[北魏︰建明二年→普泰元年 梁︰中大通三年]

┃高歓叛す


 高歓が爾朱氏討伐の兵を起こすことを考えると、鎮南大将軍の斛律金525年〈5〉参照)や軍主で善無の人の厙狄干、歓の妻の母の弟の婁昭、妻の姉の夫の段栄らがこれに賛成し、その実行を勧めた。
 歓はそこで爾朱兆の書状を偽造し、六鎮兵らに対してこう言った。
「柱国(爾朱兆)は諸君を契胡のもとに配し、その私兵にしようとしている。」
 六鎮兵らは以前契胡らに虐待された過去があったため、みな一様にこれに恐れや不安を抱いた。更に歓は并州の符節も偽造し、兆が六鎮兵を步落稽(汾州の稽胡)の討伐に充てようとしていると言った。そこで歓が一万の兵をこれに派遣しようとしたところ、孫騰と都督の尉景が五日の延期を二度求めてきたため、十日後になってようやくこれを実行した。歓は六鎮兵ら一万を自ら信都の郊外まで見送り、涙を拭いながら一人ひとり手を取って別れた(原文『雪涕執別』)。すると兵らはみな大声を上げて泣き、その声の大なること、原野を震わすほどだった。歓はそこで彼らにこう諭して言った。
「私は諸君たちと同じく故郷を失って流民となった者で、心では諸君を家族のように見なしていた。その諸君を柱国は突然差し出せと言うのだ! しかし、いま直ちに西に向かっても死に、軍期に遅れても死に、国人(支配者の人々。爾朱氏ら契胡のこと)に配されても死ぬことになるだろう。諸君は一体どうするつもりなのか?」
 兵らは口を揃えてこう言った。
「叛するしかありません!」
 歓は言った。
「叛乱は一大事であり、成功するためには盟主を一人決める必要がある。誰が良いか?」
 兵たちがみな歓を推すと、歓はこう言った。
「諸君たちの統率は難しい。諸君を以前率いた葛栄は、百万の大軍を擁していたが、規律に欠けていたため敗滅することになった。故に、私を盟主としたいというのなら、栄の時とは違い、次の三点を守ってもらう事にする。一に、漢児(漢人)を虐げるな。二に、軍令を犯すな。三に、私に命を捧げよ。この三点を呑む事ができないのならば、私は諸君の盟主とはならぬ。天下の笑い者にはなりたくないからな。」
 兵たちはみなぬかずいて言った。
「我らの生死を大王に託します!」
 歓はそこでやむを得ないという形をとってこれを許した。翌日、牛を屠って兵たちに饗した。
 この時、封隆之が進み出て言った。
「この千載一遇の機会に際会したのですから、天下の人々はまこと幸せ者でありますな。」
 歓は答えて言った。
「賊を討つのは大いに民心にかなう事であり、世を救うのは大功業であるゆえ、やらないという選択肢は無い。私は武事に通じているわけではないが、命を賭して義挙を行なう覚悟だ。」

 庚申(6月22日)、歓は信都にて挙兵した。しかし、まだ爾朱氏に対して明確に反抗の態度を取ったわけではなかった。

 厙狄干は、善無(恒州平城の西)の人である。曾祖父の厙狄越豆眷は、道武帝の時に功を挙げたことによって善無西部の臘汙山地方百里の地を所領として与えられ、そこに居住するようになった。のち部落と共に北に移住した。
 干は剛直にして口数少なく、武芸に優れていた。正光の初め(520年)に叛乱を平定して将軍号を授けられ、朝廷に招聘されて宿衛の一員となった。しかし北方育ちで夏の猛暑に耐えられなかったため、冬に入京して夏に故郷に帰ることを許された。孝昌元年(525年)に北辺に動乱が起こると、雲中に逃亡し、刺史の費穆によって爾朱栄のもとに送られた。のち軍主に任じられて栄の入洛に従った

 婁昭、字は菩薩は、代郡平城の人であり、歓の妻の婁昭君の同母弟である。祖父の提は雄壮な姿貌と見識・度量を併せ持ち、召使いは千人を数え、牛馬は谷単位で量るほどあった(爾朱氏と同じ表現)。生まれつき人に施しをするのが好きで、多くの者がこれに懐き従った。太武帝の治世(424~451年)に功を挙げて真定侯に封じられた。父の内干は優れた力を持っていたが、官に仕えないまま亡くなった。
 昭は真面目な正直者で、大きな度量と深謀を持ち、腰回りは八尺もあって、弓馬の腕前は一流のものがあった。歓は若い時からこれに親しみと尊敬を込めて接し、昭も早くから歓の才を見抜いて、常に丁重な態度で接した。度々歓の猟に付き従い、険しい所に冒険したがるのを押しとどめていた。

 段栄生年478、時に54歳)、字は子茂は、姑臧武威の人である。祖父の信は沮渠氏に仕えたのち、北魏に仕え、豪族という理由で北辺に徙され、五原郡に居を構えることとなった。父の連は安北府司馬となった。
 栄は若い時から曆術を好み、星占いを専門にしていた。正光の初め(520年)に、栄は人にこう語って言った。
「易経には『天文を観ると時変を察することができる』『天は日月に予兆を表すため、人はこれによって吉凶を占うことができる』とある。いま私は天象を観て人の世の動きを察した。恐らく十年の内に世は乱れるだろう。」
 ある人が尋ねて言った。
「それはどこで起きるのか。また、それから身を避けることはできるのか。」
 栄は答えて言った。
「乱はこの地(北辺)より起こり、天下に波及するだろうから、避ける場所はどこにも無いだろう。」
 間もなく果たしてその言葉通りになった(524年に北辺の沃野鎮にて破六韓抜陵の乱が起こった)。栄は乱に遭うと郷里の友人や妻子と共に南下して平城に赴いたものの、たまたま杜洛周の乱に巻き込まれてこれに従うことになった。栄は歓と協力して洛周を殺そうとしたが、失敗して共に爾朱栄のもとに逃れた。

