●元順剛直
 胡太后は化粧着飾りが大好きで、しばしば宮外に遊幸に出かけた。ある時太后がまたお洒落をして外に出かけると、これに随行していた元順字は子和)は遂に見かねて、衆人の目の前で諌めて言った。
「『儀礼』には、婦人は夫を亡くせば未亡人と称して、頭や首には玉飾りをつけず、身には派手な服を着ぬようにすべきであるとあります。陛下は母の身であり、また不惑に近い身でありながら、分を越えたお洒落をしていらっしゃいます。これでどうして後世の模範となれましょうか!」
 太后はこれを聞いて恥じ入り、遊幸を取りやめて宮廷に帰ると、順を呼びつけてこれを詰って言った。
「はるばる千里の向こうから都に呼んでやったのに、どうしてああ人前で朕を辱めるような真似をしたのか!」
 順は答えて言った。
「陛下は派手な化粧着飾りをして、天下の笑い者になるのは恐れませんのに、臣の一言には何故か恥じ入るのですな!」《魏19元順伝》

 順が宮中に宿直した時、酔った勢いで、間違えて共に番をしていた穆紹の寝室に入ってしまった事があった。すると紹は布団を抱えて起き上がり、色をなして順を責め立てて言った。
「私は二十年侍中を務め、そなたの父上ともしばしば仕事を共にした事がある。たとえそなたが今陛下に重用されるようになったといっても、こんな無礼を働いていいものか!」
 そしてそのまま職を辞すると、郷里に引っ込んでしまった。説得の詔が下されると、長い時間を置いたのち、ようやく再び朝廷に復帰した。

徐鄭』
 これより前、鄭義の兄の孫の鄭儼、字は季然は、容貌が立派で麗しく、司徒胡国珍の行参軍となっていた時、太后の愛人となっていたが、まだそれが明るみになることはなかった。のち太后が幽閉され、蕭宝寅が西討に出発すると、宝寅は儼を開府属として補佐官とした。
 そして現在太后が再び摂政の座に就くと、儼は宝寅に朝廷への使者になることを志願し、朝廷に帰還すると、太后は彼を洛陽に留め、諌議大夫・中書舍人・領尚食典御として日夜禁中に置き、一番の寵愛を与えた。儼が休息のために宮外に出ても、太后は少年の宦官に随行・監視させて束縛したので、儼は妻に会っても家事などの表面的な話をする事しかできなかった《魏80・北35鄭儼伝》

 中書舍人で楽安の人の徐紇、字は武伯は、代々貧しい家柄の出自であったが、若くして学問を好み、論理学に造詣が深く、素晴らしい文章を書くことで非常に賞賛された。
 孝廉に選ばれると、提出した意見書が孝文帝の目に止まって主書(文書管理官)に抜擢された。宣武帝の初めに中書舍人となった。この時紇は趙脩(503年11月参照)におもねって通直散騎侍郎に昇った。しかし脩が誅殺されると、一味と目されて連座に遭い、西辺の枹罕に流罪となった。しかし紇は服役の身となっても気概を失わず、労役逃れの者や逃亡兵など五人を捕らえた功によって流刑を免じられ、朝廷に復帰することができた。
 暫くののち、再び中書舍人となった。太傅・清河王懌は紇に文書の事を掌らせた。元叉が懌を殺すと、紇は再び睨まれて雁門太守とされ朝廷から追放された。紇は母が高齢なことを理由に太守を辞して郷里に帰り、間もなく入洛すると心を偽って叉に仕え、大いに気に入られた。叉の父の継が西の方潼関を鎮守すると、紇はその従事中郎とされた。間もなく母の喪に服すことを理由に鄉里へ帰った。
 
 太后が摂政の座に復帰すると、紇は以前懌に重用されていたことを理由に、再び中書舍人に任じられた。この時紇は太后の大のお気に入りの儼にすり寄り、儼も紇の優れた知謀を買って右腕として頼りにした。間もなく紇は給事黄門侍郎に昇り、中書舍人も兼任したため、中書・門下の事務を全て取り仕切ることとなり、政治・軍事問わずあらゆる詔命は彼を通して出されるようになった。儼・紇は表裏一体となって宮廷内外を支配し、当時の人々に『徐鄭』と呼ばれるようになった。

