[北魏:永安二年 梁:大通三年→中大通元年]



┃爾朱栄動く



 一方、晋陽の爾朱栄孝荘帝の北出を知るや、直ちに馬を飛ばし、上党太守の斛斯椿と合流したのち、長子にて帝に謁えた。

 同時に、元顥討伐軍の編成を行なった(5月27日?)。帝はそこですぐさま反転して洛陽奪回に向かうことにし、栄をその先鋒とした。間もなく十日の内に大軍は集結し、物資も陸続と到着した。


○魏孝荘紀

〔戊寅,〕太原王尒朱榮會車駕於長子,即日反斾。上黨王天穆北渡,會車駕於河內。

魏74爾朱栄伝

 五月,車駕出幸河北。事出不虞,天下改望。榮聞之,即時馳傳朝行宮於上黨之長子,行其部分。輿駕於是南轅,榮為前驅,旬日之間,兵馬大集,資糧器仗,繼踵而至。

○魏80斛斯椿伝

 平葛榮,以功除上黨太守。及元顥入洛,椿隨榮奉迎莊帝,遂從攻顥。


┃公主病臥・建康大疫

 梁の永興公主玉姚が危篤になった。

 6月、壬午(2日)、公主の願いを聞いて、大赦を行なった(資治通鑑は北魏が大赦を行なった事になっている)。


 この月、建康にて疫病が大流行した。武帝は重雲殿にて人々のために救苦齋という法会を催し、自ら疫病退散の祈祷を行なった。


○資治通鑑

 六月壬午,魏大赦。

○梁武帝紀

 六月壬午,〔以永興公主疾篤故,〕大赦天下。〔公主志也。是月,都下疫甚,帝於重雲殿為百姓設救苦齋,以身為禱。

○南51臨川王宏伝

 宏又與帝女永興主私通,因是遂謀弒逆,許事捷以為皇后。帝嘗為三日齋,諸主並豫,永興乃使二僮衣以婢服。僮踰閾失屨,閤帥疑之,密言於丁貴嬪,欲上言懼或不信,乃使宮帥圖之。帥令內輿人八人,纏以純綿,立於幕下。齋坐散,主果請間,帝許之。主升階,而僮先趣帝後。八人抱而擒之,帝驚墜於扆。搜僮得刀,辭為宏所使。帝祕之,殺二僮於內,以漆車載主出。主恚死,帝竟不臨之。

○南60殷鈞伝

 自宋、齊以來,公主多驕淫無行,永興主加以險虐。鈞形貌短小,為主所憎,每被召入,先滿壁為殷叡字,鈞輒流涕以出,主命婢束而反之。鈞不勝怒而言於帝,帝以犀如意擊主碎於背,然猶恨鈞。


 ⑴永興公主玉姚…梁の武帝の長女。母は郗皇后。殷鈞に嫁いだ。


┃河内攻略

 これより前、顥は都督の宗正珍孫と河内太守の元襲に河内を占拠させていた。栄が河内に到ると、上党王天穆劉霊助らが合流してきた。

 壬寅(22日)、栄が河内を攻めたが、なかなか陥とすことができなかった。時はあたかも炎暑の季節にあたり、栄の将兵たちはみな疲れ果てていた。栄はそこで一旦帝と共に晋陽に引き返し、涼しい秋を待ってから再び顥を討伐しようと考えた。しかしその踏ん切りがつかなかったため、霊助に河内攻略が成功するかどうか占わせた。すると霊助は言った。

「未の刻(午後2時頃)に必ず勝つことができるでしょう。」

 この時、既に正午近くだったが、霊助は言った。

「今こそ好機であります。」

 そこで栄が将兵を激励して河内をもう一度攻めさせると、将兵は勇躍気を奮い起こし、河内に猛攻をかけた。

 すると果たして河内はたちどころに陥落した。

 栄は珍孫と襲を斬って三軍の前に掲げ、晒し首にした。


○魏孝荘紀

 壬寅,克河內,斬太守元襲、都督宗正珍孫。

○魏14元天穆伝

 會車駕於河內。

○魏74爾朱栄伝

 天穆既平邢杲,亦渡河以會車駕。顥都督宗正珍孫、河內太守元襲固守不降,榮攻而克之,斬珍孫、元襲以徇。帝幸河內城。

○魏91劉霊助伝

 事平而元顥入洛,天穆渡河。靈助先會尒朱榮於太行。及將攻河內,令靈助筮之。靈助曰:「未時必克。」時已向中,士眾疲怠,靈助曰:「時至矣。」榮鼓之,將士騰躍,即便克陷。

