[北魏:永安二年 梁:大通三年→中大通元年]


●彭楽の登場
去年の12月、北魏の東南道行台の于暉邢杲討伐に赴き、歴下(斉州)に到っていた。〕
 春、正月、甲寅(2日)、于暉の都督の彭楽が二千余騎と共に叛し、北方の韓樓のもとに亡命した。樓は楽を北平王とした。
 暉は先行きを不安視し、洛陽に撤退した。

 彭楽、字は興は、安定の人である。勇敢で馬と弓の扱いに長けていた。初め杜洛周に従ったが、見限って爾朱栄に降った。のち滏口にて葛栄を破り、次いで都督となって于暉・高歓と共に羊侃を瑕丘に撃破した。

 辛酉(9日)、梁の武帝が南郊にて天を祀り、大赦を行なった。
 甲子(12日)、梁に亡命していた北魏の汝南王悦が帰国を求め、受理された。

○魏孝荘紀
 二年春正月甲寅,于暉所部都督彭樂率二千餘騎北走於韓樓,乃班師。
○梁武帝紀
 中大通元年正月辛酉,輿駕親祠南郊,大赦天下,孝悌力田賜爵一級。甲子,魏汝南王元悅求還本國,許之。
○北53彭楽伝
 彭樂字興,安定人也。驍勇善騎射。初隨杜洛周賊,知其不立,降尒朱榮。從破葛榮於滏口。又為都督,從神武與行臺僕射于暉討破羊侃于瑕丘。後叛投逆賊韓樓,封北平王。

 ⑴于暉...字は宣明。宣武帝の皇后于氏の同母弟。幼少の頃から気概と才能があった。爾朱栄に取り入り、栄の娘を子の長儒の嫁にもらった。東南道行台とされ、羊侃の乱を平定し、次いで邢杲討伐に向かった。
 ⑵邢杲...河間の人。もと幽州平北府主簿。杜洛周・葛栄の乱が起きると三年に亘って鄚城を守り抜いたが、広陽王淵らが敗れると青州の北海郡に逃れた。のち待遇に不満を抱き、528年に叛乱を起こして十万余の兵を集め、漢王を名乗って年号を天統に改めた。光州を荒らし回り、青州も攻めたが、内城は陥とせなかった。
 ⑶韓樓...もと葛栄の別帥。葛栄が滅ぼされると郝長と共に幽州にて爾朱栄に抵抗し、数万を率いて北辺を乱した。
 ⑷爾朱栄...字は天宝。生年493、時に37歳。契(稽)胡族。代々領民酋長を務めた大豪族の出で、肆州秀容の地に隠然たる勢力を有した。色白の美男子で、神のごとき機知と明快な決断力を有し、狩猟を好み、兵には軍法と号令の厳守を誓わせた。六鎮の乱が起こると家畜を散じて兵を集め、并・肆州に割拠した。孝明帝が死ぬと洛陽を急襲して陥とし、胡太妃や百官を虐殺して朝廷の実権を握った。528年、河北の一大群雄の葛栄を滏口にて大破して滅ぼし、河北平野を手中にした。
 ⑸葛栄...?~528。もと河北の一群雄の鮮于修礼の配下。修礼が死ぬとその後継者となり、天子を称して斉を建国した。北魏の討伐軍を次々と撃破して勢力を広げ、河北の群雄の杜洛周を滅ぼして河北の覇者となった。528年、爾朱栄に敗れて捕らえられ、処刑された。
 ⑹高歓...字は賀六渾。生年496、時に34歳。懐朔鎮の出身。頭が長く頬骨は高く、綺麗な歯をしていた。貧しい家に生まれたが、大豪族の娘の婁昭君の心を射止めて雄飛のきっかけを得た。杜洛周→葛栄→爾朱栄に仕えて親信都督とされ、洛陽攻めでは先鋒を任された。
 ⑺羊侃...字は祖忻。祖父の代に劉宋から北魏に仕えるようになった。七尺八寸の長身で、容姿が立派だった。読書を好み、特に春秋左氏伝と孫呉兵法を愛読した。また、馬と矟(長矛)の扱いに長けた。父に南朝に帰るよう言い聞かせられて育ち、東道行台・泰山太守となると挙兵して兗州城を包囲し、梁軍を引き入れたが、間もなく討伐軍に敗れ梁に亡命した。
 ⑻武帝...蕭衍。梁の初代皇帝。在位502~。生年464、時に66歳。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。
 ⑼汝南王悦...孝文帝の第六子。読書・仏教・男色を好み、兄の清河王懌が殺されても元叉に復讐せず、却ってこれにおもねって侍中・太尉とされた。爾朱栄が洛陽を陥とすと梁に亡命した。

●配廟問題
 2月、甲申(2日)、梁が丹陽尹の武陵王紀を江州(尋陽柴桑。建康と江夏の間)刺史とした。


 甲午(12日)孝荘帝が父の彭城武宣王勰を追尊して文穆皇帝とし、廟号を粛祖とした。また母の李妃も文穆皇后とした。更に彼らの位牌を太廟に遷し、高祖(孝文帝)を『父』ではなく『叔父』として祀ろうとした。


 この時帝の意気は頗る盛んで、これに異を唱えようとする朝臣はいなかったが、ただ大司馬・兼録尚書事の臨淮王彧と吏部尚書の李神俊のみ上表をして言った。
「昔、漢の高祖(前漢初代皇帝、劉邦)は太上皇(皇帝の父)の廟を香街に建てましたが、のち光武帝(後漢初代皇帝)が即位すると、これとは別に舂陵に廟を設けてそこに父の南頓君を祀り、由緒正しき長安の太廟では血筋の遠い元帝(前漢十代皇帝)を『父』として祀りました。
 さて、現在陛下は高祖を『叔父』とし、粛祖を『父』として同じ廟中に祀ろうとされておられますが、生前高祖は皇帝で、粛祖は臣下の身分であったのですから、たとえ両者の行蹟が共に名高かろうと、光武の先例に倣って廟を区別すべきだと考えます。でなくば君臣が肩を並べて相席するような事となり、礼に背く事になります。また、二人の皇后も同じ廟に合わせ祀ろうとされておられますが、これも兄嫁と弟を相部屋させるようなもので(孝文帝と彭城武宣王は兄弟)、礼の道に違います。以上の点から、臣は恐れながらこれを不可と判断いたします。」
 しかしこの上表は聴許されなかった。彧がそこでせめて文穆皇帝の『帝』の字を去って『文穆皇』とし、区別をするように求めたが、これも聞き入れられなかった。

