[北魏:熙平三年→神亀元年 梁:天監十七年]


┃寺院整理令

 11月、北魏の胡太后が敦煌の人の宋雲・僧侶の法力・恵生らを西域に赴かせ、仏教の経典を探し求めさせた。


 この冬、司空公・尚書令の任城王澄が上奏して言った。
高祖孝文帝)は洛陽に遷都なされた時(494年)、都城制を定められて寺院の建設について規定なさり、城内にはただ永寧寺の一区画のみを(永寧寺が建設されたのは516年である。それ以前にこの区画に寺があったのだろうか?)、郭内にはただ尼寺一つのみを許し、他は全て城郭の外に建てさせる事としました。しかるに、景明(500~504)の初め(宣武帝即位後)、この禁令に違反する者がわずかに現れてきました。そこで世宗宣武帝)は先帝の遺志を尊重して詔を発し、〔改めて〕城内に仏塔や寺院を建てることを禁じました。文武二帝(孝文帝・宣武帝)はどうして仏法を大切にしなかったのでしょうか? 恐らく、道俗それぞれの進むべき道が異なるため、互いの暮らしを乱すことの無いようになされたかったからでありましょう。しかるに、このような明確な禁令があったのにも関わらず、俗人は喜捨をしたという虚名を得るために、僧侶は利益を貪るために、城郭内にて次々と寺院を建立していきました。のち、正始三年(506)になって、沙門統の恵深は景明の禁令について言及し、『現在、禁令に違反して城郭内に寺院が建てられていますが、これを移転・破却するのは忍びないものがあります。そこで以前の寺は存続を許し、今後は厳禁する事で手を打たれますよう』と願い出てきました。先帝が寛容にこれを聞き入れると、禁令は有名無実な物となり、寺院の建立はいよいよ熱を帯びていきました。永平二年(509)、深らはそこで再び条例を制定し、『今後、新しい寺を建立する場合は、僧五十人以上を確保し、世間に公表してからにせよ。もしこれに背いて建立した場合は、俗世の違勅の罪を適用し、僧侶は畿外の州に追放することとする』としました。〔これにより禁令は形骸化し、〕以後十年の間、寺の私建はいよいよ盛んなものとなり、違反したとしても追放される事などありませんでした。
 このような状況は、国民にとっては大きな幸いではあっても、国にとっては幸いではありません。しかるに、近頃の私建はややもすれば百以上の数に上り、ある時は官有地に寺を建てると願い出るまではいいものの、実は寺の敷地以上の広さを求めていて、余った土地に〔宿や店を建てて〕私腹を肥やすのに用いたり、ある時は申告をして寺を建立する許可を得ると、敷地を制限以上の広さに拡張したりしました。このような詐欺の例は少なくありません。そこで府司馬の陸昶と府属の崔孝芬に都城と郭邑にある寺舍を調査させました所、その数は五百以上にも上る事が分かりました。しかも、この数に建設中の物は含まれていないのです。遷都(494年)以来二十四年以上が経過した今、寺院は住宅地の三分の一を占奪するに至りました。高祖が制度を作っ〔て城内の寺院の建立を制限し〕たのは、ただ僧俗を区別したかったからだけではなく、そもそもこのような状況になるのを防ぐためでもあったのです。世宗は先帝の遺志を受け継ぎつつも、僧寺の建立を禁止することができず、災いを未然に封じることができませんでした。現在、僧寺は城内の至る所に乱立しており、区画一つ全てに立ち並ぶ寺院もあれば、区画の中で肉屋や酒屋に隣接している寺院もあれば、三〜五人の僧侶しかいない寺院もあり、読経の音と屠殺の音が軒を並べて響き渡り、仏像や仏塔には魚臭が漂うといった混沌とした状況となっています。昔、北代(平城)では法秀の陰謀があり(481年)、近日冀州では大乗の変がありました(515年)。彼らは皆、初めは仏教を広めるという形を装って衆心を惑わし、最終的には信者たちを操って己の野望を達成しようとしました。太和の制は第二の法秀の出現を未然に防ぐためであり、景明の禁も大乗の乱が起こるのを防ごうとしたためのものでありました。乱が発生して初めて我らは祖宗が英明で、事前に深く用心していた事を知る事になったのです。冬の季節は霜が降りてから到来するように、何事も徴候があるものであり、少しでも前兆があるのなら細心の注意を払わねばならないのです。
 昔、如来ブッダ)は大体山林にて説法を行なっていましたが、現在の僧徒は都市の生活に執着し、狭隘な場所にて経行(座禅の合間に行なう歩行)を行ない、喧騒の中で座禅を行なっています。彼らは都市での生活が修行に不都合であると分かってはいるものの、都市の便利さに心を惹かれ、離れる事ができずにいるのです。このような地に住む者は僧侶としての正しさを失い、寺に参拝しに来た(或いは建てた)者もご利益を損なうかもしれません。このような者は仏教徒の残りかすであり、仏法に救う鼠であり、仏教の戒律に容れられぬどころか、国の法律においても唾棄されるべき者であります。しかもこのような者は京邑だけにとどまらず、天下の州鎮の僧寺も同様なのであり、彼らは人民から侵奪を行ない、広く田地や宅地を占拠して苦しめているのです。
 遷都以降、禁令が四度に渡って発されたものの、〔寺院〕私建の徒がこれを恐れる事はありませんでした。何故でしょうか? 官吏が禁令の実施を怠ったからでしょうか? いえ、違います。これはただ、禁令が曖昧で、抜け道が存在しているからに他なりません。そこで、僭越ながら臣が具体的な禁令の内容を考えて参りました。それは、まず、都城の中にある寺のうち、看板があっても建物の造りが粗雑で移転できそうな物は、先の制に従って〔移転させることを〕求めます。移転先は郭外の好きな場所にさせ、寺がその土地を購入し、地券が信頼できるものと国が判断できた場合、そこに移転する事を許す事とします。官有地を盗んで造った物である場合は即座に国に返還させる事とします。仏像が既に完成していて遷す事ができない場合は、今の勅の内容に従うようにさせることを求めます。〔即ち、〕昔の命のように禁止はさせませんが、ただ全て坊内にて通路を完結させ、坊をはみ出して門を造り、里内の路地の通行を妨げるような事は禁ずることとします。ただ、勅を受けている寺は例外とします。郭内の寺もこれに準ずる事とします。廟像が完成していて近くに肉屋がある場合は屠殺を禁じて清浄にさせる事とします。また、寺に僧侶が多数いる場合は閑散としている寺に移させ、狭さを解消させる事とします。今年の正月(2月の誤り?)の大赦後に寺を私建した者は僧制に従って処罰させる事とします。また、もし僧が五十人に満たない場合は小寺同士を合併させて大寺とし、必ず定員を満たすようにさせます。また、合併した事で無人となった寺を民間に売却するのは以前の禁令と同様とします。また、今後は外州で寺を建てる場合も〔手続きを必須とし、〕五十人以上の定員を満たしたら所属する州の役所に報告させる事とします。その後昭玄曹(仏教統括組織)がこれを審査し、許可できる物であった場合上奏文を奉り、陛下がこれを認可する事とします。もし違犯した場合は全て以前の禁令通りの処罰を下す事とします。州郡県が昭玄曹に報告せず認可した場合は違勅と同罪とします。
 太后はこれを聞き入れたが、実際に行なう事はできなかった。

○資治通鑑
 魏胡太后遣使者宋雲與比丘惠生如西域求佛經【比丘,僧也】。司空任城王澄奏:「昔高祖遷都,制城內唯聽置尼寺各一,餘皆置於城外;蓋以道俗殊歸,欲其淨居塵外故也。正始三年,沙門統惠深,始違前禁,自是卷詔不行,私謁彌眾,都城之中,寺踰五百,占奪民居,三分且一,屠沽塵穢,連比雜居。往者代北有法秀之謀【事見一百三十五卷齊太祖建元三年】,冀州有大乘之變。太和、景明之制,非徒使緇素殊途,蓋亦以防微杜漸。昔如來闡教【如來,佛也】,多依出林,今此僧徒,戀著城邑,正以誘於利欲,不能自己,此乃釋氏之糟糠,法王之社鼠【法王,謂佛】,內戒所不容【釋氏有五戒】,國典所共棄也。臣謂都城內寺未成可徙者,宜悉徙於郭外,僧不滿五十者,併小從大;外州亦準此。」詔從之,然卒不能行。
○魏釈老志
 神龜元年冬,司空公、尚書令、任城王澄奏曰:仰惟高祖,定鼎嵩瀍,卜世悠遠。慮括終始,制洽天人,造物開符,垂之萬葉。故都城制云,城內唯擬一永寧寺地,郭內唯擬尼寺一所,餘悉城郭之外。欲令永遵此制,無敢踰矩。逮景明之初,微有犯禁。故世宗仰修先志,爰發明旨,城內不造立浮圖、僧尼寺舍,亦欲絕其希覬。文武二帝,豈不愛尚佛法,蓋以道俗殊歸,理無相亂故也。但俗眩虛聲,僧貪厚潤,雖有顯禁,猶自冒營。至正始三年,沙門統惠深有違景明之禁,便云:「營就之寺,不忍移毀,求自今已後,更不聽立。」先旨含寬,抑典從請。前班之詔,仍卷不行,後來私謁,彌以奔競。永平二年,深等復立條制,啟云:「自今已後,欲造寺者,限僧五十已上,聞徹聽造。若有輒營置者,依俗違敕之罪,其寺僧眾,擯出外州。」爾來十年,私營轉盛,罪擯之事,寂爾無聞。豈非朝格雖明,恃福共毀,僧制徒立,顧利莫從者也。不俗不道,務為損法,人而無厭,其可極乎!
 夫學迹沖妙,非浮識所辯;玄門曠寂,豈短辭能究。然淨居塵外,道家所先,功緣冥深,匪尚華遁。苟能誠信,童子聚沙,可邁於道場;純陀儉設,足薦於雙樹。何必縱其盜竊,資營寺觀。此乃民之多幸,非國之福也。然比日私造,動盈百數。或乘(剰)請公地,輒樹私福;或啟得造寺,限外廣制。如此欺罔,非可稍計。臣以才劣,誠忝工務,奉遵成規,裁量是總。所以披尋舊旨,研究圖格,輒遣府司馬陸昶、屬崔孝芬,都城之中及郭邑之內檢括寺舍,數乘五百,空地表剎,未立塔宇,不在其數。民不畏法,乃至於斯!自遷都已來,年踰二紀,寺奪民居,三分且一。高祖立制,非徒欲使緇素殊途,抑亦防微深慮。世宗述之,亦不錮禁營福,當在杜塞未萌。今之僧寺,無處不有。或比滿城邑之中,或連溢屠沽之肆,或三五少僧,共為一寺。梵唱屠音,連簷接響,像塔纏於腥臊,性靈沒於嗜慾,真偽混居,往來紛雜。下司因習而莫非,僧曹對制而不問。其於汙染真行,塵穢練僧,薰蕕同器,不亦甚歟!往在北代,有法秀之謀;近日冀州,遭大乘之變。皆初假神教,以惑眾心,終設姦誑,用逞私悖。太和之制,因法秀而杜遠;景明之禁,慮大乘之將亂。始知祖宗叡聖,防遏處深。履霜堅冰,不可不慎。
 昔如來闡教,多依山林,今此僧徒,戀著城邑。豈湫隘是經行所宜,浮諠必栖禪之宅,當由利引其心,莫能自止。處者既失其真,造者或損其福,乃釋氏之糟糠,法中之社鼠,內戒所不容,王典所應棄矣。非但京邑如此,天下州、鎮僧寺亦然。侵奪細民,廣占田宅,有傷慈矜,用長嗟苦。且人心不同,善惡亦異。或有栖心真趣,道業清遠者;或外假法服,內懷悖德者。如此之徒,宜辨涇渭。若雷同一貫,何以勸善。然覩法贊善,凡人所知;矯俗避嫌,物情同趣。臣獨何為,孤議獨發。誠以國典一廢,追理至難,法網暫失,條綱將亂。是以冒陳愚見,兩願其益。
 臣聞設令在於必行,立罰貴能肅物。令而不行,不如無令。罰不能肅,孰與亡罰。頃明詔屢下,而造者更滋,嚴限驟施,而違犯不息者,豈不以假福託善,幸罪不加。人殉其私,吏難苟劾。前制無追往之辜,後旨開自今之恕,悠悠世情,遂忽成法。今宜加以嚴科,特設重禁,糾其來違,懲其往失。脫不峻檢,方垂容借,恐今旨雖明,復如往日。又旨令所斷,標榜禮拜之處,悉聽不禁。愚以為,樹榜無常,禮處難驗,欲云有造,立榜證公,須營之辭,指言嘗禮。如此則徒有禁名,實通造路。且徙御已後,斷詔四行,而私造之徒,不懼制旨。豈是百官有司,怠於奉法?將由網漏禁寬,容託有他故耳。
 如臣愚意,都城之中,雖有標榜,營造粗功,事可改立者,請依先制。在於郭外,任擇所便。其地若買得,券證分明者,聽其轉之。若官地盜作,即令還官。若靈像既成,不可移撤,請依今敕,如舊不禁,悉令坊內行止,不聽毀坊開門,以妨里內通巷。若被旨者,不在斷限。郭內準此商量。其廟像嚴立,而逼近屠沽,請斷旁屠殺,以潔靈居。雖有僧數,而事在可移者,令就閑敞,以避隘陋。如今年正月赦後造者,求依僧制,案法科治。若僧不滿五十者,共相通容,小就大寺,必令充限。其地賣還,一如上式。自今外州,若欲造寺,僧滿五十已上,先令本州表列,昭玄量審,奏聽乃立。若有違犯,悉依前科。州郡已下,容而不禁,罪同違旨。庶仰遵先皇不朽之業,俯奉今旨慈悲之令,則繩墨可全,聖道不墜矣。
 奏可。
○魏102朱居国伝
 初,熙平中,肅宗遣王伏子統宋雲、沙門法力等使西域,訪求佛經。時有沙門慧生者亦與俱行,正光中還。慧生所經諸國,不能知其本末及山川里數,蓋舉其略云。
○魏114釈老志釈
 熙平元年,詔遣沙門惠生使西域,採諸經律。
洛陽伽藍記
 神龜元年十一月冬,太后遣崇虛寺比丘惠生向西域取經,凡得一百七十部,皆是大乘妙典。

 ⑴釈老志には熙平元年(516)の事とあり、朱居国伝には熙平年間(516~518)の事とある。今は洛陽伽藍記の記述と通鑑の判断に従った。
 ⑵胡太后…北魏の司徒の胡国珍の娘。母は皇甫氏。宣武帝の妻で、孝明帝の母。聡明で容姿麗しく、弓の腕前も一流だったが、淫乱だった。比丘尼統の叔母の僧芝に宮中にて仏教の講義を受け、大義に通じた。また、このときその美しさが宣武帝の耳に入って承華世婦とされた。このとき、子貴母死制度があったため後宮の女官たちは太子を出産する事を願わなかったが、ただ一人「天子にどうして男児ができないのでしょうか。どうして我が身可愛さに皇家の世継ぎを産まずにいられましょうか?」と言い、妊娠すると周囲に堕胎するよう勧められたが拒否し、「男児を孕んでおりますよう。そして元気に成長して世継ぎになりますよう。さすれば死をも辞さぬ覚悟です」と天に誓い、晴れて男児(のちの孝明帝)を産むと充華嬪とされた。このとき帝は男児を別宮にて養育し、皇后や充華嬪らに近づかせなかった。515年、帝が崩御すると于忠らによって子を擁立され、自分も手厚い護衛を受けた。間もなく皇太妃→皇太后とされ、摂政を開始した。殺生を嫌い、無断撤退をした崔亮を赦した。封回に刑罰を厳しく行なうよう諫言されたが聞き入れなかった。また、たびたび後園にて自ら矢を射たり、王公の邸宅に赴いたりし、崔光に諌められた。仏教を篤く信じ、516年に巨額の費用をかけて永寧寺を建てた。諸親王および三藩王に妃を杖や鞭で打つ事を禁じた。517年、咸陽王禧・京兆王愉を赦し、その諸子を皇籍に復帰させた。また、申訟車に乗り、宮城を出て自ら訴えを聞いた。また、自ら朝堂にて孝廉・秀才・州郡の計吏の試験を行なった。518年に父が亡くなると九龍殿にて喪に服し、そのまま九龍寝室に住むようになった。この時、父に『太上』の尊称を贈り、張普恵に批判された。また、高太后を殺害した。518年⑷参照。
 ⑶任城王澄…拓跋澄→元澄。字は道鏡。生年467、時に52歳。景穆太子の孫で、任城王雲の子。孝文帝の従兄弟叔父。孝行者で、学問を好んだ。話しぶりや振る舞いが上品だった。馮太后に『宗室の領袖となるべき者』と評された。485年、柔然が侵攻してくると都督北討諸軍事とされて討伐に赴いた。のち梁州刺史とされ、氐羌を良く手懐けた。のち徐州刺史とされると非常な名声と政績を上げた。のち中書令→尚書令とされた。南斉の使者の庾蓽に「昔の魏の任城王(彰)は武を以て聞こえたが、今の魏の任城王は文の方面に秀でている」と評された。493年、孝文帝が南伐を行なおうとすると反対したが、のち帝に南伐は建前で実際は遷都が目的だと打ち明けられると賛成し、「我が子房(張良)」と絶賛され、撫軍大将軍・太子少保・兼尚書左僕射とされた。洛陽遷都の際には代都の人々の説得を行なった。のち吏部尚書→右僕射とされた。499年、帝の臨終の際、太子恪の輔佐を託された。宣武帝が即位すると揚州刺史とされた。507年、鍾離で大敗を喫した。のち定州刺史→太子太保とされた。515年、帝が崩御し幼い孝明帝が立つと人心収攬のために尚書令・驃騎大将軍とされた。間もなく侍中・司空→領尚書令とされた。516年、大都督南討諸軍事とされて淮堰の破壊を命じられたが、出発前に自壊したため取り止めとなった。また、貨幣問題について言及した。御史中尉の東平王匡が職分を越えて勲功や成績の不正の調査を行なおうとすると批判して取りやめさせた。張普恵が太上問題について疑義を呈すると論難したが論破された。518年⑵参照。
 ⑷陸昶…字は細文。鮮卑族で、本姓は步六孤。青州刺史・仮楽安公の陸龍成の子で、平原簡王の步六孤麗の甥。無能でしかも酒好きだった。正始年間(504~508)に太尉属・行滎陽郡事とされた。のち弾劾されたがたまたま大赦に遭って罪を免ぜられた。久しくののち広武将軍・司空司馬とされ、間もなく光禄大夫とされた。
 ⑸崔孝芬…字は恭梓。生年485、時に34歳。名門博陵崔氏の出。光州刺史・泰昌景子の崔挺の子。博識で文才があり、孝文帝に才能を認められた。司徒の彭城王勰の行参軍とされ、のち著作郎とされ、父の爵位を継いだ。のち尚書令の高肇の子の高植が青州刺史とされるとその司馬とされた。のち司空属・定州大中正とされると、能吏として非常に名声を博し、府主の任城王澄に重んぜられた。熙平年間(516~518)に澄が墾田授受の制八条を作った時、その考定を行なった。

┃墓地選定
 辛亥(11月30日)、梁が南平王偉を侍中・左光禄大夫・開府儀同三司とした(516年に母の死に遭い喪に服していた)。
 
 12月、辛未(20日)、北魏が詔を下して言った。
「人生が終わった時、人は墓地に眠る事となるが、現在、京邑(洛陽)は大いに栄え、人口が非常な数に上っているものの、貴きも賤しきも定まった墓地を得ないでいる。朕は民の父母として、この問題の解消に努めるべきである。そこで今、乾脯山以西の地を墓地に定める事とした。」

○魏孝明紀
 十有二月辛未,詔曰:「民生有終,下歸兆域,京邑隱賑,口盈億萬,貴賤攸憑,未有定所,為民父母,尤宜存恤。今制乾脯山以西,擬為九原。」
○梁武帝紀
 十一月辛亥,以南平王偉為左光祿大夫、開府儀同三司。
○梁22南平元襄王偉伝
 遷侍中、左光祿大夫、開府儀同三司。

 ⑴南平王偉…蕭偉。もと建安王。生年476、時に43歳。蕭順之の第八子で、母は陳太妃。梁の武帝の異母弟。聡明で学問を好んだ。南斉に仕えて晋安(宝義)鎮北法曹行参軍→晋安驃騎府外兵参軍とされた。武帝が雍州にて挙兵する際襄陽に呼ばれて始興王憺と共に雍州の留守を任され、戦力が足りないなか魏興太守の裴師仁らを迎撃して大破した。のち荊州が危急に陥ると始興王憺を派遣してこれを救い、この功により雍州刺史とされた。梁が建国されると建安郡王とされた。505年、南徐州刺史とされた。506年、丹陽尹とされた。507年、都督揚南徐二州諸軍事・中権将軍・揚州刺史とされた。508年、病気を理由に解任を求め、侍中・中撫軍・知司徒事とされた。510年、護軍・石頭戍軍事→江州刺史とされた。512年、開府を加えられた。病気になって再び解任を求め、513年、撫軍将軍とされたが、病気を理由に辞退した。514年、左光禄大夫とされ、親信四十人を加えられた。516年、生母の陳太妃が病床に臥すと宏と共に付きっきりで看病を行ない、太妃が亡くなると五日に亘って水すら口に入れず死にかかった。諸王の中で安成王秀と共に特に才能のある者を好み、二安と並び称された。518年、南平郡王とされた。518年⑴参照。
 ⑵乾脯山…《隋書》地理志に『偃師県(北魏洛陽の東五十里)に首陽山・酈山・乾脯山がある』とある。また、《魏書》出帝紀に『孝武帝が鄴に帰る高歓のため、乾脯山にて別れの宴を開いた』とある。ここから類推するに、乾脯山は洛陽の東北にあるのだろう。《太平寰宇記》に『乾脯山は九州要記曰く、周の敬王がこの地にて乾脯(干し肉)を干したことにちなんで名付けられた』とある。

┃高昌、再び移住を求める
 この冬、高昌(敦煌の西北)王で北魏の持節・平西将軍・瓜州刺史・泰臨県開国伯の麴嘉が兄の子の麴孝亮を再び北魏に派遣し(508年以来)、救援と北魏領内への移住を求めた。北魏はこれを拒否した。

○魏101高昌伝
 神龜元年冬,孝亮復表求援內徙,朝廷不許。

 ⑴麴嘉…字は霊鳳。金城榆中の人。鞏顧礼と共に高昌王の馬儒の左右長史を務めた。497年、儒が阿至羅国に圧迫され北魏に救援・移住を求めた際、鞏顧礼と共に千五百を率いて北魏軍を迎えに行ったが空振りに終わった。間もなく高昌人が北魏領内への移住を願わず儒を殺すと王に立てられた。即位すると柔然に臣従した。508年に柔然の他汗可汗が阿至羅国王の弥俄突に殺されると阿至羅に臣従した。焉耆がエフタルに滅ぼされるとその国人の求めに応じ、第二子を焉耆王として国人を統率させた。また、兄の子の孝亮を北魏に派して移住と救援を求め、聞き入れられたが再び空振りに終わった。のち十余回に亘って北魏に使者を送り、救援と移住を求めたが聞き入れられることは無かった。510年、北魏に朝貢の使者を送った。延昌年間(512~515)に持節・平西将軍・瓜州刺史・泰臨県開国伯とされた。516年、二度に亘って北魏に朝貢した。518年、北魏に朝貢した。

┃塩池解禁は下策
 河東郡にある塩池は〔北魏が独占していたが、太和二十年(496)に民間に開放した。しかし、景明四年(503)に再び国家が独占し、〕担当の官吏を置いて徴税を行なった。〔のち正始三年(506)に〕再び禁を解き、民間に開放した。しかし、民間のうち裕福な者が〔塩を買い占め、高値で転売して〕利益を独占したため、貧しい者にはなんら恩恵が無かった。そこで延興(471~476。延昌〈512~515〉の誤りか?)の末に再び監司を置き、塩価の高下に応じて塩税を調節し〔、なるべく安い値段で塩が手に入るようにし〕たので、官民ともに利益を得た。のち、世宗宣武帝。粛宗〈孝明帝〉の誤りか?)が即位すると、寛容・簡潔を旨とした政治を行ない、再びその禁を解いて人民と共有し、国家が必要なぶんは別に法令を定めて確保する事とした。その後、権勢のある家が権力を濫用して塩を強奪し〔て高値で売りさばくようになると〕、池近辺の住民も勝手に塩を我が物とし、手放そうとしなかった。強者と弱者が塩を巡って〔醜く〕争い合う様は天下に知れ渡った。

