[北魏:正光六年→孝昌元年 梁:普通六年]



┃北伐、第三戦線

 春、正月、丙午(1日)、梁の都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・平西将軍・安北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史の晋安王綱が長史の柳渾『梁書』では柳津)を派遣して北魏の南郷郡を陥とさせた。また、司馬の董当門に晋城を陥とさせた。

 庚戌(5日)、更に馬圈・雕陽の二城を陥とした。

 辛亥(6日)、梁の武帝が南郊において天を祭り、大赦を行なった。


○資治通鑑

 六年春正月丙午,雍州刺史晉安王綱遣安北長史柳破魏南鄕郡;司馬董當門破魏晉城,庚戌,又破馬圈、彫陽二城。

○梁武帝紀

 六年春正月丙午,安北將軍晉安王綱遣長史柳津破魏南鄉郡,司馬董當門破魏晉城。庚戌,又破馬圈、彫陽二城。辛亥,輿駕親祠南郊,大赦天下。

○魏52陰道方伝

 正光末,蕭綱遣其軍主曹義宗等擾動邊蠻,神儁令道方馳傳向新野,處分軍事。於路為土因村蠻所掠,送於義宗,義宗又傳致襄陽,仍送於蕭衍,囚之尚方。

○魏101蛮伝

 會超秀死,其部曲相率內附,徙之六鎮、秦隴,所在反叛。二荊、西郢,蠻大擾動,斷三鵶路,殺都督,寇盜至於襄城、汝水,百姓多被其害。蕭衍遣將圍廣陵,樊城諸蠻並為前驅,自汝水以南,處處鈔劫,恣其暴掠。連年攻討,散而復合,其暴滋甚。又有冉氏、向氏者,陬落尤盛,餘則大者萬家,小者千戶,更相崇僭,稱王侯,屯據三峽,斷遏水路,荊、蜀行人至有假道者。


 ⑴晋安王綱…蕭綱。字は世纉。生年503、時に23歳。武帝の第三子。角ばった豊かな頬と絵に書いたような美しい髭を備えていた。早熟の天才で、読書をする際は十行を同時に読むことができ、筆をとれば直ちに文章や詩を書き上げることができた。510年に南兗州刺史、513年に丹陽尹、514年に荊州刺史、515年に江州刺史、518年に再び丹陽尹とされた。520年に益州刺史とされたが、赴任する前に翌年南徐州刺史とされた。523年、都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・平西将軍・寧蛮校尉・雍州刺史とされ、524年に安北将軍とされた。524年⑴参照。
 ⑵南郷郡…《読史方輿紀要》曰く、『南陽府の西南百里にある。
 ⑶晋城…《読史方輿紀要》曰く、『鄧州(北魏の荊州)の東南にある。北魏が置いた。
 ⑷馬圏…《読史方輿紀要》曰く、『鄧州(北魏の荊州)の東北七十里にある。杜佑曰く、襄陽から三百里離れた地にあり、今の穰県の北にある。
 ⑸雕陽…《読史方輿紀要》曰く、『鄧州(北魏の荊州)の東にある?
 ⑹梁の武帝…蕭衍。字は叔達。生年464、時に62歳。梁の初代皇帝。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。


┃徐州、梁に降る


 北魏の安東将軍・都督徐州諸軍事・徐州刺史の元法僧は平素から権臣の元叉に付いていたが、叉のあまりの驕恣ぶりがいつか己にも災いをもたらすのを恐れ、遂に叛旗を翻す事に決した。

 この時、中書舍人の張文伯はちょうど彭城に使いに出ており、法僧はこれに語りかけて言った。

「今の立場は危険である。私と共に兵を起こし、身の安全を図るつもりはないか?」

 文伯はこれを聞くなり答えて言った。

「どうして忠義に背いて叛逆に従えようか!」

 法僧が怒って斬ろうとすると、文伯は罵って言った。

「自分は死んで泉下の高祖(孝文帝)にまみえようとは思っても、逆賊となってまで生きようとは思わぬ!」

 法僧はこれを殺した。

 庚申(正月15日)、法僧は徐州行台の高諒にも協力を断られてこれを殺すと(享年41)、宋王を自称して(梁書では皇帝を自称している)年号を正光から天啓に改め、諸子をそれぞれ王とした。


 諒は字を修賢といい、名門の勃海高氏の出である。若年の頃から学問を好み、博覧強記で、孝行で、良く喪に服した事で孝行者と評された。太和(477~499)の末に京兆王愉が幕府を開いた際、隴西の李仲尚・趙郡の李鳳起らと共にその幕僚に選出された。のち次第に昇進して太尉主簿・国子博士とされ、正光年間(520~525)に驍騎将軍・徐州行台とされた。


 北魏が安楽王鑑を代わりに徐州刺史としてその討伐を命じると、法僧は子の元景仲を梁に派遣して投降した。


 安東将軍府長史の元顕和は法僧が叛乱を起こすと兵を挙げてこれと戦ったが敗れた。法僧は顕和を捕らえるとその手を取り、傍に座らせようとしたが、顕和は拒絶して言った。

「私と法僧殿は共に同じ元氏から出て分かれた者であり、宗家を助け守る使命がありますのに、今、法僧殿は逆に徐州を手土産に外敵を引き入れようとなさっておられます。もし董狐春秋晋の史官。直筆で知られた)に会っても、あなたは恥じずにいられるのですか!」

 法僧がなおも説得しようとするのを見ると、顕和は憤って言った。

「私は生きて叛臣となるよりも、死んで魏国の忠鬼となる方を選ぶ!」

 そこでやむなく殺害したが、顕和はそれを従容と受け入れた。

 顕和は元麗506年2月参照)の子であり、若くして節操のあることで世に知られていた。司徒記室参軍となった時、司徒の崔光は彼と会うと常にこう言った。

「元参軍は風雅にして清らかであり、立ち居振る舞いが上品である。宰相の器だろう。」

 