○洛陽伽藍記

 時帝在長子城,太原王、上黨王來赴急難。六月,帝圍河內,太守元桃湯、車騎將軍宗正珍孫等為顥守,攻之弗克。時暑炎赫,將士疲勞,太原王欲使帝幸晉陽,至秋更舉大義,未決。召劉助筮之,助曰:「必克。」於是至明盡力攻之,如其言。桃湯、珍孫並斬首,以殉三軍。


 ⑴劉霊助…燕郡の人。陰陽・占卜の事を好み、粗野で無頼な行ないが多く、行商や強盗を行なったり、巿場にて方術を行なってみせて金を得た。のち爾朱栄に仕え、占いをよく当てたのを評価され、重用を受けて功曹参軍とされた。栄が洛陽を陥として皇帝に即位しようとすると、天の時や人情事理の面から実行しないほうが良いと忠告し、孝荘帝をそのまま皇帝にしておくよう勧めた。528年⑶参照。


┃并・肆動揺

 栄が晋陽から南下した後、并・肆二州が動揺した。そこで栄は天穆軍にいた爾朱天光を并・肆・雲・恒・朔・燕・蔚・顕・汾九州行台とし、行并州事も兼ねさせてその慰撫を任せた(蔚州は永安年間に禦夷鎮・懐荒鎮に改めて設置され、その治所は仮に并州鄔県に置かれた。顕州も永安年間に汾州六壁に設置された)。

 天光は晋陽に赴くと、兵を適所に配し軍紀を良く引き締めたので、二州の人心は落ち着きを取り戻すに到った。


 7月(梁:閏6月)、辛亥(1日)、北魏の淮安(新野の東)太守の晋鴻が湖陽(南襄州治所)と共に梁に降った。


 己未(9日)、梁の南康簡王績武帝の第四子。享年26歳)が逝去した《梁武帝本紀》


○梁武帝紀

 六月…辛亥,魏淮陰太守晉鴻以湖陽城內屬。閏月己未,安右將軍、護軍南康王績薨。

○魏75爾朱天光伝

 元顥入洛,天光與天穆會榮於河內。榮發之後,并肆不安,詔天光以本官兼尚書僕射,為并肆雲恒朔燕蔚顯汾九州行臺,仍行并州,委以安靜之。天光至并州,部分約勒,所在寧輯。


●元顥と陳慶之の内訌
 元顥は洛陽の主となると、臨淮王彧・安豊王延明らと共に密かに梁から離反する計画を練るようになった。しかしまだ事態がどう動くか分からず、陳慶之の持つ兵力が必要だったため、表面上はこれと友好を装っていた。ただその内心は言葉の端々に表れ、刺々しくなるのを隠せなかった。
 ここに至って慶之も顥に警戒をするようになり、密かにその備えをせんとして顥に言った。
「現在、我々は江東の地より長駆洛陽を手中にすることができましたが、依然として服従せぬ者多く、不安定な状態にあります。
 ここでもし敵が我らの弱体を知り、勇躍四方より連合して攻撃をかけてきましたら、どう防ぐつもりですか⁉
 ここは我らの天子(武帝)にお伺いを立てて、更なる精兵の増援を求めておくことに越したことはないでしょう。また、同時に諸州に勅を下し、抑留せられていた南人たちを洛陽に集め、兵力に充てることを許可してください。」
 顥がこれに従おうとすると、延明が言った。
「慶之の兵は数千にしか過ぎませんが、それでも我らはそれを控制するのに苦労している有様です。ここで今更にその兵の増加を許しましたら、今度こそ手に負えなくなるでしょう。大権一たび去らば、我々は南人の思うがままにされ、魏の宗廟はここに絶えること必定であります。」
 顥はそこで慶之の言を用いなかった。また、顥らは慶之が密かに武帝に増援を求めている可能性を考え、そこで武帝に上奏して言った。
「現在我らは黄河一帯を一挙に平定することを得、ただ爾朱栄のみが時勢を弁えず抵抗している状況となっております。そして、この討伐も臣と慶之で事足ります。また、州郡はまだ服従したばかりで、些細なことで動揺致します。以上の理由から、援軍は送らない方が良いかと思います。」
 武帝はそこで派兵を取り止め、出陣していた諸軍を全て境上に留めることにした。


