達人


*最後の最後に勝負を決めるのは

古武道がただの殺しの技術を超えて、きわめて高度な精神性をもちえたのは、命のやりとりという極限の場の中で己を直視し、小さな自己というものを超克することのなかに勝利の要諦をつかんだからだと思います。技術はいうまでもなく必要だし、肉体の鍛錬が必要なことはいうまでもありません。実際、宮本武蔵と言う人は人並はずれた筋力の持ち主であったようです。たとえば敵と太刀が触れ合うほどの状況で、大変な重量のある太刀を少しも振り上げぬまま、電光石火で敵を強打することができたらしいのです。命のやりとりの場で技量が拮抗した者同士が戦った場合、最後の最後に勝負を決めるのは心であり、心が弱い者、迷い多き者のほうが敗れるからである。そこで達人たちは、心をいかに鍛え、どのように持すべきかを繰り返し説いたわけです。
柳生宗矩の言葉で現代人の悩み深く迷い多き人の心に響く伝えを紹介します。
「勝とう勝とうと一筋に思うのは病気である。技を使おうと一筋に思うのも病気である。鍛錬の成果を出そうと一筋に思うのも病気、敵に攻めかかろうとばかり思い詰めるのも病気、待ち構えてばかりいようと思うのも病気。また病気をなくしてしまおうと一筋に思い固まるのも病気。どんな対象であれ、それ一筋に心が固まってしまった状態を病気であると説いてます。このさまざまな病気は、皆心の内にあるものなのだから、これらを取り除くために心を調えることであると。」                              

*仏法儒道の古語を借りず

宗矩は心が何かに囚われている状態は、どんなものでも「病気」だと喝破した。これは悟り澄ました小理屈なのではない。極限の勝負の世界では、「病気」を抱えているほうが死ぬ。そのリアルな実体験から割り出された冷徹な事実なのである。
武芸者の場合、この事実が心肚におさまりきるためには、命のやりとりという実践が不可欠だった。だからこそ武蔵は、不朽の名著「五輪書」の序文で「今、この書を作るといえども、仏法儒道の古語をも借りらず、軍記軍法の古きことをも用いず、この一流の実の心を顕す」と宣言した。
武芸者が禅その他の宗教に手をそめて生悟りしてみたところで、斬り合いの場では役に立たない。大切なのは武芸者が生きるべき場所である命懸けの戦いの場で身につけたものであり、心も、そこで鍛錬され、練り上げられたものこそが本物だという信念が、武蔵にはあったと思われる。

佐川幸義もこう述べている。「剣禅一致。普通の人ならともかく、武術家が禅に頼るというのでは既に心で負けている。自分の心の弱さを禅に頼って直そうというのは駄目だ。武術を通して心も修行していきべきで、心が弱いから心は禅でという発想はおかしい。すでに弱いと思う。あくまで武術を通して強くしていくべきだ。人が強くしてくれるのではない。自分の工夫と鍛錬で強くなっていくのであり、それで戦いに負けて殺されたても仕方がない。」こうしたリアリズムのなかから、古武道でしか探求しえない心の探求が行われ、心の在り方、使い方が提唱されてきた。それは、当初はあくまで敵に勝つための工夫だったが、やがてそうした卑近な目的を超えて、己に勝ち、いっさいに勝という普遍的な道が、おのずと編み出されていった。であればこそ、我々は古武道がもつ武道を超えた心理に心を打たれ、教えられ、導かれるのである。   



*名人の条件とは

武蔵は、「兵法の道における心の持ちようは、たとえ戦闘のときといえども、平生のときと変わってはならない(常の心に替わる事なかれ)として、いついかなるときでも平常心でいられることこそが、武人の心の持ちようの要諦だ」と説いています。
柳生宗矩も「弓を射る人は弓を射る心を忘れて、何事もしていないときの常の心で射れば、弓が定まるであろう。太刀を使うにも、馬に乗るにも、太刀を使わず、馬に乗らず、・・・・そうしたいっさいのはからいをやめて、をなすこともない常の心でよろずのことを行うとき、すべては難なくすらすらといくものである。・・・・道を会得した者の胸の内は鏡のようで、なにもない状態で明るく澄んでいるがゆえに、無心であっていっさいのことが何ひとつ欠けることがない。これはただただ平常心をもっていっさいのことをなす人のことを名人という。」と述べています。古武道の達人たちがめざしたのは、まさにこの境地だったと思われます。