[北魏:正光五年 梁:普通五年]

┃東揚州の設置

 春、正月梁が左光禄大夫・開府儀同三司の南平王偉を鎮衛大将軍・右光祿大夫とした。開府儀同三司はそのままとした。
 また、征西将軍・開府儀同三司・荊州刺史の鄱陽王恢を驃騎大将軍とした。
 また、太府卿の夏侯亶を中護軍とした。
 また、右光禄大夫の王份を左光禄大夫・特進とした。
 辛卯(10日)、平北将軍・南兗州刺史の豫章王綜を鎮北将軍とし、平西将軍・雍州刺史の晋安王綱を安北将軍とした。
 
 辛丑(20日)、北魏の孝明帝が南郊にて天を祭った。

 2月、庚午(19日)、梁の左光禄大夫・特進の王份が亡くなった(享年79)。
 3月、甲戌(24日)、揚州・江州を分割して東揚州(治所は会稽)を置いた。

○魏孝明紀
 五年春正月辛丑,車駕有事於南郊。
○梁武帝紀
 五年春正月,以左光祿大夫、開府儀同三司南平王偉為鎮衞大將軍,改領右光祿大夫,儀同三司如故。征西將軍、開府儀同三司、荊州刺史鄱陽王恢進號驃騎大將軍。太府卿夏侯亶為中護軍。右光祿大夫王份為左光祿大夫,加特進。辛卯,平北將軍、南兗州刺史豫章王綜進號鎮北將軍。平西將軍、雍州刺史晉安王綱進號安北將軍。二月庚午,特進、左光祿大夫王份卒。三月甲戌,分揚州、江州置東揚州。
○梁21王份伝
 普通五年三月(二月?),卒,時年七十九。

 ⑴南平王偉…字は文達。生年476、時に49歳。文帝の第八子、武帝の異母弟。
 ⑵鄱陽王恢…字は弘達。生年476、時に49歳。文帝の第九子、武帝の異母弟。
 ⑶夏侯亶…字は世龍。夏侯詳の長子。
 ⑷王份…字は季文。生年446、時に79歳。王奐の弟。
 ⑸豫章王綜…字は世謙。武帝の第二子。母は呉淑媛。523年、使持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・平北将軍・南兗州刺史とされた。523年⑴参照。
 ⑹晋安王綱…字は世纉。生年503、時に22歳。武帝の第三子。角ばった豊かな頬と絵に書いたような美しい髭を備えていた。早熟の天才で、読書をする際は十行を同時に読むことができ、筆をとれば直ちに文章や詩を書き上げることができた。
 ⑺孝明帝…元詡。北魏の九代皇帝。生年510、時に15歳。515年にわずか6歳で即位し、母の胡太后の摂政を受けた。

┃臨淮王彧、討伐に赴く
 この月(3月、北魏が臨淮王彧を鎮軍将軍・仮征北将軍・都督北討諸軍事とし、破六韓抜陵を討伐させた。

 夏、4月、乙未(15日)、梁が雲麾将軍の南康王績を江州刺史とした。

○魏孝明紀
 三月,沃野鎮人破落汗拔陵聚眾反,殺鎮將,號真王元年。詔臨淮王彧為鎮軍將軍,假征北將軍,都督北征諸軍事以討之。
○梁武帝紀
 夏四月乙未,以雲麾將軍南康王績為江州刺史。
○魏104天象志
 五年正月,沃野鎮人破落汗拔陵反【[二三]按拔陵起義據卷九肅宗紀在正光五年三月,其實當在四年。三月乃命元彧統兵鎮壓起義軍之時。此志記事多據本紀,這裏「正」字疑仍是「三」之訛,非別有據】,臨淮王彧征之,敗績于五原。

 ⑴臨淮王彧…字は文若。太武帝の玄孫。本名は亮で、字も仕明だったが、同僚の父の諱を避け、曹魏の名臣の荀彧(字は文若)の名と字に変えた。安豊王延明・中山王熙と並び称された才士。
 ⑵破六韓抜陵…沃野鎮民。附化の人で、匈奴単于の末裔。代々酋長を務めて部衆を率いた。523年、人々を集めて叛乱を起こし、鎮将を殺して年号を真王と定めた。523年(2)参照。
 ⑶南康王績…字は世謹。生年504、時に21歳。武帝の第四子。

┃胡琛の乱

 この月(4月、北魏の高平鎮民の赫連貴恩らが叛乱を起こし、勅勒族酋長の胡琛を推戴して高平王とした。
 胡琛は高平鎮を攻撃し、破六韓抜陵に呼応した。しかし北魏の別将の盧祖遷に敗れ、北方に逃走した。

○魏孝明紀
 夏四月,高平酋長胡琛反,自稱高平王,攻鎮以應拔陵。別將盧祖遷擊破之,琛北遁。
○北48爾朱天光伝
 初,高平鎮城人赫貴連恩(赫連貴恩?)等為逆,共推敕勒酋長胡琛為主,號高平王,遙臣沃野鎮賊帥破六韓㣼夤(抜陵?)【[二五]「㣼夤」,張森楷云:「此即拔陵也,不知何以駁異。」按通鑑卷一五0作「拔陵」。「㣼」疑是「㤆」之訛,「㤆」音「販」,與「拔」音相近,「夤」與「陵」同韻。北史天光傳溢出魏書材料較多,當是他書異譯,北史因襲不改,故有歧異】。

