*「打つ」そのものになりきる

心が何かに囚われていたのでは、この無心の打ちはできない。だからこそ、斬り合いの間合いである交刃の間は「捨てるところ」といわれるわけです。勝ちたい、生きたい、怖い、躱されたらどうしようなどのいっさいの思いはきれいさっぱっりとなくなり、ただ無心に「打つ」そのものになりきってしまうのである。
弓術の秘伝書「日置流指南書」(へきりゅう)にこの無心の心の一打とよく似た興味深い記述があります。「放しなきと言う事、・・・・うつかりとして臂にばかりも知らせず、また手先にもしらせず、保つうちに(構えた矢が)抜けて行くを、放しなきと言ふななり」
弓においても、達人の場合は自分で放つのではなく、おのずと機が熟して矢のほうから放たれていく。だから「我が意による放しなき」と、達人たちは伝えたのである。