[北魏︰永安三年・建明元年 梁︰中大通二年]

┃厳始欣討平

 春、正月戊寅(2日)、梁が雍州刺史の晋安王綱を驃騎大将軍・揚州刺史とした。
 また、代わりに南徐州刺史の廬陵王続を平北将軍・雍州刺史とした。

 己丑(13日)、北魏の益州刺史の長孫寿と梁州刺史の元儁寇儁?)らが征巴州都督の元景夏と共に厳始欣529年8月、あるいは11月に北魏巴州にて叛乱を起こし、梁に降っていた)を討ち、これを斬った。また、助勢に来ていた梁の都督の蕭玩・何難尉・陳愁らも撃退し、玩を斬って一万余を捕虜とした。
 北魏は傅曇表を代わりに巴州刺史とした。

○魏孝荘紀
 三年春正月己丑,益州刺史長孫壽、梁州刺史元儁等,遣將與征巴州都督元景夏討嚴始欣,斬之。蕭衍都督蕭玩、何難尉、陳愁敗走,斬玩首,俘獲萬餘人。
○梁武帝紀
 二年春正月戊寅,以雍州刺史晉安王綱為驃騎大將軍、揚州刺史,南徐州刺史廬陵王續為平北將軍、雍州刺史。癸未,老人星見。
○魏98島夷蕭衍伝
 閏月,巴州刺史嚴始欣據州入衍,衍遣將蕭玩、張鴻等率眾赴援,都督元景夏率益梁二州軍討之。三年正月,斬始欣,衍眾敗走,又斬蕭玩等首,俘獲萬餘人。
○魏101獠伝
 始欣乃起眾攻愷,屠滅之,據城南叛,蕭衍將蕭玩率眾援接。時梁益二州並遣將討之,攻陷巴州,執始欣,遂大破玩軍。及斬玩,以傅曇表為刺史。

┃呂文欣の乱
 辛丑(正月25日)、東徐州【孝昌元年(525年)に下邳に設置された】城民の呂文欣・王赦らが刺史の元太賓を殺し、州城を占拠して《魏孝荘紀》梁軍を引き入れ、曲がり小道に柵を築いて守りを固めた《魏79鹿悆伝》。北魏は撫軍将軍・都官尚書の樊子鵠元顥が入洛した際、刺史として薛修義らの侵攻から晋州を守りきった。その功によって撫軍将軍・都官尚書に任じられていた)を兼右僕射・行台とし、征南将軍・都督の賈顕智及び征東将軍・徐州刺史の厳思達《魏孝荘紀》、使持節・散騎常侍・安東将軍・六州大使の鹿悆525年6月に彭城へ使者として赴き、蕭綜を降す大功を立て、527年には青州彭城王劭府司馬となって三斉の防衛に貢献した)らを率いてこれを討伐するよう命じた《魏79鹿悆伝》
 2月、甲寅(8日)、文欣は敗れて《魏孝荘紀》逃走した。悆がそこで重い懸賞金をかけてその首を探し求めると、逆党の一人の韓端正がこれに応じ、文欣を斬ってその首を届けた。また、その頭目十二人も時を同じくして死んだ《魏79鹿悆伝》。かくて東徐州は平定された《魏孝荘紀》
 子鵠は洛陽に帰還すると車騎将軍・左光禄大夫に任じられ、南陽郡開国公に爵位を進められた。また、尚書と仮驃騎大将軍を兼任し、部隊を率いてその都督となった。この時爾朱栄は晋陽に在り、洛陽の事は殆ど子鵠に任せていたため、身は朝廷にあっても征官は解かれずにいた。
 のち散騎常侍・殷州刺史に任じられた。この時殷州は連年日照りで不作が続いていた。子鵠は民の逃亡を危惧し、豊かな家から穀物を供出させて貧しい家に貸し与えさせると共に、耕牛を派遣して人力のみの作業を改めさせ、多くの種類大麦と小麦を植えさせたので、これより州内の収穫量は安定するようになった《魏80樊子鵠伝》
 
