[北魏:熙平三年→神亀元年 梁:天監十七年]
┃人民救済
春、正月、丁巳朔(1日)、梁の武帝が詔を下して言った。
「生まれた土地で楽しむのは含識(仏語。心を有するもの)の常性であり、『下を厚くし安宅を安んずる』(《易経:剥卦象辞》。君主は民に厚く施す事で自分の地位を安泰にする)のは、治世の常道である。朕は民を憐れみ、夜明け前には起床して政治に勤しむ事を忘れず、何度も人口増加・生活向上策を打ち出し、常に支援を行なってきたが、未だに戸籍に登録された民の数は増えず、流民の発生が続いてしまっている。果たして民は嬉々として故郷を捨て去っているのだろうか? いや、そうでは無い。財産を殆ど無くして帰る手段を失ってしまっているだけである。『巣南』⑴の心をどうして鎮める事ができようか。今は新しい年が始まり、万物が生まれ変わる時に当たる。そこで民の生活を支援し、おのおのが元いた土地に帰る事ができるようにして、郡県に空き地があるのを、町村に流民が出るのを無くし、『鶏犬相い聞こえ』(《老子》80。飼っている鶏や犬の鳴き声があちこちから聞こえること。民家が連なっている事を指す)、桑の木や柘の木(どちらもカイコの餌となる葉をつける)が生い茂ってあぜ道に交差するようにしたい。よって今より、天監十七年正月一日以前に他境に流れ住んだ者は半年の猶予期間中に元の土地に帰ることを赦し、更に税を三年免除する事とする。元いた土地と離れすぎている場合は、距離に合わせて期間を延ばす。もし帰りたくない者がいるなら、即座にその土地の戸籍に編入し、以前のように税を課す。もし流浪中に故郷にある土地や家を失っていた場合は、村長・三老(村の統治を円滑にするために置かれた三人の長老)および親族が県の役所に出向き、村内にある官有の土地や住宅を請求して、失っていた者に提供するようにせよ。市埭(市場・堤防通行税)の諸職を担当して横領や税税収の低下の罪に問われて財産を没収された場合、田宅・車牛は生活に必要な物であるゆえ、全て没収する事はせず、情状酌量して加減するようにせよ。商人や富豪が勝手に自分の物にする事は、もちろん許さぬ。逃亡者は罪の軽重を問わず、自首してくれば赦し、平民の列に戻す。もし罰を受けたいと望むならもとの徭役に復帰させよ。〔尚書省は〕条文を作り、この事を天下に周知させよ。」
甲子(8日)、北魏が氐族の酋長の楊定を陰平王とした(前任は楊炅?)。
丙寅(10日)、特進〔・侍中・驃騎将軍・領軍将軍〕の江陽王継⑵を驃騎大将軍・儀同三司とした。特進・領軍はそのままとした。
壬申(16日)、北魏の孝明帝⑶が詔を下して言った。
「朕は幼く愚かな身で即位したため、政道を安定させる事ができず、民の苦悩を救う余裕が無かった。朕は朝夕この事を考えては同情し、うたた寝しては夢に見る有様である。そこで今、人民のうち高齢の者に恩情をかけ、天下に朕の苦しい心の内を示したいと思う。よって今、畿内にいる百歳以上の者に大郡板を与え、九十歳以上の者に小郡板を与え、八十歳以上の者に大県板を与え、七十歳以上の者に小県板を与える。また、諸州にいる百歲以上の者に小郡板、九十歳以上の者に上県板、八十歳以上の者に中県板を与える。また、鰥寡孤独(妻を亡くした男・夫を亡くした女・親を亡くした子ども・子の無い老人)で自活できない者に粟五斛・絹二疋を与える事とする。」(懐も痛まない都合のいいやり方である)
庚辰(24日)、詔を下し、雑役戸(平民以下奴隷以上の身分)出身に関わらず官職に就いている者はみな五人の保証を受けなければならないとし、受けられなかった者は官職を剥奪して雑役戸に返した。
乙酉(29日)、特進の汝南王悦⑶を儀同三司とした。
○魏孝明紀
神龜元年春正月甲子,詔以氐酋楊定為陰平王。丙寅,以特進、江陽王繼為驃騎大將軍、儀同三司。壬申,詔曰:「朕沖昧撫運,政道未康,民之疾苦,弗遑紀恤,夙宵矜慨,鑒寐深懷,眷彼百齡,悼茲六極。京畿百年以上給大郡板,九十以上給小郡板,八十以上給大縣板,七十以上給小縣板;諸州百姓,百歲以上給小郡板,九十以上給上縣板,八十以上給中縣板;鰥寡孤獨不能自存者,賜粟五斛、帛二匹。」庚辰,詔以雜役之戶或冒入清流,所在職人皆五人相保,無人任保者奪官還役。乙酉,加特進、汝南王悅儀同三司。
○梁武帝紀
十七年春正月丁巳朔,詔曰:「夫樂所自生,含識之常性;厚下安宅,馭世之通規。朕矜此庶氓,無忘待旦,亟弘生聚之略,每布寬卹之恩;而編戶未滋,遷徙尚有,輕去故鄉,豈其本志?資業殆闕,自返莫由,巢南之心,亦何能弭。今開元發歲,品物惟新,思俾黔黎,各安舊所。將使郡無曠土,邑靡游民,鷄犬相聞,桑柘交畛。凡天下之民,有流移他境,在天監十七年正月一日以前,可開恩半歲,悉聽還本,蠲課三年。其流寓過遠者,量加程日。若有不樂還者,即使著土籍為民,准舊課輸。若流移之後,本鄉無復居宅者,村司三老及餘親屬,即為詣縣,占請村內官地官宅,令相容受,使戀本者還有所託。凡坐為市埭諸職割盜衰減應被封籍者【[二四]「減」各本作「滅」。據文館詞林六七0、冊府元龜一九一改。割盜衰減,是割盜諸稅及稅收衰減之意。】,其田宅車牛,是民生之具,不得悉以沒入,皆優量分留,使得自止。其商賈富室,亦不得頓相兼併。遁叛之身,罪無輕重,並許首出,還復民伍。若有拘限,自還本役。並為條格,咸使知聞。」
○魏16江陽王継伝
尋加侍中、驃騎大將軍、儀同三司,特進、領軍如故。
⑴《古詩十九首:行行重行行》に『胡馬は北風に依り、越鳥は南枝に巣くう(北生まれの馬は南にいても北風が吹くとこれに寄りすがり、南生まれの鳥は北にいても南に伸びる枝に巣を作る)』とある。 ⑵江陽王継…字は世仁(仁世)。生年464、時に55歳。道武帝の昆孫で、南平王霄の第二子。元叉の父。娘は侯剛の子の妻。子が無いまま死んだ江陽王根の跡を継いだ。温和寛容な性格で長者と呼ばれたが、貪欲だった。孝文帝の時に撫冥鎮都大将→都督柔玄撫冥懐荒三鎮諸軍事・柔玄鎮大将とされた。のち左衛将軍・兼中領軍とされ、洛陽の留守を任された。のち平北将軍とされて平城を鎮守した。498年に高車酋帥の樹者が叛乱を起こすと都督北討諸軍事とされて討伐を命じられた。このとき戦わずして叛徒の多くを帰順させ、孝文帝に「江陽王は大任を任せるに足る」と激賞を受けた。宣武帝が即位すると青州刺史→恒州刺史→度支尚書とされたが、青州刺史の時に飢饉が起きた際、州民の娘を家僮の妻にしたり良民を下女にした事が問題視されて官爵を剥奪された。514年に徐揚の鎮守を任された。子の元叉の妻の姉の胡太妃が皇太后となると尚書とされ、もとの爵位への復帰を許された。間もなく侍中・領軍将軍とされ、更に特進・驃騎将軍を加えられた。517年⑵参照。
⑶孝明帝…元詡。生年510、時に9歳。在位515~。八代宣武帝の次子。母は胡充華。北魏九代皇帝。512年に太子に立てられた。515年、父が死ぬと于忠・崔光らによって皇帝に擁立されたが、幼いため母の胡太后の摂政を受けた。517年⑴参照。
⑶汝南王悦…元悦。孝文帝の第六子。母は羅夫人(叱羅夫人)。宣武帝の異母弟で、清河王懌の同母弟。仏典や史書を読むのを好んだ。503年に汝南王とされた。多くの不法行為を働き、つまらない者を近づけたため、516年、郎中令の陽固に強く諌められた。特進とされ、517年、中書監・儀同三司とされた。奇矯な振る舞いが多く、左道に入れ込み、自ら城外に出て素材を集めて仙薬を調合したり、酒肉・粟稲を断って麦飯だけを食べたりした。また、女色を遠ざけて男色を好み、妃妾を下女のように扱ってよく鞭打った。間もなく殺人の罪で免官となった。517年⑵参照。