 この時、洛中の南兵は一万に満たなかったのに対し、羌・胡の兵はその十倍にも達していた。そこで副将の馬仏念が慶之に献策して言った。
「現在、将軍の威は河・洛など中原一帯に轟いております。功高く権大なれば、元顥らの疑う所になるは必定で、その猜疑がひとたび決壊せば、小勢の我らが対応できるかどうか分かりません。将軍はどうしてこれに無策でいられましょうか⁉ ここは彼らがまだ準備を整えぬ内に、先んじて元顥一党を討ち、洛陽を我がものとすべきであります。今がその千載一遇の時です。逃してはなりません!」
 慶之は答えて言った。
「初め助けていた者を俄に殺すというのは、不義である。そのような事はできない。」
馬仏念は戦国の策士の気風を有していたが、そもそも非常の事は非常の才があってこそ成立するものである。慶之は、彼が弁ずるに足る非常の人ではなかった

 顥は以前慶之を徐州刺史としていたことがあり、慶之はこれを利用して洛陽から逃れようとした。そこでその赴任の許可を何度も求めたが、顥は栄の大軍を前に不安になっており、許さずにこう言った。
「主上(武帝)は洛陽の全権をそなたに委ねた。しかし今そなたはその期待に背いて、俄に洛陽を棄て彭城(徐州)へ行くと言う。天下の人々は、そなたが安全富貴を選び国家の大計を蔑ろにしたと思うであろうな。また、これは君の汚点になるだけでなく、私の責任にもなるのだ。君は自分のことだけを見るのではなく、全体を見てほしい。」
 慶之は赤面して、以後二度と徐州への赴任を求めなくなった《梁32陳慶之伝》


○梁32陳慶之伝

 與安豐、臨淮共立姦計,將背朝恩,絕賓貢之禮;直以時事未安,且資慶之之力用,外同內異,言多忌刻。慶之心知之,亦密為其計。乃說顥曰:「今遠來至此,未伏尚多,若人知虛實,方更連兵,而安不忘危,須預為其策。宜啟天子,更請精兵;並勒諸州,有南人沒此者,悉須部送。」顥欲從之,元延明說顥曰:「 陳慶之兵不出數千,已自難制;今增其眾,寧肯復為用乎?權柄一去,動轉聽人,魏之宗社,於斯而滅。」顥由是致疑,稍成疏貳。慮慶之密啟,乃表高祖曰:「河北、河南一時已定,唯尒朱榮尚敢跋扈,臣與慶之自能擒討。今州郡新服,正須綏撫,不宜更復加兵,搖動百姓。」高祖遂詔眾軍皆停界首。洛下南人不出一萬,羌夷十倍,軍副馬佛念言於慶之曰:「功高不賞,震主身危,二事既有,將軍豈得無慮?自古以來,廢昏立明,扶危定難,鮮有得終。今將軍威震中原,聲動河塞,屠顥據洛,則千載一時也。」慶之不從。顥前以慶之為徐州刺史,因固求之鎮。顥心憚之,遂不遣。乃曰:「主上以洛陽之地全相任委,忽聞捨此朝寄,欲往彭城,謂君遽取富貴,不為國計,手敕頻仍,恐成僕責。」慶之不敢復言。


慶之説得


 爾朱栄元顥は黄河を挟んで向かい合った。栄は右僕射の爾朱世隆・大都督の上党王天穆・車騎将軍の爾朱兆・長史の高歓・鮮卑・柔然の兵を引き連れ、総勢百万と号した。
 慶之は黄河北岸の北中城を守り、顥らは南岸を守備した《梁32陳慶之伝》

 天穆は北中城を包囲すると、都督の楊寛字は景仁。529年〈1〉参照)に慶之を説得させた。寛は城下に到るとまず己の姓名を名乗り、それからつぶさに利害を述べて早く降伏するように説いた。慶之はこれに長く沈黙したのち、こう言った。

「我が軍中にいるそなたの賢兄の撫軍将軍(楊倹)が、非常にそなたに会いたがっているぞ。」

 すると寛はこう答えて言った。

「私の兄は王()の威に屈し逆賊に与した身なれば、人臣の道理から言ってこれと会う必要はありません。また、姓名を述べるような者が、兄の北中にいることを知らないことがありましょうか。そもそも兄弟の信義より君臣の忠義が優先されますことは自明の理です。どうか将軍はこれ以上兄のことについて何もおっしゃらないでいただきたい。将軍よ、よくよくお考えになって、最善の道を採られますように。」