 鹿悆は鎮東将軍・金紫光禄大夫に任じられた。悆は永安年間528〜に朝廷勤務となっており、左将軍・給事黄門侍郎に任じられていた。しかし朝廷はまだそれでも彭城の功への報奨が不足しているとして、更に封邑を二百戸加増し、爵位を侯に進めた。
 かくて悆は顕貴の身分となったが、謙虚の心は忘れることなく、親戚や友人などへの応対は昔よりも更に丁重なものとなった。また、邸宅は自分の物を持たずに賃貸の物で済ませ、衣服は庶民の服を着、食事は粗末な物を摂り、寒い時も暑い時も態度を変えなかった。孝荘帝は事あるごとにその清貧さを褒め称え、銭貨や絹帛をこれに賜わった《魏79鹿悆伝》

┃醜奴討伐軍の編成

 これより前、西北方の群雄の万俟醜奴は天子を自称し(528年7月)、豳・涇に割拠し、東秦州を陥として(529年9月)岐州を包囲し、関中に住む巴蜀人を扇動するなど、その勢いは日に日に盛んとなっていた。朝廷はこれを憂慮した。そこで爾朱栄は武衛将軍の賀抜岳栄に信任され、栄が洛陽に義兵を挙げる際や皇帝になろうとする際に助言や諫言をした。葛栄との決戦の際には栄の前軍都督となった。元顥が入洛すると、その平定に功績を立てて武衛将軍に任じられていた)にその討伐を命じた。
 岳はこの命を受けると、密かに兄の賀抜勝元顥との決戦の際、爾朱兆と共に先陣を斬って渡河し、大功を立てた)に相談して言った。
「醜奴は秦・隴の兵を擁する強敵で、負ければ言うまでもなく処罰が、勝ったとしても嫉妬による讒言が待っています。」
「ならお前はどうするつもりだ?」
「爾朱氏の誰かを大将に戴き、自分はそれを補佐する。そういう形にできれば、責任も功績もいい具合になると思うのですが。」
「それはよい考えだ!」
 かくて勝が弟のために栄にかけあってみると、果たして栄は大いに喜び、その提案を受け入れた。
 栄は甥の爾朱天光爾朱栄に可愛がられ、よくその留守を任された)を使持節・都督二雍二岐(雍岐二州?)諸軍事・驃騎大将軍・雍州刺史として遠征軍の総指揮官とし、岳を使持節・仮衛将軍・西道都督・左廂大都督、また征西将軍で代人の侯莫陳悦を右廂大都督として副将とし、醜奴討伐に打ち立たせた。
 天光は岳と旧知の仲であったため、同行を喜び、常に岳の許を訪れて相談した。

○魏58楊侃伝
 万俟醜奴陷東秦,遂圍岐州,扇誘巴蜀。大都督尒朱天光率眾西伐,詔侃以本官使持節、兼尚書僕射,為關右慰勞大使。
○魏74爾朱栄伝
 先是,葛榮枝黨韓婁仍據幽平二州,榮遣都督侯淵討斬之。時賊帥万俟醜奴、蕭寶夤擁眾豳涇,兇勢日盛。榮遣其從子天光為雍州刺史,令率都督賀拔岳、侯莫陳悅等總眾入關討之。
○魏75爾朱天光伝
 建義元年夏,万俟醜奴僭大號,朝廷憂之。乃除天光使持節、都督雍岐二州諸軍事、驃騎大將軍、雍州刺史,率大都督、武衞將軍賀拔岳,大都督侯莫陳悅等以討醜奴。
○魏80・周14賀抜岳伝
 永安初,除安北將軍、光祿大夫、武衞將軍,賜爵樊城鄉男。坐事失官爵,二年,詔並復之(遷平東將軍、金紫光祿大夫。坐事免。詔尋復之。從平元顥,轉左光祿大夫、武衞將軍)。〔時万俟醜奴僭稱大號,關中騷動,朝廷深以為憂。榮將遣岳討之。岳私謂其兄勝曰:「醜奴擁秦、隴之兵,足為勍敵。若岳往而無功,罪責立至;假令尅定,恐讒愬生焉。」勝曰:「汝欲何計自安?」岳曰:「請爾朱氏一人為元帥,岳副貳之,則可矣。」勝然之,乃請於榮。榮大悅,乃以天光為使持節、督二雍二岐諸軍事、驃騎大將軍、雍州刺史,〕尋除使持節、假衞將軍、西道都督,隸尒朱天光為左廂大都督,〔又以征西將軍代郡侯莫陳悅為右大都督,竝為天光之副以〕討万俟醜奴。天光先知岳,喜得同行,每事論訪。尋加衞將軍、假車騎將軍,餘如故。
○周15寇洛伝
 寇洛,上谷昌平人也。累世為將吏。父延壽,和平中,以良家子鎮武川,因家焉。洛性明辨,不拘小節。正光末,以北邊賊起,遂率鄉親避地於并、肆,因從爾朱榮征討。及賀拔岳西征,洛與之鄉里,乃募從入關。
○周25李賢伝
 魏永安中,万俟醜奴據岐、涇等諸州反叛,魏孝莊遣爾朱天光率兵擊破之。