 神亀年間(518~520)の初め、太師の高陽王雍と太傅の清河王懌らが上奏して言った。
「塩池は天が人民を養育するために設けた塩蔵であります。推察いたしますに、先朝(宣武帝)が民間に禁令を発したのは、ぐだぐだと人民と利益を争いたくなかったがためと思われます。そもそも、塩池の利益は自然から産出して得られるものでありますゆえ、その扱いにきちんとした規定が無ければ、権勢のある者が囲い込んだり、近辺の者が勝手に自分の物にしたりして、貧しい者や遠くから買いにやって来た者たちを落胆・絶望させる事となってしまいます。〔これでは不公平であります。〕ゆえに、国家は担当の官吏を置いて監督させ、強き者にも弱き者にも公平に塩が行き渡るようにしたのです。また、塩価の十分の一を税として徴収しましたが、これは昔から続く伝統的なもので、徴税の仕方にはきちんとした秩序があるため、〔囲い込みなどよりも苦ではなく、〕広範囲の人々を救うこととなりました。これ以後その恩恵により、〔塩池の塩は〕遠近の人々に公平に行き渡るようになり、官民共に便宜を得、その利益は少なくない物がありました。のちに鼓吹主簿の王後興らが〔官府に貯まった〕食塩のうち、二万斛を百官に供給したり、年ごとに馬千頭と牛五百頭と交換したりするのに使うよう求めた事があった事からそれが類推できましょう。のち、中尉の甄琛が上表して禁令を解くよう求めてくると、詔勅が下されて会議にかけられることとなりました。尚書は琛の意見は理想は高いものの、実行性には欠けるとして、これまでの禁令を続けるのが妥当だと進言しました。〔しかし、結局〕琛の計策に従うとの詔が下されました。すると、〔果たして尚書の心配の通り、〕池近辺に住む尉保光らが勝手に塩を我が物としました。その独占ぶりは国家のそれに倍するほどに酷く、交易の相手も塩価の高下も彼らの一存で決められるに至りました。まさに、陛下の大いなる寛容さが無ければとっくに処断されているほどの重罪を犯したのです。以上の二・三の点を吟味しますに、〔禁令を解くのは〕深く正道に背くものである事が分かったと思われます。臣らは協議しました結果、先朝の詔に従い、禁令を敷く事を求める事としました。違反者への対策や処罰、監督組織の設置についても先朝のそれを踏襲するのが良いと存じます。」
 そこで北魏は再び塩池に監督組織を設置し、塩を管理させる事とした。

○資治通鑑
 是歲,魏太師雍等奏:「鹽池天藏,資育群生,先朝為之禁限,亦非苟與細民爭利。但利起天池,取用無法,或豪貴封護,或近民吝守,貧弱遠來,邈然絕望。因置主司,令其裁察,強弱相兼,務令得所。什一之稅,自古有之,所務者遠近齊平,公私兩宜耳。及甄琛啟求罷禁,【事見一百四十六卷五年】乃為繞池之民尉保光等擅自固護;語其障禁,倍於官司,取與自由,貴賤任口【言鹽價賤貴,任其口之所出也】。請依先朝禁之為便。」詔從之。
○魏孝文紀
 太和…二十年…冬…十有二月…乙丑,開鹽池之禁,與民共之。
○魏宣武紀
 景明…四年…秋七月…庚午,詔還收鹽池利以入公。…正始…三年…夏四月乙未,詔罷鹽池禁。
○魏食貨志
 河東郡有鹽池,舊立官司以收稅利,是時罷之,而民有富強者專擅其用,貧弱者不得資益。延興末,復立監司,量其貴賤,節其賦入,於是公私兼利。世宗即位,政存寬簡,復罷其禁,與百姓共之。其國用所須,別為條制,取足而已。自後豪貴之家復乘勢占奪,近池之民,又輒障吝。強弱相陵,聞於遠近。神龜初,太師、高陽王雍,太傅、清河王懌等奏:「鹽池天藏,資育羣生。仰惟先朝限者,亦不苟與細民競茲贏利。但利起天池,取用無法,或豪貴封護,或近者吝守,卑賤遠來,超然絕望。是以因置主司,令其裁察,強弱相兼,務令得所。且十一之稅,自古及今,取輒以次,所濟為廣。自爾霑洽,遠近齊平,公私兩宜,儲益不少。及鼓吹主簿王後興等詞稱請供百官食鹽二萬斛之外,歲求輸馬千匹、牛五百頭。以此而推,非可稍計。後中尉甄琛啟求罷禁,被敕付議。尚書執奏,稱琛啟坐談則理高,行之則事闕,請依常禁為允。詔依琛計。乃為繞池之民尉保光等擅自固護,語其障禁,倍於官司,取與自由,貴賤任口。若無大宥,罪合推斷。詳度二三,深乖王法。臣等商量,請依先朝之詔,禁之為便。防姦息暴,斷遣輕重,亦準前旨。所置監司,一同往式。」於是復置監官以監檢焉。其後更罷更立,以至於永熙。
○通典食貨10塩鉄
 後魏宣武時,河東郡有鹽池,舊立官司以收稅利。先是罷之,而人有富彊者專擅其用,貧弱者不得資益。延興末,復立監司,量其貴賤,節其賦入,公私兼利。孝明即位,復罷其禁,與百姓共之。自後豪貴之家復乘勢占奪,近池之人又輒障吝。神龜初…。

 ⑴高陽王雍…元雍。北魏の六代皇帝の献文帝の子。母は韓貴人で、趙郡王幹の同母弟、七代孝文帝の異母弟。孝文帝に「才能の深浅が測れない。或いは大器晩成なのか」と評された。485年、潁川王とされ、のち高陽王に改められた。帝の南伐の際、都の留守を任された。のち相州刺史とされた。宣武帝が即位すると都督冀相瀛三州諸軍事・征北大将軍・冀州刺史とされた。のち驃騎大将軍・司州牧とされた。のち司空→太尉→太保・領太尉とされた。515年、帝が崩御し幼い孝明帝が立つと人心収攬のために西柏堂に住んで帝の代わりに政務を決裁する事を命じられた。間もなく宗師・太傅・侍中とされ、国子学寺に住んだ。権臣の于忠と対立し、殺されかけたのち太傅・太尉の職を免じられて蟄居させられた。のち忠が失脚すると専権を抑えられなかった事を以て自ら処罰を求めたが不問とされ、侍中・太師・領司州牧とされた。518年⑷参照。
 ⑵清河王懌…元懌。字は宣仁。生年487、時に32歳。孝文帝の第四子。母は羅夫人(叱羅夫人)。宣武帝の異母弟で、孝明帝の叔父。汝南王悦の同母兄。幼い頃から頭脳明晰・容姿端麗で孝文帝に可愛がられた。読書家で文才に優れ、議論を得意とし、寛容で感情が一定していた。499年に宣武帝が即位すると侍中・尚書僕射とされた。職務に就くと政治の才能を遺憾なく発揮し、優れた決断力を示した。帝が高肇に専権を振るわせると帝を諌めた。512年に司空とされた。515年、司徒→太傅・領太尉とされた。のち于忠・崔光を弾劾した。劉懋の風雅さを愛し、懋が517年に亡くなるとその死を悼んだ。518年、太后の父の胡国珍が亡くなると洛陽に墓を築くよう勧めた。張普恵が太上問題について疑義を呈すると論難したが論破された。518年⑵参照。
 ⑶甄琛…字は思伯。中山毋極の人。父は州主簿。母は鉅鹿の曹氏。学問を修め文才に優れたが、低身長・不細工だった。秀才に挙げられて洛陽に赴いたが、何年も囲碁に明け暮れた。蝋燭持ちの召使いが寝落ちするとそのつど杖で打ったが、「私が郎君の読書中に眠ってしまったのなら甘んじて罰を受け入れますが、囲碁中に寝たのなら罰を受ける道理はありません!」と言われて目が覚め、勉学に励むようになった。太和年間(477~499)の初めに中書博士とされ、のち諫議大夫とされると孝文帝に才能を認められた。のち陽平王頤衛軍府長史とされ、宣武帝が即位すると兼御史中尉とされ、塩池の専売を緩めるよう進言して聞き入れられた。のち正中尉・侍中とされたが、権力者を弾劾する事はできなかった。また、寵臣の趙修におもねり、父や弟を出世させた。503年、修が捕らえられて処刑されると捕らえられ、仲の悪かった邢巒から激しい追窮を受け、免官に遭った。のち母と父を立て続けに亡くした。のち復帰を許されて散騎常侍・領給事黄門侍郎・定州大中正とされて親寵せられ、門下の庶事を委ねられた。のち兼主客郎とされて南斉の使者の劉纘を接待し、纘の子の晣が死んで遺族が入洛してくるとその娘を娶った。のち河南尹・兼黄門・中正とされた。この時、洛陽の治安悪化を問題視し、武官の八品将軍以下の者から節操があり有能な者を里尉の任に充てる事、羽林を遊軍として盗賊の取り締まりに当たらせる事を進言して聞き入れられた。のち太子少保・兼黄門とされ、権臣の高肇が伐蜀を行なうと使持節・仮撫軍将軍とされ、步騎四万を率いて剣閣に向かったが、梁州の獠亭に到った所で帝の崩御を知ると引き返した。洛陽に帰還すると肇の党人である事を睨まれ、営州刺史とされた。一年あまりののち交代すると、高齢のため一旦中山に停まってから洛陽に帰還した。のち涼州刺史とされたが、間もなく太常卿とされた。515年⑵参照。

┃政要三論

〔この頃、〕北魏は詔を下し、〔侍中・大将軍・司空・領尚書令の〕任城王澄、〔侍中・驃騎大将軍・領軍将軍の〕京兆王継⑴⑵、〔侍中・衛大将軍・尚書左僕射の〕元暉、〔鎮東将軍・御史中尉の〕東平王匡に門下省での重要事項を決裁させた。
 暉は上書し、政治の要点について論じて言った。
「一、御史の職務は、官階に拘らずに広く賢人を探すことに努め、相応しい者を得たら長期に亘って仕事を任せ、成果を挙げさせる事にあります
 二、〔現在、我が国は〕人民の安定と辺境の安寧を保ち、時機を観て動くべきでありますのに、近頃、辺境の将軍たちは長期的な視野無く、ただ〔目先の〕小さな功績を挙げるのに躍起となっています。楚梁(梁のこと)との関係が未だ修復されず、〔桑畑が荒れて〕養蚕に従事する女性がしばしば怨みを抱く事となってしまっているのは、かような凡人たちが不正に利益を得ようとあくせくしている事によるのです。〔そもそも、〕呉(梁のこと)の平定計画は既に遠大な物が立てられており、一城一戍を獲るか獲らないかなどという些末な事は問題では無いのです。また、河北数州は国の基盤でありますが、長年に亘る飢饉により住民が流散する事態となっております。現在、辺境上では兵が再び徴発されておりますが、このような時にどうしてかような軽挙が許されましょうか。臣が愚考いたしますに、数年間は辺境を平穏にして戦いをやめ、人民の生活を安定させて農業を奨励し、中夏の地に恩恵を与えるのが良いと思います。どうか辺境の将軍たちに厳命を下し、今後は賊の戍が帰順を申し出てきても、勝手に援護に向かわせず、必ず朝廷に報告させるようにし、これに違反した者はたとえ功績を挙げたとしても違詔の罪で処罰するようになさいますよう。
 三、国家の収入はただ河北に頼っておりますが、長年の飢饉により住民が逃散すると、悪人がのさばり、彼らを匿って〔我が物とし、偽りの報告をして戸籍に登録されている〕老人の数を激増させ子どもの数を激減させたり、勝手に死亡した事にしたりして脱税し、浮いた彼らの税を自分たちが代わって徴収し、懐に入るようにしました。かくて人民は〔悪人の搾取に〕苦しみ、国家も損失を被ることとなりました。新たな制度を作って上手に人口を洗い出さなければ、この損失は止むことは無いでしょう。ゆえに、どうか新たな法令を作って天下に知らしめられますよう。」
 帝はこれを聞き入れた。

○魏15元暉伝
 後詔暉與任城王澄、京兆王愉、東平王匡共決門下大事。暉又上書論政要:「其一曰:御史之職,務使得賢,必得其人,不拘階秩,久於其事,責其成功。其二曰:安人寧邊,觀時而動,頃來邊將,亡遠大之略,貪萬一之功,楚梁之好未聞,而蠶婦之怨屢結,斯乃庸人所為,銳於姦利之所致也。平吳之計,自有良圖,不在於一城一戍也。又河北數州,國之基本,飢荒多年,戶口流散。方今境上兵復徵發,即如此日,何易舉動。愚謂數年以來,唯宜靜邊以息占役,安人勸農,惠此中夏。請嚴勅邊將,自今有賊戍求內附者,不聽輒遣援接,皆須表聞,違者雖有功,請以違詔書論。三曰:國之資儲,唯藉河北。飢饉積年,戶口逃散,生長姦詐,因生隱藏,出縮老小,妄注死失。收人租調,割入於己。人困於下,官損於上。自非更立權制,善加檢括,損耗之來,方在未已。請求其議,明宣條格。」帝納之。
○元暉墓誌
 俄轉侍中衛大將軍尚書左僕射。


 ⑴京兆王継…元継。もと江陽王継。字は世仁(仁世)。生年464、時に55歳。道武帝の昆孫で、南平王霄の第二子。元叉の父。娘は侯剛の子の妻。子が無いまま死んだ江陽王根の跡を継いだ。温和寛容な性格で長者と呼ばれたが、貪欲だった。孝文帝の時に撫冥鎮都大将→都督柔玄撫冥懐荒三鎮諸軍事・柔玄鎮大将とされた。のち左衛将軍・兼中領軍とされ、洛陽の留守を任された。のち平北将軍とされて平城を鎮守した。498年に高車酋帥の樹者が叛乱を起こすと都督北討諸軍事とされて討伐を命じられた。このとき戦わずして叛徒の多くを帰順させ、孝文帝に「江陽王は大任を任せるに足る」と激賞を受けた。宣武帝が即位すると青州刺史→恒州刺史→度支尚書とされたが、青州刺史の時に飢饉が起きた際、州民の娘を家僮の妻にしたり良民を下女にした事が問題視されて官爵を剥奪された。514年に徐揚の鎮守を任された。子の元叉の妻の姉の胡太妃が皇太后となると尚書とされ、もとの爵位への復帰を許された。間もなく侍中・領軍将軍とされ、更に特進・驃騎将軍を加えられた。518年、更に驃騎大将軍・儀同三司とされた。また、京兆王に改められた。長らく病気を患い自宅にて療養生活を送っていたが、胡太后と孝明帝が外出する際いつも宮中の留守を任された。また、節日の際に催される宴会にはみな病を押して参加した。518年⑶参照。
 ⑵元暉伝では『京兆王愉』になっているが、愉は508年に死亡している。京兆王継の誤りであろう。
 ⑶元暉…字は景襲。生年465、時に54歳。拓跋什翼犍の六世孫で、右僕射の城陽公忠の子。沈着聡明で大の読書家だった。宣武帝が即位すると尚書主客郎とされ、のち給事黄門侍郎とされた。帝が平城還都について惑うとこれを諌めた。のち侍中・領右衛将軍とされた。在任中特に何か貢献したわけではなかったが帝から親寵を受け、宮中の重要機密を侍中・黄門の中で一人だけ知らされた。同じく寵用を受けていた侍中の盧昶と合わせ、人々から『餓虎将軍・飢鷹侍中』と言われた。のち吏部尚書とされると大郡の太守は二千疋など賄賂で人事を決め、『市曹』と呼ばれた。のち都督冀瀛二州諸軍事・冀州刺史とされると賄賂政治を行なって州民を苦しめた。孝明帝が即位すると尚書右僕射→侍中・衛大将軍・尚書左僕射とされ、吏部の事務を兼任した。516年⑶参照。
 ⑷東平王匡…元匡。字は建扶。景穆太子の孫で、陽平幽王新成の第五子だが、広平王洛侯が子が無いまま死ぬとその跡を継いだ。剛直で気骨があり、孝文帝に匡輔を期待されて匡の名を与えられた。宣武帝が即位すると給事黄門侍郎とされた。寵臣の茹皓を諌止した事で名を上げた。肆州刺史とされると皓の仕返しを恐れ、謹んで職務を務め、非常な政績を挙げた。のち恒州刺史→大宗正卿・河南邑中正→度支尚書とされた。尚書令の高肇に皆が憚る中、屈する事無く、棺を造って皇宮に赴き、肇の罪を論じてから自殺しようとした。これを肇に睨まれて死刑を宣告されたが、結局光禄大夫への降格だけに留められた。のち兼宗正卿→兗州刺史とされた。孝明帝が即位すると御史中尉とされた。516年、于忠を弾劾した。また高肇の党人を次々と弾劾したが胡太后に聞き入れられなかった。のち、勲功や成績の不正の調査をしようとしたが、任城王澄に越権行為だと非難を受け、取りやめさせられた。また、度量衡を改定するようたびたび進言し、これは聞き入れられた。517年、東平郡王とされた。張普恵が太上問題について疑義を呈するとその討論に加わった。518年⑵参照。
 ⑸宣武帝時代に御史中尉の王顕に苦しめられた反動か、元暉は何度も御史について言及している。
 ⑹517年に幽・冀・滄・瀛四州にて大飢饉が大飢饉が、518年に幽州にて大飢饉が発生していた。
 ⑺元暉は冀州刺史時代に『検括丁戸』を行なって人口を洗い出し、五万疋もの絹を得ることに成功していた。

┃東義陽帰順
 この年、梁の龍驤将軍の田申能が東義陽城と共に北魏に帰順した。北魏は房景先を行台とし、二荊(荊州・東荊州?)の兵を率いて助けに赴かせたが、景先は軍中にて発病し帰還する事になった。
 この年、自宅にて逝去した(享年43)。持節・冠軍将軍・洛州刺史を追贈し、文景と諡した。


○魏43房景先伝
 神龜元年,蕭衍龍驤將軍田申能據東義陽城內屬,敕景先為行臺,發二荊兵以援之,在軍遇疾而還。其年卒於家,時年四十三。贈持節、冠軍將軍、洛州刺史,諡曰文景。

 ⑴東義陽…《南斉書》州郡志曰く、『司州(義陽)に東義陽左郡があり、永寧・革音・威清・永平四県を領する。』義陽の東南の山地辺りか?
 ⑵房景先…字は光冑。生年476、時に43歳。名門清河房氏の出。高祖父の代に東清河(のち北魏の斉州に属す)に避難した。もと劉宋の龍驤将軍の房愛親の子で、司空長史の房景伯の弟。父の代に東清河が北魏に陥とされると恒州の平斉に強制移住させられた。幼くして父を亡くすと学費も払えなかったため、母から《毛詩》《曲礼》を学んだ。昼は木こりや柴刈りをしてお金を稼ぎ、夜は書物を読び、遂に博識な青年となった。太和年間に郷里に帰ることを許され、郡の功曹とされた。のち太学博士とされた。このとき侍中の崔光に学識を認められて兼著作佐郎とされ、国史の編纂を任された。のち司徒祭酒・員外郎とされ、侍中の穆紹に推薦を受け世宗(宣武帝)の起居注の編纂を任された。のち数々の職を歴任して步兵校尉・領尚書郎・斉州中正とされ、どこでも有能の名を得た。兄の景伯に良く仕え、兄が病気になるとつきっきりで看病し、痩せ細った。

┃梁の動向
 この年、梁が信武将軍・巴西梓潼二郡太守・安昌県侯の張斉を持節・都督南梁州(南安。剣閣の西南)諸軍事・智武将軍・南梁州刺史とした。

 また、信武将軍・安西長史・江夏(郢州)太守・豊城県公の夏侯亶を建康に呼び戻し、通直散騎常侍・太子右衛率とした。

○梁17張斉伝
 十七年,遷持節、都督南梁州諸軍事、智武將軍、南梁州刺史。
○梁28夏侯亶伝
 十七年,入為通直散騎常侍、太子右衞率。

 ⑴張斉…字は子響(嚮)。生年457、時に62歳。馮翊、或いは横桑の人。読み書きができなかったが、若年の頃から度胸を有した。南斉の荊府司馬の張稷に仕え、その腹心とされた。稷が南兗州刺史とされるとその中兵参軍とされた。蕭衍(のちの梁の武帝)が挙兵すると稷らと密謀し、東昏侯を自らの手で斬殺した。衍が梁を建国すると安昌県侯とされ、寧朔将軍・歴陽太守とされると善政を行なった。503年、天門太守とされた。505年、北魏将の王足が巴・蜀に侵攻してくると輔国将軍とされ救援に向かった。足が退くと南安戍に駐屯した。508年、大剣・寒冢二戍を置き、征遠将軍・巴西太守とされた。511年、郡民の姚景和が乱を起こすとこれを討破した。512年、仮節・督益州外水諸軍とされた。513年、北魏将の傅豎眼が南安に侵攻してくるとこれを撃退した。515年、信武将軍・巴西梓潼二郡太守とされた。任令宗が北魏の晋寿太守を殺害して城ごと梁に付くと、三万の兵を率いて迎えに赴いた。516年、傅豎眼に撃破され白水に逃げ込んだ。その後もたびたび北魏の益州に侵攻したが足に矢を射当てられるなど重傷を負って大敗を喫し、白水だけでなく小剣・大剣戍も喪った。516年⑶参照。
 ⑵夏侯亶…字は世龍。夏侯詳の長子。南斉の時に崔慧景の乱の防衛に活躍し、驍騎将軍とされた。蕭衍が挙兵し父がこれに呼応すると宣徳皇后の令旨を携えて合流した。建康が陥ちると尚書吏部郎→侍中とされ、皇帝の印璽を捧げる役目を任された。502年、宣城太守とされた。間もなく散騎常侍・領右驍騎将軍とされた。507年、平西始興王長史・南郡太守とされた。508年に父が亡くなると辞職し、良く喪に服して遺産を全て弟たちに分け与えた。509年、信武将軍・司州刺史・領安陸太守とされた。喪が明けると豊城県公の爵位を継いだ。州では良く飴と鞭を使い分け、辺境の人々を悦服させた。513年、都官尚書とされた。のち給事中・右衛将軍・領豫州大中正とされた。516年、信武将軍・安西長史・江夏太守とされた。518年⑴参照。


 519年⑴に続く
[北魏:熙平三年→神亀元年 梁:天監十七年]


┃人民救済
 春、正月、丁巳朔(1日)、梁の武帝が詔を下して言った。
「生まれた土地で楽しむのは含識(仏語。心を有するもの)の常性であり、『下を厚くし安宅を安んずる』(《易経:剥卦象辞》。君主は民に厚く施す事で自分の地位を安泰にする)のは、治世の常道である。朕は民を憐れみ、夜明け前には起床して政治に勤しむ事を忘れず、何度も人口増加・生活向上策を打ち出し、常に支援を行なってきたが、未だに戸籍に登録された民の数は増えず、流民の発生が続いてしまっている。果たして民は嬉々として故郷を捨て去っているのだろうか? いや、そうでは無い。財産を殆ど無くして帰る手段を失ってしまっているだけである。『巣南』の心をどうして鎮める事ができようか。今は新しい年が始まり、万物が生まれ変わる時に当たる。そこで民の生活を支援し、おのおのが元いた土地に帰る事ができるようにして、郡県に空き地があるのを、町村に流民が出るのを無くし、『鶏犬相い聞こえ』(《老子》80。飼っている鶏や犬の鳴き声があちこちから聞こえること。民家が連なっている事を指す)、桑の木や柘の木(どちらもカイコの餌となる葉をつける)が生い茂ってあぜ道に交差するようにしたい。よって今より、天監十七年正月一日以前に他境に流れ住んだ者は半年の猶予期間中に元の土地に帰ることを赦し、更に税を三年免除する事とする。元いた土地と離れすぎている場合は、距離に合わせて期間を延ばす。もし帰りたくない者がいるなら、即座にその土地の戸籍に編入し、以前のように税を課す。もし流浪中に故郷にある土地や家を失っていた場合は、村長・三老(村の統治を円滑にするために置かれた三人の長老)および親族が県の役所に出向き、村内にある官有の土地や住宅を請求して、失っていた者に提供するようにせよ。市埭(市場・堤防通行税)の諸職を担当して横領や税税収の低下の罪に問われて財産を没収された場合、田宅・車牛は生活に必要な物であるゆえ、全て没収する事はせず、情状酌量して加減するようにせよ。商人や富豪が勝手に自分の物にする事は、もちろん許さぬ。逃亡者は罪の軽重を問わず、自首してくれば赦し、平民の列に戻す。もし罰を受けたいと望むならもとの徭役に復帰させよ。〔尚書省は〕条文を作り、この事を天下に周知させよ。」