 天穆はこれを聞くと、左右にこう言った。

「寛は立派な人物である。どうして彼が言葉通り家族を愛さないことがあろうか。」

 これ以来天穆はますます寛を敬い重んじるようになった《周22楊寛伝》


○梁32陳慶之伝

 魏天柱將軍尒朱榮、右僕射尒朱世隆、大都督元天穆、驃騎將軍尒朱吐沒兒、榮長史高歡、鮮卑、芮芮,勒眾號百萬,挾魏主元子攸來攻顥。顥據洛陽六十五日,凡所得城,一時反叛。


 ⑴爾朱世隆…字は栄宗。爾朱栄の従弟。孝明帝の治世(515~528)の末に長く宿衛の官を務めた。胡太后と爾朱栄の関係が悪化すると太后に説得を命じられた。栄が洛陽に迫ると合流し、長楽王子攸の擁立を支持した。栄が遷都に反対した元諶を殺そうとすると諌止した。間もなく尚書右僕射・楽平公とされた。529年、陳慶之が洛陽に迫ると虎牢を守備したが、戦わずして逃走した。間もなく行台右僕射・相州刺史とされた。529年⑵参照。
 ⑵爾朱兆…字は万仁。爾朱栄の甥。若くして勇猛で馬と弓の扱いに長け、素手で猛獸と渡り合うことができ、健脚で敏捷なことは人並み以上だった。栄に勇敢さを愛され、護衛の任に充てられた。栄が入洛する際に兼前鋒都督とされた。孝荘帝が即位すると車騎将軍・武衛将軍・都督・潁川郡公とされた。529年、上党王天穆の部将として邢杲討伐に赴いた。その隙に元顥が梁の支援を受けて洛陽に迫ると、胡騎五千を率いて引き返し、陳慶之と戦ったが敗れた。天穆が河北に逃れる際後軍を率いた。529年⑵参照。

┃苦戦

 陳慶之は会戦が始まると三日の間に十一戰し、栄の兵士を数多く殺傷した《梁32陳慶之伝》

 この時顥配下の夏州兵が河中の小島を守備していたが、密かに栄に通謀し、河橋を破壊して慶之と顥らの連携を断ち、功を立てたいと言った。栄はこの義心に感激し、夏州出身で都督の宇文貴を派遣すると共に、決行の時は慶之を破ってすぐ助けに行く事を誓った。
 決行の日、夏州の義兵は見事に河橋を焼き払い、その混乱の内に栄は慶之を攻め立てたが、無念にも持ち堪えられ、そうこうする内に義兵たちは顥軍に皆殺しにされてしまった(宇文貴は生存)。義兵たちを助けられなかったどころか、無駄死にさせてしまった事に、栄は酷く落胆した。
 また、この時安豊王延明が黄河南岸を固く守備していること、北軍に船が無かったこと、盛暑の時期であることを以て、栄は戦いを諦めて北に還り、涼しい秋を待ってから再戦を挑もうと考えるようになった。
 すると、黄門郎の楊侃が言った。
「大王が并州(晋陽)を発ったのは夏州義兵を助けに行くためだったのでしょうか?
 河・洛の地に広く経略を行ない、帝室を復興するためではなかったのでしょうか!?
 そもそも戦争というものは、軍に被害が出ても統制さえ取れていれば、その傷を癒し継続することができるものです。まして今大王の軍は統制が乱れるほどの損耗を負ったわけではないのですから、尚更戦い続けられる筈ではないですか!
 それを大王はどうしてたった一度の蹉跌だけで諦めようとなさっているのですか!
 また、今天下は揃って公の此度の一挙に注目しておりますから、ここでもし何も成さないまま俄に引き返しますと、人々は失望し、めいめい己が誰に従うべきか考え直すようになります。そうなれば、秋が来ても再戦するのは難しくなるでしょう。
 戦いというのは、最後まで勝敗が分からないものです。諦めぬ者が勝つのです!
 私が考えますに、ここは民間から材木を徴発し、多くの筏を造り、その中に多少の船を混じえて黄河数百里に渡って並べ、一斉に渡河させるのが宜しいかと存じます。さすれば戦場は広範囲に渡り、元顥はどこを守れば良いか分からなくなって動転するでしょう。その隙に一たび対岸に渡れば、こちらのものです。大功の樹立は疑いありません。」《魏56楊侃伝》
 のち、高道穆も栄にこう言った。
「今、天子は流浪の身となり、君は憂慮し臣は屈辱に悶えております。
 大王は現在百万の兵を擁し、天子を輔けて諸侯に号令しておりますが、ここでもし手分けして筏を造らせ、各所から渡河させますれば、掌を指すように容易に勝利する事ができるでしょう。  
 その機会を棄てて北帰なさりますと、元顥はその間に兵を集め防備を完璧な物にしてしまうでしょう! これは所謂小蛇を養って大蛇にするというものです。後悔しても間に合いませんぞ!」
 栄は大笑して言った。
「楊黄門もそんな事を言っておったな。分かった、考えてみよう。」《魏77高道穆伝》
 そこで卜占に長ずる劉霊助に成功の可否を占わせてみると、霊助はこう言った。
「十八・十九日の間に、必ず勝利を得るでしょう。」(梁32陳慶之伝では『十日の内に河南は平定されるでしょう。』
 また、義兄の上党王天穆も戦いの続行を主張した。