┃赤水の戦い
 天光は出立する際、栄から千の兵しか与えられず、馬に至っては道々民家から徴発して補う有様だった。
 この時、東雍州(華山郡鄭県)赤水の蜀賊が洛陽と長安の交通を遮断しており(万俟醜奴に扇動されたのだろう)、孝荘帝は天光の出発より先に侍中の楊侃を使持節・兼尚書僕射・関右慰労大使としてその説得と馬の徴発を命じさせていたが、疑われて失敗に終わっていた。
 天光は彼らと戦うのを躊躇し、その手前の潼関にて進軍を停止した。すると賀抜岳が言った。
「蜀賊はこそ泥の類いでありますのに、公はこれと戦うのを躊躇される。そのような及び腰で醜奴とどう戦うおつもりなのですか!」
 天光は答えて言った。
「今日の事は、全てそなたに一任しよう。」
 岳がそこで渭水の北において蜀賊と一戦すると、見事にこれを撃ち破って多数の捕虜を得た。
 天光はその中から壮健な兵士を選抜して配下に収めた。また、その軍馬二千も獲得した。天光は更に雍州にて馬を徴発し、軍馬は合計一万余頭に達した。
 しかしそれでも天光は醜奴と戦うには兵が不足しているとして、それ以上進軍しようとしなかった。
 爾朱栄はこれを聞くや激怒し、騎兵参軍の劉貴を急行させた。貴は陣中にて天光を叱責し、百回の杖打ちを加えた。栄はその上で、ようやく天光に二千の増派を行なった。

○魏58楊侃伝
 万俟醜奴陷東秦,遂圍岐州,扇誘巴蜀。大都督尒朱天光率眾西伐,詔侃以本官使持節、兼尚書僕射,為關右慰勞大使。
○魏74爾朱栄伝
 天光既至雍州,以眾少不敵,逡巡未集。榮大怒,遣其騎兵參軍劉貴馳驛詣軍,加天光杖罰。天光等大懼,乃進討。
○魏75爾朱天光伝
 天光初行,唯配軍士千人,詔發京城已西路次民馬以給之。時東雍赤水蜀賊斷路,詔侍中楊侃先行曉慰,并徵其馬。侃雖入慰勞,而蜀持疑不下。天光遂入關擊破之,簡取壯健以充軍士,悉收其馬。至雍,又稅民馬,合得萬餘匹。以軍人寡少,停留未進。榮遣責之,杖天光一百,榮復遣軍士二千人以赴。
○魏80・周14賀抜岳伝
〔時赤水蜀賊,阻兵斷路。天光之眾,不滿二千。及軍次潼關,天光有難色。岳曰:「蜀賊草竊而已,公尚遲疑,若遇大敵,將何以戰。」天光曰:「今日之事,一以相委,公宜為吾制之。」於是進軍,賊拒戰於渭北,破之,獲馬二千疋,軍威大振。天光與〕岳屆(進至)長安(雍州),榮〔〕遣兵續至。
○周15寇洛伝
 破赤水蜀,以功拜中堅將軍、屯騎校尉、別將,封臨邑縣男,邑二百戶。
○周15李弼伝
 魏永安元年,爾朱天光辟為別將,從天光西討,破赤水蜀。以功拜征虜將軍,封石門縣伯,邑五百戶。
○周16侯莫陳崇伝
 後從岳入關,破赤水蜀。

 ⑴赤水…《読史方輿紀要》曰く、『華州(東雍州)の西三十里にある。
 ⑵劉貴…本名は懿、字は貴珍。高歓の親友。剛直な性格で決断力があった。仕事が早かったため、せっかちな爾朱栄に気に入られ、重用を受けた。高歓が栄に仕えた際、口利きをした。