○資治通鑑
 二月,甲午,魏主尊彭城武宣王為文穆皇帝,廟號肅祖;母李妃為文穆皇后。將遷神主於太廟,以高祖為伯考,大司馬兼錄尚書臨淮王彧表諫,以為:「漢高祖立太上皇廟於香街,光武祀南頓君於舂陵。元帝之於光武,已疏絕服,猶身奉子道,入繼大宗。高祖德洽寰中,道超無外,肅祖雖勳格宇宙,猶北面為臣。又,二后皆將配享,乃是君臣並筵,嫂叔同室,竊謂不可。」吏部尚書李神俊亦諫,不聽,彧又請去「帝」著「皇」,亦不聽。
○魏孝荘紀
 二月癸未朔,詔諸禁衞之官從戎有功及傷夷者,赴選先敍。甲午,尊皇考為文穆皇帝,廟號肅祖,皇妣為文穆皇后。燕州民王慶祖聚眾於上黨,自稱為王。柱國大將軍尒朱榮討擒之。
○梁武帝紀
 二月甲申,以丹陽尹武陵王紀為江州刺史。
○魏18元彧伝
 莊帝追崇武宣王為文穆皇帝,廟號肅祖,母李妃為文穆皇后,將遷神主於太廟,以高祖為伯考。彧表諫曰:「漢祖創業,香街有太上之廟;光武中興,南頓立舂陵之寢。元帝之於光武,疏為絕服,猶尚身奉子道,入繼大宗。...高祖德溢寰中,道超無外。肅祖雖勳格宇宙,猶曾奉贄稱臣。穆皇后稟德坤元,復將配享乾位,此乃君臣並筵,嫂叔同室,歷觀墳籍,未有其事。」時莊帝意銳,朝臣無敢言者,唯彧與吏部尚書李神儁並有表聞。...帝不從。...今若去帝,直留皇名,求之古義,少有依準。又不納。
○梁55武陵王紀伝
 出為宣惠將軍、江州刺史。

 ⑴武陵王紀...字は世詢。武帝の第八子。生年508、時に17歳。温和な性格をしており、感情が一定していた。文武に優れ、気骨のある詩文を作り、騎射や長矛の扱いに長けた。武帝に特に可愛がられた。524年、東揚州刺史とされた。524年(1)参照。
 ⑵孝荘帝...元子攸。北魏の九代皇帝。在位528~。生年507、時に23歳。五代献文帝の孫で、彭城王勰第三子。もと長楽王。超美男子。孝明帝と仲が良かった。爾朱栄が洛陽を攻めた際、宮中から脱走して合流し、皇帝とされた。
 ⑶臨淮王彧...字は文若。三代太武帝の玄孫。幼い頃から聡明で学識があり、安豊王延明・中山王熙と並び称された。本名は亮で、字も仕明だったが、同僚の父の諱を避け、曹魏の名臣の荀彧(字は文若)の名と字に変えた。524年に破六韓抜陵討伐に赴いたが、敗れて除名された。のち復帰し、525年に安豊王延明と共に徐州の奪還に赴いた。のち征南大将軍とされて荊州の救援に赴いた。その後東道行台とされた。爾朱栄が洛陽を陥とすと梁に亡命したが、間もなく帰国した。
 ⑷李神俊...生年477、時に53歳。西凉の武昭王暠の玄孫で、北魏の安南将軍の李佐の子。幼い頃から聡明で学識があった。荊州刺史を務め、525年に梁の包囲に遭うとこれを良く防ぎ、援軍が来るまで持ちこたえた。のち行相州事とされたが、葛栄の攻撃を恐れて赴任しなかった。孝荘帝が即位すると兄の娘がその母だった関係で重用を受け、中書監・吏部尚書とされた。

┃上党の乱
 この日、北魏の燕州(北京の西北)民の王慶祖が徒党を集めて上党に叛し、王を名乗った。柱国大将軍・大丞相・都督河北畿外諸軍事・太原王の爾朱栄がこれを討って捕虜とした(上党に移住させられた葛栄の兵が暴れたものか?)。
 この時、宇文泰は統軍とされ、初めて栄の戦いに参加した。

○魏孝荘紀
 甲午,…燕州民王慶祖聚眾於上黨,自稱為王。柱國大將軍尒朱榮討擒之。
○周文帝紀
 孝昌二年【[七]「永安二年」之誤】,燕州亂,太祖始以統軍從榮征之。

●武散官の改編
 梁が詔を下し、二百四十の将軍号を二十四(508年正月参照)から四十四班(三十四?)の等級に分類し直した《隋百官志》。
 一階...鎮衛・驃騎・車騎
 二階...中軍・中衛・中撫・中権、征東・征南・征西・征北
 三階...鎮東・鎮西・鎮南・鎮北・鎮前・鎮後・鎮左・鎮右
 四階…安東・安西・安南・安北・安前・安後・安左・安右
 五階...平東・平西・平南・平北・翊前・翊後・翊左・翊右
 六階...忠武・軍師
 七階...虎臣・爪牙・龍騎・雲麾・冠軍
 八階...鎮兵・翊師・宣恵・宣毅・東南西北四中郎将
 九階...智威・仁威・勇威・信威・厳威
 十階...智武・仁武・勇武・信武・厳武。これを総称して五徳将軍と言った。
 十一階...軽車・鎮朔・武旅・貞毅・明威
 十二階...寧遠・安遠・征遠・振遠・宣遠
 十三階...威雄・威猛・威烈・威振・威信・威勝・威略・威風・威力・威光
 十四階...武猛・武略・武勝・武力・武毅・武健・武烈・武威・武鋭・武勇
 十五階...猛毅・猛烈・猛威・猛鋭・猛震・猛進・猛智・猛武・猛勝・猛駿
 十六階...壮武・壮勇・壮烈・壮猛・壮鋭・壮盛・壮毅・壮志・壮意・壮力
 十七階...驍雄・驍桀・驍猛・驍烈・驍武・驍勇・驍鋭・驍名・驍勝・驍迅
 十八階...雄猛・雄威・雄明・雄烈・雄信・雄武・雄勇・雄毅・雄壮・雄健
 十九階...忠勇・忠烈・忠猛・忠鋭・忠壮・忠毅・忠捍・忠信・忠義・忠勝
 二十階...明智・明略・明遠・明勇・明烈・明威・明勝・明進・明鋭・明毅
 二十一階...光烈・光明・光英・光遠・光勝・光銳・光命・光勇・光戎・光野
 二十二階...飆勇・飆猛・飆烈・飆鋭・飆奇・飆決・飆起・飆略・飆勝・飆出
 二十三階...龍驤・武視・雲旗・風烈・電威・雷音・馳鋭・追鋭・羽騎・突騎同班。
 二十四階...折衝・冠武・和戎・安塁・超猛・英果・掃虜・掃狄・武鋭(十四階とかぶっている。虎鋭?)・摧鋒
 二十五階...開遠・略遠・貞威・決勝・清野・堅鋭・軽鋭・抜山・雲勇・振旅
 二十六階...超武・鉄騎・楼船・宣猛・樹功・克狄・平虜・稜威・昭威・威戎
 二十七階...伏波・雄戟・長剣・衝冠・雕騎・佽飛・勇騎・破敵・克敵・威虜
 二十八階...前鋒・武毅(十四階とかぶっている。虎毅?)・開辺・招遠・金威・破陣・蕩寇・殄虜・横野・馳射
 二十九階...牙門・期門
 三十階...候騎・熊渠
 三十一階...中堅・典戎
 三十二階...執訊・行陣
 三十三階...伏武・懐奇
 三十四階...偏・裨