 ⑴盧祖遷...梁の秦梁二州刺史の魯方達らを撃破して斬った。505年8月参照。

┃賀抜勝
 去年より北魏の懐朔鎮は抜陵の部将の衛可瓌に攻められていたが、未だに援軍が到着していなかった。軍主の賀抜勝はこの状況に憤慨し、鎮将の楊鈞にこう申し出た。
「城は厳しい包囲を受け、もはや陥落も間近。どうか私を援軍のもとに向かわせ、急を告げさせてください。」
 鈞はこれを許した。
 勝は字を破胡といい、若くして固い意志を持ち、騎射に優れていた。北辺の者はみなその度胸と武略に一目置いていた。
 勝は鈞から許可を得ると、勇敢な若者十余騎を募って決死隊を編成し、夜陰に紛れて囲みを破り、外に出た。賊騎が追撃してくると、勝はこう叫んで言った。
「我、賀抜破胡(勝の字)なり!」
 賊はその名を聞くや、恐れをなして追うのをやめた。
 勝は朔州(盛楽)にて臨淮王彧に会うと、こう説いて言った。
「懐朔の陥落は旦夕に迫り、城中の者はみな首を延ばし、爪先を立てて官軍の到来を待ち望んでおります。大王は帝室に繋がるお方で、国家と運命を共にする身。その大王が征討の任を授かったのなら、ひたすら敵を求めて前進するのが道理。それなのに、どうしていま大王はぐずぐずと進軍を躊躇っていらっしゃるのでしょうか⁉ 懷朔が陷ちれば、武川も危うくなり、武川も陥ちれば、逆賊の勇気は百倍します。そうなると、たとえ大王の軍中に韓信・白起のような勇者や、張良・陳平のような知恵者がおりましても、力の振るいようが無くなってしまうのですぞ!」
 彧は勝の熱意にほだされ、遂に援軍に向かうことを決意した。勝は一足先に還ると、再び囲みを突き破って城中に入ろうとした。賊兵がこれを追うと、勝は振り返りざまに弓を射て数人を射殺した。そして城門の前に到ると、叫んで言った。
「賀抜破胡が援軍と共にやってきたぞ!」
 城中はそこで急いで門を開き、勝を中に引き入れた。

○周14賀抜勝伝
 賀拔勝字破胡,神武尖山人也。...勝少有志操,善騎射,北邊莫不推其膽略。時亦為軍主,從度拔鎮守。既圍經年,而外援不至,勝乃慷慨白楊鈞曰:「城圍蹙迫,事等倒懸,請告急於大軍,乞師為援。」鈞許之。乃募勇敢少年十餘騎,夜伺隙潰圍而出。賊追及之。勝曰:「我賀拔破胡也。」賊不敢逼。至朔州,白臨淮王元彧曰:「懷朔被圍,旦夕淪陷,士女延首,企望官軍。大王帝室藩維,與國休戚,受任征討,理宜唯敵是求,今乃頓兵不進,猶豫不決。懷朔若陷,則武川隨亦危矣。逆賊因茲,銳氣百倍,雖有韓、白之勇,良、平之謀,亦不能為大王用也。」彧以勝辭義懇至,許以出師,還令報命。勝復突圍而入,賊追之,射殺數人。至城下,大呼曰:「賀拔破胡與官軍至矣。」城中乃開門納之。

 ⑴衛可瓌...鮮卑族。破六韓抜陵の別帥・王。最も強盛で、去年、武川鎮・懐朔鎮を攻めた。523年(2)参照。
 ⑵楊鈞...字は季孫。名門恒農の楊氏の出身。博学多識で秀才に挙げられ、大理平・廷尉正・洛陽令・左中郎将・華州大中正・河南尹・廷尉卿・安北将軍・七兵尚書・北道大行台・恒州刺史などを歴任した。

●五原の戦い


 5月、征北将軍の臨淮王彧破六韓抜陵と五原にて戦ったが大敗し、官爵を除かれた。
 安北将軍〔・朔州刺史?〕の李叔仁もまた白道にて賊軍に敗れ、弟の李龍瓌が戦死した。
 この前後に賀抜勝楊鈞に命じられて武川の様子を見に行っていたが、既に陥落しているのを見るや急いで引き返した。
 かくて賊の勢いは日増しに盛んになっていった。

○魏孝明紀
 五月,臨淮王彧敗於五原,削除官爵。
○魏66李崇伝
 後北鎮破落汗拔陵反叛,所在響應。征北將軍、臨淮王彧大敗於五原,安北將軍李叔仁尋敗於白道,賊眾日甚。
○魏73李叔仁伝
 又冀州人李叔仁,叔仁弟龍瓌,以勇壯為將統。龍瓌,正光中北征,戰死白道。
○周14賀抜勝伝
 鈞復遣勝出覘武川,而武川已陷,勝乃馳還。