 また、韋元恢も密かに同志を集めて法僧を討とうとしたが、事前に露見して殺害された。人々はその死を痛惜した。

 元恢は東海太守の韋合宗の子で、気骨があり、才能に優れた。


 厲威将軍・盱眙太守・大徐戍主の杜顒は逃げ隠れ、助かる事ができた。

 顒は字を思顔といい、非常に優れた才能を有していた。出仕して北中府録事参軍とされ、正光年間(520~)に厲威将軍・盱眙太守・大徐戍主とされた。


 一方、梁の武帝は法僧の投降の報に接するや、詔を下してその真偽を討議させた。すると朱异が言った。

「官軍が北討を行なってより勝利・占領相次ぎ、偽魏の徐州の地は日々縮小しております。偽魏の朝廷としてはその責任を全て法僧のせいにするのが一番楽でしょう。法僧が今回投降してきたのはその不安を感じたからで、間違いなく偽りないものです。」

 帝はそこで异に法僧の受け入れを命じた。また宣城太守の元略を大都督とし、异の指揮の下、武威将軍で義興の人の陳慶之元樹・胡龍牙・成景儁らを率いて徐州の救援に行くよう命じた。梁軍が徐州に到ると、果たして法僧は异の言葉通りこれを諾々と受け入れたのだった。


○魏孝明紀
 孝昌元年春正月庚申,徐州刺史元法僧據城反,害行臺高諒,自稱宋王,號年天啟,遣其子景仲歸於蕭衍。衍遣其將胡龍牙、成景雋、元略等率眾赴彭城。詔祕書監安樂王鑒回師以討之。
○梁武帝紀
 庚申,魏鎮東將軍、徐州刺史元法僧以彭城內附。
○魏16・北16元法僧伝
 轉安東將軍、徐州刺史。〔法僧本附元叉,以驕恣,恐禍及己,將謀為逆。時領主書兼舍人張文伯奉使徐州,法僧謂曰:「我欲與卿去危就安,能從我否?」文伯曰:「安能棄孝義而從叛逆也!」法僧將殺之,文伯罵曰:「僕寧死見文陵松柏,不能生作背國之虜!」法僧殺之。〕孝昌元年,法僧殺行臺高諒,反於彭城,自稱尊號,號年(改元)天啟。
○魏19元顕和伝
 麗…子顯和,少有節操,歷司徒記室參軍。司徒崔光每見之曰:「元參軍風流清秀,容止閑雅,乃宰相之器。」除徐州安東府長史。刺史元法僧叛,顯和與戰被擒,執手命與連坐。顯和曰:「顯和與阿翁同源別派,皆是盤石之宗,一朝以地外叛,若遇董狐,能無慚德。」遂不肯坐。法僧猶欲慰喻,顯和曰:「乃可死作惡鬼,不能坐為叛臣。」及將殺之,神色自若。
○魏19元略伝
 俄而徐州刺史元法僧據城南叛,州內士庶皆為法僧擁逼。衍乃以略為大都督,令詣彭城,接誘初附。
○魏44薛曇尚伝
 曇寶弟曇尚 ,有容貌,性寬和。初辟御史,加奉朝請。熙平二年,除徐州穀陽戍主,行南陽平郡事。母憂去職。正光中,詔以陽平隣接蕭衍,綏捍須人,仰尚書舉才而遣。左僕射蕭寶夤舉曇尚應選,馳驛之郡。孝昌初,徐州刺史元法僧叛入蕭衍,曇尚斬其使人,送首於都督、安樂王鑒。鑒不能援,遂為蕭衍將王希聃所陷,拘曇尚送蕭衍。衍以禮遇之,曇尚乞歸,衍乃聽還。肅宗復其本秩。
○魏45韋元恢伝
 欣宗從父弟合宗,卒於東海太守。子元恢,有氣幹。孝昌初,值刺史元法僧據州外叛,元恢招聚同志,潛規克復,事泄,為法僧所害。時人傷惜之。
○魏45杜顒伝
 祖悅弟顒,字思顏,頗有幹用。解褐北中府錄事參軍。正光中,稍遷厲威將軍、盱眙太守,帶大徐戍主。元法僧之叛也,顒逃竄獲免。
○魏57高諒伝
 雅弟諒,字脩賢。少好學,多識強記,居喪以孝聞。太和末,京兆王愉開府辟召,高祖妙簡行佐,諒與隴西李仲尚、趙郡李鳳起等同時應選。稍遷太尉主簿、國子博士。正光中,加驍騎將軍,為徐州行臺。至彭城,屬元法僧反叛,逼諒同之,諒不許,為法僧所害,時年四十一。朝廷痛惜之,贈左將軍、滄州刺史。又下詔,以諒臨危授命,誠節可重,復贈使持節、平北將軍、幽州刺史,贈帛二百匹,優一子出身,諡曰忠侯。
○魏66李崇伝
 後徐州刺史元法僧以彭城南叛,時除安樂王鑒為徐州刺史以討法僧。
○魏98島夷蕭衍伝
 孝昌元年正月,徐州刺史元法僧據城南叛。
○梁32陳慶之伝
 普通中,魏徐州刺史元法僧於彭城求入內附,以慶之為武威將軍,與胡龍牙、成景儁率諸軍應接。還除宣猛將軍、文德主帥,仍率軍二千,送豫章王綜入鎮徐州。
○梁38朱异伝
 普通五年,大舉北伐,魏徐州刺史元法僧遣使請舉地內屬,詔有司議其虛實。异曰:「自王師北討,剋獲相繼,徐州地轉削弱,咸願歸罪法僧,法僧懼禍之至,其降必非偽也。」高祖仍遣异報法僧,並敕眾軍應接,受异節度。既至,法僧遵承朝旨,如异策焉。
○梁39元法僧伝
 後為使持節、都督徐州諸軍事、徐州刺史,鎮彭城。普通五年,魏室大亂,法僧遂據鎮稱帝,誅鋤異己,立諸子為王,部署將帥,欲議匡復。既而魏亂稍定,將討法僧,法僧懼,乃遣使歸款,請為附庸,高祖許焉。
○梁39元樹伝
 普通六年,應接元法僧。