┃秦州羌の乱
この日、秦州の羌族が叛乱を起こした(この頃、秦州刺史を務めていた元修義は賄賂政治を行なっていた)。
┃幽州大飢
これより前、宣武帝が崩御した時(515年)、〔長兼散騎侍郎・領左右・直長の〕趙邕⑴は兼給事黄門とされ、間もなく太府卿とされた。のち、平北将軍・幽州刺史とされると(前任は崔休?)州民から搾取を行なった。
この日、幽州にて大飢饉が起こり⑵、三千七百九十九人が餓死した⑶。また、正月から六月まで雨が降らなかった。北魏は刺史の趙邕に倉を開いて救済するよう命じた。
ある時、邕は范陽の盧氏に結婚を申し込んだ。盧氏の父親は早くに亡くなっていたため、叔父が代わりに許可したが、母の陽氏は反対した。陽氏は盧氏を北平の実家に連れて帰り、家の中に隠して結婚から免れようとした。すると邕は叔父を拷問して〔盧氏の居場所を吐かせようとした。しかし叔父は口を割らず、〕死んでしまった。陽氏がこれを朝廷に訴えると、朝廷は中散大夫の孫景安に捜査を命じた。その結果、邕は死刑の判決が下されたが、たまたま大赦があり死を免ぜられた。ただ、なお官籍から除名するべきという意見が大勢を占めたため、再審が行なわれたが、当時廷尉を務めていた臨淮王彧⑷は何年もの間判決を下すことができなかった⑸。
○魏孝明紀
幽州大饑,民死者三千七百九十九人,詔刺史趙邕開倉賑恤。
○魏天象志月異
十月癸卯,月暈昴、畢、觜、參、五車四星。甲辰,月暈畢右股、觜、參、五車三星、東井。占曰「天下饑,大赦」。神龜元年正月,幽州大饑,死者甚眾,開倉賑恤;又大赦天下。
○魏天象志星変
十月,幽、冀、滄、瀛大饑。是月,月再暈畢、參、五車。占曰「饑,赦」。明年,幽州大饑,死者數千人,自正月不雨至六月。是歲,四夷反叛,兵大出,又赦改元。
○魏93趙邕伝
世宗崩,邕兼給事黃門,俄轉太府卿。出除平北將軍、幽州刺史。在州貪縱。與范陽盧氏為婚,女父早亡,其叔許之,而母不從。母北平陽氏攜女至家藏避規免,邕乃拷掠陽叔,遂至於死。陽氏訴冤,臺遣中散大夫孫景安研檢事狀,邕坐處死,會赦得免,猶當除名。自理經年,臨淮王彧時為廷尉,久不斷決。
⑴趙邕…字は令和。自称南陽の人。祖父は趙嶽。父は趙怡。色白でくっきりとした髭と眉を備え、物事に明るく、謙虚で勤勉だった。少年の時に司空の李沖の小姓を務め、働きぶりを認められてその子どもたちと遊ぶ事を許された。太和年間に孝文帝の身辺に侍って世話をし、のち殿中監とされた。宣武帝が即位したのちも留任した。寵臣の趙修とは同姓を理由に結託はしたが、仲は非常に悪かった。のち殿中将軍とされたが、依然として殿中監を兼務した。父は長らく職に就けずにいたが、邕が寵用されるに至り荊州刺史や金紫光禄大夫とされた。帝が郊廟に出入りする際、常に奉車都尉とされ、轡を執って修と共に車に同乗した。人々は密かに邕と趙修を『二趙』と呼んだ。のち長兼散騎侍郎・領左右・直長とされ、宮中に出入りした。 ⑵517年10月にも幽・冀・滄・瀛州にて大飢饉が発生している。このとき、北魏は長孫稚らを派遣し、倉を開いて穀物を配るなどして多くの人々を救うことに成功したという。
⑶554年の《魏書》完成頃、幽州の戸籍人口は『十四万五百三十六』人だったという。
⑷臨淮王彧…元の名は亮、字は仕明→文若。済南康王昌(三代太武帝系)の子。若年の頃から才能・学識に優れ、非常な名声を博した。崔光に「『黒頭三公』(若くして三公となる者)とはまさにこの人である」と絶賛された。安豊王延明・中山王熙と共に皇族の博古・名文家と評され、盧道将に 「三人の才能・学識に優劣は無いが、安豊・中山は済南(彧)の風流温雅さには敵わない」と評された。また、人々に「三王はみな清らかで美玉の極致のようであるが、済南の円方(完全無欠さ)には敵わない」と評された。立ち居振る舞いはゆったりとしていて話しぶりは流麗であり、王誦は彧に会うと必ず酔ったようになって疲れを忘れた。出仕して前軍将軍・中書侍郎とされた。ある時、郊廟歌の歌詞を上奏すると出来栄えを称賛された。のち給事黄門侍郎とされた。この時、上司の穆紹の父の穆亮の諱を避けるため、上表して改名を求めると、「仕明(彧)は風采に気品があり話しぶりは流麗であり、常に自らを荀文若(曹操の名軍師の荀彧)に比しているゆえ、以後は彧と名乗り、体と名が一致する美しさを取るが良い」との詔が下され、字も文若に改めた。のち祖父の爵位である臨淮王に戻ることを許された。また、長兼御史中尉とされたが、当然の事として執政の于忠に礼を述べに行かなかったため怒りを買い、罷免された。515年⑷参照。
⑸図らずも于忠の「臨淮は風流さは見るべきものがあるとはいえ、剛直な精神に欠けているので〔忖度無く弾劾を行なうべき〕中尉の任には堪えられぬ恐れがある」という言葉が真実になってしまったのである。
┃安成王秀の死
〔これより前、(517年7月18日)、梁が都督郢司霍三州諸軍事・安西将軍・郢州(江夏)刺史の安成王秀⑴を使持節・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・鎮北将軍・寧蛮校尉・雍州(襄陽)刺史としていた。〕
2月、癸巳(7日)、竟陵郡の石梵県(襄陽の東南)⑵に到った所で薨去した(享年44)。
武帝⑶はこれを聞くと非常に悼み悲しみ、皇子〔で宣毅将軍・領石頭戍軍事〕の南康王績⑷に遺体を引き取りに行かせた。
これより前、秀が郢州を出立した時、郢州民はこれを境外まで出て見送り、秀が病に倒れた事を聞くと快癒するよう神仏に祈りを捧げた。秀が亡くなると四州(のちに迎送とあるので建康までの道のりにある荊州・郢州・江州・揚州か? 秀がこれまで赴任した南徐州・江州・荊州・郢州という可能性もあるにはある)の民は裳(スカートの一種)を裂いて白帽を作り、哀哭して棺を迎え入れ見送った。雍州の蛮族は秀を出迎えに赴いたが、亡くなったのを聞くとその魂を祀り哭泣して去った。棺が都の建康に到ると、帝は使者を派して侍中・司空を追贈し、康と諡した。
秀は容姿が立派で、朝会に出るたび百官の注目の的となった。また、優しく、喜びや怒りの感情を表に出さなかった。傍の者があるとき石を投げて秀が飼っていた白鳥を殺した事があった。国齋帥(王府の近衛長官)が処罰を求めると、秀は言った。
「どうして鳥の事で人を傷つけたりしようか。」
都の建康にいた時、早朝の出勤前に料理人が料理を誤ってひっくり返してしまった事があったが、秀は彼を責めることなく車に乗って出勤し、とうとう朝食を摂らなかった。
当時、諸王はみな謙虚に賢人と交友したが、建安王偉⑸と安成王秀の二王が特に才能のある者を好んだ。人々は二安(建安王と安成王)が才能のある者を重んずるのを以て『四豪』(孟嘗君・平原君・信陵君・春申君。戦国時代に才能のある者を集めた公族たちのこと)になぞらえた。
また、秀は学問に打ち込み、多くの書物を蒐集し、学士で平原の人の劉孝標⑹を招いて《類苑》を編纂させた。これは完成前から早くも世に流布した。