┃豳州の戦い
 永安年間(528〜530)、北魏の撫軍将軍・行豳州事の畢祖暉が大嶺柵(?)より豳州城(趙興)の奪還に向かい、叱干騏驎が守る太子壁(?)を陥とした。しかし宿勤明達の攻撃を受けると、祖暉は寡兵で兵糧も尽きていたうえ、援軍も来なかったため、遂に敗れ戦死してしまった(享年50。詳細な時期は不明)。

○魏61畢祖暉伝
 建義中,詔復州爵,加撫軍將軍。永安中,祖暉從大嶺柵規入州城。于時賊帥叱干騏驎保太子壁,祖暉擊破之。而賊宿勤明達復攻祖暉, 祖暉兵少糧竭,軍援不至,為賊所乘,遂歿,時年五十。

岐州包囲
 これより前、醜奴は自ら軍を率いて岐州刺史の杜顒蕭宝寅の乱の際、岐州にてこれに抵抗した)が守る岐州(雍城)を包囲していた。
 孫道温の妻の趙氏は、長らく孤立無援の岐州城に在って、城中の婦女に語りかけて言った。
「今、州城は陥ちる寸前です。私たちも男衆のようにこの危機に立ち向かうべきです!」
 かくて共に土を背負い昼夜分かたず城の普請を手伝った。

○魏45杜顒伝
 武泰中,轉授岐州刺史。永安中,除涇州刺史。時万俟醜奴充斥關右,不行。乃為都督,防守岐州。醜奴攻之,不克。事寧,除鎮西將軍、光祿大夫。以勳又賞安平縣開國伯,食邑五百戶。以平陽伯轉授弟二子景仲。
○魏58楊侃伝
 万俟醜奴陷東秦,遂圍岐州,扇誘巴蜀。
○北91西魏列女伝
 西魏武功縣孫道溫妻趙氏者,安平人也。万俟醜奴之反,圍岐州,久之無援。趙乃謂城中婦女曰:「今州城方陷,義在同憂。」遂相率負土,晝夜培城,城竟免賊。

┃横崗の戦い

 醜奴は一方で、大行台の尉遅菩薩・僕射の万俟忤[1]に武功から渭水南岸に渡河させ、北魏の前線の砦を攻囲させた。
 3月、これに対し天光は賀抜岳可朱渾元に千騎を与え、砦の救援に向かわせたが、岳が到着した時には既に砦は陥落し、菩薩らも引き揚げた後だった。
 そこで岳は軽騎八百を率いて渭水を渡ると、醜奴の県令二人と兵四百、及び吏民を殺害・拉致して挑発に出た。すると果たして菩薩軍二万はこれにひっかかり、引き返して渭水の北岸に布陣した。
 岳は軽騎数十を率い、渭水の南岸に出ると、菩薩に北魏の強大さを述べて降伏するように言ったが、菩薩は自軍が優勢なことから真面目に相手をしようとせず、使者自らにその応対をさせた。すると岳は激怒して言った。
「わしは今菩薩と話をしているのだ! どこの馬の骨とも知れぬお前とではない!」
   使者は岳と川を隔てていることから怖がる事なく、変わらず不遜な態度を取った。そこで岳が矢を番えてひょうと放つや、使者は弦の響きに応じてどうと倒れた。菩薩軍はこれに色めき立ったが、この時既に日が暮れかかっていたので、両軍それぞれ勝負を預け、引き返した。
 この時岳は密かに、渭水の南岸各所に精騎数十を一組とした部隊を地形に応じて配しておいた。
   翌日、岳は百余騎を率いて渭水を挟んで菩薩軍と相い対峙した。この時岳が渭水に近づくにつれ、前日に配しておいた伏兵たちが順々に姿を現したため、菩薩軍は岳軍の多寡を測りかね、攻撃を躊躇った。岳はそのまま二十里ばかり進み、渭水の水深が浅くなっている所に出たところで、突如馬に鞭をくれて東方に奔った。
   菩薩はこれを岳が恐れをなして逃げ出したものと早とちりし、逃すものかと自ら軽騎のみを率いてこれを急追した。
 岳は東に十余里進んだのち、彼らが追いつく前に横岡に伏兵を配した。一方そうとも知らぬ菩薩の軽騎兵は、隘路を縦一列で進んでこれを追い、半ばが横岡を越えてその東に達した。
 その時、岳は急に馬首を返し、自ら先頭に立ってこれに攻めかかった。〔菩薩軍が応戦した時、岡の裏からも伏兵が突如襲いかかった。〕菩薩軍は虚を突かれ、遂に大敗を喫した。
 岳は菩薩軍が敗走を始めたのを見ると、自軍にこう号令をかけた。
「下馬した者は殺すでないぞ!」
 これを聞くや、菩薩軍の将兵は助かりたい一心でこぞって馬から下りたので、岳は瞬く間に三千の捕虜と、それと同数の軍馬を得、更に菩薩も生け捕ることに成功した。
 岳が次いで渭水の北岸に赴くと、残されていた歩兵一万余も降伏し、多数の軍需品も同時に鹵獲する事に成功した。

