私はクリスチャンホームに生まれたので、小さい頃から教会に行っていました。日曜日は教会が当たり前でしたし、そんななか神様の存在も当たり前だと思っていました。
私はお父さんがフリースクールやデイサービスで働く姿を見てきて、私は将来こんなに苦労したくないと思っていました。
どれだけその人たちのために頑張ってもその思いが報われることはあまりないし、不満を言われるし、これでは何のために身も心も削って仕事をしているのか分からないと思ったからです。だから私はもっと楽にたのしく生活を送りたいと思っていました。
この思いは洗礼に向けての学びが始まっても変わっていませんでした。学びが進む中で私は神様の子どもとなれる喜びを感じていました。
しかし学びをしていくうちに洗礼を受けるからにはもっと神様のことを知らなくちゃと思うようになり、聖書や教会関係の本を読んでみたりしましたが、逆に良く分からない事や今まで抱いたことのない疑問が一気に押し寄せてきました。
そして気付いたことは、私は神様について、聖書について、イエス様についてもよく分かっていなかったことに気がつきました。
聖書には思い煩いを止めなさいとか、すべて神様に任せなさいと書いてあるので、私もその通りにしようと思いましたが、不安は消えないし、神様に信頼して委ねることができない自分の罪が分かって、そんな自分が嫌になりました。
私は神様に、どうか私に分かるようにして下さいと何度も祈りました。そしてある日、神様はこんな罪深い私に手をさしのべて下さいました。
私が読んでいた本を通して「あなたは自分の決心、自分の努力、自分の信仰を信じようとしていませんか」と神様は語りかけて下さいました。これはまさに自分の事だと思いました。
そして更に続きを読むと「これらは全て神様によるものであり聖霊が私たちの心に働きかけて私たちの罪を知らせ、キリストを証しし、キリストを信じると告白するまで導き、新しく生まれさせて下さるのです」と書いてありました。
私はこの部分を読んだ時、一気に心の重荷が取れたような気がしました。信仰を与えて下さる神様の恵みを感じました。
神様はもうひとつ大事なことをこの本を通して教えて下さいました。「私達は救われるために良い行いをするのではなく、救われたからよい行いをする」のだということです。
私は栗原先生から、洗礼を受けることがゴールではなくスタートなんだと教えられた時はまだその意味がよく分からないままに、ただ納得していました。しかし救われたから良い行いをするのだと分かり、神様にとって良い行いをする、つまり神様の栄光を表して生きていくための最初のスタートが洗礼なんだと気付かされました。
私が理想としていた楽でたのしい生活が本当の幸せではなく、たとえどんなに益がなくてつらくてもそれでも神様とともに神様のために生きていく事が幸せな生き方なのではないかとの思いが自然に自分の心に湧いてきたのです。
今までは何が何でもお父さんみたいな苦労ばかりの仕事なんてやりたくないと思っていた私には不思議な事でした。これはきっと聖霊様が私に働きかけて下さったのだと思いました。
私達は神様の子どもですから、父である神様に喜んでもらう生き方をするのが一番幸せな生き方だと気付いたのです。
イエス様は無代価で私達の罪のためにその命を身代りにして下さったのです。
フリースクールに来ている人を私は嫌いでした。神様から見れば、私もフリースクールに来ている人と同じだと気付いた時、イエス様の愛の大きさが素晴らしいものだと分かったのです。