[北魏:孝昌四年→武泰元年→建義元年→永安元年 梁:大通二年]



┃母子相克
 北魏の胡太后が政権に復帰して以来(525年)朝廷では彼女の寵臣たちが幅を利かせ、政治は乱れて節度を失い、恩賞も刑罰も気ままに行なわれた。ために群盗は相次いで蜂起し、国土は日々縮小した。
 孝明帝が成長してくると(生年510)、太后は帝に己の失政を知られて実権を剥奪されるのを恐れるようになった。太后はそこで些細な理由を以て彼の党派を排除し、周囲を己の一派で固める事でその耳目を封じようとした。
 例えば通直散騎常侍で昌黎の人の谷士恢は、帝に信任せられ領左右に任じられていたが、太后は度々彼に地方の任に就くようそれとなく勧め、彼が帝の信任を頼みに断り続けると、罪をでっち上げて殺してしまった《魏33谷士恢伝》。
 また、蜜多という胡語を良く解する道士がおり、帝のお気に入りだったが、太后は刺客を送り、洛陽城南にてこれも殺してしまった(?年の3月3日)。その後、懸賞金をかけて犯人を探すふりをして己の犯行を偽装した。
 しかしこれで帝が何も察しない筈が無く、これより母子間の亀裂は日増しに深くなっていった《魏13胡太后伝》。

┃高歓と爾朱栄

 この時、車騎将軍・儀同三司・并,肆,汾(劉蠡升の乱によって西河に遷っている),唐【孝昌年間(525〜528)に白馬城に設置された】,恒(陥落している),雲(陥落している)六州討虜大都督の爾朱栄の勢力は、朝廷を恐れ憚らせるほど強大なものとなっていた。

 その栄の許に、高歓・段榮・尉景・蔡俊らが訪れ、配下に加えてほしいと求めてきた。彼らは初め杜洛周の配下となったが、のちにこれを殺そうとして失敗して葛栄の許に逃れ、そこでも上手く行かないで、栄の許に亡命してきた者たちだった。

 この時、歓の同志の劉貴は彼らより先に栄の配下となっており、よく栄にこう言っていたものだった。

「私の旧友に、高歓という素晴らしい人物がおりました。彼が大王の配下となれば、必ず大きな力となってくれるでしょう。」

 そこで栄は歓がやってくるとすぐさまこれを引見したが、この時歓は苦しい逃避行を終えたばかりで心身共に憔悴しきっていたので、栄に何ひとつ良い印象を与えることができなかった。

 そこで劉貴が歓の衣服を綺麗なものに着替えさせ、身なりを整えてから再び栄に引き合わせたところ、栄はこれを厩に連れていった。

 歓が厩に入ると、栄は一頭の馬の前で立ち止まって言った。

「これはとんでもない暴れ馬で、よく人に乱暴を為す。そなたにこの馬の毛刈りができるかな?」

「やってみましょう。」

 歓はそう答えるやいなや、直ちに縄も持たずに馬に近づき、毛刈りをしようとした。栄は慌てて言った。

「縛らずに暴れ馬の毛刈りをしようとは、命知らずな奴だ!」

 歓は答えて言った。

 「男子たるもの、なんで馬ごときを恐れましょう。」

 かくて歓はそのまま馬に何の戒めもせずに毛刈りを行なったが、馬は遂に最後まで歓を傷つけなかった。

 歓は毛刈りを終えると、立ち上がって栄に言った。

「悪人どもも、このように馭してみせます。」

 栄は言った。 

「汝快男児なり!」

 かくて栄は歓を牀下に座らせると、人払いをして時事を論じたが、その論議は昼から夜半にまで及んだ。以後、栄は歓を常に軍議に参加させるようになった《北斉本紀》。


○洛陽伽藍記

 建義元年,太原王尒朱榮總士馬於此寺。榮字天寶,北地秀容人也。世為第一領民酋長,博陵郡公。部落八千餘家,家有馬數萬匹,富等天府。


┃義兄元天穆


 并州刺史の元天穆生年489、この時40歳)、字は天穆は、高涼王孤の五世孫である。温厚な性格で非常に度量が大きく、容貌麗しく傑出した容姿を備え、弓術に達者で、四石(四人張り)の弓を引いて七枚の札甲()を貫くことができた。