 ⑴元法僧…生年454、時に72歳。道武帝の子孫で、江陽王鍾葵の子。 益州刺史とされると気の赴くままに人を殺し、感情が一定しなかった。王・賈ら地元の名士を兵士にするなどして反感を買い、梁の侵攻を許した。のち元叉に付き、徐州刺史とされた。
 ⑵元叉…字は伯俊。幼名は夜叉。生年486、時に40歳。京兆王継の長子。胡太后の妹の夫であることから、太后から寵用を受けたが、520年に恩を仇で返して太后を幽閉し、政治の実権を握った。524年⑵参照。
 ⑶安楽王鑑…字は長文。五代文成帝の曾孫で、尚書左僕射の安楽王詮の子。出仕して秘書監とされ、524年、梁が北伐を行なうと討伐に赴いた。524年⑵参照。
 ⑷大徐…《読史方輿紀要》曰く、『徐城廃県は泗州の西北五十里にある。漢はここに徐県を置き、臨淮郡の治所とした。東魏は高平県と高平郡を置き、大徐城を治所とした。
 ⑸朱异…字は彦和。生年483、時に43歳。寒門の出身。顔つきが堂々として立派であり、立ち居振る舞いが素晴らしかった。10余歲の頃は賭博を好む不良だったが、成長すると心を改めて学問に励んだ。貧しかったため筆耕をしてお金を稼いだが、写し終わった時にはもう暗誦できるようになっていた。文学を好み、礼経・周易に深い造詣を持ち、各種の技芸にも通暁し、囲碁・書画・算術を得意とした。職務態度が良く機知に富んでいたため、武帝の信任を得、524年に軍事のこと、地方司令官の任免、朝廷の儀式や祝典の事、詔勅作成などを一手に任された。政治・軍事両面に知悉し、山のような書類も瞬時に処理することができた。
 ⑹元略…字は儁興。北魏の景穆太子の孫で、中山王英の第四子。中山王熙の弟。才気は熙に劣ったが、温和な性格が評価された。520年に熙が挙兵して失敗すると梁に亡命し、中山王・宣城太守とされた。
 ⑺元樹…字は秀和(君立?)。生年484、時に42歳。北魏の献文帝の孫で、咸陽王禧の子。美男で談論を得意とし、将略を有した。509年に梁に亡命し、鄴王とされた。524年6月、平北将軍・北青兗二州刺史とされ、北伐に赴いて建陵城を陥とした。524年(3)参照。
 ⑻成景儁…字は超。もと北魏の臣。509年に父の仇を追って梁に降った。智勇兼備で、梁の名将の馬仙琕になぞらえられた。また、政治の才能にも優れた。〔北?〕徐州刺史とされ、524年、北魏の童城・睢陵を陥とした。524年⑵参照。


┃陳慶之の登場

 陳慶之生年484、時に42歳)は字を子雲といい、義興国山の人である。寒門(低い家柄)の出身で、幼い頃から武帝の傍に付き従っていた。

 帝は生来碁が大好きで、夜に始めると朝まで徹夜して遊んでしまうのが常だった。同僚の者たちは皆途中で疲れて眠ってしまったが、慶之のみ眠ること無く、呼べば直ちに参上してこれに最後まで付き合ったので、帝は非常に彼を可愛がった。

 帝が建康を平定すると(501年)、次第に昇進して主書(文書管理官)となったが、給料は私兵を集めて養うのに使い、常に戦功を立てることばかりを考えていた。のちに奉朝請(朝議に参与する資格を持つ)となった。

 性格は慎み深く、詔勅を受ける時は必ず沐浴するのが常だった。倹約家で派手な衣服は身に着けず、音楽も好まなかった。武将でありながら弓を射ても鎧を貫くことができず、馬術も上手では無かったが、軍士の心を掴むのが上手く、よくその死力を尽くさせることができた。


○梁32・南61陳慶之伝

 陳慶之字子雲,義興國山人也。幼而隨從高祖。高祖性好棊,每從夜達旦不輟,等輩皆倦寐,惟慶之不寢,聞呼即至,甚見親賞。從高祖東下平建鄴,稍為主書,散財聚士,常思効用。除奉朝請。…慶之性祗慎,衣不紈綺,不好絲竹,射不穿札,馬非所便,而善撫軍士,能得其死力。〔梁世寒門達者唯慶之與俞藥。〕


┃黒水の戦い


〔秦の高陽王の〕莫折天生の軍が黒水[1]⑵まで到った。その軍勢はとても強大だった。
 北魏は西道行台・大都督の蕭宝寅と都督の崔延伯に五万の兵を与えてその迎撃に当たらせた(524年の9月か11月頃に関中に向かっていた)。延伯が洛陽から出陣すると、公卿たちは列を成してこれを見送った。軍団の先頭の延伯は丈の高い冠をかぶり長剣を携えた出で立ちで、その威風は辺りを払っていた。

