[北魏︰建明二年→普泰元年 梁︰中大通三年]

唖人広陵王
    春、正月、辛巳(10日)武帝が南郊において天を祭り、大赦を行なった《梁武帝紀》

    これより前、北魏の尚書右僕射の鄭先護爾朱仲遠の討伐に赴いていた。しかし、その途中に、味方の賀抜勝が降伏した報や、洛陽の失陥の報が伝わったことで軍がばらばらになると、やむなく梁に亡命した《魏56鄭先護伝》
    丙申(25日)、梁が先護を征北大将軍に任じた。

 2月、辛丑(1日)武帝が明堂にて祖先の祭祀を執り行なった《梁武帝紀》

    洛陽の宮殿は、孝荘帝が虜囚の身となってからがら空きとなり、百日近く主がいない状態となっていた。
    ただ、その間洛陽は尚書令・司州牧の爾朱世隆の手によって秩序を取り戻し、行商や旅行者は安全に通行できるようになっていた。
    その中で世隆ら兄弟は建明帝元曄が嫡系から遠く、世論の推す所ではない事を問題にし、改めて正当な者を選んで皇帝に就けることを密かに画策するようになった《伽藍二・魏前廃帝紀・魏75爾朱世隆伝》
 彼らが関中の爾朱天光に相談したところ、その配下で関西大行台郎中の薛孝通元顥入洛の際に宗人の薛修義らが叛すると、同調せず河東を守り通した。529年〈2〉参照)は広陵王恭を勧めた《北36薛孝通伝》



 儀同三司の広陵王恭生年498、時に34歳)は、広陵王羽の子である。若くしてまっすぐで謹み深く、気概があり、長じては学問を好み、祖母や母に孝養を尽くした。
 正光二年(521年)に給事黄門侍郎を兼任したが、元叉の専権に遭うと、口のきけない病になったふりをして龍華寺に引き籠もり、外界との関係を断った。
 永安の末(530年)、ある者が孝荘帝にこう告げ口をして言った。
「広陵王の唖は偽りで、そう装っているのは何か異志を抱いているからであります。ご用心なされませ。」
 恭はこれを伝え聞くや身の危険を感じ、上洛山に逃亡し、〔上洛の豪族の〕陽猛のもとに身を寄せたが(周44陽猛伝)、結局洛州刺史に捕らえられて洛陽に送り返された。しかし何日調べても確たる証拠が出てこなかったため、無罪放免とされた※1《伽藍二・魏前廃帝紀

※1…洛陽伽藍記二には、『恭が洛陽に送還されると、孝荘帝は夜に人を遣ってこれの衣服を奪わせると共に、剣を突きつけて脅迫させた。しかしそれでも恭は己の舌を指差し、ものを言えないことを主張したので、帝は遂にその唖を信じ、釈放して屋敷に帰らせた』とある。

 その広陵王を、薛孝通は次のように言って爾朱天光に薦めた。
「広陵王は高祖(孝文帝)の甥にして、つとに令名高く、まことに皇帝にふさわしいお方です。長年物言わぬのも、深慮がある故のことでございましょう。彼を新帝に擁立致せば、天も人も必ず納得する事間違いなしです。」
 天光がかくて世隆らに元恭を薦めると《北36薛孝通伝》爾朱度律が言った。
「広陵物言わず、どうして天下の主となり得ようか! ここは南陽王(元宝炬)を擁立すべきである。」《魏75爾朱世隆伝》
 この時世隆の兄の彦伯は前々から恭が皇帝にふさわしいと思っており、密かに何度も龍華寺に訪れ、誠意をもって恭に皇帝となるよう働きかけていた《魏75爾朱彦伯伝》
 世隆はその事を知ると、兄と度律を連れて龍華寺に赴き《魏75爾朱世隆伝》、兄にもう一度恭に即位の打診と本当の唖かどうか確認をしてくれるよう頼んだ。
 彦伯は恭にこう問い詰めて言った。
「どうして何も言おうとなさらないのですか! 何かおっしゃいませんと、何をされるか分かりませんぞ!」
 恭はそこで遂に口を開けて言った。
「天何をか言わんや(天が何か話すだろうか。『論語』陽貨)。私はこれに倣っていたまでのことである。」
 世隆らはこれを聞いて大いに喜び、かくて彼を皇帝にすることに決めた。

