シベリア出兵(1918年8月~1922年10月)は、革命軍にとらわれたチェコ軍の救済という名目で始まった。
日本は米・英・カナダ・イタリアの出兵がいずれも数千どまりというのに73、000もの兵力を投入
戦費も9億円(日露戦争は18億) 
一般の兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、
日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃していた。
この現象は鉄道で戦地へ移動する段階からすでに見られた。 
 
いろいろ調べたが、研究者の伊藤正徳氏に総括していただきます。 
 
シベリア出兵」我が国国防史における暗黒のページである。駐兵4ヵ年、戦費9億円、軍司令官を代え得ること3回、その間戦争目的を変えること3回、
領土は問題外であるが、勢力圏的にも殆ど得るところなく、而して忠勇なる将兵は、シベリアの荒野にいわゆる過激派なるものと戦い、しかも兵力不足、戦略不徹底の為に、尼港虐殺事件(1921年1月8日・ニコライエフスク港)、
田中大隊全滅の惨事を惹起し、
外に我が野心を猜疑され、内に国民の不満懐疑を累さね、遂に一物を得ずして撤兵したる、悲しむべき大事件である。 
 
1918年 富山の婦人を発端とする米騒動、8月シベリヤ出兵を寺内内閣発表、米問屋等売り惜しみをする 
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左:焼打ちされる神戸の鈴木商店 
 
シベリア出兵は庶民の生活をも圧迫した。
弟4回中学野球(今の高校野球)も中止となった
 
アメリカの抗日政策と米騒動は日本の中国(満州)進出に拍車をかけることとなる。
 
1919年 人種差別撤廃提案(パリ講和会議),賛成多数にも関わらずアメリカにより取り上げられず 
 
1920年 国際連盟発足(唯一の有色人種常任理事国) 
 
1923年(大正12年) 関東大震災 下町は旧江戸の町並みが失われ、純農村であつた世田谷・杉並に移住した 
 
1924年 アメリカにおいて「絶対的排日移民法」成立(1906年より諸々の排日法案あり)
日本はアメリカに失望、大東亜戦争の一因となる。この時期戦争の分岐点と考える人もいる。
 
1925年 普通選挙法制度 
 
1929年 アメリカを発生とする大恐慌、(ニューヨーク・エンパイヤーステイトビル竣工)
 
1931年 満州事変 
 
1932年 5・15事件 
 
1933年 国際連盟脱退  アメリカではF・ルーズベルト大統領就任 
 
戦争は外交の最終手段であるという観点から見ると当時、語学力もさることながら諸外国と対等に話ができる外交官がいたのかどうか疑問である、今でもそうではないのかと思う(自分はさておいて) 
 
◆ 日清戦争の下関条約(1895年)締結後の三国干渉
◆ 日露戦争のポーツマス条約(1905年)、その後の日比谷焼打ち事件等・・・タフな交渉であった? 
 
一番大事な対話の機会を自ら失っていくのである、アジアの期待の星なのに、・・・ 
 
1936年 2・26事件 
 
1936年 支那事変 盧溝橋事変を発端として 
 
(1912年 辛亥革命がおこり、清国が倒れ、孫文が中華民国設立) 
 
この後中華民国は蒋介石総統の夫人等を使って、世界で情報戦を繰り広げていた。