○資治通鑑
 魏高歡將起兵討爾朱氏,鎭南大將軍斛律金、軍主善無庫狄干與歡妻弟婁昭、妻之姊夫段榮皆勸成之。歡乃詐為書,稱爾朱兆將以六鎭人配契胡為部曲,衆皆憂懼。又為幷州符【爾朱兆擅命幷、汾。此亦高歡僞為兆符也】,徵兵討步落稽【步落稽,卽稽胡】,發萬人,將遣之。孫騰與都督尉景為請留五日,如此者再【孫騰、尉景旣為鎭人請留,必又因其願留之情扇動之於下,此當以意會也】,歡親送之郊,雪涕執別,衆皆號慟,聲震原野。歡乃諭之先感動其心,而後諭之曰:「與爾俱為失鄕客,義同一家【高歡亦鎭戶,故云然】,不意在上徵發乃爾!今直西向【自信都赴幷、汾為西向】,已當死,後軍期,又當死,配國人【爾朱,契胡種也,故謂契胡為國人】,又當死,奈何?」衆曰:「唯有反耳!」歡曰:「反乃急計,然當推一人為主,誰可者?」衆共推歡,歡曰:「爾鄕里難制。不見葛榮乎:雖有百萬之衆,曾無法度,終自敗滅。今以吾為主,當與前異,毋得陵漢人,犯軍令,生死任吾則可;不然,不能為天下笑。」【高歡先立法制以齊其衆,故能成大事。史言盜亦有道】衆皆頓顙曰:「死生唯命!」歡乃椎牛饗士,庚申【《考異》曰:《魏書·帝紀》起兵在庚申,《北齊書·帝紀》在庚子,《北史·魏紀》、《齊紀》亦然。今從《魏書·紀》】,起兵於信都,亦未敢顯言叛爾朱氏也。
○魏前廃紀
 六月庚申,齊獻武王以尒朱逆亂,始興義兵於信都。
○北斉神武紀
 神武自向山東,養士繕甲,禁侵掠,百姓歸心。乃詐為書,言尒朱兆將以六鎮人配契胡為部曲,眾皆愁怨。又為并州符,徵兵討步落稽。發萬人,將遣之,孫騰、尉景為請留五日,如此者再。神武親送之郊,雪涕執別,人皆號慟,哭聲動地。神武乃喻之曰:「與爾俱失鄉客,義同一家,不意在上乃爾徵召。直向西已當死,後軍期又當死,配國人又當死,奈何!」眾曰:「唯有反耳。」神武曰:「反是急計,須推一人為主。」眾願奉神武。神武曰:「爾鄉里難制,不見葛榮乎,雖百萬眾,無刑法,終自灰滅。今以吾為主,當與前異,不得欺漢兒,不得犯軍令,生死任吾,則可,不爾,不能為取笑天下。」眾皆頓顙,死生唯命。神武曰若不得已,明日,椎牛饗士,喻以討尒朱之意。封隆之進曰:「千載一時,普天幸甚。」神武曰:「討賊,大順也;拯時,大業也。吾雖不武,以死繼之,何敢讓焉。」六月庚子,建義於信都,尚未顯背尒朱氏。
○北斉15厙狄干伝
 厙狄干,善無人也。曾祖越豆眷,魏道武時以功割善無之西臘汙山地方百里以處之,後率部落北遷,因家朔方。干梗直少言,有武藝。魏正光初,除掃逆黨,授將軍,宿衞於內。以家在寒鄉,不宜毒暑,冬得入京師,夏歸鄉里。孝昌元年,北邊擾亂,奔雲中,為刺史費穆送于尒朱榮。以軍主隨榮入洛【[一一]通志卷一五二此下有「授伏波將軍,神武臨晉州,請干為都督」十五字。疑是北齊書原文所有,無此十五字,則厙狄干既在洛陽,何以又從高歡起兵,不明】。
○北斉16段栄伝
 段榮,字子茂,姑臧武威人也。祖信,仕沮渠氏,後入魏,以豪族徙北邊,仍家於五原郡。父連,安北府司馬。榮少好曆術,專意星象。正光初,語人曰:「易云『觀於天文以察時變』,又曰『天垂象,見吉凶』,今觀玄象,察人事,不及十年,當有亂矣。」或問曰:「起於何處,當可避乎?」榮曰:「構亂之源,此地為始,恐天下因此橫流,無所避也。」未幾,果如言。榮遇亂,與鄉舊攜妻子,南趣平城。屬杜洛周為亂,榮與高祖謀誅之,事不捷,共奔尒朱榮。後高祖建義山東,榮贊成大策。為行臺右丞,西北道慰喻大使,巡方曉喻,所在下之。
○北斉17斛律金伝
 及尒朱兆等逆亂,高祖密懷匡復之計,金與婁昭、厙狄干等贊成大謀,仍從舉義。
○北斉21高乾伝
 時高祖雖內有遠圖,而外跡未見。

 ⑴爾朱兆…字は万仁。爾朱栄の甥。若くして勇猛で馬と弓の扱いに長け、素手で猛獸と渡り合うことができ、健脚で敏捷なことは人並み以上だったが、知略に欠けていた。栄に勇敢さを愛され、護衛の任に充てられた。栄が入洛する際に兼前鋒都督とされた。孝荘帝が即位すると車騎将軍・武衛将軍・都督・潁川郡公とされた。529年、上党王天穆の部将として邢杲討伐に赴いた。その隙に元顥が梁の支援を受けて洛陽に迫ると、胡騎五千を率いて引き返し、陳慶之と戦ったが敗れた。天穆が河北に逃れる際後軍を率いた。栄が洛陽を攻めた時、賀抜勝と共に敵前渡河を行なって顥の子の元冠受を捕らえた。この功により驃騎大将軍・汾州刺史とされた。530年、栄が孝荘帝に殺されると晋陽を確保し、爾朱世隆らと合流して長広王曄を皇帝の位に即け、大将軍・王となった。間もなく洛陽を陥とし、帝を捕らえた。紇豆陵步蕃が晋陽に迫ると帝を連れてその迎撃に向かい、中途にて帝を殺害した。步蕃に連敗したが、高歓の助力を得てなんとか平定することに成功した。531年、節閔帝が即位すると都督中外諸軍事・柱国大将軍・領軍将軍・領左右・并州刺史・兼録尚書事・大行台とされた。皇帝の廃立に関して何ら相談を受けなかったので、激怒して爾朱世隆を攻撃しようとした。間もなく天柱大将軍とされたが、栄の最後の官職であることを以て固辞し、代わりに都督十州諸軍事の官と并州刺史の世襲権を与えられた。531年⑶参照。

┃李元忠挙兵
 間もなく南趙郡太守の李元忠が手はず通り封龍山(李元忠伝では『西山』に挙兵して殷州に迫ると、歓は殷州を救援するという形で高乾を派遣した。乾は軽騎兵を率いて殷州に辿り着き、刺史の爾朱羽生と偽りの軍議を行なった。それから羽生と軍の慰撫をしに外に出た所で、彭楽が脇から馬上にてこれを捕らえ、殺してしまった。元忠と乾がその首を歓に献上しに来ると、歓は殷・冀に強い影響を持つ二人の意志を確認することができたことで、ようやく胸を撫で下ろしてこう言った。
「たった今わしの腹は決まったぞ!」
 かくて元忠を殷州刺史(李元忠伝では『行殷州事』)とし、広阿(殷州の治所)を守らせた
 歓はまた爾朱氏の罪状を並べ上げた上表文を節閔帝に提出したが、爾朱世隆に握りつぶされてしまった

 また、元忠の族弟で平棘(趙郡。殷州の西北)の人の李密も歓に呼応して挙兵した。
 密は字を希邕という。祖父は東郡太守の李伯膺、父は河内太守の李煥
 若年の頃から節操が固く、爾朱兆孝荘帝を弑逆すると密かに豪族らと結託し、高敖曹と共に報復を計った。