 甲子(8日)、北魏が氐族の酋長の楊定を陰平王とした(前任は楊炅)。
 丙寅(10日)、特進〔・侍中・驃騎将軍・領軍将軍〕の江陽王継を驃騎大将軍・儀同三司とした。特進・領軍はそのままとした。

 壬申(16日)、北魏の孝明帝が詔を下して言った。
「朕は幼く愚かな身で即位したため、政道を安定させる事ができず、民の苦悩を救う余裕が無かった。朕は朝夕この事を考えては同情し、うたた寝しては夢に見る有様である。そこで今、人民のうち高齢の者に恩情をかけ、天下に朕の苦しい心の内を示したいと思う。よって今、畿内にいる百歳以上の者に大郡板を与え、九十歳以上の者に小郡板を与え、八十歳以上の者に大県板を与え、七十歳以上の者に小県板を与える。また、諸州にいる百歲以上の者に小郡板、九十歳以上の者に上県板、八十歳以上の者に中県板を与える。また、鰥寡孤独(妻を亡くした男・夫を亡くした女・親を亡くした子ども・子の無い老人)で自活できない者に粟五斛・絹二疋を与える事とする。」(懐も痛まない都合のいいやり方である

 庚辰(24日)、詔を下し、雑役戸(平民以下奴隷以上の身分)出身に関わらず官職に就いている者はみな五人の保証を受けなければならないとし、受けられなかった者は官職を剥奪して雑役戸に返した。
 乙酉(29日)、特進の汝南王悦を儀同三司とした。

○魏孝明紀
 神龜元年春正月甲子,詔以氐酋楊定為陰平王。丙寅,以特進、江陽王繼為驃騎大將軍、儀同三司。壬申,詔曰:「朕沖昧撫運,政道未康,民之疾苦,弗遑紀恤,夙宵矜慨,鑒寐深懷,眷彼百齡,悼茲六極。京畿百年以上給大郡板,九十以上給小郡板,八十以上給大縣板,七十以上給小縣板;諸州百姓,百歲以上給小郡板,九十以上給上縣板,八十以上給中縣板;鰥寡孤獨不能自存者,賜粟五斛、帛二匹。」庚辰,詔以雜役之戶或冒入清流,所在職人皆五人相保,無人任保者奪官還役。乙酉,加特進、汝南王悅儀同三司。
○梁武帝紀
 十七年春正月丁巳朔,詔曰:「夫樂所自生,含識之常性;厚下安宅,馭世之通規。朕矜此庶氓,無忘待旦,亟弘生聚之略,每布寬卹之恩;而編戶未滋,遷徙尚有,輕去故鄉,豈其本志?資業殆闕,自返莫由,巢南之心,亦何能弭。今開元發歲,品物惟新,思俾黔黎,各安舊所。將使郡無曠土,邑靡游民,鷄犬相聞,桑柘交畛。凡天下之民,有流移他境,在天監十七年正月一日以前,可開恩半歲,悉聽還本,蠲課三年。其流寓過遠者,量加程日。若有不樂還者,即使著土籍為民,准舊課輸。若流移之後,本鄉無復居宅者,村司三老及餘親屬,即為詣縣,占請村內官地官宅,令相容受,使戀本者還有所託。凡坐為市埭諸職割盜衰減應被封籍者【[二四]「減」各本作「滅」。據文館詞林六七0、冊府元龜一九一改。割盜衰減,是割盜諸稅及稅收衰減之意。】,其田宅車牛,是民生之具,不得悉以沒入,皆優量分留,使得自止。其商賈富室,亦不得頓相兼併。遁叛之身,罪無輕重,並許首出,還復民伍。若有拘限,自還本役。並為條格,咸使知聞。」
○魏16江陽王継伝
 尋加侍中、驃騎大將軍、儀同三司,特進、領軍如故。

 ⑴《古詩十九首:行行重行行》に『胡馬は北風に依り、越鳥は南枝に巣くう(北生まれの馬は南にいても北風が吹くとこれに寄りすがり、南生まれの鳥は北にいても南に伸びる枝に巣を作る)』とある。
 ⑵江陽王継…字は世仁(仁世)。生年464、時に55歳。道武帝の昆孫で、南平王霄の第二子。元叉の父。娘は侯剛の子の妻。子が無いまま死んだ江陽王根の跡を継いだ。温和寛容な性格で長者と呼ばれたが、貪欲だった。孝文帝の時に撫冥鎮都大将→都督柔玄撫冥懐荒三鎮諸軍事・柔玄鎮大将とされた。のち左衛将軍・兼中領軍とされ、洛陽の留守を任された。のち平北将軍とされて平城を鎮守した。498年に高車酋帥の樹者が叛乱を起こすと都督北討諸軍事とされて討伐を命じられた。このとき戦わずして叛徒の多くを帰順させ、孝文帝に「江陽王は大任を任せるに足る」と激賞を受けた。宣武帝が即位すると青州刺史→恒州刺史→度支尚書とされたが、青州刺史の時に飢饉が起きた際、州民の娘を家僮の妻にしたり良民を下女にした事が問題視されて官爵を剥奪された。514年に徐揚の鎮守を任された。子の元叉の妻の姉の胡太妃が皇太后となると尚書とされ、もとの爵位への復帰を許された。間もなく侍中・領軍将軍とされ、更に特進・驃騎将軍を加えられた。517年⑵参照。
 ⑶孝明帝…元詡。生年510、時に9歳。在位515~。八代宣武帝の次子。母は胡充華。北魏九代皇帝。512年に太子に立てられた。515年、父が死ぬと于忠・崔光らによって皇帝に擁立されたが、幼いため母の胡太后の摂政を受けた。517年⑴参照。
 ⑶汝南王悦…元悦。孝文帝の第六子。母は羅夫人(叱羅夫人)。宣武帝の異母弟で、清河王懌の同母弟。仏典や史書を読むのを好んだ。503年に汝南王とされた。多くの不法行為を働き、つまらない者を近づけたため、516年、郎中令の陽固に強く諌められた。特進とされ、517年、中書監・儀同三司とされた。奇矯な振る舞いが多く、左道に入れ込み、自ら城外に出て素材を集めて仙薬を調合したり、酒肉・粟稲を断って麦飯だけを食べたりした。また、女色を遠ざけて男色を好み、妃妾を下女のように扱ってよく鞭打った。間もなく殺人の罪で免官となった。517年⑵参照。

┃秦州羌の乱
 この日、秦州の羌族が叛乱を起こした(この頃、秦州刺史を務めていた元修義は賄賂政治を行なっていた)。

○魏孝明紀
 秦州羌反。


┃幽州大飢
 これより前、宣武帝が崩御した時(515年)、〔長兼散騎侍郎・領左右・直長の〕趙邕は兼給事黄門とされ、間もなく太府卿とされた。のち、平北将軍・幽州刺史とされると(前任は崔休?)州民から搾取を行なった。

 この日、幽州にて大飢饉が起こり、三千七百九十九人が餓死した。また、正月から六月まで雨が降らなかった。北魏は刺史の趙邕に倉を開いて救済するよう命じた。

 ある時、邕は范陽の盧氏に結婚を申し込んだ。盧氏の父親は早くに亡くなっていたため、叔父が代わりに許可したが、母の陽氏は反対した。陽氏は盧氏を北平の実家に連れて帰り、家の中に隠して結婚から免れようとした。すると邕は叔父を拷問して〔盧氏の居場所を吐かせようとした。しかし叔父は口を割らず、〕死んでしまった。陽氏がこれを朝廷に訴えると、朝廷は中散大夫の孫景安に捜査を命じた。その結果、邕は死刑の判決が下されたが、たまたま大赦があり死を免ぜられた。ただ、なお官籍から除名するべきという意見が大勢を占めたため、再審が行なわれたが、当時廷尉を務めていた臨淮王彧は何年もの間判決を下すことができなかった

○魏孝明紀
 幽州大饑,民死者三千七百九十九人,詔刺史趙邕開倉賑恤。
○魏天象志月異
 十月癸卯,月暈昴、畢、觜、參、五車四星。甲辰,月暈畢右股、觜、參、五車三星、東井。占曰「天下饑,大赦」。神龜元年正月,幽州大饑,死者甚眾,開倉賑恤;又大赦天下。
○魏天象志星変
 十月,幽、冀、滄、瀛大饑。是月,月再暈畢、參、五車。占曰「饑,赦」。明年,幽州大饑,死者數千人,自正月不雨至六月。是歲,四夷反叛,兵大出,又赦改元。
○魏93趙邕伝
 世宗崩,邕兼給事黃門,俄轉太府卿。出除平北將軍、幽州刺史。在州貪縱。與范陽盧氏為婚,女父早亡,其叔許之,而母不從。母北平陽氏攜女至家藏避規免,邕乃拷掠陽叔,遂至於死。陽氏訴冤,臺遣中散大夫孫景安研檢事狀,邕坐處死,會赦得免,猶當除名。自理經年,臨淮王彧時為廷尉,久不斷決。

 ⑴趙邕…字は令和。自称南陽の人。祖父は趙嶽。父は趙怡。色白でくっきりとした髭と眉を備え、物事に明るく、謙虚で勤勉だった。少年の時に司空の李沖の小姓を務め、働きぶりを認められてその子どもたちと遊ぶ事を許された。太和年間に孝文帝の身辺に侍って世話をし、のち殿中監とされた。宣武帝が即位したのちも留任した。寵臣の趙修とは同姓を理由に結託はしたが、仲は非常に悪かった。のち殿中将軍とされたが、依然として殿中監を兼務した。父は長らく職に就けずにいたが、邕が寵用されるに至り荊州刺史や金紫光禄大夫とされた。帝が郊廟に出入りする際、常に奉車都尉とされ、轡を執って修と共に車に同乗した。人々は密かに邕と趙修を『二趙』と呼んだ。のち長兼散騎侍郎・領左右・直長とされ、宮中に出入りした。
 ⑵517年10月にも幽・冀・滄・瀛州にて大飢饉が発生している。このとき、北魏は長孫稚らを派遣し、倉を開いて穀物を配るなどして多くの人々を救うことに成功したという。
 ⑶554年の《魏書》完成頃、幽州の戸籍人口は『十四万五百三十六』人だったという。
 ⑷臨淮王彧…元の名は亮、字は仕明→文若。済南康王昌(三代太武帝系)の子。若年の頃から才能・学識に優れ、非常な名声を博した。崔光に「『黒頭三公』(若くして三公となる者)とはまさにこの人である」と絶賛された。安豊王延明・中山王熙と共に皇族の博古・名文家と評され、盧道将に 「三人の才能・学識に優劣は無いが、安豊・中山は済南(彧)の風流温雅さには敵わない」と評された。また、人々に「三王はみな清らかで美玉の極致のようであるが、済南の円方(完全無欠さ)には敵わない」と評された。立ち居振る舞いはゆったりとしていて話しぶりは流麗であり、王誦は彧に会うと必ず酔ったようになって疲れを忘れた。出仕して前軍将軍・中書侍郎とされた。ある時、郊廟歌の歌詞を上奏すると出来栄えを称賛された。のち給事黄門侍郎とされた。この時、上司の穆紹の父の穆亮の諱を避けるため、上表して改名を求めると、「仕明(彧)は風采に気品があり話しぶりは流麗であり、常に自らを荀文若(曹操の名軍師の荀彧)に比しているゆえ、以後は彧と名乗り、体と名が一致する美しさを取るが良い」との詔が下され、字も文若に改めた。のち祖父の爵位である臨淮王に戻ることを許された。また、長兼御史中尉とされたが、当然の事として執政の于忠に礼を述べに行かなかったため怒りを買い、罷免された。515年⑷参照。
 ⑸図らずも于忠の「臨淮は風流さは見るべきものがあるとはいえ、剛直な精神に欠けているので〔忖度無く弾劾を行なうべき〕中尉の任には堪えられぬ恐れがある」という言葉が真実になってしまったのである。

┃安成王秀の死
〔これより前、(517年7月18日)、梁が都督郢司霍三州諸軍事・安西将軍・郢州(江夏)刺史の安成王秀を使持節・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・鎮北将軍・寧蛮校尉・雍州(襄陽)刺史としていた。〕
 2月、癸巳(7日)、竟陵郡の石梵県(襄陽の東南に到った所で薨去した(享年44)。
 武帝はこれを聞くと非常に悼み悲しみ、皇子〔で宣毅将軍・領石頭戍軍事〕の南康王績に遺体を引き取りに行かせた。
 これより前、秀が郢州を出立した時、郢州民はこれを境外まで出て見送り、秀が病に倒れた事を聞くと快癒するよう神仏に祈りを捧げた。秀が亡くなると四州(のちに迎送とあるので建康までの道のりにある荊州・郢州・江州・揚州か? 秀がこれまで赴任した南徐州・江州・荊州・郢州という可能性もあるにはある)の民は裳(スカートの一種)を裂いて白帽を作り、哀哭して棺を迎え入れ見送った。雍州の蛮族は秀を出迎えに赴いたが、亡くなったのを聞くとその魂を祀り哭泣して去った。棺が都の建康に到ると、帝は使者を派して侍中・司空を追贈し、康と諡した。
 秀は容姿が立派で、朝会に出るたび百官の注目の的となった。また、優しく、喜びや怒りの感情を表に出さなかった。傍の者があるとき石を投げて秀が飼っていた白鳥を殺した事があった。国齋帥(王府の近衛長官)が処罰を求めると、秀は言った。
「どうして鳥の事で人を傷つけたりしようか。」
 都の建康にいた時、早朝の出勤前に料理人が料理を誤ってひっくり返してしまった事があったが、秀は彼を責めることなく車に乗って出勤し、とうとう朝食を摂らなかった。
 当時、諸王はみな謙虚に賢人と交友したが、建安王偉安成王秀の二王が特に才能のある者を好んだ。人々は二安(王と成王)が才能のある者を重んずるのを以て『四豪』(孟嘗君・平原君・信陵君・春申君。戦国時代に才能のある者を集めた公族たちのこと)になぞらえた。
 また、秀は学問に打ち込み、多くの書物を蒐集し、学士で平原の人の劉孝標を招いて《類苑》を編纂させた。これは完成前から早くも世に流布した。
 秀は武帝が即位する前は兄弟だったが、即位後に君臣の関係となると、血縁関係が遠い者や身分の低い者以上に小心翼翼として帝を畏れ敬ったので、帝は秀をますます評価するようになった。
 若年の時に母(呉氏)を亡くすと(12歳)、母の代わりに手厚く〔同母弟の〕始興王憺の面倒を見た。のち、憺は天監の初め(502年)より長期に亘って荊州刺史を務めると(~508年)、〔恩返しのため〕常に俸禄を折半して秀に贈った。秀はこれをありがたく受け取り、いくら多くても断る事は無かった。人々は兄弟の仲睦まじさを称賛した。
 秀のもと幕僚の夏侯亶ら(亶は516年に安西長史・江夏太守とされていた)は上表して墓碑を立てることを求め、許可された。当代の俊才のうち秀の屋敷に訪れた事のあった東海の王僧孺・呉郡の陸倕・彭城の劉孝綽・河東の裴子野はおのおの碑文の下書きを書いて採用される事を望んだが、どれも素晴らしい内容だったため、遂に四つの墓碑が立てられるに至った。これは前代未聞の事だった。

 甲辰(18日)、梁が天下に大赦を行なった。

 戊申(22日)、北魏に嚈噠(エフタル)・高句麗・勿吉(ツングース系の国。高句麗の東北にある)・吐谷渾・宕昌・疏勒(カシュガル)・久末陁・末久半(悉居半?)諸国の朝貢の使者が到着した(宕昌は517年2月以来。エフタル・高句麗・疏勒は517年4月以来。吐谷渾は517年9月以来。勿吉は517年10月以来)。

○資治通鑑
 二月,癸巳,安成康王秀卒。秀雖與上布衣昆弟,及為君臣,小心畏敬過於疏賤,上益以此賢之。秀與弟始興王憺尤相友愛,憺久為荊州刺史,常中分其祿以給秀【秀、憺皆吳太妃之子。齊和帝中興元年,憺督雍州,天監元年,進督荊州,五年,徵至都。荊州總西夏之寄,俸入優厚】,秀稱心受之,亦不辭多也。
○魏孝明紀
 二月戊申,嚈噠、高麗、勿吉、吐谷渾、宕昌、疏勒、久末陁、末久半諸國,並遣使朝獻。
○梁武帝紀
 二月癸巳,鎮北將軍、雍州刺史安成王秀薨。甲辰,大赦天下。
○梁22・南52安成康王秀伝
 十七年春,行至竟陵之石梵,薨,時年四十四。高祖聞之,甚痛悼焉。遣皇子南康王績緣道迎候。初,秀之西也,郢州民相送出境,聞其疾,百姓商賈咸為請命。既薨,四州民裂裳為白帽,哀哭以迎送之。雍州蠻迎秀,聞薨,祭哭而去。喪至京師,高祖使使冊贈侍中、司空,諡曰康。秀有容觀(美容儀),每〔在〕朝,百僚屬目。性仁恕,喜慍不形於色。左右嘗以石擲殺所養鵠,齋帥請治(按)其罪。秀曰:「吾豈以鳥傷人。」在京師,旦臨公事,厨人進食,誤而覆之,去而登車,竟朝不飯,亦不之誚也。〔時諸王並下士,建安、安成二王尤好人物,世以二安重士,方之「四豪」。〕精意術學,搜集經記,招學士平原劉孝標,使撰類苑,書未及畢,而已行於世。秀於高祖布衣昆弟,及為君臣,小心畏敬,過於疏賤者,高祖益以此賢之。少偏孤,於始興王憺尤篤。梁興,憺久為荊州刺史,自天監初,常以所得俸中分與秀,秀稱心受之,亦弗辭多也。昆弟之睦,時議歸之。故(佐)吏夏侯亶等表立墓碑,詔許焉。當世高才遊王門者,東海王僧孺、吳郡陸倕、彭城劉孝綽、河東裴子野,各製其文,〔欲擇用之,而咸稱實錄,遂四碑並建。〕古未之有也。世子機嗣。
○南52南平王恪伝
 世子恪字敬則,弘雅有風則,姿容端麗。位雍州刺史。年少未閑庶務,委之羣下,百姓每通一辭,數處輸錢,方得聞徹。賓客有江仲舉、蔡薳、王臺卿、庾仲容四人,俱被接遇,並有蓄積。故人間歌曰:「江千萬,蔡五百,王新車,庾大宅。」遂達武帝。帝接之曰:「主人憒憒不如客。」尋以廬陵王代為刺史。恪還奉見,武帝以人間語問之,恪大慚,不敢一言。後折節學問,所歷以善政稱。

 ⑴安成王秀…蕭秀。字は彦達。生年475、時に44歳。蕭順之の第七子。母は呉氏。梁の武帝(蕭衍)の異母弟。十二歳の時に母を亡くすと良く喪に服した。のち順之の側室で子が無かった陳氏に我が子のように育てられた。美男で、品行正しく落ち着きがあり、家族や親友にも正装して会った。南斉の時に著作佐郎→太子舍人とされた。蕭衍が挙兵し、501年に新林に到るとこれに合流し、輔国将軍とされた。南徐州が降ると冠軍長史・南東海太守とされて京口を鎮守した。建康が陥ちると都督南徐兗二州諸軍事・南徐州刺史とされ、荒れていた州を良く治め、飢饉が起きると私財を散じて非常に多くの人々を救った。梁が建国されると征虜将軍・安成郡王とされた。503年、領石頭戍事とされた。504年、右将軍とされた。506年、領軍・中書令とされた。507年、平南将軍・江州刺史とされた。508年、養母の陳太妃の死に遭ったが、政務を執るよう命じられた。間もなく都督荊湘雍益寧南北梁南北秦州九州諸軍事・平西将軍・荊州刺史とされた。間もなく安西将軍とされた。学校を建て、隠者を招いた。また、戸曹参軍の劉峻に《類苑》を編纂させた。北魏の豫州が梁に付くと朝廷の許可を待たずに援軍を送った。また、巴陵蛮を討伐し、沮水が氾濫すると二万斛の穀物を放出して州民を救った。512年、侍中・中衛将軍・領宗正卿・石頭戍事とされた。514年、都督郢司霍三州諸軍事・安西将軍・郢州刺史とされると善政を行なった。517年、都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・鎮北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史とされた。517年⑵参照。
 ⑵石梵…《読史方輿紀要》曰く、『黄州府(武昌の対岸)の西〔北〕二百四十里・漢陽府(郢州の対岸)の北九十里→黄陂県の西十三里(または北十五里)にある。石陽城ともいう。』三国魏18文聘伝には『文聘は夏侯尚と共に江陵を包囲した。この時、聘は別に沔口(江夏?)に駐屯するように命じられ、〔その道中〕石梵に宿営した』とある。
 ⑶梁の武帝…蕭衍。字は叔達。幼名は練児。生年464、時に55歳。梁の初代皇帝。在位502~。南斉の丹陽尹の蕭順之の第三子。母は張尚柔。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。517年⑴参照。
 ⑷南康王績…蕭績。字は世謹。幼名は四果。生年505(弟の続が504年生まれなので504?)、時に14歳(15歳?)。梁の武帝の第四子。母は董淑儀(或いは昭儀)。508年に南康郡王とされた。のち軽車将軍・領石頭戍軍事とされた。511年、仁威将軍・南徐州刺史とされると7歲の幼さで文書の改竄を見抜き、感嘆を受けた。517年、宣毅将軍・領石頭戍軍事とされた。517年⑴参照。
 ⑸建安王偉…蕭偉。生年476、時に43歳。蕭順之の第八子で、母は陳太妃。梁の武帝の異母弟。聡明で学問を好んだ。南斉に仕えて晋安(宝義)鎮北法曹行参軍→晋安驃騎府外兵参軍とされた。武帝が雍州にて挙兵する際襄陽に呼ばれて始興王憺と共に雍州の留守を任され、戦力が足りないなか魏興太守の裴師仁らを迎撃して大破した。のち荊州が危急に陥ると始興王憺を派遣してこれを救い、この功により雍州刺史とされた。梁が建国されると建安郡王とされた。505年、南徐州刺史とされた。506年、丹陽尹とされた。507年、都督揚南徐二州諸軍事・中権将軍・揚州刺史とされた。508年、病気を理由に解任を求め、侍中・中撫軍・知司徒事とされた。510年、護軍・石頭戍軍事→江州刺史とされた。512年、開府を加えられた。病気になって再び解任を求め、513年、撫軍将軍とされたが、病気を理由に辞退した。514年、左光禄大夫とされ、親信四十人を加えられた。516年、生母の陳太妃が病床に臥すと宏と共に付きっきりで看病を行ない、太妃が亡くなると五日に亘って水すら口に入れず死にかかった。516年⑵参照。
 ⑹劉孝標…劉峻。孝標は字。本名は法武。生年461、時に58歳。平原の人。父は劉宋の始興内史の劉珽。劉懐珍の従父弟。生後間もなく父を亡くした。468年に北魏が青州を陷とすと中山に拉致されたが、富豪の劉宝によって救われ、教育を受けた。のち平城に移住させられた。貧苦に負けず学問に励んだ。南斉の永明年間(483~493)に江南への帰還を果たし、その際に峻と改名し字を孝標とした。珍しい本があると聞くと必ず借りに行ったので崔慰祖に『書淫』と呼ばれた。この努力によって博識となり、非常な文才を有するようになった。明帝の時に蕭遥欣が豫州刺史となるとその府刑獄とされ、非常な礼遇を受けたが、間もなく遥欣が亡くなると久しくの間登用されなかった。梁が建国されると秘書省にある書物の校正を行なった。のち罪を犯して免官とされた。空気を読めず武帝に非常に嫌われ、任用されなくなった。のち安成王秀に招かれて《類苑》の編纂を行なったが、完成前に病気を理由に辞職し、紫巌山に家を建てて《山栖志》を著した。516年⑸参照。
 ⑺始興王憺…字は僧達。生年478、時に41歳。蕭順之の第十一子。母は呉太妃で、梁の武帝の異母弟、安成王秀の同母弟。真面目で謙虚な性格。帝が雍州にて挙兵した際、兄の蕭偉と共に留守を任され、荊州の確保に大きく貢献した。502年、荊州刺史とされると善政を行なった。508年に呼び戻され、509年、護軍将軍・領石頭戍事→中軍将軍・中書令→領衛尉卿→南兗州刺史とされた。510年、益州刺史とされ、北魏が侵攻してくるとこれを撃退した。515年正月、中撫将軍とされた。2月、都督荊湘雍寧南梁南北秦七州諸軍事・鎮右将軍・荊州刺史とされた。515年⑵参照。
 ⑻夏侯亶…字は世龍。夏侯詳の長子。南斉の時に崔慧景の乱の防衛に活躍し、驍騎将軍とされた。蕭衍が挙兵し父がこれに呼応すると宣徳皇后の令旨を携えて合流した。建康が陥ちると尚書吏部郎→侍中とされ、皇帝の印璽を捧げる役目を任された。502年、宣城太守とされた。間もなく散騎常侍・領右驍騎将軍とされた。507年、平西始興王長史・南郡太守とされた。508年に父が亡くなると辞職し、良く喪に服して遺産を全て弟たちに分け与えた。509年、信武将軍・司州刺史・領安陸太守とされた。喪が明けると豊城県公の爵位を継いだ。州では良く飴と鞭を使い分け、辺境の人々を悦服させた。513年、都官尚書とされた。のち給事中・右衛将軍・領豫州大中正とされた。516年、信武将軍・安西長史・江夏太守とされた。516年⑸参照。