 宝寅は延伯と共に、馬嵬に南北百余歩にわたる陣を布いた。そして連日将軍らを集めて賊をどう攻め破るか議論させたが、そのつど延伯はこう発言した。
「賊は勝ちを収めたばかりで勢いに乗っております。戦うのは得策ではありません。」
 宝寅はこれを不快に思い、色をなして言った。
「そなたは国家の期待と存亡を背負って出陣したのに、いざ敵を目の前にすると戦うべからず戦うべからずと臆病なことばかり口にする。軍の士気が下がっているのはそなたのせいだぞ!」
 延伯は明朝、宝寅のもとを訪れ陳謝すると、こう言った。
「今より明公のために、賊の力を見極めに行ってまいります。」
 かくて延伯は精兵数千をよりすぐると、南下して黒水を渡り、陣を整えて西のかた天生の陣地に向かった。宝寅は黒水の東にある尋原()の西北にて後詰をした。
 時に天生は大軍を擁し、黒水の西一里に陣を延々と連ねていた。延伯はその威容に怯むことなく直ちにその砦に赴くと、気勢を上げてこれを挑発したのち、おもむろに退却した。すると天生軍は延伯の小勢なるを見て、門を開いて次々とその追撃に向かい、延伯は黒水のほとりにて十倍以上の敵に囲まれた。宝寅はその様子を望見して色を失い、かなりの損害を覚悟した。しかし当の延伯は落ち着き払って、これと戦うことをせず、自ら殿軍となって兵を敵の前で渡河させ始めた。その渡河はまさに神業で、瞬く間に完了し、そののち自らもゆっくりと川を渡った。天生兵はこの様を見るや意気阻喪して砦に引き返した。宝寅は歓喜して属官に言った。
「崔公はいにしえの関羽・張飛の再来である。彼がいるなら今年中に賊どもを征服できるだろう。」
 延伯は宝寅のもとに駆けつけるとこう言った。
「彼らは私めの敵にございません。公はただ座って私が彼らを破るのをご覧になってください。」

 癸亥(18日)、延伯は兵を率いて出陣し、宝寅はその後詰となった。天生が全軍をもって迎撃してくると、延伯は将兵に号令を下して先頭に立ってこれに突撃し、その前衛を撃破した。延伯軍はこれを見て奮い立たぬ者無く、争ってそのあとに続いて遂に天生軍を大破した。捕虜・首級は十余万に上り、延伯は更に天生を追撃して小隴山にまで到り、岐・雍及び隴東は全て平定された
 莫折天生の軍は非常に強く、北魏の諸将でこれを恐れぬ者はなかった。朝廷がこれに誰を差し向けるのがよいか討議させた時、人々はみな延伯でなければ平定できないと言ったが、果たして延伯はその期待に背かず大勝を収めたのだった。

 しかし北魏軍は道中略奪に夢中になり、迅速な追撃ができなかったため、その間に天生が隴山の要路を固めるのを許してしまった。かくてそれ以上の追撃は不可能となった。

○魏孝明紀
 癸亥,蕭寶夤、崔延伯大破秦賊於黑水,斬獲數萬,天生退走入隴西,涇、岐及隴東悉平。以太師、大將軍、京兆王繼為太尉,餘官如故。
○魏59蕭宝寅伝
 寶夤與大都督崔延伯擊天生,大破之,斬獲十餘萬。追奔至于小隴,軍人採掠,遂致稽留,不速追討,隴路復塞。
○魏73崔延伯伝
 時莫折念生兄天生下隴東寇,征西將軍元志為天生所擒,賊眾甚盛,進屯黑水。詔延伯為使持節、征西將軍、西道都督,與行臺蕭寶夤討之。寶夤與延伯結壘馬嵬,南北相去百餘步。寶夤日集督將論討賊方略,延伯每云「賊新制勝,難與爭鋒」。寶夤正色責之曰:「君荷國寵靈,總戎出討,便是安危所繫,每云賊不可討,以示怯懦,損威挫氣,乃君之罪。」延伯明晨詣寶夤自謝,仍云:「今當仰為明公參賊勇怯。」延伯選精兵數千,下渡黑水,列陳西進以向賊營,寶夤率眾於水東尋原西北,以示後繼。於時賊眾大盛,水西一里營營連接。延伯徑至賊壘,揚威脅之,徐而還退。賊以延伯眾少,開營競追,眾過十倍,臨水逼蹙。寶夤親觀之,懼有虧損。延伯不與其戰,身自殿後,抽眾東渡,轉運如神,須臾濟盡,徐乃自渡。賊徒奪氣,相率還營。寶夤大悅,謂官屬曰:「崔公,古之關張也。今年何患不制賊。」延伯馳見寶夤曰:「此賊非老奴敵,公但坐看。」後日,延伯勒眾而出,寶夤為後拒。天生悉眾來戰,延伯申令將士,身先士卒,陷其前鋒。於是勇銳競進,大破之,俘斬十餘萬,追奔及於小隴。秦賊勁強,諸將所憚,朝廷初議遣將,咸云非延伯無以定之,果能克敵。授右衞將軍。
○洛陽伽藍記4
 有田僧超者,善吹笳,能為壯士歌、項羽吟。征西將軍崔延伯甚愛之。正光末,高平失據,虎吏充斥,賊帥万俟鬼奴寇暴涇岐之間,朝廷為之旰食。詔延伯總步騎五萬討之。延伯出師於洛陽城西張方橋,即漢之夕陽亭也。時公卿祖道,車騎成列。延伯危冠長劍耀武於前,僧超吹壯士笛曲於後,聞之者懦夫成勇,劍客思奮。延伯膽略不群,威名早著,為國展力,二十餘年,攻無全城,戰無橫陳,是以朝廷傾心送之。延伯每臨陣,常令僧超為壯士聲,甲胄之士莫不踴躍。延伯單馬入陣,旁若無人,勇冠三軍,威鎮戎豎。