┃警戒
 北魏が元顥・陳慶之の侵攻計画を察知し、〔徐兗行台の〕崔孝芬に南下させ(兗州にいた?)、徐州に赴かせた。
 壬寅(2月20日)、北魏が散騎常侍の済陰王暉業を兼行台尚書とし、都督の李徳龍丘大千を率いて梁国を守備するように命じた。

○魏孝荘紀
 壬寅,詔散騎常侍濟陰王暉業兼行臺尚書,督都督李德龍、丘大千鎮梁國。
○魏57崔孝芬伝
 永安二年,莊帝聞元顥有內侵之計,敕孝芬南赴徐州。

 ⑴済陰王暉業...字は紹遠。景穆太子の子の済陰王小新成の曾孫。少年の頃は不良だったが、のち心を入れ替えて読書をし、詩文を作るようになった。
 ⑵丘大千...安豊王淵明が彭城の奪還に赴いた時、別将としてこれに加わった。潯梁に砦を築き、周囲警戒の任に就いたが、陳慶之の攻撃を受けて敗走した。
 ⑶梁国...《読史方輿紀要》曰く、『〔明の〕帰徳府(商丘)の事である。東五百十里に徐州が、南百三十里に亳州(南兗州)が、西〔北〕三百五十里に開封府がある。』


┃慕容伏連籌の死

 この年)、吐谷渾十四代国主の慕容伏連籌が死に、子の慕容呵羅真が跡を継いだ。
 3月、丙辰(5日)、梁が呵羅真を寧西将軍・護羌校尉・西秦河沙三州刺史とした。


○梁武帝紀
 三月丙辰,以河南王阿羅真為寧西將軍、西秦河沙三州刺史。

○梁54河南国伝
 籌死,子呵羅真立。大通三年,詔以為寧西將軍、護羌校尉、西秦河二州刺史。


 ⑴慕容伏連籌...吐谷渾十四代国主。慕容度易侯の子で、493年に北魏に使持節・都督西垂諸軍事・征西将軍・領護西戎中郎将・西海郡開国公・吐谷渾王とされた。南斉書・梁書では度易侯の子は休留代(休留成または休留茂とも)で、490年に南斉に使持節・督西秦河沙三州諸軍事・鎮西将軍・領護羌校尉・西秦河二州刺史〔・河南王〕とされた。その後502年に梁に征西将軍とされ、504年に亡くなって子の伏連籌が跡を継ぎ、梁に鎮西将軍・西秦河二州刺史・河南王とされたという。富国強兵に成功し、吐谷渾を強国に押し上げた。524年に北魏に代わって涼州の乱を鎮め、その後北魏と国交を断った。
 ⑵慕容呵羅真...魏吐谷渾伝では『伏連籌が死ぬと子の夸呂が立った』とある。また、493年頃の記述に『世子賀魯頭を派遣した』とある。夸呂は称号という説もある。


天穆、邢杲討伐に向かう

 壬戌(3月11日)、北魏が大将軍の上党王天穆高歓らを率いて邢杲を討つよう命じた。また、車騎将軍の費穆をその前鋒大都督とした。


 これより前、建義の初めに〔名文家の〕温子昇は南主客郎中(外国の使節の接待を行なう)とされ、起居注の編纂に当たった。
 ある日、子昇は仕事をズル休みした。録尚書事の上党王天穆が罰として鞭打ちを加えようとすると子昇は逃走した。天穆は激怒し、上奏して南主客郎中の官を他の者と交代させるよう求めた。すると孝荘帝は言った。
「当世の才子は数人に過ぎない。その才子をこんな事で辞めさせるのは容認できぬ。」
 かくて上奏を棄却した。
 のち、天穆は邢杲討伐に赴く際、子昇を召し出して同行させようとしたが、子昇はこれに応じようとしなかった。天穆はそこである者にこう言った。
「私は今彼の才能を用いようとしているのである。どうしてまだ以前の事を根に持っていたりしようか! 〔だが、子昇がその気ならこちらにも考えがある。〕今もしまた来なかったりすれば、今度は南越か北胡の地にまで逃げる羽目にするまでだ!」
 子昇は〔これを聞くと〕やむなく天穆のもとを訪れた。天穆は子昇を伏波将軍・行台郎中とした。〔子昇は良く職務を遂行し、〕天穆から非常な賞賛を受けた。

○魏孝荘紀
 三月壬戌,詔大將軍、上黨王天穆與齊獻武王討邢杲。

○魏44費穆伝
 遷使持節,加侍中、車騎將軍、假儀同三司、前鋒大都督。與大將軍元天穆東討邢杲,破平之。

○魏85温子昇伝
 建義初,為南主客郎中,修起居注。曾一日不直,上黨王天穆時錄尚書事,將加捶撻,子昇遂逃遁。天穆甚怒,奏人代之。莊帝曰:「當世才子不過數人,豈容為此,便相放黜。」乃寢其奏。及天穆將討邢杲,召子昇同行,子昇未敢應。天穆謂人曰:「吾欲收其才用,豈懷前忿也。今復不來,便須南走越,北走胡耳!」子昇不得已而見之。加伏波將軍,為行臺郎中,天穆深加賞之。