┃神亀改元
 己酉(2月23日)、北魏が九龍殿の霊芝池にて亀を得た。北魏はこれを瑞兆とし、大赦を行なって年号を熙平から神亀に改めた。

○資治通鑑
 己酉,魏大赦,改元神龜。
○魏孝明紀
 己酉,詔以神龜表瑞,大赦改年。
○魏霊徴志亀
 肅宗神龜元年二月,獲龜於九龍殿靈芝池,大赦改元。

┃東益州の乱
 これより前、北魏は武興国(漢中の西北)を滅ぼし(506年)て武興鎮を設置し、のち東益州に改めていたが、鎮将の唐法楽が失政を行ない、次いで刺史となった杜纂も〔政治の才能はあったが〕辺境を統御する威略が欠けていた。
 この日、東益州の氐族が叛乱を起こした。
 纂はこの責任を取らされ、洛陽に呼び戻された。

○魏孝明紀
 東益州氐反。
○魏88杜纂伝
 肅宗初,拜征虜將軍、清河內史。…還,以本將軍除東益州刺史。無御邊威略,羣氐反叛。以失民和徵還。
○魏101氐伝
 以為武興鎮,復改鎮為東益州。前後鎮將唐法樂,刺史杜纂、邢豹,以威惠失衷,氐豪仇石柱等相率反叛。朝廷以西南為憂。正光中…。

 ⑴杜纂…字は栄孫。常山九門の人。清廉で慎ましい暮らしに安んじた。県令が亡くなった際私財を投じて埋葬して名を上げた。父が亡くなると良く喪に服した。のち孝廉に挙げられ、豫州司士とされると良く降民を撫納した。のち新野攻めに参加し、騎都尉とされた。寿春攻めの際には淮水一帯の慰労を任された。田益宗が帰順してくるとその安撫を任された。のち新野・南陽平定の功を以て井陘男とされ、絹五百疋を賜ったが、数日の内にこれを知人に分け与えて称賛を受けた。のち武都太守、正始年間(504~508)に漢陽太守とされると共に清廉な政治を行なって名を上げた。のち南秦州軍に先行して叛氐の招撫を行なった。帰還すると虎賁中郎将・領太倉令とされた。のち母が亡くなると辞職し、久しきののち再び太倉令とされた。間もなく陰陵戍主とされた。延昌年間(512~515)に洛陽にて飢饉が起こると都民の救済を任された。515年、孝明帝が即位すると征虜将軍・清河内史とされ、清廉で慈愛に満ちた政治を行なった。また、農業を奨励して励む者は賞し、怠ける者は罰した。

┃返答の使者派遣の可否
 これより前(517年12月)、柔然が北魏に俟斤(イルキン。族長の称号)の尉比建・紇奚勿六跋・鞏顧礼らを派遣していたが、彼らが持参した書状は対等の立場で書かれたもので、敬意を欠くものだった。
 この日、(517年12月以来)。孝明帝が顕陽殿にて顧礼ら二十人を殿下に集めて引見し、中書舍人の徐紇に詔の内容を伝えさせ、柔然の態度を責めた。
 北魏は前漢と匈奴の故事に倣い、〔兄弟の礼を以て〕書状に返答しようとした。すると大司農少卿の張倫が上表して言った。
「臣はこう聞いております。『いにしえの聖王は人民や土地を統治するに当たり、要服(遠方の地)と甸服(近郊の地)の区別を明らかにし、遠方を化外の地としました。ゆえに、《周礼》には『一見』の文があり、《尚書》には羈縻の事が書かれているのです。太祖道武帝)は優れた武勇と知略を以て天下の平定に邁進なされましたが、〔漠北を制する〕暇が無かったため、青二才(社崙)の跳梁を許す結果となりました。その後も中国にて多くの問題が起こったため、これにかかりきりとなり、夷狄は放置せざるを得なくなりました。高祖孝文帝)は天下の中心に都を建てて国運の興隆に努め、かつ雷のごとき武威と熊羆のごとき軍隊を以て南征に注力したため、北伐を行なう暇がありませんでした。昔、旧京(平城)にて狼煙が上がり、夷狄の使者が郊外にやってくると、主上は剣の柄に手をかけるだけで返書を送りませんでした。世宗宣武帝)は帷幄にてはかりごとを巡らし、万里の地を切り開くことに成功しました。この時、醜類(柔然)は使者を遣わし通好を求めてきましたが、主上は先帝の遺志を継ぎ、返書を送りませんでした。現在、今上陛下が統治に当たると、恩恵は道端の葦にまで及び、国は富み兵は強くなり、百官はおのおの職務に精励するに至りました。それなのに、どうして夷狄を憚って返書を送ろうとされているのでしょうか? 一体何を求めてこれを行なおうとなさっているのでしょうか? 昔日、蕭衍)が和平を求めてきた時、陛下はその誠意が充分では無いとして拒否なさったではありませんか(淮堰決壊の後の事か?)。それに、以前に先帝が夷狄を突き放したというのに、後になって陛下が通交なされるのは、高祖・世宗の遺志に反するものでは無いでしょうか?
 それに、夷狄は我が国の徳を慕って使者を遣わしておりますが、彼らは我らの対応を注視し、強腰であれば従いますが、弱腰であれば隙を見て侵攻してくる恐れがあります。これこそ春秋の言う『我を以て卜うなり(こちらの出方を窺って行動を決める)』(《左伝》宣公十二年)という物であります。また、『小人は近づけ難く』(《論語》陽夏)、『戎狄は親無く(親近の感情が無い)』(《左伝》襄公四年)、遠ざければ怨み、近づければ侮るものであり、しかもこれは〔一朝一夕に起こる事ではなく、〕長期に亘る積み重ねによって起こるのです。高祖・世宗はこれを知っていたので、夷狄が近づいてきても迎え入れず、離れても追わなかったのであります。不一(華夷不同?)の義はここにあります。もし夷狄が玉帛を捧げ、膝を屈して藩臣の礼を取ったのであれば、これに手厚い下賜品を与えても良いでしょう。しかし、〔夷狄が充分な礼を取らぬのに〕対等の尊重を以て優遇し、更に使者を交わし合うような関係にいたしますと、夷狄に侮りの心を生じさせる恐れがあり、我が国にとって何の利益も生まないように思います。たとえ使者に相応しい者を選び出し、酈生酈食其。前漢の説客。弁舌を以て斉を帰順させた)・終軍前漢の説客。弁舌を以て南越を帰順させた)のごとき弁舌をさせ、車の横木にもたれかかりながら斉を降し、冠の長い纓(ひも)を以て越王を繋ぐような事を期待しているからであったとしても、昔とは事情が異なりますので、上手くは行かないように思います。まして、夷狄に対等の優遇や引き出物を与えるなら尚更の事です。臣は非常に愚かではございますが、これに関しましては頑として譲る気はございません。
 もしどうしても使者を遣わしたいと仰るのなら、詔を天下に下して夷狄とは厳然たる上下関係がある事を示した上で、宰相に書かせた書状を送って帰順をほのめかすのが良いでしょう。もし夷狄が告諭に従ったなら、天子の威光は失われる事は無く、名声は天下を覆うことになるでしょう。もし従わなかったとしても、何の損もありません。それからおもむろに干戚の舞を舞ってこれを招き(舜が盾とまさかりを持って武舞を舞うと有苗族が帰服したという)、礼楽を以て教化を行なって懐き従わせるのが良いでしょう。もし頑迷なままで犬や羊のごとき者どもをけしかけて侵攻してくるならば、辛(辛武賢?)・李(李広?)のごとき将や衛青霍去病のごとき軍を率いて白雲と黄砂にまみれた辺境の地を平定して夷狄どもを掃討し、瀚海(北方にある大湖)のほとりにて馬に水を飲ませ、燕然山の上に石碑を立て(89年、後漢の竇憲が燕然山にて北匈奴を大破した時、班固に記念碑を作らせた)、都護と戊己校尉(ともに前漢が西域を抑えるために置いた官)を置けば、これまた陛下の優れたご功績・不世出の盛事となるでありましょう。もし武装を解いて民を安んじ、農業に務めて辺境を安寧にし、国を防衛したいと思し召しますなら、〔尚更〕戎夷と対等の関係を築いたりなどして規則・制度を汚す事などあってはなりません。このような事をいたしますと、人々の物笑いの種となり、醜聞を後世に残す事になります。昔、〔晋の〕文公が天子の礼を以て埋葬されることを望んで〔周の〕襄王に拒否され、荊()の荘王が鼎の軽重を問うて王孫満周の使者)に諌止されたのがそのいい例であります。故事を以て今と比べますに、陛下はこれを採らないのが良いでしょう。また、陛下は今まさに岷山・衡山・稽嶺(会稽山?)・蒼梧山に登って神々に礼拝し、〔堂々たる中国の君主となろうとしておられますのに、〕どうして却って夷狄の酋長と兄弟の関係を結び、主人と客が庭の両端に立って挨拶する(分庭抗礼。《荘子》漁父)ような対等の礼を取られようとなされるのでしょうか。これが果たして文命)の徳行を慕い、重華)の高風を訪ねる者の姿でありましょうか? 
 臣は返答使を遣わせば以上のような非常な損失があり、返答使を遣わさなければ以上のような非常な利益があると考えます。陛下がほんの少しでも愚臣の言に耳を傾けてくだされば幸いです。」
 朝廷はこれを聞き入れなかった。

 張倫は字を天念といい、上谷沮陽(燕州に属す。北京の西北)の人で、殿中尚書・広平簡公の張白沢の長子である。十余歲の時に宮廷に入って皇帝の傍に侍った。のち次第に昇進して護軍長史・員外常侍とされ、のち大司農少卿・燕州大中正とされた。

○資治通鑑
 魏主引見柔然使者,讓之以藩禮不備,議依漢待匈奴故事,遣使報之【漢宣帝待呼韓邪位在諸侯王上,蓋稱臣也。按張倫表諫與為昆弟,蓋用漢文、景故事】。司農少卿張倫上表,以為:「太祖經啟帝圖,日有不暇,遂令豎子遊魂一方【謂道武南略,社崙得以雄跨漠北】,亦由中國多虞,急諸華而緩夷狄也。高祖方事南轅,未遑北伐【謂孝文南都洛陽,用兵淮、漢,未暇伐柔然也】。世宗遵述遺志,虜使之來,受而弗答。〔見百四十六卷六年。〕以為大明臨御,國富兵強,抗敵之禮,何憚而為之,何求而行之!今虜雖慕德而來,亦欲觀我強弱;若使王人銜命虜庭,與為昆弟,恐非祖宗之意也。事不獲已,應為制詔,示以上下之儀,命宰臣致書,諭以歸順之道,觀其從違,徐以恩威進退之,則王者之體正矣。豈可以戎狄兼并,〔謂伏跋新破高車及滅鄰國之叛者也。〕而遽虧典禮乎!」不從。倫,白澤之子也。〔張白澤見一百三十四卷宋順帝昇明元年。〕
○魏孝明紀
 蠕蠕國遣使朝貢。
○魏24張倫伝
 長子倫,字天念。年十餘歲,入侍左右。稍遷護軍長史、員外常侍,轉大司農少卿、燕州大中正。熙平中,蠕蠕主醜奴遣使來朝,抗敵國之書,不修臣敬。朝議將依漢答匈奴故事,遣使報之。倫表曰:
 臣聞古之聖王,疆理物土,辨章要甸,荒遐之俗,政所不及。故禮有壹見之文,書著羈縻之事。太祖以神武之姿,聖明之略,經略帝圖,日有不暇,遂令竪子遊魂一方,亦由中國多虞,急諸華而緩夷狄也。高祖光宅土中,業隆卜世,赫雷霆之威,振熊羆之旅,方役南轅,未遑北伐。昔舊京烽起,虜使在郊,主上按劍,璽書不出。世宗運籌帷幄,開境揚旌,衣裳所及,舟車萬里。于時醜類款關,上亦述尊遺志。今大明臨朝,澤及行葦,國富兵強,能言率職。何憚而為之,何求而行此?往日蕭衍通敬求和,以誠肅未純,抑而不許。先帝棄戎於前,陛下交夷於後,無乃上乖高祖之心,下違世宗之意?
 且虜雖慕德,亦來觀我,懼之以強,儻即歸附,示之以弱,窺覦或起,春秋所謂「以我卜也」。又小人難近,夷狄無親,疏之則怨,狎之則侮,其所由來久矣。是以高祖、世宗知其若此,來既莫逆,去又不追。不一之義,於是乎在。必其委贄玉帛之辰,屈膝蕃方之禮,則可豐其勞賄,籍以珍物。至於王人遠役,銜命虜庭,優以匹敵之尊,加之相望之寵,恐徒生虜慢,無益聖朝。假令選眾而舉,使乎稱職,資酈生之辯,騁終軍之辭,憑軾下齊,長纓繫越。苟異曩時,猶為不願,而況極之以隆崇,申之以宴好,臣雖下愚,輒敢固執。
 若事不獲已,應頒制詔,示其上下之儀,宰臣致書,諷以歸順之道。若聽受忠誨,明我話言,則萬乘之盛不失位於域中,天子之聲必籠罩於無外。脫或未從,焉能損益。徐舞干戚以招之,敷文德而懷遠。如迷心不已,或肆犬羊,則當命辛李之將,勒衞霍之師,蕩定雲沙,掃清逋孽,飲馬瀚海之濱,鏤石燕然之上,開都護,置戊己,斯亦陛下之高功,不世之盛事。如思按甲養民,務農安邊之術,經國之防,豈可以戎夷兼并,而遽虧典制。將取笑於當時,貽醜於來葉。昔文公請隧,襄后有言;荊莊問鼎,王孫是抑。以古方今,竊為陛下不取。又陛下方欲禮神岷瀆,致禮衡山,登稽嶺,窺蒼梧,而反與夷虜之君,酋渠之長,結昆弟之忻,抗分庭之義,將何以瞰文命之遐景,迹重華之高風者哉?臣以為報使甚失如彼,不報甚得如此。願留須臾之聽,察愚臣之言。
 不從。
○魏103蠕蠕伝
 神龜元年二月,肅宗臨顯陽殿,引顧禮等二十人於殿下,遣中書舍人徐紇宣詔,讓以蠕蠕藩禮不備之意。

 ⑴《周礼》秋官司寇曰く、『邦畿方千里。其外方五百里謂之侯服,歲壹見,其貢祀物。又其外方五百里謂之甸服,二歲壹見,其貢嬪物。又其外方五百里謂之男服,三歲壹見,其貢器物。又其外方五百里謂之采服,四歲壹見,其貢服物。又其外方五百里謂之衛服,五歲壹見,其貢材物。又其外方五百里謂之要服,六歲壹見,其貢貨物。九州之外謂之蕃國,世壹見,各以其所貴寶為摯。』

┃能吏・徐紇
 徐紇は字を武伯といい、楽安博昌(青州の北)の人である。寒門の出自であったが、若くして学問を好み、論理学に造詣が深く、素晴らしい文章を書いて非常な賞賛を受けた。孝廉に選ばれると提出した意見書が孝文帝の目に留まり、主書(文書管理官)に抜擢された。宣武帝の初めに中書舍人とされた。このとき紇は趙修宣武帝の初期の寵臣)におもねって通直散騎侍郎に昇った。しかし修が誅殺されると一味と目されて連座に遭い、西辺の枹罕(河州)に流罪となった。しかし紇は服役の身となっても気概を失わず、労役逃れの者や逃亡兵など五人を捕らえたため流刑を免じられ、朝廷に復帰することができた。久しくののち、再び中書舍人とされた。太傅の清河王懌は紇に文書の事を掌らせた。

 乙卯(29日)、梁が宣毅将軍・領石頭戍軍事の南康王績を使持節・都督南北兗〔北?〕徐青冀五州諸軍事・南兗州刺史とした。


○梁武帝紀
 乙卯,以領石頭戍事南康王績為南兗州刺史。

○魏93徐紇伝
 徐紇,字武伯,樂安博昌人也。家世寒微。紇少好學,有名理,頗以文詞見稱。察孝廉,對策上第,高祖拔為主書。世宗初,除中書舍人。諂附趙脩,遷通直散騎侍郎。及脩誅,坐黨徙枹罕。雖在徒役,志氣不撓。故事,捉逃役流兵五人,流者聽免,紇以此得還。久之,復除中書舍人。太傅、清河王懌又以文翰待之。
○梁29南康簡王績伝
 宣毅將軍、領石頭戍軍事。十七年,出為使持節、都督南北兗徐青冀五州諸軍事、南兗州刺史,在州著稱。

 ⑴清河王懌…元懌。字は宣仁。生年487、時に32歳。孝文帝の第四子。母は羅夫人(叱羅夫人)。宣武帝の異母弟で、孝明帝の叔父。汝南王悦の同母兄。幼い頃から頭脳明晰・容姿端麗で孝文帝に可愛がられた。読書家で文才に優れ、議論を得意とし、寛容で感情が一定していた。499年に宣武帝が即位すると侍中・尚書僕射とされた。職務に就くと政治の才能を遺憾なく発揮し、優れた決断力を示した。帝が高肇に専権を振るわせると帝を諌めた。512年に司空とされた。515年、司徒→太傅・領太尉とされた。のち于忠・崔光を弾劾した。劉懋の風雅さを愛し、懋が517年に亡くなるとその死を悼んだ。516年⑸参照。
 ⑵南康王績…蕭績。字は世謹。幼名は四果。生年505(弟の続が504年生まれなので504?)、時に14歳(15歳?)。梁の武帝の第四子。母は董淑儀(或いは昭儀)。508年に南康郡王とされた。のち軽車将軍・領石頭戍軍事とされた。511年、仁威将軍・南徐州刺史とされると7歲の幼さで文書の改竄を見抜き、感嘆を受けた。517年、宣毅将軍・領石頭戍軍事とされた。517年⑴参照。

┃于忠の死
 3月甲申(? 庚申なら5日)、老人星(カノープス。吉星)が現れた。


 辛酉(6日)、北魏が尚書右僕射〔・霊寿県公〕の于忠を儀同三司とした。しかし、忠は病床に臥していたためまだ受けずにいた。

 この時、忠は裴植・郭祚の怨霊を見、自分が病気になったのは三年前に殺したこの二人の祟りによるものだと考えた。忠はこれを以て死から逃れられない事を悟り、上表して言った。
「先帝(宣武帝)は臣父子(于烈・于忠)の矮小な誠意を高く評価なさり、かつ臣の家が代々国のために尽くしてきた事を良くご存じであられたため、この心がけを伸ばすのに婚姻を以てし(于烈の弟の于勁の娘を皇后とした事を指す)、重んずるのに爵禄を以てし(于烈の爵位を侯に進め、三百戸を加増した事を指す)、結果、官位は三公に次ぐまで、秩禄は九卿に等しくなるまでに至りました。のち、陛下が即位し、百官を統べられると、臣は再び恐れ多くも宮中の警護を任されました。ただ、朝廷内外が落ち着いたのはまことに社稷の神霊のご加護と人民の努力の賜物によるものであって、臣の力によるものではありませんでした。しかるに、英明なる陛下と慈しみ深い皇太后殿下は臣をお見捨てになることなく、再び朝廷内外で非常な寵用をなさり、出でては両河の地(レ状の黄河に挟まれた地。河北。ここでは冀州)の長官を任せ、入っては国政に参与する事(尚書右僕射)をお許しになりました。ただ、これは全く臣の身の丈に合わぬ物であり、臣は謹んでなんとかこれに当たろうとしましたが、やはりどうすることも出来ず、遂に病を発するに至りました。病気は下痢で、去年の秋から今に至るまで治ることなく、あらゆる薬を服用しても病状は日に日に重くなり、快方に向かうことはありませんでした。今年に入ると病状は更に悪化して呼吸も弱々しくなり、快復するのは非常に難しくなりました。大恩に未だ報いる事ができずに〔このような事になってしまい、〕ただただ枕を濡らすばかりであります。臣は幸が薄く男子に恵まれず、死んだのちに跡を継ぐ者がおりません。余命いくばくも無くなった今、かねてからの願いを謹んで申し上げます。臣は先に今は亡き第四弟の第二子で司徒掾の于永超を引き取って養育しておりましたが、この甥の行く末が案じられてなりません。どうか永超を跡継ぎとし、爵位を継がせる事をお許しください。」
 胡太后は令を下して言った。
于忠の上表はかくの如しである。忠の忠誠と勲功は評価されるべきものであり、跡継ぎがいないのにも同情すべきである。末期の願いを聞き入れないのは心苦しい。そこで今特別にその願いを聞き入れ、その殊勲を顕彰する事とする。」

 丙寅(11日)、梁が建安郡の土地が痩せている(東南の山がちな土地にある)事を以て、建安王偉の爵号を改めて南平郡王とし(南平は江陵の対岸の平野部にある)、戸数はそのままとした。

 辛巳(26日)于忠が逝去した(享年57)。
 朝廷は東園秘器(皇室・高官用の棺材)・朝服一式・衣一式・銭二十万・布七百疋・蠟三百斤を与え、侍中・司空公を追贈した。このとき、担当官が上奏して言った。
「太常少卿の元端は、忠が剛直・乱暴、愚かで殺人を好んでいたのを以て、諡法に『剛直な者を武という』『権力を笠に着て自分勝手にふるまう者を醜という』とある事から、武醜公と諡すべきであると言い、太常卿の元修義は、忠が心を尽くして君主に仕え、悪人を排除したのを以て、諡法に『偽りを除き真に安んずる者を武という』『日夜職務に勤しむ者を敬という』とある事から武敬公と諡すべきだと言って、意見が異なっております。」
 太后は令を下して言った。
「正卿(元修義)の意見に従うべきである。」


 于永超は名を翻といった。爵位(霊寿県公)を継いだが、間もなく逝去した。子の于世衡が跡を継いだ。

 元端生年493、時に26歳高陽王雍の庶長子で、字を宣雅という。美男で大の読書家だった。宣武帝の時に出仕して散騎侍郎とされ、孝明帝が即位すると通直散騎常侍・鴻臚少卿とされた。のち太常少卿とされ、常侍はそのままとされた。


 また、代わりに太常卿の游肇を尚書右僕射とした(詳細な時期は不明)。肇は固辞したが聞き入れられなかった。

 肇は事務を処理する際決断は遅かった〔が、それは慎重ゆえの事で〕、担当官が決裁を求めてくると繰り返し議論し、分からない時は再三に亘って議論し、完全に納得してからようやく決裁した。また、どんな権力者であっても私的な請託は決して受けなかった。人々はその品行方正さに感服した。