 また、石門山李愍も歓から書簡を受けると数千の兵を率いてそのもとに赴いた。歓はこれを自ら出迎え、使持節・征南将軍・都督相州諸軍事・相州刺史・兼尚書西南道行台・州都督とし、配下の兵を率いて石門を鎮守するよう命じ、自らその出立を見送った。愍は帰還すると馬鞍山に砦を築き、兵糧や兵士を集めて歓を遠くより支援した。

○魏前廃帝紀
 西定殷州,斬其刺史尒朱羽生,命南趙郡太守李元忠為刺史,鎮廣阿。
○北斉神武紀
 及李元忠與高乾平殷州,斬尒朱羽生首來謁,神武撫膺,曰:「今日反決矣。」乃以元忠為殷州刺史。是時兵威既振,乃抗表罪狀尒朱氏。世隆等祕表不通。
○北斉21・北31高乾伝
 尒朱羽生為殷州刺史,高祖密遣李元忠〔於封龍山〕舉兵逼其城,令乾率眾偽往救之。乾遂輕騎入見羽生,〔偽〕與指畫軍計。羽生與乾俱出〔勞軍〕,因〔彭樂側從馬上〕擒〔斬〕之,遂平殷州。
○北斉22李元忠伝
 時刺史尒朱羽生阻兵據州,元忠先聚眾於西山,仍與大軍相合,擒斬羽生。即令行殷州事。
○北斉22李密伝
 元忠族弟密,字希邕,平棘人也。祖伯膺,魏東郡太守,贈幽州刺史。父煥,治書侍御史、河內太守,贈青州刺史。密少有節操,屬尒朱兆殺逆,乃陰結豪右,與渤海高昂為報復之計。屬高祖出山東,密以兵從舉義,遙授并州刺史,封容城縣侯,邑四百戶。
○北斉22李愍伝
 助敗,愍遂入石門。高祖建義,以書招愍,愍奉書,擁眾數千人以赴高祖,高祖親迎之。除使持節、征南將軍、都督相州諸軍事、相州刺史,兼尚書西南道行臺、州都督。令愍率本眾西還舊鎮,高祖親送之。愍至鄉,據馬鞍山,依險為壘,徵糧集兵,以為聲勢。
○北斉22李景遺伝
 命與元忠舉兵於西山,仍與大軍俱會,擒刺史尒朱羽生。以功除龍驤將軍,昌平縣公,邑八百戶。

 ⑴封龍山…《読史方輿紀要》曰く、『真定府(常山郡)の西南九十里→元氏県の西北五十里にある。』或いは《読史方輿紀要》曰く、『封山は順徳府(襄国)の西二十里にある。』
 ⑵石門山…《読史方輿紀要》曰く、『石門塞は邯鄲県の東北百二十里→順徳府(邢台)の北五十五里→内丘県の西北にある。邢州の要害である。』
 ⑶馬鞍山…《読史方輿紀要》曰く、『順徳府の西北三十七里にある。』

┃楊氏一門の悲劇
 楊播とその弟の椿・津らはみな名声・徳望があり、播は剛毅、椿・津は謙恭で、遠戚である緦麻(三従伯叔父母姑兄姉)にまで共に会食をさせ、楊氏はみな嫉み合う事なく睦み合っていた《魏58楊氏伝》。椿・津は共に三公に至り、一門は七郡の太守と三十二州の刺史を輩出した。
 これより前、孝荘帝爾朱栄を誅した時、播の子の侃は妻の弟の李晞侃晞?)・城陽王徽・李彧ら姻戚《資治通鑑》と共にこれに加わった。爾朱兆が入洛すると、そのときちょうど休暇を貰っていた楊侃は、故郷の華陰に逃亡し隠れ潜んだ(侃が休暇を貰っていた時点で、兆の入洛がいかに急で、孝荘帝が油断していたかが分かる)。雍州刺史の爾朱天光は侃の子の妻の父の韋義遠を呼ぶと、こう言った。
「侃の罪は問わぬから、早く隠れ場所から出てくるよう説得してきてくれないか。」
 侃はこれを聞くやこう言った。
「これは嘘だろうが、私が死ねば一門が救われるかもしれぬ。」
 かくて呼びかけに応じて天光のもとに赴くと、果たして天光は約束を破ってこれを殺害した《魏58楊侃伝》
 このとき楊椿は引退して子の楊昱と故郷の華陰におり、椿の弟でもと冀州刺史の楊順・司空の楊津・順の子で東雍州刺史の楊弁・正平太守の楊仲宣らはみな洛陽にいた。
 秋、7月爾朱世隆は楊氏が叛乱を計画していると偽りの上奏を行ない、逮捕して取り調べるよう求めた。節閔帝はこれを認めようとしなかったが、世隆に何度もしつこく迫られたため、しぶしぶ担当の者に楊氏の調査を命じ、その結果を報告させることにした。
 壬申(4日)の夜、世隆は兵を発して洛陽にある津らの屋敷を囲み、天光も同日に兵を発して華陰にある椿の家を包囲した。東西の楊家は老幼を問わず皆殺しにされ、その家産は没収された。それから世隆は上奏して言った。
「楊氏は真に叛しており、逮捕のために差し向けた兵に抵抗しましたので、やむなく殴殺いたしました。」
 帝はこれを聞くや長らくその死を悼み、何も答えなかった。朝野もこれを聞くや憤慨しない者はいなかった。
 また、津の子で光州刺史の楊逸爾朱仲遠によって殺害された《魏58楊氏伝》
 ただ津の子の楊愔生年511、時に21歳)だけは襲撃のさい偶然外出していたため助かり、潜行して信都の高歓のもとに辿り着くと泣いて一門の受けた災禍を訴え、かつ爾朱氏を討つ策を述べた。歓は愔を非常に重んじ、行台郎中に任じた《北斉34楊愔伝》