秀は武帝が即位する前は兄弟だったが、即位後に君臣の関係となると、血縁関係が遠い者や身分の低い者以上に小心翼翼として帝を畏れ敬ったので、帝は秀をますます評価するようになった。
若年の時に母(呉氏)を亡くすと(12歳)、母の代わりに手厚く〔同母弟の〕始興王憺⑺の面倒を見た。のち、憺は天監の初め(502年)より長期に亘って荊州刺史を務めると(~508年)、〔恩返しのため〕常に俸禄を折半して秀に贈った。秀はこれをありがたく受け取り、いくら多くても断る事は無かった。人々は兄弟の仲睦まじさを称賛した。
秀のもと幕僚の夏侯亶⑻ら(亶は516年に安西長史・江夏太守とされていた)は上表して墓碑を立てることを求め、許可された。当代の俊才のうち秀の屋敷に訪れた事のあった東海の王僧孺・呉郡の陸倕・彭城の劉孝綽・河東の裴子野はおのおの碑文の下書きを書いて採用される事を望んだが、どれも素晴らしい内容だったため、遂に四つの墓碑が立てられるに至った。これは前代未聞の事だった。
甲辰(18日)、梁が天下に大赦を行なった。
戊申(22日)、北魏に嚈噠(エフタル)・高句麗・勿吉(ツングース系の国。高句麗の東北にある)・吐谷渾・宕昌・疏勒(カシュガル)・久末陁・末久半(悉居半?)諸国の朝貢の使者が到着した(宕昌は517年2月以来。エフタル・高句麗・疏勒は517年4月以来。吐谷渾は517年9月以来。勿吉は517年10月以来)。
○資治通鑑
二月,癸巳,安成康王秀卒。秀雖與上布衣昆弟,及為君臣,小心畏敬過於疏賤,上益以此賢之。秀與弟始興王憺尤相友愛,憺久為荊州刺史,常中分其祿以給秀【秀、憺皆吳太妃之子。齊和帝中興元年,憺督雍州,天監元年,進督荊州,五年,徵至都。荊州總西夏之寄,俸入優厚】,秀稱心受之,亦不辭多也。
○魏孝明紀
二月戊申,嚈噠、高麗、勿吉、吐谷渾、宕昌、疏勒、久末陁、末久半諸國,並遣使朝獻。
○梁武帝紀
二月癸巳,鎮北將軍、雍州刺史安成王秀薨。甲辰,大赦天下。
○梁22・南52安成康王秀伝
十七年春,行至竟陵之石梵,薨,時年四十四。高祖聞之,甚痛悼焉。遣皇子南康王績緣道迎候。初,秀之西也,郢州民相送出境,聞其疾,百姓商賈咸為請命。既薨,四州民裂裳為白帽,哀哭以迎送之。雍州蠻迎秀,聞薨,祭哭而去。喪至京師,高祖使使冊贈侍中、司空,諡曰康。秀有容觀(美容儀),每〔在〕朝,百僚屬目。性仁恕,喜慍不形於色。左右嘗以石擲殺所養鵠,齋帥請治(按)其罪。秀曰:「吾豈以鳥傷人。」在京師,旦臨公事,厨人進食,誤而覆之,去而登車,竟朝不飯,亦不之誚也。〔時諸王並下士,建安、安成二王尤好人物,世以二安重士,方之「四豪」。〕精意術學,搜集經記,招學士平原劉孝標,使撰類苑,書未及畢,而已行於世。秀於高祖布衣昆弟,及為君臣,小心畏敬,過於疏賤者,高祖益以此賢之。少偏孤,於始興王憺尤篤。梁興,憺久為荊州刺史,自天監初,常以所得俸中分與秀,秀稱心受之,亦弗辭多也。昆弟之睦,時議歸之。故(佐)吏夏侯亶等表立墓碑,詔許焉。當世高才遊王門者,東海王僧孺、吳郡陸倕、彭城劉孝綽、河東裴子野,各製其文,〔欲擇用之,而咸稱實錄,遂四碑並建。〕古未之有也。世子機嗣。
○南52南平王恪伝
世子恪字敬則,弘雅有風則,姿容端麗。位雍州刺史。年少未閑庶務,委之羣下,百姓每通一辭,數處輸錢,方得聞徹。賓客有江仲舉、蔡薳、王臺卿、庾仲容四人,俱被接遇,並有蓄積。故人間歌曰:「江千萬,蔡五百,王新車,庾大宅。」遂達武帝。帝接之曰:「主人憒憒不如客。」尋以廬陵王代為刺史。恪還奉見,武帝以人間語問之,恪大慚,不敢一言。後折節學問,所歷以善政稱。
⑴安成王秀…蕭秀。字は彦達。生年475、時に44歳。蕭順之の第七子。母は呉氏。梁の武帝(蕭衍)の異母弟。十二歳の時に母を亡くすと良く喪に服した。のち順之の側室で子が無かった陳氏に我が子のように育てられた。美男で、品行正しく落ち着きがあり、家族や親友にも正装して会った。南斉の時に著作佐郎→太子舍人とされた。蕭衍が挙兵し、501年に新林に到るとこれに合流し、輔国将軍とされた。南徐州が降ると冠軍長史・南東海太守とされて京口を鎮守した。建康が陥ちると都督南徐兗二州諸軍事・南徐州刺史とされ、荒れていた州を良く治め、飢饉が起きると私財を散じて非常に多くの人々を救った。梁が建国されると征虜将軍・安成郡王とされた。503年、領石頭戍事とされた。504年、右将軍とされた。506年、領軍・中書令とされた。507年、平南将軍・江州刺史とされた。508年、養母の陳太妃の死に遭ったが、政務を執るよう命じられた。間もなく都督荊湘雍益寧南北梁南北秦州九州諸軍事・平西将軍・荊州刺史とされた。間もなく安西将軍とされた。学校を建て、隠者を招いた。また、戸曹参軍の劉峻に《類苑》を編纂させた。北魏の豫州が梁に付くと朝廷の許可を待たずに援軍を送った。また、巴陵蛮を討伐し、沮水が氾濫すると二万斛の穀物を放出して州民を救った。512年、侍中・中衛将軍・領宗正卿・石頭戍事とされた。514年、都督郢司霍三州諸軍事・安西将軍・郢州刺史とされると善政を行なった。517年、都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・鎮北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史とされた。517年⑵参照。 ⑵石梵…《読史方輿紀要》曰く、『黄州府(武昌の対岸)の西〔北〕二百四十里・漢陽府(郢州の対岸)の北九十里→黄陂県の西十三里(または北十五里)にある。石陽城ともいう。』三国魏18文聘伝には『文聘は夏侯尚と共に江陵を包囲した。この時、聘は別に沔口(江夏?)に駐屯するように命じられ、〔その道中〕石梵に宿営した』とある。
⑶梁の武帝…蕭衍。字は叔達。幼名は練児。生年464、時に55歳。梁の初代皇帝。在位502~。南斉の丹陽尹の蕭順之の第三子。母は張尚柔。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。517年⑴参照。
⑷南康王績…蕭績。字は世謹。幼名は四果。生年505(弟の続が504年生まれなので504?)、時に14歳(15歳?)。梁の武帝の第四子。母は董淑儀(或いは昭儀)。508年に南康郡王とされた。のち軽車将軍・領石頭戍軍事とされた。511年、仁威将軍・南徐州刺史とされると7歲の幼さで文書の改竄を見抜き、感嘆を受けた。517年、宣毅将軍・領石頭戍軍事とされた。517年⑴参照。
⑸建安王偉…蕭偉。生年476、時に43歳。蕭順之の第八子で、母は陳太妃。梁の武帝の異母弟。聡明で学問を好んだ。南斉に仕えて晋安(宝義)鎮北法曹行参軍→晋安驃騎府外兵参軍とされた。武帝が雍州にて挙兵する際襄陽に呼ばれて始興王憺と共に雍州の留守を任され、戦力が足りないなか魏興太守の裴師仁らを迎撃して大破した。のち荊州が危急に陥ると始興王憺を派遣してこれを救い、この功により雍州刺史とされた。梁が建国されると建安郡王とされた。505年、南徐州刺史とされた。506年、丹陽尹とされた。507年、都督揚南徐二州諸軍事・中権将軍・揚州刺史とされた。508年、病気を理由に解任を求め、侍中・中撫軍・知司徒事とされた。510年、護軍・石頭戍軍事→江州刺史とされた。512年、開府を加えられた。病気になって再び解任を求め、513年、撫軍将軍とされたが、病気を理由に辞退した。514年、左光禄大夫とされ、親信四十人を加えられた。516年、生母の陳太妃が病床に臥すと宏と共に付きっきりで看病を行ない、太妃が亡くなると五日に亘って水すら口に入れず死にかかった。516年⑵参照。