 二十歳の時(508)に出仕して員外〔散騎侍〕郎とされ、のち員外散騎常侍・嘗食典御・領太尉掾とされた。

 六鎮の乱が起き、尚書令の李崇広陽王淵が北討に赴くと、その諸軍の慰撫を任された。その道中秀容に立ち寄った際、爾朱栄と会った。天穆は彼の兵たちがよく号令に従っているのを見て、名将の器を感じ、そこで栄と深い親交を結んで義兄弟となった。この時天穆の方が四歳年長であったので、栄は天穆を兄として敬った。のち栄の立場が上になると、天穆も栄を敬った。

 まもなく栄は天穆を〔西北道〕行台にしようとして朝廷に拒否されたので、改めて別将とし、己の根拠地である秀容に赴任させた。天穆は栄の腹心となってこれをよく助け、のち〔征虜将軍・〕并州刺史に任ぜられた。栄と共に賊を平定し、聊城県開国伯・安北将軍とされ、更に仮撫軍将軍・兼尚書行台とされた。


○魏14上党王天穆伝

〔高涼王孤,平文皇帝之第四子也。…孤孫度,太祖初賜爵松滋侯,位比部尚書。卒。子乙斤,襲爵襄陽侯。顯祖崇舊齒,拜外都大官,甚見優重。卒。子平,字楚國,襲世爵松滋侯。以軍功賜艾陵男。卒。…平弟長生,位游、騎擊將軍。卒。孝莊時,以子天穆貴盛,贈司空。〕

 天穆,性和厚,美形貌,善射,有能名。年二十,起家員外郎。六鎮之亂,尚書令李崇、廣陽王深北討,天穆奉使慰勞諸軍。路出秀容,尒朱榮見其法令齊整,有將領氣,深相結託,約為兄弟。未幾,榮請天穆為行臺,朝廷不許,改授別將,令赴秀容。是時,北鎮紛亂,所在蜂起,六鎮蕩然,無復蕃捍,惟榮當職路衝,招聚散亡。天穆為榮腹心,除并州刺史。及榮赴洛,天穆參其始謀,乃令天穆留後,為之繼援。

○洛陽伽藍記

 建義元年,太原王尒朱榮總士馬於此寺。榮字天寶,北地秀容人也。世為第一領民酋長,博陵郡公。部落八千餘家,家有馬數萬匹,富等天府。武泰元年二月中,帝崩,無子,立臨洮王世子釗以紹大業,年三歲,太后貪秉朝政,故以立之。榮謂幷州刺史元天穆曰:「皇帝晏駕,春秋十九,海內士庶,猶曰幼君。況今奉未言之兒,以臨天下,而望昇平,其可得乎?吾世荷國恩,不能坐看成敗,今欲以鐵馬五千,赴哀山陵,兼問侍臣帝崩之由,君竟謂何如?」穆曰:「明公世跨幷肆,雄才傑出,部落之民,控弦一萬。若能行廢立之事,伊霍復見於今日。」榮卽共穆結異姓兄弟。穆年大,榮兄事之。榮為盟主,穆亦拜榮。

○魏故武昭王墓誌

 王諱天穆,字天穆,河南洛陽人也。太祖平文皇帝之後。高梁神武王之玄孫。領軍将軍松滋武侯之曾孫。太子詹事使持節左将軍肆州刺史襄陽景侯之孫。使持節侍中驃骑大将軍司空文公都督雍州諸軍事雍州刺史之長子。…淵乎若仁,悠然似道,千刃莫測其高,万頃不知其広。神質自成,孤貞特秀,八素九区之理,靡不洞其幽源;三墳五典之書,故以極其宗致。又雄光桀出,武芸超倫,弯弧四石,矢貫七札,白猿不得隐其層林,紫貂無以逃其潜穴。子房帷幄之謀,田单攻取之術,故以囊括于心衿,載盈于怀抱矣。

