変になろうとすると

変になれない話


人間っていうのは

記憶の積み重ねの中で

ある程度自尊心や

自我の規定を決めちゃっていて


変になろうとしても

なかなか規定外、規定以上には

いけなかったりする


これはもう癖として

上げては下げ、上げては下げ

そんな繰り返しで

子供の頃のような発想も発言も

拗ねたように上がってはこない


では、もう想定以上に

可笑しい奴にはなれないのか、というと

自分の視点以外からだと

自分の見ている自分以上に

可笑しく見えるらしい


自分から見える自分と

他人から見える自分の

差が大き過ぎて


なりたい自分というのは

自分が認識するよりも先に

周囲に現れているのではないか?

と、思ったのだ



制限がない自由な可笑しな自分でいたい

と、願っていたら


側から見れば

既にそうじゃん

と、言われる


しかし自分的には

まだ叶っていない自分を見ているので

はて?は?なんで?

頭にハテナが浮かぶのである



これは

自分の理想が高すぎるのか?

とおもったけれど


自分は多分

そうありたいと願った時の

過去の自分の残像を

常に見続けているのだ


そこに焦点を当てているから

自分はずっと

そうじゃない自分の姿を見ている



他人は、そこには焦点を当ててはいないし

少し前の過去のわたしの姿を見るので

差異が生まれるのは当たり前なのだ



と、いうことは

既にそうである自分が存在する


わたしは

まだそうでない自分

を見ていたけれど


ここで既にそうである自分を

認めればいいのか?

それとも私はまだその自分を捉えられないと

認識すればいいのか?



それはどっちでもいいのだ



そうであるんだ。と許容することによって

時間と共に差が無くなっていくことも


まだである。と許容することによって

行動と共に差が無くなっていくことも


わりとどっちだっていい



ただ

そうである自分と

そうでない自分が

同時に存在することを

なんとなく理解しておくことで

切り替えが行われる


どっちも選べる


側からみた自分は

いつだって確定していないのだ


だからどうありたい?

どんな自分でありたい?


その答えが出たその時点で

外側はちょぴっと変わっている