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ここのところ普段よりも目に入るのが「鰻」の文字だ。今年の土用の丑の日は七月二十四日と八月五日だ。
土用自体は立春、立夏、立秋、立冬の直前、いわば季節の変わり目の約十八日間、年に四回ほど有る。
古代中国に「この世の全ては木・火・土・金・水の五つの要素で出来ている」とする五行思想がある。
春は木々が育ち、夏は燃える火、秋は実りの金、冬は静かな水、イメージを四季に当て嵌めると「土」が余る。そこで「土」は種を蓄え、芽を出させる土の働き(土用)に着目して、四分割して割り振られ、運気が変化する時期とされた。
夏の土用はだいたい七月十九日から八月六日で、今年もこの期間だが、年によって一、二日前後するが、夏の土用が終わると翌日は立秋となる。
夏の土用の、更には丑の日限定で鰻を食べるようになった。その経緯は諸説あるが、平賀源内が売り上げ不振の鰻の店に「本日土用の丑の日」の張り紙をするよう助言し、人気になったというのがよく知られた説だ、だとすると江戸時代の中頃、近世のことだから、土用の丑の日に鰻を食するのはそんなに大昔からでは無いことが分かる。


店先の「鰻」の文字で想起するのは枡野俊明氏が著書の中で紹介している一休さんの名で知られている一休宗純禅師の逸話だ。
ある日弟子を伴って街に出掛け、その帰り道、鰻屋の前を通りかかる。店からは鰻を焼く匂いが漂っていて、一休さんは「うまそうじゃな」と呟く。
寺に戻り、弟子が一休さんに恰かも問い詰めるがごとく、「お師匠さまは先ほど鰻屋の前で『うまそうじゃな』とおっしゃいました、仏の道を行く者が生臭ものなどにそのようなおっしゃり方をしてよろしいのですか?」と言う。
それを聞いた一休さんは「なんだ、お前はまだ鰻にとらわれておるのか。わしはそんなものは鰻屋の前に置いてきた」と事も無げに答えた。


鰻の匂いを嗅いで「うまそうだ」と思うのはごく自然のことで少しも悪いことでは無い。その思いをその場(鰻屋の前)に置いてくれば、もう鰻にとらわれることは無い。
一方で弟子は寺に戻ってからも鰻にとらわれている。
ずいぶん時間が経つのにまだ鰻のことが頭から離れない。うまそうだったなあ、坊主でなかったら食べられたのに、心にはそのような思いでいっぱいだったかも知れない。それが煩悩だ。
道元禅師の言葉に「放てば手に満てり」がある。
放すことは失うことでは無く、それどころか放したことで本当に大事なもの、ずっと素晴らしいものが得られる。
思いがよぎってもその場に置いてしまう、その場で手放してしまえば悩むことも迷うことも無い。
煩悩を削ぎ落とす(放つ)ことで得られる自由で豊かな心ほど大事なもの素晴らしいものこそが禅の心だというような解説になっているが、この時期、普段よりも目に入るのが「鰻」の文字に、一休禅師が弟子にあっさり答える場面がいつでも浮かび、商業施設の食料品売場や専門店などここぞとばかり売らんとしているのはヴァレンタインのチョコレートを始め、いつの頃からか登場した恵方巻きやらと同じく、その商戦には何と無くそれだけで萎える。とはいえ。鰻は美味しいし、特に夏土用とは関係無く、一年の中で何度か食している。


friday  morning 白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。可もなく不可もなし。