○魏14元天穆伝

 尒朱榮以天時炎熱,欲還師,天穆苦執不可,榮乃從之。

○魏58楊侃伝

 及車駕南還,顥令蕭衍將陳慶之守北中城,自據南岸。有夏州義士為顥守河中渚,乃密信通款,求破橋立效,尒朱榮率軍赴之。及橋破,應接不果,皆為顥所屠滅。榮因悵然,將為還計,欲更圖後舉。侃曰:「未審明大王發并州之日,已知有夏州義士指來相應,為欲廣申經略,寧復帝基乎?夫兵散而更合,瘡愈而更戰,持此收功,自古不少,豈可以一圖不全,而眾慮頓廢。今事不果,乃是兩賊相殺,則大王之利矣。若今即還,民情失望,去就之心,何由可保?未若召發民材,惟多縛筏,間以舟楫,沿河廣布,令數百里中,皆為渡勢。首尾既遠,顥復知防何處,一旦得渡,必立大功。」榮大笑曰:「黃門即奏行此計。」

○魏74爾朱栄伝

 榮與顥相持於河上,顥令都督安豐王延明緣河據守。榮既未有舟船,不得即渡,議欲還北,更圖後舉。黃門郎楊侃、高道穆等並謂大軍若還,失天下之望,固執以為不可。語在侃等傳。

○魏91劉霊助伝

 及至北中,榮攻城不獲,以時盛暑,議欲且還,以待秋涼。莊帝詔靈助筮之。靈助曰:「必當破賊。」詔曰:「何日?」靈助曰:「十八、十九間。」果如其言。

○周19宇文貴伝

 加別將。又從元天穆平邢杲,轉都督。元顥入洛,貴率鄉兵從爾朱榮焚河橋,力戰有功。

○梁32陳慶之伝

 慶之渡河守北中郎城,三日中十有一戰,傷殺甚眾。榮將退,時有劉靈助者,善天文,乃謂榮曰:「不出十日,河南大定。」


┃敵前渡河

 この時、伏波将軍で正平出身の楊檦が一族とともに馬渚(黄河中の小島)にいた。彼は河陰の際、城陽王徽を匿って義人として名を馳せた者で、孝荘帝が北出する際は、そのための船を集めるよう命じられたが、結局使われずに終わった後は、その船を隠し元顥に使わせずにいた。

 そして今王師が河を渡ると聞くや、我に小船数艘ありと申し出ると共に、渡河の先導を買って出たのだった。栄はこれに大いに喜んで言った。

「そなたがやって来たのは、まさに天の助けである!」

 かくて栄は遂に敵前渡河の決行を決めた。


 これより前、賀抜勝侯淵と共に幽州の韓樓討伐にあたっていたが、元顥が入洛すると、栄の命に応えて急遽三百騎を率いて東路より南下し、そのもとに馳せ参じていた。


 戊辰(18日)、栄は勝を前軍大都督とし、精鋭の騎兵数百(周14賀抜勝伝では『千騎』。北史演義では『一万』)を与え、車騎将軍の爾朱兆と共に馬渚の西にある硤石から夜陰に紛れて渡河させた。

 その対岸は顥の子で領軍将軍の元冠受が、歩騎五千を率いて守備していたが、兆・勝は奮戦してこれを大破し、冠受と顥の大都督の陳思保らを虜とした(北史演義では『将兵たちはひとたび上陸に成功するや地を震わすほどの鬨の声を上げ、勇気を奮い起こし先を争って敵陣に突入した。この時、慶之が北中城を、顥と安豊王延明・顥の子の元冠受が手分けして南岸を守備していた。元冠受軍は夜中のため兆軍が小勢だという事が分からず、突然四方から攻撃を受けると恐慌状態に陥り、あちこちに逃げ散った。冠受も慌てて刀を手に馬に乗ったが、ちょうどその時賀抜勝に出くわし、一槍にて刺し殺された』とある)。