○魏前廃紀
 秋七月壬申,尒朱世隆等害前太保楊椿、前司空公楊津及其家。
○魏58楊侃伝
 尒朱兆之入洛也,侃時休沐,遂得潛竄,歸於華陰。普泰初,天光在關西,遣侃子婦父韋義遠招慰之,立盟許恕其罪。侃從兄昱恐為家禍,令侃出應,假其食言,不過一人身歿,冀全百口。侃往赴之,秋七月,為天光所害。太昌初,贈車騎將軍、儀同三司、幽州刺史。子純陀襲。
○魏58楊椿伝
 椿還華陰踰年,普泰元年七月,為尒朱天光所害,年七十七,時人莫不冤痛之。太昌初,贈都督冀定殷相四州諸軍事、太師、丞相、冀州刺史。
○魏58楊昱伝
 後歸鄉里,亦為天光所害。太昌初,贈都督瀛定二州諸軍事、驃騎大將軍、司空公、定州刺史。
○魏58楊孝邕伝
 子孝邕,員外郎。走免,匿於蠻中,潛結渠帥,謀應齊獻武王以誅尒朱氏。微服入洛,參伺機會。為人所告,世隆收付廷尉,掠殺之。
○魏58楊順伝
 穎弟順,字延和,寬裕謹厚。太和中,起家奉朝請。累遷直閤將軍、北中郎將、兼武衞將軍、太僕卿。預立莊帝之功,封三門縣開國公,食邑七百戶。出為平北將軍、冀州刺史,尋進號撫軍將軍。罷州還,遇害,年六十五。太昌初,贈都督相殷二州諸軍事、太尉公、錄尚書事、相州刺史。
○魏58楊仲宣伝
 辯弟仲宣,有風度才學。自奉朝請稍遷太尉掾、中書舍人、通直散騎侍郎、加鎮遠將軍,賜爵弘農男。建義初,遷通直常侍。出為平西將軍、正平太守,進爵為伯。在郡有能名,就加安西將軍。還京之日,兄弟與父同遇害。辯,太昌初贈使持節、都督燕恒二州諸軍事、車騎大將軍、儀同三司、恒州刺史;仲宣,贈都督青光二州諸軍事、車騎大將軍、尚書右僕射、青州刺史。
○魏58楊玄就伝
 仲宣子玄就,幼而俊拔。收捕時年九歲,牽挽兵人,謂曰:「欲害諸尊,乞先就死。」兵人以刀斫斷其臂,猶請死不止,遂先殺之。永熙初,贈汝陰太守。
○魏58楊測伝
 仲宣弟測,朱衣直閤。亦同時見害。太昌中,贈都督平營二州諸軍事、鎮北將軍、吏部尚書、平州刺史。
○魏58楊津伝
 普泰元年,亦遇害於洛,時年六十三。太昌初,贈都督秦華雍三州諸軍事、大將軍、太傅、雍州刺史,諡曰孝穆。將葬本鄉,詔大鴻臚持節監護喪事。

○魏58楊逸伝
 尋除吏部郎中,出為平西將軍、南秦州刺史,加散騎常侍。時年二十九,於時方伯之少未有先之者。仍以路阻不行,改除平東將軍、光州刺史。逸折節綏撫,乃心民務,或日昃不食,夜分不寢。至於兵人從役,必親自送之,或風日之中,雨雪之下,人不堪其勞,逸曾無倦色。又法令嚴明,寬猛相濟,於是合境肅然,莫敢干犯。時災儉連歲,人多餓死,逸欲以倉粟賑給,而所司懼罪不敢。逸曰:「國以人為本,人以食為命,百姓不足,君孰與足?假令以此獲戾,吾所甘心。」遂出粟,然後申表。右僕射元羅以下謂公儲難闕,並執不許。尚書令、臨淮王彧以為宜貸二萬。詔聽二萬。逸既出粟之後,其老小殘疾不能自存活者,又於州門煮粥飯之,將死而得濟者以萬數。帝聞而善之。逸為政愛人,尤憎豪猾,廣設耳目。其兵吏出使下邑,皆自持糧,人或為設食者,雖在闇室,終不進,咸言楊使君有千里眼,那可欺之。在州政績尤美。
 及其家禍,尒朱仲遠遣使於州害之,時年三十二。吏人如喪親戚,城邑村落,為營齋供,一月之中,所在不絕。

朱瑞の最期
 乙亥(7日)、梁の武帝が高台に登り、皇太子の任命式を行ない、また大赦を行なった《梁武帝紀》

 丙戌(18日)、司徒の爾朱彦伯が旱害が起きたことを理由に辞職を願い出た。
 戊子(20日)節閔帝はこれを聞き入れ、彦伯を侍中・開府儀同三司に任じた《魏前廃帝紀》。彦伯は兄弟の中ではそれほど酷い罪を犯さなかった《魏75爾朱彦伯伝》。このとき爾朱世隆も太保の職を辞することを頑なに求めた。
 庚寅(22日)、帝は上公【太師・太傅・太保を三師とし、上公とした】に次するものとして特別に儀同三師の官を設け、侍中・太保・開府・尚書令・楽平王の爾朱世隆をこれに任じた《魏前廃帝紀》

 これより前、爾朱栄が死んだ時、朱瑞爾朱栄の腹心で朝廷を担当)は世隆の北走の途中で洛陽に引き返し、孝荘帝に付いて天光の説得に赴いていたが、爾朱兆が入洛すると洛陽に引き返し、再び爾朱氏に従うようになっていた。斛斯椿爾朱栄の腹心で、栄が死ぬと梁の魏王悦のもとに逃れ、兆が入洛すると北魏に還った。その後廃立計画に参加して節閔帝の即位に貢献し、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・京畿北面大都督に任じられ、また城陽郡公に改封されていた)は以前に瑞と仲違いを起こしていたことから、しばしば世隆に瑞の悪口を吹き込み、これを殺させようとした。世隆は生まれつき猜疑心が強く、また北走の際に離反された過去を根に持っていたため、瑞への恨みつらみが昂じていった。
 この月、世隆はとうとう瑞を殺害した(享年49《魏80朱瑞伝》

 この日(22日)、梁の武帝が詔を下して言った。
「おおよそ皇室親族の緦麻(三従伯叔父母姑兄姉)以上にあたる女に湯沐邑(統治権の無い、税収だけの食邑)を、男に鄉侯・亭侯を授ける。その等級は血縁の遠近によって決めることとする。」
 壬辰(24日)、帝は吏部尚書の何敬容を尚書右僕射とした《梁武帝紀》。敬容は、昌寓(何尚之の弟の子。494年9月参照)の子である。

 8月、庚子(3日)、隴西王の爾朱天光の文武官のうち宿勤明達討伐に加わった者の爵位(二十等爵)を一律三級上げた。

○魏前廃紀
 丙戌,司徒公尒朱彥伯以旱遜位。戊子,除彥伯侍中、開府儀同三司。庚寅,以侍中、太保、開府、尚書令、樂平王尒朱世隆為儀同三師,位次上公。八月庚子,詔隴西王尒朱天光下文武討宿勤明達者,汎三級。

┃爾朱氏、続々と高歓討伐に向かう

 高歓叛乱の報が届いた時、爾朱仲遠・爾朱度律らは己の勢力の強大さを鼻にかけて何とも思わなかったが、ただ爾朱世隆のみは大変なことになったと危ぶんでいた。
 この日、柱国大将軍・并州刺史・潁川王の爾朱兆は度律らと示し合わせて出陣し、二万の兵を率い、井陘より山東に出て殷州に迫った。刺史の李元忠は城を棄てて高歓のいる信都に逃走した。
 丙午(9日)、彭城王の爾朱仲遠・常山王の爾朱度律らも高歓討伐のために出陣した。帝は度律を東北道大行台尚書令とした。

 9月、丁丑(10日)、侍中・驃騎将軍の盧同、驃騎大将軍の杜徳、車騎大将軍の橋寧を儀同三司とした。
 己卯(12日)、使持節・都督東道諸軍事・兼尚書令・東道大行台の爾朱仲遠を太宰とした。
 庚辰(13日)、更に使持節・大将軍・都督関中諸軍事・兼尚書令・西道大行台・隴西王の爾朱天光を大司馬とした。
 この日、開府・驃騎大将軍・都督青齊兗光四州諸軍事青州刺史の穆紹が任地に赴く前に逝去した(享年52。528年〈5〉参照)。
 癸巳(26日)、帝の父の広陵王羽に先帝、母の王氏に先太妃を追尊し、弟の元永業を高密王に、子の元恕を勃海王に封じた。