⑹劉孝標…劉峻。孝標は字。本名は法武。生年461、時に58歳。平原の人。父は劉宋の始興内史の劉珽。劉懐珍の従父弟。生後間もなく父を亡くした。468年に北魏が青州を陷とすと中山に拉致されたが、富豪の劉宝によって救われ、教育を受けた。のち平城に移住させられた。貧苦に負けず学問に励んだ。南斉の永明年間(483~493)に江南への帰還を果たし、その際に峻と改名し字を孝標とした。珍しい本があると聞くと必ず借りに行ったので崔慰祖に『書淫』と呼ばれた。この努力によって博識となり、非常な文才を有するようになった。明帝の時に蕭遥欣が豫州刺史となるとその府刑獄とされ、非常な礼遇を受けたが、間もなく遥欣が亡くなると久しくの間登用されなかった。梁が建国されると秘書省にある書物の校正を行なった。のち罪を犯して免官とされた。空気を読めず武帝に非常に嫌われ、任用されなくなった。のち安成王秀に招かれて《類苑》の編纂を行なったが、完成前に病気を理由に辞職し、紫巌山に家を建てて《山栖志》を著した。516年⑸参照。
⑺始興王憺…字は僧達。生年478、時に41歳。蕭順之の第十一子。母は呉太妃で、梁の武帝の異母弟、安成王秀の同母弟。真面目で謙虚な性格。帝が雍州にて挙兵した際、兄の蕭偉と共に留守を任され、荊州の確保に大きく貢献した。502年、荊州刺史とされると善政を行なった。508年に呼び戻され、509年、護軍将軍・領石頭戍事→中軍将軍・中書令→領衛尉卿→南兗州刺史とされた。510年、益州刺史とされ、北魏が侵攻してくるとこれを撃退した。515年正月、中撫将軍とされた。2月、都督荊湘雍寧南梁南北秦七州諸軍事・鎮右将軍・荊州刺史とされた。515年⑵参照。
⑻夏侯亶…字は世龍。夏侯詳の長子。南斉の時に崔慧景の乱の防衛に活躍し、驍騎将軍とされた。蕭衍が挙兵し父がこれに呼応すると宣徳皇后の令旨を携えて合流した。建康が陥ちると尚書吏部郎→侍中とされ、皇帝の印璽を捧げる役目を任された。502年、宣城太守とされた。間もなく散騎常侍・領右驍騎将軍とされた。507年、平西始興王長史・南郡太守とされた。508年に父が亡くなると辞職し、良く喪に服して遺産を全て弟たちに分け与えた。509年、信武将軍・司州刺史・領安陸太守とされた。喪が明けると豊城県公の爵位を継いだ。州では良く飴と鞭を使い分け、辺境の人々を悦服させた。513年、都官尚書とされた。のち給事中・右衛将軍・領豫州大中正とされた。516年、信武将軍・安西長史・江夏太守とされた。516年⑸参照。
┃神亀改元
己酉(2月23日)、北魏が九龍殿の霊芝池にて亀を得た。北魏はこれを瑞兆とし、大赦を行なって年号を熙平から神亀に改めた。
○資治通鑑
己酉,魏大赦,改元神龜。
○魏孝明紀
己酉,詔以神龜表瑞,大赦改年。
○魏霊徴志亀
肅宗神龜元年二月,獲龜於九龍殿靈芝池,大赦改元。
┃東益州の乱
これより前、北魏は武興国(漢中の西北)を滅ぼし(506年)て武興鎮を設置し、のち東益州に改めていたが、鎮将の唐法楽が失政を行ない、次いで刺史となった杜纂⑴も〔政治の才能はあったが〕辺境を統御する威略が欠けていた。
この日、東益州の氐族が叛乱を起こした。
纂はこの責任を取らされ、洛陽に呼び戻された。
○魏孝明紀
東益州氐反。
○魏88杜纂伝
肅宗初,拜征虜將軍、清河內史。…還,以本將軍除東益州刺史。無御邊威略,羣氐反叛。以失民和徵還。
○魏101氐伝
以為武興鎮,復改鎮為東益州。前後鎮將唐法樂,刺史杜纂、邢豹,以威惠失衷,氐豪仇石柱等相率反叛。朝廷以西南為憂。正光中…。
⑴杜纂…字は栄孫。常山九門の人。清廉で慎ましい暮らしに安んじた。県令が亡くなった際私財を投じて埋葬して名を上げた。父が亡くなると良く喪に服した。のち孝廉に挙げられ、豫州司士とされると良く降民を撫納した。のち新野攻めに参加し、騎都尉とされた。寿春攻めの際には淮水一帯の慰労を任された。田益宗が帰順してくるとその安撫を任された。のち新野・南陽平定の功を以て井陘男とされ、絹五百疋を賜ったが、数日の内にこれを知人に分け与えて称賛を受けた。のち武都太守、正始年間(504~508)に漢陽太守とされると共に清廉な政治を行なって名を上げた。のち南秦州軍に先行して叛氐の招撫を行なった。帰還すると虎賁中郎将・領太倉令とされた。のち母が亡くなると辞職し、久しきののち再び太倉令とされた。間もなく陰陵戍主とされた。延昌年間(512~515)に洛陽にて飢饉が起こると都民の救済を任された。515年、孝明帝が即位すると征虜将軍・清河内史とされ、清廉で慈愛に満ちた政治を行なった。また、農業を奨励して励む者は賞し、怠ける者は罰した。
┃返答の使者派遣の可否
これより前(517年12月)、柔然が北魏に俟斤(イルキン。族長の称号)の尉比建・紇奚勿六跋・鞏顧礼らを派遣していたが、彼らが持参した書状は対等の立場で書かれたもので、敬意を欠くものだった。
この日、(517年12月以来)。孝明帝が顕陽殿にて顧礼ら二十人を殿下に集めて引見し、中書舍人の徐紇に詔の内容を伝えさせ、柔然の態度を責めた。
北魏は前漢と匈奴の故事に倣い、〔兄弟の礼を以て〕書状に返答しようとした。すると大司農少卿の張倫が上表して言った。
「臣はこう聞いております。『いにしえの聖王は人民や土地を統治するに当たり、要服(遠方の地)と甸服(近郊の地)の区別を明らかにし、遠方を化外の地としました。ゆえに、《周礼》には『一見』の文があり⑴、《尚書》には羈縻の事が書かれているのです。太祖(道武帝)は優れた武勇と知略を以て天下の平定に邁進なされましたが、〔漠北を制する〕暇が無かったため、青二才(社崙)の跳梁を許す結果となりました。その後も中国にて多くの問題が起こったため、これにかかりきりとなり、夷狄は放置せざるを得なくなりました。高祖(孝文帝)は天下の中心に都を建てて国運の興隆に努め、かつ雷のごとき武威と熊羆のごとき軍隊を以て南征に注力したため、北伐を行なう暇がありませんでした。昔、旧京(平城)にて狼煙が上がり、夷狄の使者が郊外にやってくると、主上は剣の柄に手をかけるだけで返書を送りませんでした。世宗(宣武帝)は帷幄にてはかりごとを巡らし、万里の地を切り開くことに成功しました。この時、醜類(柔然)は使者を遣わし通好を求めてきましたが、主上は先帝の遺志を継ぎ、返書を送りませんでした。現在、今上陛下が統治に当たると、恩恵は道端の葦にまで及び、国は富み兵は強くなり、百官はおのおの職務に精励するに至りました。それなのに、どうして夷狄を憚って返書を送ろうとされているのでしょうか? 一体何を求めてこれを行なおうとなさっているのでしょうか? 昔日、蕭衍(梁)が和平を求めてきた時、陛下はその誠意が充分では無いとして拒否なさったではありませんか(淮堰決壊の後の事か?)。それに、以前に先帝が夷狄を突き放したというのに、後になって陛下が通交なされるのは、高祖・世宗の遺志に反するものでは無いでしょうか?