○魏孝荘紀

 秋七月戊辰,都督尒朱兆、賀拔勝從硤石夜濟,破顥子冠受及安豐王延明軍,元顥敗走。

○魏58楊侃伝

 於是尒朱兆與侃等遂與馬渚諸楊南渡,破顥子領軍將軍冠受,擒之。顥便南走。

○魏74爾朱栄伝

 屬馬渚諸楊云有小船數艘,求為鄉導,榮乃令都督尒朱兆等率精騎夜濟,登岸奮擊。顥子領軍將軍冠受率馬步五千拒戰,兆大破之,臨陳擒冠受。

○魏75爾朱兆伝

 及元顥之屯於河橋,榮遣兆與賀拔勝等自馬渚西夜渡數百騎,襲擊顥子冠受,擒之。又進破安豐王延明,顥於是退走。

○魏80・周14賀抜勝伝

 鎮中山。元顥入洛,〔孝莊帝出居河內。榮徵勝。〕勝從東路率騎三百赴行宮於河梁。榮命勝〔為前軍大都督,領千騎〕與尒朱兆先渡〔自硤石度〕,〔大〕破〔顥軍,〕擒顥息(子)〔領軍將軍〕冠受及顥大都督陳思保〔等,遂前驅入洛〕。

○周34楊檦伝

 擢拜伏波將軍、給事中。元顥入洛,孝莊欲往晉陽就爾朱榮,詔檦率其宗人收船馬渚。檦未至,帝已北度太行,遂匿所收船,不以資敵。及爾朱榮奉帝南討,至馬渚,乃具船以濟王師。

○梁32陳慶之伝

 榮乃縛木為筏,濟自硤石,與顥戰於河橋,顥大敗。

○北史演義

 榮尚未決,忽軍士報稱:「有一河邊居民楊求見。」榮喚入,問欲何言。曰:「僕家族久居馬渚河邊,世授伏波將軍之職。今聞元顥引梁軍入寇,主上北巡,諸城失守。大王起兵匡復,大兵至此,無船可渡,只有造筏以濟。僕有小舟數十艘,願獻軍前,以為大王前驅。」榮大喜曰:「卿來,天助我也。」即命為嚮導,遂點賀拔勝、爾朱兆二將,編木為筏,領軍一萬,從馬渚河乘夜暗渡。將士一登彼岸,呼聲振地,個個奮勇爭先。其時慶之守北中城,顥同安豐王延明、其子元冠受分守南岸。忽有兵至,四面殺入,黑夜中不測敵兵多少,軍士先自亂竄。元冠受火急提刀上馬,正遇賀拔勝,一槍刺死。


 ⑴馬渚…《読史方輿紀要》曰く、『孟津県の西にある。故洛陽城の近北にある。黄河の渡河点である。

 ⑵硤石…《読史方輿紀要》曰く、『孟津県の西二十里にある。黄河の渡河点である。


┃崩壊
 爾朱兆は次いで安豊王延明に攻撃をかけてこれも撃破した。元顥は逃げてきた延明と麾下数百騎及び南兵の壮士を連れて南に逃走した《魏21元顥伝》かくて夜明け頃には黄河南岸の守備兵はみな逃げ去っていなくなった。陳慶之北中城にて北兵が密かに渡河して顥軍が大敗して逃走したのを知ると、孤軍では守るのは難しいと考え、步騎数千を率いて東方に脱出した。

 顥が得た諸城はたった六十五日にして(実際は5月25日~7月18日の53日間)再び北魏の手に帰った。
 栄は二将の勝利を知ると全軍を渡河させ、自ら慶之を追った。慶之は逃走中、偶然嵩高水の氾濫に遭い、兵士の殆どが溺れ死に、散り散りになった。かくて慶之の兵七千のうち過半が死亡した。慶之はそこでやむなく剃髪して僧になりすまし、豫州人の程道雍らの助けを得て間道伝いに汝陰に出、そこから建康に帰還するを得た。

 一個の南朝の大将が、飼い主を喪った犬の如く慌てふためき、網から漏れ出た魚の如く一目散に逃げる醜態を晒す事になるとは、まことに憐れむべきことである!
 武帝は慶之を労り、右衛将軍とし、永興県侯(邑千五百戸)に封じた。