○魏孝明紀
 三月辛酉,以尚書右僕射于忠為儀同三司。辛巳,儀同三司、尚書右僕射于忠薨。
○梁武帝紀
 三月甲申,老人星見。丙申(寅),改封建安王偉為南平王。
○魏21元端伝
 高陽王雍…嫡子泰…泰兄端,字宣雅。美容貌,頗涉書史。起家散騎侍郎。累遷通直常侍,鴻臚、太常少卿,散騎常侍。
○元公墓誌銘
 魏故使持節儀同三司都督相州諸軍事車騎大將軍相州刺史元公墓誌銘。君諱端,字宣雅,河南洛陽人也。其先道武皇帝之胤,獻文皇帝之孫,丞相高陽王之長子。…及五典六經之籍,國策子集之書,一覽則執其歸,再聞則悟其致。所以遠邇服其風流,朝野欽其意氣。至如孝踰江夏,信重黃金,百練不銷,九言尅順,固自幼而老成,形於岐嶷矣。宣武皇帝訪舉皇枝,以華鳳閣,召君爲散騎侍郎。孝明皇帝初祚萬國,推賢閒彥,耀君爲通直散騎常侍鴻臚少卿。以在棘瑜名,清風遠扇,轉除太常卿,常侍如故。莅之撫誨,禮樂翔穆,瑤響遐著,聲聞海嶽。

○魏31于忠伝
 神龜元年三月,復儀同三司,疾病未拜,見裴郭為祟。忠自知必死,表曰:「先帝錄臣父子一介之誠,昭臣家世奉公之節,故申之以婚姻,重之以爵祿,至乃位亞三槐,秩班九命。自大明利見之始,百官總己之初,臣復得猥攝禁戎,緝寧內外,斯誠社稷之靈,兆民之福,臣何力之有焉。但陛下以叡明御宇,皇太后以聖善臨朝,衽席不遺,簪屨弗棄,復乃寵窮出內,榮遍宮闈,外牧兩河,入參百揆。顧服知妖,省躬識戾。而臣將慎靡方,致茲痾疚。自去秋苦痢,纏綿迄今,藥石備嘗,日增無損。又今年已來,力候轉惡,微喘緒息,振復良難。鴻慈未酬,伏枕涕咽。臣薄福無男,遺體莫嗣,貪及餘生,謹陳宿抱。臣先養亡第四弟第二子司徒掾永超為子,猶子之念實切於心,乞立為嫡,傳此山河。」靈太后令曰:「于忠表如此。既誠勳宜錄,又無子可矜。臨危所祈,不容致奪,可特聽如請,以彰殊效。」忠薨,年五十七。給東園祕器、朝服一具、衣一襲、錢二十萬、布七百匹、蠟三百斤,贈侍中、司空公。有司奏:「太常少卿元端議,忠剛直猛暴,專戇好殺,案諡法剛強理直曰『武』,怙威肆行曰『醜』,宜諡武醜公。太常卿元脩義議,忠盡心奉上,剪除凶逆,依諡法除偽寧真曰『武』,夙夜恭事曰『敬』,諡武敬公。二卿不同。」事奏,靈太后令曰:「可依正卿議。」
 …永超名翻,襲爵。尋卒。子世衡,襲。
○魏55游肇伝
 遷尚書右僕射,固辭,詔不許。肇於吏事,斷決不速。主者諮呈,反覆論叙,有時不曉,至於再三,必窮其理,然後下筆,雖寵勢干請,終無回撓。方正之操,時人服之。
○魏64郭祚伝
 祚死後三歲而于忠死,咸以祚為祟。
○梁22南平元襄王偉伝
 十七年,高祖以建安土瘠,改封南平郡王,邑戶如故。遷侍中、左光祿大夫、開府儀同三司。

 ⑴于忠…字は思賢で、本名は千年。本姓は万紐于。生年462、時に57歳。領軍将軍・聊城侯の于烈の子。出仕して侍御中散とされた。このとき馮太后が摂政を行なっており、侍臣の多くが些細なことで処罰されていたが、忠は実直・寡黙であったため最後まで処罰される事は無かった。のち登の名を賜った。宣武帝が即位すると左右郎将・領直寝とされ、咸陽王禧が乱を企てた際、都の外にいた帝がどこに行けばいいか逡巡すると、領軍の父が守る皇宮なら大丈夫だと進言して無事帰還させた。間もなく帝に忠の名を与えられた。北海王詳や高肇に硬骨さを忌まれた。硬骨さをのち魏郡開国公・兼武衛将軍とされたが辞退し、代わりに太府卿とされた。505年秋、西道大使とされて刺史・鎮将の汚職を摘発した。のち相州刺史→衛尉卿→定州刺史→衛尉卿・領左衛将軍とされた。512年、都官尚書・領左衛とされた。宴会の際に警護の才がある事を以て帝に剣と杖を賜り、自衛に用いるよう言われた。のち侍中・領軍将軍とされた。515年、帝が崩御すると太子詡を擁立して皇帝とし、更にその生母の胡充華を保護し、権臣の高肇を誅殺するなどして権勢を比類無い物とし、車騎大将軍・常山郡公→領崇訓衛尉→尚書令とされた。嫉妬心が強く、自分より優れた者とは付き合わず、ただ直閤将軍の章初瓌、千牛備身の楊保元の二人のみと断金の交わりを結んだ。胡充華が太后となって摂政を始めると侍中・領軍・崇訓衛尉の職を解かれ、ただ儀同・尚書令のみとされた。間もなく都督冀定瀛三州諸軍事・征北大将軍・冀州刺史とされて朝廷から追い出された。間もなく常山郡公を剥奪された。のち名誉を回復され、霊寿県公とされた。517年、尚書右僕射とされた。517年⑵参照。
 ⑵裴植…字は文遠。466~515。名門の河東裴氏の出。南斉の豫州刺史の裴叔業の兄の裴叔宝の子。学問を好み、経書・史書を読破し、特に仏典に通じ、善談理義を良く論じることができた。南斉に仕え、戦功を以て長水校尉とされた。のち叔業に従って寿春に赴き、500年に叔業が北魏に帰順しその最中に亡くなると跡を継いで州を監督し、北魏軍を城内に引き入れた。のち兗州刺史・崇義県侯とされ、次いで大鴻臚卿とされた。のち、長子の裴昕が南朝に寝返ると死罪を求刑されたが過去の帰順の功により不問とされた。のち瀛州刺史→大鴻臚卿→度支尚書・金紫光禄大夫とされた。尊大で人を見下し、夷狄を嫌って「華人(中国人)と夷人(異民族)は同類ではありませぬ。夷人は百代に亘って官職に就けてはなりません」と上奏して権臣で鮮卑族の于忠らの怒りを買った。515年、左僕射の郭祚と共に忠の排斥を画策したが、忠に先手を打たれ、皇帝の廃立を企てたという罪をでっち上げられて処刑された。515年⑶参照。
 ⑶郭祚_字は季祐。449~515。名門の太原郭氏の出。曹魏の郭淮の弟の郭亮の後裔。祖父は徐州刺史の郭逸で、崔浩に娘を嫁がせた事で出世した。父の郭洪之は450年に崔浩が誅殺されると連座して殺された。祚は逃亡して免れるを得た。早くから孤児となって貧しい生活を送り、容貌も立派では無かったので郷里の人から存在を知られる事は無かった。書物を読み漁り、崔浩の書法を学び、文才に優れた。のち州主簿とされ、刺史に才能を認められて書記とされた。また、親族の王希から支援を受けた事で再び富裕となった。孝文帝の代に秀才に挙げられて中書博士→中書侍郎→尚書左丞・長兼給事黄門侍郎とされると職務に精励し、帝に非常に評価された。のち正黄門・東光子とされ、黄門の宋弁と共に帝を良く輔佐した。のち兼侍中・尚書・伯とされ、宣武帝が即位すると吏部尚書とされた。吟味を重ねたのち任命したため仕事は非常に遅かったが、採用した人物はみな妥当な者たちばかりだった。のち瀛州刺史→青州刺史とされると決断は遅いが慈愛に満ちた政治を行なった。のち侍中→尚書右僕射・領太子少師とされた。このとき宣武帝の寵臣の趙桃弓・王顕におもねった。のち左僕射とされた。梁が浮山堰を築き始めると、515年、重鎮の将軍に大軍を率いさせて討伐するよう進言し、聞き入れられた。間もなく度支尚書の裴植と共に権臣の于忠の排斥を画策したが、忠に先手を打たれ、皇帝の廃立を企てたという罪をでっち上げられて処刑された。515年⑶参照。
 ⑷醜と諡された者は曹魏の呉質・西晋の王愷がいる。質は曹丕に泣いて曹操を見送れと言った人物。寒門の出だったが才能と学識によって曹丕に寵用された。ただ性格に難があり、郷里にいつまで経っても評価されないと「郷里に小便をかけてやりたい」と言い、曹真が太っているのを見るとネタにして喧嘩沙汰になった。愷は王朗の孫で、司馬昭の妻の王元姫の弟。石崇と贅沢合戦をした事で知られる。外戚である事を笠に着てやりたい放題にふるまった。
 ⑸元修義…字は寿安。景穆太子の孫で、汝陰王天賜(文成帝の弟)の第五子。兄の子に元慶和がいる。読書家で非常に文才があり、孝文帝の知る所となった。人々に「皇族のうち意気軒昂な者は、寿安(元修義)と思若(元欽)である」と謳われた。出仕して元士(秩七品)とされ、のち斉州刺史とされた。 このとき斉州では何度も刺史が亡くなっていたので固辞したが、結局州庁を東城に移して不吉を避けることで妥協した。赴任すると寛容な政治を行ない、4年間で一人も殺す事が無かったので州民に慕われた。のち秦州刺史とされると打って変わって賄賂政治を行なった。孝明帝が即位すると叛逆して殺された咸陽王禧・京兆王愉らを赦すよう求めたが胡太后に「それはこちらが決めることで刺史がとやかく言う事ではない」と咎められた。517年⑵参照。
 ⑹游肇…字は伯始。生年452、時に67歳。大鴻臚の游明根の子。孝文帝に名を与えられた。大の読書家。景明年間(500~504)の末に黄門侍郎とされ、のち廷尉卿・兼御史中尉・黄門侍郎とされた。高肇が権勢を振るった時、改名するよう迫られたが孝文帝に賜った名だとして拒否し、宣武帝に硬骨さを褒め称えられた。孝明帝の時(515~)に中書令→相州刺史とされ、善政を行なった。のち侯剛の進言により朝廷に呼び戻され太常卿とされた。516年⑴参照。

┃南秦州氐の乱
 この日、北魏の南秦州の氐族が叛乱を起こした。北魏は龍驤将軍の崔襲を持節とし、説得に赴かせた。
 襲は有能な将軍の一人だが、事績が伝わっておらず、詳細は不明である。

 また、吐谷渾が朝貢してきた(2月以来)。

○魏孝明紀
 南秦州氐反,遣龍驤將軍崔襲持節喻之。吐谷渾國遣使朝貢。
○魏73崔延伯伝
 崔襲、…俱為將帥,並有攻討之名,而事迹不存,無以編錄。然未若康生、大眼、延伯尤著也。


 518年⑵に続く
[北魏:熙平二年 梁:天監十六年]


┃人民救済
 春、正月、辛未(9日)、梁の武帝時に54歳が自ら南郊〔にて天〕を祀り、詔を下して言った。
「朕は即位してより世が良く治まるよう心がけてきたが、未だに政道を清明にできず、早朝から政務に励んできたものの、早くも新たな星紀(十二年)に移る有り様となってしまった。現在、太皡(春の神)が陰陽の気を司り、句芒(春の神)が季節を掌る時に当たって、朕は南郊にて祭祀を行なった。そこで今、天からの祝福を世に広めることに努めたいと思う。特に貧困な家庭には、今年の三調(調粟〈租〉・調帛〈調〉・雑調〈庸〉。穀物・絹・労働力)の徴収をしないようにせよ。農地を持たない者には、各地で適当な量を算出して農地を支給するようにせよ。子どもを産んだ家庭は格で定められている通りに〔その年の〕租税・労役を免除せよ。自立できない孤児・老人・寡男・寡婦には救済をせよ。また、これを四方に周知せよ。諸州郡県は随時訴訟を処理し、不当に投獄したり控訴を長らく聞き入れなかったりすることの無いようにせよ。全て自分が取り扱った事件のごとく考えて真摯に解決に当たるように。」

○梁武帝紀
 十六年春正月辛未,輿駕親祠南郊,詔曰:「朕當扆思治,政道未明,昧旦劬勞,亟移星紀。今太皡御氣,句芒首節,升中就陽,禋敬克展,務承天休,布茲和澤。尤貧之家,勿收今年三調。其無田業者,所在量宜賦給。若民有產子,即依格優蠲。孤老鰥寡不能自存,咸加賑卹。班下四方。諸州郡縣,時理獄訟,勿使寃滯,並若親覽。」

 ⑴梁の武帝…蕭衍。字は叔達。幼名は練児。生年464、時に54歳。梁の初代皇帝。在位502~。南斉の丹陽尹の蕭順之の第三子。母は張尚柔。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。516年⑸参照。
 ⑵昔、後漢の章帝が元和二年正月に胎養令を下し、『令に『子を産んだ者は〔その年の〕租税・徭役を免除し、更に筭(人頭税。7歳から14歳までは二十銭、15歳から56歳までは百二十銭)を三年間免除する』とあるが、今、更に妊娠した者に養育するための穀物を三斛与える。また、その夫も〔その年の〕租税・徭役を免除し、更に筭を一年間免除する事とする』とした事がある。

┃大乗賊残党蜂起

 この月(正月、大乗賊(515年⑶参照)の残党が再び集結し、鎮北将軍・瀛州(今の北京の南四百十里)刺史・襄楽県男の宇文福が守る瀛州城に突入した。この時、福の子で員外散騎常侍の宇文延は、父が老齢である事を以て洛陽から瀛州まで付いてきていた。大乗賊がやってくると延は家奴を率いて戦って数人の死者を出し、自らも重傷を負いつつも賊をやや撃退する事に成功した。すると賊は書房に火を放った。この時、福はその中にいた。延はこれを知るや躊躇無く火の中に突入し、福を抱きかかえて外に飛び出した。延の体は焼けただれ、髪は全て燃えかすになった。それからまた兵を率いて賊と何度も戦うと、賊はたまらず散り散りになって逃走した。人々は延を称賛した。


 延は字を慶寿という。逞しい体つきをしていて、眉目秀麗だった。永平年間(508~512)に出仕して奉朝請とされ、のち直後(近衛官)・員外散騎常侍とされた。


 甲戌(12日)、北魏が大赦を行なった。
 戊子(26日)、勿吉国(ツングース系の国。高句麗の東北にある)の朝貢の使者が北魏に到着した(515年10月以来)。
 庚寅(28日)、大使を派遣して四方を巡察させ、民に苦しんでいる事が無いか尋ね、孤児や未亡人の生活を支援し、才能のある者を昇進させ無い者を降格させた。

○資治通鑑
 魏大乘餘賊復相聚【沙門法慶之餘黨也】,突入瀛州,刺史宇文福之子員外散騎侍郎延帥奴客拒之。賊燒齋閤,延突火抱福出外,肌髮皆焦,勒眾苦戰,賊遂散走,追討,平之。甲戌,魏大赦。
○魏孝明紀
 二年春正月,大乘餘賊復相聚結,攻瀛州。刺史宇文福討平之。甲戌,大赦天下。戊子,勿吉國遣使朝貢。庚寅,詔遣大使巡行四方,問疾苦,恤孤寡,黜陟幽明。

○魏44宇文延伝
 善弟延,字慶壽,體貌魁岸,眉目疎朗。永平中,釋褐奉朝請,直後、員外散騎常侍。以父老,詔聽隨侍在瀛州。屬大乘妖黨突入州城,延率奴客戰,死者數人,身被重創,賊乃小退,而縱火燒齋閣。福時在內,延突火而入,抱福出外,支體灼爛,髮盡為燼。於是勒眾與賊苦戰,賊乃散走。以此見稱。


 ⑴宇文福…匈奴の南単于の遠戚で、代々部落の酋長を務めた家の出。祖父は後燕の遼東公→北魏の第一客。勇猛果断で膂力に優れた。北魏に仕えて新昌侯とされた。のち北征都将とされると柔然の別部を大破した。帰還すると都牧給事とされ、493年に孝文帝が洛陽遷都を行なうと牧場に適した地の選定を任された。のち平城から洛陽に家畜を損耗無く移す事に成功し、帝の称賛を受けた。豫州征伐の際には西道都将とされ、精騎一千を率いて殿軍を務めた。のち兼武衛将軍とされた。498年の南討の際には前軍を務め、帝に整然と指揮ぶりを称賛された。南斉が援軍を送ってくると高車・羽林の兵五百騎を率いてその退路を断ち、大破した。この功により昌黎伯・正武衛とされた。間もなく北征都将軍とされて高車を討ったが大敗し官爵を剥奪された。500年頃復帰して南征統軍とされると都督の彭城王勰に建安が要地である事を説いてこれを攻め陥とした。この功により襄楽県男・太僕少卿とされた。506年、梁が侵攻してくると征虜将軍とされ、三関より出撃して司州を攻め、千余人を捕らえて帰った。また、行豫州事とされ、東豫州刺史の田益宗と共に蛮族を鎮撫した。帰還すると光禄大夫→太僕卿とされた。延昌年間(512~515)に領左衛将軍・都官尚書・安東将軍・営州大中正とされた。516年、鎮北将軍・瀛州刺史とされた。職務に忠実・清廉で、官吏を良く引き締め、民との約束は破らなかったため非常な声誉を得た。516年⑸参照。


┃戦功詐取の風潮
 北魏は孝明帝時に8歳の世になると、政道が次第に衰え、多くの者が戦功をでっち上げるようになっていた。尚書左丞の盧同が吏部にある勲書(戦功が記録されている帳簿)を調査して検証したところ、戦功を偽って昇進した者が三百余人もいる事が判明した。同はそこで上表して言った。
「拙くも吏部の勲簿を調査しました所、記載されている戦功の多くが改竄されている事が分かりました。また、中兵曹にある戦功申告書も調べましたところ、こちらも間違いだらけである事が分かりました。臣はそこで今とりあえず罪人三百余人を摘発いたしましたが、まだ露見していない者の数は、ややもすると千の桁に上ると思われます。愚考いたしますに、その罪は恩赦するにしても、査定だけはしておくべきでありましょう。どうか都令史と令僕省事一人ずつに吏部・中兵二局にある勲簿を全て集めさせ、申告書と照らし合わさせますよう。もし戦功と昇進を一致させたいと思し召しますなら、黄素(白絹を防虫対策で黄色く染めたもの。改竄しにくい)に楷書(しっかり書かれているので改竄しにくい)で戦功の詳細を大書し、昇進の級数を明記し、その上に本曹(吏部・中兵)の尚書の朱印を押させるのが良いでしょう。その写しを二通作り、一通を吏部に、一通を兵局に置き、申告書と一緒に保管させます。さすれば上手く行けば改竄されるのを防ぐことができ、最低でもすり替えを防ぐ事ができます。
 従来は戦功申告書を提出する際、ただ姓名だけを併記し、属籍を記載しなかったため、〔識別ができず、〕欲深な輩に軽々しく詐欺をされる温床となっていました。そこで、これからは無位無官の者は姓名以外にも出生地の州・郡・県の名を併記させ、職務に就いている者は姓名・属籍の他に官歴を併記させるようにすると良いと思います。また、①所属している軍の印章をその上に押させ、②〔これを二部作って?〕割り印(複数の紙にまたがるように押したハンコ)を押したのち、③上司に提出し、④〔上司の〕統将・都督全員はこれに印を押して、⑤まとめて行台に提出し、⑥行台はこれを太尉に提出し、⑦太尉はその内容に誤りが無いか審査し、⑧これを〔尚書省(吏部・中兵)に〕提出し、⑨尚書省はもう一度審査を行ない、⑩皇帝陛下に上奏します。この時に〔前述の〕『黄素朱印』を行ない、吏部に送付します。
 近頃は更に状況が悪化し、昇進するために勲簿を改竄・すり替えをするだけでなく、一度昇進した後に申告してもう一度昇進したり、姓名を変えて〔再度申告して〕昇進したりする者まで現れましたが、かくの如き輩の数は少なくありません。これは、実に吏部がきちんとした名簿を作らず、詐欺を防止できないために起こるのです。即ち、吏部が昇進をさせた時にきちんと名簿に注記しないため、人に軽々しく良からぬ考えを生じさせてしまうのです。そこで今より、昇進させた時には名簿にその月日を注記し、吏部尚書が確認の判子を押したのちに保管すべきであります。また、吏部郎中は別に写しを作り、元本と同じように印記して自分で保管し、時折交換させて確認させる事にします。この制度が実施されれば、少しは詐欺を抑止できるでしょう。」
 詔を下し、これを許可した。同はのちまた上奏して言った。
「臣が先ごろ上奏して提案した『黄素で勲簿を作る』『官名や属籍を詳しく注記させる』『吏部に勲簿を交換させる』三つの詐欺防止法が以前許可を受けましたが、愚考いたしますに、『黄素勲簿』は詐欺防止に一定の効果はありますが、完全に撲滅する事はできません。そこで今、軍が勲簿を査閲する時(③・④・⑤)に、行台・軍司・監軍・都督にそれぞれ申告書に証明をさせる事を願います。まず、首を斬って一階以上の昇進をした場合は、証明書を発行することにします。その証明書には〔勲功を立てた者の上司の〕行台・統軍の官位・将軍号と、勲功を立てた甲・乙らの名を大書します。三人の首を斬ったり負傷して一階以上の昇進をした場合も証明書を発行しますが、この場合は行台・統軍の官位・将軍号と、勲功を立てた甲・乙らの名はそれぞれ一行だけで記し、それから紙を半分に分割します。その証明書の前後に年号と月日、どこの陣を破った時のものか、どんな官職に就いていてどんな勲功を立てたのかを記し、印鑑を押して証明にします。そして片方は勲功を立てた者に交付し、もう片方は行台に交付します。これが京都(洛陽)に到ったら即座に門下省に送り、別に箱を用意しそこに保管する事にします。
 また、遷都以降、勝ち戦が続いたため、戦功を立てた者がいよいよ多くなりましたが、未だに彼ら全てに褒賞を与えることができておりません。これは実に長年に亘り詐欺が行なわれた事に原因があります。そして長年に亘って混沌とした状況が続いているため、巧吏はこれに付け入っていよいよ人の戦功を盗む有り様となっているのです。そこで、今より以降、勲簿に載せられた者に褒賞を下す時、その戦功がどこで立てられた物かを遠近に周知させる事を願います。また、報酬は三年以内に必ず与える事とします。その三年の期限内に全員に職の階級と資格を与え、実際の官職や将軍号は才能に応じて授ける事にします。このように迅速に報酬を加えれば、勲功を立てる奨励になりますし、時間がかからなければ詐欺者が付け込む隙も無くなります。ただ、困苦に遭っている者や州に中正がいない者についてはこの限りではありません(即座に実際の官職や将軍号を与える?)。また、勲簿の法では征討から帰還した日に即座に提出するよう定められていますが、近頃の行台・督将は京都に到ってから勲簿を作り、酷い時には一・二年経ってようやく提出する有り様となっています。不正の温床はまさにここにあります。よって、今後は軍が帰還した日に即座に勲簿を提出させる事を改めて徹底し、月を跨がぬようにすべきであります。」
 詔を下し、これも聞き入れた。
 