それに、夷狄は我が国の徳を慕って使者を遣わしておりますが、彼らは我らの対応を注視し、強腰であれば従いますが、弱腰であれば隙を見て侵攻してくる恐れがあります。これこそ春秋の言う『我を以て卜うなり(こちらの出方を窺って行動を決める)』(《左伝》宣公十二年)という物であります。また、『小人は近づけ難く』(《論語》陽夏)、『戎狄は親無く(親近の感情が無い)』(《左伝》襄公四年)、遠ざければ怨み、近づければ侮るものであり、しかもこれは〔一朝一夕に起こる事ではなく、〕長期に亘る積み重ねによって起こるのです。高祖・世宗はこれを知っていたので、夷狄が近づいてきても迎え入れず、離れても追わなかったのであります。不一(華夷不同?)の義はここにあります。もし夷狄が玉帛を捧げ、膝を屈して藩臣の礼を取ったのであれば、これに手厚い下賜品を与えても良いでしょう。しかし、〔夷狄が充分な礼を取らぬのに〕対等の尊重を以て優遇し、更に使者を交わし合うような関係にいたしますと、夷狄に侮りの心を生じさせる恐れがあり、我が国にとって何の利益も生まないように思います。たとえ使者に相応しい者を選び出し、酈生(酈食其。前漢の説客。弁舌を以て斉を帰順させた)・終軍(前漢の説客。弁舌を以て南越を帰順させた)のごとき弁舌をさせ、車の横木にもたれかかりながら斉を降し、冠の長い纓(ひも)を以て越王を繋ぐような事を期待しているからであったとしても、昔とは事情が異なりますので、上手くは行かないように思います。まして、夷狄に対等の優遇や引き出物を与えるなら尚更の事です。臣は非常に愚かではございますが、これに関しましては頑として譲る気はございません。
もしどうしても使者を遣わしたいと仰るのなら、詔を天下に下して夷狄とは厳然たる上下関係がある事を示した上で、宰相に書かせた書状を送って帰順をほのめかすのが良いでしょう。もし夷狄が告諭に従ったなら、天子の威光は失われる事は無く、名声は天下を覆うことになるでしょう。もし従わなかったとしても、何の損もありません。それからおもむろに干戚の舞を舞ってこれを招き(舜が盾とまさかりを持って武舞を舞うと有苗族が帰服したという)、礼楽を以て教化を行なって懐き従わせるのが良いでしょう。もし頑迷なままで犬や羊のごとき者どもをけしかけて侵攻してくるならば、辛(辛武賢?)・李(李広?)のごとき将や衛青・霍去病のごとき軍を率いて白雲と黄砂にまみれた辺境の地を平定して夷狄どもを掃討し、瀚海(北方にある大湖)のほとりにて馬に水を飲ませ、燕然山の上に石碑を立て(89年、後漢の竇憲が燕然山にて北匈奴を大破した時、班固に記念碑を作らせた)、都護と戊己校尉(ともに前漢が西域を抑えるために置いた官)を置けば、これまた陛下の優れたご功績・不世出の盛事となるでありましょう。もし武装を解いて民を安んじ、農業に務めて辺境を安寧にし、国を防衛したいと思し召しますなら、〔尚更〕戎夷と対等の関係を築いたりなどして規則・制度を汚す事などあってはなりません。このような事をいたしますと、人々の物笑いの種となり、醜聞を後世に残す事になります。昔、〔晋の〕文公が天子の礼を以て埋葬されることを望んで〔周の〕襄王に拒否され、荊(楚)の荘王が鼎の軽重を問うて王孫満(周の使者)に諌止されたのがそのいい例であります。故事を以て今と比べますに、陛下はこれを採らないのが良いでしょう。また、陛下は今まさに岷山・衡山・稽嶺(会稽山?)・蒼梧山に登って神々に礼拝し、〔堂々たる中国の君主となろうとしておられますのに、〕どうして却って夷狄の酋長と兄弟の関係を結び、主人と客が庭の両端に立って挨拶する(分庭抗礼。《荘子》漁父)ような対等の礼を取られようとなされるのでしょうか。これが果たして文命(禹)の徳行を慕い、重華(舜)の高風を訪ねる者の姿でありましょうか?