 冬、10月、己酉(13日)武帝が同泰寺に赴き、法座に座って七日間に渡って涅盤経の講義をした。

○魏前廃紀
 潁川王尒朱兆率步騎二萬出井陘,趨殷州,李元忠棄城還信都。丙午,常山王尒朱度律、彭城王尒朱仲遠等率眾出抗義旗。九月丁丑,以侍中驃騎將軍盧同、驃騎大將軍杜德、車騎大將軍橋寧並為儀同三司。己卯,以使持節、都督東道諸軍事、兼尚書令、東道大行臺、彭城王尒朱仲遠為太宰。庚辰,加使持節、大將軍、都督關中諸軍事、兼尚書令、西道大行臺、隴西王尒朱天光為大司馬。驃騎大將軍、青州刺史、開府儀同三司穆紹薨。癸巳,追尊皇考為先帝,皇妣王氏為先太妃;封皇弟永業為高密王,皇子子恕為勃海王。
○北斉神武紀
 八月,尒朱兆攻陷殷州,李元忠來奔。
○魏75爾朱兆伝
 齊獻武王之克殷州也,兆與仲遠、度律約共討之。
○魏75爾朱世隆伝
 及齊獻武王起義兵,仲遠、度律等愚戇,恃強不以為慮,而世隆獨深憂恐。
○魏75爾朱度律伝
 前廢帝時,為使持節、侍中、大將軍、太尉、兼尚書令、東北道大行臺,與仲遠出拒義旗。
○魏76盧同伝
 尋轉殿中,加征南將軍。普泰初,除侍中,進號驃騎將軍、左光祿大夫。同時久病,強牽從務,啟乞儀同。初同之為黃門也,與前廢帝俱在門下,同異其為人,素相款託。廢帝以恩舊許之,除儀同三司,餘官如故。

 ⑴爾朱度律…爾朱栄の従父弟。素朴な性格で口数が少なかった。統軍とされて栄の征伐に付き従った。528年、栄が入洛すると楽郷県伯とされた。のち朔州刺史→軍州(?)刺史→右衛将軍→衛将軍→兼京畿大都督とされた。530年、栄が孝荘帝に殺されたことを知ると爾朱世隆と共に洛陽を脱し、黄河の南に逃れた。間もなく反転し、胡騎一千を率いて洛陽を攻撃したが陥とせなかった。のち爾朱兆と合流し、建明帝を擁立して太尉・四面大都督・常山王とされた。洛陽を陥とすと世隆と共に洛陽を鎮守した。531年、節閔帝を擁立し、大将軍・太尉とされた。531年⑴参照。

┃楽山侯正則の乱
 楽山侯正則が流刑先の鬱林にて亡命者たちを集め、番禺を攻めようとしたが、広州刺史の元景仲徐州と共に梁に降った元法僧の子。525年〈2〉参照)に敗れて殺された《梁武帝紀》。正則は、正徳(臨川王宏の子。初め武帝の養子となって皇太子とされたが、統が生まれると実家に帰された。正徳はこれを恨みに感じ、北魏に亡命したがのち梁に戻った。しかしその後も行跡が改まらなかったため、流罪にされかかった。525年〈4〉参照)の弟である。

┃天子擁立
 孫騰高歓に説いて言った。
「今我々は朝廷と断絶し、軍に命令を下しても正式なものではないので、士気が盛り上がりません。ここはひとまずこちらも天子を立てるべきでしょう。」
 歓はこれに躊躇いを見せたが、騰が再三求めるので、遂に渤海太守の元朗生年513、時に19歳)を皇帝に擁立することにした《北斉18孫騰伝》
 朗は字を仲哲といい、章武王融の第三子である。母は程氏。建明二年(531)の正月戊子(17日)に渤海太守とされていた。
 壬寅(10月6日)、朗は信都城の西において壇に登り柴を焚いて皇帝の位に即き(これが廃帝である。中興主とも称す)、大赦を行なって年号を普泰から中興に改めた。
 また、高歓を侍中・丞相・都督中外諸軍事・大将軍・録尚書事・大行台とし、三万戸を加増した。
 また、兼侍中・撫軍将軍・河北大使の高乾を侍中・司空とし、前平北将軍・通直散騎常侍の高敖曹を驃騎大将軍・儀同三司・終身冀州刺史とし、前冀州刺史の元嶷を儀同三司とした。
 また、孫騰を尚書左僕射・河北行台《資治通鑑》(孫騰伝ではこのとき侍中に任じられ、間もなく更に使持節・六州流民大都督・北道大行台に任じられている)とし、魏蘭根爾朱栄が死んだ時、孝荘帝に井陘の防備に就くよう命じられたが、その途中侯淵に撃破され、高乾のもとに落ち延びた。のち高歓が信都に来ると、代々河北の名士で声望があることを理由に手厚くもてなされていた)を車騎大将軍・尚書右僕射とし《北斉23魏蘭根伝》封隆之を左光禄大夫・吏部尚書とした《北斉21封隆之伝》

○魏前廃紀
 冬十月壬寅,齊獻武王推勃海太守元朗即皇帝位於信都。
○魏後廃紀
 冬十月壬寅,即皇帝位於信都城西。昇壇焚燎,大赦,稱中興元年。文武百官普汎四級。以齊獻武王為侍中、丞相、都督中外諸軍事、大將軍、錄尚書事、大行臺,增邑三萬戶;以兼侍中、撫軍將軍、河北大使高乾邕為侍中、司空公;前平北將軍、通直散騎常侍高敖曹為驃騎大將軍、儀同三司,冀州刺史以終其身;以前刺史元嶷為儀同三司。
○北斉神武紀
 孫騰以為朝廷隔絕,不權立天子,則眾望無所係。十月壬寅,奉章武王融子渤海太守朗為皇帝,年號中興,是為廢帝。
○北斉21高昂伝
 後廢帝立,除使持節、冀州刺史以終其身。