 ⑴五原...《読史方輿紀要》曰く、『五原城は故勝州にある。勝州城は榆林鎮(延安府綏徳州の北三百里、黄河の南千余里)の東北四百五十里にある。北五里・東五十里に黄河がある。前漢が五原郡に五原県を置き、後漢もこれを踏襲した。永和五年(140)に南匈奴が叛乱を起こすと朔方郡に治所を遷した。五原塞ともいう。《晋志》曰く、「北地郡の北九百里に五原塞がある。」杜佑曰く、「漢の五原県城は、榆林県(勝州)の西にある。」
 ⑵白道...『白道は大同府の北塞外にある。北魏の雲中郡に白道嶺・白道川がある。すぐ南に雲中城がある。

┃不明の君
 この事態を受けて、孝明帝は丞相・尚書令・僕射・尚書・侍中・黄門を顕陽殿に集め、こう尋ねて言った。
「朕は鎮人が叛乱を起こしたのを聞き、即座に都督の臨淮王に時を定めてこれを討平するよう命じた。〔しかし〕軍は五原に到った所で先鋒が敗れ、二将が落命し、兵士の意気はすっかり挫けてしまった。その上更に武川鎮も防御を誤り、賊どもの手に陥ちてしまった。このままでは賊どもが恒(治 平城)・朔(治 雲中盛楽)二州に侵攻し、金陵(盛楽は北魏の故都で陵墓がある)に迫るのも時間の問題である。いったいどうすればよいだろうか?」
 すると、吏部尚書の元修義が言った。
「賊どもの勢いは激しいものがありますゆえ、早く手を打たねばなりません。臣としましては、国家の重鎮に大軍を率いさせて、恒・朔にて賊を防がせ、金陵を守らせるのが宜しいと思うのですが。」
 帝は言った。
「去年阿那瓌が叛乱を起こした時、朕は李崇に北征に赴かせた。崇はその際、長駆塞北を進み、榆関に帰ってきた。これは一時の語りぐさになったものだ。ただ、その時に、崇は改鎮為州を求める上表をしてきたことがあった(523年〈2〉参照)。朕は祖法を変えるのは良くないと思い、それに従わなかったが、今思うにこの崇の上表が鎮人にあらぬ心を生じさせ、今日の憂患を起こしたのではないかと思う。しかし、過ぎたことを咎めるのも詮無いことだし、これはまあ、ただ話のついでに言っただけの事だがーー。だが、そういえば崇は皇族の親類(文成皇后の兄・李誕の子が李崇)で声望高く、器量見識あり、鋭敏な心の持ち主である。これぞ修義の言う重鎮にふさわしい人物ではないだろうか? 朕は崇に行かせたく思う。諸君はどう思うか。」
 僕射の蕭宝寅らは皆口を揃えて言った。
「陛下のご心配は、臣らのまことに心を痛める所であります。李崇は徳望・地位ともに高く、まさに社稷の臣(国家の重臣)といえます。崇を派遣なさりますれば、万民も必ず納得することでありましょう。」
 崇は言った。
「臣は無才の身ながら、分不相応に陛下の寵遇を蒙り、賢才の出番を妨げてきました。遂には北伐の総指揮官とされるまでに至りましたが、その結果は、ただ将兵を徒労させ、何の戦果も挙げずに帰還するという惨めなものでした。今ほど忸怩たる思いに駆られた時はございません。
 ただ、臣が鎮を州とするよう上奏をしたのは、蛮族と隣接して苦労している彼らの心を、鎮より上位の州とすることで慰めたいと思ったからでありました。決して、乱に導こうとして上奏したわけではありません!
 臣の罪は万死に値しますが、陛下は寛大であらせられ、処刑しなかったばかりか、北行という絶好の挽回の機会をお与えになってくださいました。しかし、臣は既に齢七十の老体で、病気がちの身であり、遠征には到底耐えられませぬ。非常に無念ではございますが、どうか改めて賢材をお選びになり、討伐を成功に導かれますようお願い申し上げます。」
 しかし、帝はこれを許さなかった。

 壬申(5月23日)、崇に使持節・開府儀同三司・北討大都督を加え、撫軍将軍・東道都督の崔暹と鎮軍将軍・北道都督の広陽王淵の指揮をさせた。更に、崇の子で光禄大夫の李神軌を仮平北将軍とし、北討に従わせた。

 元修義は、字を寿安といい、拓跋天賜景穆太子の子、471年4月参照)の子である。斉州刺史を4年務めた際は寛大な政治を行ない、一人も死刑にせず、民衆に慕われた。しかし吏武尚書になると賄賂によって人事を決め、官職に定価を定めるなどの乱脈ぶりを示したので、大いに株を下げた。

 広陽王淵は、字を智遠といい、元嘉(3代太武帝の孫、499年参照)の子である(時に40歳)。肆州刺史を務めた時は恩徳と信義を信条に政治を行ない、胡人の懐柔に成功した。しかし賄賂好きで、千頭の馬を所有している者には百頭を要求するのが常だった。