 蔡東藩曰く…菩薩という名なのに、どうして神仏の加護を一つも得られなかったのか。

 醜奴はこの報を聞くと岐州の囲みを解いて北の方安定(涇州)に退き、平亭[1]に砦を築いて守りに入った。
 天光はそこで雍州(長安)を発して岐州に到り、岳の軍勢と合流した。

○魏孝荘紀
 三月,醜奴大行臺尉遲菩薩寇岐州,大都督賀拔岳、可朱渾道元大破之。
○周文帝紀
 万俟醜奴作亂關右,孝莊帝遣爾朱天光及岳等討之,太祖遂從岳入關,先鋒破偽行臺尉遲菩薩等。
○魏天象志
 三年三月,万俟醜奴遣其大行臺尉遲菩薩寇岐州,大都督賀拔岳、可朱渾道元大破之。
○魏75爾朱天光伝
 天光令賀拔岳率千騎先驅,至岐州界長城西與醜奴行臺尉遲菩薩相遇,遂破擒之,獲騎士三千,步卒萬餘。
○魏80・周14賀抜岳伝
 時万俟醜奴〔自率大眾圍岐州,〕遣其大行臺尉遲菩薩〔、僕射万俟仵(行醜)同〕向武功,南渡渭水,攻圍趣柵。天光遣岳率騎一千馳往赴救(援),菩薩攻柵已克,還向岐州。岳以輕騎八百北渡渭水擒賊(其縣令二人),〔獲甲首四百,〕令殺掠其民,以挑菩薩。菩薩果率步騎二萬餘人至渭水北。岳以輕騎數十與菩薩隔水交言,岳稱揚國威,菩薩自言強盛,往復數返(反)。菩薩乃自驕〔〕,令省事傳語〔〕。岳怒曰:「我與菩薩言,卿是何人,與我對語!」省事恃水,應答不遜。岳舉弓射之,應弦而倒。時已逼暮,於此各還。岳密於渭南傍水分置精騎,四十、五十(數十)以為一所,隨地形便,駱驛置之。明日,自將百餘騎,隔水與賊相見,並且東行。岳漸前進,先所置騎隨岳而集。騎既漸增,賊不復測其多少。行二十里許,便至〔〕淺可濟〔之處〕,岳便馳馬東出,以示奔遁。賊謂岳走,乃棄步兵,南渡渭水,輕騎追岳。岳東行十餘里,依橫崗伏兵以待之。賊以路險不得前()進,前後繼至,半度崗東。岳乃回〔與賊〕戰,身先士卒,急擊之,賊便退走。岳號令所部,賊下馬者皆不聽殺。賊顧見之,便悉投馬。俄而虜獲三千人,馬亦無遺。〔遂擒菩薩。〕遂渡渭北,降步兵萬餘,〔〕收其輜重。其有土民,普皆勞遣。醜奴尋棄岐州,北走安定。
○周15寇洛伝
 又從岳獲賊帥尉遲菩薩於渭水。
○周16侯莫陳崇伝
 時万俟醜奴圍岐州,遣其將李【[二一]殿本考證云:「『李』字下有脫字。」按万俟醜奴部下未見李姓將領,「李」字恐是衍文】。尉遲菩薩將兵向武功。崇從岳力戰破之,乘勝逐北,解岐州圍。
○南北史演義
 誘菩薩至渭南,依山設伏,俟菩薩輕騎追來,發伏齊起,得將菩薩捉住,名為菩薩,奈何毫無神力?收降賊眾萬餘。