┃広阿の決戦
 己酉(10月13日)爾朱仲遠・爾朱度律と驃騎大将軍の斛斯椿、車騎大将軍・儀同三司の賀抜勝、車騎大将軍の賈顕智が陽平に陣を布いた。
 爾朱兆も広阿に陣を布き、その軍勢を計十万と号した。
 この大軍に対し、高歓李元忠の族弟で并州刺史(名目上)の李密に殷・定二州から五千の兵を募らせて黄沙・井陘の二道を遮断させ〔、後方を撹乱させ〕た。
 また、妻の婁昭君の妹(婁黒女)の夫の竇泰が提案した反間の計を用い、大いに間者を放ってこう言い触らさせた。
「世隆兄弟(仲遠ら)が兆を殺そうと図っている。」
「兆が実は歓と結託していて、仲遠らを殺そうとしている。」
 ここにおいて兆と仲遠らは互いに疑心暗鬼になり、相手の出方を探ることに終止して進まなくなった。
 そのとき度律の軍中にいた〔右衛将軍の〕賀抜勝爾朱栄が死ぬと孝荘帝側に寝返ったが、のち仲遠に敗れ再び爾朱氏側に付いた。節閔帝の即位の際これに貢献し、車騎大将軍にまで昇進していた)がこう申し出た。
「敵を前に仲違いをするのは敗北の道です。どうか私と椿(斛斯椿)に調停をさせてください。」
 そこで仲遠らが〔開府・京畿北面大都督の〕斛斯椿と勝に兆を再三説得させると、兆はしぶしぶ軽騎三百を率いて仲遠の幕帳に赴いた。しかし兆は生まれつき粗野だったため、その顔色は荒ぶり、手は馬鞭を舞わし、口は鋭く長い声を発し、目は遠方を凝視して警戒の色を隠そうともしなかった。しばらくすると兆はとうとう我慢できず、馬に飛び乗るや自陣に馳せ帰ってしまった。仲遠らは再び椿・勝らを派してこれを追わせ、説得をさせたが、兆は椿・勝を捕らえて帰った。ここにおいて仲遠らも兆への不信が頂点に達し、遂に戦いを放棄して南方に帰ってしまった。
 兆は勝を斬ろうとして、その前にこう責め立てて言った。
衛可孤破六韓抜陵の乱に呼応し、武川鎮や懐朔鎮を攻略した)を殺したこと、これが第一の罪(抜陵が匈奴系だったことから、衛可孤もそうだったのかもしれない。爾朱氏の種族である契胡は匈奴の支流である。同族を殺された恨みがあった? そうでなくとも同じ北人として仲間意識があった? それとも、実は勝は可孤の配下であって、これに叛乱を起こして攻め殺した事を問題にした? それか六鎮人である勝が同じ六鎮人の可孤を殺したのを問題にした? こうでも考えなければ、突飛で突然な暴論である)。天柱大将軍(爾朱栄)が薨じられた時、世隆らと共にわしのもとに来ず、かえって仲遠を攻めたこと、これが第二の罪だ。わしは気まま勝手なお前を長らく殺したいと思っておった。最後に何か言い残すことはあるか?」
 勝は答えて言った。
「可孤は国家に大きな災いをもたらそうとしたので、我ら父子が誅したのです。これは功とするものであって、罪とするものではありません。また、天柱大将軍が殺されたのは、君が臣を誅したまでのこと。天子が道に反したというわけでもないのですから、臣がこれに仕えるのは当然のことでしょう。私は王()に背いたかもしれませんが、朝廷には背いておりませぬ。また、王は私を気まま勝手とおっしゃいますが、私は常に国家を中心に動いているのです。私は既に死を覚悟していますが、ただ心残りなのは、賊が目前にいるというのに、王たちが肉親同士で仲違いをされていることです。古今よりそのようにして滅ばなかったものはございません。私は己が死ぬことよりも、王が失敗する方を恐れてやみません。」
 兆はそこで勝を斬るのをやめた。また、椿も道理の限りを述べると、兆から謝罪を受けて勝ともども解放された。
 高歓は兆といざ戦おうとして、その軍の多いのと強いのを見て勝てるかどうか不安に思い、親信都督で段栄と自分の姉の子の段韶にこう尋ねて言った。
「敵は大軍で強大であり、こちらは寡兵で弱小である。どう戦えばよいものだろうか?」
 韶は答えて言った。
「大軍というのは、多くの者に死力を尽くさせることができて初めて大軍というのです。強大というのは、天下の人心を得て初めて強大というのです。爾朱氏は上は天子を弑し、中は百官を虐殺し、下は百姓を虐げて、全く人心を得ず、兵の心も掴めておりません。これでどうして大軍といい、強大といえるでしょうか。反対に大王は徳義明らかにして、君側の奸を除くという大義名分も持っているのです。これでどうして勝てぬことがありましょう!」
 歓は言った。
「そうかもしれぬが、我の兵が少なく敵が多いのは事実だ。天佑無く、失敗することも充分あり得よう。」
 韶は言った。
「私はこう聞いております。『小が大に匹敵できるのは、小が有道で大に不義がある時だ。』(原文『小之能敵大也、小道大淫。』『左伝』桓公六年、随の賢臣季梁の言葉)『天は依怙贔屓をせず、ただ公平に徳ある者だけを佑ける。』(原文『皇天無親、惟德是輔。』『周書』蔡仲之命)と【段韶父子は北辺に育ち、騎射を事としていたのに、どうしてこのような言葉を知っていたのだろうか! 恐らく魏收が段氏の強盛を慮ってこのような古の名言を言ったことにしたのだろう。孟子は『ことごとく書を信ずれば書無きにしかず。』(尽心下)と言われた。疑ってかからねばならない!(学問に通じている鎮民もいたのではないか】。爾朱氏は外は天下を乱し、内は英雄の心を得ず、智者あれど彼のために謀らず、勇者あれど彼のために戦わぬ状態です。爾朱氏かくのごとく人心を失いたるに、天がどうして大王を佑けぬことがありましょうか!」
 歓はそこで遂に兆と戦う覚悟を決めた。
 辛亥(15日)、歓は果たして兆を広阿にて大破し、五千余の兵を虜とした。
 廃帝は詔を下し、広阿で戦った将兵の爵位(二十等爵)を五級、留守の者の爵位を二級上げた。
 また、征東将軍・吏部尚書の封隆之を使持節・北道大使として臨機応変に行動させた。