 ⑴上党王天穆...帝室の遠戚。生年489、時に41歳(武昭王墓誌)。温和な性格の美男子。騎射に長じた。爾朱栄と意気投合し、義兄弟の契りを結んで義兄となった。栄が洛陽を陥とすと上党王とされ、のち河南を任され、葛栄が攻めてくると洛陽の軍隊を率いて迎撃に向かった。青州にて邢杲が乱を起こすとその討伐を命じられた。
 ⑵費穆...字は朗興。生年477、時に53歳。鮮卑族で、本姓は費連氏。父は梁国鎮将で、南伐にて戦死した費万。剛毅な性格で功名心が強く、本を読み漁った。涇州平西府長史となると、刺史の皇甫集に対し恐れることなく諫言を行なった。河陰令となると厳正な政治を行なった。柔然が涼州を襲うと西北道行台となって討伐に赴き、撃退に成功した。六鎮の乱が起こると李崇の北伐に従い、退却する際に朔州刺史とされ、朔州の守りを託された。長らく孤軍奮闘したが、やがて力尽きて逃走し、爾朱栄のもとに逃れた。のち二絳蜀の乱や李洪の乱を平定した。爾朱栄が洛陽を攻めると胡太后に小平津の守備を命じられたが、間もなく栄に降り、百官を虐殺するよう勧めた。梁が荊州に攻めてくるとその討伐に赴いて大破し、曹義宗を捕らえた。


┃追尊問題
 庚辰(3月29日)、梁が中護軍(禁軍を率いる職の一つ)の西昌侯淵藻を中権将軍(禁軍を率いる職の一つ。中護軍より上)とした。

 夏、4月、癸未(2日)孝荘帝が肅祖及び文穆皇后の位牌を太廟に遷し、更に兄の彭城王劭を追尊して孝宣皇帝とした。この時、臨淮王彧が諫めて言った。
「兄を追尊して皇帝とするなど、前代未聞のことであります! 古来の法度を破ったのを見て後世の者が陛下の事をどう思うか、今一度お考えなさるべきであります!」
 帝は聞き入れなかった。
 また、畿内に恩赦を行ない、死刑から流刑までの者の罪を一等減じ、徒刑以下の者はみな釈放した。

 この日、梁が安右将軍の南康王績を護軍将軍(禁軍を率いる職の一つ)とした。

○魏孝荘紀
 夏四月癸未,遷肅祖文穆皇帝及文穆皇后神主于太廟,內外百僚普汎加一級。曲赦畿內,死罪至流人減一等,徒刑以下悉免。
○梁武帝紀
 庚辰,以中護軍蕭淵藻為中權將軍。夏四月癸未,以安右將軍南康王績為護軍將軍。
魏18元彧伝
 又追尊兄彭城王為孝宣皇帝,彧又面諫曰:「陛下中興,意欲憲章前古,作而不法,後世何觀?歷尋書籍,未有其事。願割友于之情,使名器無爽。」帝不從。

 ⑴西昌侯淵藻...字は靖芸。生年483、時に47歳。武帝の兄の子。長沙王業の弟。清潔な心を持っていて、栄達を求めず、古風な詩文を作ることを好んだ。益州刺史・雍州刺史・兗州刺史を歴任した。
 ⑵南康王績...字は世謹。武帝の第四子。聡明で、南徐州・南兗州・江州の刺史を務めると善政を行なった。母が亡くなると悲しみの余り病気になり、職務を執ることができなくなった。

陳慶之動く

 北魏の大将軍の上党王天穆邢杲の討伐に赴いて東郡(白馬、滑台)に到った時、元顥・陳慶之の軍(去年10月に梁を発し、銍城を占拠していた)は既に酇城に進出し、杲は歴下(斉州)に迫っていた。天穆はそこで文武諸官を集め、どちらを先に討つべきか諮った。すると諸官は口を揃えてこう言った。
邢杲の方が強大で危険でありますから、こちらを先に討つべきです。」
 その中で行台尚書の薛琡のみこう言った。
「邢杲は兵力が多いといっても、所詮はこそ泥の類いで、遠大な志もありませんから、一旦捨て置いておいても何ら危険はありません。一方元顥は帝室の近親者であり血筋よろしく、かつ今回の挙を義挙(爾朱栄一派を除き、北魏を元氏の手に取り戻すことを指すか)と称して大義名分を抱いております。先日の河陰の一件により、人々は爾朱氏に対し恐れと怨みを抱いておりますから、一旦顥が有利となったと見るや、すぐにこれに与するでしょう。そうなりますと、その勢いは予測できないものとなります。故に、私は元顥を先に討つべきと考えます。」
 しかし天穆は諸官の多くが杲討伐を主張していることから、これを聞き入れなかった。
 また、北魏の朝廷も顥の寡兵を理由に重大視せず、天穆にまず邢杲を討伐してから反転して元顥を討つように命じた。かくて天穆は顥を放置して杲の討伐に向かった。

○魏74爾朱栄伝
 建義初,北海王元顥南奔蕭衍,衍乃立為魏主,資以兵將。時邢杲寇亂三齊,與顥應接。朝廷以顥孤弱,不以為慮。永安二年春,詔大將軍元穆先平齊地,然後回師征顥。
○北斉26・北52薛琡伝
 元天穆討邢杲也,以琡為行臺尚書。〔軍次東郡,〕時元顥已據酇城〔,邢杲又逼歷下〕。天穆集文武議其所先。議者咸以杲眾甚盛,宜先經略。〔唯〕琡以為邢杲聚眾無名,雖強猶賊;元顥皇室昵親,來稱義舉,〔自河陰之役,人情駭怨,今有際會,易生感動。〕此恐難測。杲鼠盜狗竊,非有遠志,宜先討顥(待顥事決)〔,然後迴師〕。天穆以羣情所欲(願),遂先討杲。