 [1]万俟忤…『考異』曰く、『北史』には「万俟行醜」とある。今は『周書』の記述に従う。
 ⑴横岡…《読史方輿紀要》曰く、『馬塚のことではないか。』『五丈原は武功の西十里にあり、馬塚は武功の東十余里にある。
 [2]平亭…涇州の北にある。

┃侯莫陳崇、単騎醜奴を馬上に捕らう

 夏、4月、癸丑(8日)、梁の武帝が同泰寺に赴き、平等会を催した。

 丁巳(12日)、北魏が侍中・太尉公・丹陽王の蕭賛を使持節・都督斉済西兗三州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・斉州刺史とした。

 天光は醜奴を追って汧水・渭水の間(東秦州?)に到ると進軍をやめ、馬を放し飼いにして遠近にこう宣言した。
「炎暑となる時期に戦いはすべきではない。今は秋の涼しさを待ち、それから去就を決めることにする。」
 醜奴はこの宣言に初め疑いを持ったが、放っていた間諜が丁度帰ってきて裏づけが取れたので、すっかり信用してしまい、臨戦態勢を解いて秋に向け守りを固めることにした。しかしこの間諜は、実は天光が以前捕らえていた者であり、宣言を信用させるためにわざと釈放して伝えさせたものだった。
 そうとも知らぬ醜奴は、太尉の侯伏侯元進に五千の兵を与えて前線の百里・細川に砦を築かせるとともに屯田をさせた。また、数多くの千人以下の小部隊を作って、彼らにもあちこちに砦を築かせ、屯田をさせた。
 天光は狙い通り醜奴の軍が分散したのを見るや、夕暮れ密かに先遣隊に細川と平亭の連絡を遮断させたのち、全軍を率いて出陣した。
 そして黎明、元進の大砦を囲んで陥とすと、捕虜たちを各所に放って陥落のことを伝えさせた。すると瞬く間に他の砦群もこぞって天光に降伏した。
 天光は次いで昼夜兼行して百八十里を踏破して涇州(安定)城下に到り、刺史の侯幾長貴を驚愕させて降伏させた。
 醜奴は相次ぐ敗報に平亭を棄て、本拠の高平に落ちのびて再起を図ることにした。
 しかし天光は逃さじと岳に軽騎兵を与えて急追させた。
 丁卯(22日)、追撃軍は平涼の長平坑にてその背中を捉えた。
 この時直閤で代人の侯莫陳崇生年514、時に16歳)が追撃軍におり、彼は醜奴の姿を見るや醜奴軍に陣形を整えるいとまも与えず、直ちに単騎敵陣に突き入った。崇は醜奴と一騎打ちをし、三合もせずにこれを小脇に捕らえてこう叫んだ。
「醜奴捕らえたり!!」
 そのあまりの神業ぶりに、醜奴軍は狼狽して為すところを知らなかった。そこに味方の後続の騎兵が続々と到来し崇の援護をしたので、醜奴軍は遂に大敗した。
 岳は崇の大功を讃え、彼に醜奴の愛馬・宝剣・金帯を与えた。のちこの功により安北将軍・太中大夫・都督・臨涇県侯とされた。