 紇は機知に富んだ会話ができ、また精力旺盛であって、ほとんど休むこと無く一日中ぶっ通しで仕事をしても疲れを感じることがなかった。
 ある時急に詔令を作らねばならなくなると、紇は数人の属吏に各章を担当させて、時に歩き回り時に横になりながら、己の言うことを口述筆記させ、全てが同時に書き終わっても、完成したものは理路整然とまとまっており、上品とは言えないまでも、意味は通っていた。
 時に黄門侍郎の太原の人の王遵業・琅邪の人の王誦は共に文才がある事で有名だったが、紇と同等な文章は書けず、彼に指南を請うのが常だった。
 また、ある時僧侶と仏教について議論し、夜半から朝方までに及んでも楽しそうにしていたので、僧侶もそうでない者も感服せずにはいられなかった。
 しかし、その性格は表裏があり、権力を手に入れるため、外面は実直そうに見えても、内面はへつらいの塊だった。己よりも権力がある者や裕福な者に対しては必ず持ち上げ,学生や貧しい家柄の者に対しては心を曲げて礼儀ある態度を取った。その偽りの姿は、知識人が蔑む所だった。
 紇が要職に就いて機密に携わり、権勢を極めると、天下の者が彼に心を寄せた。しかし彼は国家の大計を持ち合わせているわけではなく、ただ事務仕事に長けているだけの人物だった《魏93徐紇伝》

●太后乱脈
 給事黄門侍郎の袁翻・李神軌らも皆中書舍人を兼ね、太后の信任する所となった。当時ある者が神軌も鄭儼と同じく太后の愛人となっているのだと言ったが、確たる証拠は無かった。
 その神軌が散騎常侍の盧義僖の娘を貰いたいと言うと、義僖は彼が必ず没落すると見て許そうとしなかった。すると黄門侍郎の王誦が義僖に説いて言った。
「古人は一女のために五人の男子を犠牲にする事は無かった【晋の楽広のこと。303年閏12月参照】。そなたは何故一女のために一門を犠牲にしようとしているのか!」
 義僖は答えて言った。
「受け入れないのは、まさにその事を心配しているからだ。これを受け入れれば、大きな災いを我が一門に招き寄せるだろうとな。」
 誦はそこで義僖の手を固く握って言った。
「分かった、これも運命だ。この事は他言しないと誓おう。」
 義僖の娘はかくて他族に嫁ぐことになったが、婚礼の前夜に太后が中常侍の服景を派遣して取り止めにさせた。盧家内外はこれに恐れおののいたが、義僖のみ泰然自若として動じなかった《魏書47盧義僖伝》
 李神軌は、李崇の子である。多くの征討に参加し、頗る名将の気配があった《魏書66李神軌伝》
 盧義僖は、盧度世(451年2月参照)の孫である。

●涇州の戦い


 胡琛が万俟醜奴・宿勤明達らを派遣し、涇州に侵攻させた。これより前、北魏は元志が莫折念生討伐に向かう(524年6月)のに合わせて、盧祖遷・伊甕生らに同時に雍州より出陣させ、六陌道より高平を攻略させようとした。しかし志が大敗を喫したため(同年8月)、盧祖遷らは進軍を止めて涇州に留まっていたのであった(同年11月に伊甕生・薛巒は莫折念生配下の卜胡らに敗れている)。
 そこで先に莫折天生の軍を大破していた蕭宝寅・崔延伯らが兵を率いて安定(涇州治所)に援軍に訪れた。その軍勢は甲兵十二万、鉄騎八千頭の大軍で、士気は大いに振るっていた。