 ⑴元顥...字は子明。もと北魏の北海王。孝文帝の弟の北海王詳の子。豪気な性格をしていた。徐州刺史とされたが、523年に汚職を働いた廉で除名された。のち復帰し、宿勤明達らから豳華二州を救う功を挙げた。爾朱栄が洛陽を陥とすと梁に亡命し、梁将の陳慶之と共に洛陽解放の軍を起こした。
 ⑵陳慶之...字は子雲。生年484、時に46歳。低い家柄の出身で、幼い頃から武帝の小姓を務め、信任を得た。慎み深い性格で、詔勅を受ける時は必ず沐浴してから受け、派手な衣服は身に着けず、音楽も好まなかった。武将でありながら弓を射ても鎧を貫くことができず、馬術も上手では無かったが、軍士の心を掴むのが上手く、よくその力を尽くさせることができた。帝が即位すると次第に昇進して主書(文書管理官)となったが、給料は私兵を養うのに使い、戦功を立てる日を夢見た。525年に北魏の徐州が降ると接収に赴き、北魏の大軍がやってくるとその別将の丘大千を破り、撤退の際には一人軍を全うして帰った。529年、渦陽にて北魏軍を大胆な作戦によって大破し、武帝から激賞された。
 ⑶酇城...《読史方輿紀要》曰く、『帰徳府(梁国)の東〔南〕百八十里→永城県の西南にある。永城の西南百十五里には亳州(南兗州)がある。』
 ⑷薛琡...字は曇珍。本姓叱干氏。容姿が非常に美しく、宣武帝にも称えられた。行洛陽令を務めると能吏の評判を得たが、親しくしていた元叉が失脚すると不安になって政治に手がつかなくなり、罷免された。のち吏部郎中を務め、停年格に抗議した。

○魏14元子華伝
 孝莊初,除齊州刺史。先是,州境數經反逆,邢杲之亂,人不自保。而子華撫集豪右,委之管籥,眾皆感悅,境內帖然。而性甚褊急,當其急也,口不擇言,手自捶擊。長史鄭子湛,子華親友也,見侮罵,遂即去之。子華雖自悔厲,終不能改。在官不為矯潔之行,凡有餽贈者,辭多受少,故人不厭其取。鞠獄訊囚,務加仁恕。齊人樹碑頌德。

┃破竹の進撃
 一方、元顥陳慶之はこの隙に乗じて銍城を進発・北上した。
 癸巳(4月12日)、慶之は滎城⑴[1]を抜き、次いで梁国(雎陽)に迫った。
 このとき梁国の守将の丘大千は七万(恐らく誇張)の兵を率い、周囲に九城を築いて守りを固めていた。慶之はこれに早朝から猛攻を仕掛け、申の刻(午後3時〜5時)までに早くも三城を抜いた。すると大千は勢いに恐れをなして降伏した
 この月、顥は雎陽の南にて祭壇に登り、天を祀る篝火を焚いて帝位に就いた。顥は年号を孝基と改め[2]、慶之を使持節・鎮北将軍・護軍・前軍大都督とした。
 この時、北魏の征東将軍の済陰王暉業は羽林(近衛兵)の庶子二万(これも恐らく誇張?)を率いて梁国の救援に赴き、考城に進んでいた(暉業は2月20日に慶之軍の迎撃に赴いていた)。慶之は続いてこの考城を攻めた。考城は四面を水(汴水?)に囲まれた堅城だったが、慶之は水上に浮かぶ砦を築いてこれを攻めた。やがて城は陥ち、暉業は捕虜となった[3]。慶之は租車(兵糧輸送車?)七千八百両を鹵獲した。

 庚子(19日)、北魏が太原王の爾朱栄の部下の将兵たちの〔二十等爵を〕一律二級進めた。

○魏孝荘紀
 庚子,詔太原王尒朱榮下將士並汎加二級。元顥攻陷考城,執行臺元暉業、都督丘大千。五月壬子朔,元顥克梁國。
○梁武帝紀
 癸巳,陳慶之攻魏梁城,拔之;進屠考城,擒魏濟陰王元暉業。
○魏21元顥伝
 永安二年四月,於梁國城南登壇燔燎,號孝基元年。莊帝詔濟陰王暉業為都督,於考城拒之,為顥所擒。
○魏57崔孝芬伝
 顥遂潛師向考城,擒大都督、濟陰王暉業。
○魏74爾朱栄伝
 顥以大軍未還,乘虛徑進,既陷梁國。
○梁32陳慶之伝
 顥於渙水即魏帝號,授慶之使持節、鎮北將軍、護軍、前軍大都督,發自銍縣,進拔滎城,遂至睢陽。魏將丘大千有眾七萬,分築九城以相拒。慶之攻之,自旦至申,陷其三壘,大千乃降。時魏征東將軍濟陰王元暉業率羽林庶子二萬人來救梁、宋,進屯考城,城四面縈水,守備嚴固。慶之命浮水築壘,攻陷其城,生擒暉業,獲租車七千八百兩。

 ⑴滎城...《読史方輿紀要》曰く、『滎(ギョウ・ヨウ)城は蒙(モウ)城の訛りである。蒙城は帰徳府(梁国)の東北四十里にある。』
 [1]滎城...沙隨城(《読史方輿紀要》曰く、『帰徳府(梁国)の西六十里→寧陵県の西北六里にある。』)の事である。沙隨城は堂城ともいい、滎城は堂(ドウ)城の訛りである。
 ⑵魏孝荘紀は陳慶之が梁国を陥としたのを5月1日の事としている。
 [2]考異曰く、『魏帝紀には「去年の十月に顥は梁に魏主とされ、年号を孝基とし、銍城に入った」とある。〔慶之伝にも「顥は渙水(開封→永城→銍城を経て淮水と合する)のほとりにて帝位に即き、銍県を発った」とある。〕今は顥伝の記述に従った。』
 ⑶考城...《読史方輿紀要》曰く、『帰徳府(梁国)の西百二十里→睢州の東北九十里→考城県の東南五里にある。』
 [3]『考異』曰く、『魏孝荘紀には考城攻略はこの後の「辛丑」の記事の後に書かれている。今は梁武帝紀の記述に従った。』

┃邢杲の滅亡と孫騰の登場
 これより前(3月11日)、北魏の上党王天穆爾朱兆・費穆・高歓らを引き連れて邢杲討伐に赴いていた。
 この時、〔広平内史の?〕王老生は軽騎兵を率いて杲と戦ったが、勢力圏内に深入りし過ぎ、杲の捕虜となった。
 老生は自称太原王氏の出身で、たびたび戦功を挙げて給事中・広平内史・白水子とされた。