○魏18元淵伝
〔嘉子深(淵),字智遠,襲爵。肅宗初,拜肆州刺史。預行恩信,胡人便之,劫盜止息。後為恒州刺史,在州多所受納,政以賄成,私家有馬千匹者必取百匹,以此為恒。
 ...及沃野鎮人破六韓拔陵反叛,臨淮王彧討之,失利,詔深為北道大都督,受尚書令李崇節度。時東道都督崔暹...。
○魏19元修義伝
 天賜第五子脩義,字壽安,涉獵書傳,頗有文才,為高祖所知。自元士稍遷左將軍、齊州刺史。脩義以齊州頻喪刺史,累表固辭。詔曰:「修短有命,吉凶由人,何得過致憂憚,以乖維城之寄。違凶就吉,時亦有之,可聽更立館宇。」於是移理東城。脩義為政,寬和愛人,在州四歲,不殺一人,百姓以是追思之。遷秦州刺史。肅宗初,表陳庶人禧、庶人愉等,請宥前愆,賜葬陵域。靈太后詔曰:「收葬之恩,事由上旨,藩岳何得越職干陳!」在州多受納。
 累遷吏部尚書。及在銓衡,唯專貨賄,授官大小,皆有定價。時中散大夫高居者,有旨先敍,時上黨郡缺,居遂求之。脩義私已許人,抑居不與。居大言不遜,脩義命左右牽曳之。居對大眾呼天唱賊。人問居曰:「白日公庭,安得有賊?」居指脩義曰:「此座上者,違天子明詔,物多者得官,京師白劫,此非大賊乎?」脩義失色。居行罵而出。後欲邀車駕論脩義罪狀,左僕射蕭寶夤諭之,乃止。
○魏66李崇伝
 詔引丞相、令、僕、尚書、侍中、黃門於顯陽殿,詔曰:「朕比以鎮人搆逆,登遣都督臨淮王克時除翦。軍屆五原,前鋒失利,二將殞命,兵士挫衂。又武川乖防,復陷凶手。恐賊勢侵淫,寇連恒朔。金陵在彼,夙夜憂惶。諸人宜陳良策,以副朕懷。」吏部尚書元脩義曰:「強寇充斥,事須得討。臣謂須得重貴,鎮壓恒朔,總彼師旅,備衞金陵。」詔曰:「去歲阿那瓌叛逆,遣李崇令北征,崇遂長驅塞北,返旆榆關,此亦一時之盛。崇乃上表求改鎮為州,罷削舊貫。朕于時以舊典難革,不許其請。尋李崇此表,開諸鎮非異之心,致有今日之事。但既往難追,為復略論此耳。朕以李崇國戚望重,器識英斷,意欲還遣崇行,總督三軍,揚旌恒朔,除彼羣盜。諸人謂可爾以不?」僕射蕭寶夤等曰:「陛下以舊都在北,憂慮金陵,臣等實懷悚息。李崇德位隆重,社稷之臣,陛下此遣,實合羣望。」崇啟曰:「臣實無用,猥蒙殊寵,位妨賢路,遂充北伐。徒勞將士,無勳而還,慚負聖朝,於今莫已。臣以六鎮幽垂,與賊接對,鳴柝聲弦,弗離旬朔。州名差重於鎮,謂實可悅彼心,使聲教日揚,微塵去塞。豈敢導此凶源,開生賊意。臣之愆負,死有餘責。屬陛下慈寬,賜全腰領。今更遣臣北行,正是報恩改過,所不敢辭。但臣年七十,自惟老疾,不堪敵場,更願英賢,收功盛日。」
 於是詔崇以本官加使持節、開府、北討大都督,撫軍將軍崔暹,鎮軍將軍、廣陵(陽)王淵皆受崇節度。又詔崇子光祿大夫神軌,假平北將軍,隨崇北討。

 ⑴阿那瓌...柔然の19代可汗。520年に柔然国内に内訌が起き、北魏に亡命した。去年、大飢饉が起こると食糧を求めて叛乱を起こした。523年参照。
 ⑵李崇...字は継長。時に70歳。北魏の名臣。文成皇后の兄の子。もと揚州刺史。『臥虎』と呼ばれる数千人の精鋭部隊を率い、十年に渡って梁から揚州を守り抜いた。去年、老齢を押して阿那瓌の討伐に向かったが、捕捉できずに終わった。523年(2)参照。
 ⑶榆関...榆林関の事か? 《読史方輿紀要》曰く、『榆林関は廃勝州の東にある。秦の榆中関である。《唐志》曰く、「勝州榆林県の東に榆林関があり、また、河濱関がある。」孔氏曰く、「榆林県の東四十里にある。東北に黄河がある。」
 ⑷蕭宝寅...字は智亮。時に40歳。南斉の明帝の第六子。502年に北魏に亡命し、斉王に封じられた。
 ⑸崔暹...字は元欽。薄情な性格で、勢族に取り入るのが上手かった。南兗州刺史・豫州刺史となったが共に汚職によって解任された。のち瀛州刺史となっても変わらず汚職にまみれた政治を行ない、「癩兒(無頼。無法者)刺史」と罵られた。

┃梁、北伐開始
 6月、戊子(9日)、梁が会稽太守の武陵王紀を東揚州(3月参照)刺史とした。
 庚子(18日)、員外散騎常侍の元樹を平北将軍・北青兗二州刺史とし、北伐を行なわせた。また、豫州(治 合肥)刺史の裴邃を督征討諸軍事とし、三千騎を率いて先んじて寿陽(北魏の揚州)を襲撃するように命じた。

○梁武帝紀
 六月...戊子,以會稽太守武陵王紀為東揚州刺史。庚子,以員外散騎常侍元樹為平北將軍、北青兗二州刺史,率眾北伐。
○梁28裴邃伝
 是歲,大軍將北伐,以邃督征討諸軍事,率騎三千,先襲壽陽。