 ⑴爾朱度律…爾朱栄の従父弟。素朴な性格で口数が少なかった。統軍とされて栄の征伐に付き従った。528年、栄が入洛すると楽郷県伯とされた。のち朔州刺史→軍州(?)刺史→右衛将軍→衛将軍→兼京畿大都督とされた。530年、栄が孝荘帝に殺されたことを知ると爾朱世隆と共に洛陽を脱し、黄河の南に逃れた。間もなく反転し、胡騎一千を率いて洛陽を攻撃したが陥とせなかった。のち爾朱兆と合流し、建明帝を擁立して太尉・四面大都督・常山王とされた。洛陽を陥とすと世隆と共に洛陽を鎮守した。530年⑸参照。

●広陵王の即位
 己巳(29日)皇帝元曄が邙山の南に到った時《魏前廃帝紀》、世隆らは予め書かせてあった禅譲の文書を行台左丞で遼西の人の竇瑗に持たせ、その幕帳に入らせた。瑗は一人鞭を片手に押し入ると、曄に上奏して言った。
「天命人心は、皆既に広陵王のもとに帰しております。願わくば堯・舜の故事を顧みられますように。」
 そこで曄はやむなく禅譲の文書に認可の署名をした《魏88竇瑗伝》。広陵王は禅譲を形式通り三度断った後《伽藍二》、洛陽城外東にてこれを受け入れ皇帝に即位した。これが節閔帝である(普泰主・前廃帝とも呼ばれる)。
 帝は大尉の爾朱度律から皇帝用の印綬や衣冠を奉られるとこれを身につけ、皇帝用の車に乗り、百官を従えながら建春門(外城東北門)より洛陽城内に入った。そして雲龍門(宮城東門)を通って宮城に入ると、太極前殿にて群臣の拝賀を受けた。それから帝は早速大赦を行ない、年号を建明から普泰に改めた《魏前廃帝紀》

 この時黄門侍郎の邢子才名文家)が大赦の文章を起草したが、帝はその中に孝荘帝が非道に爾朱栄を殺したとあったのを見咎め、こう言った。
「永安帝(孝荘帝)が手ずから権臣を誅殺したのは、道に反したものではない。ただ、まだその時期でなかったために、成済の禍(260年5月に魏帝の曹髦が成済に弑殺された事を指す)に遭ってしまっただけの事なのだ。」
 そこで左右に筆を持ってこさせると、自ら赦文をすらすらと書いた。
『門下省に勅す。朕は寡德の身ながら、幸いにも推戴を受け皇帝の座に就く事ができた。今は万民と共にその喜びを分かち合いたい。大赦の形式については、これまで通りとする。』
 帝が閶闔門上にてこの文章を読み上げると、人々は帝が八年の沈黙を経て言葉を再び発したのを見て、これぞ泰平を呼ぶ明主だと喜び合った《伽藍二》

 帝は〔大将軍・潁川王の〕爾朱兆を使持節・侍中・都督中外諸軍事・柱国大将軍・領軍将軍・領左右・并州刺史・兼録尚書事・大行台とした。
 また、爾朱度律を使持節・侍中・大将軍・太尉とした。

 また、亡き使持節・侍中・都督河北諸軍事・天柱大将軍・大丞相・太師・領左右・兼録尚書・北道大行台・太原王の爾朱栄に仮黄鉞・相国・録尚書事・〔都督中外諸軍事・〕司州牧を追贈し、使持節・侍中・天柱大将軍・太原王はそのままとした。また、晋王を追号し、九錫を加え、武と諡した。
 また、亡き太宰〔・録尚書事・并州刺史〕の上党王天穆に侍中・丞相・都督十州諸軍事・柱国大将軍・雍州刺史・仮黄鉞を追贈し、王はそのままとし、武昭と諡した。