 辛丑(20日)上党王天穆爾朱兆・費穆・高歓と共に済南(斉州の治所)にて邢杲を破った。杲は降伏し、洛陽に送られて斬られた。

 この時、爾朱栄の従祖兄の子で衛将軍の爾朱天光も使持節・仮鎮東将軍・都督とされて天穆と共に邢杲討伐に赴いていた。

 討伐軍が斉城(斉州城?)に立ち寄った時、撫宜鎮(撫冥鎮?)の軍人が叛乱を図って督帥を殺害しようとした。高歓の都督府長史の孫騰はこれを知ると密かにこれを歓に告げた。果たして間もなく軍人たちは叛乱を起こしたが、警戒していた歓によって撃破された。
 騰(生年481、時に49歳)は字を龍雀といい、咸陽石安の人である。祖父の孫通は沮渠氏(北涼)に仕えて中書舍人とされ、沮渠氏が滅ぶと(432年)北魏に仕え、北辺に強制移住された。父は孫機
 騰は若年の頃から生真面目で、事務仕事に明るかった。正光年間(520~525)に北方が乱れると、多くの艱難や危険を乗り越えて秀容(爾朱栄の本拠地。晋陽の北)に到り、爾朱栄が挙兵して洛陽に向かうとこれに随行し、その功により冗従僕射(近衛官)とされた。間もなく高歓の〔親信〕都督府長史とされた。

○魏孝荘紀
 辛丑,上黨王天穆、齊獻武王大破邢杲於齊州之濟南,杲降,送京師,斬於都市。
○魏75爾朱兆伝
 後從上黨王天穆討平邢杲。
○魏75爾朱天光伝
 永安中,加侍中、金紫光祿大夫、北秀容第一酋長。尋轉衞將軍。大將軍元天穆東征邢杲,詔天光以本官為使持節、假鎮東將軍、都督,隸天穆,討破之。
○北斉18孫騰伝
 孫騰,字龍雀,咸陽石安人也。祖通,仕沮渠氏為中書舍人,沮渠滅,入魏,因居北邊。騰父機…。騰少而質直,明解吏事。魏正光中,北方擾亂,騰間關危險,得達秀容。屬尒朱榮建義,騰隨榮入洛,例除冗從僕射。尋為高祖都督府長史,從高祖東征邢杲。師次齊城,有撫宜鎮軍人謀逆,【[一]按「 撫宜鎮」不見他處,疑為撫冥鎮之訛】將害督帥。騰知之,密啟高祖。俄頃事發,高祖以有備,擒破之。
○北斉20王老生伝
 王則,字元軌,自云太原人也。少驍果,有武藝。初隨叔父魏廣平內史老生征討,每有戰功。老生為朝廷所知,則頗有力。初以軍功除給事中,賜爵白水子。後從元天穆討邢杲,輕騎深入,為杲所擒。

 ⑴爾朱兆…字は万仁。爾朱栄の甥。若くして勇猛で馬と弓の扱いに長け、素手で猛獸と渡り合うことができ、健脚で敏捷なことは人並み以上だった。栄に勇敢さを愛され、護衛の任に充てられた。栄が入洛する際に兼前鋒都督とされた。孝荘帝が即位すると車騎将軍・武衛将軍・都督・潁川郡公とされた。528年⑶参照。

┃付け焼き刃の防備


 5月、丁巳(6日)陳慶之が大梁に迫ると、北魏は前徐州刺史の楊昱を鎮東将軍(楊昱伝では『征東将軍』)・右光禄大夫・散騎常侍・使持節・仮車騎将軍・東南道大都督(楊昱伝では『南道大都督』。元顥伝では『行台』として滎陽を、尚書僕射の爾朱世隆陳慶之伝では『世隆と西荊州刺史の王羆に一万騎を与えて』とある。王羆は荊州刺史であり、虎牢に駐屯した記述は無い。しかしもしかすると事実であったのかもしれないを仮儀同三司・前軍都督として虎牢を、侍中の爾朱世承に崿坂(洛陽の近東南。爾朱世承伝では『轘轅』)をそれぞれ守備させた。

 世承は世隆の弟で、 孝荘帝の治世の初めに寧朔将軍・步兵校尉・欒城県開国伯とされ、更に特別に撫軍将軍・金紫光禄大夫・左衛将軍とされた。間もなく侍中・領御史中尉とされた。愚劣な才能の持ち主だったため、どの官でもただいるだけの存在だった。

 辛酉(10日)、馬や武具を携えて軍に入る者に特別に官位を授けた。
 壬戌(11日)葛栄征伐の時と同じ方式で募兵を行なった。
 甲子(13日)、馬を供出した官民に差をつけて官位を授けた。
 乙丑(14日)、戒厳令を発した。

 戊辰(17日)陳慶之の軍が大梁に迫ると、城は戦わずして降伏した。元顥は慶之を衛将軍・徐州刺史・武都公(《南史》では武都郡王)とし、更に西へ進軍した。

○魏孝荘紀
 五月壬子朔,元顥克梁國。丁巳,以撫軍將軍、前徐州刺史楊昱為使持節、鎮東將軍、東南道大都督,率眾鎮滎陽;尚書僕射尒朱世隆鎮虎牢;侍中尒朱世承鎮崿岅。辛酉,詔私馬仗從戎優階授官。壬戌,又詔募士一依征葛榮。甲子,又詔職人及民出馬,優階各有差。乙丑,內外戒嚴。
○梁武帝紀
 五月戊辰,剋大梁。
○魏58楊昱伝
 未幾,屬元顥侵逼大梁,除昱征東將軍、右光祿大夫,加散騎常侍、使持節、假車騎將軍,為南道大都督,鎮滎陽。
○魏74爾朱栄伝
 既陷梁國,鼓行而西。
○魏75爾朱世隆伝
 元顥逼大梁,詔假儀同三司、前軍都督,鎮虎牢。
○魏75爾朱世承伝
〔爾朱〕世隆弟世承 。莊帝初,為寧朔將軍、步兵校尉,欒城縣開國伯。又特除撫軍將軍、金紫光祿大夫、左衞將軍。尋加侍中,領御史中尉。世承人才猥劣,備員而已。及元顥內逼,詔世承守轘轅。
○梁32陳慶之伝
 仍趨大梁,望旗歸款。顥進慶之衞將軍、徐州刺史、武都公(郡王)。仍率眾而西。