 ⑴武陵王紀...字は世詢。武帝の第八子。母は葛修容。生年508、時に17歳。温和な性格をしており、感情が一定していた。文武に優れ、気骨のある詩文を作り、騎射や長矛の扱いに長けた。
 ⑵元樹...字は秀和(君立?)。時に41歳。北魏の献文帝の孫で、咸陽王禧の子。美男で談論を得意とし、将略を有した。509年に梁に亡命し、鄴王とされた。
 ⑶裴邃...字は淵明。文才があり、左伝に通じた。南斉の代に北魏に降っていたが、502年に梁に亡命した。以降軍才を示して多くの武功を挙げた。

┃莫折大提の乱


 破六韓抜陵の乱が起きてより、北魏の夏・東夏・豳・涼州では匪賊が相次いで蜂起していた。
 この時、秦州刺史だった李彦は政刑が過酷で、州民全員から怨まれていた。城民の薛珍・劉慶・杜超)らは周囲で叛乱が続発しているのを聞くと、自分たちも叛乱を起こす意志を固めた。
 この月、珍らが州城内にて人々を集め、州府に突入した。彦は寝室にて捕らわれ、西府に監禁されたのち殺された。珍らは同志の中から莫折大提を首領に推戴した。大提は秦王を自称した。

 これより前、南秦州では氐族の有力者の楊松柏・楊洛徳兄弟がしばしば叛乱を起こしていた。崔遊は州刺史となると、主簿の官を用意して松柏を懐柔し、更に甘言を弄して洛徳も味方に付けた。兄弟は遊の恩義に感じ入り、氐族らを説得させて投降させた。松柏たちは遊以前の政治が悪かったから叛乱を起こしていただけとして、身の不安は全く感じていなかった。遊は松柏らを宴会の席に呼び出すと、松柏兄弟らをことごとく斬り殺した。以降、遊は州民の信用を失い、至るところで再び叛乱が起こった。
 この夏、遊は李彦が殺されたのを聞くと、自分もそうなるのではと心配になり、逃亡を図った。しかしその前に城民の韓祖香・張長命・孫掩らが蜂起して州館を攻めた。追い詰められた遊は望楼に登り、賊に辱められぬように末娘を突き落として殺した。間もなく祖香らは遊を殺し(享年52)、州城と共に大提の傘下に入った。
 大提は次いで配下の卜胡に高平鎮を襲わせて陥落させ、鎮将の赫連略と西道行台の高元栄を殺害した。

 高元栄は斉州刺史の高遵の子で、勉強家で文才があり、事務仕事に長じた。

 大提がまもなく死ぬと、その第四子の莫折念生が跡を継いで天子を自称し、百官を置いて年号を天建と改めた。また、息子の莫折阿胡を太子、兄の莫折阿倪を西河王、弟(孝明帝紀や崔延伯伝では「兄」とある)の莫折天生を高陽王、莫折伯珍を東郡王、莫折安保を平陽王とした。

 丁酉(18日)、北魏が大赦を行なった。

 秋、7月、甲寅(6日)、北魏は吏部尚書の元修義を西道行台尚書僕射・行秦州事とし、雍州刺史の元志を西征都督とし、盧祖遷・伊瓫生ら諸将を率いて莫折念生を討伐するよう命じた。また、崔士和を行台左丞・行涇州事とした。
 祖遷らは六陌道より高平に進軍した。
 修義は生来酒好きで、連日飲酒してやまなかったため、この時とうとう脳卒中を起こして意識混濁の状態となり、長安に着いても指揮を執る事ができなくなった。
 戊午(10日)河間王琛臨淮王彧の封爵を元に戻した

○魏孝明紀
 六月,秦州城人莫折太提據城反,自稱秦王,殺刺史李彥。詔雍州刺史元志討之。南秦州城人孫掩、張長命、韓祖香據城反,殺刺史崔遊以應太提。太提遣城人卜朝(胡)襲克高平,殺鎮將赫連略、行臺高元榮。太提尋死,子念生代立,僭稱天子,號年天建,置立百官。丁酉,大赦。秋七月甲寅,詔吏部尚書元脩義兼尚書僕射,為西道行臺,率諸將西討。戊午,復河間王琛、臨淮王彧本封。
○魏14元志伝
 及莫折念生反,詔志為西征都督討之。
○魏19元修義伝
 二秦反,假脩義兼尚書右僕射、西道行臺、行秦州事,為諸軍節度。脩義性好酒,每飲連日,遂遇風病,神明昏喪,雖至長安,竟無部分之益。
○魏39李彦伝
 出為撫軍將軍、秦州刺史。是時,破落汗拔陵等反於北鎮,二夏、豳、涼所在蜂起。而彥刑政過猛,為下所怨,城民薛珍、劉慶、杜超等因四方離叛,遂潛結逆謀。正光五年六月,突入州門,擒彥於內齋,囚於西府,推其黨莫折大提為帥,遂害彥。
○魏57崔遊伝
 正光中,起除右將軍、南秦州刺史,固辭不免。先是,州人楊松柏、楊洛德兄弟數為反叛,遊至州,深加招慰。松柏歸款,引為主簿,稍以辭色誘之,兄弟俱至。松柏既州之豪帥,感遊恩遇,奬諭羣氐,咸來歸款,且以過在前政,不復自疑。遊乃因宴會,一時俱斬,於是外人以其不信,合境皆反。正光五年夏,秦州城人殺刺史李彥據州為逆。數日之後,遊知必不安,謀欲出外,尋為城人韓祖香、孫掩攻於州館。遊事窘,登樓慷慨悲歎,乃推下小女而殺之,義不為羣小所辱也。尋為祖香等所執害,時年五十二。
○魏59蕭宝寅伝
 初,秦州城人薛珍、劉慶、杜遷等反,執刺史李彥,推莫折大提為首,自稱秦王。大提尋死,其第四子念生竊號天子,改年曰天建,置立官僚,以息阿胡為太子,其兄阿倪為西河王,弟天生為高陽王,伯珍為東郡王,安保為平陽王。
○魏66崔士和伝
 士和,歷司空主簿、通直郎。從亮征硤石,以軍勳拜冠軍將軍、中散大夫、西道行臺元脩義左丞,行涇州事。
○魏73崔延伯伝
 先是,盧祖遷、伊瓫生數將等皆以元志前行之始,同時發雍,從六陌道將取高平。
○魏89高元栄伝
〔遵子〕元榮,...學尚有文才,長於几案。位兼尚書右丞,為西道行臺,至高平鎮,遇城翻被害。

