養生喪死(ようせいそうし)という四字漢語がある。子供が親に安定した生活を送らせ、死んでは滞りなく葬儀を行なうという意味を持つ。生ある者を十分に養い、死んだ者を手厚く弔うということだが、出典は『孟子』(梁恵王・上)の「生(せい)を養い死を喪(そう)す」で、このことを民衆に心置無く十分に果たせることが出来るようになることが王道政治の第一であると恵王との対話の中で説いたことで有名だ。
この養生という言葉は父母や妻子を豊かに生活させる意を持っている。
養生と言えば、一般に、生活に留意して健康の増進を図ることで、摂生とも呼ぶが、健康の増進を謳う様々なアイテムが巷には溢れかえっている。サプリメントや器具など多岐に渡り、それらを服用したり用いることでいっそう快適な生活が送れるような幻想を抱かせるような文言で飾られ、健康意識の高い人々や何らかの不安を抱える人々にとってはその真偽はともかく余りある選択肢となる訳だが、ではそれが直接の効果や効能が顕著なのかと言えば、ほぼ皆無で、言うなれば、気休めというか自己満足の域を出るものは無いように感じる。何か服用している、器具を使用しているということで得る安心感のような部分に対価があるのだろう。
周囲にはとても健康に対する意識が高い友人も居るし、全く頓着していない友人も居る。そのどちらが良いとか悪いとかは一概に言えないし、健康に留意しているから病とは無縁な訳でも無いし、不摂生すれば体はそれなりに蝕まれて行くだろうし、そもそも生まれてからずっと同じ体でずっと同じ臓器を稼働させているのだから、相応に疲弊して行く。
よく体内年齢だとか肌年齢だとか頭皮年齢だとか見た目年齢だとか、実年齢を基準に計測、比較した数値などが様々な部位に渡って有るが、その意味するところは比較から生じさせる不安感や安心感だろう。
平均とされる数値に自らを当て嵌める時点で、そもそもあらゆる商戦に踊らされているように思えてならない。全ては比較から生じる評価を尺度にしているに過ぎない。
禅に、何が良いとか悪いとかは簡単に決められることでは無いという意味を持つ「善悪難定(ぜんあくさだめがたし)」という言葉がある。また、「不思善(ふしぜん)、不思悪(ふしあく)」という言葉は、善とも悪とも思わずに、世間の評価や分別を超えて、自分自身の中にそれを求めなさいという意味だが、要するに他人と比べて自分をはかるのでは無く、自分の心のうちに評価を問いかけていくことを示した言葉だ。善し悪しの尺度というかモノサシを自分に求めず、他者や既存の何らかの平均とされる数値などにいちいち照らせば、その度に一喜一憂することになるだろう。そのように一喜一憂する時点で、自身にはモノサシは無く、他者にそのモノサシを預けているようなものだが、そのモノサシ自体、相対的で絶対では無い。比較することに囚われてしまうことで、視野はいっそう狭まる。様々な健康法を取り入れ、様々なサプリメントを服用し、様々な良いとされる食材を用いて、いっそうの健康を心掛けることが悪いとは思っていないが、何かに憑かれているように感じてしまうと同時に例えば製薬会社が作ったサプリメントなどというキャッチフレーズを見ると薬九層倍という言葉が即座に浮かんでしまい、様々な企業は健康を隠れ蓑に暴利を貪っているようにも感じてしまう。だからという訳では無いが、高らかに健康を謳う全てがどれもがあからさまな眉唾ものに思える、とかナンとか言って、色々諸々心掛けの悪い日々を送っている。
monday morning白湯を飲みつつ空を眺める。
本日も。稀薄なまま。