 去年、泰山にて北魏に乱を起こし(8月)、敗れて梁の方向を指して落ち延びていた(11月羊侃は、今年になって梁に入り、使持節・散騎常侍・都督瑕丘征討諸軍事・安北将軍・徐州刺史とされた。また、兄の羊黙と弟の羊忱悦?)・羊給・羊元もみな刺史とされた。

 間もなく、侃は都督北討諸軍事に任じられて〔徐州の東五十里にある〕呂城に進駐していたが、陳慶之の敗報を聞くと進軍をやめて引き返した。


魏20元延明伝

 莊帝時,兼尚書令、大司馬。及元顥入洛,延明受顥委寄,率眾守河橋。顥敗,遂將妻子奔蕭衍。

○梁32陳慶之伝

 顥據洛陽六十五日,凡所得城,一時反叛。…顥大敗,…慶之馬步數千,結陣東反,榮親自來追,值嵩高山水洪溢,軍人死散。慶之乃落鬚髮為沙門,間行至豫州,豫州人程道雍等潛送出汝陰。至都,仍以功除右衞將軍,封永興縣侯,邑一千五百戶。

○梁39羊侃伝

 侃以大通三年至京師,詔授使持節、散騎常侍、都督瑕丘征討諸軍事、安北將軍、徐州刺史,并其兄默及三弟忱、給、元,皆拜為刺史。【[九]按:百衲本卷末有曾鞏校語:「『悅』南史作『忱』,未知孰是。」是宋代所見梁書「忱」本作「悅」。冊府元龜二一五作「悅」】尋以侃為都督北討諸軍事,出頓日城,【[一0]「日」字疑為「呂」字之譌】會陳慶之失律,停進。

○北史演義

 爾朱兆殺入中軍,欲捉元顥,顥與延明已從帳後逃去。殺到天明,守河兵散亡略盡。慶之在北中城曉得北兵偷渡,顥大敗而逃,獨力難支,只得收兵南走。榮聞二將告捷,便引大隊人馬盡渡黃河,分兵追趕。慶之七千兵士死亡過半,可憐一個南朝大將,忙忙如喪家之犬,急急如漏網之魚。


 ⑴呂城…《読史方輿紀要》曰く、『徐州の東五十里にある。


●孝荘帝の帰還と元顥の最期


 これより前、元顥が洛陽に迫った時、孝荘帝楊津を中軍大都督・兼領軍大将軍としてその迎撃に向かわせたが、出発前に侵入を許してしまい、津は逃れることもできずその配下となっていた。

 そして現在顥が爾朱栄に敗れ去ると、楊津は宮中を整え直し、二子の楊逸に国庫を守らせたのち、北邙山にて帝を出迎え、泣いて赦しを請うた。帝は津を責めることなく、逆にいたわりの言葉をかけ慰めた《魏58楊津伝》


 庚午(7月20日)、帝は皇居の華林園に居を定め、大赦を行なった。

 また、硤石の功に報い、〔車騎将軍・潁川郡公(邑千二百戸)の〕爾朱兆を散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司とし、八百戸を加増し、〔撫軍将軍・易陽伯(邑四百戸)〕賀抜勝を通直散騎常侍・征北将軍・金紫光禄大夫・武衞将軍・真定県開国公とし、六百戸を加増した。間もなく更に〔右〕衛将軍とし、散騎常侍を加えた。

 また、爾朱栄の軍士及び己の北幸に従った文武諸官、馬渚にて義を立てた者たちの二十等爵を五級、河北にて節を守った者や河南にて忠義を貫いた者、中途にて改心した者の二十等爵を二級進めた。

 爾朱兆はのち更に汾州刺史とされ、更に千戸を加増された。間もなく侍中・驃騎大将軍とされ、更に五百戸を加増された。


 壬申(22日)、大丞相の爾朱栄に天柱大将軍【栄の絶大なる勲功に報いるために特別に設けられた官職】に任じ、更に封邑を加増して合計二十万戸とした【葛栄を平定した時に十万戸とされていた】。


 一方元顥は轘轅より南下して臨潁に到った所で従騎がばらばらになり、その県卒の江豊に斬られた。

 癸酉(23日)、首が洛陽に伝えられた《魏孝荘紀》

 臨淮王彧は再び北魏に仕え、安豊王延明は妻子と共に梁に亡命した《魏20元延明伝》

 陳慶之が入洛した時、蕭賛彭城と共に北魏に降った)は梁に帰国したいと述べた。この時まだその母の吳淑媛が健在だったため、武帝は淑媛に贊の幼時の衣を持たせてその迎えに行かせたが、辿り着く前に慶之が敗れてしまった《南53蕭綜伝》