 ⑴莫折天生…秦州の群雄の莫折念生の弟(孝明帝紀や崔延伯伝では「兄」とある)。念生が即位すると高陽王とされ、関中攻略に向かった。524年8月に隴口にて元志軍を大破し、11月、岐州を陥とした。524年⑶参照。
 [1]黒水…《水経注》曰く、就水は終南山の就谷より流れ、北方にて黒水と合流し、更に北方にて渭水に注ぐ。
 ⑵黒水…《読史方輿紀要》曰く、『西安府(長安)の西南百六十里(鳳翔府の東南二百里)→盩厔県の西南にある。
 ⑶蕭宝寅…字は智亮。生年485、時に41歳。南斉の明帝の第六子。502年に北魏に亡命し、斉王に封ぜられた。524年、梁が寿陽に侵攻してくると都督徐州東道諸軍事とされて救援に赴いたが、間もなく呼び戻されて西道行台・大都督とされ、関中の平定に向かった。524年(2)参照。
 ⑷崔延伯…知勇兼備の名将。南斉に仕えていたが、太和年間(477~499)に北魏に入国し、喜んだ孝文帝に重用された。524年、西道都督とされて関西の平定に赴いた。524年⑵参照。
 ⑸馬嵬…《読史方輿紀要》曰く、『西安府(長安)の西百里→興平県(武功県の東五十里)の西二十五里にある。
 ⑹『魏書』『北史』本紀ともに「涇・岐」とある。
 ⑺魏子建伝曰く、『秦賊が岐州の勝利に乗じて黒水に屯営した。そこで子建は密かにこれに奇襲を仕掛け、前後に非常に多くの兵を斬り捕らえた。ここにおいて威名は赫然となり、先に叛していた者たちはことごとく北魏に降った。』とある。

┃清廉・魏蘭根
 蕭宝寅は宛川(雍城の西南、陳倉を陥落させると、その民を全て奴隷とし、美女十人を岐州刺史の魏蘭根に褒美として与えた。すると蘭根は辞退して言った。
「宛川県は秦賊に迫られ、生きるためにやむなくこれに従っただけのこと。故に官軍はその境遇を憐れんで労るのが当然です。なのにどうして今却って彼らに賊と同じようなひどい仕打ちをし、奴隷になどしているのですか!」
 かくてことごとく家族のもとに帰らせた。
 岐州には麦が多く実り五穀を産した。隣州にて田鼠(クマネズミ)が田畑を食い荒らしても、蘭根のいる岐州には被害が及ばなかった。

○北斉23・北56魏蘭根伝
 軍還,除冠軍將軍,轉司徒右長史,假節,行豫州事。孝昌初,轉岐州刺史。從行臺蕭寶寅討破宛川,俘其民人為奴婢,以美女十人賞蘭根。蘭根辭曰:「此縣界(介)於強虜,皇威未接,無所適從,故成背叛。今當〔恤其飢寒,〕寒者衣之,飢者食之,奈何將()充僕隸乎?」〔於是〕盡以歸其父兄。部內麥多五穗,隣州田鼠為災,犬牙不入岐境。

 ⑴宛川…《読史方輿紀要》曰く、『北魏は陳倉を宛川とし、西魏はこれを陳倉に改め、北周は顕州を置いた。
 ⑵魏蘭根…鉅鹿魏氏の出。父は太山太守の魏伯成。身長八尺で、並外れて立派な顔立ちをしていた。大の読書家で、特に左氏伝と周易を暗誦する事ができた。また、物事の理解が非常に早かった。母が亡くなった時、祟りを恐れる事なく、董卓の祠の周囲にある柏の木を全て伐採して槨(棺を保護するもの)の材料に転用した。父の伯成が亡くなると瀕死になるほどに悲しみに打ち沈んだ。北魏に仕えるとどの職場でも能吏の評判を得た。523年、李崇の長史とされると府戸の解放を進言した。523年⑵参照。

┃南秦回復
〈北魏の東益州刺史の魏子建が南秦州の諸氐を招撫すると、六郡十二戍が再び北魏に帰順した。子建は更に賊帥の韓祖香6月参照)を斬った。莫折念生の南秦王の張長命524年6月参照)は子建の勢いを恐れ、蕭宝寅に降伏の使者を送った。
 孝明帝はこれを嘉賞し、子建を兼尚書・山南行台とし、東益州刺史はそのままとした。これより威は蜀土を震わし、梁・巴・二益・両秦の指揮は子建に任された(524年12月か525年正月の事)。〉

○魏孝明紀
 山南行臺東益州刺史魏子建招降南秦氐民,復六郡十二戍,又斬賊王韓祖香。南秦賊王張長命畏逼,乃告降於蕭寶夤。
○魏104自序
 及秦賊乘勝,屯營黑水,子建乃潛使掩襲,前後斬獲甚眾,威名赫然,先反者及此悉降。乃間使上聞,肅宗甚嘉之,詔子建兼尚書為行臺,刺史如故。於是威震蜀土,其梁、巴、二益、兩秦之事,皆所節度。

汝・穎呼応と淵藻の北伐
 己巳(正月24日)、梁の宣毅将軍(十七班)・豫州(合肥)刺史の裴邃が北魏の新蔡郡を抜いた

 また、鎮北将軍・南兗州刺史の豫章王綜に彭城に赴かせた。
 また、それに先立って侍中・領軍将軍の西昌侯淵藻を軍師将軍(十九班)とし、西豊侯正徳を軽車将軍(十四班)として渦陽(北魏の南兗州)を攻めさせた。
 この時、〔鎮衛南平王長史の〕謝幾卿が参加を志願してきたので、抜擢して軍師長史とし、威戎将軍(五班)を加えた。
 幾卿が出立しようとした時、〔右〕僕射の徐勉が別れの挨拶に来てこう言った。
「淮・淝の役(淝水の戦い)の時、前謝(謝安・謝玄)は奇功(侵攻してきた前秦の大軍を大破した)を立てたが、今謝(幾卿)は一体どんな功を立てるのか。」
 幾卿は即座に答えて言った。
「今徐()が前徐に勝っているのですから(東海徐氏は徐勉までパッとしない)、後謝が前謝の名を辱める事は無いでしょう。」
 勉は何も答えられなかった。