○資治通鑑
 魏人多竊冒軍功,尚書左丞盧同閱吏部勳書,因加檢覈【覈,戶革翻】,得竊階者三百餘人,乃奏:「乞集吏部、中兵二局勳簿,對勾奏案【勾,古侯翻,考也,稽也】,更造兩通,一關吏部,一留兵局。又,在軍斬首成一階以上者,即令行臺軍司給券,當中豎裂,一支付勳人,一支送門下【此韓愈寄崔立之詩所謂「當如合分支」者也,今人亦謂析產文契為分支帳】,以防偽巧。」太后從之。同,玄之族孫也【盧玄見一百二十二卷宋文帝元嘉八年】。
○魏76盧同伝
 肅宗世,朝政稍衰,人多竊冒軍功。同閱吏部勳書,因加檢覆,覈得竊階者三百餘人。同乃表言:
 竊見吏部勳簿,多皆改換。乃校中兵奏按,並復乖舛。臣聊爾揀練,已得三百餘人,明知隱而未露者,動有千數。愚謂罪雖恩免,猶須刊定。請遣一都令史與令僕省事各一人,總集吏部、中兵二局勳簿,對勾奏按。若名級相應者,即於黃素楷書大字,具件階級數,令本曹尚書以朱印印之。明造兩通,一關吏部,一留兵局,與奏按對掌。進則防揩洗之偽,退則無改易之理。從前以來,勳書上省,唯列姓名,不載本屬,致令竊濫之徒輕為苟且。今請征職白民,具列本州、郡、縣、三長之所;其實官正職者,亦列名貫,別錄歷階。仰本軍印記其上,然後印縫,各上所司,統將、都督並皆印記,然後列上行臺。行臺關太尉,太尉檢練精實,乃始關刺。省重究括,然後奏申。奏出之日,黃素朱印,關付吏部。頃來非但偷階冒名,改換勳簿而已,或一階再取,或易名受級,凡如此者,其人不少。良由吏部無簿,防塞失方。何者?吏部加階之後,簿不注記,緣此之故,易生僥倖。自今敍階之後,名簿具注加補日月,尚書印記,然後付曹。郎中別作抄目,印記一如尚書,郎中自掌,遞代相付。此制一行,差止姦罔。
 詔從之。同又奏曰:
 臣頃奏以黃素為勳,具注官名、戶屬及吏部換勳之法,事目三條,已蒙旨許。臣伏思黃素勳簿,政可粗止姦偽,然在軍虛詐,猶未可盡。請自今在軍閱簿之日,行臺、軍司、監軍、都督各明立文按,處處記之。斬首成一階已上,即令給券。一紙之上,當中大書起行臺、統軍位號,勳人甲乙。斬三賊及被傷成階已上,亦具書於券。各盡一行,當行豎裂。其券前後皆起年號日月,破某處陳,某官某勳,印記為驗。一支付勳人,一支付行臺。記至京,即送門下,別函守錄。又自遷都以來,戎車屢捷,所以征勳轉多,敍不可盡者,良由歲久生姦,積年長偽,巧吏階緣,偷增遂甚。請自今為始,諸有勳簿已經奏賞者,即廣下遠近,云某處勳判,咸令知聞。立格酬敍,以三年為斷。其職人及出身,限內悉令銓除;實官及外號,隨才加授。庶使酬勤者速申,立功者勸,事不經久,僥倖易息。或遭窮難,州無中正者,不在此限。又勳簿之法,征還之日即應申送。頃來行臺、督將,至京始造,或一年二歲方上勳書。姦偽之原,實自由此。於今以後,軍還之日便通勳簿,不聽隔月。
 詔復依行。

 ⑴孝明帝…元詡。生年510、時に8歳。在位515~。八代宣武帝の次子。母は胡充華。北魏九代皇帝。512年に太子に立てられた。515年、父が死ぬと于忠・崔光らによって皇帝に擁立されたが、幼いため母の胡太后の摂政を受けた。516年⑶参照。
 ⑵盧同…字は叔倫。生年477、時に41歳。超名門・范陽盧氏(北魏四姓)の出。盧玄の族孫。八尺の長身で、逞しく立派な容貌をしており、処世術に長けた。北魏に仕えて太尉属とされた。豫州城民の白早生が叛乱を起こし、中山王英らが討伐に赴いた時、軍司とされた。のち司空諮議参軍・兼司馬・営構東宮都将とされた。延昌年間(512~515)に秦州民が叛乱を起こすと兼通直常侍・持節とされ説得に赴いた。のち尚書右丞→左丞とされた。相州刺史の奚康生の過剰な徴税を見抜き告発した。516年⑶参照。

┃職分を侵さず
 北魏が詔を下して言った。
「吏部は登用する際、才能のある者を得るよう心がけ、隠遁している者も対象にして探し求め、国家統治に協力させるようにせよ。州鎮は防備を強固にせよ。斎会(僧尼を招いて斎食 を施す法会)にて人が集まった時に、妖しい事を言って誑かす者がいれば逮捕せよ(大乗の乱を意識したものか)。牢屋はみな建物の中に造り、手枷や足枷は軽く小さくするように心がけよ。熟練工は優れた技術を隠してはならない。税として納められる絹織物・綾絹の長さは定められた規格に合っていなければならない(奚康生事件を意識したものか)。戦功を偽る者がいればみな審査せよ。本籍を偽る者がいれば全て調査せよ。自首すれば赦し、しなければ処罰せよ。」

 御史中尉の元匡が上奏し、景明元年(500)以降の朝廷内外の考簿(成績簿)・吏部の除書(任命書)・中兵の勲案(勲功記録簿)ならびに毎年の成績の最優秀者と最劣等者を審査し、不正に昇進したり官職を得たりしている者を摘発したいと申し出た。胡太后はこれを許した。
 すると尚書令の任城王澄が上表して言った。
「臣はこう聞いています。三代(夏・殷・周)が衰えたのは刑罰を厳しくしたためであり、火徳(前漢)が興ったのは法律を三ヶ条だけにした事に因ると。ここを以て老聃老子)は『法令ますます彰らかにして盗賊多く有り』(老子57。法令を厳しくすればするほど犯罪者が増える)と言い、また『その政察察たらばその民欠欠たり』(老子58。政治が厳しく細かいと人々は不足を感じて不満を抱く)と言い、また『天網恢恢、疏にして漏らさず』(老子73。天の張る網は一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない)と言ったのです。ゆえに、国の根本を治めようと望むなら、刑罰を簡略にし心を清くするのが最も良い方法なのです。昔、漢の文帝の時に裁判が四百件ありましたが、刑罰が執行されたのは殆どありませんでした。これは刑罰を簡略化した事によるものであります。蕭何・曹参は丞相となると『清静画一』の歌を歌われるに至りましたが、これは心を清らかにした事によるものであります。今、国の根本を整えようと望むなら、刑罰を簡略にする事を優先し、それから官吏たちに蕭・曹の精神を受け継がせ、民の教化の助けとするのが良いでしょう。さすれば、上下相い安んじ、遠近相い信じ、百官は職務を怠らず政治に過失が起きる事は無くなるでしょう。どうして世を安んずるのに厳刑を以てし、小鮮(小魚)を煮る(老子60。『大国を治むるは小鮮を煮るがごとし』)のに手を煩わす事がありましょうか(小魚を煮る際に無闇にかき回すとぐちゃぐちゃになる)。 愚考いたしますに、景明(500~504)の初めから永平(508~512)の末に至るまで、朝廷内外の諸官は三たび考課(業績評価)を経ましたが、昇進・降格が行なわれたのは延昌(512~515)の初めになった時でした。この時、五品以上の者は朝堂に呼ばれて世宗宣武帝)陛下の御前で叙任が行なわれ、六品以下の者は先例通り勅書が送られて叙任が行なわれました。世宗陛下が崩御なされると大赦が三たび行なわれましたが(515年正月・8月・516年正月。517年正月にも行なわれているのでこの上表は516年に出されたものであろう)、これは古き物を取り除き、新しき物を打ち立てる事を世に示すためでありました。それなのにいま先朝の事にまで罪を追究しようとするのは全く妥当性を欠くものであります。
 また、尚書の職分は機密を司り、天子の御命令を天下に実行し、天下の意見を政治に反映させる事にあります。昔、魏の明帝が突然尚書省の門を訪れた際、陳矯が直言すると恥じ入って引き返しました。天子の尊さを以てしても、行ないが妥当で無かった場合、一言に屈して車をめぐらしたのです。まして、百官が互いの職分を乱したのなら尚更であります。故に陳平前漢の文帝の左丞相)は国庫の銭穀の数(収支)を知らず邴吉前漢宣帝の宰相)は路上で死人が横たわっていても尋ねませんでしたが、当時の人々に政治に通達していると評され、代々美談として用いられてきました。ゆえに、官吏はただおのおのその職分を守って『思うこと位を出でず』(《論語》憲問)、己を清くして職務に精励し、職に安んじ謹んで忠節を尽くすべきなのであります。
 その点から考えますに、そもそも御史とは本来風聞を司る(風聞を検証して弾劾を行なう)職であり、勲功や成績の不正の調査は畑違いの事であります。もしある者に不正の疑惑が持ち上がったなら、即座に帳簿を集めて真偽を審査すればいいでしょう。そして記述に食い違いを見つけて不正を明らかにしてから処罰したのなら、誰もが納得するでありましょう。しかし、〔自発的に〕一省(尚書省)の書類(朝廷内の考簿・吏部の除書・中兵の勲案など)を〔御史台に〕移し、天下の帳簿(朝廷外の考簿)を集め、両紀(24年。ここでは500~516年の事を指す)という先朝の時代にまで跨がる長い歳月を遡ってまで不正を追究する事はどうして納得できるでしょうか! このような事をすれば、誰もが罪にひっかかるでありましょう!これはまことに聖朝(おかみ)が慎重に考えねばならない事であります。」
 太后はこれを聞き入れ、匡の案を取り止めた。

○資治通鑑
 中尉元匡奏取景明元年已來,內外考簿、吏部除書、中兵勳案、并諸殿最,欲以案校竊階盜官之人,太后許之。尚書令任城王澄表以為:「法忌煩苛,治貴清約。御史之體,風聞是司,若聞有冒勳妄階,止應攝其一簿,研檢虛實,繩以典刑。豈有移一省之案,〔取尚書省之案赴御史臺,所謂移也。〕尋兩紀之事,〔自景明元年至是年凡十八年。今言兩紀之事,蓋景明初所敘階勳,皆太和末淮、漢用兵所上勳人名籍也。〕如此求過,誰堪其罪!斯實聖朝所宜重慎也。」太后乃止。
 又以匡所言數不從,慮其辭解,〔辭解者,辭職解官也。〕欲獎安之,乃加鎮東將軍。二月,丁未,立匡為東平王。〔為匡治棺攻澄張本。〕

○魏孝明紀
 又詔:「選曹用人,務在得才,廣求栖遁,共康治道。州鎮城隍,各令嚴固。齋會聚集,糾執妖諠。囹圄皆令造屋,桎梏務存輕小。工巧浮迸,不得隱藏。絹布繒綵,長短合式。偷竊軍階,亦悉沙汰。籍貫不實,普使糾案,聽自歸首,逋違加罪。」

○魏19任城王澄伝
 御史中尉東平王匡奏請取景明元年以來,內外考簿、吏部除書、中兵勳案并諸殿最,欲以案校竊階盜官之人,靈太后許之。澄表曰:臣聞三季之弊,由於煩刑;火德之興,在於三約。是以老聃云「法令滋彰,盜賊多有」,又曰「其政察察,其民缺缺」,又曰「天網恢恢,疏而不漏」。是故欲求治本,莫若省事清心。昔漢文斷獄四百,幾致刑措,省事所致也。蕭曹為相,載其清靜畫一之歌,清心之本也。今欲求之於本,宜以省事為先,使在位羣官,纂蕭曹之心,以毗聖化。如此,則上下相安,遠近相信,百司不怠,事無愆失。豈宜擾世教以深文,烹小鮮以煩手哉。 臣竊惟景明之初暨永平之末,內外羣官三經考課。逮延昌之始,方加黜陟。五品以上,引之朝堂,親決聖目;六品以下,例由敕判。自世宗晏駕,大宥三行,所以蕩除故意,與物更始。革世之事,方相窮覈,以臣愚見,謂為不可。 又尚書職分,樞機出納。昔魏明帝卒至尚書門,陳矯亢辭,帝慚而返。夫以萬乘之重,非所宜行,猶屈一言,慚而回駕,羣官百司,而可相亂乎?故陳平不知錢穀之數,邴吉不問僵道之死,當時以為達治,歷代用為美談。但宜各守其職,思不出位,潔己以勵時,靖恭以致節。又尋御史之體,風聞是司,至於冒勳妄考,皆有處別,若一處有風謠,即應攝其一簿,研檢虛實,若差舛不同,偽情自露,然後繩以典刑,人孰不服。豈有移一省之案,取天下之簿,尋兩紀之事,窮革世之尤,如此求過,誰堪其罪!斯實聖朝所宜重慎也。
 靈太后納之,乃止。


 ⑴元匡…字は建扶。景穆太子の孫で、陽平幽王新成の第五子だが、広平王洛侯が子が無いまま死ぬとその跡を継いだ。剛直で気骨があり、孝文帝に匡輔を期待されて匡の名を与えられた。宣武帝が即位すると給事黄門侍郎とされた。寵臣の茹皓を諌止した事で名を上げた。肆州刺史とされると皓の仕返しを恐れ、謹んで職務を務め、非常な政績を挙げた。のち恒州刺史→大宗正卿・河南邑中正→度支尚書とされた。尚書令の高肇に皆が憚る中、屈する事無く、棺を造って皇宮に赴き、肇の罪を論じてから自殺しようとした。これを肇に睨まれて死刑を宣告されたが、結局光禄大夫への降格だけに留められた。のち兼宗正卿→兗州刺史とされた。孝明帝が即位すると御史中尉とされた。516年、于忠を弾劾した。516年⑴参照。
 ⑵胡太后…北魏の司徒の胡国珍の娘。母は皇甫氏。宣武帝の妻で、孝明帝の母。聡明で容姿麗しく、弓の腕前も一流だったが、淫乱だった。比丘尼統の叔母の僧芝に宮中にて仏教の講義を受け、大義に通じた。また、このときその美しさが宣武帝の耳に入って承華世婦とされた。このとき、子貴母死制度があったため後宮の女官たちは太子を出産する事を願わなかったが、ただ一人「天子にどうして男児ができないのでしょうか。どうして我が身可愛さに皇家の世継ぎを産まずにいられましょうか?」と言い、妊娠すると周囲に堕胎するよう勧められたが拒否し、「男児を孕んでおりますよう。そして元気に成長して世継ぎになりますよう。さすれば死をも辞さぬ覚悟です」と天に誓い、晴れて男児(のちの孝明帝)を産むと充華嬪とされた。このとき帝は男児を別宮にて養育し、皇后や充華嬪らに近づかせなかった。515年、帝が崩御すると于忠らによって子を擁立され、自分も手厚い護衛を受けた。間もなく皇太妃→皇太后とされ、摂政を開始した。殺生を嫌い、無断撤退をした崔亮を赦した。たびたび後園にて自ら矢を射たり、王公の邸宅に赴いたりし、崔光に諌められた。仏教を篤く信じ、516年に巨額の費用をかけて永寧寺を建てた。516年⑸参照。
 ⑶任城王澄…拓跋澄→元澄。字は道鏡。生年467、時に51歳。景穆太子の孫で、任城王雲の子。孝文帝の従兄弟叔父。孝行者で、学問を好んだ。話しぶりや振る舞いが上品だった。馮太后に『宗室の領袖となるべき者』と評された。485年、柔然が侵攻してくると都督北討諸軍事とされて討伐に赴いた。のち梁州刺史とされ、氐羌を良く手懐けた。のち徐州刺史とされると非常な名声と政績を上げた。のち中書令→尚書令とされた。南斉の使者の庾蓽に「昔の魏の任城王(彰)は武を以て聞こえたが、今の魏の任城王は文の方面に秀でている」と評された。493年、孝文帝が南伐を行なおうとすると反対したが、のち帝に南伐は建前で実際は遷都が目的だと打ち明けられると賛成し、「我が子房(張良)」と絶賛され、撫軍大将軍・太子少保・兼尚書左僕射とされた。洛陽遷都の際には代都の人々の説得を行なった。のち吏部尚書→右僕射とされた。499年、帝の臨終の際、太子恪の輔佐を託された。宣武帝が即位すると揚州刺史とされた。507年、鍾離で大敗を喫した。のち定州刺史→太子太保とされた。515年、帝が崩御し幼い孝明帝が立つと人心収攬のために尚書令・驃騎大将軍とされた。間もなく侍中・司空→領尚書令とされた。516年、大都督南討諸軍事とされて淮堰の破壊を命じられたが、出発前に自壊したため取り止めとなった。また、貨幣問題について言及した。516年⑶参照。
 ⑷《史記》曹相国世家曰く、『蕭何、法をつくり、明らかなること一を画くがごとし(一本の線を引いたように正しく整っていること)。曹参これに代わるや、守りて失うことなし。おこなうことそれ清浄(漢書では清静)、民もって一にやすんず』
 ⑸《三国志》陳矯伝曰く、『明帝があるとき突然尚書門を訪れると、〔尚書令の〕陳矯が跪いて帝に尋ねて言った。「陛下はどこに行かれようとなさっているのですか?」帝は言った。「文書を調べて回りたいだけだ。」矯は言った。「これは臣の職分であり、陛下がなさる事ではありません。もし臣を信じられないのならどうか免職なさいますよう。陛下、お帰りくださいませ。」帝は恥じ入り、車をめぐらして引き返した。
 ⑹《史記》陳丞相世家曰く、『文帝は左丞相の陳平に〔年間の裁判の数や国庫の収支について尋ねた〕。すると平は言った。「主管者にお尋ねください。」帝は言った。「主管者とは誰のことか?」平は言った。「裁判なら廷尉が、収支なら治粟内史が主管者であります。」』
 ⑺《漢書》丙吉伝曰く、『邴吉がある時車に乗って外出すると、ある集団が喧嘩をし死傷者が道に横たわっていたが、吉は無視して通り過ぎ、部下に怪訝がられた。吉が更に前に行くと、牛飼いが牛を追い立てているのに出くわした。その牛は喘いで舌を出していた。すると吉は車を止めて馬に乗って付いてきていた部下に尋ねて言った。「あの牛はどれだけの距離を追われたのか?」部下は吉が人の時に尋ねず牛の時に尋ねたのを誤りだと感じ、ある者は吉を非難するに至った。すると吉は言った。「民が喧嘩をして殺傷したならそれは長安令と京兆尹の職分であり、彼らが見回り逮捕するべきものだ。丞相は年末に彼らの仕事ぶりを評価し、上奏して賞罰を行なうだけだ。それに、宰相という者は瑣末な事にかかずらってはならぬ。ゆえにこれについて尋ねなかったのだ。一方、牛については、今は春で日差しが弱く暑くない時であるのに、もし牛が少し歩いただけで暑さが原因で喘いだのだったら、それは季節が正常さを失っている事になり、不作になる恐れがある。三公とは陰陽の調和を掌るのであるから、その職分からいって心配し、尋ねたのである。」』

┃宗室の賢亮

 元匡孝明帝が即位した時に〔元昭に代わって〕御史中尉とされると、厳しく糾弾を行ない、初め于忠を弾劾し、次いで高肇の党人であった高聡王世義・高綽・李憲・崔楷・蘭氛之を弾劾した。しかし太后はみな聞き入れなかった。ただ、太后は匡の気を害して辞職してしまうのを危惧し、奨励・安撫のためにその将軍号を進めて安南将軍(三品)とし、のち、更に鎮東将軍(従二品)とした。


 匡はまた、度量衡を改定するようたびたび進言した。そこで詔を下して言った。

「『権量(秤や枡)を謹しみ(正し。きちんとする)、法度(尺度)を審らか(明らか。きちんとする)にする』(《論語》尭曰)のは、昔からの良き制度であり、度量衡を定め歴代の制度を改めるのはいにしえからの良き規則である。匡は宗室の賢人であり、長らくこれに意を留めてきた。そこで改めて大学者たちを集め、調査を行なって決定せよ。必ず度量衡が妥当な物になるように心がけ、ほんの少しの誤りも無いようにせよ。」


 癸丑(?日。28日の次に記されているため、あとは29日の辛卯しか無いが…。2月2日の癸巳の誤りか?)、地伏羅・罽賓国(パキスタン東北部)が北魏に朝貢した。

 2月、庚子(9日)、契丹(515年9月以来)・鄧至(516年2月以来)・宕昌(516年8月以来)諸国が北魏に朝貢した。


 この時(或いは8月)、契丹の使者の祖真ら三十人が帰還する際、胡太后は契丹の人々が結婚する時に青氊(青色の毛布)を用いて晴れ着に仕立てるのを聞くと、一人につき青氊を二疋与え、彼らの誠意に報いた。他の返礼品に関しては従来どおりとした。


 丁未(16日)、詔を下して言った。

「故・広平殤王洛侯恭宗景穆太子)の子であるが、若くして薨去したため国は除かれ祀りは廃され、たちまち祀り手がいなくなってしまった。匡は〔洛侯とは〕血縁的に子の如くであったため、内々に跡を継いで長い年月が経っている。よってこれを藩屏とし、国家の基礎を盤石な物にすべきであろう。そこで特別に王爵を継ぐ事を許し、〔爵号を改めて〕東平郡王とする(既に元懐が広平王となっていたため)。」



 庚戌(19日)、老人星(カノープス。吉星)が現れた。
 辛亥(20日)、梁の武帝が籍田を耕す儀式(宗廟に供える穀物を天子みずから耕作した儀式。勧農と豊饒を祈願する)を行なった。
 甲寅(23日)、〔南徐州刺史の南康王績武帝の第四子を宣毅将軍・領石頭戍軍事とし、〕安前将軍〔・丹陽尹〕の豫章王綜武帝の第二子を代わりに北中郎将・南徐州(京口。建康の東)刺史とした。

 3月、甲戌(13日)、吐谷渾国が北魏に朝貢した(516年5月以来)。

 丙子(15日)、河南王国(吐谷渾)が梁に朝貢した(516年8月以来)。


○資治通鑑
 又以匡所言數不從,慮其辭解【辭解者,辭職解官也】,欲獎安之,乃加鎮東將軍。二月,丁未,立匡為東平王【為匡治棺攻澄張本】。
魏孝明紀
 癸丑,地伏羅、罽賓國並遣使朝獻。二月庚子,契丹、鄧至、宕昌諸國並遣使朝獻。丁未,封御史中尉元匡為東平王。三月甲戌,吐谷渾國遣使朝獻。
○梁・南史梁武帝紀
 二月庚戌,老人星見。〔辛亥,耕藉田。〕甲寅,以安前將軍豫章王綜為南徐州刺史。〔赦罪人。〕三月丙子,河南王遣使獻方物。

○魏19東平王匡伝
 肅宗初,入為御史中尉。匡嚴於彈糾,始奏于忠,次彈高聰等免官,靈太后並不許。以違其糾惡之心【[一九]魏書「違」上有「以」字,通志「違」上有「又重」二字。按疑脫「重」字】,又慮匡辭解,欲奬安之,進號安南將軍,後加鎮東將軍。匡屢請更權衡不已,於是詔曰:「謹權審度,自昔令典,定章革歷,往代良規。匡宗室賢亮,留心既久,可令更集儒貴,以時驗決。必務權衡得衷,令寸籥不舛。」又詔曰:「故廣平殤王洛侯,體自恭宗,茂年薨殞,國除祀廢,不祀忽諸。匡親同若子,私繼歲久【[一三] 按上文明云元恪世宗時,匡已求紹洛侯封,經尚書議奏襲封,則並非 私繼,且襲封已久。不知何以前後矛盾】,宜樹維城,永茲盤石,可特襲王爵,封東平郡王。」
○魏36李憲伝
 後以黨附高肇,為御史所劾。事具高聰傳。
○魏48高綽伝
 軍還,除汲郡太守,固辭不拜。御史中尉元匡奏高聰及綽等朋附高肇,詔並原罪。俄行滎陽郡事,以本將軍出除豫州刺史。為政清平,抑強扶弱,百姓愛之,流民歸附者二千餘戶。

○魏68高聡伝
 肅宗踐祚,以其素附高肇,出為幽州刺史,將軍如故。尋以高肇之黨,與王世義、高綽、李憲、崔楷、蘭氛之為中尉元匡所彈,靈太后並特原之。聰遂停廢于家,斷絕人事,唯修營園果,以聲色自娛。
○魏100契丹伝
 及世宗、肅宗時,恒遣使貢方物。熙平中,契丹使人祖真等三十人還,靈太后以其俗嫁娶之際,以青氊為上服,人給青氊兩匹,賞其誠款之心,餘依舊式。朝貢至齊受禪常不絕。
○梁29南康簡王績伝
 十六年,徵為宣毅將軍、領石頭戍軍事。
○梁55豫章王綜伝
 十六年,復為北中郎將、南徐州刺史。