 ⑴爾朱世隆…字は栄宗。爾朱栄の従弟。孝明帝の治世(515~528)の末に長く宿衛の官を務めた。胡太后と爾朱栄の関係が悪化すると太后に説得を命じられた。栄が洛陽に迫ると合流し、長楽王子攸の擁立を支持した。栄が遷都に反対した元諶を殺そうとすると諌止した。間もなく尚書右僕射・楽平公とされた。528年⑶参照。

┃七千対三十万
 滎陽を守る楊昱・都督の元恭陳慶之伝では『顕恭』)、撫軍将軍・滎陽太守の西河王悰陳慶之伝は『西阿王慶』、悰の字は『魏慶』)は御仗羽林宗子庶子(5月10~14日のかき集めの近衛部隊?)の七万の兵を擁していた(誇張?)。

 元恭城陽王徽の次兄で、字を懐忠という(墓誌では『顕恭』)。正光三年(522)に揚州別駕とされると寿春を良く守り切り、その功により兗州の平陽県開国子(邑三百戸)とされた。更に司徒主簿とされ、間もなく中書侍郎とされた。永安二年(529)、北中城が洛陽防衛の要地である事を以て、北中郎将とされた。間もなく持節・督東徐州諸軍事・左将軍・東徐州刺史とされたが、〔陳慶之の侵攻があったため〕赴かなかった。

 西河王悰は字を魏慶といい、〔景穆太子の子孫で、〕曽祖父は京兆王子推、祖父は西河王太興、父は西河王昴。おおらかで度量があり、美男で、威厳があった。初め中書侍郎とされ、のち武衛将軍・大宗正卿・滎陽太守とされた。

 陳慶之は城下に到ると(魏書58楊昱伝では顥・慶之らの軍を大軍とする)、左衛の劉業・王道安らを派遣して降伏勧告を行なったが拒絶された。そこで攻撃を開始したものの、精強な守備兵と堅固な城壁に阻まれてなかなか陥とせずにいた。
 そうこうする内に、上党王天穆は大軍を率いて斉の地から反転を開始し、先遣部隊として驃騎将軍(車騎将軍)の爾朱吐没児)率いる胡騎五千と、騎将の魯安率いる夏州の歩騎九千を滎陽に向かわせた。
 慶之の兵たちが恐慌状態に陥る中、慶之は一人悠然と馬の鞍を外し、これに秣を食ませていた。兵たちはその姿を見て落ち着きを取り戻した。そこで慶之は彼らにこう言った。
「我らはここに到るまでに多くの城地を奪取するとともに、数えきれぬほどの父兄を殺し、子女を略奪してきた。故に天穆の兵たちは我らのことを仇敵と見、逃しはすまいと躍起になっている。〔その中をかいくぐって逃れるのも、降伏するのも殆ど不可能に近いだろう。ならば、我らは今どうすべきか? これに立ち向かうしかないのだ。〕しかし、我らの兵はわずか七千なのに対し、彼らの兵は三十余万の大軍(天穆の全軍の数。誇張もあるだろう。先遣隊は陳慶之伝の記述を信じれば1万4千)である。これと正面切って戦うのは下策であろう。また、彼らの騎兵は手強いことから、その跳梁を許す平原の戦いはそもそも許されない。〔では、我らはどうすべきか!   退くこともままならず、野戦もできないとしたら⁉︎ そうだ!〕彼らが全てここに辿り着く前に、滎陽を陥として籠り、これに立ち向かうしかないのだ! 諸君は私を信じ、ただひたすらに滎陽を攻めよ!   迷っていては死ぬだけだぞ!」
 かくて全軍一斉に城壁に登らせると、勇士で東陽の人の宋景休、義興の人の魚天愍が城内に侵入することに成功した。
 癸酉(22日)、滎陽は陥落し、元恭顕恭西河王悰は共に城を脱出して逃れたが、失敗して捕らえられた。は弟と息子五人と共に門樓上にいたが、間もなく顥に捕らえられて下ろされ、面と向かってこうなじられた。
「楊昱よ、そなたは殺されると思ったのか? そなたは私に背いたが、私はそなたに背いてはおらぬぞ。」
 昱は答えて言った。
「私は生きようなどとは思っておりません。門樓から下りずにいたのは、どこぞの馬の骨の手にかかる恥辱を憂慮したからです。ただ、私には八十になる老父(楊椿)がおり、我らが皆死ねば、これを世話する者が誰もいなくなってしまいますので、末弟の命だけはお助けください。さすれば、死んでも悔いはございません。」楊昱は慶之の兵が寡兵なのを見て侮り、急攻の警戒を怠ったため、このような結果を招いたのである。左伝も「敵が寡兵でも侮ってはならない」「不測の事態への配慮が無いものに戦をする権利はない」と言っている
 明朝、慶之や胡光ら梁将三百余人が顥の帳の前に拝伏して言った。
「陛下が長江を渡られてより三千里の間、我らは一矢の損失とてございませんでしたが、昨日は滎陽城下にて一挙に五百余人の死傷者を出してしまいました。この怨みを雪ぐには、楊昱を殺すほかありません。どうか彼の身柄を我らにお与えください!」
 顥は答えて言った。
「朕が江東にいた時、梁主は常に、昔都に攻め上った際呉郡に拠って降ろうとしなかった袁昂の忠節を賞賛なさっていた。そなたらの君主が敵の忠臣を大切に扱うのに、朕がどうしてこれをむざと殺せようか! 楊昱は忠臣である。どうしてもと言うなら、昱以外の者を好きにするがよかろう。」
 そこで慶之らは昱の部将三十七人を斬刑に処し、蜀兵にその心臓を抉り取って食らわせた(陳慶之の軍の主力は蜀兵だったのだろうか? 或いは汚れ役?)。

 間もなく慶之は城を背に騎兵三千を率いて北魏の先遣隊と戦い、これを大破した。魯安は降伏し、爾朱兆は身一つで逃亡した。慶之は滎陽にあった無数の牛馬・穀物・絹布を得た。