 ⑴李彦…字は次仲。西涼の末裔。非常な勉強家。数多くの州の刺史を務めた。
 ⑵崔遊…字は延叔。河東太守となると善政を行ない、『良守』と称された。
 ⑶元志…字は猛略。河間公斉の孫。読書家で文才があった。孝文帝が南伐に赴いた時、帝を庇って矢を受け、片目を失明した。のち荊州刺史を務めた際、良民の女性を無理やり奴隷にして弾劾を受けた。揚州刺史となると李崇ほどではないものの良く南朝を威圧した。雍州刺史となると贅沢に溺れ、評判を落とした。
 ⑷盧祖遷…505年、梁の秦梁二州刺史の魯方達らを撃破して斬った。のち別将とされ、524年、胡琛が高平にて叛乱を起こすとこれを撃破して北方に逃走させた。524年⑴参照。
 ⑸伊瓫生…本姓は伊婁氏で北魏の支流の出。司空・河南公の伊馛の孫。崔延伯に次ぐ名将。
 ⑹六陌…《読史方輿紀要》曰く、『《志》曰く、「馬嵬坡の西にある。」』『馬嵬坡は西安府(雍州)の西百里→興平県の西二十五里→馬嵬城の北にある。
 ⑺河間王琛…字は曇宝。五代文成帝の孫で、斉王拓跋簡の子。幼くして聡明で、孝文帝に愛された。ただ強欲で、定州や秦州の刺史となると汚職を働き、巨万の富を築いた。また、宦官で権力者の劉騰の養子となり、多くの賄賂を送って後ろ盾とした。去年、汚職の罪で除名された。523年(1)参照。
 ⑻河間王琛は去年の2月に汚職の罪で、臨淮王彧は今年の5月に破六韓抜陵に敗れたことで除名処分を受けていた。

┃北討軍の苦戦と元淵の上表
 この月(7月崔暹が北討大都督の李崇の指揮に背き、破六韓抜陵と白道の北に戦って大敗し、単騎で洛陽に逃げ帰った。抜陵は勢いに乗って崇にも攻めかかった。崇は北討都督の広陽王淵と共に力戦し、幾度も賊軍を破ったものの形勢不利となり、やむなく雲中に退いてこれを防ぐことになった。雲中での対峙は冬まで続いた。