 起家除員外散騎侍郎。以王器量清懋,識裁通敏,除員外散騎常侍、嘗食典御。台府初開,爰祗顕命,領太尉掾。于時塞虜叩関,山胡叛命,封豨実繁,長蛇荐筮。以王忠義夙章,威略兼挙,董率之任,僉議斯帰。充西北道行台。除征虜将軍、并州刺史。及王師電撃,妖寇霜摧,威略既明,庸勲有典。除聊城県開国伯,加安北将軍,余官如故。遂假撫軍将軍兼尚書行台。


┃言発すれば駕を俟たず

 のち栄は己の兵馬が増大してきた事から、遂に天穆と共に朝廷を匡正せんと考えるようになった。そこで帳下都督の賀抜岳にこう諮って言った。

「現在女主が政権の座に座り、お気に入りの近臣に勝手気ままに政治を執らせたため、盗賊どもが群がり起き、大いに天下が乱れてしまった。そしてその叛乱を鎮圧しようと官軍が幾度も出陣しても、連敗を喫する有り様である。私は代々国恩を受けた身で、魏朝とは殆ど親戚のような関係があるゆえ、このような状況を座視することはできぬ。そこで今自ら軍を率い、電のように都に赴き、内は君側の奸を除き、外は逆徒どもを討とうと思っているのだが、果たしてどのようにすれば上手く行くだろうか? そなたの考えを聞きたい。」

 岳は答えて言った。

「そもそも非常の事を行なうには非常の人が必要でありますが(前漢の司馬相如の言葉)、将軍の兵馬は精強でその立場はとても重々しいものがあり、まこと非常の人と言えましょう。その将軍が率先して義兵を挙げ、叛賊を討ち君主を匡そうとなさるのに、どうして勝たない事、破らない事がありましょうか。古人の言う『朝に謀れば夕に及ぼさず〔に行ない〕、言発すれば駕(車馬)を俟()たず〔して行く〕』とは、まさに今のような事を指しているのです。迷い躊躇う必要などありません!」

 栄は天穆と暫く顔を見合わせたのち、こう言った。

「そなたの言葉は、まことに大丈夫の言葉である!」


○周14賀抜岳伝

 榮士馬既眾,遂與元天穆謀入匡朝廷。謂岳曰:「今女主臨朝,政歸近習。盜賊蜂起,海內沸騰,王師屢出,覆亡相繼。吾累世受恩,義同休戚。今欲親率士馬,電赴京師,內除君側,外清逆亂。取勝之道,計將安出?」岳對曰:「夫立非常之事,必俟非常之人。將軍士馬精彊,位任(望)隆重。若首舉義旗,伐叛匡主(救),何往而不尅(克),何向而不摧。古人云『朝謀不及夕,言發不俟駕』,此之謂矣。」榮與天穆相顧良久,曰:「卿此言,真丈夫之志(論)也。」


●爾朱栄の上書


 栄はかくて上書して言った。
「山東の賊の勢いは盛んで、冀・定の二州が陥落させられ、官軍は次々と敗れております。この事態を打開するために、どうか臣が精騎三千を率いて相州の助勢に赴くことを許可してください。」
 太后はその真意を疑って詔を下して言った。
「現在莫折念生は梟首戮死(死体を切り刻まれ、晒し首にされる)せられ、蕭宝寅は生け捕りとなり(実際は逃亡)、万俟醜奴宿勤明達も降伏の意思を示してきている(実際は謎)。関・隴の地は平定されたといってよい。
 また、南方では費穆が諸蛮を大破し、西北方の絳蜀も平定の兆しが見え始めている。
 更に、北海王顥も二万の兵を率いて相州の守備に向かうことになっていて、葛栄への備えも万全である。
 故に、出兵は不要である。」
 栄はそこで大笑して言った。
「天下大いに乱れたるに、このような言辞を弄するとは、全く笑止である! これでわしが思いとどまると思うのか!」
 そして更に上書して言った。
「賊勢衰え、残すはほとんど葛栄のみとなったとは申せ、これまで官軍はしばしば敗れたことで、身に怯懦が染みついておりますため、過信は禁物でございます。ここは万全の方策を取っておくに越したことはないでしょう。
 臣が愚考いたしますには、
 一に蠕蠕(柔然)主の阿那瑰の報恩の志を利用して、東のかた飛狐口に出兵させ、葛栄の背後を脅かさせます。
 二に北海王の兵力を強化してその正面にしっかりと当たれるようにいたします。
 三に臣が井陘以北・滏口以西の要害に兵を派し、機を見てその脇腹を突きます。臣は麾下の兵が少のうございますが、全霊を込めることで補いましょう。
 四に葛栄杜洛周の兵を併せたとはいえ、威恩がまだその衆に加えられておらず、人種にも差異がございます(杜洛周の兵は匈奴人、葛栄の兵は鮮卑人が主)。これを利用して工作いたしますれば、きっとその勢を分断することができるでしょう。
 以上が臣の考えます万全の方策であります。恐れながら、かように致しますれば、勝利は間違いないと思います。」
 かくて栄は義勇の兵を集めると、無断で北は馬邑、東は井陘に派遣して、洛陽出兵の際の背後を固めた。
 この時、徐紇は太后に説き、免死約貴の鉄券を用いて栄の左右の離間を図った。栄はこれを知ると紇に怨みを抱いた。