 癸酉(28日)裴邃が鄭城を抜いた。汝・穎一帯は次々と梁軍に呼応した。

○資治通鑑
 乙巳,裴邃拔魏新蔡郡,詔侍中、領軍將軍西昌侯淵藻將衆前驅,南兗州刺史豫章王綜與諸將繼進。
○梁武帝紀
 己巳,雍州前軍剋魏新蔡郡。詔曰:「廟謨已定,王略方舉。侍中、領軍將軍西昌侯淵藻,可便親戎,以前啟行;鎮北將軍、南兗州刺史豫章王綜董馭雄桀,風馳次邁;其餘眾軍,計日差遣,初中後師,善得嚴辦。朕當六軍雲動,龍舟濟江。」癸酉,剋魏鄭城。
○梁23西昌侯淵藻伝
 六年,為軍師將軍,與西豐侯正德北伐渦陽。
○梁28裴邃伝
 明年,復破魏新蔡郡,略地至於鄭城,汝潁之間所在響應。
◯梁50・南19謝幾卿伝
 尋除太子率更令,遷鎮衞南平王長史。普通六年,詔遣領軍將軍西昌侯蕭淵藻督眾軍北伐,樂(幾)卿啟求行,擢為軍師長史,加威戎將軍。〔將行,與僕射徐勉別,勉云:「淮、淝之役,前謝已著奇功,未知今謝何如?」幾卿應聲曰:「已見今徐勝於前徐,後謝何必愧於前謝。」勉默然。〕軍至渦陽退敗,幾卿坐免官。
○梁55豫章王綜伝
 會大舉北伐,六年,魏將元法僧以彭城降,高祖乃令綜都督眾軍,鎮于彭城。
○南51臨賀王正徳伝
 六年為輕車將軍,隨豫章王北侵。

 ⑴裴邃…字は淵明。文才があり、左伝に通じた。南斉の代に北魏に降っていたが、502年に梁に亡命した。以降軍才を示して多くの武功を挙げた。普通二年(521)頃に督豫州北豫霍三州諸軍事・豫州刺史とされた。524年の6月、督征討諸軍事とされ、北伐に向かった。9月、寿陽を攻めて外城を陥としたが結局撃退された。524年⑶参照。
 ⑵梁本紀では「雍州前軍」が新蔡を陥としたとある。
 ⑶新蔡郡…《読史方輿紀要》曰く、『汝寧府(豫州)の東百四十里、或いは陳州の項城県の西南百二十里の新蔡県にある。西晋が新蔡郡を置き、劉宋もこれを踏襲した。南斉は北新蔡郡を置き、北魏は新蔡郡を置き、東魏はここに蔡州を兼置した。
 ⑷豫章王綜…字は世謙。武帝の第二子。母は呉淑媛。523年、使持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・平北将軍・南兗州刺史とされた。524年、鎮北将軍とされた。524年⑴参照。
 ⑸西昌侯淵藻…字は靖芸。生年483、時に43歳。武帝の兄の蕭懿の子。長沙王業の弟。高潔な心を持っていて、栄達を求めず、古風な詩文を作ることを好んだ。益州刺史・雍州刺史・兗州刺史を歴任した。522年、領軍将軍とされた。
 ⑹西豊侯正徳…字は公和。梁の武帝の弟の臨川王宏の子。子の無い武帝の養子とされたが、501年に蕭統が生まれるとお払い箱とされ、502年、西豊侯とされた。これを不満に思い、522年、北魏に逃亡したが、厚遇されなかったため間もなく梁に還り、武帝の赦しを得た。のち給事黄門侍郎とされた。
 ⑺謝幾卿…超名門の陳郡謝氏の出。父は南斉の黄門郎の謝超宗。幼い頃から利発で、神童と謳われた。父が越州に流されたとき、別れが辛いあまりに長江に飛び込み救い出された。483年、父が死ぬと悲しみのあまり痩せ細った。喪が開けると国子生とされ、南斉の文恵太子長懋から直々に試験を受けると流れるように解答し、国子祭酒の王倹に「謝超宗は死んでいない」と絶賛された。学問を好み、読書家で文才を有した。仕官して豫章王国常侍とされ、のち梁に仕えて尚書三公郎とされたが、間もなく治書侍御史とされると不貞腐れた。のち尚書左丞とされると昔の儀式や作法に通じている事を以て僕射の徐勉に尊重された。ただ、放埒な性格で夜に役所にて飲酒し、弾劾を受けて免官に遭った。間もなく復帰して国子博士とされ、のち鎮衛南平王長史とされた。
 ⑻徐勉…字は修仁。生年466、時に60歳。梁前期の宰相。519年に右僕射とされた。
 ⑼鄭城…《読史方輿紀要》曰く、『潁州〈汝陰〉の東南百二十里→潁上県の南にある。

┃徐州を巡る攻防
 北魏の安楽王鑑元法僧の討伐に赴き、梁の大都督の元略の軍を彭城の南にて大破した。略は兵をことごとく捕虜とされ、数十騎のみとなって彭城に逃げこんだ。
 鑑はこの勝利に気が緩み、警戒を解いたところを法僧の攻撃に遭った。今度は鑑が大敗し、単騎にて逃げ帰る羽目となった。
 都督・軍司の畢聞慰も洛陽に逃げ帰り、弾劾を受けたが赦免された。
 この年、聞慰は亡くなった(享年57)。

 梁の将軍の王希聃が北魏の南陽平を抜き、太守の薛曇尚を捕らえた。
 曇尚は薛虎子の子である。整った容貌を持ち、性格は穏やかなものがあった。初め御史とされ、のち奉朝請を加えられた。熙平二年(517)、徐州の穀陽戍主・行南陽平郡事とされた。のち母が亡くなると辞職した。
 正光年間(520〜)、朝廷は陽平郡が梁に隣接していて重要であることから、この太守にふさわしい人物を推挙させた。そこで左僕射の蕭宝寅は曇尚を推挙して許可された。
 のち、法僧が叛し、味方に付くよう使者が送られてくると、曇尚はこれを斬って首を安楽王鑑のもとに送った。しかし鑑は曇尚を助ける事ができなかった。

