ちょうど2週間前、私はこのブログで、学校で教わっていないからといってその項目を学習するのを避けるのではなく、先取りしてやって欲しいという趣旨のことを書いています(6月20日付「学校で教わっていないから」・・・)。

その方が、日常生活で起きる出来事がなぜそういう風に起きるのか、疑問を解明でき、学問の面白さを味わえるからという理由付けもしています。



しかし、子供にとって毎日の勉強というのは連続して未知の世界に挑戦しているようなもので、理解でいるかどうかわからない自分に不安を抱きつつそこへ突っ込んでいくのは正直大変かも知れない、とも感じるようになりました。

今の子は私の子供時代とは異なり、非常にナイーブでちょっとしたことに傷つきやすくなっています。

情報の流通量が昔とは格段に異なり、デジタル機器を中心にあらゆる方向から様々な情報がひっきりなしに流れ込んでくる現代では、「いい・悪い」の評価もセットになった「情報」が1人1人の生き方に大きく影響を与え、世の中に対して気を遣うことが多すぎて気疲れしやすいのかも知れません。

だから「知らない世界」は漠然とあるいは明確に「怖い」のかもしれません。

闇雲に突っ込んでいったら何を言われるかわからない、自分がどうなるかもわからないのにみだりに入っていくのは怖い、というのはある一面真実だと思います。



今日塾で教えていてこんな子に出くわしました。

割り算を勉強していて今までは答えが全部きれいに割り切れたのに、余りの出る割り算になると、「割り算なんだから割り切れて当たり前」という経験則(?)が働くのか、学校で教わっていない単元に拒絶反応を示すのです。

ゆっくりやって教えてあげようとしてもわからないものはわからない。

余りが答えに加わること(17÷3は5あまり2 とか)に相当な抵抗感があるようです。

かけ算のひっくり返しでそこに足し算が加わるだけの世界なのですが、かけ算割り算の世界に足し算が混じってくるのは納得がいかないようでした。



これをわかるように説明するのは実は難しいです。

説明が難しいことに気づくと、知っている世界から知らない世界に移行することがいかに精神的エネルギーを要し、拒絶反応を示すことが自然で、ある意味健全でもあることに思いが至ります。



大人でも、未知の分野に挑戦するのは、自分の好奇心を満たし「挑戦する」ことの意義を自分に感じさせるという意味では積極的な意味を見いだせますが、一方で社会的責任を負っていて失敗が許されず、場合によっては自分の命を落とすリスクまで背負わねばならない場面もあることを考えると、抵抗感を覚えない方が不自然でしょう。

心理的に明確な境界線の存在する世界に飛び込み、そこを境界線のない世界に変えるのは決して楽なことではありません。



自分が未知の世界に飛び込んで行くにも、他人を未知の世界へ導いていくにも、境界線を意識して抵抗を覚えることが人間の反応として健全であること、そして精神的エネルギーをたくさん費やしてそこへ飛び込むことの尊さを今日は学んだように思いました。