○魏孝荘紀
 夏四月丁巳,以侍中、太尉公、丹陽王蕭贊為使持節、都督齊濟兗三州諸軍事、驃騎大將軍、開府儀同三司、齊州刺史。丁卯,雍州刺史尒朱天光討醜奴、蕭寶夤於安定,破擒之,囚送京師。
○南史梁武帝紀
 二年夏四月癸丑,幸同泰寺,設平等會。
○魏59蕭賛伝
 轉司徒,遷太尉,尚帝姊壽陽長公主。出為都督齊濟西兗三州諸軍事、驃騎大將軍、開府儀同三司、齊州刺史。
○魏75爾朱天光伝
 醜奴棄岐州走還安定,置柵於平亭。天光發雍至岐,與岳合勢於汧渭之間,停軍牧馬,宣言遠近曰:「今時將熱,非可征討,待至秋涼,別量進止。」醜奴每遣窺覘,有執送者,天光寬而問之,仍便放遣。免者傳其待秋之言,醜奴謂以為實,分遣諸軍散營農稼,在岐州之北百里涇川。使其太尉侯伏侯元進領兵五千,據險立柵,且耕且守。在其左右,千人已下為一柵者,乃復數處。天光知其勢分,遂密嚴備。晡時,潛遣輕騎先行斷路,以防賊知,於後諸軍盡發。昧旦,攻圍元進大柵,拔之,諸所俘執,並皆放散,須臾之間,左右諸柵悉來歸款。前去涇州百八十里,通夜徑進,後日至城,賊涇州刺史侯幾長貴仍以城降。醜奴棄平亭而走,欲趨高平。天光遣岳輕騎急追,明日,及醜奴於平涼長平坑,一戰擒之。
○魏80・賀抜岳伝
〔醜奴尋棄岐州,北走安定,置柵於平亭。天光方自雍至岐,與岳合勢。軍至汧、渭之間,宣言遠近曰:「今氣候漸熱,非征討之時,待秋涼更圖進取。」醜奴聞之,遂以為實,分遣諸軍散營農於岐州之北百里細川,使其太尉侯元進領兵五千,據險立柵。其千人以下為柵者有數處,且戰且守。岳知其勢分,乃密與天光嚴備。晡時,潛遣輕騎先行路,於後諸軍盡發。昧旦,攻圍元進柵,拔之,即擒元進。諸所俘執皆放之,自餘諸柵悉降。岳星言徑趣涇州,其刺史俟幾長貴以城降。醜奴乃棄平亭而走,欲向高平。岳輕騎急追,明日,及醜奴於平涼之長坑,一戰擒之。高平城中又執蕭寶寅以降。〕天光雖為元帥,而岳功效居多。加車騎將軍,增邑二千戶,進封樊城縣開國伯。尋詔岳都督涇、北豳、二夏四州諸軍事,本將軍,涇州刺史,進爵為公,改封清水郡公。
○周15寇洛伝
 又從岳獲賊帥尉遲菩薩於渭水,破侯伏侯元進於百里細川,擒万俟醜奴於長坑。洛每力戰,並有功。
○周16侯莫陳崇伝
 又赴百里細川,破賊帥侯伏侯元進柵。醜奴率其餘眾奔高平,崇與輕騎逐北,至涇州長坑及之。賊未成列,崇單騎入賊中,於馬上生擒醜奴。於是大呼,眾悉披靡,莫敢當之。後騎益集,賊徒因悉逃散,遂大破之。岳以醜奴所乘馬及寶劍金帶賞崇。除安北將軍、太中大夫、都督,封臨涇縣侯,邑八百戶。
○北史演義
 副將侯莫陳悅單騎衝入賊中,於馬上生擒丑奴,因大呼曰:「得醜奴矣!」眾皆辟易,無敢當者。後騎益集,遂大破之。
○南北史演義
 裨將侯莫陳崇,單騎突入,與醜奴交手,不到三合,便把醜奴活捉了來,大呼出陣,賊皆披靡。

 ⑴百里・細川…《読史方輿紀要》曰く、『涇州の南九十里→霊台県の東に百里城が、東北に細川城がある。

┃李賢、知略を以て高平を降す
 この時高平の留守を託されていたのは万俟道洛費連少渾の二将であったが、彼らは醜奴が捕らえられた事を知らず、高平に拠って天光軍に抵抗しようとしていた。そこで天光は高平城内にいた李賢に使者を派遣して城を撹乱するように命じ(己の配下に別将の李遠がおり、李賢はその兄だったからである)、天光はその成功を待ってからこれに攻めかかろうとした。
 この時丁度醜奴配下の将の万俟阿宝が戦いに敗れて高平にまで帰ってきていたが、彼は絶望的な状況を把握しており、密かに賢にこう告げて言った。
「醜奴が既に捕らえられ、官軍ここに到った今、もはや勝ち目はない。自分は生きるためなら、朝廷のためになんだってする。何かいい考えはないか。」
 賢はそこで阿宝を醜奴からの使者という事にし、道洛らのもとに赴かせてこう嘘をつかせた。
「我らは官軍を破り、今その追撃に全力を傾注している所である。そこで陛下は貴公らの手を借りたいがため、阿宝に一旦原州の留守役を代わらせると仰せられた。貴公らは命に従って早く陛下のもとに行くがよろしい。」 
 道洛らはこの言葉を信じ、その日の内に出立した。この時天光は既に高平付近にまで到っており、道洛らが城を出たのを見るや直ちに高平に攻めかかった。 
 戊辰(23日)、城中の人々は蕭宝寅を手土産に降伏した。天光は賢に会うと、こう言った。
「 道洛が城を出たのは、そなたのお陰である。」
 賢はまた郷里(高平)の人々と馬千頭を以て天光の高平攻めを助けていたので、大いに心証を良くした。

