐を開始するように命じた(この出来事がいつなのかははっきりとは分からない)《梁28夏侯亶伝》。


 癸未(10日)、北魏が大赦を行ない、年号を正光から孝昌に改めた。


●胡琛の死

 高平王の胡琛は初め破六韓抜陵を盟主に仰いでいたが、のち莫折念生と通交するようになり、抜陵への態度が次第に疎かになった。抜陵はそこで部下の費律を高平に送り、琛を謀殺させた。しかしその遺衆は琛将の万俟醜奴が全て引き継いだ(詳細時期は不明)。


○北48爾朱天光伝

 胡琛…號高平王,遙臣沃野鎮賊帥破六韓㣼夤。琛後與莫折念生交通,侮僈㣼夤。遣使人費律如至高平,誘斬琛。為醜奴所并。


┃五原の戦い

 これより前、賀抜度抜衛可孤を殺したのち、子の賀抜勝にこの事を朔州(雲州)に伝えさせていた。しかし勝が復命する前に度抜は鉄勒と戦って戦死してしまった。

 朔州(雲州)刺史の費穆は勝の才略を大いに評価して厚遇し、これを留めて軍事を委任するとともに、常に遊撃騎兵を率いさせた。

 一方、賀抜允・賀抜岳の二人は恒州の広陽王淵のもとに行き、允は積射将軍に、岳は帳内軍主・強弩将軍とされた。


 別将の李叔仁破六韓抜陵に圧迫されると、淵はその救援要請に応えて抜陵討伐の軍を起こした。抜陵がこれを五原に包囲すると、賀抜勝は二百人の勇士を募って東門より出撃し、百余人を斬ってやや引き下がらせた。淵はその隙に脱出して朔州(雲州)に退却した。その間、勝は常に殿軍を務めた。


○資治通鑑

 柔然頭兵可汗大破破六韓拔陵,斬其將孔雀等。拔陵避柔然,南徙渡河【此河謂北河也】。將軍李叔仁以拔陵稍偪,求援于廣陽王深,深帥衆赴之。

○魏18広陽王淵伝

 拔陵避蠕蠕,南移渡河。先是,別將李叔仁以拔陵來逼,請求迎援,深赴之。

○魏80・周14賀抜勝伝

 殺賊王衞可瓌。〔朝廷嘉之,未及封賞,〕度拔尋為賊所害(會度拔與鐵勒戰沒。)孝昌中,追贈安遠將軍、肆州刺史。度拔之死也(初,度拔殺可孤之後,令勝馳告朔州,未反而度拔已卒。刺史費穆奇勝才略,厚禮留之,遂委其事,常為遊騎),勝與兄弟俱奔恒州刺史廣陽王淵(于時廣陽王元深在五原,為破六汗賊所圍,晝夜攻戰)。勝便弓馬,有武幹,淵厚待之,表為強弩將軍,充帳內軍主。〔勝乃率募二百人,開東城門出戰,斬首百餘級。賊遂退軍數十里。廣陽以賊稍卻,因拔軍向朔州,勝常為殿。以功拜統軍,加伏波將軍。〕

○魏80賀抜岳伝

 後歸恒州,廣陽王淵以為帳內軍主,〔又〕表為強弩將軍。

○北斉19賀抜允伝

 允便弓馬,頗有膽略,與弟岳殺賊帥衛可肱,仍奔魏。廣陽王元深上允為積射將軍,持節防滏口。


┃折敷嶺の戦い
 于謹523年参照)は柔然討伐ののち、淵のもとで長流参軍(法務士官)となり、軍議には必ず呼ばれ、淵の子の元仏陀に拝礼をされる特別待遇を受けた。のち謹は淵と共に敵将の斛律野穀禄らを破った。その謹が淵に進言して言った。
「群盜が各地で蜂起している今、武力のみで鎮圧するのは容易でないと思われます。ここはどうかこの于謹に大王の威命のもと、彼らに利害を説いてその結束を切り崩すようにさせてください。」
 淵はこれを許可した。謹は諸国語に通じ、単騎にて叛胡の軍営に到ると、酋長と会見して説得を行なった。ここにおいて西部鉄勒酋長の乜列河バレッカ)らが三万余戸を率いて南下し、淵に投降を求めてきた。淵がこれを折敷嶺にて出迎えようとすると、謹が制止して言った。
破六韓抜陵の軍は非常に強大で、乜列河らの投降を聞けば、必ずこれを討とうとしてくるでしょう。その時敵が先に要害を占めてしまう事があれば、これを叩くのは容易でなくなってしまいます。ここは乜列河らを餌にこれをおびき寄せ、伏兵を以て討つべきです。さすれば必ず撃破する事ができましょう。」

 淵はこれに従った。のち果たして抜陵は折敷嶺にて乜列河に攻撃を仕掛け、ことごとく捕虜にした。この時、伏兵は発され、抜陵は大敗を喫した。淵は乜列河らの兵を取り戻して帰還した《周15于謹伝》。


┃破六韓抜陵滅ぶ

 この月(6月)、柔然の頭兵可汗破六韓抜陵を大破し、その部将の破六韓孔雀らを逃走させた。孔雀は部下一万人と共に爾朱栄に降り、平北将軍・第一領民酋長とされた。


 抜陵は度重なる柔然の猛攻を避けるため、南下して黄河を渡ったが、やがて殺された《稽古録》。この前後に二十万人が北魏に降り、淵は行台の元纂と共にその扱いについて上表して言った。

「恒州の北部に別に郡県を設置し、そこに降戸を住まわせて、適宜これに支援をしてやれば、叛心も鎮まるかと思います。」
 朝廷はこれに従わず、黄門侍郎の楊昱に命じて彼らを冀・定・瀛の三州に居住させることにした。淵はこの処置を聞いて纂にこう言った。
「彼らは再び乞活(賊徒)となる。禍乱はここから起こるだろう《魏18元淵伝》。」



 秋、7月、壬戌(19日)、梁は大赦を行なった。


◯魏孝明紀

 六月癸未,大赦,改年。詔文武之官,從軍二百日,文官優一級,武官優二級。蠕蠕主阿那瓌率眾大破拔陵,斬其將孔雀等。

○隋食貨志魏

 尋而六鎮擾亂,相率內徙,寓食於齊、晉之郊。

○魏18広陽王淵伝

 拔陵避蠕蠕,南移渡河。先是,別將李叔仁以拔陵來逼,請求迎援,深赴之,前後降附二十萬人。深與行臺元纂表求恒州北別立郡縣,安置降戶,隨宜賑賚,息其亂心。不從,詔遣黃門郎楊昱分散之於冀、定、瀛三州就食。深謂纂曰:「此輩復為乞活矣,禍亂當由此作。」

◯北斉27破六韓常伝

 孔雀率部下一萬人降於尒朱榮,詔加平北將軍、第一領民酋長,卒。

◯稽古録

 普通…六…蠕蠕殺破六韓拔陵。


 ⑴折敷嶺…《読史方輿紀要》曰く、『朔州(馬邑)の西北の塞外にある。』
 ⑵破六韓孔雀…附化の人で、匈奴単于の末裔。破六韓抜陵の宗族。代々酋長を務めて部衆を率いた。若年の頃から勇敢で、抜陵が叛乱を起こすと大都督・司徒・平南王とされた。523年(2)参照。


(5)に続く