 醜奴は本営を安定西北七十里の当原城に置き、ある時軽騎兵に暫くの間挑戰させたのち、いざ北魏の大軍が迫ると直ちに北方へ逃亡した。
 延伯は己の武勇を誇りにしており、また大勝を収めたばかりであったので、自ら志願して追撃の先鋒となった。その際延伯は付近の木を伐採して、特別に内側に鎖柱を備えた大楯を造らせ、それをよく訓練された勇士に持たせて進軍させた。これを名付けて『楯城』といい、その囲みの中に輜重を、外に兵士を配し、涇州の北に広がる原野に沿って北上を開始した。
 その途中、醜奴の兵数百騎が投降者の名簿を持参して来、準備ができるまで進軍を緩めてほしいと求めてきた。宝寅・延伯はこれを事実だと見なし、これをよく調べない内に、突如東北より宿勤明達の軍が現れ、襲いかかってきた。すると数百騎も本性を現し、西方より延伯らに攻めかかってきたため、北魏軍は前後に敵を受ける形となった。
 しかし延伯が馬に打ち跨って敵軍に突撃するや、明達軍はこれに恐れおののいて逃走した。そこで延伯はこれを追って醜奴の本営に迫った。
 しかし、醜奴軍が全て軽騎なのに対し、延伯軍は一部に步兵が混じっていたため、ここにきて疲労の差が顕著に現れ始めた。醜奴軍がそこを突いて楯城の中に入り込むと、延伯軍は遂に大敗を喫し、死傷者は二万人近くに上った。

 宝寅は敗残兵を集めて安定を保持した。延伯は敗戦の雪辱に燃え、兵器を修繕・補充して勇士を募ると、宝寅に知らせることなく単独で再び安定から出撃して西進し、彭抗谷の敵陣から七里の地点に陣を敷いた。
 壬辰(18日)、戦いが起こると延伯は醜奴軍を大破し、瞬く間に数ケ所の陣地を陥とした。その勢いを恐れて敵が皆逃げ散ると、延伯軍は略奪に夢中になり、統制が全く無くなった。それを見て醜奴軍が引き返してくるや、延伯軍は態勢整わず大敗を喫した。延伯は流れ矢に当たって死に、一万余が戦死した《魏73崔延伯伝》

 延伯の度胸と武略は群を抜いていて、その威名は天下に知れ渡っていた。国家のために力を尽くすこと二十余年、城を攻めれば陥とせぬものなく、敵陣を突けば破れぬものはなかった。延伯は常に単騎で敵陣に突き入り、無人の野を征くが如き働きぶりを見せた。その武勇は三軍に冠し、その武威は戎どもを震わせ黙らせずにはおかなかった。
 延伯の軍中には田僧超という笛の名手がおり、特に『壮士の歌』と『項羽吟』を得意としていた。延伯はこれがお気に入りだった。戦いの際、延伯が威風堂々と軍の先頭に立ち、その後ろで僧超が壮士の歌を吹き鳴らせば、どんな臆病者でも勇者に早変わりし、精兵は闘志を燃え上がらせた。醜奴がそこで弓の達者な者を募って僧超を射殺させると、延伯は非常に嘆き悲しんだ。その様は左右の者が「伯牙が鍾子期を失った時(二人とも春秋時代の琴の名手。鍾子期が亡くなった時、伯牙は理解者を失ったと嘆じて琴を弾くのを辞めた)もこれほどではなかっただろう」と言い合うほどだった。延伯が戦死したのはその後だった《伽藍4》

 延伯はよく将兵を労り、その心を摑んで奚康生・楊大眼と共に名将と謳われた。亡くなった時の功名は延伯が最も大きかった。大乱が平定されない中での延伯の死は朝野を絶望に追いやった。武烈と諡された《魏73崔延伯伝》

●援軍送られず
 蕭宝寅が西征に出かけた時、高道穆は行台郎中に任じられ、軍機の事など多くの事を委任された。崔延伯が敗北した後、賊徒の勢いは強大となり、前線は何度も朝廷に援軍の要請をしたが、許可されなかった。宝寅はそこで道穆にこう言った。
「そなたでないと、援軍は許されないだろう。」
 そこで道穆は早馬に乗って洛陽に赴いた。胡太后が自ら賊の勢いについて尋ねると、道穆はつぶさに苦しい状況を述べた。すると太后は怒って言った。
「近頃使者は皆賊の勢いが弱っていると言っておるのに、何故そなただけ強大になっていると嘘をつくのか!」
 道穆は事情を察して言った。
「これまでの使者は皆真実を言わず、陛下を喜ばせて爵賞を詐取するために嘘を申していたのであります。臣は一度使者となったからには、偽りの情報は伝えません。もし疑いますのなら、近臣がたに前線を調査させ、真偽を見極めさせればいいでしょう。」《魏77高道穆伝》