 ⑴于忠…字は思賢で、本名は千年。本姓は万紐于。生年462、時に55歳。領軍将軍・聊城侯の于烈の子。出仕して侍御中散とされた。このとき馮太后が摂政を行なっており、侍臣の多くが些細なことで処罰されていたが、忠は実直・寡黙であったため最後まで処罰される事は無かった。のち登の名を賜った。宣武帝が即位すると左右郎将・領直寝とされ、咸陽王禧が乱を企てた際、都の外にいた帝がどこに行けばいいか逡巡すると、領軍の父が守る皇宮なら大丈夫だと進言して無事帰還させた。間もなく帝に忠の名を与えられた。北海王詳や高肇に硬骨さを忌まれた。硬骨さをのち魏郡開国公・兼武衛将軍とされたが辞退し、代わりに太府卿とされた。505年秋、西道大使とされて刺史・鎮将の汚職を摘発した。のち相州刺史→衛尉卿→定州刺史→衛尉卿・領左衛将軍とされた。512年、都官尚書・領左衛とされた。宴会の際に警護の才がある事を以て帝に剣と杖を賜り、自衛に用いるよう言われた。のち侍中・領軍将軍とされた。515年、帝が崩御すると太子詡を擁立して皇帝とし、更にその生母の胡充華を保護し、権臣の高肇を誅殺するなどして権勢を比類無い物とし、車騎大将軍・常山郡公→領崇訓衛尉→尚書令とされた。嫉妬心が強く、自分より優れた者とは付き合わず、ただ直閤将軍の章初瓌、千牛備身の楊保元の二人のみと断金の交わりを結んだ。胡充華が太后となって摂政を始めると侍中・領軍・崇訓衛尉の職を解かれ、ただ儀同・尚書令のみとされた。間もなく都督冀定瀛三州諸軍事・征北大将軍・冀州刺史とされて朝廷から追い出された。間もなく常山郡公を剥奪された。のち名誉を回復され、霊寿県公とされた。516年⑵参照。

 ⑵高聡…字は僧智。生年452、時に66歳。新興豪族の勃海高氏の出。曾祖父は慕容徳(南燕初代皇帝)に従って北海郡に移住した高軌。父は劉宋の車騎将軍の王玄謨の甥の高法昂。生まれた時に母を亡くすと祖母の王氏の養育を受けた。大の読書家で非常な文才を有した。469年に北魏が東陽(青州)を攻略すると平城に連行され、雲中兵戸に編入されたが、族祖の高允に孫のように遇され、手厚い支援を受けた。また、その推挙を受けて中書博士とされた。十年後、中書侍郎・高陽王雍友とされ、次第に孝文帝に評価されるようになった。493年、兼員外散騎常侍とされ南斉への使者とされた。帰還すると兼太府少卿→兼太子左率とされた。やや弓馬の扱いに習熟していたため戦いに参加する事を申し出て仮輔国将軍とされ、二千の兵を率いて渦陽の救援に赴いたが、性急・臆病で行く先々で強姦や略奪を行ない、敵に会うと戦わずに逃走した。この罪により平民とされて平州に流された。宣武帝が即位すると洛陽に帰り、六輔の排除に貢献した。帝が親政を始めると給事黄門侍郎・輔国将軍とされた。趙修が寵用されるとこれにおもねり、修が死ぬと高肇、次いで茹皓におもねった。権勢を笠に着て音楽や女性に溺れ、賄賂を貪ったため中尉の崔亮の弾劾を受けて平北将軍・并州刺史に左遷された。高肇に嫌われている事を知るとあの手この手を用いて関係を修復した。そのため、州で汚職を働いて弾劾を受けても不問とされた。のち散騎常侍・平北将軍とされた。孝明帝が即位すると高肇の党人だった事を以て幽州刺史に左遷された。

 ⑶高綽…生年475、時に43歳。字は僧裕。新興豪族の渤海高氏の出で、中書監・咸陽文公の高允の孫で、太尉東陽王諮議参軍の高懐の子。謙虚・聡明で、若年にして父を亡くしたが自立して生活した。成長すると八尺(約180cm)の長身と腰回り十囲の大男となり、大人しく真面目でおおらかで、多くの書物を読み漁った。洛陽令とされると剛直な政治を行ない、有力者に忖度しなかったため洛陽の人々に恐れ憚られた。のち行潁川郡事や行涇州刺史とされ、延昌年間(512~515)の初めに尚書右丞とされ、壬子暦の制定に携わった。孝明帝が即位すると司徒清河王懌司馬・冠軍とされ、懌が太尉とされると太尉司馬とされた。郷里の冀州にて大乗の乱が起こると先行して各地の招撫に赴き、州里からの信望の厚さを以て多くの人々を降伏に導いた。515年⑷参照。

 ⑷李憲…字は仲軌。超名門・趙郡李氏(北魏五姓)の出。西兗州刺史・濮陽侯の李式の子。美男で清廉・好学であり、見識・度量を有した。太和(477~499)の初めに爵位を継ぎ、濮陽伯とされた。秘書中散とされると常に孝文帝の賞賛を受けた。のち散騎侍郎とされ、梁使の蕭琛・范雲を接待した。のち母が老いた事を以て郷里に帰ることを求め、趙郡太守とされた。宣武帝の寵臣の趙修が趙郡にて両親の埋葬を行なう際、定州の刺史・太守はみな参列したが、ただ憲のみ出席せず人々から高い評価を受けた。のち尚書左丞・長兼吏部郎中→長兼司徒左長史・定州大中正→河南尹とされた。新令の議論に参加した。510年、左将軍・兗州刺史とされた。511年、ある事件に連座して除名された。

 ⑸崔楷…字は季則。名門の博陵崔氏の出。武邑太守の崔弁の子で、崔逸・崔模の弟。美男・剛直で実務能力を有した。広平国文学とされるとしばしば楊昱と共に広王平懐を諌めた。のち左中郎将とされた。

 ⑹跡を継ぐことは宣武帝時代に公式に認められているが、祭祀だけを継ぐ事を許され、王爵は継ぐ事を許されなかったので、このような表現になったのであろう。

 ⑺南康王績…蕭績。字は世謹。幼名は四果。生年505(弟の続が504年生まれなので504?)、時に13歳(14歳?)。梁の武帝の第四子。母は董淑儀(或いは昭儀)。508年に南康郡王とされた。のち軽車将軍・領石頭戍軍事とされた。511年、仁威将軍・南徐州刺史とされると7歲の幼さで文書の改竄を見抜き、感嘆を受けた。

 ⑻豫章王綜…蕭綜。字は世謙。梁の武帝の第二子。母は呉淑媛。504年に豫章郡王とされた。506年に仁威将軍・南徐州刺史とされ、511年に雲麾将軍・郢州刺史、514年に安右将軍・領石頭戍軍事とされた。516年、西中郎将・兼護軍→安前将軍・丹陽尹とされた。516年⑷参照。


┃生類憐れみの令
 この日、〔仏教に凝っていた〕梁の武帝が勅を下し、太医(天子の侍医)に生類(動物)を薬の素材に用いる事を禁じた。また、国に所属する織物職人に、錦に仙人・鳥獣の刺繍をする事を禁じた。着物にする際、それらを裁断してしまうのが仁恕の道に背くからだった。

○資治通鑑
 三月,丙子,敕織官,文錦不得為仙人鳥獸之形【織官,猶漢之織室令、丞也】,為其裁翦,有乖仁恕。
○南史梁武帝紀
 敕太醫不得以生類為藥;公家織官紋錦飾,並斷仙人鳥獸之形,以為褻衣,裁翦有乖仁恕。

┃広平王懐の死
 丁亥(3月26日)、北魏の太保・領司徒の広平王懐が薨去した(享年30)。
 使持節・仮黄鉞・都督中外諸軍事・太師・領太尉公・侍中を追贈し、王爵はそのままとした。また、殊礼を適用し、九錫(大功ある臣下に与えられた九つの品。車馬・衣服・楽器・朱戸・納陛・虎賁・弓矢・鈇鉞・秬鬯)を加え、武穆と諡した。葬儀の際、胡太后は車に乗って自ら出向き、百官も参列した。8月己酉(20日)に洛陽西郊にある墓地に埋葬した。

 夏、4月、甲午(4日)、高句麗(515年10月以来)・波斯(ササン朝ペルシア。507年以来)・疏勒(カシュガル。512年以来)・嚈噠(エフタル。513年以来)諸国が北魏に朝貢した。
 丁酉(7日)、北魏が詔を下し、京尹(河南尹。都知事)の管轄地にいる百歳以上の者に大郡板(大郡の太守に相当する名誉称号)を与え、九十歳以上の者に小郡板を与えた。

○魏孝明紀
 丁亥,太保、領司徒、廣平王懷薨。夏四月甲午,高麗、波斯、疏勒、嚈噠諸國並遣使朝獻。丁酉,詔京尹所統,百年以上賜大郡板,九十以上賜小郡板。
○北魏元懐墓誌
 享年不永,春秋卅,熙平二年三月廿六日丁亥薨。追崇使持節假黃鉞都督中外諸軍事太師領太尉公侍中,王如故。顯以殊禮,備物九錫,謚曰武穆,禮也。及葬,皇太后輿駕親臨,百官赴會。秋八月廿日窆于西郊之兆。

 ⑴広平王懐…字は宣義。生年488、時に30歳。河南洛陽乗軒里の人。献文帝の孫で、孝文帝の第五子。母は高皇后で、宣武帝の同母弟。孝明帝の叔父。497年、広平王とされた。武事を好み、たびたび狩猟に出かけた。宣武帝の同母弟を以てやりたい放題にふるまい、兄の京兆王愉と贅沢を競った。河南尹の甄琛と不仲で、司州牧とされるとその長子の甄侃の罪を徹底的に追及した。正始年間(504~508)に御史中尉の崔亮の厳しい追及を受け、部下が処刑されたり平民に落とされたりした。また、華林別館に監禁され、四門博士の董徴に矯正教育を受け、賓客と交際する事を禁じられた。512年、驃騎大将軍・儀同三司とされた。515年に宣武帝が崩御して解放されると病を押して弔問に赴き、「太極殿に入り、大行皇帝陛下(宣武帝)のために哭礼をしたい。また、主上(孝明帝)にもお会いしたい。」と異例の申し出をしたが、崔光に拒否されると大人しく引き下がった。間もなく司空→太保・領司徒とされた。515年⑷参照。

┃胡国珍の司徒拝命と于忠の中央復帰
 戊申(4月18日)、北魏が侍中・中書監・開府儀同三司・安定郡公の胡国珍胡太后の父を〔亡くなった広平王懐の代わりに〕司徒公とした。侍中はそのままとした。
 国珍は〔老齢を以て〕自邸にて拝命した。胡太后孝明帝は百官を引き連れてその邸宅に赴き、宴会を催して心ゆくまで楽しんだ。
 また、太后は〔亡き母の〕京兆郡君皇甫氏)を追尊して秦太上君とした。この時、太上君は景明三年(502)に洛陽にて逝去してから十六年が経っていた。太后は太上君の墓が低く狭小である事を以てこれを拡張し、門と碑文を立てた。この時、侍中の崔光らが上奏して言った。
「案じますに、漢の高祖劉邦)の母は初め昭霊夫人、のち昭霊后と追尊され、薄太后劉邦の側室で文帝の母)の母は霊文夫人と諡され、どちらも墓守三百家を置き、長・丞を設けて守らせました。〔ここから考えますに、〕今追尊なされようとしている秦太上君の尊諡は前例の無いものであり、また、陵墓は孤立して〔墓守もいない有り様であります。〕そこで今は〔太上を去って〕秦君を終称とし、清掃・守衛の者を置けば、人情的にも礼制的にも納得が行くものになると考えます。どうか尊諡を孝穆とし、墓守三十戸を置き、長・丞を設けて守らせますよう。」
 太后はこれに従い、京兆郡君を秦孝穆君とした。
 また、国珍の後妻の梁氏を趙平郡君とし、元叉の妻(太后の妹。胡玄輝)を女侍中・新平郡君とし、のち馮翊郡君に改めた。また、国珍の子の胡祥の妻を長安県公主とした。長安公主清河王懌の娘である。


 また、特進の汝南王悦を〔国珍の代わりに〕中書監・儀同三司とした。
 この月、〔都督冀定瀛三州諸軍事・征北大将軍・冀州刺史・霊寿県公の〕于忠を尚書右僕射とした。


 乙卯(25日)胡太后が伊闕口にある石窟寺(龍門の石窟)に赴き、その日の内に宮殿に帰った。


 また、安定王超の爵号を改めて北平王とした。当時、胡国珍が安定公とされていたためだった。

○魏孝明紀
 戊申,以中書監、開府儀同三司胡國珍為司徒公,特進、汝南王悅為中書監、儀同三司。乙卯,皇太后幸伊闕石窟寺,即日還宮。安定王超改封北平王。
○魏19安定王超伝
 時以胡國珍封安定公,改封北平王。
○魏31于忠伝
 二年四月,除尚書右僕射,加侍中,將軍如故。
○魏83胡国珍伝
 遷司徒公,侍中如故,就宅拜之。靈太后、肅宗率百僚幸其第,宴會極歡。又追京兆郡君為秦太上君【[五]按「追」下當脫「贈」或「尊」「崇」字】。太上君景明三年薨於洛陽,於此十六年矣。太后以太上君墳瘞卑局,更增廣,為起塋域門闕碑表。侍中崔光等奏:「案漢高祖母始諡曰昭靈夫人,後為昭靈后,薄太后母曰靈文夫人,皆置園邑三百家,長丞奉守。今秦太上君未有尊諡,陵寢孤立,即秦君名,宜上終稱,兼設掃衞,以慰情典。請上尊諡曰孝穆,權置園邑三十戶,立長丞奉守。」太后從之。封國珍繼室梁氏為趙平郡君,元叉妻拜為女侍中,封新平郡君,又徙封馮翊君。國珍子祥妻長安縣公主,即清河王懌女也。

 ⑴胡国珍…字は世玉。生年439、時に79歳。名門安定胡氏の出。祖父は後秦の平北府諮議参軍。父は夏の給事黄門侍郎で、北魏の河州刺史・武始侯の胡淵。妻は皇甫氏。後妻は梁氏。胡太后の父。学問を好み、清廉で、仏教を篤く信じた。491年に爵位を継ぎ、例に依って伯とされた。515年、娘が太后とされると光禄大夫とされ、太后が摂政を始めると侍中・中書監・儀同三司・安定郡公とされ、立派な邸宅や莫大な量の帛布綿穀奴婢車馬牛を与えられた。また、車に乗って宣光殿に出入りする事を許された。516年、崔光と共に孝明帝に経典の講義を行なった。また、雍州刺史とされたが高齢のため赴任しなかった。516年⑶参照。
 ⑵汝南王悦…元悦。孝文帝の第六子。母は羅夫人(叱羅夫人)。宣武帝の異母弟で、清河王懌の同母弟。仏典や史書を読むのを好んだ。503年に汝南王とされた。多くの不法行為を働き、つまらない者を近づけたため、516年、汝南国郎中令とされた陽固に強く諌められた。516年⑸参照。
 ⑶安定王超…元超。字は化生。征虜将軍・豳州刺史の安定王爕の子。515年に跡を継いだ。515年⑷参照。

┃生贄の廃止
 この月[1]、梁の武帝が天地・宗廟の祭祀をする際殺生をするのをやめる事で天下に仏教の慈悲の教えを広めたいと考え、詔を下して言った。
「そもそも、『神はどんな供物も受けるわけでは無い。真心を尽くした物を受けるのである』(《書経》太甲下)と言う。ゆえに、『西隣(周の文王)は東隣(殷の紂王)のように牛を生贄にしなかったが、真心を尽くしていたため大きな幸いを得た』(《書経》水火既済)と言うのである。現在、宗廟の祭祀には依然として生贄が用いられているが、これは真心を示すのに益が無いばかりか、むしろ神に仕えるのに障害になるだけである。よって、今より四季の祭祀以外は代替の物を用いるようにせよ。」
 尚書八座(尚書令・二僕射・五曹尚書)は協議して言った。
「大脯(大きな干し肉)を以て一元大武()に代えるのが良いでしょう。」
 八座はまた上奏して言った。
「既に生贄を殺す事をやめた上は、生贄を吟味する必要も無くなりました。そこで供物を用意する儀式を省き、祭祀の際に陪席した役人に確認させるに留める事を求めます。」
 帝はこれを聞き入れた。

 この時、大臣たちは宗廟の祭祀にて生贄をやめると国が滅ぶと言って反対し、民間でも非難の声が上がったが、帝は聞き入れなかった。
 この時、北魏の人々も密かにこう言った。
「偽りの王者といえど、宗廟に生贄を捧げなければ国を滅ぼすだろう。」

 また、潮溝(孫権が赤烏年間〈238~251〉に建康近北・近西に開削した運河)にて白雀一羽を獲た。

○資治通鑑
 詔以宗廟用牲,有累冥道【冥,幽也。幽則有鬼神;冥道,鬼神之道也】,宜皆以麵為之【考異曰:梁帝紀,此詔在四月甲子。南史云在二月,云「祈告天地宗廟,以去殺之理欲被之含識,郊廟牲牷皆代以麵,其山川諸祀則否。」按長曆是月辛卯朔,無甲子。隋志但云四月,亦不云郊祀去牲,今從之】。於是朝野諠譁,以為宗廟去牲,乃是不復血食,帝竟不從。八坐乃議以大脯代一元大武【記曲禮:牛曰一元大武。鄭玄曰:元,頭也。武,迹也】。
○梁武帝紀
 夏四月甲子,初去宗廟牲。潮溝獲白雀一。

○南史梁武帝紀
 於是祈告天地宗廟,以去殺之理,欲被之含識。郊廟牲牷,皆代以麪,其山川諸祀則否。時以宗廟去牲,則為不復血食,雖公卿異議,朝野喧囂,竟不從。

○隋礼儀志七廟
 十六年四月,詔曰:「夫神無常饗,饗于克誠,所以西鄰礿祭,實受其福。宗廟祭祀,猶有牲牢,無益至誠,有累冥道。自今四時蒸嘗外,可量代。」八座議:「以大脯代一元大武。」八座又奏:「既停宰殺,無復省牲之事,請立省饌儀。其眾官陪列,並同省牲。」帝從之。

隋五行志火
 大同三年,朱雀門災。水沴火也。是時帝崇尚佛道,宗廟牲牷,皆以麪代之。
○魏98島夷蕭衍伝
 衍自以持戒,乃至祭其祖禰,不設牢牲,時人皆竊云,雖僭司王者,然其宗廟實不血食矣。


 [1]考異曰く、『梁武帝紀にはこの詔は4月甲子に下されたとあるが、南史梁武帝紀は二月にこの記述がある。長曆を調べるに、この年の4月は辛卯が朔日にあり、甲子は存在しない。隋五行志にはただ4月とだけある。今はこれに従った。』

┃三つの傷
 5月、辛酉(1日)、北魏が詔を下して言った。
「揚州の硤石・荊山・新淮()・酇城()にて戦死した(516年〈1〉参照)兵士の妻子に、追って財物を支給し、更に妻子のうち一人の租税・労役を五年間免除する。妻子がいない場合は、その実家にいる誰か一人の租税・労役を二年間免除する。また、三ヶ所に傷を負った者は一階級進め(二十等爵)、傷が一つであっても手足のいずれかが不具になった場合は三ヶ所の者と同様の褒賞を与える。」
 庚辰(20日)、天文の禁忌を犯した者は極刑に処する事を改めて周知した。
 乙酉(25日)、鄧至国が北魏に朝貢した(2月にも朝貢)。

○魏孝明紀
 五月辛酉,詔曰:「揚州硤石、荊山、新淮、酇城兵士戰沒者,追給斂財,復一房五年;若無妻子,復其家一人二年。身被三創,賞一階;雖一創而四體廢落者,亦同此賞。」庚辰,重申天文之禁,犯者以大辟論。乙酉,鄧至國遣使朝貢。


 ⑴去年の7月にも硤石奪還に参加した兵士たちの租税・労役を一年間免除している。



 517年⑵に続く


┃死生、華州に在り




大統三年(537)、閏9月、東魏の丞相の高歓が二十万(或いは十万)の兵を率い、蒲坂津より黄河を渡って長安に進軍した。〕
 宇文泰は華州が交通の要所であること(華州は蒲坂津と長安の間にある)を以て、華州に使者を派し、刺史の王羆に守備を厳重にするよう命じた。すると羆は使者にこう言った。
「老羆死すとも、穴熊(貉、ムジナ)どもは決して通しませぬ!」
 泰はこの発言を立派だとした。
 歓は馮翊(華州の治所)城下に到ると、羆にこう言った。
「どうして早く降らぬのか!」
 すると羆は城壁の上から絶叫してこう言った。
「この城は王羆の墓である! わしはこの城と運命を共にする! 死にたい者はかかってこい!」
 歓はその旺盛な闘志に舌を巻き、華州の攻略を諦めた[→537年⑶参照]。

○資治通鑑
 丞相泰遣使戒華州刺史王羆,羆語使者曰:「老羆當道臥,貉子那得過!」歡至馮翊城下,謂羆曰:「何不早降!」羆大呼曰:「此城是王羆塚,死生在此。欲死者來!」歡知不可攻,乃涉洛,軍於許原西。
○周文帝紀
 齊神武遂度河,逼華州。刺史王羆嚴守。知不可攻,乃涉洛,軍於許原西。
○周18王羆伝
 沙苑之役,齊神武士馬甚盛。太祖以華州衝要,遣使勞羆,令加守備。羆語使人曰:「老羆當道臥,貆子安得過!」太祖聞而壯之。及齊神武至城下,謂羆曰:「何不早降?」羆乃大呼曰:「此城是王羆冢,生死在此,欲死者來。」齊神武遂不敢攻。
○南北史演義
 華州刺史王羆首當沖要,宇文泰致書相勉,羆答復道:「臥貉子怎得輕過?」及歡至馮翊城,呼羆問道:「何不早降?」羆戎服登陴,朗聲傳語道:「此城是王羆塚,死生在此,汝等何人善戰,請來一決雌雄!」歡知不可攻,乃移駐許原。

 『北史』ではこの発言を大統元年(535)の戦いの際の事としている。

┃宇文深、大軍を前に祝う

 冬、10月、壬辰(1日)[1]宇文泰軍は沙苑[2]⑴に到り、高歓軍と六十余里(約25キロ、東京〜横浜間)の距離に迫った。
 このとき諸将はみな歓の大軍を前に恐れを見せたが、ただ尚書直事郎中の宇文深のみ、泰に祝いの言葉を述べた。泰はこれを訝しがって言った。
「賊どもの大軍がやってきたというのに、何を祝うことがある?」
 深は答えて言った。
高歓は智謀に乏しくはありますが、河北の人々をよく手懐けており、その力を尽くさせることができます。ゆえに、もし該地にて守りを固められると、容易に滅ぼすことができぬ難敵となります。しかし歓はそれをせず、本拠より遠く離れたこの地に渡河してやってきたのです。しかも、この一挙は人々の要求に応えたものではなく、ただ先の戦いで竇泰を失ったという恥をすすぎたいがために、諌めを振り切ってまで起こしたものなのです。これはいわゆる忿兵[3]というもので、まさに与し易い相手。今これと戦えば、たった一度の戦いで滅ぼすことができましょう。かような好機が目前に迫っておりますのに、どうして祝わずにいられましょうか。丞相、どうか私に一節(割符、命令証明書)をお貸しくださいませ。私はそれで王羆の兵を発し、負けて逃げる歓軍の退路を断って殲滅してご覧に入れましょう。」
 泰はこれに頷いた[→537年⑶参照]。

10月、癸巳(2日)、泰軍は歓軍を大破した。〕

○周文帝紀
 冬十月壬辰,至沙苑,距齊神武軍六十餘里。
○周27宇文深伝
 是冬,齊神武又率大眾度河涉洛,至於沙苑。諸將皆有懼色,唯深獨賀。太祖詰之,曰:「賊來充斥,何賀之有?」對曰:「高歡之撫河北,甚得眾心,雖乏智謀,人皆用命,以此自守,未易可圖。今懸師度河,非眾所欲,唯歡恥失竇氏,愎諫而來。所謂忿兵,一戰可以擒也。此事昭然可見,不賀何為。請假深一節,發王羆之兵,邀其走路,使無遺類矣。」太祖然之。

 [1]考異曰く、北斉紀には「十一月、壬辰」とあり、魏紀には「十月、壬辰」とある。十月は壬辰が朔日であり、この歳の十一月に壬辰は無い。ゆえに、北斉紀の記述は誤りと言える。
 [2]沙苑…水経注曰く、「沙苑は渭水の北にあり、沙苑の南には漢の懐徳県の故城がある。」
 ⑴沙苑…《元和郡県図志》曰く、『馮翊県(華州)の南十二里にある。』《読史方輿紀要》曰く、『沙苑は同州(華州)の南十二里にある。別名を沙阜という。《水経注》曰く、「洛水は東に流れて沙阜の北を通る。阜(丘)は東西八十里、南北三十里あり、俗名を沙苑という。苑の南には渭水が流れている。」
 ⑵宇文深…字は奴干。宇文泰の族子で、宇文測の弟。剛直な性格で智謀に優れた。爾朱栄→孝武帝→宇文泰に仕えた。小関の戦いのさい竇泰を討つよう進言し、西魏を勝利に導いた。のち恒農攻略を進言してこれも成功に導き、宇文泰に「我が家の陳平」と絶賛された。
 [3]忿兵…前漢の魏相曰く、「小さなことを根に持って、大局を見ずに軽率に戦いを起こす。これを忿兵といい、その軍隊は必ず敗れる。」

