過日、学校に適応できずに登校できなかった生徒が、何とか登校してきたのですが、彼は長髪なので教室に入れず保健室登校になったということを読みました。学校は、このように不登校だった生徒を「異端児」として対応していないでしょうか。今、オンライン授業などで学校という空間が大きく揺らいでいます。そこで、この機会に子どもたちが自分の判断で休んでもよいのだという権利、いうならば「休暇権」を保障したいものです。一般的に多くの教師も父母も、そして子どもたち自身も学校を休むことは「悪いこと」と考えています。しかし、休むことは社会では休暇権として権利になりますが、授業料を負担して学習する子どもたちにとって欠席することは自ら学習する権利を放棄するのとになります。学校は、そのことを忌避するために欠席しないように指導しているのであって、働いて賃金を得ている社会人の休暇権とは、確かに異なります。したがって、「権利」とまで考えることに疑念のある方もいるでしょう。しかし、多くの子どもたちとって生きる空間は学校と家庭です。いじめや学校集団に適応できない子どもたちにとって家庭が唯一の生きる「場」であって、「無理しないで休んでもいいよ」といって学校を休むことを見守ることも必要でしょう。ですが「休暇権」など事事しくせずに、子どもたちとの対応で心がければよいという指摘もあるでしょう。しかし、多くの子どもたちは学校に行かないことに罪悪感を持ち、やがて自己嫌悪に陥ることもあります。したがって、さまざまな要因で学校へ行かれない子どもに対して一人で悩まないでカウンセラーなどの援助も必要ですし、学習の遅れに対して学習権を可能な限り保障することも当然必要です。したがって、あえて「権利」と規定することで教師、保護者はもとより子どもたちの学校への認識を変えることができると考えます。さらに、学校教育法施行規則26条には、退学、停学、訓告の懲戒は次の各号のいずれかに該当する生徒に処することができるとして、4項目が規定されています。その一つに「正当の理由がなくて出席常でない者」という項目がりますが、これは戦前の中学校規定47条を引き継いだものと云われていますが、このような項目を削除し、学習権を保障するためにも子どもたちの「休暇権」は、いま、必須になっていると考えます。
 

過日、散歩途中で路地一面に書かれた子どもたちの自由奔放な落書きに遭遇しました。それを見ながら、ふと想起し事件があります。

少し過去になりますが、教室に張られた模造紙の「落書きコーナ」に「日米安保反対」、「はやめしさせろ」、「先生がそうじしろ」、「校長の口にセロハンテープをどうぞ」などなどの落書きが書かれていました。担任の先生は、自分の思っていることをはっきり言える子どもたちになってほしいと考え子どもたちが思っていることをなんでも書かせ、学級活動での話し合いの素材にしたいと考えていましたので、模造紙を張り替えて置きました。その落書きを校長が持ち帰り、教育委員会に持ち込み、市議会で取り上げる議員が居て、新聞などで報じられました。そのことが裁判になった事件を想起したのです。今、模造紙の落書きコーナ―で子どもたちの声を聞き取ろうとする教師は皆無だと思いますが、それでは子どもたちの忌憚のない声は何処で聞き取っているのか不安になりました。時々教育行政がアンケートで声を集約し発表していますが、アンケートは数字化されるので一人ひとりの生きた声は殺されてしまいます。そこで、たとえば、グループごとに回覧し自由に書く「グループ・ノート」で子どもたちの声を聞くことはできないでしょうか。なんとか大人たちは子どもたちの裸の声に耳を澄ましてほしいものです。

《勅語奉答》が支えて教育勅語

 

2002年、全国の小中学校に無料配布された『心のノート』は道徳の教科化によってその役割が終わったのか、話題から遠のいてしまった。ところが2017年4月菅官房長官が教育勅語を道徳教育で教材として使うことを「否定できない」と述べたことで戦後の国会で排除・失効決議された教育勅語が亡霊のごとく生き返ってきた。教育勅語の非教育性については数多くの論考などが発表されているが、教育勅語が奉読された後、歌われた勝海舟作詞の《勅語奉答》あまり取り上げられていないので紹介したい。その歌詞は次のような内容であった。

あやに畏(かしこ)き天皇(すめらぎ)の。/あやに尊き天皇の/あやに尊く畏く。

下し賜へり大勅語(おおみこと)。

是ぞめでたき日の本の。

人の教えの基(もとい)なる。

是ぞめでたき日の本の。

人の教えの鑑なる。

あやに畏き天皇の。

勅語(みたま)のまゝに勤しみて。

あやに畏き天皇の。

大御心に答えまつらむ。

有本 真紀氏が(*)当時の記憶を私(1936年生まれ)と同年配の方々にヒアリングしているが、「意味もわからずに歌わされた歌、しかも70 年以上の間一度も歌ったことも聞いたこともなかった歌が突然の求めに応じて口をついて出てきた」その歌声を聴いて「驚きとともに怖さを感じる」述べている。そして「儀式に参加する者がそこで発される言葉や音の意味を理解するかどうかは全く問題ではない。その身体行為の反復遂行によって儀式が効力をもち、儀式を通して教育勅語が不可侵の聖性を獲得したのである」とまとめている。現在も東京・大阪などで儀式で「君が代」斉唱時の起立強要が長く裁判で争われているが、意味も理解できない教育勅語・教育奉答の強要があったことを長く記憶に留めたいものである。

 

*「教育勅語の教材使用問題に関する研究報告書」「日本教育学会教育勅語問題ワーキンググループ・2017年12月」第2 章 学校儀式と身体― 教育勅語と唱歌の共存関係を中心に―〈有本 真紀( 立教大学)〉