┃郢州解放

 これより前(524年12月29日)、梁の武勇将軍の李国興が北魏の郢州を包囲し、北魏の郢州刺史の裴詢は蛮酋の西郢州刺史の田朴特と表裏一体となってこれを防いでいた。

 そして現在、包囲が百日近くになった時、遂に北魏の持節・行撫軍将軍の魏承祖率いる援軍が到来し、梁軍を大破して退却させた。


 魏承祖は、広陵の低い家柄の出である。壮健でさっぱりした性格だったため、裴叔業500年に梁から北魏に降った)に気に入られ、身の回りの世話係となった。のち叔業が州刺史となると、防閤に任じられた。士卒を手懐けるのが上手く、また将才があったため、景明年間(500〜504年)以降は常に統軍となって南北の征伐に加わり、多くの戦功を挙げた。のち太原太守を経て光禄大夫・安南将軍にまで昇った。
 現在、梁が義陽を攻めて士民が内応し、三関が陷落して州城も危機に陥ると、承祖は持節・行撫軍将軍に任じられて援軍に向かい、梁軍を大破し、良く義陽の包囲を解いて三関も取り戻したため、遂に名将と称せられるに至った。

○魏45裴詢伝
 蕭衍遣將李國興寇邊,時四方多事,朝廷未遑外略,緣境城戍,多為國興所陷。賊既乘勝,遂向州城。詢率厲固守,垂將百日,援軍既至,賊乃退走。加散騎常侍、安南將軍。朴特自國興來寇,便與詢掎角,為表裏聲援,郢州獲全,朴特頗有力焉。
○魏71魏承祖伝
 魏承祖,右軍將軍,封平春縣。並開國子,食邑各三百戶。承祖,廣陵寒人也。依隨叔業,為趨走左右。壯健,善事人,叔業待之甚厚。及出為州,以為防閤。善撫士卒,兼有將用,自景明以後,常為統軍,南北征伐,累有戰功。歷太原太守,至光祿大夫、安南將軍。蕭衍遣將圍義陽,士民應之。三關既陷,州城時甚縣急。以 承祖持節,行撫軍將軍,率師討之。大破賊眾,解義陽之圍,還復三關,遂為名將。

●裴邃死す
 5月、裴邃は陣中で危篤となると、北伐軍に守備に徹するように言い、また、遺体は合肥に埋葬するよう命じた。その後間もなく邃は逝去した(諡は烈《南58裴邃伝》
 邃は寡黙であまり笑わず、冷静沈着で知略に優れ、政治にあたっては寛容と公明を方針としたため、よく人々の心を摑んだ。自分に厳しくかなりの威厳があったので、将吏はこれを憚って殆どの者が犯罪を犯さなかった。邃が逝去した時、淮・肥一帯の人々で泣かぬ者は無く、邃がもう少し生きていれば、きっと洛陽を陥とせただろうと悔しがった(『南史』では「大いに領土を拡張できただろうと悔しがった。」とある《梁28裴邃伝》
 壬子(8日)、梁は中護軍の夏侯亶を督寿陽諸軍事とし、早馬を使って邃の任務を代行させた。

●小剣の戦い


 これより前、梁の益州刺史の臨汝侯淵猷が、部将の樊文熾・蕭世澄らに数万の兵を与え、北魏の益州長史の和安を小剣戍に包囲させた。北魏の益州刺史の邴虯は統軍で河南の人の胡小虎崔珍宝に救援に赴かせた。文熾は彼らの陣を奇襲して撃破し、二人を捕虜とすると、和安に早く降るよう勧告させた。そこでまず珍宝が城下にて和安にこう言った。