臣は返答使を遣わせば以上のような非常な損失があり、返答使を遣わさなければ以上のような非常な利益があると考えます。陛下がほんの少しでも愚臣の言に耳を傾けてくだされば幸いです。」
朝廷はこれを聞き入れなかった。
張倫は字を天念といい、上谷沮陽(燕州に属す。北京の西北)の人で、殿中尚書・広平簡公の張白沢の長子である。十余歲の時に宮廷に入って皇帝の傍に侍った。のち次第に昇進して護軍長史・員外常侍とされ、のち大司農少卿・燕州大中正とされた。
○資治通鑑
魏主引見柔然使者,讓之以藩禮不備,議依漢待匈奴故事,遣使報之【漢宣帝待呼韓邪位在諸侯王上,蓋稱臣也。按張倫表諫與為昆弟,蓋用漢文、景故事】。司農少卿張倫上表,以為:「太祖經啟帝圖,日有不暇,遂令豎子遊魂一方【謂道武南略,社崙得以雄跨漠北】,亦由中國多虞,急諸華而緩夷狄也。高祖方事南轅,未遑北伐【謂孝文南都洛陽,用兵淮、漢,未暇伐柔然也】。世宗遵述遺志,虜使之來,受而弗答。〔見百四十六卷六年。〕以為大明臨御,國富兵強,抗敵之禮,何憚而為之,何求而行之!今虜雖慕德而來,亦欲觀我強弱;若使王人銜命虜庭,與為昆弟,恐非祖宗之意也。事不獲已,應為制詔,示以上下之儀,命宰臣致書,諭以歸順之道,觀其從違,徐以恩威進退之,則王者之體正矣。豈可以戎狄兼并,〔謂伏跋新破高車及滅鄰國之叛者也。〕而遽虧典禮乎!」不從。倫,白澤之子也。〔張白澤見一百三十四卷宋順帝昇明元年。〕
○魏孝明紀
蠕蠕國遣使朝貢。
○魏24張倫伝
長子倫,字天念。年十餘歲,入侍左右。稍遷護軍長史、員外常侍,轉大司農少卿、燕州大中正。熙平中,蠕蠕主醜奴遣使來朝,抗敵國之書,不修臣敬。朝議將依漢答匈奴故事,遣使報之。倫表曰:
臣聞古之聖王,疆理物土,辨章要甸,荒遐之俗,政所不及。故禮有壹見之文,書著羈縻之事。太祖以神武之姿,聖明之略,經略帝圖,日有不暇,遂令竪子遊魂一方,亦由中國多虞,急諸華而緩夷狄也。高祖光宅土中,業隆卜世,赫雷霆之威,振熊羆之旅,方役南轅,未遑北伐。昔舊京烽起,虜使在郊,主上按劍,璽書不出。世宗運籌帷幄,開境揚旌,衣裳所及,舟車萬里。于時醜類款關,上亦述尊遺志。今大明臨朝,澤及行葦,國富兵強,能言率職。何憚而為之,何求而行此?往日蕭衍通敬求和,以誠肅未純,抑而不許。先帝棄戎於前,陛下交夷於後,無乃上乖高祖之心,下違世宗之意?
且虜雖慕德,亦來觀我,懼之以強,儻即歸附,示之以弱,窺覦或起,春秋所謂「以我卜也」。又小人難近,夷狄無親,疏之則怨,狎之則侮,其所由來久矣。是以高祖、世宗知其若此,來既莫逆,去又不追。不一之義,於是乎在。必其委贄玉帛之辰,屈膝蕃方之禮,則可豐其勞賄,籍以珍物。至於王人遠役,銜命虜庭,優以匹敵之尊,加之相望之寵,恐徒生虜慢,無益聖朝。假令選眾而舉,使乎稱職,資酈生之辯,騁終軍之辭,憑軾下齊,長纓繫越。苟異曩時,猶為不願,而況極之以隆崇,申之以宴好,臣雖下愚,輒敢固執。
若事不獲已,應頒制詔,示其上下之儀,宰臣致書,諷以歸順之道。若聽受忠誨,明我話言,則萬乘之盛不失位於域中,天子之聲必籠罩於無外。脫或未從,焉能損益。徐舞干戚以招之,敷文德而懷遠。如迷心不已,或肆犬羊,則當命辛李之將,勒衞霍之師,蕩定雲沙,掃清逋孽,飲馬瀚海之濱,鏤石燕然之上,開都護,置戊己,斯亦陛下之高功,不世之盛事。如思按甲養民,務農安邊之術,經國之防,豈可以戎夷兼并,而遽虧典制。將取笑於當時,貽醜於來葉。昔文公請隧,襄后有言;荊莊問鼎,王孫是抑。以古方今,竊為陛下不取。又陛下方欲禮神岷瀆,致禮衡山,登稽嶺,窺蒼梧,而反與夷虜之君,酋渠之長,結昆弟之忻,抗分庭之義,將何以瞰文命之遐景,迹重華之高風者哉?臣以為報使甚失如彼,不報甚得如此。願留須臾之聽,察愚臣之言。
不從。
○魏103蠕蠕伝
神龜元年二月,肅宗臨顯陽殿,引顧禮等二十人於殿下,遣中書舍人徐紇宣詔,讓以蠕蠕藩禮不備之意。
⑴《周礼》秋官司寇曰く、『邦畿方千里。其外方五百里謂之侯服,歲壹見,其貢祀物。又其外方五百里謂之甸服,二歲壹見,其貢嬪物。又其外方五百里謂之男服,三歲壹見,其貢器物。又其外方五百里謂之采服,四歲壹見,其貢服物。又其外方五百里謂之衛服,五歲壹見,其貢材物。又其外方五百里謂之要服,六歲壹見,其貢貨物。九州之外謂之蕃國,世壹見,各以其所貴寶為摯。』
┃能吏・徐紇
徐紇は字を武伯といい、楽安博昌(青州の北)の人である。寒門の出自であったが、若くして学問を好み、論理学に造詣が深く、素晴らしい文章を書いて非常な賞賛を受けた。孝廉に選ばれると提出した意見書が孝文帝の目に留まり、主書(文書管理官)に抜擢された。宣武帝の初めに中書舍人とされた。このとき紇は趙修(宣武帝の初期の寵臣)におもねって通直散騎侍郎に昇った。しかし修が誅殺されると一味と目されて連座に遭い、西辺の枹罕(河州)に流罪となった。しかし紇は服役の身となっても気概を失わず、労役逃れの者や逃亡兵など五人を捕らえたため流刑を免じられ、朝廷に復帰することができた。久しくののち、再び中書舍人とされた。太傅の清河王懌⑴は紇に文書の事を掌らせた。
乙卯(29日)、梁が宣毅将軍・領石頭戍軍事の南康王績⑵を使持節・都督南北兗〔北?〕徐青冀五州諸軍事・南兗州刺史とした。
○梁武帝紀
乙卯,以領石頭戍事南康王績為南兗州刺史。
○魏93徐紇伝
徐紇,字武伯,樂安博昌人也。家世寒微。紇少好學,有名理,頗以文詞見稱。察孝廉,對策上第,高祖拔為主書。世宗初,除中書舍人。諂附趙脩,遷通直散騎侍郎。及脩誅,坐黨徙枹罕。雖在徒役,志氣不撓。故事,捉逃役流兵五人,流者聽免,紇以此得還。久之,復除中書舍人。太傅、清河王懌又以文翰待之。
○梁29南康簡王績伝
宣毅將軍、領石頭戍軍事。十七年,出為使持節、都督南北兗徐青冀五州諸軍事、南兗州刺史,在州著稱。
⑴清河王懌…元懌。字は宣仁。生年487、時に32歳。孝文帝の第四子。母は羅夫人(叱羅夫人)。宣武帝の異母弟で、孝明帝の叔父。汝南王悦の同母兄。幼い頃から頭脳明晰・容姿端麗で孝文帝に可愛がられた。読書家で文才に優れ、議論を得意とし、寛容で感情が一定していた。499年に宣武帝が即位すると侍中・尚書僕射とされた。職務に就くと政治の才能を遺憾なく発揮し、優れた決断力を示した。帝が高肇に専権を振るわせると帝を諌めた。512年に司空とされた。515年、司徒→太傅・領太尉とされた。のち于忠・崔光を弾劾した。劉懋の風雅さを愛し、懋が517年に亡くなるとその死を悼んだ。516年⑸参照。 ⑵南康王績…蕭績。字は世謹。幼名は四果。生年505(弟の続が504年生まれなので504?)、時に14歳(15歳?)。梁の武帝の第四子。母は董淑儀(或いは昭儀)。508年に南康郡王とされた。のち軽車将軍・領石頭戍軍事とされた。511年、仁威将軍・南徐州刺史とされると7歲の幼さで文書の改竄を見抜き、感嘆を受けた。517年、宣毅将軍・領石頭戍軍事とされた。517年⑴参照。
