子供に何かを叱るとき、

ただ単に怒ったりしても何がなんだかわからずに、頭の中には「?」という感じの気持ちだけが残って、

萎縮していくばかりでなぜ怒られたのか、それがわからないままだと聞いたことがある。

同じように

「何々したらだめ!」「何々しないとだめでしょう?」

「これはね、こういうものなんだよ。」という言い方も、場合によっては非常に恐ろしい響きになったりする。


しかし子供にはそんな言い方で教えることもあるだろう。

人のものはね、盗ったらダメなんだよ!

なんてね。そうそう、人としての道徳の部分ね。


でも。

大人同士で、とか、道徳以外の部分での「したらだめ」「しなくてはいけない」という言い切りは、

結構威圧的だ。


恋愛はしてないとダメ。


少しは我慢しないとダメ。


みんなそうしてるのだからやらないとダメだよ。


こうして書くだけでもなんとなく気分が悪い。

例えば昔あったのは、自分が大切な用事があり、仕事のお休みの希望を出したとき。

お休みをもらえなかったことがある。

誰も休みを取らずに頑張っているのなら自分がちょっと欲張りだったと反省する。

しかし、休みが欲しかった時に別の人が普通に休んでいた。


でもそれを少し話したら、


「私はね、プライベートの休みなんて一回も取った事がないの。だからあなたもそうしなさい。それが普通。」


少々極端な例だけど、

この言い切りが恐ろしかった。

休みを取った事がないのは本当なら仕事をきっとものすごく愛していて素晴らしいと思う。

愛してやまない仕事、何を差し置いても私はここにいたいという気迫すら感じる。

でも、それと同じ事を強要すれば、きっと逃げていくだろう。

それはあなたの基準であって、私の基準ではない。

しないといけないことが、私にはそれほど重要でないこともある。

ダメと言われた意味がわからないこともある。


俺、こうあるべき、って断定する言い方を使うときは、

常に自分が主語になっている。


俺はもっと走るべきなんだ!

みたいなね。

自分にカツを入れるべく、言い切る。

でも他人に何かを言うときは、ダメはほとんどないと思う。

入院してダイエット中の友達が5つ目のクッキーに手を伸ばしたときはダメといったと思うけど(笑)


第一誰かに、自分の基準で何かを強要しようとしても、

その人の基準とばっちりあっていることは少なく、

その価値観が近かったとしてもきっと、気分がいいのは自分だけのはずだ。

言われた相手は、自分がものすごくダメな人間になったような気がして落ち込むとか、

なんでそんな言い方を?と、ただただ頭にくるだけだ。


断定的な言い方で誰かを変えたいとき。


誰かを言葉で変えるのなんて無理だ。


もしも変えようと思うなら、


自分がまず変わってみるのはどうだろうか。


相手に変わって欲しいという気持ちは独りよがりになっていないだろうか。

本当に変わる必要があるのだろうか。

変わっていく気持ちがあるのだろうか。

今が心地いいから本当はそのままでいたいのではないだろうか。


相手のことも考えて発言したい。心からそう思う。

こういう類の話はね。

変わりたくないのに変わって欲しいと言ったってね。それはタダの押し付けでしかないのだから。


今日は久しぶりに友達に逢うよ。

お互いに逢えない時間が長かったのできっと話も盛り上がるであろう。

俺らは変えるとか変えないとかそういう話はしないけど、

でも誰が相手だったとしてもダメ、しなくてはならない、なんてのは置いておきたいね。


さて、まずは仕事だ。