 甲戌(正月29日)、梁が元法僧を侍中・司空とし、始安郡王(邑五千戸。梁39元法僧伝では「公」)とした。

 北魏は鑑の敗北を知ると、代わりに李崇を復帰させて徐州大都督・節度諸軍事とし、討伐に赴かせることにした。しかし偶然崇の病状が悪化したため、代わりに衛将軍・国子祭酒の安豊王延明を東道行台・徐州大都督とし、鎮軍将軍の臨淮王彧と撫軍将軍・七兵尚書の李憲を使持節・仮鎮東将軍・徐州都督とし、冠軍将軍・宗正少卿の元譚を持節・仮左将軍・別将とし、尉慶賓を別将として彭城を攻撃させることにした。

 譚は六代献文帝の孫で、趙郡王幹の子で、趙郡王謐の弟である。非常に剛直で、若年の頃から宗室から尊敬を集めた。出仕して羽林監とされ、のち高陽太守とされると厳しい統治を行なって豪族を恐れはばからせた。孝明帝が即位すると朝廷に入って直閤将軍とされ、のち太僕・宗正少卿を歴任し、冠軍将軍を加えられた。

 この月(癸亥〈18日〉?)、北魏が太師・大将軍の京兆王継を太尉とした。他はそのままとした。

○魏孝明紀
 詔祕書監安樂王鑒回師以討之,鑒於彭城南擊元略,大破之,盡俘其眾,既而不備,為法僧所敗。衍遣其豫章王綜入守彭城,法僧擁其僚屬、守令、兵戍及郭邑士女萬餘口南入。詔鎮軍將軍、臨淮王彧,尚書李憲為都督,衞將軍、國子祭酒、安豐王延明為東道行臺,復儀同三司李崇官爵,為東道大都督,俱討徐州。崇以疾不行。…以太師、大將軍、京兆王繼為太尉,餘官如故。
○梁武帝紀
 甲戌,以魏鎮東將軍、徐州刺史元法僧為司空。〔封始安郡王。
○魏19元略伝
 略至,屯於河南,為安樂王鑒所破,略唯數十騎入城。衍尋遣其豫章王綜鎮徐州,徵略與法僧同還。
○魏20安豊王延明伝
 及元法僧反,詔為東道行臺、徐州大都督,節度諸軍事,與都督臨淮王彧、尚書李憲等討法僧。
○魏21元譚伝
 謐弟譚,頗強立,少為宗室所推敬。自羽林監出為高陽太守,為政嚴斷,豪右畏之。肅宗初,入為直閤將軍,歷太僕、宗正少卿,加冠軍將軍。元法僧外叛,詔譚為持節、假左將軍、別將以討之。
○魏26尉慶賓伝
 元法僧之外叛,蕭衍遣其豫章王蕭綜鎮徐州,又詔慶賓為別將隸安豐王延明討之。
○魏36李憲伝
 尋除七兵尚書,加撫軍將軍。孝昌初,元法僧據徐州反叛。詔憲為使持節、假鎮東將軍、徐州都督,與安豐王延明、臨淮王彧等討之。
○魏44薛曇尚伝
 曇寶弟曇尚,有容貌,性寬和。初辟御史,加奉朝請。熙平二年,除徐州穀陽戍主,行南陽平郡事。母憂去職。正光中,詔以陽平隣接蕭衍,綏捍須人,仰尚書舉才而遣。左僕射蕭寶夤舉曇尚應選,馳驛之郡。孝昌初,徐州刺史元法僧叛入蕭衍,曇尚斬其使人,送首於都督、安樂王鑒。鑒不能援,遂為蕭衍將王希聃所陷,拘曇尚送蕭衍。衍以禮遇之,曇尚乞歸,衍乃聽還。肅宗復其本秩。
○魏61畢聞慰伝
 後以本軍除散騎常侍、東道行臺,尋為都督、安樂王鑒軍司。孝昌元年春,徐州刺史元法僧反,聞慰與鑒攻之,為法僧所敗,奔還京師。被劾,遇赦免。其年卒,年五十七。
○魏66李崇伝
 後徐州刺史元法僧以彭城南叛,時除安樂王鑒為徐州刺史以討法僧,為法僧所敗,單馬奔歸。乃詔復崇官爵,為徐州大都督,節度諸軍事。會崇疾篤,乃以衞將軍、安豐王延明代之。改除開府、相州刺史,侍中、將軍、儀同並如故。
○魏82常景伝
 徐州刺史元法僧叛入蕭衍,衍遣其豫章王蕭綜入據彭城。時安豐王延明為大都督、大行臺,率臨淮王彧等眾軍討之。
○梁39元法僧伝
 既而魏亂稍定,將討法僧,法僧懼,乃遣使歸款,請為附庸,高祖許焉,授侍中、司空,封始安郡公,邑五千戶。