○魏後廃紀
 己酉,尒朱度律、尒朱仲遠、斛斯椿、賀拔勝、賈顯智次於陽平,將抗義師,齊獻武王縱反間構之,遂與尒朱兆相疑,敗散而還。辛亥,齊獻武王大破尒朱兆於廣阿,虜其卒五千餘人。詔將士汎五級,留守者二級。詔征東將軍、吏部尚書封隆之為使持節、北道大使,隨方處分。
○北斉神武紀
 時度律、仲遠軍次陽平,尒朱兆會之。神武用竇泰策,縱反間,度律、仲遠不戰而還。神武乃敗兆於廣阿。
○魏75爾朱兆伝
 仲遠、度律次於陽平,兆出井陘,屯於廣阿,眾號十萬。王廣縱反間,或云世隆兄弟謀欲害兆,復言兆與王同圖仲遠等,於是兩不相信,各致猜疑,徘徊不進。仲遠等頻使斛斯椿、賀拔勝往喻之,兆輕騎三百來就仲遠,同坐幕下。兆性粗獷,意色不平,手舞馬鞭,長嘯凝望,深疑仲遠等有變,遂趨出馳還。仲遠遣椿、勝等追而曉譬,兆遂拘縛將還,經日放遣。仲遠等於是奔退。王乃進擊兆,兆軍大敗。
○魏75爾朱度律伝
 齊獻武王間之,與尒朱兆遂相疑貳,自敗而還。
○魏80・北49斛斯椿伝
 椿與尒朱度律、仲遠等北拒齊獻武王,次陽平。會尒朱兆與度律等相疑遁還,語在兆傳(椿與賀拔勝和之,兆執椿、勝還營。椿又陳以正理,兆謝而遣之。)。
○魏80賀抜勝伝
 普泰初,除右衞將軍,進號車騎大將軍、右光祿大夫、儀同三司。共尒朱仲遠、度律北拒義旗,相與奔退。事在尒朱兆傳。
○魏80賈顕智伝
 又從尒朱度律北拒義旗,合尒朱兆於陽平。兆與度律自相疑阻,退還。
○周14賀抜勝伝
 以功拜右衞將軍,進車騎大將軍、儀同三司、左光祿大夫。齊神武懷貳,爾朱氏將討之。度律自洛陽引兵,兆起幷州,仲遠從滑臺,三帥會於鄴東。時勝從度律。度律與兆不平。勝以臨敵搆嫌,取敗之道,乃與斛斯椿詣兆營和解之,反為兆所執。度律大懼,遂引軍還。兆將斬勝,數之曰:「爾殺可孤,罪一也;天柱薨後,復不與世隆等俱來,而東征仲遠,罪二也。我欲殺爾久矣,今復何言?」勝曰:「可孤作逆,為國巨患,勝父子誅之,其功不小,反以為罪,天下未聞。天柱被戮,以君誅臣,勝寧負朝廷?今日之事,生死在王。但去賊密邇,骨肉搆隙,自古迄今,未有不破亡者。勝不憚死,恐王失策。」兆乃捨之。勝既得免,行百餘里,方追及度律軍。
○北斉16段韶伝
 中興元年,從高祖拒尒朱兆,戰於廣阿。高祖謂韶曰:「彼眾我寡,其若之何。」韶曰:「所謂眾者,得眾人之死;強者,得天下之心。尒朱狂狡,行路所見,裂冠毀冕,拔本塞源,邙山之會,搢紳何罪,兼殺主立君,不脫旬朔,天下思亂,十室而九。王躬昭德義,除君側之惡,何往而不克哉!」高祖曰:「吾雖以順討逆,奉辭伐罪,但弱小在強大之間,恐無天命,卿不聞之也?」答曰:「韶聞小能敵大,小道大淫,皇天無親,唯德是輔,尒朱外賊天下,內失善人,知者不為謀,勇者不為鬭,不肖失職,賢者取之,復何疑也。」遂與兆戰,兆軍潰。
○北斉19蔡儁伝
 封烏洛縣男。隨高祖舉義,為都督。
○北斉19王懐伝
 高祖東出,懷率其部人三千餘家,隨高祖於冀州。義旗建,高祖以為大都督,從討尒朱兆於廣阿,破之,除安北將軍,蔚州刺史。
○北斉20范舍樂伝
 高祖義旗舉,棄兆歸信都。從高祖破兆於廣阿。
○北斉21封隆之伝
 尒朱兆等軍於廣阿,十月,高祖與戰,大破之。乃遣隆之持節為北道大使。
○北斉21高昂伝
 仍為大都督,率眾從高祖破尒朱兆於廣阿。
○北斉22李密伝
 屬高祖出山東,密以兵從舉義,遙授并州刺史,封容城縣侯,邑四百戶。尒朱兆至廣阿,高祖令密募殷、定二州兵五千人鎮黃沙、井陘二道。
○北斉22李愍伝
 高祖建義,以書招愍,愍奉書,擁眾數千人以赴高祖,高祖親迎之。除使持節、征南將軍、都督相州諸軍事、相州刺史,兼尚書西南道行臺、州都督。令愍率本眾西還舊鎮,高祖親送之。愍至鄉,據馬鞍山,依險為壘,徵糧集兵,以為聲勢。尒朱兆出井陘,高祖破兆於廣阿。愍統其本眾,屯故城以備尒朱兆。
○北斉22李景遺伝
 尒朱兆來伐,又力戰有功,除使持節、大都督、左將軍。

 ⑴黄沙…《読史方輿紀要》曰く、『黄沙嶺口は趙州(殷州)の西九十里→賛皇県の西北にある。』

┃知勇兼備の将、竇泰・段韶
 竇泰紇豆陵泰?)、字は世寧(墓誌では『寧世』)は、太安捍殊の人である。本貫は清河の観津だったが、祖父の竇羅が統万鎮将となるとそのまま北辺に居住するようになった。父の竇楽破六韓抜陵の乱に遭うと、鎮将の楊鈞と共に懐朔鎮を固守し、殺害された。これより前、泰の母はこんな夢を見た。
 風雷が激しく起こり、雨が降りそうな気配だ。そこで庭に出て様子を見てみると、電光に目をやられた上、突如降り出した大雨にたちまちずぶ濡れになった。
 これに堪らず目を醒ますと、体は汗でびっしょりになっていた。このときより母は泰を身籠った。しかし出産の時期が来てもなかなか生まれてこず、大いに心配になった所に、ある巫女にこう言われた。
「川を渡る際に裾を洗って厄払いをすれば、簡単に子を産むことができるだろう。」
 そこで直ちに川のほとりに赴くと、突然ある人が現れてこう言った。
「あなたは貴い子を産む。南方に遷るとよい。」
 泰の母がこれに従うと、果たして間もなく泰が生まれた。
 泰は立派な容姿を備え、若年の頃から聡明で、長じると義侠心と勇気に溢れた青年となった。また、多くの書物を読み漁ったが、字句の意味にこだわったりはせずに大要を把握する事を重視し、特に『三略』『六韜』や『司馬法』『孫子』を好んだ。馬の乗り降りは飛ぶが如くで、馬を駆る姿は絵になり、矢を放てば勢い強く、狙いを外す事が無かった。
 泰の父兄が懐朔鎮にて戦死すると、泰は自らその骨を背負って爾朱栄のもとに赴いた。のち栄が洛陽を陥とす際に寧遠将軍・虎賁中郎将・前鋒都督とされた。間もなく孝荘帝が即位すると射声校尉・諌議大夫とされた。のち邢杲討伐に功を挙げて輔国将軍・驍騎将軍・広阿県子(邑三百戸)とされ、高歓が晋州刺史となると、請われてその鎮城都督となり、軍議に参加する権利を与えられた。

 段韶、字は孝先は、幼名を鉄伐といい、若くして騎射に巧みで、将軍となるにふさわしい才能を有していた。歓は妻の姉の子である韶を非常に重用し、常に傍に置いて腹心とした。建義の初め(528年)に親信都督【北魏末の諸将は兵を私物化し、この官を設けて配下に護衛兵を率いさせた】とされた《北斉16段韶伝》