 かくて、ここに涇・豳・二夏、北西?は霊州に到るまでが北魏の手に還った。

 この歳)、吐谷渾十五代国王の慕容呵羅真529年〈1〉参照)が死に、子の(梁54河南王国伝慕容仏輔が跡を継いだ。
 壬申(27日)、梁が仏輔を寧西将軍・西秦河二州刺史とした《梁武帝紀》

○魏75爾朱天光伝
 天光明便共逼高平,城內執送蕭寶夤而降。…於是涇、豳、二夏,北至靈州,賊黨結聚之類,並來歸降。
○周25李賢伝
 魏永安中,万俟醜奴據岐、涇等諸州反叛,魏孝莊遣爾朱天光率兵擊破之。其黨万俟道洛、費連少渾猶據原州,未知醜奴已敗。天光遣使造賢,令密圖道洛。天光率兵續進。會賊黨万俟阿寶戰敗逃還,私告賢曰:「醜奴已敗,王師行至此。阿寶以性命相投,願能存濟。」賢因令阿寶偽為醜奴使,紿道洛等曰:「今已破臺軍,須與公計事,令阿寶權守原州,公宜速往。」道洛等信之,是日便發。既出而天光至,遂克原州。道洛乃將麾下六千人奔于牽屯山。天光見賢曰:「道洛之出,子之力也。」賢又率鄉人出馬千匹以助軍,天光大悅。

万俟醜奴と蕭宝寅の最期
 甲戌(29日)、北魏は関中が平定された事を理由に大赦を行なった。
 万俟醜奴蕭宝寅が洛陽に送られてくると、孝荘帝はこれを閶闔門外の市中に約三日晒し者とした。丹楊王蕭賛525年に鹿悆の説得により彭城と共に北魏に降った。528年孝荘帝の姉の寿陽長公主を娶り、今年の4月12日には使持節・都督斉済兗三州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・斉州刺史に任じられていた。は叔父の宝寅が捕らえられた事を知ると、上表してその助命を求めた《北29蕭賛伝》。また、吏部尚書の李神俊と黄門侍郎の高道穆も旧交から帝に助命を求めてこう言った。
「宝寅が叛いたのは、先代孝明帝の時でありました。」
 この時偶然応詔の王道習が室外からやってきたので、帝はこれに尋ねて言った。
「そちは外で何を聞いた?」
 道習は答えて言った。
「ただ陛下が宝寅を殺さぬことだけ耳にいたしました。」
 帝がそのわけを尋ねると、道習はこう説いて言った。
「李尚書・高黄門の二人は宝寅とは親友関係にあると聞いておりますゆえ、彼らがこれに関われば、必ずや陛下から助命を引き出すだろうと考えたからであります。」
 それから道習は続けてこう言った。
「二人は宝寅が叛逆したのは先代だという理由でこれを赦そうとしておりますが、では宝寅が醜奴から太傅に任ぜられた528年7月のは、いずれの時であったでありましょうか? 陛下の御代の時528〜ではございませんでしたか!? 賊臣は誅殺すべきです。さもないと、国法は形骸化してしまうでありましょう!」
 帝はそこで駝牛署駝牛都尉の庁舎において宝寅に死を賜うことにした。
 宝寅が死ぬ前、神俊は酒を携えてそのもとを訪れると、昔の思い出話をして涙を流した。しかし宝寅は泰然自若として最後まで恐れを見せず、ただこう言っただけであった。
「これは天命だ。ただ、臣下としての節義を全うできなかったことだけが心残りだ。」
 妻の南陽公主孝文帝の娘も子どもたちを連れて宝寅のもとを訪れたが、その悲しみようは痛切なものがあった。
 宝寅が死ぬ時、その顔色は毅然として全く変わらなかった《魏59蕭宝寅伝》
 また、醜奴も市場にて斬刑に処された《魏孝荘紀》

○魏孝荘紀
 甲戌,以關中平,大赦天下。 醜奴斬於都市,寶夤賜死於駝牛署。