 ⑴飛狐口…《読史方輿紀要》曰く、『大同府の蔚州広昌県の北二十里にある。《水経注》曰く、「代郡の南四十里に飛狐関がある。」《輿地広記》曰く、「飛狐峪・飛狐関は蔚州の南四十里にある。」』

 ⑵この時北魏の領土は馬邑まで縮小していて、恒・朔を収復できていなかった事を示す。柔然の領域がどこまであったのか、朔州・恒州を陥とした鮮于阿胡がそれ以後歴史から姿を消しているのは何故かなどは分からない。


●孝明帝毒殺
 孝明帝鄭儼・徐紇らを憎み嫌っていたが、太后に睨まれてこれを除くことができずにいた。そこで帝は栄に密詔を下し、洛陽に派兵させることで太后を脅迫しようとした。
 栄はこの密詔を授かると、渡りに船とばかり、直ちに高歓を先鋒として洛陽に出陣し、上党に到った。しかし帝はその迅速すぎる派兵に疑念を抱き、その地で一旦留まるよう詔を下すことにした《北斉本紀》
 一方儼・紇は栄の出陣を知るや命の危険を感じ、密かに太后と共に、帝を毒酒にて殺す計画を練った。
 癸丑(25日)、帝は俄に崩御した(享年19※1
 甲寅(26日)、太后は皇女を皇帝に即位させ、大赦を行なった。出生時これを太子と偽っていたための行動だった。
 それから間もなく太后は詔を下して言った。
潘充華が産んだのは実は女子であった。故に今改めて宝暉の世子の釗を皇帝とする。釗は高祖(孝文帝)の血を引いている故、大統を継ぐにふさわしい人物であろう。ついては文武百官にそれぞれ二階級の、宿衛の士には三階級の特進を加えることとする。」



 乙卯(27日)元釗は皇帝に即位した。釗はこの時ようやく3歲になったばかりであった。太后が政治の実権を失いたくないがため、このような幼主を立てたのであったが、わずか3歳の幼主の登極に天下は愕然とした。

※1…魏74爾朱栄伝では25日に病気が快方に向かい、26日に亡くなったとしている。

●爾朱栄の抗表

 これより前、爾朱栄は娘を孝明帝の嬪(側室の一。左右昭儀→三夫人→三嬪→六嬪→世婦→御女と続く)としていた。

 現在、栄は帝の暴殂を聞くや、激怒して義兄の元天穆にこう言った。

「主上は崩御なされた時、御年十九歳でしたが、それでも天下の士庶は幼君だと言って不安に感じていました。ましてまだ物言わぬ赤子なら尚更の話で、それに天下を任せ、安定を求めるのは筋違いというものでありましょう! 私は代々国恩を受けた身なれば、国が滅亡に向かっていくのを黙って見ている事などできそうにありません。今、私は鉄騎五千を率いて哀山陵に赴き、先帝の聖心を慰め、主上の崩御の事情を侍臣に問い質すと共に、幼主を廃して成人の君主を立てようと思います。兄上はどう思われますか?」