○北斉15竇泰伝・通志
 竇泰 ,字世寧,大安捍殊人也。本出清河觀津冑,祖羅,魏統萬鎮將,因居北邊。父樂,魏末破六韓拔陵為亂,與鎮將楊鈞固守,遇害。泰貴,追贈司徒。初,泰母夢風雷暴起,若有雨狀,出庭觀之,見電光奪目,駛雨霑灑,寤而驚汗,遂有娠。期而不產,大懼。有巫曰:「渡河湔裙,產子必易。」便向水所,忽見一人,曰:「當生貴子,可徙而南。」泰母從之。俄而生泰。及長,善騎射,有勇略。泰父兄戰歿於鎮,泰身負骸骨歸尒朱榮。以從討邢杲功,賜爵廣阿子。神武之為晉州,請泰為鎮城都督,參謀軍事。〔從起義信都,封廣阿伯,從破四胡。〕
○武貞竇公墓誌
 公諱泰字寧世,清河灌津人。…祖盛楽府君、父司徒,皆士雄北辺,有声燕代,志驕富貴,不事王侯。公禀孤昂之精,負雲霞之氣,容表瑰雄,姿神秀上,英規傑量,無輩一時。少以劔氣有聞,長以侠烈標誉。力折鲁門,勇高齊壘,長歴多游其室。少年時借其名,歴尋経史,不為章句之業,偏持三略六韜,好覧穰苴孫子。上下若飛,駆馳成画。舍矢如破,命的必中。賦騏驥以攄憤,嘆鴻鵠以明志。…起家為襄威将軍、帳内都将,連年動衆,功実居多。属霊后臨朝,政移权蘖。辟恶之酒为虚,神福之觞成祸。四海痛心,三灵愤惋。天柱大将军尔朱荣鞠旅汾川,问罪君侧,为宁远将军、虎贲中郎将、前锋都督。及永安御历,豫定策之功,除射声校尉、谏议大夫。及巨衅滔天,长戟内指,既等阙南之败,遂成山北之灾。以功拜辅国将军、骁骑将军、广阿县开国子,食邑三百户。

┃山氏憤死
 爾朱度律は出陣中でも飽くことなき強欲ぶりを発揮し、到る所で人民を苦しめた。
 母の山氏は度律が敗れたのを聞くと、憤りの余り病気になった。度律がやってくると山氏はこう責め立てて言った。
「お前は国から大恩を受けながら、これを仇で返して叛乱を起こし〔、敗れ〕た! 〔お前はきっといずれ処刑されるだろうが、〕私はそれを見たくない!」
 言葉を言い終わったのち、忽然と世を去った。人々は不思議な事だと考えた。

○魏75爾朱度律伝
 度律雖在軍戎,聚斂無厭,所至之處,為百姓患毒。其母山氏聞度律敗,遂恚憤而發病。及度律至,母責之曰:「汝既荷國恩,無狀反叛,我何忍見他屠戮汝也。」言終而卒,時人怪異之。

┃定・瀛降る

 兆は上党に敗走した。兆はその際、天柱大将軍司馬の叱羅邕を建州に派して兵糧徴発を監督させた。のち、邕を洛陽に派して叔父たちと高歓討伐を謀議させた。

 兆が敗走すると、歓は段栄を行台右丞・西北道慰喻大使とし、西北方の経略をさせた。栄が西北方に向かうと、到る所で降伏が相次いだ。
 兆の鎮東将軍・燕州刺史・城平県伯の堯雄は広阿から定州に敗走すると、これを占拠したのち歓に降った。
 驃騎大将軍の侯淵滏口の戦い・韓樓討伐・劉霊助討伐に活躍した勇将。兆に従って戦いに加わっていた)も歓に降った。
 また、堯雄の従兄の堯傑は戦前に爾朱兆に用いられて滄州刺史とされていたが、瀛州に到った所で兆が敗北した事を知ると使者を派遣して歓に降った。歓は堯兄弟が共に帰順してきた事に喜び、傑を瀛州に留めて行瀛州事とした。
 間もなく雄を車騎大将軍・瀛州刺史として傑に代わらせた。また、爵位を公に進め、五百戸を加増した。

 また、封隆之を持節・北道大使とした。

○魏80侯淵伝
 後隨尒朱兆拒義旗於廣阿,兆既敗走,淵降齊獻武王。
○周11叱羅協伝
 兆與齊神武初戰不利,還上黨,令協在建州督軍糧。後使協至洛陽,與其諸叔計事,謀討齊神武。
○北斉16段栄伝
 為行臺右丞,西北道慰喻大使,巡方曉喻,所在下之。
○北斉20堯雄伝
 堯雄,字休武,上黨長子人也。祖暄,魏司農卿。父榮,員外侍郎。雄少驍果,善騎射,輕財重氣,為時輩所重。永安中,拜宣威將軍、給事中、持節慰勞恒燕朔三州大使。仍為都督,從叱列延討劉靈助,平之,拜鎮東將軍、燕州刺史,封城平縣伯,邑五百戶。
 義旗初建,雄隨尒朱兆敗於廣阿,遂率所部據定州以歸高祖。時雄從兄傑,尒朱兆用為滄州刺史,至瀛州,知兆敗,亦遣使歸降。高祖以其兄弟俱有誠欵,便留傑行瀛州事。尋以雄為車騎大將軍、瀛州刺史以代傑,進爵為公,增邑五百戶。于時禁網疏闊,官司相與聚斂,唯雄義然後取,復能接下以寬恩,甚為吏民所懷附。
○北斉20堯傑伝
 出為滄州刺史。屬義兵起,歸高祖。
○北斉21封隆之伝
 乃遣隆之持節為北道大使。
○北斉22李愍伝
 高祖破兆於廣阿。愍統其本眾,屯故城以備尒朱兆。相州既平,命愍還鄴,除西南道行臺都官尚書,復屯故城。尒朱兆等將至,高祖徵愍參守鄴城。


┃鄴城の戦い
 11月庚辰(14日)高歓段栄を信都の留守を任せ、鄴を攻めた。相州刺史の劉誕は城に籠って良くこれを防いだ。

 歓は間もなく栄を鎮北将軍・定州刺史として中山を鎮守させ、代わりに斛律金を恒雲燕朔顕蔚六州大都督とし、孫騰と共に信都の留守を任せた。

 定州刺史の段栄は軍需物資を次々と歓のもとに送って不足させなかった。

 乙未(29日)、梁の武帝が同泰寺に赴き、七日間に渡って般若経の講義をした《梁武帝紀》

○魏後廃紀
 十有一月己巳,詔曰:「王度創開,彝倫方始,所班官秩,不改舊章。而無識之徒,因茲僥倖,謬增軍級,虛名顯位,皆言前朝所授,理難推抑。自非嚴為條制,無以防其偽竊。諸有虛增官號,為人發糾,罪從軍法。若入格檢覈無名者,退為平民,終身禁錮。」庚辰,齊獻武王率師攻鄴城。
○北斉神武紀
 十一月,攻鄴,相州刺史劉誕嬰城固守。
○北斉16段栄伝
 高祖南討鄴,留榮鎮信都,仍授鎮北將軍,定州刺史。時攻鄴未克,所須軍資,榮轉輸無闕。

○北斉17斛律金伝
 高祖南攻鄴,留金守信都,領恒、雲、燕、朔、顯、蔚六州大都督,委以後事。別討李脩,破之,加右光祿大夫。
○北斉18孫騰伝
 高祖進軍於鄴,初留段榮守信都,尋遣榮鎮中山,仍令騰居守。
○北斉25趙起伝
 義旗建,高祖以段榮為定州刺史。