「南軍は強く、こちらの援軍はもはやありません。何故降伏し、富貴の道を取らないのでしょうか?」

 和安が弓矢で返事をすると、珍宝は引き下がった。そこで今度は小虎に勧告させた。小虎は声を張り上げて言った。

「私が囚われの身となったのは警戒を怠っていたからで、彼らの兵力自体は特に言うほどのものではありません! 頑張って城を守り続けてください! 魏行台(子建)・傅梁州(豎眼)の援軍が、すぐそこまで来ています!」

 言葉を言い終わらぬ内に、梁の兵士が刀の柄で小虎を殴り殺した。北魏の将兵たちでその壮烈な節義に感嘆しない者は無かった。

 子建が派した西南道軍司の淳于誕が小剣の援軍に駆けつけると、文熾は自軍が在る谷の東峰の龍鬚山上に陣を築いて退路を守備した。対峙は一ヶ月余りに及んだが、誕はこれを撃破できないでいた。誕は敵が自軍より多いことから、正面から戦うことはできないと考えた。

 戊辰(24日)、そこで誕は勇士二百余人を募ると、夜、密かに龍鬚山に登らせ、敵陣を炎上させた。その炎が天に沖するのを望見して、梁軍は退路を断たれたと早とちりし、恐慌状態に陥った。誕がそこで諸軍に鼓を打ち鳴らして攻めかかると、梁軍は大敗を喫し、世澄・陳文緒ら将吏十一人が捕らえられたほか、捕らえられたり斬られたりした者は一万を数えた。文熾は大将の身ながら誰よりも先に逃げたので捕虜となるのを免れた。

 魏子建は世澄の身柄と胡小虎の遺体を交換し、これを丁重に埋葬した。


○魏71淳于誕伝

 時衍益州刺史蕭淵猷遣將樊文熾、蕭世澄等率眾數萬圍小劍戍,益州刺史邴虬令子達拒之。因轉營,為文熾所掩,統軍胡小虎、崔珍寶並見俘執。子建遣誕助討之。誕勒兵馳赴,相對月餘,未能摧殄。文熾軍行之谷,東峯名龍鬚山,置柵其上以防歸路。誕以賊眾難可角力,乃密募壯士二百餘人,令夜登山攻其柵。及時火起,煙焰漲天。賊以還途不守,連營震怖。誕率諸軍鳴鼓攻擊,文熾大敗,俘斬萬計,擒世澄等十一人。文熾為元帥,先走獲免。

○魏87胡小虎伝

 胡小虎,河南河陰人也。少有武氣。正光末,為統軍於晉壽。孝昌中,蕭衍將樊文熾等寇邊,益州刺史邴虬遣長史和安固守小劍,文熾圍之。虬命小虎與統軍崔珍寶同往防拒。文熾掩襲小虎、珍寶,並擒之。文熾攻小劍未陷,乃將珍寶至城下,使謂和安曰:「南軍強盛,北救不來,豈若歸款,取其富貴。」和安命射之,乃退。復逼小虎與和安交言,小虎乃慷慨謂安曰:「我柵不防,為賊所虜。觀其兵士,勢不足言,努力堅守。魏行臺、傳梁州遣將已至。」賊以刀毆擊,言不得終,遂害之。三軍無不歎其壯節,哀其死亡。賊尋奔敗,禽其次將蕭世澄、陳文緒等一十一人。行臺魏子建壯其氣概,啟以世澄購其屍柩,乃獲骸骨歸葬〔之〕。


┃李崇の死

 この月、北魏の〔侍中・〕驃騎大将軍・〔開府〕儀同三司・〔相州刺史・〕陳留侯の李崇が逝去した(享年71)。武康と諡した。


○魏孝明紀

 戊子【[一二]按孝昌元年五月乙巳朔,無「戊子」,當有訛字。】,驃騎大將軍、儀同三司李崇薨。

○魏66李崇伝

 改除開府、相州刺史,侍中、將軍、儀同並如故。孝昌元年薨於位,時年七十一。贈侍中、驃騎大將軍、司徒公、雍州刺史,諡曰武康。後重贈太尉公,增邑一千戶,餘如故。



(4)に続く