○魏14上党王天穆伝
 前廢帝初,贈丞相、柱國大將軍、雍州刺史,假黃鉞,諡曰武昭。
○魏故使持節侍中太宰丞相柱国大将軍假黄鉞都督十州諸軍事雍州刺史武昭王墓誌
 追贈侍中丞相都督十州諸軍事柱国大将軍假黄鉞雍州刺史,王如故,諡曰武昭,礼也。以普泰元年八月戊戌朔十一日戊申遷葬于京城西北二十里。
○魏74爾朱栄伝
 前廢帝初,世隆等得志,乃詔曰:「故使持節、侍中、都督河北諸軍事、天柱大將軍、大丞相、太師、領左右、兼錄尚書、北道大行臺、太原王榮,功濟區夏,誠貫幽明,天不憗遺,奄從物化。追終褒績,列代通謨;紀德銘勳,前王令範。可贈假黃鉞、相國、錄尚書事、司州牧,使持節、侍中、將軍、王如故。」又詔曰:「故假黃鉞、持節、侍中、相國、錄尚書、都督中外諸軍事、天柱大將軍、司州牧、太原王榮,惟岳降靈,應期作輔,功侔伊霍,德契桓文。方籍棟梁,永康國命,道長運短,震悼兼深。前已褒贈,用彰厥美。然禮數弗窮,文物有闕,遠近之望,猶或未盡。宜循舊典,更加殊錫。可追號為晉王,加九錫,給九旒鑾輅、虎賁、班劍三百人、轀輬車,準晉太宰、安平獻王故事,諡曰武。」詔曰:「武泰之末,乾樞中圮,丕基寶命,有若綴旒。晉王榮固天所縱,世秉忠誠,一匡邦國,再造區夏,俾我頹綱,於斯復振。雖勳銘王府,德被管絃,而從祀之禮,於茲尚闕,非所以酬懋賞於當時,騰殊績於不朽。宜遵舊典,配享高祖廟庭。」
○魏75爾朱兆伝
 及前廢帝立,授兆使持節、侍中、都督中外諸軍事、柱國大將軍、領軍將軍、領左右、并州刺史、兼錄尚書事、大行臺。
○魏75爾朱度律伝
 前廢帝時,為使持節、侍中、大將軍、太尉。

 ⑴爾朱兆…字は万仁。爾朱栄の甥。若くして勇猛で馬と弓の扱いに長け、素手で猛獸と渡り合うことができ、健脚で敏捷なことは人並み以上だったが、知略に欠けていた。栄に勇敢さを愛され、護衛の任に充てられた。栄が入洛する際に兼前鋒都督とされた。孝荘帝が即位すると車騎将軍・武衛将軍・都督・潁川郡公とされた。529年、上党王天穆の部将として邢杲討伐に赴いた。その隙に元顥が梁の支援を受けて洛陽に迫ると、胡騎五千を率いて引き返し、陳慶之と戦ったが敗れた。天穆が河北に逃れる際後軍を率いた。栄が洛陽を攻めた時、賀抜勝と共に敵前渡河を行なって顥の子の元冠受を捕らえた。この功により驃騎大将軍・汾州刺史とされた。530年、栄が孝荘帝に殺されると晋陽を確保し、爾朱世隆らと合流して長広王曄を皇帝の位に即け、大将軍・王となった。間もなく洛陽を陥とし、帝を捕らえた。紇豆陵步蕃が晋陽に迫ると帝を連れてその迎撃に向かい、中途にて帝を殺害した。步蕃に連敗したが、高歓の助力を得てなんとか平定することに成功した。530年⑸参照。

堂々なり季明 
 庚午(30日)、帝は詔を下して言った。
「歴代の君主は己のことを、三皇の時代には『皇』、五帝の時代には『帝』、三代(夏・殷・周)の時代には『王』と称して(夏・殷は帝と称している)、前代に対して謙退の心を示してきた。しかし秦より以降はその心を忘れ、君主たちは競って『皇帝』と称してきた。予はこの称号を用いるのは忍びない。そこで予は今より己のことを『帝』とのみ称して、三代以前の精神に還る魁になろうと思う。」《魏前廃帝紀》