○魏孝荘紀

 庚午,車駕入居華林園,昇大夏門,大赦天下。以使持節、車騎將軍、都督、潁川郡開國公尒朱兆為車騎大將軍、儀同三司。詔以前朝勳書多竊冒,宜一切焚棄之,若立效灼然為時所知者,別加科賞。蕃客及邊酋翻城降,有勳未叙者,不在焚斷之限。北來軍士及隨駕文武、馬渚立義,加汎五級;河北執事之官,二級;河南立義及迎駕之官,并中途扈從,亦二級。

○梁武帝紀

 己卯,魏尒朱榮攻殺元顥,復據洛陽。

◯魏58楊津伝

 洛周弗之責也。及葛榮吞洛周,復為榮所拘守,榮破,始得還洛。永安初,詔除津本將軍、荊州刺史,加散騎常侍、當州都督。津以前在中山陷寇,詣闕固辭,竟不之任。二年,兼吏部尚書,又除車騎將軍、左光祿大夫,仍除吏部。元顥內逼,莊帝將親出討,以津為中軍大都督、兼領軍將軍。未行,顥入。及顥敗,津乃入宿殿中,掃洒宮掖,遣第二子逸封閉府庫,各令防守。及帝入也,津迎於北邙,流涕謝罪,帝深嘉慰之。尋以津為司空、加侍中。

○魏75爾朱兆伝
 莊帝還宮,論功除散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司,增邑八百戶。為汾州刺史,復增邑一千戶。尋加侍中、驃騎大將軍,又增邑五百戶。
○魏80賀抜勝伝
 莊帝還宮,以功增邑六百戶,復加通直散騎常侍、征北將軍、金紫光祿大夫、武衞將軍,改封真定縣開國公。尋除衞將軍,加散騎常侍。

○梁32陳慶之伝

 顥大敗,走至臨潁,遇賊被擒,洛陽陷。


┃北人尊敬

 陳慶之は北魏から帰還したのち、北人をとりわけ尊敬するようになった。朱异が訝しく思ってそのわけを尋ねると、慶之はこう答えて言った。

「晋・宋以来、洛陽は荒れ地と呼ばれ、長江以北はみな戎狄の住処だと言われておりましたが、先頃洛陽に参った際、立派な人物が全て中原に集まっていることを初めて知りました。その堂々たる威儀、人材の豊富さは、耳目で見聞きする事はできても、言葉で言い表す事はできません。まさに洛陽は中国の模範でありました。泰山に登った者は小さな丘を、大江や海原を旅した者は湘・沅のような小さな川を物足りなく思うようになるものです。江東が洛陽に及ばぬことかくの如きでありますのに、どうして北人を軽んずることができましょう。」

 かくて慶之はそれ以後供回りの者や自分の服装などを全て北魏風に改めたので、江東の官民は競ってその真似をし、建康にまで大身の衣服に幅の広い帯を着ることが流行った。


○洛陽伽藍記

 北海尋伏誅,其慶之還奔蕭衍,衍用其為司州刺史,欽重北人,特異於常。朱异怪復問之。曰:「自晉宋以來,號洛陽為荒土,此中謂長江以北盡是夷狄。昨至洛陽,始知衣冠士族並在中原。禮儀富盛,人物殷阜,目所不識,口不能傳。所謂帝京翼翼,四方之則,如登泰山者卑培塿,涉江海者小湘沅。北人安可不重?」慶之因此羽儀服式悉如魏法。江表士庶,競相模楷,褒衣博帶,被及秣陵。


 ⑴朱异…字は彦和。生年483、時に47歳。寒門の出身。顔つきが堂々として立派であり、立ち居振る舞いが素晴らしかった。10余歲の頃は賭博を好む不良だったが、成長すると心を改めて学問に励んだ。貧しかったため筆耕をしてお金を稼いだが、写し終わった時にはもう暗誦できるようになっていた。文学を好み、礼経・周易に深い造詣を持ち、各種の技芸にも通暁し、囲碁・書画・算術を得意とした。職務態度が良く機知に富んでいたため、武帝の信任を得、524年に軍事のこと、地方司令官の任免、朝廷の儀式や祝典の事、詔勅作成などを一手に任された。政治・軍事両面に知悉し、山のような書類も瞬時に処理することができた。北魏の徐州刺史の元法僧が降った時、信頼できるとして受け入れを勧めた。



 529年(4)に続く