 広陽王淵が上表して言った。
「此度の叛乱は、偶発的に起こったものではなく、長い年月に醸成された鎮民の怨恨が起こした必然的なものであります。
 以前都が平城に在った時は、北辺を重視して、大いに有能な者や名族をその防衛に充てていました。彼らは戦功による出世の道が大いに開かれていただけでなく、免税という特権すら与えられていたので、誇りとやりがいを感じ、喜々として命を賭けてこの任に励んだのでした。
 しかし、太和年間(477〜499)に僕射の李沖が実権を握ると、その地元の涼州の人々が無条件で賦役を免ぜられるようになりました。しかし建国以来の名族たちは、依然として防衛の大任を背負わなければ免除されなかったのです。なんという矛盾でしょうか⁉︎    かくてこれより、自然彼らは罪でも得ない限り、進んで北鎮に赴くことは無くなりました。
 ここに至って北鎮の待遇大いに劣化し、鎮民は鎮将に山林の管理員か日雇い人夫のような扱いを受けるようになりました。また、彼らは一生をかけても軍主(小隊長)にしかなれぬ有様となりました。それに対し京師に留まった同族たちは皆官界で栄達しており、その格差は天と地ほどのものとなりました。
 これで鎮民たちから鎮を抜け出そうとする動きが出るのは当然のことでしょう。かくて逃亡者が多くなると、鎮民たちへの監視は厳しくなり、遠出することを禁じられるようになりました。ここに至って若者は留学することもできず、年長者は官途につくこともできなくなり、その境遇たるや、賎民となんら変わらなくなりました。これを涙無しで語るのは無理というものでしょう!
 また、都が洛陽に遷されると、北鎮は真の辺境となってますます軽んじられるようになり、長年出世できていない凡庸な者が鎮将として派遣されるようになりましたが、彼らは判を押したように鎮民の搾取に精を出しました。また諸方の姦吏が罪を犯してここに流されてくると、彼らは鎮将を操縦して鎮政を賄賂一色に染め上げました。かくして鎮民は生活に困窮し、北魏に深い怨みを抱くようになったのです。
 のち阿那瑰が恩知らずに北辺を略奪すると、十五万の大軍が砂漠を越えてこれを捕らえようとしましたが、日ならずして成果無く帰還しました。鎮民はこの体たらくを見て、遂に中央恐るるに足らずと侮るようになったのであります。尚書令の李崇が改鎮為州を求めたのはまさしく先見の明というもので、最後の機会でありましたのに、朝廷はこれを許しませんでした。
 そうこうする内に高闕戍主が失政を行なって抜陵に殺されると、燎原の火のように瞬く間に各所で叛乱が勃発し、その赴く所全てが灰燼に帰して、官軍も次々と敗れ、勢いますます盛んとなりました。
 そしてこのたび、我らが軍を率いて平定に向かっても、崔暹は大敗して単騎還らず、崇と臣も苦戦して引き返し、雲中にてなんとか戦線は維持してはいるものの、将兵らの心千々に乱れる有様となったのです。
 また、上に挙げましたとおり、今回の乱は根深いものがあり、その勢いは強く、きっと西北のみに留まることなく、他の諸鎮にも飛び火すると思われます。そうなってしまうと、事態がどう転ぶか予測がつかなくなります。早急に抜本的な対策をするようお願い致します!」
 朝廷がこれを省みることは無かった。

 朝廷が崔暹を召喚して逮捕し、廷尉の手に委ねた。しかし暹は妓女や田園を元叉に贈って罪を免れてしまった。

○魏孝明紀
 都督崔暹失利于白道,大都督李崇率眾還平城。
○魏18元淵伝
 時東道都督崔暹敗於白道,深上書曰:
 邊豎構逆,以成紛梗,其所由來,非一朝也。昔皇始以移防為重,盛簡親賢,擁麾作鎮,配以高門子弟,以死防遏,不但不廢仕宦,至乃偏得復除。當時人物,忻慕為之。及太和在歷,僕射李沖當官任事,涼州土人,悉免厮役,豐沛舊門,仍防邊戍。自非得罪當世,莫肯與之為伍。征鎮驅使,但為虞候白直,一生推遷,不過軍主。然其往世房分留居京者得上品通官,在鎮者便為清途所隔。或投彼有北,以御魑魅,多復逃胡鄉。乃峻邊兵之格,鎮人浮遊在外,皆聽流兵捉之。於是少年不得從師,長者不得遊宦,獨為匪人,言者流涕。自定鼎伊洛,邊任益輕,唯底滯凡才,出為鎮將,轉相模習,專事聚斂。或有諸方姦吏,犯罪配邊,為之指蹤,過弄官府,政以賄立,莫能自改。咸言姦吏為此,無不切齒憎怒。及阿那瓌背恩,縱掠竊奔,命師追之,十五萬眾度沙漠,不日而還。邊人見此援師,便自意輕中國。尚書令臣崇時即申聞,求改鎮為州,將允其願,抑亦先覺。朝廷未許。而高闕戍主率下失和,拔陵殺之,敢為逆命,攻城掠地,所見必誅。王師屢北,賊黨日盛。此段之舉,指望銷平。其崔暹隻輪不反,臣崇與臣逡巡復路。今者相與還次雲中,馬首是瞻,未便西邁,將士之情,莫不解體。今日所慮,非止西北,將恐諸鎮尋亦如此,天下之事,何易可量。
 時不納其策。
○魏66李崇伝
 崇至五原, 崔暹大敗于白道之北,賊遂并力攻崇。崇與廣陵王淵力戰,累破賊眾,相持至冬。
○魏89崔暹伝
 武川鎮反,詔暹為都督,隸大都督李崇討之。違崇節度,為賊所敗,單騎潛還。禁於廷尉。以女妓園田貨元叉,獲免。

 ⑴元叉...字は伯俊。幼名は夜叉。生年486、時に39歳。京兆王継の長子。胡太后の妹の夫であることから、太后から寵用を受けたが、520年に恩を仇で返して太后を幽閉し、政治の実権を握った。

┃魏子建

 丁丑(7月29日)莫折念生が都督の楊伯年・樊元・張朗らに仇鳩・河池の二戍を攻めさせた。北魏の東益州(武興郡略陽県)刺史の魏子建は将軍の尹祥・黎叔和を派してこれを迎撃させた。尹祥らは撃破に成功して樊元を斬り、首級千余を得た。

