3月13日(水)NHK総合で放送された「クローズアップ現代+」で「教育虐待」が取り上げられていました。
このブログでも以前一度取り上げたことがありますが、親が子供に過剰な期待を掛ける余り、子供の気持ちを推し量ることもなく勉強をひたすら強いて、その結果子供の心に成人後も大きな傷を残す心理的虐待のことです。
原因としては、親が自分の学歴にコンプレックスを持っていて、子供に高学歴を得させることでそのコンプレックスを晴らして自己満足するためとか、逆に自分の歩んできた学歴が正しいと信じてそれを子供にも押しつける場合もあります。
いずれの場合も「子供のためを思ってやっている」と信じ込み、悪気が全くないところに特徴があります。
子供の側から見れば、家庭は自分が最も落ち着く場所のはずですから、そこでひたすら勉強しろと言われれば、例え理不尽に感じても従わざるを得ない。他の家庭は違っていても自分には逃げ場はありません。
本来「こうありたい」自分像があったとしても、それを主張することはおよそ許されずにひたすら成長していくしかないのです。
その結果とうとう、大学に入学してもなお父親が勉強の仕方に口を出し、思いあまった息子がその父親と、止めに入った母親を刺し殺すという悲劇が昨年佐賀県鳥栖市で起きています。
この学生には懲役24年という判決が下っていますが、果たしてそれほど長い刑罰が見合う行為なのでしょうか?
親が子供に立派な大人になって欲しいと願うのは当然でしょう。
しかし子供にも一定の人格というものがあり、それは親の人格とは別です。
初めは似たような価値観で行動していたとしても、成長するにつれて親の価値観に疑問を抱くことは当然ある。
それは親から見れば理不尽かも知れませんが、子供だって通った学校や付き合った友人との価値観にもまれて異なる価値観や人生観を抱くのはむしろ普通のことです。
むしろ異なる価値観に感化されることで自分の価値観を外から眺める機会を得たわけですから、それは成長の証とすら言えるのです。
その結果そこから巣立つも良し、元の価値観に戻るも良し、どちらに至ったとしても一度は自分を外から眺めているのですから、当の子供自身も納得のいく人生を送りやすくなるわけです。
教育虐待はそうした検証をそもそも許さない。
親の価値観以外の価値基準を認めません。
肉体の成長に伴って精神もそれにふさわしい成長をすべきところ、精神の成長を阻害しているわけですから、そこに傷ができるのは当然でしょう。
では、親は子供に何を託せば良いのか?
私自身も親から何か特定の職業を選べと強制されたことは一度もありません。
高校も大学も自分の行きたいところに行かせてくれた。
司法試験浪人もずいぶん長いことやらせてくれた。
その結果主に経済面ではずいぶん迷惑を掛けましたが、試験の結果が出る(最終的には一度も受からずに撤退し、別の職業を選んでいますが)前に他界したこともあり、もうやめろと言われたこともありませんでした。
一人っ子だったこともありますが、やりたいようにやらせてくれた両親には本当に感謝しています。
私が生前言われたのは「世間に出しても恥ずかしくない人間になって欲しい」と言うことでした。
ずいぶん抽象的ですが、例えば礼を失しない、言っていることとやっていることが矛盾しないなど、どんな職に就いたとしても人の信頼を失うようなまねだけはしないよう教育されたと思っています。
公私を問わず今交流のある人からの私への反応を見ていると、自己評価ではありますが「一応できてはいそうだな」とは思っています(汗w)。
話変わって、伝統芸能の家庭に生まれ、その芸事を継ぐことを至上命題とされているような家でも、芸事自体は継いでも親とは人格は別です。
ですから基本的な価値観・人生観に違いがあるのは当然で、それが芸風に微妙な違いを生みます。
でも多くの場合、長年見ている客はそこから離れることはしない。
継がれているのはその芸能の根底に流れている精神です。
それはさすがに破って欲しくはない。
伝統を継ぐとはそういうことです。
私の例と伝統芸能を並べるのはいささか不遜ですが、要は具体的に「何かになれ」と言うことではなく、もっと抽象的に「こういう人間であって欲しい」という幅を持った考え方を伝えることでしょう。
幅がある概念ですから、具体化するにはいろいろな方法がある。
その選択肢は子供が自ら作って選ばせる。
そうすれば、子供は自分の道を選んだとき、あるいは何かのきっかけで人生の岐路に立ったときに、子供時代に親から言われたことを思い出すでしょう。
親が子供に託すべきことは、そういう概念的にもあるいは時間的にも幅のある考え方を伝えることです。
「精神」と言い換えてもいい。
子供は親とは違う人生を歩むのが普通ですから、大枠を外れない程度に指針を示しておけば、あとは子供がどこかで必ず気づきます。
子供の人生は成人するまでの学業がすべてではありません。
むしろそれから先の方が遙かに長いわけで、具体的な勉学ばかりごりごり押しつけても、それが何を意味するのかは当の子供にその時点でわかるはずもありません。
それよりも、勉学につまずいていても他にどこかに長所や得意分野があれば、そこを伸ばして応援してやる方が子供の心にもゆとりができますし、自分の可能性というものに気づき、先の人生に自分で希望を持ちやすくなります。
親が託すべきは、そうした成長の芽を伸ばす種を子供の心に蒔いてやること、そして大枠を外れないよう自分でブレーキを掛けられるような人間になることを予め教えておくことにとどめるべきでしょう。
このブログでも以前一度取り上げたことがありますが、親が子供に過剰な期待を掛ける余り、子供の気持ちを推し量ることもなく勉強をひたすら強いて、その結果子供の心に成人後も大きな傷を残す心理的虐待のことです。
原因としては、親が自分の学歴にコンプレックスを持っていて、子供に高学歴を得させることでそのコンプレックスを晴らして自己満足するためとか、逆に自分の歩んできた学歴が正しいと信じてそれを子供にも押しつける場合もあります。
いずれの場合も「子供のためを思ってやっている」と信じ込み、悪気が全くないところに特徴があります。
子供の側から見れば、家庭は自分が最も落ち着く場所のはずですから、そこでひたすら勉強しろと言われれば、例え理不尽に感じても従わざるを得ない。他の家庭は違っていても自分には逃げ場はありません。
本来「こうありたい」自分像があったとしても、それを主張することはおよそ許されずにひたすら成長していくしかないのです。
その結果とうとう、大学に入学してもなお父親が勉強の仕方に口を出し、思いあまった息子がその父親と、止めに入った母親を刺し殺すという悲劇が昨年佐賀県鳥栖市で起きています。
この学生には懲役24年という判決が下っていますが、果たしてそれほど長い刑罰が見合う行為なのでしょうか?
