「己れを知らざることや、知らぬことを知っているように空想して知っていると思いこむことは、狂気にもっとも近い」と言ったのは、古代ギリシアのアテナイの軍人で哲学者で著述家でソクラテスの弟子だったクセノフォーンが著書『ソクラテースの思い出』の中で記した言葉だ。この書物はソクラテス自身の著作が伝わっていないので、プラトンの『ソクラテスの弁明』と並んでソクラテスの人物を知る上で貴重なものとなっている。
また、孔子の論語には「之(これ)を知るを之(これ)を知ると爲(な)し、知らざるを知らずと爲(な)す」という言葉が収められている。
知っていることと知らないこととの境界線をはっきりさせる。その上であやふやな知識を「真に知っている」といえるまで本質を究めなさいと田口佳史氏は『超訳 論語』の中で孔子のこの言葉を非常に分かり易く説明している。
また、村上龍氏の小説『ラッフルズホテル』の中、「この世の中で二番目に嫌なのが誤解されること、一番いやなのは理解されてしまうこと」という台詞がある。
クセノフォーンも孔子もそのどちらも〈知る〉ことの容易ならざることを示した言葉だが、何を知っていて何を知らないかの境界線には、普段あまり厳密に意識も向けず、自覚しているよりずっと境界線は曖昧なまま、その曖昧なままで居ること自体非常に気付き難く、結果、身勝手な認識の中で過ごしているように思う。
村上龍氏の小説中の台詞はまさにその身勝手な認識を嫌悪し、これ以上的確な言葉は無いとさえ感じる。
良くも悪くもすぐに心を動かされるヒトが居る。
特に人のマイナスを受けると精神が磨り減り、エネルギーを奪われたなどと、恰かも相手に非があるような物言いをし、自身の敏感且つ身勝手な感受性を正当化しようとする。
そのようなヒトを見聞きするだに、クセノフォーンの「己れを知らざることや、知らぬことを知っているように空想して知っていると思いこむことは、狂気にもっとも近い」を想起する。
個人の身勝手な認識、つまり曲解やら勘繰りは致し方無いにしろ、それを自己防衛の為に正当化していることに気付いていないことは、かなり愚かしく、そして厄介でもある。
更にはそのように勝手に精神を磨り減らすヒトに限って、他者から自身に対する理解には非常に厳しく、誰も本当のワタシを分からないだとか誰も知らないなどと勿体を付けるが、そのセリフを言うヒトに本当の自分を知るヒトは居ないのではとさえ思ってしまうし、その一方的な強引さには繊細で敏感な感受性の欠片も感じない。
〈知る〉ということに敏感なようでいてかなり鈍感で、認識にはかなりな疎漏があるように感じる。鈍く大雑把だから自らを敏感な感受性と言えてしまうのでは無いだろうか。その押し付けは敏感は鈍感でもあるようにも思える。
friday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。
本日も。淡い。