 東益州は元々氐族の王の楊紹先の国であって、城民(州城の住民)はみな屈強な者ばかりだった。東益州の将官たちは、二秦の叛乱者がみな彼らの族類な事を問題視し(莫折念生軍の主体は氐族であった)、予め彼らの武器を取り上げておくように勧めた。子建は答えて言った。
「城民はしばしば戦陣を経て強勇である。これを手懐けておけば我らの大きな力となるが、反発するような事を行なえば腹背に敵を受けることになるぞ。」
 そこで子建は城民の老人大人を全て集めて説諭すると同時に、朝廷に彼らを連座させないよう訴えてその許しを得た。これを受けて城民らは子建を信頼するようになった。それを見て子建は間もなく少しずつ彼らの父兄子弟を州城外の諸郡の戍(国境の城砦)に分散させた。すると城内は城外に家族を人質に取られた格好になり、城外の家族も城内にいる家族を同じように気にかけたため、とうとう叛乱者は現れなくなった。

 魏子建生年474、時に51歳)は、字を敬忠といい、李崇に改鎮為州の献策をした魏蘭根の族兄である(また、『魏書』の著作者・魏収の父でもある)。出仕して奉朝請となり、次第に昇進して太尉従事中郎とされた。
 楊紹先の国を滅ぼしたのち、北魏から派遣されてきた鎮将・刺史たちは悪政を行なった。そのため、氐族は乱を起こした。朝廷はそこで子建を東益州刺史とした。子建が恩愛と信義を信条にした政治を行なうと、氐族たちは大いに感化され、州内は内地のごとく平穏となった。

○魏孝明紀
 丁丑,念生遣其都督楊伯年、樊元、張朗等攻仇鳩、河池二戍,東益州刺史魏子建遣將尹祥、黎叔和擊破之,斬樊元首,殺賊千餘人。
○魏101氐伝
 正光中,詔魏子建為刺史,以恩信招撫,風化大行,遠近款附,如內地焉。
○魏104魏子建伝
 悅子子建,字敬忠。釋褐奉朝請,累遷太尉從事中郎。初,世宗時平氐,遂於武興立鎮,尋改為東益州。其後鎮將、刺史乖失人和,羣氐作梗,遂為邊患,乃除子建為東益州刺史。子建布以恩信,風化大行,遠近清靜。正光五年,南、北二秦城人莫折念生、韓祖香、張長命相繼構逆,僉以州城之人莫不勁勇,同類悉反,宜先收其器械。子建以為城人數當行陳,盡皆驍果,安之足以為用,急之腹背為憂,乃悉召居城老壯曉示之;并上言諸城人本非罪坐而來者悉求聽免。肅宗優詔從之。子建漸分其父兄子弟外居郡戍,內外相顧,終獲保全。

 ⑴仇鳩・河池...《読史方輿紀要》曰く、『河池は徽州(東益州の北)の治所で、仇鳩は徽州の西にある。
 ⑵尹祥...通鑑は『伊祥』とする。
 ⑶楊紹先の国...505年10月建国、506年正月滅亡。武興鎮が設置され、次いで東益州となった。

┃河州の動向
 この頃、前河州(枹罕)刺史の梁釗の息子の梁景進莫折念生の兵を招き入れて河州を攻めた。すると、河州刺史の元祚は憂いの余り亡くなった。
 この時、ちょうど仮平西将軍・員外散騎常侍の高徽が嚈噠(エフタル)への使者の任を終えて洛陽へ帰還中、枹罕に立ち寄っていた。そこで河州長史の元永平と治中の孟賓・台使の元湛広陽王淵の子?)は共に徽を推し立てて行河州事とした。
 徽はいたわりが上手で、良く兵士の支持を得た。別駕の乞伏世則が密かに景進に通じると徽はこれを殺した。また、吐谷渾に支援を要請し、吐谷渾がこれに応じて兵を送ってくると景進は敗れて秦州に逃走した。

○魏孝明紀
 河州長史元永平、治中孟賓等推嚈噠使主高徽行州事。
○魏32高徽伝
 又假平西將軍、員外散騎常侍,使嚈噠。還至枹罕,屬莫折念生反於秦隴。時河州刺史元祚為前刺史梁釗息景進等招引念生攻河州,祚以憂死。長史元永平、治中孟賓、臺使元湛,共推徽行河州事,綏接有方,兵士用命。別駕乞伏世則潛通景進,徽殺之。徵兵於吐谷渾,吐谷渾率眾救之。景進敗,退走,奔秦州。


 ⑴高徽…字は栄顕、幼名は苟児。本姓は是楼氏?で、高歓の一族。高帰彦の父で、高普の祖父。北魏の任城王澄から評価を受けた。景明年間(500~504)に出仕して奉朝請とされ、延昌年間(512~515)に仮員外散騎常侍とされてエフタルへの使者とされた。帰還すると冗従僕射とされた。神亀年間(518~520)に射声校尉・左中郎将・游擊将軍とされた。また、仮平西将軍・員外散騎常侍とされて再びエフタルへの使者とされた。

┃涼州、念生に呼応
 莫折念生が秦州に割拠すると、朝廷と河西(涼州などの地)は遮断された。
 この月(7月、北魏涼州の幢帥(幢は旗の一種。兵の指揮に用いる)の万紐于菩提・呼延雄莫折念生に呼応して刺史の宋穎を捕らえ、州城を占拠して叛乱を起こした。

○魏孝明紀
 是月,涼州幢帥于菩提、呼延雄執刺史宋穎據州反。
○魏101吐谷渾伝
 後秦州城人莫折念生反,河西路絕,涼州城人萬于菩提等東應念生,囚刺史宋穎。


 524年(2)に続く