親が子供に立派な大人になって欲しいと願うのは当然でしょう。
しかし子供にも一定の人格というものがあり、それは親の人格とは別です。
初めは似たような価値観で行動していたとしても、成長するにつれて親の価値観に疑問を抱くことは当然ある。
それは親から見れば理不尽かも知れませんが、子供だって通った学校や付き合った友人との価値観にもまれて異なる価値観や人生観を抱くのはむしろ普通のことです。
むしろ異なる価値観に感化されることで自分の価値観を外から眺める機会を得たわけですから、それは成長の証とすら言えるのです。
その結果そこから巣立つも良し、元の価値観に戻るも良し、どちらに至ったとしても一度は自分を外から眺めているのですから、当の子供自身も納得のいく人生を送りやすくなるわけです。
教育虐待はそうした検証をそもそも許さない。
親の価値観以外の価値基準を認めません。
肉体の成長に伴って精神もそれにふさわしい成長をすべきところ、精神の成長を阻害しているわけですから、そこに傷ができるのは当然でしょう。
では、親は子供に何を託せば良いのか?
私自身も親から何か特定の職業を選べと強制されたことは一度もありません。
高校も大学も自分の行きたいところに行かせてくれた。
司法試験浪人もずいぶん長いことやらせてくれた。
その結果主に経済面ではずいぶん迷惑を掛けましたが、試験の結果が出る(最終的には一度も受からずに撤退し、別の職業を選んでいますが)前に他界したこともあり、もうやめろと言われたこともありませんでした。
一人っ子だったこともありますが、やりたいようにやらせてくれた両親には本当に感謝しています。
私が生前言われたのは「世間に出しても恥ずかしくない人間になって欲しい」と言うことでした。
ずいぶん抽象的ですが、例えば礼を失しない、言っていることとやっていることが矛盾しないなど、どんな職に就いたとしても人の信頼を失うようなまねだけはしないよう教育されたと思っています。
公私を問わず今交流のある人からの私への反応を見ていると、自己評価ではありますが「一応できてはいそうだな」とは思っています(汗w)。
話変わって、伝統芸能の家庭に生まれ、その芸事を継ぐことを至上命題とされているような家でも、芸事自体は継いでも親とは人格は別です。
ですから基本的な価値観・人生観に違いがあるのは当然で、それが芸風に微妙な違いを生みます。
でも多くの場合、長年見ている客はそこから離れることはしない。
継がれているのはその芸能の根底に流れている精神です。
それはさすがに破って欲しくはない。
伝統を継ぐとはそういうことです。
私の例と伝統芸能を並べるのはいささか不遜ですが、要は具体的に「何かになれ」と言うことではなく、もっと抽象的に「こういう人間であって欲しい」という幅を持った考え方を伝えることでしょう。
幅がある概念ですから、具体化するにはいろいろな方法がある。
その選択肢は子供が自ら作って選ばせる。
そうすれば、子供は自分の道を選んだとき、あるいは何かのきっかけで人生の岐路に立ったときに、子供時代に親から言われたことを思い出すでしょう。
親が子供に託すべきことは、そういう概念的にもあるいは時間的にも幅のある考え方を伝えることです。
「精神」と言い換えてもいい。
子供は親とは違う人生を歩むのが普通ですから、大枠を外れない程度に指針を示しておけば、あとは子供がどこかで必ず気づきます。
子供の人生は成人するまでの学業がすべてではありません。
むしろそれから先の方が遙かに長いわけで、具体的な勉学ばかりごりごり押しつけても、それが何を意味するのかは当の子供にその時点でわかるはずもありません。
それよりも、勉学につまずいていても他にどこかに長所や得意分野があれば、そこを伸ばして応援してやる方が子供の心にもゆとりができますし、自分の可能性というものに気づき、先の人生に自分で希望を持ちやすくなります。
親が託すべきは、そうした成長の芽を伸ばす種を子供の心に蒔いてやること、そして大枠を外れないよう自分でブレーキを掛けられるような人間になることを予め教えておくことにとどめるべきでしょう。