 故爾朱栄に相国・晋王を追贈し、九錫を加えた《魏74爾朱栄伝》
 この時世隆は百官を集め、北魏歴代の皇帝の誰に栄を合わせ祀るのが良いか討議させた。
 すると司直の劉季明が言った。
「世宗(7代宣武帝)ではその時功無く不適、孝明帝ではその母【胡太后】を殺めたので不適、孝荘帝では臣節を全うせず誅殺されるに到ったので不適であります。以上を持って論じますと、晋王を合わせ祀る相手はいないということになります」
 世隆はそれを聞くや怒って言った。
「許せぬ、その言葉、死に値するぞ!」
 季明は答えて言った。
「下官は議官の筆頭として、規則に従って申しているだけであります。御心にかなわないのでしたら、誅殺されようと構いません!」
 世隆は彼を許したが、ただ栄の配享は押し通し、高祖(孝文帝)の廟に配することにした。
 また、世隆は栄の廟を首陽山(洛陽の東)に建てた。首陽山には周公旦の旧廟があり、それを新たに栄の廟とすることで、世に栄の勲功は周公に比すると示したのである。
 しかし廟は完成するとすぐに火災が起きて消失してしまった《伽藍二》

 爾朱兆は皇帝の廃立に関して何ら相談を受けなかったので、激怒して世隆を攻撃しようとした。そこで世隆は華山王鷙爾朱兆に協力し、その入洛を助けた。530年〈4〉参照)を兼尚書僕射・北道大使として兆を説得させたが、それでも兆の怒りが収まらなかったので、次いで彦伯を派遣し、ようやくその怒りを鎮めることができた《魏75爾朱彦伯伝》

●剛直節閔帝
 以前、爾朱兆が南下して洛陽を目指した時、孝荘帝は安東将軍の史仵龍・平北将軍の陽文義にそれぞれ三千の兵を与えて太行山の要所を、侍中の源子恭に河内を守備させてこれを防ごうとした。
 しかし兆軍がいざ到来すると、仵龍・文義はすぐ降伏してしまい、その突然の事態は子恭軍を崩壊させたばかりか、兆に勢いをつけさせて洛陽の早期陥落すら呼ぶことになった。
 世隆は節閔帝を擁立すると、仵龍・文義の功大なりとして、彼らを千戸侯に封じるよう求めた。すると帝はこう答えて言った。
「仵龍・文義は王(世隆や兆)に功があっただけで、国に功があったわけではない。」
 かくて遂に最後までこれを許さなかった。
 また、滑台を守っていた爾朱仲遠が、部下の都督の乙瑗※1を勝手に西兗州(治左城)刺史に任じたのち、その承認を帝に求めてくると、帝は詔を下してこう答えた。
「既に己の手で処理できるのに、どうしてわざわざ朕に許可を求めてくるのだ?」《伽藍二》

※1…原文では■瑗と欠字になっている。魏44乙瑗伝に『西兗州刺史に任じられた』とあるので、いま乙瑗と仮定した。

 万俟醜奴は以前(528年7月)、ペルシャの使者が北魏に献上するために連れてきた獅子を横取りしていたが、彼が爾朱天光に滅ぼされるに至って(530年4月)、獅子はようやく洛陽に辿り着いた。
 孝荘帝は獅子を見ると、『虎は獅子に必ずひれ伏す』という言い伝え(『博物志』三に獅子の記述あり)を確かめようとして、侍中の李彧に用意させた虎を引き会わせたところ、虎はどれも目を瞑ってうつむいてしまった。次いで孝荘帝は宮廷の華林園にいた盲目の熊を引き会わせたが、これも臭いを嗅いだだけで驚き恐れ、鎖を引きずりながら逃げ出してしまった。孝荘帝はこれらを見て大いに笑った。
 そして現在節閔帝が即位すると、詔を下してこう言った。
「禽獣を閉じ込めておくのは、その本性に違う。」
 かくて獅子をペルシャに送り返すこととした。しかしその任を受けた者は、ペルシャは遠く到底辿り着けないと見て、途中でこれを殺して引き返してしまった。係役人がこの違勅を弾劾すると、帝はこう答えて言った。
「獣のために人を罰することなどできようか!」
 かくてその罪を赦した《伽藍三》