┃于忠の死
3月、甲申(? 庚申なら5日)、老人星(カノープス。吉星)が現れた。
辛酉(6日)、北魏が尚書右僕射〔・霊寿県公〕の于忠⑴を儀同三司とした。しかし、忠は病床に臥していたためまだ受けずにいた。
この時、忠は裴植⑵・郭祚⑶の怨霊を見、自分が病気になったのは三年前に殺したこの二人の祟りによるものだと考えた。忠はこれを以て死から逃れられない事を悟り、上表して言った。
「先帝(宣武帝)は臣父子(于烈・于忠)の矮小な誠意を高く評価なさり、かつ臣の家が代々国のために尽くしてきた事を良くご存じであられたため、この心がけを伸ばすのに婚姻を以てし(于烈の弟の于勁の娘を皇后とした事を指す)、重んずるのに爵禄を以てし(于烈の爵位を侯に進め、三百戸を加増した事を指す)、結果、官位は三公に次ぐまで、秩禄は九卿に等しくなるまでに至りました。のち、陛下が即位し、百官を統べられると、臣は再び恐れ多くも宮中の警護を任されました。ただ、朝廷内外が落ち着いたのはまことに社稷の神霊のご加護と人民の努力の賜物によるものであって、臣の力によるものではありませんでした。しかるに、英明なる陛下と慈しみ深い皇太后殿下は臣をお見捨てになることなく、再び朝廷内外で非常な寵用をなさり、出でては両河の地(レ状の黄河に挟まれた地。河北。ここでは冀州)の長官を任せ、入っては国政に参与する事(尚書右僕射)をお許しになりました。ただ、これは全く臣の身の丈に合わぬ物であり、臣は謹んでなんとかこれに当たろうとしましたが、やはりどうすることも出来ず、遂に病を発するに至りました。病気は下痢で、去年の秋から今に至るまで治ることなく、あらゆる薬を服用しても病状は日に日に重くなり、快方に向かうことはありませんでした。今年に入ると病状は更に悪化して呼吸も弱々しくなり、快復するのは非常に難しくなりました。大恩に未だ報いる事ができずに〔このような事になってしまい、〕ただただ枕を濡らすばかりであります。臣は幸が薄く男子に恵まれず、死んだのちに跡を継ぐ者がおりません。余命いくばくも無くなった今、かねてからの願いを謹んで申し上げます。臣は先に今は亡き第四弟の第二子で司徒掾の于永超を引き取って養育しておりましたが、この甥の行く末が案じられてなりません。どうか永超を跡継ぎとし、爵位を継がせる事をお許しください。」
胡太后は令を下して言った。
「于忠の上表はかくの如しである。忠の忠誠と勲功は評価されるべきものであり、跡継ぎがいないのにも同情すべきである。末期の願いを聞き入れないのは心苦しい。そこで今特別にその願いを聞き入れ、その殊勲を顕彰する事とする。」
丙寅(11日)、梁が建安郡の土地が痩せている(東南の山がちな土地にある)事を以て、建安王偉の爵号を改めて南平郡王とし(南平は江陵の対岸の平野部にある)、戸数はそのままとした。
辛巳(26日)、于忠が逝去した(享年57)。
朝廷は東園秘器(皇室・高官用の棺材)・朝服一式・衣一式・銭二十万・布七百疋・蠟三百斤を与え、侍中・司空公を追贈した。このとき、担当官が上奏して言った。
「太常少卿の元端は、忠が剛直・乱暴、愚かで殺人を好んでいたのを以て、諡法に『剛直な者を武という』『権力を笠に着て自分勝手にふるまう者を醜という』とある事から、武醜公と諡すべきであると言い⑷、太常卿の元修義⑸は、忠が心を尽くして君主に仕え、悪人を排除したのを以て、諡法に『偽りを除き真に安んずる者を武という』『日夜職務に勤しむ者を敬という』とある事から武敬公と諡すべきだと言って、意見が異なっております。」
太后は令を下して言った。
「正卿(元修義)の意見に従うべきである。」
于永超は名を翻といった。爵位(霊寿県公)を継いだが、間もなく逝去した。子の于世衡が跡を継いだ。
元端(生年493、時に26歳)は高陽王雍の庶長子で、字を宣雅という。美男で大の読書家だった。宣武帝の時に出仕して散騎侍郎とされ、孝明帝が即位すると通直散騎常侍・鴻臚少卿とされた。のち太常少卿とされ、常侍はそのままとされた。
また、代わりに太常卿の游肇⑹を尚書右僕射とした(詳細な時期は不明)。肇は固辞したが聞き入れられなかった。
肇は事務を処理する際決断は遅かった〔が、それは慎重ゆえの事で〕、担当官が決裁を求めてくると繰り返し議論し、分からない時は再三に亘って議論し、完全に納得してからようやく決裁した。また、どんな権力者であっても私的な請託は決して受けなかった。人々はその品行方正さに感服した。

○魏孝明紀
三月辛酉,以尚書右僕射于忠為儀同三司。辛巳,儀同三司、尚書右僕射于忠薨。
○梁武帝紀
三月甲申,老人星見。丙申(寅),改封建安王偉為南平王。
○魏21元端伝
高陽王雍…嫡子泰…泰兄端,字宣雅。美容貌,頗涉書史。起家散騎侍郎。累遷通直常侍,鴻臚、太常少卿,散騎常侍。
○元公墓誌銘
魏故使持節儀同三司都督相州諸軍事車騎大將軍相州刺史元公墓誌銘。君諱端,字宣雅,河南洛陽人也。其先道武皇帝之胤,獻文皇帝之孫,丞相高陽王之長子。…及五典六經之籍,國策子集之書,一覽則執其歸,再聞則悟其致。所以遠邇服其風流,朝野欽其意氣。至如孝踰江夏,信重黃金,百練不銷,九言尅順,固自幼而老成,形於岐嶷矣。宣武皇帝訪舉皇枝,以華鳳閣,召君爲散騎侍郎。孝明皇帝初祚萬國,推賢閒彥,耀君爲通直散騎常侍鴻臚少卿。以在棘瑜名,清風遠扇,轉除太常卿,常侍如故。莅之撫誨,禮樂翔穆,瑤響遐著,聲聞海嶽。
○魏31于忠伝
神龜元年三月,復儀同三司,疾病未拜,見裴郭為祟。忠自知必死,表曰:「先帝錄臣父子一介之誠,昭臣家世奉公之節,故申之以婚姻,重之以爵祿,至乃位亞三槐,秩班九命。自大明利見之始,百官總己之初,臣復得猥攝禁戎,緝寧內外,斯誠社稷之靈,兆民之福,臣何力之有焉。但陛下以叡明御宇,皇太后以聖善臨朝,衽席不遺,簪屨弗棄,復乃寵窮出內,榮遍宮闈,外牧兩河,入參百揆。顧服知妖,省躬識戾。而臣將慎靡方,致茲痾疚。自去秋苦痢,纏綿迄今,藥石備嘗,日增無損。又今年已來,力候轉惡,微喘緒息,振復良難。鴻慈未酬,伏枕涕咽。臣薄福無男,遺體莫嗣,貪及餘生,謹陳宿抱。臣先養亡第四弟第二子司徒掾永超為子,猶子之念實切於心,乞立為嫡,傳此山河。」靈太后令曰:「于忠表如此。既誠勳宜錄,又無子可矜。臨危所祈,不容致奪,可特聽如請,以彰殊效。」忠薨,年五十七。給東園祕器、朝服一具、衣一襲、錢二十萬、布七百匹、蠟三百斤,贈侍中、司空公。有司奏:「太常少卿元端議,忠剛直猛暴,專戇好殺,案諡法剛強理直曰『武』,怙威肆行曰『醜』,宜諡武醜公。太常卿元脩義議,忠盡心奉上,剪除凶逆,依諡法除偽寧真曰『武』,夙夜恭事曰『敬』,諡武敬公。二卿不同。」事奏,靈太后令曰:「可依正卿議。」
…永超名翻,襲爵。尋卒。子世衡,襲。
○魏55游肇伝