┃王羆、河東を鎮守す


〔西魏が勝利の勢いに乗って東魏の泰州(河東)を陥とした。〕
 西魏は華州刺史・覇城県公の王羆を泰州刺史とし、一連の功を以て爵位を扶風郡公に進めた。
 また、開府・領軍将軍の寇洛を侍中・華州刺史とした。

○周15寇洛伝
 又轉領軍將軍。三年,出為華州刺史,加侍中。
○北62王羆伝
 後移鎮河東,以前後功進爵扶風郡公。

┃趙青雀の乱



大統四年(538)、8月、辛卯(4日)宇文泰が河橋にて東魏軍と激突し敗北を喫した。
 西魏は洛陽への出兵に多くの兵を割き、関中にあまり兵を残していなかった。このとき関中に分置されていた東魏の投降兵たちは、西魏軍が敗北したのを聞くと一斉に叛乱を起こして略奪を始めた。もと東魏の都督の趙青雀らはこれを見るや、彼らを手元に収め、長安や咸陽に攻め寄せた。〕

 河橋にて西魏軍が敗れたことや、青雀らが長安を占拠したことは、西魏領内の人心を動揺させずにはおかなかった。河東(泰州の治所。蒲坂)を守備していた西魏の扶風公の王羆は、そこで大いに州庁の門を開き、守兵を集めてこう言った。
「今、天子は戦いに敗れて安否が不明となり、人心はひどく動揺している。だが、わしはあくまで命令どおりこの城を守り、一死(一命、自分の命)をもって国恩に報いるつもりだ。諸君の中に二心のある者がいるなら、来たりてわしを殺すがよい。城を守り抜く自信の無い者がいるなら外に出るがよい。わしは、国に忠で、わしと心を同じくする者だけで城を守り抜く。」
 兵士たちはその忠義心に感じ入り、全員が城に残って守備についた。

 泰軍が叛乱を鎮圧し長安に帰還すると、羆は雍州(長安)刺史とされた[→538年⑶参照]。
 
○北62王羆伝
 後移鎮河東,以前後功進爵扶風郡公。河橋之戰,王師不利,趙青雀據長安城,所在莫有固志。羆乃大開州門,召城中戰士謂曰:「如聞天子敗績,不知吉凶,諸人相驚,咸有異望。王羆受委於此,以死報恩。諸人若有異圖,可來見殺。必恐城陷沒者,亦任出城。如有忠誠,能與王羆同心,可共固守。」軍人見其誠信,皆無異心。及軍還,徵拜雍州刺史。


┃柔然の侵攻


 大統六年(540)、春、柔然が兵をこぞって黄河を押し渡り、西魏領を侵犯した。その先鋒は夏州にまで到り、北辺を略奪して回った。

 宇文泰は諸軍を沙苑に集め、柔然の侵攻に備えた。
 このとき、柔然の斥候の騎兵は豳州にまで到っていた。朝廷はこれに驚き恐れ、直ちに兵馬を長安に集めたり、市街のあちこちに塹壕を掘ったりしてその侵入に備えようとした。右僕射の周恵達がその相談をするために雍州刺史の王羆を呼ぶと、羆はこれに応じず、横になったまま使者にこう言った。
「もし蠕蠕(柔然)が渭水の北まで来たなら、わしが郷里(京兆、長安の近東)の兵を率いて撃ち破る。わざわざ国家の兵のお出ましを願うまでも無いわ。そもそも、天子のおわす城中がこのような騒ぎになったのは何故か! 周家の小倅が臆病だからだ!」
 羆が権貴におもねらず、自分の正しいと思ったことを貫くさまはこんなふうであった

 柔然はやがて退いた[→540年参照]。
 間もなく、羆は再び河東を鎮守した。

○資治通鑑
 柔然至夏州而退。
○周文帝紀
 夏,茹茹度河至夏州,太祖召諸軍屯沙苑以備之。
○周18・北62王羆伝
 時茹茹(蠕蠕)渡河南寇,候騎已至豳州。朝廷慮其深入,乃徵發士馬,屯守京城,塹諸街巷,以備侵軼。左(右)僕射周惠達召羆議之。羆不應命,〔臥而不起,〕謂其使曰:「若茹茹(蠕蠕)至渭北者,王羆率鄉里自破之,不煩國家兵馬。何為天子城中,遂作如此驚動! 由周家小兒恇怯致此。」羆輕侮權勢,守正不回,皆此類也。未幾,還鎮河東。


 ⑴周恵達…字は懐文。?~544。父は北魏の県令。美男で立ち居振る舞いに立派なものがあった。読書家で、謙虚で仕事熱心で、多くの人材を推挙した。512年に北魏の斉王の蕭宝寅に仕え、宝寅が雍州にて叛乱を起こしても従い続けた。宝寅が敗れると賀抜岳に従い、常に留守を任されるなど重用を受けた。岳が侯莫陳悦に殺されると悦から登用を持ちかけられたが拒否して逃げ隠れた。悦が滅ぶと宇文泰に仕え、岳の時と同じ待遇を受けた。538年、兼尚書右僕射とされ、長安にて趙青雀が叛乱を起こすと太子と共に渭橋の北に出て防戦した。544年、死去した。


┃廉直・厳急の人
 王羆は倹約家で、身なりに頓着しなかった。ある時、朝使がやってくると、羆は食事を用意してもてなした。朝使は〔硬くて厚い〕薄餅の縁をちぎって食べなかった。すると羆は言った。
「苗を植え、収穫するのには非常な労力が要り、米を搗いて餅を作るのにも大変な手間がかかるのです。それなのにこのような食べ方をなさるとは。きっと餓えた事が無いのでしょうな。」
 かくて傍の者に命じて食事を片付けさせた。使者は驚き大いに恥じ入った。
 また、ある客が羆と一緒に瓜を食べた事があった。客は瓜の皮を〔小刀で〕削り取ったが、だいぶ果肉の部分まで一緒に削ってしまっていた。羆はこれを嫌い、瓜の皮が床に落ちると、これを拾い取って食べた。客は非常に恥じ入った。
 また、羆は厳しくせっかちな性格だった。ある時、ある官吏が私情をさしはさんで〔ぐだぐだと〕報告してくると〔怒り、〕人に杖や鞭で打たせるのを命じようとしたが、それももどかしく、遂に自ら靴を手に取って打った事があった。
 宴会の時には自ら酒肉を量って均等に将兵に分け与えた。人々はその公平さを高く評価したものの、瑣末なことまで自分でやるのについては嘲笑した。
 羆のやる事はみな本心から出たもので、裏表が無かったので、数々の職に就くと目立った功績は挙げなかったが、職を去る時に職場の人々から追慕された[→540年参照]。

○周18・北62王羆伝
 羆性儉率,不事邊幅。嘗有臺使,羆為其設食。使乃裂〔去〕其薄餅緣。羆曰:「耕種收穫,其功已深;舂爨造成,用力不少。乃爾選擇,當是未饑。」命左右撤去之。使者愕然大慙(慚)。又有客與羆食瓜,〔客削瓜皮,〕侵膚(肉)稍厚,羆意嫌之。及瓜皮落地,乃引手就地,取而食之。客甚有愧色。性又嚴急,嘗有吏挾私陳事者,羆不暇命捶扑,乃手自取鞾履,持以擊之。每至享會,親自秤量酒肉,分給將士。時人尚其均平,嗤其鄙碎。〔羆舉動率情,不為巧詐,凡所經處,雖無當時功迹,咸去乃見思。〕
○太平広記
 浮休子曰:宇文朝。華州刺史王羆。有客裂餅緣者,羆曰:此餅大用功力,然後入口。公裂之,只是未饑,且擎却。客愕然。又臺使致羆食飯,使人割瓜皮大厚,投地。羆就地拾起,以食之,使人極悚息。出《朝野僉載》


┃死
 大統七年(541)、任地(河東)にて逝去した。太尉・都督・相冀等十州刺史を追贈され、忠と諡された。
 羆は貧素に甘んじ、営利行為をしなかったので、身分が高くなっても郷里(覇城)の実家は粗末なままだった。そのため、羆が亡くなったとき家族は極貧にあえいだ。人々はその廉潔さを称賛した。
 子の王慶遠は二十歳の時に功臣の子を以て直閤将軍とされたが、羆より先に亡くなった。
 孫は王長述

 令狐徳棻曰く…王羆は剛直一点張りの男で、上品さには欠けていたが、質素に甘んじて私よりも公を優先したことは立派であった。また、〔戦場に在っては〕危険に瀕した城にて忠節を発揮し、強敵を前にすれば恐れることなくこれに激しい言葉を投げかけた。〔この烈々たる闘志があったからこそ、〕梁人は〔荊州から〕退き、高氏(東魏)は〔華州に〕攻撃を加えようとしなかったのである。彼が称賛されたのは至極当然のことであった[→541年⑵参照]。

○周18・北62王羆伝
 大統七年,卒於鎮(于官),贈太尉〔、都督、相冀等十州刺史,諡曰忠。羆安於貧素,不營生業,後雖貴顯,鄉里舊宅,不改衡門,身死之日,家甚貧罄,當時伏其清潔。子慶遠,弱冠以功臣子拜直閤將軍,先羆卒。孫述〕。
 …史臣曰:王羆剛峭有餘,弘雅未足。情安儉率,志在公平。既而奮節危城,抗辭勍敵,梁人為之退舍,高氏不敢加兵。以此見稱,信非虛。

 ⑴王長述…本名は述で、長述は字。?~584?。西魏の開府の王羆の孫で、直閤将軍の王慶遠の子。幼少の頃から聡明で礼法をわきまえ、八歲の時に宇文泰に「王公にこの孫がいるなら、王家は不朽であろうな」と絶賛された。早くに父を亡くし、祖父の羆に育てられた。羆が死ぬと辞職して酷く嘆き悲しみ、特例として最後まで喪に服する事を許された。のち万紐于謹(于謹)の江陵平定(554年)の際に功を立てた。のち広州刺史とされると善政を行ない、襄・仁二州の総管とされると敏腕の評を得た。普六茹堅が丞相となると上大将軍・信州総管とされた。可頻謙が挙兵すると味方に付くよう誘われたが拒否し、堅に付いて行軍総管とされ、楚・合など五州を陥とし、柱国とされた。隋が建国されると文帝に平陳の計策を献じ、戦艦を建造して長江上流軍を組織し、帝に「公の献じる計画はいつも非常に素晴らしい。陳討伐の暁には必ず公を元帥にしよう。」と約束された。のち、行軍総管とされて爨蛮討伐に向かったが、道中にて病死した。上柱国・冀州刺史を追贈され、荘と諡された。

 
┃宇文泰に仕える



 のち、撫軍将軍(従二品)・行南秦州事・覇城県公の王羆は行秦州事とされた

永熙三年(534)、晋陽にいた北魏の大丞相・勃海王の高歓が、孝武帝のいる洛陽を攻めた。〕

 羆は行秦州事とされたのち間もなく車騎大将軍・涇州刺史とされた。しかし、赴任する前に関西大都督・略陽県公の宇文泰が兵を集めて勤王の軍を起こすと、命を投げ出してその先鋒を務めたいと申し出た。泰はこれを聞き入れて羆を大都督とし、華州を鎮守させた。

 泰は諸将にこう言った。
高歓は知恵が足りないとはいえ、詐術をよく用いる。いま西方に向かわんと高らかに宣言しているが、その真の狙いは入洛であろう。そこでわしは寇洛に一万余を与えて涇州より東進させ(寇洛は涇州刺史)、王羆に一万を与えて先んじて華州に陣取らせておくことにする。さすれば、歓が本当に宣言どおり西に来ても王羆にこれを防がせることができるし、入洛したとしても寇洛に直ちに汾・晋(そのまま汾州・晋州の意味か、あるいは汾水が流れる晋陽一帯)を襲わせる事ができる。このようにした上で、わし自ら軍を率いて都に急行すれば、歓は進んでは後方を脅かされ、退いては追撃に遭うことになり、一挙に大勢が決しよう。これこそ上策である。」
 諸将はみなこれに賛同した[→534年⑷参照]。

○周文帝紀
 太祖謂諸將曰:「高歡雖智不足而詐有餘,今聲言欲西,其意在入洛。吾欲令寇洛率馬步萬餘,自涇州東引;王羆率甲士一萬,先據華州。歡若西來,王羆足得抗拒;如其入洛,寇洛即襲汾晉。吾便速駕,直赴京邑。使其進有內顧之憂,退有被躡之勢。一舉大定,此為上策。」眾咸稱善。
○周18・北62王羆伝
〔又詔羆行秦州事。〕尋遷車騎大將軍、涇州刺史。未及之部,屬太祖徵兵為勤王之舉,請前驅効命,遂為大都督,鎮華州。

 ⑴詳細な時期は不明。530~1年は汝陽王暹、531~534年は侯莫陳悦が秦州刺史を務めている。悦の死後の事か?
 ⑵高歓…字(鮮卑名)は賀六渾。496~547。懐朔鎮の出身。頭が長く頬骨は高く、綺麗な歯をしていた。貧しい家に生まれたが、大豪族の娘の婁昭君の心を射止めて雄飛のきっかけを得た。杜洛周→葛栄→爾朱栄に仕えて親信都督→晋州刺史とされ、栄が死ぬと紇豆陵步蛮を大破して栄の後継の爾朱兆の信を得、もと六鎮兵の統率を任された。その後冀州にて叛乱を起こし、爾朱氏を滅ぼし、大丞相となって北魏の実権を握った。534年、孝武帝が関中の宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建て、西魏と長きに亘って激闘を繰り広げた。
 ⑶孝武帝…元修。北魏の十二代皇帝。510~534。在位532~534。六代孝文帝の孫。母は李氏。素朴で寡黙な人柄で、人情に厚く、広く学問を学んで武芸を好み、全身に龍の鱗のような紋様があった。十八歳の時に汝陽県公とされた。夢にて「お前は非常に尊い身分となり、二十五年にして亡くなるだろう。」と予言された。 530年に平陽王、普泰年間(531~532)に侍中・尚書左僕射とされた。532年、華北の覇者となった高歓に擁立された。女性関係が乱れており、従妹三人と関係を持った。やがて歓と対立するようになり、534年、攻撃を受けると関中の宇文泰のもとに逃げ込んだが、間もなく亡くなった。
 ⑷宇文泰…字(鮮卑名)は黒獺。507?~556。匈奴(鮮卑化)宇文部の出。北魏末に爾朱栄に仕え、関中平定の際に大いに活躍した。のち爾朱天光→賀抜岳に仕えて関西大行台左丞・府司馬とされ、右腕として活躍した。のち夏州刺史とされ、岳が侯莫陳悦に殺されると遺衆を引き継いで悦を討ち、関中の実力者となった。孝武帝が高歓と対立して亡命してくるとこれを迎え入れて西魏を建国し、丞相とされた。間もなく帝を殺害して文帝を立て、華北の大半を掌握した歓と小関・沙苑にて戦い、寡にして良く衆を破ったが、続く河橋・邙山の戦いでは善戦するも敗北を喫した。548年、太師とされた。梁が侯景の乱によって乱れると南方に目を向け、漢中・成都・襄陽・江陵の地を攻略し、領土を大きく広げることに成功した。556年、六官の制を採用して大冢宰に就いた。
 ⑸寇洛…487~539。上谷昌平の人。父の代に武川鎮に移住した。物の道理をよくわきまえ、小さなことにこだわらなかった。六鎮の乱が起こると山西の群雄の爾朱栄に仕え、同郷の賀抜岳に従って関中征伐に赴き、常に力戦して功を挙げ、衛将軍・右都督・安鄉県子とされた。岳が侯莫陳悦に殺されると後継者とされたが、間もなく辞退して宇文泰に譲り、右大都督とされた。のち涇州刺史とされた。

┃華州の動揺を鎮む



8月孝武帝が関中に逃走した。〕
 羆は車騎大将軍・儀同三司とされ、別封として万年県伯を授かり、華州刺史とされた。
 辛酉(11日)高歓が洛陽を発ち、自らを追った。
 歓は恒農に到り、潼関を攻め陥とし、更に進軍して華陰の長城に到った。
 歓の勢いに華州の人心は動揺したが、刺史の王羆がよく兵を鼓舞して統制を維持したので沈静化した。
 一方、宇文泰は諸軍を率いて覇上に陣を布き、歓を迎撃する姿勢を示した。
 すると歓は河東に退いた。
 羆は驃騎大将軍とされ、侍中・開府を加えられた[→534年⑸参照]。

○資治通鑑
 九月,癸巳,使行臺僕射元子思帥侍官迎帝;己酉,攻潼關,克之。
○魏出帝紀
 辛酉,齊獻武王西迎車駕。
○周文帝紀
 八月,齊神武襲陷潼關,侵華陰。太祖率諸軍屯霸上以待之。齊神武留其將薛瑾守關而退。
○北斉神武紀
 神武尋至恒農,遂西剋潼關,…進軍長城,…神武退舍河東。
○北62王羆伝
 孝武西遷,進車騎大將軍、儀同三司,別封萬年縣伯,乃除華州刺史。齊神武率軍進潼關,人懷危懼,羆勸勵將士,眾心乃安。

 ⑴《読史方輿紀要》曰く、『華州(東雍州)の東七十里→華陰県の西二里にある。北魏の永熙末に高歓が魏主修を追って潼関を攻め陥とし、華陰の長城に進駐したのがこれである。』

┃老羆死すとも、ムジナは通さぬ!



 大統元年(535)、正月、東魏大行台尚書の司馬子如が大都督の竇泰・泰州[1]刺史の韓軌らを率いて潼関を攻めた。宇文泰は覇上に軍を進めてこれに対した。すると子如は軌と共に転進し、夜の内に蒲津より黄河を渡り、華州(武郷)を攻めた。
 このとき州城の修築はまだ終わっておらず、そのための梯子が城外に残されたままだった。夜明け頃、東魏軍はその梯子を使って城内に侵入した。刺史の王羆は庁舎の外の騒々しさに目を覚ますと、着の身着のまま冠も着けず靴も履かず、白梃(大きな棍棒)を片手に外に飛び出し、こう叫んだ。
「老羆(王羆は太和年間〈477~499〉に殿中将軍に任じられているので、少なくともこの時50は越えているように思われる)死すとも、ムジナは通さぬ!」
 東魏兵はこれに驚いて逃げ去った。羆はこれを追う内に集まった自軍の兵を率い、東魏軍と東門に合戦し勝利した。子如らは攻略を諦め撤退した[2]宇文泰はその勇敢さを褒め称えた[→535年⑴参照]。

○資治通鑑
 東魏大行臺尚書司馬子如帥大都督竇泰、太州刺史韓軌等攻潼關。…東魏人見之驚卻。羆逐至東門,左右稍集,合戰,破之,子如等遂引去【兵以氣勢為用;兵之勇怯,恃主帥以為氣勢。王羆勇於赴敵而其左右又勇於戰,此其所以於不備不虞之中而能卻敵也。】。
○周文帝紀
 魏大統元年春正月…東魏遣其將司馬子如寇潼關,太祖軍霸上,子如乃回軍自蒲津寇華州,刺史王羆擊走之。
○周18・北62王羆伝
〔神武退,拜驃騎大將軍,〕加侍中、開府。嘗修州城未畢,梯在〔城〕外。齊神武遣韓軌、司馬子如從河東宵濟襲羆,羆不之覺。比曉,軌眾已乘梯入城。羆尚臥未起,聞閤外洶洶有聲,便袒身露髻徒跣,持一白挺(棒),大呼而出〔,謂曰:「老羆當道臥,貉子那得過!」〕。敵見之驚〔退〕,逐至東門,左右稍集,合戰破之。軌眾遂投城遁走。〔文帝聞而壯之。〕

 ⑴司馬子如…本名は遵業。子如は字(墓誌)。生年489、時に47歳。名門の河内司馬氏の出とされる。西晋が乱れると涼州に避難し、のち北魏の支配を受けると雲中に移住させられたという。父は魯陽太守。北魏に仕えて懷朔省事とされ、劉貴・賈顕智と共に高歓の奔走の友となった。口が達者で、爾朱栄に仕えると重用を受けた。528年、栄が洛陽を攻める際、建興太守とされた。のち平遥県子・大行台郎中とされ、何度も洛陽への使者とされた。葛栄との戦いの際には相州を守った。葛栄が滅ぶと侯とされた。元顥が入洛した際、行相州事とされた。爾朱栄が孝荘帝に誅殺されると栄の妻子を連れて洛陽を脱出した。この際、爾朱世隆に引き返して洛陽を攻めるよう進言した。長広王曄が即位すると兼尚書右僕射とされ、節閔帝が即位すると侍中・驃騎大将軍・陽平郡公とされた。高歓が挙兵すると疑われて南岐州刺史とされた。爾朱氏が滅ぶと歓に仕えて大行台尚書とされた。東魏が建国されると左僕射とされ、『四貴』の一人となり、信任を頼みに好き勝手に振る舞った。
 ⑵竇泰…字は世寧(墓誌では『寧世』)。生年500、時に36歳。大安の人で、本姓は紇豆陵? 知勇兼備の名将。祖父が統万鎮将を務めた関係で北辺に居住するようになった。父は破六韓抜陵の乱の際に懐朔鎮を固守して殺害された。立派な容姿を備え、若年の頃から聡明で、類稀な義侠心と勇気を有した。また、多くの書物を読み漁り、特に『三略』『六韜』や『司馬法』『孫子』を好んだ。馬の乗り降りは飛ぶが如くで、馬を駆る姿は絵になり、矢を放てば勢い強く、狙いを外す事が無かった。高歓の妻・婁昭君の妹の婁黒女を娶った。父兄が懐朔鎮にて戦死すると、自らその骨を背負って爾朱栄に帰した。のち栄が洛陽を陥とす際、前鋒都督とされた。のち邢杲討伐に功を挙げて驍騎将軍・広阿県子とされた。高歓が晋州刺史となるとその鎮城都督となり、軍議に参加する権利を与えられた。531年の広阿の決戦の際には反間の計を提案した。のち顕州刺史や蔚州刺史とされた。533年、精騎を率いて一昼夜五百里の強行軍を行ない、爾朱兆を奇襲した。のち相州刺史とされ、534年に歓が洛陽の孝武帝を攻める際に滑台を攻めた。東魏が建国されると京畿大都督・領御史中尉とされた。あまり弾劾を行なう事はなかったが、威厳によって百官を恐れさせ、襟を正させた。
 [1]泰州…河東郡に置かれ、河東と北郷の二郡を管轄した。
 ⑶韓軌…字は百年。太安の人。本姓は破六韓。別名匈奴? 高歓の側室の韓氏の兄。大人しく感情を表に出さず、謙虚で富貴の身となっても驕らなかった。高歓に「やや愚か」と評された。歓が晋州刺史とされると鎮城都督とされた。歓の挙兵に賛同し、中軍大都督とされて戦功を立て、平昌県侯とされた。のち爾朱兆を討伐した。のち泰州刺史とされると善政を行ない、歓が泰州を巡察した際に連れ帰ろうとすると城民の引き止めを受けそのままとされた。
 [2]軍隊というものは士気があって初めて用を成す。兵の勇怯というものは、それを率いる者にかかっている。王羆が勇敢に戦場に赴いたからこそ部下たちも勇敢に戦い、不意を突かれても撃退することができたのである


┃関中大飢饉


 二年(536)、西魏の関中にて大飢饉が起こり、人間同士が食らい合い、十人の内七・八人が飢え死にする惨状を呈した(クラカタウの大噴火の影響?)。
 朝廷は兵糧に不足を来したため、民間から食糧を徴発してこれに充てたが、隠匿する者がいたので密告を奨励した。その結果多くの者が鞭打たれたため、人々はこれを恐れてあちこちに逃散した。しかし、ただ華州だけは刺史の王羆が民に信頼されていたために隠匿するもの無く、結果諸州に比べて多くの食糧が徴発されることになったが、それでも州民に恨み言を言う者はいなかった[→536年⑵参照]。

○北史西魏文帝紀
 是歲,關中大飢,人相食,死者十七八。
○周18王羆伝
 時關中大饑,徵稅民間穀食,以供軍費。或隱匿者,令遞相告,多被篣棰,以是人有逃散。唯羆信著於人,莫有隱者,得粟不少諸州,而無怨讟。


 王羆伝⑶に続く