 ⑴畢聞慰…字は子安。生年469、時に57歳。鉅平侯の畢衆愛(劉宋から北魏に寝返った)の子。北魏に仕えて広平内史とされ、善政を行なった。520年に相州刺史の中山王熙が元叉討伐の兵を挙げるとその使者を斬って朝廷に付き、叉に気に入られて滄州刺史とされた。のち東道行台とされ、間もなく都督・安楽王鑑軍司とされた。
 ⑵薛虎子…441~491。北人で、太州刺史・河東公の叱干野䐗の子。北魏に仕えて枋頭(洛陽と鄴の中間)鎮将とされ、479年、劉昶の南伐を支援した。480年、徐州民の桓和らが叛乱を起こすと南征都副将とされてこれを平定した。間もなく彭城鎮将→徐州刺史とされると善政を行なった。また、屯田を進言して聞き入れられた。491年、州にて亡くなった。
 ⑶李崇…字は継長。生年455、時に71歳。北魏の名臣。文成皇后の兄の子。もと揚州刺史。『臥虎』と呼ばれる数千人の精鋭部隊を率い、十年に渡って梁から揚州を守り抜いた。523年、老齢を押して阿那瓌の討伐に向かったが、捕捉できずに終わった。この時、改鎮為州を求めた。間もなく六鎮の乱が起こるとこの求めが鎮民にあらぬ心を生じさせたのではないかと問題視され、罰としてその平定を命じられ、北討大都督とされた。524年、長史の罪に連座して官爵を剥奪された。524年⑶参照。
 ⑷安豊王延明…元延明。字は延明。生年484、時に42歳。五代文成帝の孫で、安豊王猛の子。大の読書家で文才を有し、蔵書は万余に上った。また、清廉で、中山王熙・臨淮王彧らと才名を等しくした。風流さは二人に劣ったが、純朴さでは優った。512年に大飢饉が起こると家財をなげうって賓客数十人とその家族を救済した。のち豫州刺史とされると善政を行なった。のち給事黄門侍郎とされた。間もなく侍中とされ、侍中の崔光と共に服制の選定を行なった。のち兼尚書右僕射とされた。
 ⑸臨淮王彧…元彧。字は文若。三代太武帝の玄孫。幼い頃から聡明で学識があり、安豊王延明・中山王熙と並び称された。また、崔光に三公になる才能があると評された。本名は亮で、字も仕明だったが、同僚の父の諱を避け、曹魏の名臣の荀彧(字は文若)の名と字に変えた。衛将軍・兼尚書左僕射とされ、524年に都督北討諸軍事とされて破六韓抜陵討伐に赴いたが、敗れて除名された。のち復帰を許された。524年⑴参照。
 ⑹李憲…字は仲軌。生年470、時に56歳。名門の趙郡李氏の出。西兗州刺史・濮陽侯の李式(献文帝に誅殺された)の子。清廉正直で、優れた容姿を備え、学問を好んだ。孝文帝に才能を認められ、梁使の接待を任された。510年、兗州刺史とされたが511年に除名された。のち高肇に付いていた事で弾劾を受けた。523年、復帰を許された。524年、行雍州刺史とされた。間もなく七兵尚書とされた。
 ⑺尉慶賓…もと尉遅氏で、征西大将軍・漁陽王の尉多侯の弟の子。騎射を得意とし、将略を有した。孝文帝の時(471~499)に出仕して員外散騎侍郎とされ、のち次第に昇進して左将軍・太中大夫とされた。孝明帝の時に朝廷が柔然主の阿那瓌を帰国させる事を審議した際(521年)、上表して固く諌めたが聞き入れられなかった。523年、阿那瓌が叛乱を起こすと別将とされて討伐に赴いた。523年⑴参照。
 ⑻京兆王継…字は世仁(仁世)。生年464、時に62歳。道武帝の昆孫で、南平王霄の第二子。子が無いまま死んだ江陽王根の跡を継いだ。温和寛容な性格で長者と呼ばれたが、貪欲だった。孝文帝の時に撫冥鎮都大将→都督柔玄撫冥懐荒三鎮諸軍事・柔玄鎮大将とされた。のち左衛将軍・兼中領軍とされ、洛陽の留守を任された。のち平北将軍とされて平城を鎮守した。498年に高車酋帥の樹者が叛乱を起こすと都督北討諸軍事とされて討伐を命じられた。このとき戦わずして叛徒の多くを帰順させ、孝文帝に「江陽王は大任を任せるに足る」と激賞を受けた。宣武帝が即位すると青州刺史→恒州刺史→度支尚書とされたが、青州刺史の時に飢饉が起きた際、州民の娘を家僮の妻にしたり良民を下女にした事が問題視されて官爵を剥奪された。514年に徐揚の鎮守を任された。515年に胡太后が摂政を行なうと子の元叉が太后の妹を妻としていた事を以て官爵を元に戻され、間もなく特進・領軍将軍とされた。のち驃騎大将軍・儀同三司とされ、518年に京兆王に改められた。519年に司空、520年に司徒、521年に太保、522年に太傅、524年に太師・大将軍・録尚書事・西道大都督とされて莫折念生の討伐に赴いた。524年⑶参照。

┃渦陽包囲

 2月、丁丑(2日)、老人星(カノープス。吉星)が現れた。
 庚辰(5日)、南徐州(京口。建康の東)刺史の廬陵王続を朝廷に呼び戻し、作戦計画を伝えた。
 辛巳(6日)、〔始安王の〕元法僧の爵位を宋王に改めた。
 乙未(20日)、梁将の趙景悦が北魏の龍亢を抜いた。
〔梁軍は次いで渦陽(北魏の南兗州)を包囲した。〕

○梁武帝紀

 二月丁丑,老人星見。庚辰,南徐州刺史廬陵王續還朝,禀承戎略。〔辛巳,改封法僧為宋王。〕乙未,趙景悅下魏龍亢城。


 ⑴廬陵王続…蕭続。字は世訢。生年504、時に22歳。梁の武帝の第五子。母は丁貴嬪で、昭明太子統・太子綱の同母弟。勇猛果断で並外れた膂力を有し、騎射は百発百中の腕前であり、武帝に「我が任城(曹彰)」と賛嘆を受けた。ただ、強欲だった。509年に廬陵郡王とされた。511年に南彭城琅邪太守、514年に会稽太守、517年に江州刺史、520年に石頭戍軍事とされた。522年に都督雍梁秦沙四州諸軍事・雍州刺史とされた。のち南徐州刺史とされた。
 ⑵趙景悦…南斉の時に雍州刺史の蕭衍の典籤(目付け役)を務めた。のち衍が梁の武帝となると主書とされ、503年、蜀の劉季連のもとに使者として赴き、降伏させた。のち驍騎将軍・祁陽男とされたが、504年に北魏に敗れて捕らえられた。のち解放されて北兗州刺史とされた。524年9月に北魏の荊山城(北徐州の西北)を包囲し、12月にこれを降した。524年⑶参照。
 ⑶龍亢…《読史方輿紀要》曰く、『龍亢城は鳳陽府(北徐州)の西北七十里→懐遠県の西北八十五里にある。渦水の北にある。』


(2)に続く