 天穆は答えて言った。

「殿は代々井・肆に跨る名族の出で、傑出した雄才の持ち主であられ、その部衆の戦士は一万を数えます。実行致せば成功は間違いなく、その挙はまさに伊尹・霍光の再現となりましょう!」《伽藍一》
 そこで栄は朝廷に抗表して言った。
「大行皇帝(まだ諡号の無い前皇帝への呼び名)の突然のお隠れについて、天下の士庶は皆鴆毒によるものだと噂しております。人々は天子が病に伏せられていたのなら、何故医者や貴戚大臣をお側に呼ばなかったのかと疑問に思っているのです! 
 また皇女を妄りに天子として大赦を行ない、上は天地を欺き、下は朝野を惑わしたのも謎としかいいようがありません。
 そして極めつけは候補の中からわざわざ赤子を選んだ事です!
 これらの行動は、奸臣が権勢を専らにしたいがために、綱紀を乱してまで仕組んだものでしょう! しかしその行為は目を瞑って雀を捕らえ、耳を塞いで鐘を盗むのと同じで、全く幼稚な隠蔽としか言いようがありません!
 今、内では群盜相次ぎ、外では大敵が隙を伺う極めて危うい情勢でありますのに、そこに物言わぬ赤子を持ってきて天下を治めようとするというのは、いったいどういう了見でしょうか!
 臣は今より朝廷に赴き、会議を開いて侍臣や禁衛に帝の暴崩の真実を問い詰め、徐・鄭一派を裁判にかけて、先君の怨みを雪ぎ、人民の屈辱を晴らしに行こうと思います。そして、その上で改めて宗室の中から真にふさわしい人物を選んで天子の座に就けたいと考えております。」 


○北48爾朱栄伝

 榮女先為明帝嬪。

○洛陽伽藍記

 武泰元年二月中,帝崩,無子,立臨洮王世子釗以紹大業,年三歲,太后貪秉朝政,故以立之。榮謂幷州刺史元天穆曰:「皇帝晏駕,春秋十九,海內士庶,猶曰幼君。況今奉未言之兒,以臨天下,而望昇平,其可得乎?吾世荷國恩,不能坐看成敗,今欲以鐵馬五千,赴哀山陵,兼問侍臣帝崩之由,君竟謂何如?」穆曰:「明公世跨幷肆,雄才傑出,部落之民,控弦一萬。若能行廢立之事,伊霍復見於今日。」


┃爾朱世隆の登場

 この時、栄の従弟の爾朱世隆は直閣(禁衛官)として洛陽にいた。

 太后がこの世隆を晋陽に遣って栄の説得を試みさせると、栄は無論その手には乗らず、むしろこれ幸いと世隆を手許に留めようとした。すると世隆が言った。

「朝廷は兄を疑っているから私を派遣したのです。今私がここに留まれば、朝廷はやはり異心があったかと守りを固めるでしょう。それは上策とは言えません。」

 そこで栄は世隆を朝廷に帰すことにした。


 世隆、字は栄宗は孝明帝の治世(515~528)の末に直齋(禁衛官)、次いで直寝・兼直閤・前将軍とされていた。


○魏75爾朱世隆伝

 仲遠弟世隆,字榮宗。肅宗末,為直齋。轉直寢,後兼直閤,加前將軍。尒朱榮表請入朝,靈太后惡之,令世隆詣晉陽慰喻榮,榮因欲留之。世隆曰:「朝廷疑兄,故令世隆來,今若遂住,便有內備,非計之善者。」榮乃遣之。


●滄州の陥落

 3月、癸未(26日)葛栄が滄州【北魏が517年に饒安に設置。浮陽・楽陵の二郡を管轄した】を陥とし、刺史の薛慶之を捕らえ、住民の殆どを殺戮した。


 乙酉(28日)孝明帝が定陵に埋葬された。廟号は肅宗。


○魏42薛慶之伝

〔薛驎駒〕長子慶之,字慶集,頗以學業聞。…遷征虜將軍、滄州刺史,為葛榮攻圍,城陷。尋患卒。後贈右將軍、華州刺史。



(3)に続く