遷尚書右僕射,固辭,詔不許。肇於吏事,斷決不速。主者諮呈,反覆論叙,有時不曉,至於再三,必窮其理,然後下筆,雖寵勢干請,終無回撓。方正之操,時人服之。
○魏64郭祚伝
祚死後三歲而于忠死,咸以祚為祟。
○梁22南平元襄王偉伝
十七年,高祖以建安土瘠,改封南平郡王,邑戶如故。遷侍中、左光祿大夫、開府儀同三司。
⑴于忠…字は思賢で、本名は千年。本姓は万紐于。生年462、時に57歳。領軍将軍・聊城侯の于烈の子。出仕して侍御中散とされた。このとき馮太后が摂政を行なっており、侍臣の多くが些細なことで処罰されていたが、忠は実直・寡黙であったため最後まで処罰される事は無かった。のち登の名を賜った。宣武帝が即位すると左右郎将・領直寝とされ、咸陽王禧が乱を企てた際、都の外にいた帝がどこに行けばいいか逡巡すると、領軍の父が守る皇宮なら大丈夫だと進言して無事帰還させた。間もなく帝に忠の名を与えられた。北海王詳や高肇に硬骨さを忌まれた。硬骨さをのち魏郡開国公・兼武衛将軍とされたが辞退し、代わりに太府卿とされた。505年秋、西道大使とされて刺史・鎮将の汚職を摘発した。のち相州刺史→衛尉卿→定州刺史→衛尉卿・領左衛将軍とされた。512年、都官尚書・領左衛とされた。宴会の際に警護の才がある事を以て帝に剣と杖を賜り、自衛に用いるよう言われた。のち侍中・領軍将軍とされた。515年、帝が崩御すると太子詡を擁立して皇帝とし、更にその生母の胡充華を保護し、権臣の高肇を誅殺するなどして権勢を比類無い物とし、車騎大将軍・常山郡公→領崇訓衛尉→尚書令とされた。嫉妬心が強く、自分より優れた者とは付き合わず、ただ直閤将軍の章初瓌、千牛備身の楊保元の二人のみと断金の交わりを結んだ。胡充華が太后となって摂政を始めると侍中・領軍・崇訓衛尉の職を解かれ、ただ儀同・尚書令のみとされた。間もなく都督冀定瀛三州諸軍事・征北大将軍・冀州刺史とされて朝廷から追い出された。間もなく常山郡公を剥奪された。のち名誉を回復され、霊寿県公とされた。517年、尚書右僕射とされた。517年⑵参照。 ⑵裴植…字は文遠。466~515。名門の河東裴氏の出。南斉の豫州刺史の裴叔業の兄の裴叔宝の子。学問を好み、経書・史書を読破し、特に仏典に通じ、善談理義を良く論じることができた。南斉に仕え、戦功を以て長水校尉とされた。のち叔業に従って寿春に赴き、500年に叔業が北魏に帰順しその最中に亡くなると跡を継いで州を監督し、北魏軍を城内に引き入れた。のち兗州刺史・崇義県侯とされ、次いで大鴻臚卿とされた。のち、長子の裴昕が南朝に寝返ると死罪を求刑されたが過去の帰順の功により不問とされた。のち瀛州刺史→大鴻臚卿→度支尚書・金紫光禄大夫とされた。尊大で人を見下し、夷狄を嫌って「華人(中国人)と夷人(異民族)は同類ではありませぬ。夷人は百代に亘って官職に就けてはなりません」と上奏して権臣で鮮卑族の于忠らの怒りを買った。515年、左僕射の郭祚と共に忠の排斥を画策したが、忠に先手を打たれ、皇帝の廃立を企てたという罪をでっち上げられて処刑された。515年⑶参照。
⑶郭祚_字は季祐。449~515。名門の太原郭氏の出。曹魏の郭淮の弟の郭亮の後裔。祖父は徐州刺史の郭逸で、崔浩に娘を嫁がせた事で出世した。父の郭洪之は450年に崔浩が誅殺されると連座して殺された。祚は逃亡して免れるを得た。早くから孤児となって貧しい生活を送り、容貌も立派では無かったので郷里の人から存在を知られる事は無かった。書物を読み漁り、崔浩の書法を学び、文才に優れた。のち州主簿とされ、刺史に才能を認められて書記とされた。また、親族の王希から支援を受けた事で再び富裕となった。孝文帝の代に秀才に挙げられて中書博士→中書侍郎→尚書左丞・長兼給事黄門侍郎とされると職務に精励し、帝に非常に評価された。のち正黄門・東光子とされ、黄門の宋弁と共に帝を良く輔佐した。のち兼侍中・尚書・伯とされ、宣武帝が即位すると吏部尚書とされた。吟味を重ねたのち任命したため仕事は非常に遅かったが、採用した人物はみな妥当な者たちばかりだった。のち瀛州刺史→青州刺史とされると決断は遅いが慈愛に満ちた政治を行なった。のち侍中→尚書右僕射・領太子少師とされた。このとき宣武帝の寵臣の趙桃弓・王顕におもねった。のち左僕射とされた。梁が浮山堰を築き始めると、515年、重鎮の将軍に大軍を率いさせて討伐するよう進言し、聞き入れられた。間もなく度支尚書の裴植と共に権臣の于忠の排斥を画策したが、忠に先手を打たれ、皇帝の廃立を企てたという罪をでっち上げられて処刑された。515年⑶参照。
⑷醜と諡された者は曹魏の呉質・西晋の王愷がいる。質は曹丕に泣いて曹操を見送れと言った人物。寒門の出だったが才能と学識によって曹丕に寵用された。ただ性格に難があり、郷里にいつまで経っても評価されないと「郷里に小便をかけてやりたい」と言い、曹真が太っているのを見るとネタにして喧嘩沙汰になった。愷は王朗の孫で、司馬昭の妻の王元姫の弟。石崇と贅沢合戦をした事で知られる。外戚である事を笠に着てやりたい放題にふるまった。
⑸元修義…字は寿安。景穆太子の孫で、汝陰王天賜(文成帝の弟)の第五子。兄の子に元慶和がいる。読書家で非常に文才があり、孝文帝の知る所となった。人々に「皇族のうち意気軒昂な者は、寿安(元修義)と思若(元欽)である」と謳われた。出仕して元士(秩七品)とされ、のち斉州刺史とされた。 このとき斉州では何度も刺史が亡くなっていたので固辞したが、結局州庁を東城に移して不吉を避けることで妥協した。赴任すると寛容な政治を行ない、4年間で一人も殺す事が無かったので州民に慕われた。のち秦州刺史とされると打って変わって賄賂政治を行なった。孝明帝が即位すると叛逆して殺された咸陽王禧・京兆王愉らを赦すよう求めたが胡太后に「それはこちらが決めることで刺史がとやかく言う事ではない」と咎められた。517年⑵参照。
⑹游肇…字は伯始。生年452、時に67歳。大鴻臚の游明根の子。孝文帝に名を与えられた。大の読書家。景明年間(500~504)の末に黄門侍郎とされ、のち廷尉卿・兼御史中尉・黄門侍郎とされた。高肇が権勢を振るった時、改名するよう迫られたが孝文帝に賜った名だとして拒否し、宣武帝に硬骨さを褒め称えられた。孝明帝の時(515~)に中書令→相州刺史とされ、善政を行なった。のち侯剛の進言により朝廷に呼び戻され太常卿とされた。516年⑴参照。
┃南秦州氐の乱
この日、北魏の南秦州の氐族が叛乱を起こした。北魏は龍驤将軍の崔襲を持節とし、説得に赴かせた。
襲は有能な将軍の一人だが、事績が伝わっておらず、詳細は不明である。
また、吐谷渾が朝貢してきた(2月以来)。
○魏孝明紀
南秦州氐反,遣龍驤將軍崔襲持節喻之。吐谷渾國遣使朝貢。
○魏73崔延伯伝
崔襲、…俱為將帥,並有攻討之名,而事迹不存,無以編錄。然未若康生、大眼、延伯尤著也。
518年⑵に続く