○魏孝荘紀
 癸酉,元顥陷滎陽,執楊昱。
○魏19元悰伝
〔京兆王子推…子太興…子昴…〕子悰,字魏慶,襲。…悰寬和有度量,美容貌,風望儼然。
○元悰墓志铭
 乃襲旧爵,為西河王。…初為中書侍郎,又轉武衛将軍、大宗正卿、滎陽太守。
○魏19元顕恭伝
 徽次兄顯恭,字懷忠。揚州別駕,以軍功封平陽縣開國子,邑三百戶。孝莊初,除北中郎將,遷左將軍、東徐州刺史。
○魏21元顥伝
 又克行臺楊昱於滎陽。
平陽県開国子元君墓誌
 君諱恭,字顯恭,河南洛陽人也。恭祖景穆皇帝之曾孫,城陽懷王之第二子。正光三年,除揚州別駕,加襄威將軍。壽春邊鎮,即□多虞,去留無恒,情為難測。爰有狂妖,潛結數萬,填塹踰城,中霄突入。兵火沸騰,士民荒懼,鋒刃相交,奸臣莫辯,是日危逼,幾將陷沒。君神志平夷,謀慮淵遠,部分諸將,方軌直進,旌鼓暫撝,醜徒冰散。淮南肅清,君之功也。賞兗州平陽縣開國子,食邑三百戶。又為司徒主簿,俄遷中書侍郎。復以北中機要,維捍所依,永安二年,轉授北中郎將。尋除持節督東徐州諸軍事左將軍東徐州刺史,不拜。
○魏44費穆伝
 時元顥內逼,莊帝北幸,顥入京師。穆與天穆既平齊地,回師將擊顥。
○魏58楊昱伝
 未幾,屬元顥侵逼大梁,除昱征東將軍、右光祿大夫,加散騎常侍、使持節、假車騎將軍,為南道大都督,鎮滎陽。顥既擒濟陰王暉業,乘虛徑進,大兵集於城下,遣其左衞劉業、王道安等招昱,令降,昱不從,顥遂攻之。城陷,都督元恭,太守、西河王悰並踰城而走,俱被擒縶。昱與弟息五人,在門樓上,須臾顥至,執昱下城,面責昱曰:「楊昱,卿今死甘心否?卿自負我,非我負卿也。」昱答曰:「分不望生,向所以不下樓者,正慮亂兵耳。但恨八十老父,無人供養,負病黃泉,求乞小弟一命,便死不朽也。」顥乃拘之。明旦,顥將陳慶之、胡光等三百餘人伏顥帳前,請曰:「陛下渡江三千里,無遺鏃之費,昨日一朝殺傷五百餘人,求乞楊昱以快意。」顥曰:「我在江東,嘗聞梁主言,初下都日,袁昂為吳郡不降,稱其忠節。奈何殺楊昱?自此之外,任卿等所請。」於是斬昱下統帥三十七人,皆令蜀兵刳腹取心食之。
○魏74爾朱栄伝
 滎陽、虎牢並皆不守。
○梁32陳慶之伝
 魏左僕射楊昱、西阿王元慶、撫軍將軍元顯恭率御仗羽林宗子庶子眾凡七萬,據滎陽拒顥。兵既精強,城又險固,慶之攻未能拔。魏將元天穆大軍復將至,先遣其驃騎將軍尒朱吐沒兒領胡騎五千,騎將魯安領夏州步騎九千,援楊昱;又遣右僕射尒朱世隆、西荊州刺史王羆騎一萬,據虎牢。天穆、吐沒兒前後繼至,旗鼓相望。時滎陽未拔,士眾皆恐,慶之乃解鞍秣馬,宣喻眾曰:「吾至此以來,屠城略地,實為不少;君等殺人父兄,略人子女,又為無算。天穆之眾,並是仇讎。我等纔有七千,虜眾三十餘萬,今日之事,義不圖存。吾以虜騎不可爭力平原,及未盡至前,須平其城壘,諸君無假狐疑,自貽屠膾。」一鼓悉使登城,壯士東陽宋景休、義興魚天愍踰堞而入,遂克之。俄而魏陣外合,慶之率騎三千背城逆戰,大破之,魯安於陣乞降,元天穆、尒朱吐沒兒單騎獲免。收滎陽儲實,牛馬穀帛不可勝計。

┃虎牢陥落
 その日の内に慶之は虎牢に進撃した。守将の爾朱世隆は世事に疎く統率の才が無かったため、狼狽して取るもの取り敢えず城を棄てて逃亡した。
 残された持節・平東将軍・東中郎将(虎牢を管轄)の辛纂は捕虜とされた。
 世隆は慌てて逃亡したため、崿坂を守る弟の爾朱世承に逃げるように伝えることもできなかった。かくて世承は脱出が遅れて捕虜となり、細切れにされて殺された。

○魏孝荘紀
 尒朱世隆棄虎牢遁還。
○梁武帝紀
 癸酉,剋虎牢城。
○魏21元顥伝
 尒朱世隆自虎牢走退。
○魏75爾朱世隆伝
 世隆不關世事,無將帥之略。顥既克滎陽,擒行臺楊昱,世隆懼而遁還。莊帝倉卒北巡,世隆之罪也。
○魏75爾朱世承伝
 世隆棄虎牢,不暇追告,尋為元顥所擒,臠殺之。
○魏77辛纂伝
 尋除持節、平東將軍、中郎將【[二]虎牢是北魏東中郎將的治所。魏書「中郎將」上脫「東」字】,賜絹五十匹,金裝刀一口。永安二年,元顥乘勝,卒至城下,尒朱世隆狼狽退還,城內空虛,遂為顥擒。
○梁32陳慶之伝
 進赴虎牢,尒朱世隆棄城走。

 ⑴辛纂…字は伯将。辛雄の従父兄。読書家で、温和・正直な性格。咸陽王禧の謀叛の際に李伯尚を匿った罪で免官に遭い、十余年に亘って無職となった。のち復帰を赦され、太尉騎兵参軍とされると、府主の清河王懌から賞賛を受け、「辛騎兵は学識・才能がある。上第(成績第一等)とするべきだろう。」と言われた。のち尚書令の李崇の柔然討伐の際、録事参軍とされた。この時の働きぶりが評価され、臨淮王彧の北征・広陽王淵の北伐の際に長史とされた。526年、梁将の曹義宗が荊州・新野に迫ると南道行台とされて救援に向かい、これを撃破した。荊州の兵は二千しかいなかったが、迅速な用兵と団結ぶりを警戒され、攻撃を受けなかった。のち荊州軍司とされた。528年、孝明帝の崩御の報が届くと、帝の死を隠すことなく号泣し、兵全員の服を喪服に着替えさせた。間もなく再び曹義宗の包囲を受けたが、費穆に救出された。この時、穆に「辛行台がここにいらっしゃらなければ、功を立てられませんでした」と言われ、更に孝荘帝に労苦をいたわられ、東中郎将とされた。528年(6)参照。


 529年(2)に続く